「じゃあ……さーちゃんの方も、元気出してくれたんだね〜」
「うん。ほとんど小毬さんのおかげだよ。笹瀬川さんのことも、僕のことも。本当にありがとう」

 そうやって深々と頭を下げる僕に、いいよいいよと小毬さんは手を振って、

「ううん、いいんだよ〜。理樹君たちが幸せだと、私も〜……うん、幸せだから〜」

 最後に……ほんのちょっと寂しげな、けれどとっても幸せそうな、そんな静かな笑顔を向けてくれた。
 小毬さんの「理樹君『たち』が幸せ」という素敵ワードに僕はまたもや脳内で桜色妄想を繰り広げながらも……この恩を一体どうやって返そうかと……そうやって真剣に悩みこんでみる。そしてすぐさま、ビコーンと僕の安電球が点灯し。

「うん。小毬さんの方も、元気なくなっちゃった時は言ってね。必ず僕が力になるから」
「へ? だ、だめだよ〜そんなこと言っちゃ〜。それじゃ、さーちゃんに嫌われちゃうよ? さーちゃんにこそ言わないと、それは〜」
「う……あ、そ、それはまだ、そんなことまで言える仲になってないというか……」
「え〜」

 幸せスパイラル作戦……失敗。僕のおバカ度MAXの恥ずかしい妄想によって、脳内のメモリが一杯になりました。
 うう……仕方ない。小毬さんへは、またなにか別な方法で恩返しをするとしよう。
 やがて小毬さんと手を振り合って別れると、僕は控え室の奥にあるカーテンの隙間からステージの方をチラリと眺め、視線を戻し、チラリと眺め、視線を戻し……もう一度、ぐいいいっと外の光景を凝視した。

「な……なんだ、これ」

 ――とんでもないほどの、人……人……人、だった。
 この角度から見る限り、前列のシート上には、まるで中堅レベルのメジャーロックバンドのライブに集まったかのような人だかりが完成しており(さすがにまだスペースを作って床にくつろいだりしているが)、その異常なほどムンムン上る熱気で、暗い体育館の空気密度が、一気に息の詰まりそうなレベルへと変化していた。
 す、すごいよこれは……
 ていうか絶対、これはやりすぎだろう。あの恭介たちの集客力の凄まじさには、驚きを通り越してもはや呆れてしまうほどで、取りあえずは感謝の意味を込めて拍手を送るほかなかったが……ぶっちゃけ、人生初のライブでこれはないだろうと思った。一気に肝っ玉が鍛えられてしまいそうだ。
 そ、そうなのだ……もうどう頑張っても、僕に逃げ場はない。
 土下座しても、土下寝しても、コーラ一気飲みやっても、女装しても、ファミマ行っても、恭介ラヴ宣言しても、素っ裸でグラウンド一周すると約束しても、必ずライブはやらなきゃいけないのだ。
 こんな……大勢の観衆の目の前で、僕らが。
 ……まだ、演奏開始の時刻まで十分程度ある。この様子では、まだまだお客さんはこれからも増え続けていくだろう。
 わ……わけがわからなかった。
 この人たちは、一体なにを求めてやって来ているんだろう。もちろん、岸田さんたちのスーパーあり得ないバンドの方でしょ?
 ……い、いや、違うよね……やっぱり。
 半分くらいはもちろん、軽音楽部の演奏目当てで来ている人たちなんだろうけど……そもそも、このお客さんの数はどう考えても異常だ。去年も確か学祭ライブ的なものはあったはずだけど、ここまで人口密度は高くなかった気がする。むしろ恭介がアドリブで飛び入り参加した演劇の方がまだ人数の入りがよかったと思う。発表の順番も逆だったし。
 なのに、今こんなに人が来てる……っていうことは。すなわち、恭介たちの考えた集客術が完全にマッチしてしまったということで。だから――
 だから、今これの、半分くらいの人たちが待ち望んでいるものとは……
 まさしく僕ら……リトルバスターズに、ほかならない、のかもしれなかった。
 ……う、うわぁぁ――――っ!
 ど、どどどうしようっ、葉留佳さんっ! ……って、あれ? 葉留佳さん?

