「はい、皆さん。能美クドリャフカ特製、ぐりーん・てぃーですーっ」
「おう。ありがとよー、クー公」
とあるロリ……ではなく、とあるクドリャフカ君が、紙コップの載ったお盆を手に持って、控え室へとちょこちょこと入ってくる。
その際、クドリャフカ君はチラリとこちらの方に視線を寄こしたが……気まずさからか、すぐそれを正面に戻し、トコトコと真人君の方へ駆け寄っていってしまった。
……あの馬鹿たちの喧嘩が収まった後、取りあえずはもうしばらく二人とも休んでおけと恭介氏に言われ、私は引きつづき、この控え室で馬鹿どもの面倒を見るようにと命を下された。
いやまったく……恭介氏の考えていることは、本当にわかりやすい。
ライブが終わったら、後でなにかお礼の品でも贈ってやるか。
「……別に、普通の緑茶にしか見えんのだが」
「のんのんのん♪ 宮沢さんはまだまだ甘ちゃんですねー。……えへん。これは、あの二木さんの一番のお気に入りの茶葉です。それをこの私が、手間暇かけて、丹誠を尽くして、じっくりコトコト淹れたお茶なのです。おいしくないわけがありません!」
「要するに、普通に淹れてくれたお茶というわけだな。感謝する」
「全然伝わってません!? ……い、淹れ方にもすごい奥深さがあるのですよ!? 知らないのですか!? ……お、おー・まい・ごっど、です……」
……Oh My goodness を使え。女性なら。
ちなみに、Oh My God! を女性が普通に使うと、「べらんめえちきしょう!」というニュアンスになる。みんなも気を付けろ。
「はいっ、来ヶ谷さんもどうぞー! なのです!」
「……む。私にもくれるのか?」
「もちろんですっ。来ヶ谷さんには飛びっきりいいお茶を淹れてきました。だからおいしく飲んでくださいっ」
「む……そ、そうか。ありがとう……」
「はいですっ!」
クドリャフカ君は、私と言葉を交わせたことがよほど嬉しかったのか、るんるんの笑顔でお茶を手渡してくると、後は兎みたいにぴょんぴょん飛び跳ねて控え室を出て行った。……ああ、かわいい。
ではなく。
……ふむ。まあ別に、クドリャフカ君たちにまで嫌われてしまったとは思っていなかったが……、あそこまで馬鹿ないたずらをやらかした私に、こうまで真摯に接してきてくれるとは……やはり、リトルバスターズというチームは、少々異質な集団なようだ。
普通のチームだったら、絶対こうはいくまい。
長々と偉そうに説教を下してくるか……せいぜい自分のしたことを悔やめばいいと言い出すか、またはその後に、上から目線の一方的な優しさを押しつけてくるか。……私であれば、きっと最後のやつだろうか。わかってはいたが、ほとほと最低な奴だ。受ける身になってみればそれがよくわかる。
なぜ私は……こんな連中と、一緒にいるのだろう。
一緒にいる資格など、本当にあるのだろうか。
……
…………
……………ふん。別にそんなの考えてもわからんし、どうでもいいか。
私もこのリトルバスターズに影響されて、随分昔と変われたのは確か。
そしてなにより……私自身、今はこいつらと一緒にいたいと思う。
ならば、それだけでいいではないか。
ふ……まあ、さすがに、そこまでは私もネガティブ馬鹿にはなり切れんということかな。
だというのに、
「来ヶ谷、てめえせいぜいあのクー公に感謝して飲んでおけよ。本当だったらてめぇの茶ごとき、すぐにでもオレの筋肉熱で全て蒸発させてやれんだからよ。……それをやらねぇでいるのは、このお茶を淹れてくれたのが、あのクー公であるからさ……」
このニヒルに笑っている、「これからやられます」的根性丸出しの筋肉馬鹿が、なぜか私の想いを粉々に打ち砕いてくるような、空気の読めん(さらに意味不明すぎる)発言を口にしてくるのだ。……しかもなんだ? キサマはクドリャフカ君に恋でもしているのか? ふん、私の嫁に少しでも手を出してみろ。殺すぞ。
そんな私の黒い波動を感じ取ったか、はたまたなにも知らずにか、謙吾少年はズズ……とお茶を飲みながら、至極落ち着いたふうに。
「仮にそんなことしてみろ。またすぐに俺が成仏させてやる」
「なんだと、謙吾? てめー、もしやこいつのことが好きなんじゃねえのか? あ? あんな超音波攻撃食らっといてよー。なんだお前、マニフェストじゃねえのか?」
「それを言うならマゾヒストだろうが……」
