(三 緋の都市カーメンツィント)

 

 サンたち三人は、カーメンツィントと呼ばれる都市に入った。

 カーメンツィントは城塞都市で、上から見ると円形をしている。あたりは牧草地で、羊が放し飼いにされていたりと、のどかな土地だ。

 城塞は今よりはるか昔に建てられたもので、古色蒼然としている。昔は領主がいたが、数百年前に民衆が革命を起こし、今では長らく共和制が敷かれている。カーメンツィントは今まで一つの国家だったが、百年ほど前に皇国に併合された。今では自治権が認められ、自治州となっている。

 サンたちが到着したのは濃い桃色に染まる夕暮れだった。市を開いていた商人たちが店を仕舞い始め、宿屋の明かりが点けられる頃である。

 彼らを通した門番は、

「近頃物騒だからな。夜の出歩きを強く禁止しているんだ。あんたらも、はやく宿を取れよ。見つからなかったらいいところ紹介してやる」

 と言ったので、フィズィは、

「どこかしら」

 と馬車から顔を出して聞いたので、門番は驚いてにやけた顔を作り、

「ちょっとお嬢さんにはお勧めできないところだな。くら〜い、鍵付きの、石造りのところさ。そっちの二人、どうだい」

「やだ。それって牢屋じゃない。行きましょ、お父様」

「お嬢さん、よかったらオレたちの部屋に遊びに来ない?」

「間に合ってま〜す」

 フィズィは舌を出して、フードをぱっと被ってしまった。門番はちぇっと口を鳴らしていた。

「やんなっちゃうわ。気の軽いお方ね」

「フィズィ。おまえがそうそう顔を出すからだよ。フードを被っていれば、彼らも勘違いしないで済む」

「なによ。すごく窮屈」

 フィズィは溜息をついた。

 サンは、先ほど門番が言っていたことを思い出した。

「物騒というのは、どういうことでしょう。エラズムス」

「ほれ、ロンヌの村でのオオカミ事件があったじゃろう。あれは人為的に起こされた事件じゃった。つまり、盗賊、ということじゃ」

「あそこからだいぶ歩いたのに、ですか」

 エラズムスは髭をいじった。

「わしらもそのことについて不審を感じておる。どうも昨今の世の中は様子がおかしい。ドラゴンが人の里に降りてきて作物を荒らしたり、呪いの術を身に付けた人間が増えたり、死骸がいたるところで見つかったり、とな……」

「それは……」

 サンは聞いたことがあった。アイヴォーンからだ。アイヴォーンがまだ子どもであった時、人類が魔物たちに立ち向かった大戦があったのだと。俗にそれは、大戦(たいせん)、と呼ばれている。

「ドラゴンは人を襲うのでしょうか?」

「襲わない。決して、な。知性あふれる生き物じゃ。いつも良い人間の味方だった。そこんところは、後で詳しく話そう。わしはちょっとこの街に用があるから出かけてくるぞ。二人はあの宿屋、わかるか、あの『鳩の止まり木』亭じゃ」エラズムスは指を差しながら言った。「あそこに泊まるんじゃぞ。エラズムスの名を出せばわかる。いつも空きがある店なんじゃよ。店長とは長い付き合いだし。馬車は、あんなことがあった後だからな、しっかり保管してもらいなさい。ま、大丈夫だろうと思うけどな。それでは、行ってくる」

