きーん、こーん、かーん、こーん。

「よし、じゃ今日はここまでだー。日直ー、ちゃんと黒板消しておけよー」

 授業が終わり、途端ガヤガヤとうるさくなる教室。
 授業終了を察知したのか、隣にある真人の体がピクッと動く。
 いつもながら、授業終了ぴったりに起きれる彼の能力はすごいと思う。別の所に生かせられないものだろうか。
 そんな風に僕が微妙な尊敬の念を抱きつつ帰り支度をしてると、真人がむくりと起きあがって、こちらを睨んでくる……ように見える。単に眠たいだけだろう。

「り、理樹。もう放課後か……?」
「うん、そうだけど」

 そう聞いた瞬間、彼はカッと目を開き、こちらの肩を掴んでくる。目が血走っていてかなり不気味だ。
 そしてボソッと呟き……

「理樹。帰るぞ」
「へ? い、いや、もう?」
「そうだよ! 早くしねぇとあいつが来るだろうが! とっとと逃げて寮に帰って、鞄置いて街にでも繰り出して宿題でもしようぜ!? 写さしてくれるだけでいいからよっ!」

 彼は相当混乱してるようだ。落ち着きがなく、首を振って周りの様子を何度も確認したりしている。ちなみに言っていることは全く理解できない。特に後半が。

「ちょ、ちょっと落ち着いて真人! あいつって誰? 一体何があったの?」
「ちっ…! 悪ぃが説明してる暇はねぇ! 行くぞ!」
「ってちょ、うわっ!?」

 肩に担ぎ上げられる。ちょ、鞄がまだ…!
 非難の声を上げても真人は歩みを止めず、そのまま教室の扉まで行き、ガラッと開けて外に飛び出そうとする。

「おやおや、楽しそうだな少年。どこに行くのか、私にも教えてくれないか?」
「あ……」

 真人は扉を開けた所で固まってしまっている。
 僕は後ろ向きに担がれてるから壁でその姿は見えないけれど、声で誰が現れたのかわかった。

「く、来ヶ谷さん?」
「ほう、そこにいるのはやはり理樹君か。なかなか面白いさまになっているな。新しいプレイでも二人で開発したのか?」
「その返事は完全に来ヶ谷さんだね……。これどういうことか聞きたいんだけど」
「さぁ、知らないな。私が用のあるのは、そこのデカブツだけなんだが」
「くっ……畜生!」

 真人は一気に廊下に飛び出して走り抜ける。
 僕からは後ろに立っていた彼女が見えて、そこでやっと姿を確認できた。
 彼女は”やれやれ”と首を振った後、軽やかに走り出したと思ったら、一瞬で距離をつめてきた。
 そして次の瞬間には、慣性の重圧で後ろに放り投げられそうになる。
 前に回り込まれて真人が止められたようだ。

「ちょっといい加減降ろしてよ真人! 痛いから!」
「と、理樹君は言っているが? 彼は関係ない。降ろしてやったらどうだ」
「降ろすわけにはいかねぇな。理樹は人質だ。こいつがいれば、お前も無闇に手出しはできまい」

 一転して”ふふっ”と笑う真人。
 これが、噂の死亡フラグというやつだろうか?
 真人の、B級映画に出てきそうなぐらいの、異常な小物っぽさに呆れた。
 というかいつの間に僕は人質にされてしまったんだろうか。

「ほう。理樹君のことはそう簡単には手放さない、ということか」
「へっ、そうさ。死んでもだ。恐れいったか?」

 悪いけど、本当にわけがわからない。

「ふむ。ならばここでひとつ、君の根性を確かめるとしようか」
「あ? なにいって…」
「こつん」
「ひぎゃはぁぁっ!」

 え? って、う、うわっ! 落ちる!
 くっ……!! 
 ……ぼすんっ。
 え……ってあ、あれ? 痛くない?