「あ? 違ぇだろ! お前があのとき、それはマニフェストだって教えてくれたんじゃねーかよ! あの二人っきりだった、放課後の体育館裏でよ!」
「そんな怪しいシチュエーションで、俺がそんな言葉を口にするかっ! どんな馬鹿だ俺は! ……そもそも、俺は来ヶ谷にそんな感情など抱いていないし、単に貴様の筋肉サウナが迷惑すぎると言いたかっただけだ!」
「な……なんだとう!? またてめーは筋肉さんを馬鹿にするって言うのかよ! ……筋肉の顔も三度までって言葉、知らねぇのかよ!」
「そんな不気味すぎる言葉聞いたこともないし、そもそも今日貴様を怒らせたのはこれで二度目だ! ……ふん。もっとも、俺がここでその筋肉の顔とやら……ひとおもいに潰してやってもよいがな」
「あんだとう……謙吾。またあの続き、やろうってか……? はっ、別にいいぜ。オレは」
「望むところ―――――、どぅはっ!?」
「ぶへっ!?」
「いい加減にしろ……この大馬鹿ども。もう一度喧嘩なぞしてみるがいい。今度は回し蹴りが飛ぶぞ」
無駄に血の気が多いらしい馬鹿二人の頭を、ブーツの先で軽く蹴っ飛ばしてやる。……ふん、こんなライブを控えている時でなければ、真っ先に全力の七星閃空脚をお見舞いしているところだ。配慮のある私に感謝するんだな。
……まったく。どうしてこいつらはただの何気ない会話を、こんな奇跡的に喧嘩に発展させることができるんだ? もしや双方とも運命の赤い糸なぞで結ばれてるのでは? だ、だとしたら、気味が悪いな……美魚君が喜びそうだが。
二人は、私に蹴られた箇所を押さえて軽くうめいた後、ギロリと互いに一睨み。「ケッ」「ふん」。かわいくそっぽを向き合うのだった。……なるほど。これが男性版ツンデレというやつか?
そして謙吾少年は、その後呆れたようにやれやれと首を振ると、さっきまでの真剣な顔を維持したまま、目の鋭さだけを何倍にもまで増して、こちらをギンと睨み付けてきた。
「さて、超音波攻撃という単語で思い出したが……。来ヶ谷、そういえばまだ、先ほどの妨害行為の理由を聞かせてもらっていないが?」
「っ……」
私が気まずさで謙吾少年の方から目を逸らし、そのままなにも答えないでいると。
「こら、てめえ謙吾。落ち込んでる女子に向かってなんてこと言い出すんだよ、お前は。ちっとは男らしく黙って受け入れてやるとかできねーのかよ。小せぇ男だな、ほんとに」
「……? ……い、いや、お前は一体どっちの味方なんだ? さっきまでの態度とまるで違うだろうが」
「うーるせーな! ほっとけよ! オレは、ただなぁ……」
そうして真人君は言葉を切り、途端難しげな顔になって、こちらを横目で見つめてくる。
……あの顔の意味はわかる。自分の本当に言いたいことが、うまく言葉になってくれないときだ。
それから真人君は苛立たしげに頭をガシガシと掻きむしり、「う〜〜」という低いうめき声を上げ始め。
「あぁーっ! わっかんねー! オレにはどうしても無理だこんなん! ……ただやりてぇからやった! それだけでいいだろ!」
「……いや、よくはないと思うが……お前、大丈夫か? なんだかおかしいぞ?」
「うっるせーよ! オレがおかしいことなんざ、いつものことだろ! ……あー、それより暇だ。ライブまでまだ時間あるし、なにかやって遊ぼうぜ?」
「い、いや……俺はまず、来ヶ谷に話を聞きたくてだな……」
「どうでもいいよそんなもん! ……よし。ここは筋肉とジャンパー、どちらがよりネタとして優れているか、その議論といこうじゃねえか!」
……ふ。
「な……なにい!? くう……そいつは見逃せんな……! いいだろう、受けて立ってやろう!」
「よっしゃ! じゃ、まずオレからいくぜ。……えーっと、じゃあ最初に、筋肉の定義についてなんだがな――」
……大丈夫。わかったよ。
君のしたかったこと。
君の、本当に言いたかったこと。
ちゃんと全部、こっちに伝わってきたから。
……ありがとな。真人君――
「……ふむ。まぁ、自身と同一でありながらも、まったく別種の存在だということは理解できた。……だが、それがネタとして優れているということと、一体どんな関係にあるというのだ?」
「まー、そう慌てなさんなって、謙吾さんよ。ここからが本番なんだからよ。いいか? 筋肉思考論的にはな……」
君は……ただ、嫌だっただけなのだろう?
