目が、覚めた。

「……ん」

 むくりと上体を起こす。
 枕元にあった時計を見ると――6時、すぎだった。どうやら、あのうるさい目覚ましベルが鳴る前に起きられたようだ。淀みない動作で、僕は目覚ましのスイッチを切る。
 不思議と体に倦怠感はなかった。まるで数時間も前から起きていたかのように体の節々が軽い。瞳の奥も、寝起き直後にしてはとてもスッキリとしている気がする。
 シャッ、と窓のカーテンを大きく開いてみれば、その奥にあるのは、淡い橙に滲むような明け方の空。昇ってくる朝日に目が眩むこともなく、綺麗な朝焼けを拝むことができた。
 とりあえず顔を洗おうと僕がドアの方に足を向けると、そこでカチャリ――……とドアノブが静かに回って、目の前にある扉がゆっくりと開かれていった。
 そして、寝ている誰かさんを起こさないように――といった様子で、そろそろと部屋に体を滑り込ませてきたのは、

「……ん? おお、理樹じゃねえか。早ぇな」

 いつもの通り、一番早起きの真人だった。

「うん……なんか、自然に起きちゃったみたい。おはよ真人」
「おう、おはよう」

 シャカシャカとかすかに音が洩れてくるイヤホンを取って、真人がニッと笑いかけてくる。
 こんな日でも朝のトレーニングを欠かさない親友を僕は心の中で苦笑混じりに賞賛しながら、それと同じで、不思議にも、ずいぶんと心が落ち着いている今の自分に気づいて、少し変な気分になってしまう。
 どうやら、お互いに気合いは十分なようだ。
 それはこうやって、些細な間にも曲を体に染みこませようとする真人からも見て取れたし、起きたばかりなのに今日のスケジュールを頭の中で自然と整理できてしまっている僕も、まさしくそうなのだろうと思った。
 真人は胸ポケットから電源を切ったウォークマンを取りだし、ケーブルをぐるぐるとそれに巻き付けながら。
 
「んじゃ俺、ちょっくら飯の前に筋肉シャワー行ってくるからよ」
「そんな不気味なシャワーどこにあるのか知らないけど、いってらっしゃい。僕顔洗ってくるね」
「おーう」

 そうやって、いつものように簡単な挨拶をして部屋から出て行く。
 「今日は頑張ろう」なんていう陳腐な言葉は、僕ら二人のあいだには自然と出てこない。
 多分それは、今の僕らにはまったくもって必要のない言葉だから。
 ただいつも通り。
 そんな変わらない真人とのやり取りが、僕の心を不思議と落ち着いた気分にさせた。

 

 

 

「――よう、おはよう。……ふむ、ちゃんと時間通りに起きてきたな。感心だ」
「あ、おはよう謙吾。そっちも早いね」

 洗面所へと向かう廊下で、正面からやってきた謙吾と出くわした。
 ここで会ってみてすぐわかったが、向こうも真人同様、もうとっくの前から起きていたようだ。その証拠に、こめかみには幾ばくかの汗が滲み、手にはしっかりと竹刀が握られている。

「もしかして、素振りとかやってきたの?」
「ああ。たとえこんな日だろうと、日課だけは欠かせんのでな。晴れて剣道部に復帰したとき、宮沢君はずっと休んでいたので使い物になりませんでした、じゃ話にならんだろう」

 そうして、はっはっは、と豪快に笑う。
 僕は、その謙吾の粘り強い精神面にいたく感心させられたのもそうだったが、それと同時に、昨日の出来事の影響を微塵も感じさせないその平静な態度を見て、驚きをやや通り越してちょっと呆れてしまった。したたかなのか、ただの馬鹿なのか。
 けれど謙吾は、そうしてひとしきり笑った後、少し寂しそうな顔になって――

「――まあ素振りは、ついでに自分の気持ちを整理するには、結構いいものなんだ」
「……謙吾」

 囁くように、言葉を一つもらす。そしてすぐ、いかんいかんと首を横に振って、

「……うむ、今日は笹瀬川にかっこつかないところなど見せられんからな。だろう、理樹?」
「え? ちょ、ちょっと……そりゃそうだけど、なんでそれを僕に聞くの?」

 そうやってなんだかわかったふうになってバシバシと肩を叩いてくる謙吾に、僕は体と一緒に頭まで揺らしてしまう。
 わけがわからない――……わけではないが、だからと言って、ここで「うん、そうだね」と軽々しく頷いてやるほど僕は馬鹿じゃないし、馬鹿になり切れるわけでもない。大体その理屈だと、かっこいいところを見せるのは謙吾ってことになるんじゃないだろうか。
 もちろん、それは僕にとっては大歓迎だが。
 謙吾のベースを弾く姿は、見ていてとてもかっこいいし、同姓としても当然に憧れの視線(正常な意味で)を送りたくなる。だから笹瀬川さんにも……まだ諦めないで、ちゃんと謙吾のことを見てやって欲しいと思った。そうすればきっとまた、謙吾のことを好きになれるはずだから。
 うん……だから、それはもちろん大歓迎に決まってるはずで。
 そうだというのに謙吾は、そこで不思議そうに首を傾げて。

