「はっ……はぁ、はぁ……はっ……っはあ――っと、すみません!」

 正面でぶつかりそうになってしまった小さな男の子を軽くサイドステップでかわしながら、隣にいたその子の両親に素早く頭を下げ、返事を聞く前に再び走り出す。
 失礼な奴だと思われただろうが、今はそんなこと気にかけてられない。
 少しでも、もっと少しでも速く――あの人の元へ。
 僕は、そんなお芝居くさいセリフを大真面目に心の中で暗誦しながら、学祭の出店市場に横たわる人ごみの間を全力スピードで駆け抜けていた。

「よし……っ! ここを、曲がって……!」

 ジャリッ、という鈍い音と共に、僕は出店の角を最高速度のまま曲がりきる。
 短い左右のフットワークで衆人の列を軽快に通り抜けながら、ちらりと右方向に視線を送ると、昨日真人たちと行ったカツサンド屋が目に付いた。
 僕は、かつてみんなで歩いたこの道のりを頭の中で正確にトレースしつつ、必死に足を前へ、前へ、と送り続ける。
 そして――、そのまま全力疾走し続けること数分。
 息も切れ切れになり、額に溜まった汗がすらりと鼻筋にしたたり落ちる頃。
 最後の曲がり角に――、僕は辿り着いた。

「はぁ……はぁ……、はあ……はあ……っ」

 ゆっくりとスピードを落としていき、やがてその前で足を止める。
 激しく打ち鳴らされる自分の心臓は、下を向いてしまえ、膝に手を置いて前屈みになれ、としきりに命令を発してくるが……僕はそれを強引に無視して頭を反らし、その水色の空を仰ぐ。
 ここを曲がったら、もう目的地はすぐそこだ。
 そこに彼女はいる。
 きっといるはずだ。
 会ったら……なにを話そうか。
 ああそういえば僕、なにも考えてないや。
 彼女を癒す優しいセリフも、彼女を笑わせる楽しい話も。そもそも僕は彼女になにを伝えたいのかも。
 頭の中はカラッポだ。
 でも……それでも、悪い気はしない。
 なぜなら僕は――、いつも彼女に対して、そうだったのだから。

「はぁ……、はあ……」

 そして僕は、ゆっくりと、前に歩を進めていく。
 呼吸の方もだんだんと落ち着いてきたが、依然として喉の方だけは潤いをなくしたままで、カラカラとひりついていて少し痛い。さらに言えば、喉の奥の両面がひっつきそうで変に気持ち悪い。
 こうなることを予想して、途中でなにか飲み物でも買ってくればよかった。と、僕は今更ながらに後悔する。
 でもまあ、ここまで来ちゃったんじゃ……もうしょうがない。もしあそこに彼女がいてくれなかった場合に、また考えよう。
 僕はそんな取り留めのないことを、どこかぼんやりとした頭で考えつつ、ゆっくりと角の先へと進んでいって。
 そして、見た。

「っ……」

 ……それは、正面から降り注ぐ、秋の陽光のせいだったのだろうか。
 それともまた、唐突に自分の身に起こった、単なる眩暈が原因か。
 はたまた、仮に僕自身が闇だとしたら、まさしくそれこそが、闇をくまなく照らす光であったせいなのか。
 その詳細は僕にもよくわからないし、どうでもいい。
 ただ僕はそのとき――、なんと思うこともなく、じっとそれに目を凝らしていて。
 普通にそれを見ようとしたけど、でも眩しくってよく見えなくて。
 僕は数秒の間――そこに立ち止まって、じっとその出店の通りを眺めていた。
 ……最初に目についたのは、テントの左脇に立てかけられた『くれーぷ屋 by 女子ソフト部』というベニヤ板でできた看板。今どきの女子高生らしく、至るところに可愛らしいキャラクターの絵が描かれている。
 次いで耳に入ってきたのは、じゅじゅ〜、というクレープを焼く音と、忙しそうに接客と会計を繰り返す、運動部らしいハキハキとした挨拶の声。……やけに聞き覚えのある声質だった。
 だんだん視界が明瞭になっていくにつれ、僕もゆっくりとそこから歩を進めていく。
 ……どうやら、結構繁盛しているようだ。それも家族連れに大人気らしい。列に並んでいる人々の様子から大いにそのことが窺えた。
 やがて僕もその列に混じり、そこからお店の中の様子を覗こうとして。
 そして――