「ホォ――――ッ!? ウッヒョ――――ッ! これ、全部はるちんのボーカル目当て!? う、うあぁー、すっげぇ燃えて燃えて燃えて燃えて燃えて萌えて(誤字)きたぁ――――っ! あひょ――――――ッ!」

 ……いや、だめだこの人は。緊張しすぎてテンションがおかしくなってる。どこかほかの人……

「はわわわーっ! こ、こんな人たちの前でやるんですかー!? リ、リキッ! 私、はじっこの方に隠れてますし、音もそんなに大きくありませんから、大丈夫ですよね!? ちゃんとリキのドラムの音で隠してくれますよねっ!? 信じていいんですよねーっ!? あい・きゃん・びりーばーっ!?」

 え、ええっと、ほかの人……

「あたし、ほんとに楽器できなくてよかったって、今思った」

 え、ええと……

「同感ですね。こんな羞恥プレイ、マニアックすぎます。ついていけません。……あ、直枝さん、頑張ってください」

 え、あの……、味方……

「理樹、考えてもみろ。ここが漫画の世界だったらどうなる。バッキバキに大成功して、その後主人公はヒロインとチュー。どう考えてもこれしかエンドはない」

 み……

「大丈夫だ、理樹。ミスりそうになったら筋肉を呼べ。お前の代わりにドラム叩いてやっから。できねえけど」
 
 ……

「う〜ん、お菓子食べれば落ち着くよ〜。……ふええ、ごめんね、未来の私……」

 ……
 …………
 ………………不安だ。
 ここは敵地。どこにも味方はいない。
 頼れるのは己の腕一つ。油断すれば、背後からザックリ殺られる。
 いやまあ、なににザックリ殺られるかというと、主にあの目がギンギラギンに光った、おっかないお兄さん(あ、これ秘密ね)にであるのだが。もしくはコーラ一気飲み地獄。本気で骨がとろけるまでやられそうだから怖い。
 そんなふうにして、僕がわらわらとステージ側に集まってきた不安要素満載の集団の中で一人オロオロとしていると、ふと後方の彼方、葉留佳さんに引っ張られて奥からやってきた来ヶ谷さんが見えて、そして――

「ええい、引っ張るなと! ……む……むむ、これはっ」
「ねー姉御! すっごいっしょー! こんな中で、私たちライブやるんっすヨ! んじゃここはひとつ、姉御のおっ○いでぶるんぶるんと男共をアレしてコレして――」
「うむ、やらないからな」
「えーっ!? だって昨日部室でそんなこと言ってたじゃないすかー!? 私のおっ○いで男共を全員ぱふぱふしてやるとかー!」
「一体どんな変態だ私は……。そもそもそれは、昨日のダメな方の来ヶ谷唯湖であり、今の私ではない。まあそんなキチガイじみた女、今さら私だとも思いたくないがな。……ふむ……なら、葉留佳君一人でやってみたらどうだ? ほれ、君もなかなかいいのを持ってるだろうが。うらうら」
「えーっ!? なんすかその子供みたいな理論! ……あ、ちょっ、そこはそのっ!」

 ……いや、ダメだった。
 目の前の光景がアダルトすぎて、どうしても直視していられない。……ええい、雑念よ消え去れ! これからライブが控えてるんだぞ僕は! ばか! スケベ野郎! なむなむなむなむ……
 だが、煩悩を振り払うように自分の頭をぐるんぐるん振り回しもするも、頭の奥に残った大いなる不安とちょっとエロい妄想は消えてなくなってくれず、だんだん脳が微妙すぎるアホ色に染められていく中……僕は、思った。
 
 ――誰か、助けてください。

 そんなどうでもいいというか、ある種自業自得気味な勝手極まりない願いを寛大な神さまが聞き届けてくれたのか、はたまた、ウゼェとバッサリ切り捨てられ罰が下ったのか、僕は唐突として目の前に現れた救世主(?)に、これまた唐突に頭をポンポンと優しくなで回され。