「ん? だから俺がベースでかっこつかないと、肝心のお前の評価まで落としてしまいかねんだろう? ということだ。……あいつが見たいと思っているのは、なんだかんだ言ってお前だからな。わざわざ見目を落としてしまってやるのも忍びない」
「は、はぁ!?」

 なにかおかしいか、と謙吾は腕を組んだまま首を傾げてくる。
 いやいやいや、なんてことを言い出すんだ謙吾は。一体なんでそこに僕が出てくる。
 ……い、いや、違う。わかる。わかっている。別に、謙吾の考えとしてはそれほどおかしくないはずだ。
 けれど僕としては、それはやっぱり素直に頷けるようなことではなくて、だからこそこうやってわざとらしく声を上げるほかなくて……あ、あああっ。
 ……せ、せっかく落ち着いていた朝の気分が、またこうして無駄に揺り動かされてしまった。
 ……やはり、このままじゃダメだな。この件は、必ずライブが始まる前にどうにかしないと――
 
「はっはっは、安心しろ! ちゃんとお前がドラムだってことも、あいつに言っておいたぞ」
「え――っ!?」
「うむ、いい顔だ! はっはっは! だが、あいつのことを気にしすぎて失敗するなよ?」
「な、なな、ちょ、ちょっと……謙吾ーっ!?」

 そしてそのまま謙吾は「はっはっはー☆」とアンポンタンみたいに笑いながら、自分の部屋の方へとスタスタ歩いていってしまった。
 ……いや、な、なんてことを……せっかく、ずっと黙っておいたのに。
 せっかく笹瀬川さんに、自分の役割のことをずっと秘密にしておいたのに。
 ううん、まあ……笹瀬川さんに黙っておこうと思ったのはついこの間からで、それまでは、いつか思い出した頃に言えばいいかと適当に考えていたのだが。
 けれど、ある時から……僕は笹瀬川さんになにも言えなくなってしまった。
 それは、どうしてだったんだっけ。
 どうして僕は今、理由もわからないのに「せっかく黙っておいたのに、なんてことを……」と思ってるんだ?
 ……洗面台で顔を洗いながら、考える。
 いや、それはきっと、僕が笹瀬川さんの恋を手伝うことになったからだ。
 だから、これから笹瀬川さんが見てていいのは謙吾だけで。
 僕の役なんかきっと、あの人に伝える価値はこれっぽっちもないと思っていた。
 伝えたって、なにも意味がない。
 だったらせめて、笹瀬川さんにはライブ本番で驚いてくれれば、って――……
 ……
 …………
 ………………うう゛ぉぁー!
 ……い、いや、あほか僕は。一体なにを考えてるんだ。
 もう自分でもわけがわからない。
 わかってたまるか、くそうっ。
 
「……う、うう……」

 洗い終わった顔を、タオルでごしごしと拭く。
 ふとそこで、鏡に映った自分の顔を見てみれば、いやまあなんていうか――……

「……なんで思いっきりニヤケてるんだよ、僕は……!」

 本当にわけがわからなかった。
 
「ちくしょうっ」

 もう半ばヤケになった感じで、蛇口から流れてくる冷たい水の中に頭を突っこむ。
 普段だったらこんなこと、僕は洗面台でやらないのだが……もう今はそんなの関係ない。
 とにかく今は、この自分の馬鹿すぎる頭を冷やさねばならない。そうだ、そういうことにしよう。
 僕はコンマ〇、〇一秒でそんなアホらしくとも尤もらしい理由を作成し、華厳の滝行よろしく、清らかなる山山(イメージ)の冷水で頭をぶち冷やすことにした。あー気持ちいい。
 ……って、んなわけないよ!
 