「大丈夫か、理樹君。悪い痴漢ならやっつけたぞ。もう何も怖くない」
「く、来ヶ谷さんっ」

 なんと来ヶ谷さんに抱きかかえられていた。
 な、なんて人だ……。
 っていうか、顔が近い! うわわ、自分の顔が赤くなってくのがわかる…。

「はっはっは。まるでこれでは、理樹君がお姫様で私が王子様だな。では理樹姫、ドレスに着替えると致しましょうか。大丈夫、ちゃんと用意してあります。もちろん手伝います、いいですね?」
「いいわけないでしょっ!!」

 目がキラキラしていてすごく楽しそうだ。心なしか荒い息づかいが聞こえてくる。
 新たな痴漢に遭遇してしまった。
 
「っていうか、真人に何したのさ」
「ああ、ただ脛を靴の先で軽く蹴ってやっただけだが?」
「うわぁ……」
「私は一番痛い部分を知っているからな。あれに耐えられる奴はそうはいまい」

 そうやって”はっはっは”と笑う。だから真人は、思わず僕を離してしまったのか。
 隣を見ると、真人は左脛の辺りを両手で押さえてぷるぷるとしていた。
 あ、ちょっと涙目だ。

「はぁ……はぁ。な、なんてことしやがるんだ……」
「それは君が逃げるからだろう。おまけにこんな往来で堂々と痴漢行為。私のような一般生徒としては、見過ごすわけにいくまい」

 さっきまでの自分の痴漢行為も忘れて、今度は平然とそんなことを言ってのける。
 来ヶ谷さんには、どうやら自覚が無いらしい。
 鋭いと思わせておいて、意外な所で抜けてる人だった。 

「どこの、だれが、一般生徒だよ!」
「ふむ。君は自分の方がそうだと言いたいのかね? そんな無駄にでかい筋肉をつけて」
「ああ!? 何だとぅ? ちょっと待て! 俺のことを馬鹿にするのはいい! だが筋肉のことを馬鹿にするのは許せねぇ!!」

 もうダメだ。この二人を放っておくと永遠に話が終わらない。
 そう思った僕は、とっとと事情を聞いて終わらせることにした。

「ちょ、ちょっと待ってよ真人! 来ヶ谷さんは、真人に用事があるだけじゃないの?」
「ま、そうだが」
「その用事なら知ってるよ。だから俺はこいつから逃げなきゃいけねぇんだ!」

 段々話がわかってきた。
 どうやら真人は、その”用事”とやらが嫌らしい。

「用事って何なの?」
「ふむ。まぁ理樹君も一緒に誘ってもいいかもしれんな」
「へ?」

 そう言うや否や、肩を掴んでくる。
 え……ってちょ、この展開は。 

「教室に戻るぞ、理樹君」
「え、なんで……」
「鞄を取りに行く。もちろん君のもだ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。その用事って僕も関係あるの?」
「まぁ関係無いわけではない。それに、君が居た方がこの馬鹿の扱いに関して都合がいい」
「ちょっと待て! 誰が馬鹿だ!」

 その声を聞いた途端、彼女は溜息を吐き頭に手を当て、かわいそうな人を見るような目で真人を見やる。

「……君には自覚というものがないのか? かわいそうな人間だ」

 そのかわいそうな人間が、かわいそう人間を見るようなな目でかわいそうな人間を見る。
 僕は、ああこういうのをことわざで何て言うんだっけ、と頭の中を巡らせた。
 い、いやいやいや! そんなことは今どうでもいいんだ!

「と、とにかく!」

 前に走って少し距離を取る。

「なんだ」
「ちゃんと質問に答えてよ! そうじゃないと僕も行けないよ!」
「……ふむ。了解した。いや、理樹君も強くなったな」

 どこか嬉しそうに頷く。
 僕が欲しい反応はそういうのじゃ無いんだけど。

「勉強だ」
「え?」
「だから、勉強だ。英語の」
「英語って、え?」
「ええい、わからんのか。イングリッシュだ! それをこの馬鹿に教えてやるのだ!」

 ちょ、ちょっと待って。
 来ヶ谷さんが、真人に、勉強を? わざわざ? もし僕がいなかったとしたら、二人で?
 って、ええええええええ!?
 い、いつの間に二人はそんな仲に……。

「何か変な勘違いをしているようだな。ちなみに、これはバンド練習の一環だぞ」
「へ……?」

 英語の勉強が、バンド練習? 
 どういうことだろう。英語とバンド……? 
 って、まさか!