「……最高の舞台だな、理樹。恭介組には感謝せねば」
「あ、け、謙吾……?」

 僕が見返した先には、それこそ鷹揚とした笑顔を向けている、ミスタージャンパーこと(今はジャンパーを脱いでいるが)宮沢謙吾の姿があった。
 上半身は、逞しい筋肉が栄えるぴっちり目の黒Tシャツに、右手には、ジャンパーを着ているときには気づかなかったロッカーらしいリストバンド。
 気合い十分。だけれど、ほどよくリラックスしている様子の謙吾は、先ほど僕と向き合ったときとは打って変わって、険が取れた穏やかな表情をしていた。
 控え室とステージの間で仕切られた暗幕の隙間から、ゆったりと外の気配を感じ取ると、遠くになにかを見つけたのか、短く息をついて笑い。

「今さら聞くまでもないと思うがな」
「……え?」
「『答え』を……一応聞いておこうか」

 横目でこちらを見下ろす謙吾の表情には、もはや敵意も迷いもなく。
 先ほどの準備に当たる僕の様子を見て、なにか思い当たることがあったのか……どうせもうとっくに答えなど出せたのだろう? と僕に優しく語りかけてくるようにも感じて。
 その質問は、切り立った崖の上で行われるような切羽詰まったようなものというよりも、どちらかというと、ある芸術品を完成させるための最後の一手のようにも見え。
 つまり、ここで謙吾が期待していることとは、いわばそういうことで――
 ここで僕の答えをそのまま告げるということは、謙吾の期待を真っ向から裏切るということにほかならなくて。
 ならば――、それこそ最高に面白いだろうと、僕は心の中で強く笑うのだった。
 目の前の現実ってのものを軽々とぶっ飛ばす、あの魅力的な女の子の不敵な笑顔を、頭に思い浮かべながら。
 ちょっとでもあの顔を……僕も真似できればいいなって、そう思いながら、口を開いていく。

「僕の答えは、変わらないよ」
「……、……なに?」

 思った通り、謙吾の貌に少し翳りが生じる。
 ……一瞬、もしこの言葉を最後まで口にしてしまったら、謙吾のライブの演奏に悪影響を及ぼしてしまうんじゃないかと、そう心配したが。
 結局それは、謙吾に嘘をついたままの僕に対しても同じだろうと、そう思い直した。
 喉の奥までやってきていた意志を、再び発進させる。

「笹瀬川さんとは、今までの関係を続けるよ。……それがたとえ逃げでしかないとしてもね。だったら、僕は地の果てまで逃げ続けようと思うんだ。いつか自身の気持ちに納得がいくまで、逃げ続けるよ。……だから今は、このままだ」
「……、……いつか、本当に取り返しがつかなくなってしまうかもしれんぞ?」
「そうかもしれない。けれど、言ってくれたでしょ? 『今の幸せをぶち壊してでも、人は前に進むべきときがある』って」
「……な、おまえっ……! まさか、」

 やっと自身の言っていたことの本当の意味に気づいたのか、謙吾は若干うろたえるように目を揺らがせ、こちらを覗く。
 やった。あの謙吾を一泡吹かせてやれるぞ。
 そうだよ。あの言葉の意味っていうのは、決して一つじゃないんだ。表の意味もあるし、裏の意味もちゃんとある。
 要は周りの人間が――ひいては、自分自身が納得できるかどうか、っていうだけのことなんだ。
 さあ、言ってやろう。もちろん心の中でだけれど。
 へへっ、残念でした。ざまあみたね、謙吾。

「だから僕、ちょっと今の幸せをぶち壊しちゃおっかなって思ったんだ。謙吾の言われたとおりに、ね」
「お、おまえ……わかってるのか!? あいつの気持ちだってちゃんとあるんだぞ!?」
「わかってるよ……うん、ちゃんとわかってる。笹瀬川さんとはちゃんと話をしたし、あの人の気持ちもなんとなく察しが付いた。だけどさ、僕……やっぱりバカみたいだから、目の前のことしか考えられないんだ」

