――やり、終えた。

 次々と送られる怒濤の歓声の中で、理樹は熱い息を吐き出しながら、顔を天井へと向ける。
 足はガクガク。腕も痛い。腹筋も痛い。どこもかしこも痛い。
 頭はぼんやりだけど――、クリア、かも。
 妙な達成感と疲労感が、理樹の頭の中をうっすらと霧で包む。

 ――でも、終わったんだ。

 理樹がゆっくりと顔を戻していくと、そこにはやはり、群衆の隅に隠れた、あの佐々美の姿があった。
 なにやら変な顔をしている。笑い出しそうな、照れくさそうな、でもむっつりそれを我慢してぷるぷる震えてるような。
 なにを思っているんだろうか。今の理樹のぼんやり頭ではまったくわからない。
 だけど、ただちゃんと最後まで佐々美が見てくれていて、そこにずっといてくれて――それだけは本当によかったと、理樹は思う。
 もちろんまさか、自分だけがあの佐々美に見てもらっていたなんて、そんな自意識過剰なことは考えないけども。
 心で願うだけだ。そんなもん。願うだけ。現実にはまったく全然これっぽっちも関係ない。
 
 ――いいんだ。今は、これで。

 理樹は、スローンからゆっくりと立ち上がり、ぽきぽきと骨を鳴らしていく。
 スティックを取ってふと気づいてみると、スローンがちょっと汗で湿っていたので、やべっ、と近くに置いてあったタオルでふきふき。

『どうもー! リトルバスターズ組はこれで終わりでーす! 聞いてくれてありがとうございましたー!』

 葉留佳もようやっと下の岸田の視線に気づいたのか、マニュアル通りのセリフだけを残して、そして最後に少し手を振っただけで、後はもうそそくさと控え室の方へ走り去ってしまった。
 もちろんそれでも歓声は消えてなくならず、「葉留佳さいこー!」「葉留佳すてきー!」「やーん、葉留佳ー!」「はるかはるかぁー!」「はるかぁぁぁー!」……主にこんなのが。……公共の場でのシスコンは少々自重なさった方がよいと思われた。あの方の、これからの社会的あれこれのためにも。マジで真剣にその選択はオススメしない理樹であった。
 くたくたになった体を引きずってドラムステージから降り、ベースアンプの方からやって来た謙吾とゴツンと拳合わせ。嬉しそうに笑い合う。
 そして去り際に、謙吾コールに混じった「直枝くーん!」「こっち向いてー!」というめずらしい声援が聞こえてきたので、いやまさか……と意外に思いながらも振り返り、笑って手を振ってみると、「キャ――!」とかなんとか都合のいい声。それと一緒に、底冷えするような鋭い視線も胸に突き刺さってきたが、知らないフリで押し通そうと心に決めた。こっちだって少しは浮かれポンチになったっていいではないか。ライブが無事終わったんだもの。
 暗い控え室に入っていくと、中には恭介や真人、鈴たちがすでに待ちかまえていて、グッと腕を交わしたり、ポンポンと頭を撫でられたり、「お疲れ様です」と労いの言葉をもらったり。外の拍手や歓声がどうにもうるさくて、みんなとまともな会話なんてほとんどできなかったが「ああ、これで本当にやり終えたんだな」という気には一応なった。
 すぐに軽音楽部の人たちに椅子を用意され、礼を言いながら座らせてもらう。その際に、次の出番である一二年生グループと手を交わしてバトンタッチ。「頑張ってください」と伝えると「任せろ!」だとか「この成果、必ず次につなげます」だとかいう、気合いの十分入った言葉を笑いながら返してくれた。
 そして、そのまま全く臆しもせずステージに出ていく彼らの背中を見て、やはり、元々みんなに望まれている人たちというのはきっとこういう感じなんだろうと、理樹はしみじみその差を思い知る。
 もう終わったことだから関係ないが――なるほど、確かにこれでは自分たちが調子者扱いされたのも十分頷けるかもしれないと、理樹は一人、息を休ませつつ、朦朧とした頭で納得した。
 そして、

「お、終わったね〜……」

 なんていうのは、隣に座った小毬からの感極まった声。
 同時に、疲労感もありありとその顔に刻まれていたが、理樹にはそこから嬉しさしか感じ取ることができない。

「はいっ……、な、なんかもう、ものすっごいくたくたです……」

 こちらで壁にもたれ掛かって、ふにゃふにゃになっているのはクド。
 顎を上げて、壁にくっつけた頭を少しずらし、理樹と小毬の方をさらりと半眼で見つめてくる。無意識でやっているのであろうが、妙に色っぽいクドのその仕草に理樹は思わず笑ってしまった。