「いた……」

 ――見つけてしまう。
 三角巾からこぼれ落ちる、藍色の艶やかな髪。
 たとえこんな地味な仕事といえど、決してその者の気品を失わせない、淡いターコイズブルーの瞳。
 そしてまるでフランス人形のごとく、精緻を極めた美しい顔立ちに、どこかまだあどけなさを残した、小さい薔薇のような唇。
 相対するお客さんに精一杯の営業スマイルを向けてはいるが、それでもどこか翳りが差したその表情。
 ……笹瀬川、佐々美さん。
 思えば、こうやってまじまじとその顔を眺めるのは初めてかもしれない。
 今まではあんまり意識してこなかったが……こ、こうやって実際にちゃんと見てみると、意外に結構……いや、恐ろしく可愛い……かも。ていうか……こ、こんなに可愛かったっけ? 笹瀬川さん。
 僕の方の意識が昨日と今日で変わったからだろうか。なにをやっても綺麗に見えてしまう……
 これが恋する――ということなのだろうか。
 彼女を見つけた瞬間から、他のものがなにも目に入らなくなってしまった。
 心臓の鼓動がだんだん速くなっていくのがわかる。けれど、止めることができない。止め方がわからない。
 緩やかだが、熱が自然と顔の方にたまっていく。こちらも止められない。
 ……けれど、なぜだろう。
 僕はきっと、笹瀬川さんに恋してる。それは多分……確実なのだろう。
 だが、そう思えばそう思うほど……なぜだか。
 なぜだか、胸が……とても苦しくなる。
 もしかしたらそれは……きっと、

「いらっしゃいませー。……あら、お客様?」
「え……? あ、あっ、すみません!」

 ふと気づいたら、前に並んでいたお客さんたちが全員消失していた。僕は、少し嗄れた声のままその返事をして、随分ここは客をさばくのが速いなぁ……とか、恥ずかしさを紛らわすためにそんな変なことを考えながら、慌ててその店の前に駆け寄った。
 でも……あのさ、ほら……この注文を取ってくれる子ってのが……

「ご注文は何になさいますか?」
「は、はい……えっと」

 笹瀬川さん、本人なんだよなぁ……
 彼女はきちんとした営業スマイルを顔に浮かべながらも、それはどこか影を落としたままで、実際前をちゃんと見ていない。
 さらに自分が私服だからだろうか、僕だということにまったく気づいていない。
 自分の声質も別に特徴あるものじゃない。……若干高く、ひ弱なイメージっていうのもちゃんとあるだろうが、喉がカラカラな今では、その特徴さえも『どこかからの客の一人』という無色の絵の具に塗りつぶされてしまっていることだろう。
 ……であるからして、僕は今なにか注文をしないといけないわけだが(ここで陽気に「ヘイッ、佐々美ちゃん!」なんて声をかけられるだけの勇気なぞ僕には到底ない)……クレープをもらってただ帰るというのもアホらしすぎるな。一体どんなヘタレなんだろう、僕は。
 でも、なにか注文するものなんてぜんぜん考えてないし……そもそも僕は、今はそんなことよりもなにか飲み物系が欲しいんだ。この状態でクレープなどという危険物体を食べたら、喉にクリームを詰まらせて死んでしまう。
 水だけとか……注文できないだろうか。いやでも、さすがにそれは……セコすぎるというかなんというか。
 
「……お客様? ご注文がお決まりでしたら……、……、――――……は?」
「や、やぁ……笹瀬川さん。元気?」

 元気なわけないだろう。アホか僕は。
 微妙にうつむいたままだった笹瀬川さんは、なかなか言葉を発しない僕のことが気にかかったのか、視線をきちんと前に正し、こちらの方をちらりと見て――……突然、素っ頓狂な声を上げた。その際、一瞬まぬけな顔になったのがちょっと面白かった。
 僕はこちらにやっと気づいてもらえたことに安堵して、好きな女の子の前、ということで少々緊張しながらも、軽く手を上げて、ちょっと爽やかボーイ風に挨拶してみた。……後から、そんな無神経な自分をぶん殴ってやりたくなったが。
 それを見た彼女は、一瞬ひどく困ったような顔をした後、すぐにその顔を短く左右に振って、いつものキリッとした女王様フェイスを取り戻し、こちらをキツく睨んでくる。
 ……あ、なんだか次の言葉が予想できる。

「……おら、とっとと注文決めやがれ、ですわ。……ていうかさっきからあなた、一人でノロノロし過ぎなんですわよ。『元気?』なんて軽薄な挨拶してる暇があったら、さっさとあなたの後ろにずらりと並んでおられる善良な市民の皆様のためにも、そしてついでに私たち女子ソフトボール部のためにも、この『スペシャル・デラックスチョコレート』を五つも六つも頼んで、無言であの馬鹿どものところに帰るべきですわ。いえ、帰りなさい。……正直、あなた時間かけすぎですから、お金だけ頂いて後で届けるという手もありましてよ。場所は絶対聞かないので、仕方なくすべて私たちの胃袋に収めることになりますけど」

 あはー、最初っからブリザード級のサディスティックワード連発ですかー。キモチイイー。
 ちなみに『スペシャル・デラックスチョコレート』とは、なぜかメニューの中でずば抜けてお高い、一つ九百円もするクリームたっぷりの超弩級チョコレートクレープのことだ。ぶっちゃけ、高校の学祭で出す値段でもサイズでもない。あの小毬さんにでさえ「ちょっとこれは……さすがに遠慮しとくよ〜」とまで言わしめたほどだ。もしこれを六つ買ったとして……九百円×六で五千四百円。クドが大好きなうどんそばを二十七個買える計算になる。わけがわからない。
 