 バカな男は……やっぱり、上手く事を運べないと思う。
 不器用なままだ。
 けれど、バカだから。ムカつく事実は、なにも考えないまま全部ぶっ飛ばせるんだ。
 そうやって、無理やり道を作っていくんだ。
 あの時も。この時も、そうだった。
 あの時は鈴と……、そして今回は、笹瀬川さんと一緒に。
 望んでもいない未来なんか、絶対にごめんだ。
 偉そうに差し出された手なんか、笹瀬川さんと一緒に思いっきり蹴っ飛ばしてやる。それでいいと思う。
 だから僕は、こうやって膝を折らずに立っていられるんだ。
 納得してるから。
 目の前の光景は、確かに眩しすぎて目がくらんでしまうけれど。
 それでも……立ち止まらないで……膝をついてしまわないで、僕はまた、歩き出せると思う。
 さあどうだ、謙吾。納得したかい? と、僕が不敵な笑みで見返すと、それを受け取った謙吾は額を押さえ、やれやれとため息をついて。

「……はあ……元に戻ってやると約束したのは俺だしな……いいだろう。わかった、わかったよ。今回は俺の負けだ。じゃあ、俺の方の気持ちだが――……いや、それはいいか。今のお前にとっては、秘密なままの方が都合いいだろう。この件は、取りあえずこれで終わりだな」

 やや呆れ顔。けれど、どこかさっきよりもスッキリとした表情で、ひとまず謙吾は笑ってくれた。そしてそれに僕も強張った表情を解き、やや安堵した笑みを返した。
 謙吾の言うとおり……別にここで謙吾の気持ちを知っておく必要はなかった。だって僕たちのやっていることは、自分勝手極まりない完全な自己満足なのだから。誰のためにもならない……けれど、自分たちにとってはきっと必要なこと。誰も得しない、おままごとみたいな茶番劇なんだ。
 いつか僕らが、お互いを本当に好きだって口から言えるようになるまで……より本当っぽく好きになり合えるまで、ずっと続けていくバカみたいなやり取りなんだ。
 もちろん、ここで謙吾の気持ちを無視してしまうわけにはいかない。ただそれは、今は必ずしも知っておく必要はないというだけだ。
 もちろん謙吾にも笹瀬川さんにも、きちんと未来を選択する権利がある。反対に、選べる選択肢と、望んでいる結末がそれぞれ一個ずつしかない僕にとっては、それはまるで、遙か数十メートル上空でやらされる危険な綱渡りパフォーマンスにも等しい行為。けれど、僕は敢えてその道に進もうと思う。自身が納得するため。いつか最高の未来を手に入れるため。今は甘んじて、その危険の中に身を投げ入れてやろう。
 ……そうして、自分の中で決意を新たにすると、どうしてだろうか、俄然と勇気が出てきたというか……不思議な安堵感に心がふわっと包まれて、目の前の空気にも少しずつ身体が馴染んでいってくれた。
 やがて、
 
「おーい、リトルバスターズ。ちょっとこっち来い。お前らの出演時間まで後五分だ。最後のミーティングすっぞ」

 ザワザワとした客の話し声に負けないように……けれど外まで響いてしまわないように、岸田さんが小さく声を張り上げて、僕らリトルバスターズを控え室の中心へと呼び寄せる。
 控え室の中はもう全ての椅子やテーブルが片づけられており、その中心にはちょっと広めのスペースができていた。
 元々光のないこの部屋では、隅っこに置かれた電池式のミニランプ一つによって、その中の全てが淡く照らされることとなる。
 ステージから洩れる光と、そのランプから放たれる淡い明かりの両方に重ねられて、岸田さんの顔が薄い金色につやつやと染まっていた。目はなんだか楽しそうで、いつも以上に格好良くとんがっている。自身、これが最後のライブになるであろうということで、色々な感慨を頭に反芻させているのかもしれない。
 