暗い空気を身に纏っていた私が。
そして、またもや暗い話題に浸ろうとしていた謙吾少年が。
暗い世界が……ただ純粋に、嫌いだっただけなのだろう?
薄々だけど、感づいていたよ。
だから君はそうやって、屈託なく笑うんだろう。
眩しくみんなを照らす、キラキラと光り輝いた太陽の一つでありたいと……君は、願い続けるんだろう。
自分の想いすら全て、そこに無理やり詰め込んで。
自身は口を閉ざし、黙ったまま、みんなを明るく笑わせ続けるんだろう。
それが……君という人間だ。
……本当に……わかってはいたが、つくづく馬鹿な男だな、君は。
「いや、だが待て。ジャンパーにだってそれは当てはまるはずだ。むしろ俺のジャンパーは、いつでも他人に着せることが可能であるから、お前の筋肉よりもずっとずっと自由度が高いということになる。違うか?」
「くっ……そ、そこは、否定できねえが……」
「ふん。そうだろう。ならばここからは俺の反撃とさせてもらうぞ。いいか、ジャンパー倫理学によるとだな……」
本当に、笑ってしまうよ。
一体なにを話しているんだ? 君たちは。
そんなこと、本当は全部嘘っぱちだろう? 本当は全て、今考えついたことだろう?
くだらない。
けれど……そうやってくだらない遊びをしている君たちは……本当に、楽しそうだ。
聞いてるだけで、こちらも自然に笑顔になってしまう。
暗い気持ちなんか、全て吹き飛んでしまうよ。
どうしてだろうな……
理樹君のことを考えると、いつでも暗い気持ちにしかならないのに。
そうしないでいる今の私は、楽しそうに笑ったままだ。
好きであるということは、一体……どういうことなんだろうな。
私には難しくって、到底理解できないよ。
でもこうして、ただ笑っていると。
そんなこと……本当にどうでもよくなってきてしまうから、不思議なんだ。
自分がウジウジ悩んでいたことなんて、本当に些細なことに思えてきてしまう。
そうやって最初から、君のように笑えたら……って思うよ。
知っているかい?
私は元々……笑うことを知らない子だったんだ。
私の笑顔はすべて、仮面だった。
「花が咲くように笑うんだね」って昔誰かに言われた気がするけど、それを聞いた私は、心の奥でずっと無表情なままだった。
けれどそんな感情のなかった私が……ここではこうして、心から笑うことができるんだ。
リトルバスターズという集団に触れて……理樹君に愛されて、……そして、君に出会って。
自分も笑えるってこと――知ったんだ。
落ち込むことしかできなかった時も……君がそうやって、私を笑わせてくれたね。
自慢じゃないが……ほかの誰にもできなかったことだよ。
けれど、君なら簡単にそれを成し遂げてしまう。
なんでもないふうに。
この時も……あの時も。
君がいてくれれば……私はどんな闇の中にいたとしても、穏やかに笑っていられるのだろう。
人前で大口開けて笑うのは恥ずかしいから、こうやってクスクス笑いだけど。
それでも、ただ君がいてくれれば……
私はどこまでも、頑張れる気がするんだ。
ああ、そうか……
きっと、私は。
「おーい、謙吾! もうすぐ客が入ってくる時間だから、お前もこっち来て理樹たちとセッティング合わせろ! 急げ!」
「な、なにい!? ここからがいいとこなのに!?」
「ふっ……謙吾さんよ。するってーとこの勝負……オレ様の勝ちってことでいいのかい? なんだか悪ぃな」
「く、くっそう……真人! この勝負、今日の夜までお預けだ! それまでに俺は、頭の中でジャンパー理論をできる限りまとめておく! 覚悟しておけよ!」
「オーケー……だったらオレの方も、またしっかり筋肉方法論を整理して臨むことにするぜ。そんじゃな」
「またなっ!」
「おう!」
「……、……いや、なんでお前らはライブよりそっちの話題に熱くなってんだよ……ライブの話をしろよ……まあアリだけどよっ!」