「うん……たった二曲しかやってないはずなんだけどね。練習の時と全然疲労感が違うっていうか……なんか、力を全部使い切っちゃった感じだね」
「ですネ……はるちんなんかもう声ガラガラですヨ。あ、ほらわかる? もうおっさんみたいな声になっちゃってますヨ」
「いや……いつもの声だよ、どう見ても……」

 理樹が少し身を引きながら話す先には、熱い息を吐き出しながら、ちょちょいと自分の口元を指差している葉留佳。
 よく見るとその葉留佳は、ぐっでりと長椅子の大半を使って、ちょっと危なげな体勢のままでそこに寝転がっており、突然身をひょいと起こして息を吹きかけてこようとするもんだから到底理樹にはたまったものではなかった。女の子がそんなことしちゃいけません。

「……しっかし三枝、お前には少し驚かされたぜ。『LittleBusters!』の時のお前、すっげぇかっこよかったじゃねえかよ。燃えたぜ?」
「え? え、えー。そ、そうかなぁ……えへへ。恭介くん、惚れちゃった?」
「ああ、惚れた」
「えー!?」

 今度はビックリ。思いっきり両手を振り上げて後ろに仰け反る葉留佳だったが、すぐに恭介の「冗談だよ」というセリフを聞いて、放心したようにそのままふにゃふにゃ〜〜……っと後ろに倒れていく。……そして、ゴツン。「いてっ!」……どうやら頭を思いっきりぶつけたようだ。そして恭介には当然のごとく鈴のハイキックが飛んでいた。
 慌てて(なにかが見えそうになっていた)葉留佳のスカートのところにタオルを被せてやった謙吾は、まるで何事もなかったかのようにすました顔で一息。

「……うむ。確かにあの時の三枝には、なにか妙に惹かれるものがあったな。鳥肌が立つというか、魂が揺さぶられるというか、なんというか……」
「へ? ほ、ほんとー? ふおおお!」
「うん〜、はるちゃんすごかったよ〜。かっくいー! かっくよかったぜぃー!」
「う、うわぁ……あうう、な、なんだか照れますな……」

 めずらしく謙吾に褒められたせいか、葉留佳は本当に嬉しそうな顔を作ると同時に、小毬にもだめ押しの一言をもらい、最後には顔を赤くして俯いてしまった。恥ずかしそうに頭を手で押さえている。
 日頃の行いのせい(?)か、周りからはそれほど良い評価をもらえないことの多い彼女。当然のごとく、褒め言葉に対する免疫などこれっぽっちもないわけで……自分が今どうすればいいのかもわからず、目線をおろおろと周囲に踊らせている。けれどその顔には、今まで理樹が見たことのないくらい嬉しそうな笑顔が浮びつつあって、当の葉留佳には、どうしたってそれが隠せないようだった。
 椅子の上であぐらをかきながら、葉留佳はだんだんと口の端を緩く曲げていき……「えっへへ!」と、年相応の子供らしく、作られていない笑顔を見せる。
 わーいわーい! と、やってきた小毬やクドと手を取り合って、楽しそうに踊り合う。
 その傍では謙吾がそれを静かに眺め、薄く笑っていた。
 ぽんぽんと頭を撫でる来ヶ谷も、見るとどこか誇らしげ。
 理樹もそれを幸せそうに眺めやりつつ、一人思う。
 
 ――手に入れた。
 
 これが、きっと自分の望んでいた未来。
 敢えて危険に足を踏み入れて、それで、ついに自分たちが勝ち取ることのできた尊き笑顔。
 
 ――これなんだ……

 理樹の望んでいたのは、まさしくこんな未来だった。
 自分たちが頑張ってきた、長い長い一ヶ月の成果は、ちゃんとここにあった。
 きっと、これでよかったのだ。
 あの選択は、間違いではなかったのだ。
 だって、今こんなにも自分たちは、心の底から笑えているのだから。
 
 ――……幸せだ。

 手に持ったドラムスティックをもてあそびながら、理樹は一人、優しい笑みを浮かべる。
 自分の心に秘めていた願いが、ちゃんとした形になった。
 これで、嬉しくならないわけがないだろう。
 自分の理想は、決して遠き夢想ではないのだと、今ここで証明された。
 これならば、きっと理樹は、ずっとこれからも頑張っていける。
 走っていける。
 この尊くて儚い一瞬一瞬を、絶えず目指し続けて。
 理樹はずっとこれからも、走り続けることに――決めた。
 そう、つまり、

 理樹の『強くなる』――という漠然とした淡い目標は、しかしここで初めて、しっかりとした形を持つことになったのだ。
 それを意識したのかしなかったのか、その理樹の心は、不思議な充実感と確かな安息――そして、未来へのどうしようもない渇望に包まれており。
 そして、その理樹自身でさえも、誰かが願ったはずのこの幸せな光景に、しっかりと溶け込んでいて――
 それは確かに――『幸せの永劫』という額縁へと、静かに収められたのだった。

 

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