「つっても別に話すことなんざ何もねぇんだけどな……ライブなんて、そんな別にいちいち気張ってやるもんじゃない。いつも俺たちはそうやってるし、表現ってもんは特にそうだと思う。ライブでのマナーはさっきお前らに話した通りだ。それをただ最低限実行してくれれば、特になにか文句を言われることはねえだろう。……つっても、なんだ。リトルバスターズ、お前らなにか、円陣でもやりたいか?」

 ステージから流れた儚い光をその瞳に宿らせ、岸田さんは唇の端で薄く笑いかけてくる。
 その目はまるで、僕らを試すようでもあり……僕らの意志を尊重するようでもあり……。話を聞いたリトルバスターズのみんなは、一斉に僕の方に視線を送ってきたけれども、それらの表情からは特になにも特別な意図は感じられず、なんとなく全員から、お前がリーダーとして好きに決めろ、と言われているようにも見えた。
 僕は目を閉じて一、二秒思案。……改めて、岸田さんの顔を見やる。
 ……やっぱり、この人はかっこいい。
 あの恭介が柔の強さを秘めている者だとしたら、この人はまさしく、剛の極致をその身に体現した存在だ。
 誰の遠慮もいらず、揺るぎない不動の精神によって、ただ悠然とそこに佇むその姿は、さながら百獣の王――、ライオン。
 この場を統べるその支配者からのゆったりとした視線は、確かにそれ相応の圧迫感はあったけれども……不思議と、妙に心地よい空気に満ちていた。
 背後から聞こえてくる観客のざわめきに、僕は身体の緊張を少しずつ確かめていきながらも……その答えは、

「いえ、円陣はしません。……ただ少し、みんなと気合いを入れさせてください」
「……そうか。まあ、後はお前らにすべて託すよ。棗たちの方も……なんだか、どんな仕掛けを用意しているのかぶっちゃけ全部把握しきれてねぇんだが、とんでもなくライブを盛り上げてくれると期待してる。そんじゃま……取りあえず楽んでいけよ、初ライブ」
「はい!」
「ああ! この黒子バスターズに任せておいてくれ!」
「だれが黒子バスターズじゃ、ぼけっ!」
「はっはっは。棗妹の活躍も期待してるぜ……ADとしての」

 ……そんな冗談半分の岸田さんの言い回しに、鈴は、かぶっていた帽子のツバをぎゅぎゅっ、と野球のピッチャーのように強く握り込み、その下でまるっこく底光りする朱色の瞳で「まかせておいてくれたまえ」と思いっきりかっこつけて答えるのだった。
 そのだいぶ間違っている鈴の頑張りの方向性に、岸田さんは大いに満足がいったのか、ビッと力強く右手でサムズアップ。反応して少し照れた鈴に、くっくっくと意地悪く笑うと、その意味を本人に気づかせないままに、「それじゃ、また後でな」と手を振って手前の扉から観客席の方へと出て行ってしまった。
 残った皆藤さんたちともそれぞれ挨拶して別れた後、僕は先ほど岸田さんが立っていた部屋の中心へと移動する。少しでも岸田パワーをもらうためだ。来い来い。ライオンの力。……せめて、ライオンの子供くらいの威光は欲しい。
 リトルバスターズのみんなは、適当にそれぞれ間隔を空けて立ち、僕の視界前方百八十度、よく見える位置に全員わかりやすく並んでくれた。
 だいぶ静かになった控え室で、恭介がずずいっ、と前に出る。

「ついに来たな……このときが」
「そう言うと思ったぜ、お前は。なんだかんだ言って、結局はお前が一番出たかったんじゃねえのか? 恭介」
「いや、心配ないさ真人。実行委員と協力してやったこっちの作業も、ずいぶんと楽しかったからな。……な? 二人とも」
「もの凄く、こき使われました……」
「夜にみおと食ったアイスがおいしかった」
「……感想はそれだけなのかよ……鈴。ちゃんと俺も居たじゃないか」
「お前は、あのあたしが欲しかったアイスを買ってくれなかったからな。ざんねんだが、記憶にのこってない」

