お芝居の音が、とても遠くから聞こえてくる。
 長ったらしいセリフ。なにを言っているのか、さっぱり聞き取ることができない。
 スピーカーから洩れる煌びやかなBGM。僕にはそれが、確かに『煌びやか』だと判断することができたが、肝心の音は儚く、そして遠い。まるで、かりかりに壊れかけた小さなオルゴールのよう。
 観客の声や拍手だけは、一歩一歩近づいてくる処刑人の足音のようにも思えたが、それもやがて一瞬の後には消えていく。
 すべてが遠い。
 現実の感触はなく、どれもは抽象で語られる。
 そこにはなんの実体もなく、ただあるのは、実体を模しただけの虚ろな霧とひとひらの苔くずのみ。
 世界は白く、固く、冷たく、そして優しく……僕をそこに閉じこめる。
 僕は……なにもできなかった。

 「答えを出せ」……なんの?
 「行ってこい」……どこに?
 「人は前に進むべき時が」……いつ? なぜ?
 
 色褪せたままの先ほどのやり取りが、頭の中に反芻される。
 僕はたどたどしくとも、それらすべてにそんな質問を返してみせるが、それを聞いた謙吾はなにも告げぬまま、背を向けて去っていってしまう。
 そしてやがて一人うなだれた僕が、またこの場所に帰ってくる。
 繰り返される自問自答。
 埋もれてゆく体。
 やすらぎと恐怖で包まれた、この小さな檻に向けて。
 ただ、堕ちてゆく。

 ――なにが、いけなかった。
 
 わからない。

 ――僕は、どうすればいい。

 わからない。

 ――なぜ、僕はここにいる。

 わからない……
 
 堕ちてゆく。
 答えをくれるものは、なにもなく。
 なにかの答えすらも、きっとそこには存在しない。
 ただ僕は、その懐かしい暗がりへと、身を委ねていく。
 時折頬を撫でる柔らかな影に、不思議と温もりを感じながら――
 僕は――

「りきくんっ――――!」

 がたっ!
 誰かに肩を強く揺さぶられ、僕は暗がりから引き戻される。
 唐突に色が戻ってくる世界。
 けれど心はまだ少し、灰色のままで。
 僕は、僅かな気だるさを頭に感じつつも、顔をゆっくりと上げていくと――

「――こまりさん?」
「ほわあっ! 起きた!」

 びっくりしたように体を仰け反らせ、僅かにバックステップを取る。
 そして、鈍い激突音。
 直後、背中の腰の部分を押さえてうずくまる小毬さん。
 その隙間から前を覗くと――そこには、重くて固そうな木製のテーブルがあった。
 
「は、はふうぅぅ……ふ、ふかくっ!」
「いやまあ……なにやってるの?」
「うぇぇ〜ん、いたいよぉぉぉ〜〜」
「いや……聞いてよ。てか、大丈夫?」
「うぇぇ、う、ううっ……う、うん。ちょっと、こ、腰打っちゃったけどね……えへへ」

 ……目の前に居たのは……ちょっと恥ずかしそうに頬を赤らめて笑う、小毬さんだった。
 また少し……世界に色が付け足されて、周囲の風景が出来上がる。
 きょろきょろと周りを見渡すと、どうやらここはステージ横の控え室の中であるらしいということがわかった。
 ……ああ、思い出した。僕はあれから、ふらふらとこの控え室の中へ戻っていって、ちょうど壁際に置かれてあった長椅子を見つけて、腰かけて――そして、それで。
 
「理樹君、どうしちゃったの? なんだか、すごい元気なかったよ? ……あ、もしかして緊張しちゃってるのかな? だとしたらだいじょ〜ぶっ! ほら、お菓子食べて元気になって! そうじゃなかったら前向きマジックだよーっ! 自分の嫌なこととか、つらいこと、心配なこと、ぜ〜んぶ吐き出して、『ようしっ!』って言うんだよ〜。はぁ〜なむなむなむ……ライブ緊張するし〜、遅刻しちゃうし〜……まだギター不安なとこたくさんあるし〜、そのせいでお菓子たくさん食べすぎちゃって、昨日の夜体重が1キロ増えちゃってもうどうしようも……って、はうっ!? こ、ここ、これはぁ―――っ! あの、その……これはぜんぜんちがくてぇ――――!」