「……よう、理樹……朝からまた、ずいぶんファンキーなことやってんな……」
「あ、恭介――……って、にょぇ!?」

 めずらしい恭介の暗い声に反応して、ぽったぽた水が滴る髪の毛をタオルでフキフキしながら振り返ってみれば、

「ん? どうした、理樹……いきなりそんな、車に轢かれたカジカガエルみてーな声出して……盲腸か?」
「……か、かじか……? って、いやいやそんなんじゃなくて……てか、あなた――」
 
 「どーん……」という幽霊の登場シーンに似合いそうな効果音がバックに出てくるくらい、妙にファンキーなアイシャドウをしてくれちゃってる……恭介、さんだった。……具体的には、ぶっとい隈が目の下にありありと浮かんでいる。
 恭介……きっと恭介ならやると思ったけど、昨日絶対徹夜したでしょっ。

「ああ……これか。つい、な」
「つい、で恭介はライブ前夜に徹夜しちゃうの!?」
「ばーか、徹夜なんかしてねえよ……さっき三十分ほど寝たからな。……うむう」
「さ、三十分……」

 ……たった三十分でなにが変わるというのだろう。言葉の定義上の問題か? ……そういえば、昼寝はたった三十分程でもするといいよー♪ とどこかで聞いたことがあったが、先ほどまでは昼どころかまったくもってその反対だったので、残念ながらそれには当てはまらないだろう。
 だから「三十分寝ても結構違うんだぜ。知らねーのかよ」なんて息も絶え絶えながら得意げな顔をしてるこの親友を、一度ぶん殴って早死にする前に無理やり病院にでも連れて行くべきだろうか、と少し本気に考えてみた。
 ……けれど、ちょっぴりその顔にムカついたので、やっぱり今はなにもしないことに決めた。取りあえず反省してよ、恭介。

「いやまあ……そんな時間まで一体なにをしてたのさ。まさかまた漫画とか?」

 冷たくカピカピになってしまった髪をタオルで拭きながら、僕は少し嫌な予感を持ってそんな質問を投げかける。
 すると恭介は、顔を洗って少し回復してきたのか、若干声の調子を戻し、「よくわかったな」などと無駄に朗らかに笑って口を開き。

「当たりだ。……やっぱ理樹は俺のことをよくわかってるよな。もちろん、バンドの漫画を読みまくってたぜ」
「うん……まあ」

 ……当たってしまったことが、こんなに悲しいと思ったことはない。
 恭介は、少し濡れてしまった前髪をタオルで拭きつつ、指でいじくりながら。

「昨日はとりあえず、BE○K全巻読み終えたあたりで限界きちまったが……まあそのおかげで、たくさん理樹達のライブやってる姿を想像できたぜ。ははっ、実は結構いいよな、こういう楽しみ方も」
「いやまあ、昨日興奮して眠れなかったのをそういうふうにカッコつけて誤魔化そうとしてるあたり恭介らしいけど、それ絶対前日にやることじゃないからね」

 ……言いたくないが、言い訳がもう小学生のレベルだった。

「なーに言ってるんだよ理樹。一番テンション上がってる前日だからこそ、こうやって楽しむんじゃないか!」
「あ、ああもう……っ、なんでそこで恭介が熱い視線で語り出すのかわからない……! てゆーかどうでもいいけど、今日は恭介もやること大変なんだから、ちゃんとしっかりしてよねっ?」
「へっ……わーかってるよ。俺だってちゃんと最低限のことは弁えてるんだからな。問題ねーって」

 恭介はそう言って、カラカラと笑いながらシェービングクリームとカミソリで器用に髭を剃り始める。……いや、恭介がそう言うのだから間違いないのだろうけど、いかんせん僕としては体調の方が心配になった。
 しかしまあ、この人に関しては特に、自分なんかが心配してなにかが変わるわけでもないので、僕はそのまま黙って備え付けのドライヤーで髪を乾かすことにした。
 
「ところでさ、理樹」
「んー?」

 ドライヤーの『ぶおーっ』という音に混じって、隣から恭介の何気ない声が耳に入ってくる。
 別にこのままでもなにを言っているのかはわかるので、取りあえず僕はそのまま髪を乾かし続けたのだが――

「あの、笹瀬川のことはどうなったんだ?」
「ぶっ!」

 そんなあっけらかんとした言葉に、僕は危うくドライヤーを手から落としてしまいそうになる。……そしてそれをかなり微妙な体勢でキャッチすると、僕は恐る恐る恭介の方を振り返って。

「……な、なんで?」
「いや、なんでってお前、めっちゃあいつの関係者じゃねーかよ。……どうだ、あいつとは昨日うまくいったのか?」
「うまっ――!?」

 ひっそりと囁くような恭介の細い声に、昨日のあの光景が思い起こされて、ばくんと心臓が爆ぜる。

 ――お前は、理樹のことが好きなんじゃないのか?