そうして謙吾少年は、壁に立てかけてあったギターケースから白い一本のベースギターを取りだし、もう片方の手にシールドとチューナーを持ったまま慌ててステージの方へ駆け出していく。
呼び出しに来た恭介氏も、そう……まさに的確すぎるツッコみを一言残した後、楽しそうにステージ側へと走り去っていった。
そして、残された私たち。
急に静かになってしまった控え室で、私は穏やかな笑みを顔に残しながら、手に持っていた紙コップを口につける。
……気づくと、クドリャフカ君のお茶はすっかり冷たくなってしまっていた。
ずっと私が目の前のことに気を詰めていたからだろうか……ならば、クドリャフカ君には相当悪いことをしてしまったな。
ええい、すまん――と心中で謝りながら、私は一気にそのお茶を飲み干すことにした。あー、苦い。おいしさなんて全然わかんない。
飲み干した後でコップを隣に置き、はぁ……とため息をつくと、なにやら……目の前の男がこちらをじ〜っと見つめてきていた。
な、なんだ? 私の顔になにか付いているのだろうか。
もしかして、今の茶の溶けきらなかった粉が、口の周りに? ……だ、だとしたら恥ずかしい。ええい、私としたことが。ふきふきふきふき……
そんな私の子供っぽい仕草がおかしかったのか、目の前の筋肉はニカッと楽しそうに笑って。
「へっ……お前、なんかだんだん元の顔に戻ってきたな」
「は?」
「いつもの顔だよ。どんな顔か……なんて、うまく言えねぇけどよ。今日のお前、なんかずっと変だったからな」
「へ、変……?」
まさか――見破られていた?
いや……そんな馬鹿な。朝も鏡を見て何度も練習したし、発言でも、ちゃんといつもの自分が出せるように極力気を遣っていた。
それでもやはり……変だったのか? こいつにもわかってしまうほど?
……最悪だ。
……ああ、最悪だとも。
なにが最悪かって、キサマが私の顔を真似たつもりで、福笑いみたいなことやっているのがなによりも最悪だ。どんなエイリアンだ、私は。
「とまあ、こんな顔かな」
「……死んでくれ」
「いきなりそれかよっ!? 軽いジョークだったのに!」
「……乙女のプライドを傷つけた罪はとても重い。そう、それは……閻魔様でも舌を巻いてしまうほどに」
「す、すげぇ重たさだなそれは……」
真人君にしてはめずらしく、相手のボケについて行けないたじたじな様子を顔に貼り付け、冷や汗をたらしつつ、ううむと難しそうに唸る。……別にここでノリノリのままボケ返されても困るが。
私は「冗談だよ」と軽く笑って、ステージ側から聞こえてくる、奴らの『Little Busters!』のリハーサルの音を横で聞き流しながら、静かに今日一日のことに思いを馳せる。
……最初に、私のことを変だと言ってくれたのは、この人か。
ならば……と私は決意を固め、ゆっくり真人君の方へと向き直り、
「もうそのことはいいから、その代わり……一つだけ、私の質問に答えてくれ」
「あ? なんだよ?」
「……その、私はそんなに、『変』だったか……? 今日一日」
言ってから、なんて馬鹿な質問なのだろうと思った。そもそも相手はもう既に「お前は変だった」と言ってくれていたではないか。
けれど。
私が、理樹君のことをどう思っているのか。
それを自分で確かめるために、その質問はどうしても必要な気がして……その、どうしてもこの男に聞いてみたかったのだ。
そして真人君は私の予想した通り、「なにを当たり前なことを……」とでも言うかのように、はんっと鼻で笑って。
「変もなにも、相当おかしかったぜ? お前あれだろ? 脳みそに筋肉足りてねえんだろ? だからじゃねえのか」
「……なんだそれは? 褒めてくれているのか?」
「褒めてねえよ!」
「……」
いつもとはまったく逆の立場で、くわっ! と怒った顔になり、こちらに厳しいツッコみを入れてくる。
……いや。
絶対、なにか間違っていると思うのだが、別に私は悪くないよな?