 ――ずっと考えてた……って、なんだこれ。
 小毬さんがなぜか一人で、顔を真っ赤にしたままアワアワと謎のダンスを踊っている。
 僕が呆然と、その哀れな小毬さんの哀れな挙動を眺めていると……やがてピタッとこっちを見たまま固まって。
 
「聞いた……?」
「いや、なにを?」
「私の体重が、1キロ増えてたって……ことっ」
「……いやまあ、まさに今聞いちゃってるけど」
「ほわぁ!? そうだ!? ……ふ、ふぇぇ、ふぇぇえ―――ん! やっちゃったぁぁぁ――――!」
「いやまあ……」

 ガチ泣き状態のまま、頭を押さえてグルングルン唸っている小毬さんを見て、僕は少し冷や汗を足らす。
 ……なんていうか、うん。とりあえず小毬さんは、依然変わりなく、可哀想な小毬さんだってことだ。
 半狂乱になりつつ「ま、まぢで痩せなきゃ……え、ええと、とりあえず今日の夜のお菓子は抜いて、それで明日も、明後日も……も、ももも」と呟いてる小毬さんを尻目に、もっと広く控え室を見渡してみる。
 左には、台本を確認しながら、出番を今か今かと待っている謎のライダースーツ男が見えた。……なんの劇なんだ一体。
 右側の、階段がある通路では、今も忙しなく色んな人たちが行ったり来たりしている。
 対面の長椅子には、葉留佳さんと来ヶ谷さんがそれぞれギターを持って座っている。どうやら二人でお喋りをしながら、簡単な練習をしているようだ。
 そして最後に手前の方に視線を戻すと、そこにはやっと落ち着きを取り戻した小毬さんが、どこかすがる子犬のように、濡れた瞳で僕のことを見上げていて――

「ねえ……ゆー」
「な、なに?」

 どこかしっとりとした声で話しかけられたため、少し聞き返すのにつっかえてしまった。
 一体何事かと、息を飲んで小毬さんの瞳を見返すと。

「聞かなかったことにしよう? ……うん、聞かれなかったことにしよう。はい、これで万事解決です」
「いや、小毬さんはそれで解決しちゃダメなんじゃ?」
「はうっ! そうだったぁ――! ダメだよぉぉ〜〜解決しちゃぁ――――! うあぁ――――――んっ!」
「いやまあ……」

 僕の膝の上に頭を押しつけてグリグリグリグリ……と、まるで、よく人様に頭突きしてくるアホなわんこのようだった。
 「現実を見よう……小毬さん」と頭をなでなでしてやると、唐突にがばっ! と弾かれたように顔を上げて、こっちを細めた目で睨んでくる……今度はなんだ?

「はう……忘れてたよ〜。私のことなんかどうだっていいんだよ〜」
「どうでもいいの? 体重」
「はわっ! ほ……ほほ、ほんとは、よくない……っ! ぜんぜんよくないけど……っ、ううん、今は、それよりも大事なことがあるんですっ!」

 そう言って自分の顔の前で拳をぎゅっと作り、精一杯とがらせた目つきでこちらを睨んでくる小毬さんは、もはや体重を気にして悩んでいるような平凡な女の子ではなかった。……いや、じゃあどういう女の子ですかと聞かれても返答に困るが。
 そんな小毬さんは少し考え事をするように顔を俯けた後、「うん」と一度頷いて、すくっと立ち上がる。
 一体なんだろう、と思ってそれを見上げていると、小毬さんはくるっと背中を向けて、その直後スタスタと向こうに歩いていってしまった。
 ……わけがわからなかった。
 彼女は一体なにがしたかったんだ、と本気であの人の知的なんたらについて悩み始めた瞬間――それはやっぱり、ただの杞憂に過ぎなかったことに気づく。
 小毬さんは、葉留佳さんたちの隣に置いてあったギタースタンドから一本のギターを手に取り、そのままこちらに軽やかに駆けてきた。
 だが軽やかといってもそれは足取りだけで、その顔は一向に難しいままだったのだが。
 小毬さんは自分のギターのストラップを肩にかけて、僕の隣へおもむろに腰掛けてくると、依然としてこちらを睨んだまま……「ちゃらぁ〜ん」と一度弦を鳴らしてみた。
 