「歌詞が、英語ってこと……?」
「そうだ。私たちは4曲やるんだが、全て洋楽になっている」
「うわぁ」

 それは真人には厳し過ぎる。
 僕はあんまり洋楽を聴かないからわからないけど、歌詞は全部、こんな所で習う優しい英語ではなくて、向こうの本場のイングリッシュなはずだ。
 それが真人に歌えるだろうか。いや、だからこそ、来ヶ谷さんが教えることになったのか。
 それが、来ヶ谷さんが言っていて、真人が嫌がっていた、”用事”だったんだ。

「理樹、こいつは俺のことを殺す気だ……。 昨日なんか、頭が痛くて破裂しそうだった」
「ただ簡単な発音と訳をやっただけだろう。そんなことで頭が痛いとか抜かす君の脳みそなど、一度破裂させてしまった方がいいのではないか」
「なんだとぅ! 破裂したら戻らねぇだろうが!」

 当たり前だ。

「それで嫌になって逃げようとしてたんだ。もう、ダメだよ真人。ちゃんと勉強しないと」
「あー、いや……だ、だってよぅ。ただ歌うだけなら日本語の曲だっていいじゃねぇかよ。なんでバンドの練習でいちいち勉強なんかしなくちゃいけねぇんだよ……」
「バンドのみんなが、わざわざ君の声に合うアーティストを選んでくれたのだろうが。それで英語が読めないから変えてくれなどと、さすがに失礼だと思わんのか」
「真人……」

 それはさすがにダメだと思う……。
 僕も、確かに真人の声は、Jポップより本場のロックソングの方が合うと思う。
 でも真人は。

「んなこと言ったって、わかんねぇもんはわかんねぇんだよ!」
「君の頭は大丈夫か? だから私が直々に教えてやると言っているんだ。準備期間もちゃんとある。ほら、今回は理樹君もいるんだ、君は彼の好意を無視する気か」
「うっ……」

 まだ僕は何もそんなこと言ってないんだけど……。
 でもまぁ、別にいいかもしれない。最近練習続きで、まったく復習とかやってないし。
 僕が頷いて見せると、真人もようやく観念したようだった。

「ちっ……。わかったよ、付き合ってやるよ」
「なぜ君がそう上から目線なのかわからないが、まぁいいだろう」

 そうやって笑うと、溜息をついている真人の腕を引っ張って歩いていく。

「ほら、理樹君もいくぞ」
「う、うん!」

 僕も走ってそれについていった。
 にしても、真人が英語の勉強なんて、大丈夫かな。来ヶ谷さんが途中で切れたりしないか心配だ……。



 教室に戻った頃には、もう生徒はあまり残っていなかった。
 最近はリトルバスターズのみんなもそれぞれの活動で忙しく、放課後に全体で集まることもあまりない。リトルバスターズのメンバーは、もうここにクドと葉留佳さんしかいなかった。
 
「ほれほれほれーっ!」
「わ、わふ〜〜〜〜っ!?」

 っていうか、遊んでた。
 いいのかな練習しなくて…。

「何をしている。私も混ぜろっ!」

 息を荒くさせて二人に突っこんでいく。
 っていうかあんた、さっき勉強するとか言ってたじゃないか!

「うひゃー! あ、姉御ー!?」
「わふーっ!」
「はっはっは! 二人ともかわいいなぁ、ほれほれ」

 ああ、もう別に楽しそうだからいっか。
 僕が呆れて笑うと、真人が小声で話しかけてきた。
 
「今のうちに逃げようぜ、理樹」
「ええっ!? で、でも……」
「聞こえてるぞ」
「う、うわっ!?」

 次の瞬間には僕らの目の前にいた。すごい地獄耳だ…。
 っていうかどうやって移動してきたんだろう。

「逃がさんぞ、二人とも」
「おー! また新しい遊びっすか姉御ー!」
「いや……というか、君は練習しないでいいのか? 一番大変な役割だったと思うが」

 そうだよ、葉留佳さんギター&ボーカルじゃないか。大丈夫なのかな。

「べーつに大丈夫っすよー! はるちんの手にかかれば楽勝楽勝♪ で、何するんデスカ?」
「英語の勉強会だが」
「……へ?」
「だから、英語の勉強会だ。クドリャフカ君も来るかね」
「わふーっ! あい・らいく・じょい〜〜ん・とぅ〜〜〜、ですっ!」
「い、いや……はるちんは、ええっと、あははは」