「お父様!」

 フィズィがたまらず呼びかける。

「いつごろ帰っていらっしゃるの! 私この犯――いえ、こんな男と二人っきりなんていやよ!」街の大通りであることを意識して、サンの顔を見ながら言い直す。

「もしかしたらちと遅くなるかもしれん。いい機会じゃないか。わし抜きでじっくり話なさい。いい友達になるチャンスじゃないか」

 そう言って、エラズムスは次第に濃くなりつつある闇の中へ消えていった。

 フィズィは馬車から飛び降りて、馬を引いているサンに駆け寄り、じろじろと穴の空くほど見てから、腕をかき抱いた。

「部屋は別にしてもらいますからね! あなたは一人で寝るのよ」

「そんなお金はあるのですか」

「ある! 時にはお金はパーッと使うものなのよ! 必要があったらね!」

「部屋は一つだけでいい。私はそこに近付かない。あなたとエラズムスだけで寝るといい」

「あ、あなたはどこで寝るの!」

「馬車の荷台の上で寝ましょう」

 サンは一晩中起きているつもりでした。このような人がいっぱいいる中で気を抜くのは、いつも以上に危険だと思ったからだ。

 敵も、もしいたとしたらだが、まさか荷馬車の中に人がいるとは思うまい、襲われる前に気が付き皆に知らせることができるだろう。

 物騒。

 その原因となるものが、世の中の空気以外に、何かある気がしたのだ。もっと禍々しい、悪意のある何かが。

 それを確かめなければ。

「あなた、本気?」

「はい」

「野宿と一緒じゃない」

「問題ありません。野宿よりはマシですから」

 宿に辿り着き、馬を繋いで挨拶に行こうとするサンに、フィズィは、

「あーっ、わかったわかった!」

「え?」

 引き止めて、彼と一緒に宿に入っていったのだった。

 宿の記帳には、中部屋三名、と記された。

 

「先日私を信用しないと言ったばかりでは?」

「信用できるところとできないところがあるということよ。サン。とにかくあなたはずるい男じゃないと思うわ。この前、オオカミから助けてくれようとしたしね」

「それで同室を希望するとは、あなたはあまりに軽率だ」

 サンは目を覆った。

 部屋の中は暗い。西側に面している窓からは若干の赤い光りが入ってきている。フィズィはランプに火を入れて蓋をした。

 温かい光りが部屋を包む。

「とたんに敬遠されるようになったわね。私があなたを『犯罪者』と呼んだから? その仕返しってわけ?」

「……そんなことが、あるはずがない」

「じゃあ、なんだっての」

 サンは覆っていた手を解いて、じっとフィズィの顔を見た。

「あなたは美しい」

 フィズィは驚いて目を剥いている。

「あまり男を信用するべきでない。失礼しましょう。私は到底あなたに信用されるべき人間でない。このベッドも不似合いだ。荷台の上で寝かせていただきたいのです」

 サンはある不安を抱いていた。先程も思った、「物騒」という言葉の意味。

 皇都に近付いてきているのに何故なくならない? この重たい空気は何なのだろうか。

 サンは、目を(つむ)った。

「そういうわけですので……」

「ちょっと待ちなさいよ」

 フィズィの咎める声が響いた。

「あなたを信用したわけじゃないわ。だって何にも話してないもの。お父様が言ってた、『じっくり話す機会』って、このことかもしれないわね。ねぇ、話してくれないかしら? あなたの目的。どうして『復讐』なんて思いついたの?」

「……」

 彼は目を開いた。

「私に興味などおありか?」

「悪いかしら。確かに一度は頭ごなしに拒絶したけれど、事情がわからなければ、私の落ち度になるじゃない。サン、ね。部屋を出て行ってもいいわ。でも私が私の落ち度を認めたんだから、次は誰の番か、わかるわよね?」

 サンは無言で扉の取っ手に手をかけた。

 しかし、しばらくしてから離した。

「あなたは自分のペースで事を運ぼうとする」

 そうして帯から剣を外し、壁に立てかけ、椅子に腰かけた。

「どうでもよさそうなことに、執着するのですね。最初から」

「酷い言われようね。あなたの方がずっとそうよ」

「申し訳ない」

 彼は笑った。溜息を吐いて、まじまじと彼女の眼を見つめる。

「私は捨て()でした。両親から捨てられ、国の機関の酷い孤児院に入れられ、そこで幼い日々を過ごしました」

 サンは俯きがちに喋った。

「それを見つけて拾ってくれたのが親方で。剣や防具の作成、鍛錬に携わっているのが彼でした。少々頑固で粗暴ですが、子供に優しく、そして思いやりのある方でした。私に剣の扱い方、そして鍛え方を教えてくれたのも彼です。彼は、年老いていました。やがて少し早い寿命が来て、私に話しました。自分にかつて娘がいたこと。それをある男に殺されていたこと。本当に、辛かったと、ただそればかりを泣いて訴えていました。そのとき、私は思ったのです。それをただ聞くだけしかできない自分が、どれだけ恩知らずかと。すぐその男の首を持ってきてやりたかった。そうすれば師匠は、満足するでしょう。なにも、あんなに悲しそうな顔して死ぬこともなかった。私は、無力だった自分に、腹が立ったのです。そうしてそれからは店を閉め、旅に出ることにしました。その男が見つかれば……と」