 そんな鈴の尊大な物言いに、恭介が溜息まじりで「ハーゲンダッツなんかちょくちょく買ってやれるか、ばか」とアホくさそうに零す。記憶に残っていないのなら何で鈴がそんなこと覚えているのかは取りあえず置いておくとして、鈴のアイス食品に懸けるがめつさは、意外に相当なものであったことが今ここで判明した。端っこから葉留佳さんの「鈴ちゃんや美魚ちんだけずるいぞー! 私たちも断固として恭介くんにアイス五個……いや、十個買ってもらうことを要求するっ! ライブが終わったあとに! ハーゲンダッツストロベリー味!」という非難の声が上がり、横から謙吾のチョップが飛んでいた。

「はぁ……やる直前にこんな話するのもなんだが……一応、打ち上げの予定はある。実行委員や風紀委員、ほかのメインの出し物をやった連中とかぶっちまうが……六時に、ちゃんとみんなで食堂を使わせてもらえることになってる。その時に俺を見つけ出せれば、なにかアイスでも買ってやるよ。さすがにハーゲンダッツじゃねえけど」
「本当に、やる直前にする話ではないな」
「えーっ! 姉御、アイス食べたくないんすか?」
「……む……そ、そう言われてみれば、確かに食べたい気もするが……」
「よ〜しっ! それじゃあ、ライブ終わったらみんなで恭介さん探しちゃお〜!」
「おー! ですっ!」
「きゃほぉ――――っ!」
「ではクドリャフカ君には、バニラの棒アイスで頼む。食べ方は私が指導しよう。くっくっくっく……」
「?」

 不思議そうな顔で首をかしげているクドに、来ヶ谷さんがニヤリ、と鋭く悪魔的な笑みを向ける。……なんとなくこの人の考えていることはわかるが、リトルバスターズでの立場的に、そして男性としてのプライド的に、ひいては社会的信用の諸々を全力死守するために間違ってもそんなことは口に出せず、ただこめかみに冷や汗をだらだら流し続けるほかない僕と恭介であった。
 ……そして、そんな馬鹿なやり取りを適当にだらだらと繰り広げているうちに、やがて外の方から、実行委員の人のマイクで「えー、たいへん長らくお待たせしましたー。ではこれより、午後の部をスタートします。主催は、あの軽音楽部! 今日一番のメインイベントである、学祭ライブです! みなさーん! もうお席に座る必要はありませんので、どうぞお立ちになって、もっと前の方までお越しくださーい!」と呼びかける声が耳に届き、そしてそれに続いて、たくさんの拍手と歓声が巻き起こった。
 後ろの方ではまだパイプ椅子に座っている人がいたのか、ガタガタと席を立つ音がそれに続き……やがて、どんどん前の方へ歩いてくる様子がじわじわと地面から這って伝わってくる。
 僕は恭介と目を合わせて頷き合い、ここでみんなと最後のやり取りをする。
 それは、すなわち――

「よし! 左から順に番号いくよ! まず僕から! いーち!」
「左ってどっちですか?」
「お前は幼稚園児か……こっちからだ。にぃーっ! じゃんぱぁー!」
「うっわムカつく……! どっちからの左なのかわからなかっただけじゃないですか! このへたれジャンパー! さーん! はーい!」
「……え? 私ですか? あ、はい。四です」
「えーと、えーと……ふぉーの次だから……あ、ふぁいぶですっ!」
「くっ……か、カワイすぎる……ん? ああ、六だ」
「七だよ〜。……はっ! これってもしかして、ラッキーセブン!? ライブうまくいくかも〜」
「よかったです〜っ!」
「たのもしいな、こまりちゃん。……、……? おい馬鹿、今っていくつだ?」
「確か、九じゃねえのか?」
「そうか。じゃ、きゅー」
「いや違うだろ。お前が八で、真人が九だ」
「なにぃ……てきとーなこと教えんな! あほっ!」
「しょうがねぇだろ! いちいちそんなたくさん数えてられっかよ! ま、俺が空いたやつに入れば別に問題ねぇよな。ってことで、はちぃ――っ!」
「そんなたくさんって……まだ一桁目だぞ、真人。……えーっとまあいいや。じゃ、俺が十だ! 待たせたな、理樹!」
「うん……ありがとう、恭介。……みんなの気持ちは、なんか取りあえず伝わってきたよ……」