 一瞬でさっきまでの表情が崩れた。明らかに”やっちまった”という顔をしている。
 頭を掻いたり苦笑いをしてる辺りで、何を思ってるのかすぐわかる。どうやってこの危機を脱しようか考えているのだろう。

「ええと、はるちんは練習が忙しいから遠慮しときますヨっ! ってことでミニ子、姉御、あばよーー!」
「ああっ! はるかさ〜〜んっ!?」

 逃げた。

「ふむ。まぁ良いだろう。彼女にはきちんとお目付役がいるからな」
「ああ……」

 練習を言い訳にして成績を落とすなんて、彼女が絶対に許すわけがない。
 きっと、キツいお説教+お勉強をさせられるのだろう。心の中で手を合わせておいた。


「よし、それでは3人とも。始めるとしようか」
「ええっと、ここで?」

 今僕たちがいるのは、まだ若干人が残っている教室だ。先ほどのようにガヤガヤとはしていないが、それでもなお、それなりの騒がしい音に包まれている。

「うむ。昨日やったのもここだった。図書室だと発音の練習ができんからな」
「でも、ちょっとうるさくないかな?」
「なんだ少年。ここより静かで、それでいて声を発せられる場所を知っているのか?」

 ちょっと問いつめるように聞いてくる。

「い、いや。知らないけど……」
「あの〜。みなさん」
「どうしたクドリャフカ君。抱いて欲しいのか、そうかわかった」
「わ、わふ〜〜〜っ!?」
「なにしてんのっ!!」

 もう際限ないなこの人は……。
 後ろで真人が呆れたように溜息をついている。

「わふー……。えっと、家庭科部室にいきませんかっ!?」
「ん、そうか、あそこがあったな。偉いぞクドリャフカ君。ご褒美としてハグしてやろう」
「ひゃわーっ?!」
「もう何でもいいんだろ、お前はよ」

 自分以外のボケキャラが現れると、真人は唐突に突っこみキャラに変身することがある。貴重なシーンだ。

「家庭科部って?」
「えっとー、お料理とか、お裁縫とかをしている部活ですー。今その部室は空いてますので、そこが使えるのですっ!」
「いいのかよ、勝手に」
「大丈夫ですっ! 私も部員ですっ!」

 そういう問題かなぁ……と思いながら、はしゃいで駆けていくクドの後を追う。
 それにしても家庭科部か。別に行ったこと無いんだけど、何となく、それがどんな場所かイメージできる。何なのかな、これは……。
 よく、わかんないや。


「ここですっ!」
「おー」

 クドに案内された部屋は、純和風の部屋だった。床は座敷になっており、中央に丸い木のテーブルが置かれている。なるほど。確かにここなら静かで、勉強にぴったりだ。
 ……それにしても、やっぱり違和感がある。
 僕は以前、ここに来たことがある……?
 そう思ったけど、存在を知ったのもさっきが初めてだったはずなので、どうせただの気のせいだろうと思ってその考えを切り捨てた。

「ここは、見覚えあるな。一回来たことあるぜ」
「えっ!? 本当?」
「わふーっ! 井ノ原さんも家庭科部員だったのですかーっ!」
「え、マジかよ。そうだったのか!」
「いやいやいや、なんでそこでそうなるの……」

 わけがわからない。真人とクドもいい感じのコンビだなぁ……。
 でも、やっぱり真人も見覚えあるんだ。

「それにしても、真人もそうなんだね。僕も、何ていうのかな、前来た……って感覚みたいのあるよ」
「本当かよ? 俺もよく思い出せねぇんだが、確かにここでお前やクー公と会った気がするぜ」
「っ…………」

 僕と真人の言葉に、来ヶ谷さんが一瞬、驚きと寂しさが混じったような顔になる。
 もう次の瞬間にはいつもの表情に戻っていたが。

「どうしたの、来ヶ谷さん?」
「いや……何でもないよ。君達のその感覚は恐らくデジャヴュだろう」
「でじゃびゅ、ですかー?」
「既視感だ。会ったことがないのに、行ったことがないのに、過去にそれが確かにあったと錯覚する。ただの気のせいなのにな……」
「……そうかもね」

 それに頷く僕。来ヶ谷さんは、何か言いたげな眼で僕を見ていたが、それも次の瞬間には終わっていた。
 そして、もうこの話題は終わりだと言わんばかりに鞄から教科書を取り出し、勉強の用意を始める。