「見つかったら、どうするの?」

 サンは目を覆った。

「わからない。戦うのだろうか、それとも罪を問い質すのだろうか。もしかしたら、墓前に出くわすかもしれない」

「そう」

 フィズィは同情するように沈んだ声を出した。

「それがあなたの『復讐』ってわけね。でも成功するのかしら? 顔もわからない相手でしょう?」

「周囲の人からも情報を得ました。髭を生やした壮年の男だったこと、剣士だったこと、肩から腕にかけて、黒い奇妙な(あざ)があったこと」

「その、最後の痣が最も特徴的な手がかり、ってわけね」

「つまらない話を聞かせました」

「別に。で、この前までその『復讐』の途中だった、ってわけね」

「今も、かもしれません」

「あんまりそうは見えないわね」

 フィズィは足をぶらぶらさせながら、くすっと笑った。

「はやく終わるといいわね」

「……今、なんと?」

「何でもないわ。ま、好きにやったら? 満足するまで。まあでも、本当にそれで人を殺したら、きちんと罪を償うことね」

「それはもちろんです」

「よし」

 フィズィはベッドから飛び降りた。

「ご飯にしましょ。お父様のことなんか、待ってられないわ」

「あの……私も、でしょうか?」

「当然でしょ?」

「しかし、私は犯罪者です」

「まだ『犯罪者』じゃないわ。まだ人を殺してないもの」

「それでもっ……」

 サンは暢気に部屋を出て行くフィズィを追いかける。

「そう暗いことばっかり考えてると、頭が腐っちゃうわ」

 フィズィは言った。

「私も似たような境遇だから、わかるの。だから今は考えないようにしましょ。今後の予定でも話し合いましょうよ。私たちの目的も少しは話してあげる。お返しにね。特別よ」

「ちょ、ちょっと……」

 彼女は階段を降りて行く。同室の件はどうなったのだろう。サンは後をついて降りて行く。

「そうそう。部屋の件だけど」

 やっと来たか。フィズィは振り返る。

「私に何かしようとしたら火で燃やしちゃうから。熱い、なんて思ってらんないくらいの高温でね。魔王をなめちゃいけないわよ。それと、荷台の上で寝るの禁止。何かあったらすぐ守ってくれないと困るでしょう。言っておくけどね、世界の不安定さは私たち魔法使いが一番よくわかってるのよ。あなた一人がどうこうしたってそう変わんないの。男だったら、どーん、と構えてなさいよ」

 サンはあっけに取られて、言葉が出せずにいた。

 エルフの容貌を持つ者が、これまであけっぴろげな性格を持つことを、今まで全く知らなかったのだ。エルフのイメージは、荘厳で、神聖だったから。

 その食い違ったイメージを、サンは幾分、好意的に受け止めていることは、疑いようはなかった。

 

 エラズムスは戻ってこなかった。

 食事が終わっても、夜、寝る時間になっても、部屋の扉が開けられ、あの懐かしい顔が戻ってくることはなかった。

 おそらく知人に引き留められたりしているのだろう。酒盛りでもしているのかもしれない。サンはそう考え、フィズィに尋ねた。フィズィも、不審がってはいたが、きっとそうなんじゃない? と簡単に答えて、寝床に入ってしまった。

 サンは、彼女が寝床に入ってから、静かに部屋の中に戻ってきた。下の酒場で、ずっとエラズムスの帰りを待っていたのである。夜間ので歩きを禁じられているため、向こうは帰ってこられないかもしれない。

 サンは自分の寝床に戻った。

 なぜか、まったく眠くはなかった。空気がどこか変だ。剣の場所を探してそれを腰にまた下げる。

(今日は眠るつもりはない)