ははは……なんだか、自分も馬鹿になってしまったような気分だ。まさかこいつにこんなツッコみを入れられる日が来るとは。虚しくて自力でつむじ風でも起こしてしまいたくなってくる。
真人君は、「ほんと、しょーがねーなぁ……」と呆れ顔でため息をついた。うるさい。しょーがないのはお前だ。絶対。
「変だよ。なんか、あれこれ頑張ろう頑張ろうとするせいで、妙に空回りしすぎちまってるっていうかなぁ……。お前もしかして、またなにか一人で無理してねえか?」
「ぬ……」
「……頑張ることって言ったら、どーせ理樹のことだろ? ……はぁ……ったく、どうしてお前はそうやって一人で頑張ろうとすんだ。確かにデリケートな話題だから、他人になんか協力して欲しくねーんだろーけどよ。オレやクー公はちゃんと事情知ってんだろうが」
……真人君らしい、遠慮のないズケズケとした責め文句を浴びせられる。
けれど私は、以前のようにそれに食ってかかるようなんてことはしない。黙って口を閉ざし、静かに聞き入ったままでいる。
こうして……私のことを呆れ顔で怒ってくれるのはこの人だけなのだ。だから私は、その文句を甘んじて受け入れようと思う。
「一人で頑張ろうとしていた」……か。こいつにそう言われてしまうと悔しいが、確かに当たっているかもしれん。
だが私はただ……元来、人に頼るということを知らない人間なのだ。
今まで自分に降りかかってきた問題は、すべて自分の力だけで解決してきたつもりだ。
あの数学教師のことだってそうだったし、嫌がらせの件についても全て、自分だけでカタをつけてきた。
昔はそれが当たり前なことだと思っていた。……進んで私の味方をしてくれる人間は、誰一人としていなかったからな。それほど私が完璧超人に見えたということだろうが……まあ、私が進んで周りと交流を持たなかったせいもあるだろう。
そして今は、リトルバスターズのために一人で頑張るようになった。
ただ、みんなに心配をかけたくなかったのだ。
私が理樹君のことをまだ好いていると……思って欲しくない。
私は、大丈夫だから。
以前までは、みんなにそのことで心配かけてしまっていたが……今ならもう、大丈夫だからと。ちゃんと割り切れたからと。そう安心して、みんなに笑っていて欲しいのだ。
だというのに。
なぜ、こうもうまく行かない。
別に私のことはいいんだ。そんなに心配してもらわなくても。
みんなの心配した顔なんて、見たくないんだから。
ただ私が、みんなのことを笑わせたいんだ。
だというのに……どうして、こいつみたいにうまく笑わせられない。
なんで――
「笑ってねえんだよ」
「――え」
「笑い方が……なんか、無理してるっつーか……そう見える。それは、なんつーか……本当の笑みってやつじゃねえ……って思う」
「……」
真人君が、私の心を読んだかのように、ゆっくりと続きの言葉を放ってくる。
腕を組んで、精一杯自分の言いたいことに当てはまる言葉を探して……それは確かにたどたどしいというか、拙い言い回しだったけれど……確実に、ちゃんと私の心に波紋を立ててきて。
笑ってなかった。
私が……笑っていなかった。声では笑っていても、顔では、決して。
いや……そうか。
それがきっと……私とこいつの違いだったのかもしれない。
作られた笑みと、作っていない笑み。
人を笑わせられる笑顔と、人を笑わせられない笑顔。
そっか。
なんだ……
私、ばかじゃないか……
自分でさえ満足に笑うことのできない人間が、どうして人を笑わせるなんてことできるんだろう。
そんな人間が無理に笑おうとすればするほど、その歪な造りは……逆に人を不安にさせてしまう。
全部、反対なことをしていたんじゃないか。心配……かけまくっていたんじゃないか。
挙げ句、あんな酷い馬鹿なことまでしでかして。
なにをやっているんだろう。
ああ私は……本当に大馬鹿者で、臆病で、情けなくて、笑えなくて、全然強くなんか――
「だからよ」