「さて3人とも、わからない所があったらおねーさんに聞くといい。特に真人少年、君は気合いを入れてやれ」
「何で俺だけ名指しなんだよっ!」
「……君には、明確な目標があるんだろうが。それとも君は、本当に間に合わなくさせるつもりかね?」
「へっ! 馬鹿にすんなよ! 俺の手にかかりゃあんなもん楽勝だぜ!」
「ふ、そうか」

 何の根拠もないはずの威勢に、来ヶ谷さんは薄く笑う。いつも僕たちに見せるのとはまた違った、少し儚げな笑みだった。

「昨日も同じ事を聞いた気がするがな」
「昨日の俺と、今日の俺はちげぇさ。今日の俺には理樹がいる! いつだって助けてくれる理樹がな!」
「今、俺の手にかかりゃ、って言ったばっかでしょ……」

 ハハハハ、と笑う一同。
 どうして真人って、こうやって空気を変えるのが上手いんだろう。単に何も考えていないだけなんだろうけど。
 今はその存在が、何故か頼もしかった。



「Do you have the time ---♪ to listen to me whine ---♪ About the nothing and everything all at once ---♪ ……では、言ってみろ」
「ええと、どぅーゆー、はぶざ、たー……たいむ? あー……とぅーりすてん……あいや、りすたん……みー?」
「……貴様は喧嘩を売っているのか」

 来ヶ谷さんって結構歌上手いんだー、と素直に感心できていたのは最初だけだった。
 なんだこれ、ぐだぐだ過ぎる。ていうか、英語力に関してはクド以下かもしれない。

「ち、ちげぇよ! ええっと、あばうとざ、の、のー……って、なんて読むんだこれ」
「……理樹君、前々から聞きたかったんだが、こいつは本当にこの学校の試験をパスしたのか。裏口入学じゃないだろうな」
「い、いや。真人は本当にちゃんと試験に受かってきたはずだよ、多分……」
「もー、井ノ原さんはダメダメですねっ! こうやって読むんですよー、見ててくださいー。ええっと、どぅーゆーはぶざったーいむ、とぅーりっすんとぅーみーわーいん……」

 クドに関しては、真人よりは英語を読むことが出来る。相変わらず発音がめちゃくちゃだったが。
 それにしても、自分より英語力が下の人間を見つけたからか、いつもより若干偉そうに振る舞ってる。
 小さい体で大きな態度を取るクド、大きい体で縮こまっている真人。なかなかにシュールな光景だった。

「ほら、クドリャフカ君はこうやって読むことが出来るぞ。かわいさもあって、クドリャフカ君の圧勝だな」
「あ、勝負だったんだ……」

 恐ろしくレベルの低い争いだった。
 もう僕も、自分の勉強どころではなく、来ヶ谷さんと一緒に二人の勉強を見ることにしている。

「ふぅ……。いいか、基本的な読み方を教えるぞ。英語は日本語と違って、あまり最後までハッキリと言わない。例えば、ここにあるtimeだが……」

 真人の隣で勉強を見る来ヶ谷さん。
 これでもし二人っきりだったら……って考えると、やっぱり二人は恋人……っていうか、なんだか仲が良さそうに見えてくる。
 来ヶ谷さんと真人もいいコンビかもしれないな。両方とも否定するだろうけど。
 あ、真人が頭を叩かれてる。

「本当に、脳みそまで全て筋肉のようだな……」
「おやおや。それは、お褒めの言葉、というやつですかな」
「馬鹿だ……」

 何か格好つけてるが、叩かれながら喋ってるその姿は相当間抜けだ。
 僕が鈴だったら、”こいつばかだっ!”って間違いなく言っている。

「わふー! 脳みそ筋肉ですかーっ! きーんにーっく、きーんにーく♪」
「お、クド公! ノリノリだな! 久々にいくか!」
「おーっ! きんにくいぇいいぇーーーい!」
「筋肉イェーイイェーーーーイ!」
「うるさいぞ」
「ッダファ!」

 来ヶ谷さんの回し蹴りが真人の横っ腹にヒットする。ああ、とても痛そうだ……。

「まったく……。調子に乗るなら、クドリャフカ君ぐらい可愛くなってからにしろ」
「わふー?」
「うんうん、やっぱりクドリャフカ君は可愛いな。もう一回やってくれるか」
「はいー!」
 
 きーんにっく♪ きーんにーく♪ と踊り出す。
 それを来ヶ谷さんは楽しそうに眺める。
 真人は倒れている。
 そして僕も、きっと楽しそうにクドの踊りを眺めている。平和な光景だ。
 ……って、違う!