 エラズムスが帰ってこない。ただそれだけでなく、何か不穏な空気が絶え間なくサンの肌を叩いていた。

 ピリピリ、と。

 静かな月夜の中。うごめく何者かの気配がある。徐々に忍び寄ってくる魔の気配。徐々に、北の方から。

 それはただの幻想なのだろうか? 幻想であるはずがない。自分たちは常に気を配らなければならない。そう、寝ているときでさえ。

 徐々にだが、暗闇に目が慣れてきた。

 正面で毛布を被って寝ているフィズィの顔がうっすらとわかる。かすかな寝息まで。

 窓を叩く風の音もわかる。徐々に忍び寄る冷気。月光の曇ったような色。

 サンは、何者かの気配を感じ取った。

 徐々に移動している。空気のように軽く、月の輝きのように朧気だが、確かな存在を。

 サンは夜の冷気を知っていたので、マントを羽織った。

 起こさないように、こっそりと窓を開け、足を枠にかけて、屋根の上に登った。

 そこに伏せて、風を避けるとともに、辺りに気を配った。

 動く者はいない。だがこの中に今、尋常でない存在が紛れ込んでいる。

 そう、サンは気が付いた。

 これは呪いの気配だ。

 かすかに足音が聞こえた。

 そして目を凝らした。

 前方に動くものの影があったのだ。

 そう、それは正面からやって来た!

(何者だ?)

 サンは剣に手をかけて、立ち上がり、相手を待った。相手は屋根の上を、驚異的な跳躍力でぴょんぴょんと移動してきていた。

「止まれ!」

 サンが大声を発すると、その人影はこちらに気が付いたようで、顔をわずかに動かした。

「何者だ! 名を名乗られよ!」

 目的を聞き出したかったが、どうせ答えてくれるわけがないと思っていたサンは、まずそう声をかけた。

 相手の姿形は、よくわからなかった。ボロ布のような破れたマントを羽織っていたせいで、風にそれが煽られ、形がうまくつかめなかった。

 ただ足音で既にサンは判っていた。相手は鎧を着ている。胴体はそうでなくとも、足はなにか重い武具を身につけている。

(何者だ? 鎧を着たまま跳んで屋根の上を移動するなど、尋常ではないぞ……)

 相手は止まったままだ。

「答えぬか。だったらするのは一つだ!」

 サンは剣を構えた。

 すると、相手の影は、――サンの見間違いでなければ――、上部が膨れあがったかのように見えた。思わぬ現象に内心戸惑うサンだが、すぐ、その直後、訪れた現実に、理解が及ぶとともに、魂の底が冷えた。

(あれは……鎌?)

 そう、見たこともないほど、大きく、そして真っ黒な鎌だったのだ。刃の部分が猛獣の胴体ほど大きい。月光に照らされていても、輝きはなく、まるで空間がそこだけ黒で塗りつぶされたかのようだった。

 それに、

(この臭いは……血だ!)

 その影は飛びかかってきた。

 驚異的な跳躍力にサンは、足場の悪さもあって、完全に硬直してしまった。

 かろうじて鎌の初撃をかわし、屋根に転がる。転がり続け、屋根から落ちそうになり、手をかけて宙ぶらりんになる。

「く……」

 黒い影が近付いてくる。

 鎌はリーチが長い。懐に入ってしまえば決定打を与えられるだろう。

 ただ、それまでの隙を見せてくれるかどうか。……油断させるため、サンは絶体絶命なふうを装った。

「く……おのれ……」

 その黒い騎士は何も答えなかった。ガシャン、と金属の音が手元でして、影が十分に近付いたのがわかった。

 くらえ。

 心で大音声を発し、サンは一息に腕の力で登り上がり、剣を縦に振り落とした。

 ……、ガチッ! と金属が硬くぶつかる音がした。

 どうやら……鎌の柄で阻まれたようである。

 サンの方も素晴らしいスピードだっただけに、彼は驚きを隠せなかった。

(なんて、反射神経だ……)

 サンは、これはまずい、と内心で思った。

「……ちなかった……」

「なに?」

「落ちなかったな、おまえ」

 黒の鎌使いはそう言った。そうか、とサンは気が付いた。初めから演じているということが見破られていたのだ。

 黒の鎌使いは、言った。

「倒されたときに、そのまま逃げておけばよかったものを……」

「逃げたところで、貴様の素性は聞けまい?」

「素性。素性か。……アッハッハッハッハッハ!」

 彼は一旦下がって、顔を押さえながら笑う。

 声が高い。まるで少年のような声だった。

「そんな貴様の厄介な正義感のせいで、貴様は痛い目を見る」

「……」

 サンは、このままでは勝ち目がない、と思った。相手は想像以上の手練れらしい。足場の悪いここでは、サン自慢のフットワークを生かすことができない。武器のリーチが長い方が圧倒的に有利だ。