 そして、その言葉を聞いた笹瀬川さんは、あ、ああなって、で、こうなって……

「おっ? フッフーン……その怪しい反応を見ると、お前の方も少しは進展したみたいだな。……まあ俺としては、お前には鈴を選んで欲しかったんだが、あいつの方も普段のやり取りを見てる限り、結構いい奴みてーだしな。……それに、お前にも選択する権利はある。俺はいいと思うぜ? 謙吾の奴のこともあるんだろうが……俺は、お前の方を応援してるからな」

 ……そんな、クリームがひっついた恭介の無責任な微笑みに、僕は口をパクパクとしか動かせず、言うべき言葉が見つかってこない。
 ……いや、この馬鹿に言いたいことは山ほどある。だがそれが本当に山ほどありすぎて、一番最初になにを言うべきなのかわからない。ああ、なんてもどかしいのだろう。
 とりあえず恭介には、その無駄にニヤニヤとした微笑ましそうな顔を止めてもらいたい。気味が悪いのもそうだが、こっちだって大変だということをわかってもらいたい。いや、とっととわかれ。この馬鹿。ちくしょー。

「けれどお前も、ライブの方だけは真剣に頑張れよ。女のことを気にしててミスりましたじゃ、さすがに食券100枚程度じゃ済まねーだろうからな」
「い、いや、別に僕はそんな……」

 顔に水をばしゃばしゃとかけ、恭介は鏡を見ながら頬を軽く撫でて……うん、と頷き。

「はっはっは。まあ俺としては少し、そんな未来もありかな……と思うんだけどな。うりうり、こーのカワイイ奴め」
「ちょ、やめてよっ、恭す、うぷ」

 唐突に被せられたタオルの上から、頭をグリグリと撫でられる。
 言ってることも恥ずかしすぎるし、せっかく整えた髪型も台無しになったことで、僕はタオルの隙間から恭介の方を恨めしげに見上げたのだが……
 当の本人はまったく悪びれたふうもなく、むしろ楽しそうに笑いながらその視線を受け流して、「それじゃ、また後でな」と言って去っていってしまう。
 僕は、しばらくボサボサになった頭のままでそれを見送っていたが、よく考えなくても、今ここで恭介になにか文句を言ったって始まらないので、渋々ながら身だしなみを再度整えつつ、静かに現状の分析を始めることにした。

「笹瀬川さん……」

 ……のことを考えると、今も現在進行形で顔が熱くなっていく。
 果たして僕と彼女は……、本当に両想いになれているのだろうか。
 もし仮にそうだとしたら……それは、嬉しいような、嬉しくないような……どこかむず痒いような気持ちになるのだけれど。
 けれど、違う。これは、そんなに簡単な話じゃない。
 もっと歪なカタチでこんがらがった、難易度AAくらいの複雑なパズルのようなもの。
 解く鍵を見つけるには……決して焦ってはならないし、妥協してもならない。
 とにかく、今はできるだけ冷静に、現状の打開に努めなければ。 

「現在の状況……か」

 恭介は楽しそうに笑っていたが……正直、状況はそんなに芳しくない。むしろ悪いはず。相当悪い。
 きっと笹瀬川さんは……昨日の夜、その……多分、とんでもなく落ち込んだはずだ。そして今も、それは続いている。
 だから本当はなにも楽しくなんかない。むしろ僕も辛い。
 でも謙吾は……それでも敢えて、さっきは楽しそうに振る舞おうとしていた。
 それはきっと、僕のことを信用してくれているからだろうか。
 だとしても、それに僕がどう応えるべきか……やはり今のままではなにも答えられない。
 なにか、変化が必要だ。
 現状をどうにかして、変えなければ。
 みんなの意識は今のところライブに向けられている。当然手は借りられないし、こんなこと口に出すべきでもない。
 僕が、……やらなきゃ。
 そしてその頃にはきっと……、僕の気持ちも整理がついているはずだ。
 そう、信じたい。

「……」
 
 時間は、待ってくれない。
 そして今日はその時間を、自由に扱うことも許されない。
 限られている。
 その限られたスペースに、まずは全力を注ごう。
 そういうふうにしか――僕はできない。
 できない――、から。
 やるしかない。

「うん……」

 取りあえずそれまでは……僕は、リトルバスターズとしての僕に徹するとしよう。
 話は、それからだ。

「よしっ!」

 髪型は、ばっちり決まった。

 

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