「チューニングはしてあるよ」
「はあ」

 ……だから? と僕が問い返す前に、小毬さんは続けて「ジャカ〜ジャカ〜ジャカッ、ジャカチャララララ〜♪」とあるギターリフを弾いていく。……これは、確か『Alicemagic』のメインリフだ。ほんとに難しいんだよ〜。こんなのできるわけないよ〜。はううっ、お菓子食べたい……とかなんとか言って泣きながら練習していたのを覚えている。
 だが、それがなんなのだろう? と僕が疑問に思いながらぼんやりとその演奏を聞いてると、小毬さんは続けて別のリフも弾きながら、口を開いて。

「理樹君、本当におかしいよ?」
「……いや、なにもそんないきなり全否定しなくても」
「はわわ、そ、そうじゃなくってぇ〜……う、う〜ん、なんか、すっごい元気ないというか……やつれてるというか……」
「む……」

 心配した眼差しでこちらを見つめてくる小毬さん。……その、不安を含ませた瞳と、やつれているという一言に、僕は返すものをなくしてしまう。
 純粋に自分を気遣ってくれているような小毬さんに、僕は先ほどのことを思い出して、再度顔を俯かせる。
 ここで誰も隣にいなかったら……いてくれなかったら、また僕は先ほどと同じような状態になっていたのかもしれないが――

「――きっと、ライブの緊張のせいじゃないよね? 理樹君、本当はあんまり緊張するような人じゃないから。……だからきっと、なにか悩みがあるんじゃないかな? ほら、私でよければ……そ、その、き、聞いてやりゅぜっ……あう」
「小毬さん……」

 ……なぜ、最後だけ口調を? あと、思いっきり噛んでるから。と、ツッコみたくなる衝動を抑えて、僕は小毬さんの言葉に静かに耳を傾け続ける。
 
「はう〜……理樹君さ、本当に変だよ〜? というか顔……ひどいよ?」
「いや、なにもそこまで言わなくても……僕、イケメンじゃないのは自覚してるけど、さすがにそれは……」
「はわぁ――っ! だ、だから違うよぉぉ〜〜! り、理樹君はかっこいいよ! うん、これホント」
「はあ……あ、ありがとう」

 小毬さん的にそこは譲れない点だったのか、いささか強い姿勢で反応を返される。思わず少々たじろいでしまった。

「ふう、も〜……って、ああっ! また私恥ずかしいこと言っちゃってる!? あうう〜〜……は、恥ずかしい〜……って、理樹君今の本当はわざとでしょっ!?」
「あ、うん……ごめん」

 ぷく〜、と思いっきり頬を膨らませて、かわいく怒った様子を見せる小毬さん。いや、面白くてついやってしまったのだが、ばれてしまったか。小毬さんもなかなか手ごわくなってきたね。うんうん。

「もうっ! は〜……もー、理樹君って本当に最近、そうやってなんでもはぐらかしちゃうでしょ〜。……私たちだってね、ちゃんと理樹君の力になれるし、なりたいなって思うんだよ〜。そういう『仲間』でありたい、って思うんだよ〜。……理樹君の目指してる『強さ』っていうのが、一体どういうものなのかとか、そういうのは難しくて私にはよくわからないけど……でも、そうやって自分一人でどうにかしちゃおうとしてる理樹君を見てると……私たちだって、ちょっぴり寂しいなって思うんだよ〜……」
「小毬さん……」

 ……半分くらいは、小毬さんがベストなタイミングでボケてくれるせいなんだけど……ということは思わない。いや嘘。ちょっと思ったが、すぐ頭の奥にしまい込んでもみ消した。
 指を組んで、少し前のめりになるように顔を俯かせて、考える。
 ……自分一人でどうにかしてしまおうとしている僕……確かに、そうかもしれなかった。
 このことを誰かに打ち明けよう――なんてことはこれっぽっちも考えなかったし、そもそもこれはそんなことをしていい問題でもないと思っていた。自分一人で答えを出すことが、その責任でもあり義務でもあると。
 そんなやり方が、自分の今考えている『強さ』とどういった関わりを持つのか……それは僕でも判断できかねることだったが……確かに、自分は昔とはだいぶ変わったと思う。……たとえそれが『強くなった』ことの結果だとして、それで親友たちに心配をかけていたのでは元も子もないというのに。
 ならば小毬さんは、あの笹瀬川さんにも……もしかして同じことを言ったのだろうか。一人で頑張らないでくれと。もっと自分たちを頼ってくれと。……そんな君を見てると、寂しいのだと。
 笹瀬川さんは……果たしてそれに、どう答えたのだろうか。
 ……そうだ……笹瀬川さんだ。
 一体、あれからどうなったのだろう。
 聞かなければ……笹瀬川さんのことを。
 小毬さんは、たしか笹瀬川さんのルームメイトで、だから当然その様子を詳しく知っているはずで、それで今日の朝は遅刻して――