 瞬発力は恐らく同程度……相手が油断してくれなければ勝てない計算だ。

 加えてこっちは相手を逃がしてはならないと決めている。自分で戦場を変えるわけにはいかない。

 曇って月光が遮られる。一瞬、その間だけ、また相手の姿が膨れたような気がした。飛びかかってくるのを必死で受け止めた! 腹を蹴り上げる。硬い金属に当たって足全体に痛みが走ったが、確実に効果があったようだ。相手は痛みを感じたのかうめき声を上げ、倒れて転がり、次の起きあがりと共に飛び退いて、距離を取りながら腹に手をやった。

 その瞬間、相手の背後が白く光った。

 思わぬ方向から光の砲弾が飛んできた。黒い影は飛び退く。

 ……光の源は、窓のあるところ。フィズィだった。黒の鎌使いめがけて、光のある、雷撃のようなものを球状にして放っている。

 黒い影はそれから逃げるようにして、家の屋根伝いにぴょんぴょんと跳びはねて行ってしまった。

 一瞬、まともに彼女の魔法が当たったとき、敵の姿がよく見えた。

 あれは、黒い鎧だった。全身漆黒の。夜よりも暗い、永遠の闇。禍々しい装飾がしてあった。

 そしてあの大鎌。光がどんなに当たっても、黒いままだった。まるであれは、「死」そのものを表しているかのようだった。絶対になくならない、永遠の闇。空間食らいつくす者。その絶対的な存在を象徴していた。

「ちょっとー! 大丈夫―!」

 フィズィが叫んだ。

(逃がしたか)

 サンは敵の逃げたほうを眺めながら、剣を鞘に収めた。フィズィの方を見る。

「ええ! 今、そっちに行きます!」

「何があったか説明してもらうわよ! ともかく、危うく死ぬ所だったわね!」

 本当にそうだった、とサンは思う。

 どこかに傷を負ったら、それだけで勝負は決まっていただろう。危ないところだった。

 しかしあの者は何だったのだろう。残念だが、フィズィに十分な説明ができそうもない。サン自身よくわからないのだから。

 だが、あの者から感じた絶対的な「死」と「呪い」の雰囲気。それはお互い離さなくてもすでに了解済みのことだったろう。

 そして、やはりだったが、エラズムスは帰って来なかった。

 

(三―二 皇国の英雄)

 カーメンツィントの街の評議会館にある賓客室。

 そこにいるジィド・ヴォルフガングは、扉をノックする音を聞いた。

「誰だ。用件は」

 扉越しのくぐもった声は、エラズムスなる老人から書簡が来ております、どういたしましょう、と言う。

 ジィドは、喜んでその扉を開けた。

「ようやく来たか、ベルナレス」

 は? と眼を白黒させる番兵に言った。

「議長代理のコール氏を読んでくれ。あと副議長のレナリー氏もだ。それと我が団のアシュトンも私の客室に来るように……いや、やはり応接間で会おう。おい君、ベルナレス……いや違った、エラズムスを応接間に通せよ。私も後から行く。他三名はこのヴォルフガングが大至急と言っているように言え」