「ほら! 起きてよ真人! 勉強しなきゃ!」
「あ、かか……」
「もう、調子に乗るからだよ……」
「ふん」


 
 数十分後。
 あれからしばらく読み方の基本を教えたが、二人とも元々苦手な教科なためか、なかなかその進歩は現れなかった。
 まだクドは良かったけど、真人は全然ダメだ。
 途中から頭が痛いと言い出して、集中力が切れ切れになってきている。
 どうしようかと迷っている時、来ヶ谷さんが何か決意した表情で”うむ”と頷き、口を開いた。

「真人少年。今の君には、理論的に教えることなど不可能と判断した」
「な、何だと……?」

 あっけない結末だった。
 来ヶ谷さんは淡々と冷たい言葉を突きつけて、バッサリと真人を切り捨てた。

「ちょ、ちょっと待ってよ来ヶ谷さん! 諦めちゃうの!?」
「うむ。理論的に教えることは諦める」
「な、何だとぅ!? あれだけお前がやる気になってるからついてきてやったのに、ここで終わりにすんのかよ!」
「く、来ヶ谷さ〜ん……?」

 みんなが非難と不安の混じった声を上げる。それに対しても、来ヶ谷さんは、表情を変えずただ淡々と事実のみを告げた。

「あれから数十分経ったが、未だ全く進歩なし。さらには頭が痛いなどと言う。これではたとえ1ヶ月やったとしても何も変わるまい」
「じゃぁどうすんだよ! ライブはナシにすんのか!?」
「そ、そうだよ来ヶ谷さん! 軽音楽部の人達の期待に応えようって言ったの、来ヶ谷さんじゃないか!」
「まぁ待て。話は最後まで聞くものだ」

 そして余裕の笑みを浮かべて、これからの方針を語る。

「諦めるのというは、理論的に教えることを、だ。ここからはアプローチを変えるぞ」
「へ?」
「真人少年、以前軽音楽部から借りたCDは持っているな」
「お、おう」
「確か放送室にCDプレーヤーが置いてあったはずだ。それで実際に曲を流し、歌詞を歌わせる」
「そんなことできるの?」
「最初は手こずるかもしれんが、真人少年にはやはり、こうやって感覚的にたたき込むのが一番手っ取り早いだろう」

 そ、そう言われてみれば確かに。
 ちょっと強引なやり方だけど、真人にはそっちの方がいいかもしれない。さっきから全然進歩してないし。

「よし、取りに行ってこい」
「って俺が行くのかよ!」
「当たり前だ。誰のためだと思っている」
「……ちっ、わかったよ、取ってくる」
 
 渋々、と言った表情で真人は家庭科部室から出て行った。


 途端に、静まりかえる家庭科部室。
 真人が居ないだけで、結構静かになるもんだな。

「ふう、やっとうるさいのが居なくなったな」
「いやまぁ、そう言わないであげてよ。真人も悪い奴じゃないんだし」
「ふむ。まぁ……悪い奴だと思ってるわけではない。やかましいがな」
「う、うん。まぁそれは否定しないけど」

 あはは、と苦笑した。
 そしてまた、静かになる。
 壁にかかっている時計の、”チッ……チッ……チッ”という音が、やけに大きく聞こえてくる。
 僕は沈黙に気まずくなって、周りを見渡す。そこで初めて気づいた。
 真人が居なくなっただけで、随分と部屋が広くなった気がする。
 ……こんなに広かったっけ、ここって。
 クドは喧嘩にならなかったことに安心したのか、机の上で勉強を再開している。”ま〜り〜あ、ま〜り〜あ〜”という歌が聞こえてくる。さっきの続きだろうか。
 僕はぼーっと、その光景を眺めていた。