「小毬さん」
「ん? なに? やっと話してくれるようになった? ……あ、ちょっと待って。ピックピック」

 僕の真剣な声色になにかを感じ取ったのか、小毬さんはそれまでなんとなく続けていた演奏を止め、ピックをギターのローフレットの方に挟み込んで落ちないようにしてから、ゆっくりとこちらを振り向いた。
 ……僕は、笹瀬川さんのことが知りたい。
 なんでもいい。今なにをしているのか。元気は取り戻せたのか。朝ごはんはちゃんと食べられたのか。……小毬さんの問いに、なんて答えたのか。
 小毬さんなら、なにか知っているはずだ。
 本当になんでもいいんだ。……どうか僕に、教えてくれ。
 そんなはやる気持ちを僕はどうにかして心のうちに抑えつけながら、その一言にすべての感情を凝縮させるようにして……重く、口を開き。
 
「笹瀬川さん……どうだった?」

 聞いてから、きょとんとする小毬さん。まさか質問が質問で返ってくるとは思ってもみなかったのだろうか。確かに昔から『質問を質問で返すな』などと言われてはいるが、僕はここでそんな形式ばった会話を繰り広げるつもりなどさらさらなかったし、ぶっちゃけ今はそんなことどうでもよかった。
 できることなら、今すぐにでもここから飛び出して、女子寮にある笹瀬川さんの部屋へと駆けつけてしまいたい。……僕はそんな無茶な考えを、自分の膝を押さえ込むことによって内面へと縛り付ける。普通に犯罪だからではない。ただ今は冷静に話を進めようと思ったまでである。
 ええい……早く答えてくれ小毬さん。もういい加減、僕も我満できなく――

「さーちゃん……が、どしたの?」
「……それは、まさに僕が聞きたいところだよ、小毬さん。笹瀬川さんが今どうしてるのか……教えて欲しい」
「あっ! も、もしかして……さーちゃんの様子がおかしかったのって、まさか――」

 小毬さんはそれを聞いて、頭の中でなんらかの答えに行き当たったのか、ふるふると震える指を僕の方に差し向けてくる。
 ああ、そうさ。それは昨日の謙吾の件が原因だ。
 別にそれを自分が今すぐ解決できるなんて、そんな自惚れたことを考えてるわけじゃないさ。ただ僕は笹瀬川さんのことが心配で、だから、とりあえず様子を知りたくって――

「――まさか理樹君のせいだったのっ!?」
「うんそう――――……って、は?」
「り、りりり、理樹君っ! 一体さーちゃんになにしちゃったの!? ……ま、まま、まさかっ……え、えええっちなこと、とか」
「は、はぁ!? ちょ、待って……えっちなことって、具体的にどういう」
「わぁ―――――――っ!? そ、そんなの知らないよぉ〜〜――――っ! と、とにかくっ、理樹君とさーちゃんは……その……こ、コレだったんですね!?」

 小毬さんは顔を真っ赤にしたまま、ぷるぷると震え立つ小指を僕の眼前に持ってくる……いや、あんたはオヤジか。
 ……い、いやいやいや……つ、つい男性のしょーもない使命感に囚われて、小毬さんの言うことの具体的内容を聞いてしまったが、今はそんなことどうでもいい。
 てか、なんでそーなる。一体笹瀬川さんは、この可哀相な子になにを言ったんだ。
 僕は脳内にそんな大量の呆れ玉菌を分泌させつつ、なるべく小毬さんをこれ以上動揺させないように――

「いやまあ、とにかく違うから……大丈夫、なにもえっちなことはしてないよ」
「はえ? ……は、はぁ〜……ふうう。よ、よかったよぉ〜。……ううう、うん、もし理樹君がさーちゃんになにかしてたんなら、ちょっとこのギターでぶっ叩いちゃおうかなって思っちゃうところだったよ〜」
「……」

 ……もしかして僕は、危うく小毬さん流ジミヘンビートの餌食にされるとこだったのだろうか。正直シャレにならない。
 掲げたギターを、なにかに決意したように目を細めて眺め続ける小毬さんに軽く冷や汗をたらした僕は、身の危険を感じつつも、敢えてその部分にツッコんでみることにした。
 