「いやいやいや、それ絶対自分達のためでしょ……ほとんど。一つ九百円とか意味不明だから」
「あら……あなた、私がじきじきに考案したメニューにケチつける気ですの? ……ふん、これでも材料費はちゃんと切り詰めているんですのよ」

 どこがだよ。絶対お嬢様権限をフルに使ったネタ系デザートでしょ。

「……って、そんなことはどうでもいいんですわ。はいっ、買うならとっとと出すものを出す! 出さないなら帰る! いや、出して帰れ! 全部私たちにおごって帰れ! おごれ! 帰れ! おごれっ! この直枝理樹めっ!」
「いやいやいやいや……おごりもしないし帰りもしないから。っていうかその言い方だと、どこか危ない取引に聞こえるから気を付けた方がいいよ。大体なに? 出すもの出すって……あ、ほら見てよ。後ろ」
「はぁ!? 一体なにを言って――……って、あ、あら? お客様……? どうなさったんですの? どうして私……そんな怯えたような目で見られて――……あっ、ちょ! 待って! 行かないで! う、嘘ですわ、嘘! この男とはこれくらいのやり取りが普通で、だからこれはその……あのほら、『じゃれ合い』ってやつですのよ! ネタ合わせなんですの! なんにもおかしいことはなくって、だから、うちのクレープは美味しくって、そのほら、とっても安いしっ! だから、だからあの、その! そんな、後ずさりなんかしなくたっていいんですのよ! あ、待って! ちょ、ちょっと! 逃げないで! あ、ああっ、アッ―――――!」

 ……哀れ猫。と言えばいいのだろうか。
 半泣き状態のまま必死に手を伸ばす先の先――、遙か前方の彼方には、子どもを手で隠して怯えたように去っていく善良な市民の皆様の姿が。
 ……僕はそれを横目で静かに見送り、完全に見えなくなった後、再び視線を前に戻す。
 するとそこには、手を伸ばしたままで、顔を思いっきり『がくん』とうつむける、哀れな捨て猫の姿が。今なら微妙に口からはみ出ている魂が見えるかもしれない。
 その後ろには、若干冷や汗をたらしつつも、必死に憧れの先輩を元気づける言葉を探している――、でもやっぱり苦笑いになってしまう、そんな女子ソフト部の面々が。僕が「君らも大変だね」というメッセージを込めて笑いかけると、向こうも「いえ、そんなことは」などの意味に取れる苦笑を返してきた。
 そして、そんな微妙に生暖かい視線に全方向から当てられ続けている当のお嬢様はというと……、あ、ぷるぷると震えだした。
 これはまた少し……予想できるな。
 さあくるぞ……くるぞ。

「……お、おンッ――――まえのせいですわよっ! この鈍感天然馬鹿の、アホダメ○ק△≠※#(ピ―――)直枝理樹っ!」
「……今途中、なんかすごいこと言われたような気がするんだけど……気のせいかな」
「気のせいじゃないですわよっ! こンの、あほ! ぼけっ! ……あぁ〜〜―――! この責任は注文で取ってもらいますわよ! 覚悟なさい! ……で、なに!? 『スペシャル・デラックスチョコレート』百個!? それとも一年分!? 材料続く限り!? ……いいでしょう。その挑戦、確かに受けましたわ!」

 色々テンパってるのか、目をぐるぐる回したままそんな無理難題をふっかけてくる笹瀬川さん。こちらに突き出した指もぷるぷる小刻みに震えている。……要求が理不尽ながら、そんな彼女を少しでも可愛いと思ってしまった僕はダメな人間なんだろうか。
 いやまあ、さすがにここで百個も注文するのは無理だが……確かに、今回の責任は(ほんの少しだが)自分にもあると見ていい。ここはなにか、たった一つでも彼女たちのために注文しておくべきだろう。なにがいいか。
 ……でも、僕そんなにクレープ要らないんだよなあ。今はそれよりも飲み物が欲しくって……でも、さすがに水とかだと怒られるかなぁ……
 あ、そうだ。

「仕方ないね。百個とか一年分とかはさすがに無理だけど、ここでなにも注文しなかったら僕最低だからね。注文するよ」
「ようしっ! さぁなんでも来い! 今ならフルスピードで『スペシャル・デラックスチョコレート』を何個でも仕上げて見せますわ! さぁ……何個注文するんですの!? 十個!? 三十個!? それとも五十個!? 買い出し要員もきちんと配置済みですから、そのあたりの心配はいりませんわよ!」
「うーん……えーっと、ね」

 もはや逆に自分がスペシャル・デラックスなテンションになってしまっている笹瀬川さんを、僕は可愛いを通り越してちょっと怖いなと思いつつも、それを綺麗にスルーして、腕を組んで少し考える振りをする。
 もう注文するものは決まっている。
 今の自分が一番欲しいと思うもので、なおかつ、そんなにひんしゅくを買わないで済むだろうというもの。
 すなわち、それは――

「お茶」

 だった。

 

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