「暇だな」
「うん」
「って、君も勉強しに来たのだろうが。どれ、見てやろう」
「い、いいよ。もう勉強する気無くなっちゃったし」

 今から勉強を始めようと思っても、しばらくしたらまた真人が帰ってくるはずだ。
 中途半端にやるなら、最初からやらない方がいいと思った。

「あ……いや、そ、そうか。すまんな、君にも手伝わせてしまった」
「気にしなくていいよ。真人も来ヶ谷さんもクドも、みんな僕の親友だから」
「……親友、か」

 そこでまた、来ヶ谷さんは口を閉ざしてしまった。
 あれ、何か僕変なこと言ったかな……。
 何か、深く考えているようだ。

「来ヶ谷さん、何か悩みでもあるの?」
「悩み? どうしてそう思うんだ」
「だって、なにか思い詰めてるふうだったから」
「……そうか。優しいな、君は」

 そうしてまた、部屋に沈黙が降りる。
 来ヶ谷さんは親友なのに、なんで僕はこんなに気まずい気持ちになってるんだろう。
 一生懸命頭の中から話題を探す。何か楽しそうな話題、話題……。
 って、そう言えば、来ヶ谷さんは真人と二人で居る時はどんなことを喋ってるんだろう。
 うわ、なんか想像がつかない……。筋肉の話題とか? いや、んなわけない。
 そんな風にあれこれ悩んでる僕の隣で、来ヶ谷さんが、突然独り言をいうように呟いた。

「君は……」
「え?」
「君は、この部屋に見覚えがあると言ったな」
「う、うん。そうだけど」

 でも確か、それってデジャヴュって奴じゃなかったっけ。
 来ヶ谷さんにそう言われたはずなんだけど。

「それで、思い出してしまったことがある。今の君とは全く関係のない、私の個人的な話だが、聞いてくれるか」
「僕でいいなら」
「……そうか、ありがとう」

 ここで気づいた。
 どうしてさっきから、来ヶ谷さんはこんなに、寂しそうに笑うんだろう。
 僕の、せいかな……。

「君は、恋をしたことがあるか」
「え、ええっ!? う、うん……。ある、けど」
「そうか。私もだ」
「ええっ!?」
「なんだその驚き様は。私が恋をするのはおかしいか」

 い、いや。
 全然おかしくないけど、なんか意外だった……。
 来ヶ谷さんって、やっぱり硬派っていうか、そういう感じのイメージがあったから。

「ご、ごめん。ちょっと、意外だったから」
「ふ。まぁそうだな。いつも飄々としている私が、恋、だからな。似合わないと思うのも無理はない」
「いやまぁ……。で、それがどうしたの?」
「うむ」

 そうして僕から視線をずらし、部屋の壁によりかかって、どこか遠くを見るような目で、続きを語り出した。

「その、初恋だったんだ」
「えっ?」
「貴様さっきから、”え?”ばっかりだな。それしか聞くことがないのか」
「い、いやっ! ご、ごめん……」
「はっはっは。まぁ、冗談だよ。もっと気楽に聞くといい」

 視線で僕も一緒に壁に寄りかかって座るよう、促してくる。
 僕はそれに従い、来ヶ谷さんと隣合って座るような形になった。
 うう、やっぱりちょっと恥ずかしい。
 クドは……勉強してるな。集中してるせいか、こちらが小声のせいか、聞こえてないみたいだ。

「その、うん。初恋は、叶ってな。その人と付き合うことになったんだ」
「うん」
「と言っても、告白してきたのは向こうからだったがな」
「ああ、やっぱりそうなんだ。来ヶ谷さんってモテそうだもんね」
「そ、そうか? 私のどこがいいのか、さっぱりわからなかったが」
「いや、僕は来ヶ谷さんって格好いいって思うな」
「……む。そうか……」

 数秒間沈黙したが、すぐに頭を振って続きを語り出す。
 少しだけ、声が弱くなって。

「それでだ。私たちは晴れて恋人になったわけだが、一度もデートができなかった」
「え、そうなの?」
「うむ。何故だか知らんが、雨続きでな。晴れるまで待とうと言って、ずっと中でいちゃいちゃしてたんだが、結局晴れなかった」
「い、いちゃいちゃ……」

 いちゃいちゃ、ってまさか……。いやいやいやっ!! 何を想像してるんだ、僕は!!