「小毬さん……それで、笹瀬川さんのことなんだけど。帰ってからちょっと……その、部屋で落ち込んでたりとか、してなかった?」
「え? あ、ああー……う、う――ん……これ、言っちゃっていいのかなぁ……」

 もうそれで、半分くらいは言ってしまったようなものだが。
 腕を組んで難しそうに唸っている小毬さんを前にして、もうほぼ確信に近いぐらいの解答を得た僕は、さらにその続きの話をしてもらうために、ここからは別のアプローチを試みてみることにする。
 ……これで少し、僕自身の『答え』に近づけるだろうか、なんて淡い期待を胸に秘めながら。……後ちょっと、ついでに小毬さんへの罪悪感も心の隅っこに秘めながら。ごめん小毬さん。許して。
 
「小毬さん……そういえば、今日遅刻したよね」
「はう!」
「理由……結局聞けなかったんだよね。そのまますぐに準備始まっちゃったから」
「はうう……」
「ほかのバスターズの子たちはすぐ理由を話してくれたんだけどね。ちょうどいい服が見つからなかったのと、寝坊だって。……怖いね。ちゃんとその日のうちに用意しておかないからだよ。服と、目覚まし。……まあ、もう過ぎちゃったことをこうやって後からほじくり返すのは好きじゃないし、よくないとも思う。けれど、ちゃんとその原因と責任は明らかにしておかないと、後味悪いしね? いや、本当は僕だってやりたくないよ? でもそれだけじゃ納得のいかない子も出るかもしれないから、一応聞いておこうかと思って。リーダーだしね、僕? だから、聞いてみたいなって。聞いとかなきゃなって。てか話して欲しいなって。ぶっちゃけ話してくれないと僕また落ち込んでダークサイドに転落するからその時の空気がとんでもなく悪くなるのはどうしようもないし当然保障なんか絶対できるわけがなくってだから――」
「わ、わわわ、わかった! わかったよ! 話すね!? 話せばいいんだね!?」
「やったー」
「……ううー」

 小毬さんは、僕の形だけの棒読みガッツポーズを前にして、なんだか見てはいけないものを見てしまったような表情を浮かべ、長い長いため息をついた。
 僕は正直あの小毬さんに対して、この十三の直枝流説得術の一つ、ネガティブ直枝マシンガンを食らわせることに少々心を痛めたが……けれどその対価を考えれば、やはり止むを得ないことであった。
 そうだ。僕は……笹瀬川さんの様子を、どうしても知りたいんだ。
 それで僕自身の『答え』についてなにか光明を見出せるかもしれない……と思ったのは確かだったが、僕はそれよりも、ただ純粋に笹瀬川さんのことが心配だった。
 ただ心配で心配で……しょうがなかったんだ。
 先ほども同じことを考えたが……できることなら、今すぐにでもあの人の傍に行ってやりたい。駆けつけてやりたい。そこでなにができるかはわからないが……とりあえず、今はあの人の隣にいてあげたかった。たとえ迷惑だと言われようと。たとえ彼女に嫌われようと。……いや、やっぱり嫌われるのはちょっと困るが。
 だから僕は、どうしても笹瀬川さんのことを……って、あれ?
 不思議だ。
 なにか、おかしいぞ。一体なんで、僕はそんな矛盾みたいな――

「はぁ……も〜、本当に理樹君はさーちゃんのことが心配で心配で、――――……いや、ううん、違うね。多分……そうじゃないね。きっと理樹君は、『大切』なんだね〜。理樹君は、さーちゃんのことがとっても、と〜〜っても……『大切』なんだね。……うん。だからそんな理樹君になら、私はきっと話しても大丈夫って思うんだ」
「あ、う……うん。そ、そうかな」

 そんな小毬さんの言葉に、僕は胸の奥のあたりがチリリと痛むのを感じながらも、どうにかそれを我慢して、続きを話してもらうように視線で促した。
 小毬さんはしばらく手元のギターに目を落としていたが……やがて覚悟を決めたのか、おもむろにローフレットのところからピックを取り外し、再びギターの演奏を始めた。
 ……少し拙い印象もある、簡単なアルペジオだった。
 だけれどその穏やかな一定のリズムは、まるで子鳥がさえずるララバイのように響き渡り、その場の空気とは裏腹に、そこに座る人間たちの心を優しく包み込む。
 やがて小毬さんは、そのギターの音色にも負けてしまいそうなくらい、小さくか細い声で、言葉を紡いでいき――