 相変わらずのどうしようもないグダグダっぷりに、僕は一気に体力を削られてしまった気がした。
 そうしてぐったりと首を傾けていた僕に、恭介からの少し張りつめた声が飛ぶ。

「理樹、そろそろ急げ! もう俺たちも出る! ……後はお前らに任せた。よし行くぞ、鈴! 西園!」
「了解です」
「なにぃ……でぃれくたーにむかって勝手に指示すんな! くびにするぞ! ……あ、ちょっ、待て! おいてくな馬鹿!」

 ドタドタと脇の扉から飛び出ていく恭介たちを僕は苦笑で見送った後、静かに目を閉じ……深呼吸。
 「はやく出てこいよ」とでも言わんばかりの拍手と歓声を目前にし、僕はなぜか不思議と……笑みがこぼれていた。
 
「じゃあ、オレたちも下で見てるからよ。ヘマすんなよな、お前ら」
「特に気を張らずにやればいい。岸田氏も言っていたが、表現というのはそういうものだ。正解はない。……ただ、全力で挑むのみだ。そうすれば……きっと私たちの音を純粋に表現できるよ。それじゃあな」

 別のバンドを組んでる真人と来ヶ谷さんの二人も、各々それらしい応援の言葉を残し、控え室の扉から出て行った。
 僕はそれに手を振って返した後、上のジャケットを脱いで、白いVネックのTシャツ一枚になる。ちなみに下は薄いウォッシュが入った紺色のジーンズに、黒のスニーカー。僕のお気に入りのやつである。……本当はこれくらいしか持ってないんだけど。
 長袖をまくり、ジャケットのポケットからスティックを2本。ついでにバッグから予備のをもう2本分取りだして、片手でぎゅっと握りしめる。それを今度は両手で持ち、前へぐ〜〜〜っと伸ばして、軽く柔軟体操。
 背骨と肩甲骨のあたりをぽきぽき鳴らして「ふぅ」とため息をつくと、どうやら他のみんなも準備が整ったようで、静かにこちらと目を合わせてきた。
 ……そして、上着を脱いでオレンジのキャミソール姿となった小毬さんから、慌てて目を逸らす。どうやら……無意識なようだ。不思議そうに首を傾げている姿が微妙に可愛い。隣でうんうんと頷いていた謙吾が葉留佳さんに目つぶしを食らっている。……あ、無事回避できたようだ。代わりに足を蹴られた。
 クドはステージに出て行くのがまだ少し恥ずかしいのか、小毬さんの後ろに回ってやんわりと腕にしがみついている。ハの字に曲がった眉がとても可愛い。……うん、そろそろ自重しよう。僕。
 これ以上無駄に時間を引き延ばすのもお客さんへのマナー違反になってしまうだろう。
 よし、それじゃあ、行くとしようか。
 最高の舞台だ。
 まだまだ不安は尽きないけれど、今は前に進んでみよう。
 やってよかったと、楽しく笑いながら、この過去を振り返れるように。
 必ず成功させるんだ。
 必ず成功させて――、笑うんだ。最後に、みんなで。
 そんな最高の未来を獲得するためだったら――僕は、進んで未知の危険へと足を踏み入れてやる。
 いつか後悔しないように――今は、前に進むんだ。
 さぁ、みんな――心の準備はいいかな?

「それじゃあ行こう。リトルバスターズ」

 ミッション、スタートだ。

 

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