 警兵は跳び上がって、わたわたとしながら廊下を走っていった。

「さて……」

 ジィドは窓の外の冷たく晴れ渡った空を見た。

「起死回生の一手となるか……」

 ふ、と口角を不敵に歪ませ、ジィドはバタンと扉を閉じた。

「よくぞ戻ってきた、魔法使いよ」

 ジィドはエラズムスを見るなりそう言い抱き締めた。エラズムスも笑って腕を背中に回す。

「久しくお目にかからず。皇国騎士団団長補佐、ジィド・ヴォルフガング」

「もう副団長になってしまったよ。ベルナレス。おまえは変わらないな。全然衰える様子がない」

「閣下もお元気そうで」

 ジィドは鼻白んだ。

「閣下と呼ばれるのは好まぬ。いつもどおりジィドと呼ぶがいい。あなたは私の友人なのだからな」

「……そなたも変わらないですな。畏れ多くも皇国の最強の戦力の副長でしょうに。畏まらない方がおかしい」

「何だというのだ。ハッハハハハ。まあ座れ」

 ジィドはエラズムスにソファーを勧めた。

 エラズムスが座ると同時に、後ろの扉が開かれコールとレナリー氏が入ってくる。

「おや」

「紹介しよう。この者は私の『個人的な』友人のベルナレスだ。本名を隠して普段はエラズムスと名乗っている。ベルナレス、こちらは議長代理のコール氏、そして副議長のレナリー氏だ」

 二人は揃って頭を下げた。

 レナリーは顔を上げるが否や、ジィドを真正面に見つめる。

「急な用件と聞きましたが、ジィド殿」

「そうだ。まあ座ってくれ」

 警兵が扉の脇にいるのが見えたので、

「おい君、どうか人払いを頼む! 警戒したまえ。昨日に今日だ。変なスパイがいるやもしれん」

 かしこまりました、と人の足音が去っていく。

 ジィドは急に顔から笑みを消し、低い声で語り出した。

「ベルナレス。昨日はここカーメンツィントにおったか」

「はい。おりました」

「なら知っているだろう。昨夜カーメンツィント評議会のコール議長が何者かに殺された」

 一同の空気がさらに重くなる。

「犯人は現在捜索中だが、これで見つかったらまずラッキーだろうな。敵はもう霧深くに身を隠してしまった」

「やはり、ゼインの手の者ですか……」

「現在調査中だが、恐らくそうだろう」

 ジィドは息をついた。

 そのときだ。

 扉のノックの音が聞こえた。

「失礼します。アシュトンです」

「遅い!」

 ジィドは怒鳴った。扉を開けて入ってきた女性は、毅然と敬礼した。

「申し訳ありません」

「私の後ろに来たまえ。遅れた理由は?」

「……それが、」

 彼女は聞こえを憚るように眉を下げた。ジィドが手で話すように促すと、彼女は答えた。

「昨夜不審な人物を路地で見かけた者がいたそうです。先ほど通報がありました」

「ようやく来なすった」

 ジィドは待ってましたとばかりに笑って耳の穴をかく。

「詳細は」

「全身黒ずくめのフードとマント。しかし明かりに当たって見えたときは、その下にもさらに光沢があったようです。その通報人は鎧だと言っておりましたが。その人物は屋根から屋根へと飛び移るように城門へと向かっていったようです。移動の際にもかすかに鎧の音が聞こえたと」

「鎧、鎧ってなぁ。その通報人、伝記の読み過ぎだな」

 ジィドは笑うが、

「だが、そいつはかなり重要な証言だ。鎧を着ながら飛び跳ねてた。こいつは魔法使いであるが、人外の者であるかどちらかだ。まぁ……」

「推測の確実性が増したということですな」

「まぁな」

 ジィド・ヴォルフガングは頷いた。

「犯人はゼイン地方デストローア魔王軍の黒騎士、ベンゲルで間違いないだろうな」

「あの……すみません」

 それまで沈黙を守っていたコール氏は口を開いた。

「そのベンゲル、というのは一体何でしょうか……?」

「お嬢さん。あんたにはキツい話かも知れんな。だが聞いておくべきだ。いやなら今すぐここから逃げ出せ。そしてここで聞いたことはすぐ忘れるんだ」

「い、いえ!」

 金髪の若い女性は、目にうっすらと涙を溜めながら答えた。

「聞きます。父を殺した仇……その犯人の情報ですよね」

「その通りだ。ざっと情報の整理をしようか。私たちの視線から話をしよう。我々の詰め所に情報が入ったのは昨夜の一時頃。まぁ、日付が変わってすぐだな。情報に寄れば対デストローア魔王軍の軍策に熱意を上げているカーメンツィント評議会議長バッシュ・コール氏が何者かに殺害されたという。我々が馬をすっ飛ばしてここに辿り着いたのは夜明け前だ。犯人の像は先ほどの目撃証言のごとく黒ずくめの騎士……魔法使いであるか、悪魔かどちらかであるということだ」