「――さーちゃんもね、理樹君と同じような感じだったの」
「え?」
「……ひどい顔だったんだよ〜。……さっきの理樹君も、もちろんすごかったけど。……ん……えっとね、昨日私が部屋に戻ってきたら、部屋の中、電気とかなにもついてなくて……んむ……すごい真っ暗で……だけど、そこにいたさーちゃんは布団を被ってたりはしてなくて……自分のベッドのところに、一人でちょこんと座ってたの。どうしたんだろ〜、と思って顔を見てみたら……なんか、さーちゃん、ここじゃない違うどこかを見ているみたいで……、……それで、怖くなって『さーちゃん!』って呼んでみたんだけど、なんの反応もなくて……慌てて肩を揺さぶってみたら、まだぼんやりとした感じだったけど、起きてくれたんだ」
「……」

 感情を込めながら喋るのでは、手元の動きもままならないようで、ところどころでギターのリズムが崩れてくる。
 けれど止めない。
 途中で間を置いて強引にリズムを引き戻しながら、小毬さんはゆっくりと語り続ける。
 ふと……このギターは、もしかしたらこのために用意してくれたんじゃないかと思えて。
 それぐらい……その柔らかな旋律は、僕の崩れ落ちそうな心をしっかりと支えてくれて。
 だから僕はまだ、この場に居続けることができた。

「とりあえず私は、みんなを呼ぼうと思ったんだけど……さーちゃんは、呼んで欲しくないって言ったから、止めたの。だからみんなは呼ばないことにしておいて……ごはん作りながら、色々事情を聞いてみたの。……、……でも、話してくれなくて。ただ今日は、あなた方に色々連れまわされて、疲れただけです……って。……そんなのが嘘だってことぐらい、私でもわかるよ〜」
「小毬さん……」
「さーちゃん部活で疲れたときは、もっと生き生きとしてるもん。……どうして、理樹君もさーちゃんも、大事なこと、私に話してくれないのか……それ、なんとなくわかるよ。……でも、……でもね、私だって、さーちゃんの力になりたいし、もしかしたらなれる力なんてないかもしれないけど……でも……話して欲しいんだよ〜。ちゃんと、お互いを支え合える『仲間』でありたい、って思うんだよ〜。……『仲間はずれ』は、いやなんだよ〜……い、いや……なんだよぅ〜……」

 言ってから小毬さんは一度演奏を止め、目元をごしごしとこすった。
 はぁ〜なむなむなむ……なにかの呪文なのか、そう早口で口ずさんで、鼻をスン、とすする。
 ……僕は、そんな様子を横目で見ていて。
 思わず、口を開いていた。

「ごめん」
「……りきくん?」
「ごめん、小毬さん。ごめん……ごめん。僕、ほんとに馬鹿だから……そういう小毬さんの気持ち、ぜんぜん気づけなくって……えと、だからその……ごめん」

 上手く、似合う言葉が出てきてくれない。
 これでは一体どういう意味での『ごめん』なのか、わかってもらえないだろう。
 でも……本当に言いたいことが、なぜかちゃんと言葉になってくれなくて。
 僕はただ、それしか口に出すことができなかったけれど。
 でも、これだけは確かだ。
 僕は――

「僕は――……謝りたいよ。本当にごめん、小毬さん。『仲間はずれ』なんて、本当はそんなつもりじゃなかったんだけど……確かにその通りだ。僕は……どうして、そんなつもりじゃないのに……そういうことをしてしまうんだろう。……色んなものを取りこぼさないように強くなったはずのに、こぼれるものは……増えてしまった気がする」

 間違っていた……とは、思わない。
 けれど、この道は……正しくなかった。
 道を選択をした覚えはない。小毬さんを泣かせる気なんてなかった。ただそうならないように、僕は僕なりに……なんとなく道を歩いてきたんだ。
 だからこそ。
 だからこそ僕は――そんな僕を、許せない。

「どうして……気づけなかったんだろう。……僕は、ただみんなに余計な心配をかけたくなかっただけで……ライブがあるから、今はあまりみんなに問題を抱えて欲しくなかっただけで……だから僕は、自然にそうなるように行動したんだと思う。そして、その結果が……これだった」
「……ふえ? ってちょ、り、理樹君っ」