「おやおや、どうしたんだ少年。さては」
「ち、違うよっ! で、どうなったのさ」

 少しだけいつもの調子を取り戻した来ヶ谷さん。それが僕にはちょっと嬉しかったけど、このまま弄られたくはない。

「む、話を変えるのが上手くなったな。生意気だ」
「別にいいでしょっ」
「ふふ、まぁいい。で、結局私たちは別れてしまったわけだが」
「あ、やっぱりそうなんだ……」

 結局晴れなかった、っていう辺りから、何となく想像できたけど。

「うん。別れることに関しては、特に理由なんて無かったし、まだその時は私たちも好き合っていた。だけど、別れたんだ」
「え……」
 
 どういう、ことだろう。
 来ヶ谷さんは、こっちを見ないで前だけを見続けている。

「まだ好きだったのに、別れちゃったの?」
「ああ。まぁ、その辺は詳しく聞かないでいてくれると助かるんだが」
「う、うん。わかった、聞かない」
「ありがとう」

 そうやってまた、こっちを見て寂しそうに笑う。 
 その笑顔を見て、少しだけ、胸の奥がチクリとした。

「別れてから、またその人と会ったんだがな」
「うん」
「その人は……私と付き合っていたことなんて忘れてしまっていたよ」
「えっ!」

 そ、そんな馬鹿な! 酷すぎる……。
 知らない男だけど、沸々と胸の奥から怒りが湧いてくる。

「酷いね」 
「いや、仕方ないんだ。それもまぁ、別れた時のことが原因だったんだが。だから、私は特に彼のことを恨んでないよ」
「え、そうなの?」
「うむ。まぁ……辛いがな」
「来ヶ谷さん……」

 好きだった人に忘れられる。
 それは、どれほどまで辛いことなんだろう。想像が、できない。
 でも、来ヶ谷さんは笑っている。
 少しだけ、寂しそうに。
 その笑顔を見ていたら、僕も、胸が苦しくなった。

「私は、まだその人への思いを捨て切れていないのだよ。たとえ、忘れられていても、な」
「うん……」
「どうすればいいのか、迷っている。こんな苦しいことなど、忘れてしまいたかった。だけど……忘れられないんだ。どうすればいいのかもわからず、そうやって、だらだらと過ごしてきたんだ」
「……………」
「理樹君、どう思う? 私はまだ、この思いを持つべきなのか、どうか。こんな風に聞くのは卑怯かもしれないが、よければ教えて欲しい。理樹君の、その……考えでいいから」

 ”忘れてしまえばいいよ”
 一瞬、そんな言葉が出かかった。
 そんな酷い真似をした、男のことなんて。
 来ヶ谷さんみたいな素敵な女性に、好かれる資格なんて、ないんだから。
 そう、言ってしまいたかった。
 ……だけど。

「……忘れちゃ、だめだよ」
「理樹君……」

 言っちゃ、だめだ。
 来ヶ谷さんは、忘れたいんじゃない。
 また新しい日々に生きたいだけ。
 前に進みたいだけ、なんだ。
 僕が、背中を押さなきゃ……。

「忘れる必要なんか、ないよ。ずっと覚えてればいい。過去は、捨てちゃだめなんだ」
「……………」
「そうじゃないと、前に進めないから。それだけはしちゃだめだ」
「……うん」
「思い出を大事にして……その上で、来ヶ谷さんがまだその人を思い続けるのか、やめるのか、決めればいい……と思う」

 ……言えた。
 いや、それにしても、僕がこんなことを言うのはすごく無責任じゃないか。
 言った後でそう思ったが、すぐにその考えは止めた。
 今の僕に出来るのは、これくらいだったから。
 
「……そうか。いや、ありがとう。やっぱり君は優しいな」
「そんなことないよ。勝手なことだと思ってる」
「いや、そもそも聞いたのは私だ。気にするな」
「う、うん」
「……やはり、言ってよかった。君の意見は、参考にさせてもらうよ」
「来ヶ谷さん」
「うん?」

 一つ、聞きたかった。

「もう、大丈夫?」

 何故だかわからないけど、こんな言葉が出た。
 何を思っての言葉だったのか、自分にもわからないけど、聞いておきたかったんだ。

「……うむ。少し気持ちがスッキリとした。後は自分で、じっくり考えていくさ」
「そっか、よかった」

 そう言って二人で笑った。
 これで、よかったはずだ。
きっと。

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