顔を上げようとした私の頭に、ごすん、と重い手が乗せられる。
……なんだ、これは。
そのまま軽く、髪をくしゃくしゃとされる。
まさか、ちょ、こいつは、いつの間に席を立って――
「もう、笑うんじゃねえよ」
え――
「オレが笑わせるから」
――私の前髪の、隙間から覗ける、こいつの大きな顔に。
それは確かな――どうしようもないほどの、飾らない笑顔があって。
「だからもう……自分から無理に笑おうとすんなって」
語りかける言葉は優しく――少し困ったよう。
出来の悪い子供に言い聞かせるように、がしがしと、頭を撫でる。
「お前……本当はそんなふうな人間じゃねえんだろ? だったら、それでいいじゃんかよ。な?」
私はこいつの言葉以外、なにも聞こえなくなってしまって。
その言葉は……私の檻を揺さぶるようでもあり、私の鎖を優しく解きほぐすようでもあり。
そして、確かに私の中の何かが……ガラガラと音を立てて崩れて。
やがてまたそこに何かが……確かに、残ったのだ。
「……って、あれ? 来ヶ谷、なんで――」
「……う、うるさい馬鹿! み、見るなっ! ていうかさっさと手どけろ! 親戚のじじいかキサマは!」
「お、おおう……」
慌てて私の頭から手を引く真人君は、先ほどと打って変わって少々困惑したような声を漏らし。
オレ、なにかまずいこと言ったかなぁ……と、一人不安そうな顔を浮かべているさまが容易に想像できて。
目を強くゴシゴシと擦る私を、きっと気まずそうに見つめているのだろうな……と、思っていた。
「う、うくっ……キサマの手の油が目に入った!」
「なにいっ!? オレ、そんなに手から油出してたのかよ! わ、悪ぃ……。でも、あれ? 触ってみた感じ出てねぇと思うんだが……」
「う、うるさい! 出ていたと言ったら出ていたのだ! しかもなんだこれは……と、取れない」
……止まらない、ようだった。
こうやって目を押さえて止めようとしても、次から次へと、溢れ出てきてしまう。
だから咄嗟に、そうやって、つきたくもない嘘をついてしまった。
ごめん、真人君。
本当は嘘だから。出てないよ。本当はそんな、油なんて。
私が……ただ私が、全部悪いんだよ。
こんなの、初めてで。
全然知らなくって。
どうしていいか、わからないんだよ。
ただ私は……恥ずかしさで、そうやって、息を殺していることしかできなくて。
必死に、しゃくり声を上げないようにすることしか……できなくて。
……ああ、だからお願いだ、真人君。
見ないでくれ。
こんな私に気づかないでくれ。
こんな姿なんて、死ぬほど恥ずかしいから、せめて――
「ほら」
「……ぇ」
「お前が昨日くれたハンカチ。一応洗って夜乾燥室に干しといたら、もうすっかり朝には乾いてた。早ぇのな、乾くの」
「……っ」
「油……これじゃ取れるかよくわかんねぇけど、使えよ。手で擦ると、余計悪くすっかもしれねぇからな」
そうして差し出された、藍色のハンカチを、私は引ったくるようにして受け取った。
その際に片目から少しだけ見えた、彼の大きいゴツゴツとした手のひらに、「ごめん」と心の中で何度も謝りながら。
そして私がそのまま、静かにハンカチを目に当てている間――真人君は一切、なにも言葉を口にしてこなかった。
ただ耳に聞こえてくるのは、『Little Busters!』という曲の断片的なフレーズと、そのところどころで飛ぶ恭介氏や皆藤君の指示、バンドメンバーによる打ち合わせなどの、ここから遠く離れた音たちの数々。
客が入ってくる時間になれば、彼らも準備を終えて、こちらの控え室にやってきてしまう。
だからそれまで。
それまででいいから、真人君。
そこで……ずっとそうしていてくれ。
そこにいてくれ。
なにも、言わないでくれ。
もう少し。
本当にもう少しだから……
それまで、ほんのちょっとだけ……このままで、いさせてくれ。
こんな格好悪い私を見せられるのは……きっと、君だけだから。
きっと、君だけ……なんだ。