 手を小毬さんの頭に乗せて、ゆっくりと撫でてやる。
 その栗色がかった髪は、まるで絹糸のようにしなやかで、僕の指の先を柔らかく滑らせていく。
 小毬さんは最初こそ恥ずかしそうにあたふたしていたが、やがては段々それに気持ちよくなってきたのか、安心したように目を細めて、ぽすんと僕に身を預けてきた。
 ……なんだか、懐かしい。
 小毬さんとこんなことをした覚えはないが……、この『空気』。
 不思議と……心が安らぐ。
 今なら、語れる気がする。
 この人なら……親友たちの力になれない悔しさで、涙を流してくれたこの人なら……きっと、語れるかもしれない。
 そう思った途端、僕の口は……自然に開いていった。

「僕は、わからないんだ」
「え?」
「……好きな人がいるんだ。その人は強くて、優しくて……一緒にいると、楽しい。けれど僕は……本当にその人のことが好きなのかどうか、わからないんだ。……僕が見ているのは、もしかしたらその人の一面かもしれなくて、すべてを知った後も好きになれるかどうか、自信がない。……いや、違うかな。自信がないわけじゃないんだ。たとえその人のすべてを知っても、僕は好きなままでいられる自信がある。けれど……怖いんだ。今が幸せすぎるから。もうそれだけで、僕は幸せなんだから……それ以上好きになって、なにかが変わってしまうのが怖い。……今のままでいたいんだ。恭介や、小毬さん、鈴、真人、葉留佳さん、クド、西園さん、来ヶ谷さん、二木さん、謙吾……そして、笹瀬川さん。みんながいて……みんなと遊んでいたいんだよ。でも……やっぱり僕はその人が好きで好きでしょうがなくって……なのに好きだって声にも出して言えなくて、だからこそ僕は……死ぬほどそれが、怖いんだ」

 怖かった。
 それが、あの闇の正体。
 言ってしまえば……なんてあっけない。
 僕はただ……臆病になっていただけだったんだ。
 好きなのに、好きだって言えない。今までの関係が変わってしまうことが怖くって、言い出せない。そんな……まるで普通の中学生が持つような、どこにでもある、青臭い恋の悩み。
 僕はそれをただ、大人ぶってロマンティックに語っていただけだったんだ。
 なんて……馬鹿らしい。
 本当に馬鹿だ……僕は。
 言ってしまえばいいさ。恐れるな。ぶち当たれ。当たって砕けろ。変化を恐れるな。それじゃなにも始まらない。いつまで経っても変わらない。
 小毬さんは……そんなことを言うのだろうか。
 ……きっと、それもいい。
 けれどそれじゃ、僕はきっと、ここから抜け出すだけの勇気は持てなくて――

「――確かめればいいんだよ」
「え、――」
「理樹君が、本当にその子のことが好きなのかどうか……会って、確かめればいいの。そうすれば怖くないでしょ?」
「え……で、でもっ」

 ――予想もしなかった反応に、驚いた。
 ……けれど、今はそんなことをしている場合じゃない。
 僕は今から、ライブに出るためにどうにかして答えを出さなきゃいけないのだし、そもそも彼女とは今、会えるはずもなくて。……って、あれ?
 またしても不思議だ。
 さっきもそうだったけど、一体なんで僕は……そんな矛盾してそうなことを考えて――

「大丈夫、だよ」
「あ……」

 小毬さんが、笑ってくれた。
 あのいつもの、小毬さん流ミラクルハッピースマイル。
 少し寂しそうな……そしてどこか悲しそうな、そんな要素がちょっぴりブレンドされた、見る人の心を動かす、小毬さんにしかできないスーパー笑顔。
 ……少しずつ、世界の歯車が、

「さーちゃんは、今ちゃんと学校に来てるよ」

 回っていって。

「会って話せば、きっと理樹君は答えを出せるよ」

 かしゃり、がしゃりと。
 さび付いた鉄くず同士が、鈍く重なり合って。

「怖いのは、みんな同じ。……だから、一度は逃げてもいい。忘れてもいい。そうやって、誰かに頼ってもいいから」

 やがて隙間に油が差され、だんだんとスピードが速くなって。
 ゆっくりとその回転は、世界全体へと伝わっていく。

「いつか最後に……思い出して、目を開けることができれば――それでいいんだよ」

 今確かに僕は、世界へ――

「……だよね? 理樹君」

 ――帰っていった。 

 

 第34話 SSメニュー 第36話

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