「しかし、闇の魔王軍の力は先の大戦で弱まったという意見が多数を占めて……」

 コール嬢は途切れ途切れに言う。

 ジィドは頭を抱えて呆れた。

「あんたらは何年前の話をしてるんだ? もう二十年も前のことだ。それぐらいの時間があれば、何故やつらも力を取り戻しつつあることに気が付かない!」

「しかし、魔王は確かに滅んだのですぞ」

 レナリー氏は言う。こちらはコール嬢と違って恰幅の良いおじさんだ。

「……皇都の見解を、君らは知っているかね?」

 心底呆れたと言わんばかりにジィドは顔を覆う。

「アシュトン。ニーナ・アシュトン。言ってみろ」

 短髪の女性騎士は答えた。

「はい。事件報告として、北のペルニミス山地で多くの異形の者を発見。さらに多くの動物の散乱死体。さらに近隣の山小屋から人が消失している……などが、挙がっています。麓の住民の話では、『背中に翼の生えた異形の怪物が』『黒ずくめの騎士たちが隊をなして山道を駆けていた』など多くの目撃証言が出ております。東のエルフの森の長、ガロンドル卿とセンゼラ王との対談では、徐々に北の地から黒い泥が流れてきているとのお話がありました。これを意訳すればエルフの正の魔力が弱まり、負の魔力が増えているということ。早急に軍拡の必要ありとして皇都の意見は一致しております」

「それが半年前の意見だ。あんたら、いくら自治州だからって一体何してた?」

 二人の議員は答えることができない。しかしそもそもコール嬢の方は昨夜就任したばかりだから、その譴責は酷というものだろう。暫定的に長に祭り上げられた、いわばスケープゴートなのだから。

「うすうすとは気付いておりました。以前のように作物は取れず、潮は荒れる、盗賊は出る。……しかし、それがこれだとは、何とも……」

「唯一意気を上げていたコール氏は殺害された。まあ、勇敢な死だと言っていいだろう。あんたら全員にそれを求めるのは酷かもしれんな……」

 レナリーは顔を沈ませた。ジィドは騎士らしく力強く言う。「しかしだ」

「これでわかっただろう。魔王が滅んだなんていう甘い幻想に浸っていることがどんなに危険か。住民は良い。まだ活気に溢れている。だがな、これがあと何年ももつと思ったら大間違いだぞ」

「あの……」

 コール嬢は言う。

「私たちはどうしたら」

「我々の指示に従ってもらう。しかしあくまでも自治州の政府として判断した上でやってもらいたい。まず一つお願いしたいのは、カーメンツィント共和州の軍を出してもらいたいということだ」

「あの、全軍を、ですか」

「出せるだけの数を」

 コール嬢とレナリー氏は顔を見合わせた。何か言いたげな目でジィドを見る。

「もちろん評議していただいて構わない。しかしお嬢さん、あんたにはひとつ個人的にやってもらいたいことがある」

「はい?」

「意見を統一してくれ。そしてそのために、強力なリーダーシップを発揮してくれ」

 ジィドが真剣な眼差しで訴えた。

「ジィド殿! ここは共和制ですぞ! それに評議長は我が州の法律では発言権を持ちません!」

「法律上の話だろう、それは。コール氏はばんばん壇上で演説していたじゃないか。それに彼が殺害された今、暢気に法律がどうだ裁判所がどうだと言ってくるやつがいるのか?」

「それは……」

 ジィドはレナリーからコール嬢へと視線を向けた。

 そこに皇国騎士らしい厳しさはなかった。信頼の眼差しを向けているだけの一人の同胞がいた。

「恐いだろうと思う。父上のバッシュ氏のことは誠に残念だ。我々は犯人を許さない。それに、年々力を強め我々を脅かしている北の魔の国をも。どうだろうか。力を貸してはくれないか」

「議長」

 レナリーとジィドの視線に当てられたコール嬢は、一瞬迷う表情をしたが、それから強い眼差しになって答えた。

「少々考えさせてください」

 ジィドは頷いた。

「もちろん。情報の提供が必要でしたら我々に気軽におっしゃってください。あなたには機密の開示は惜しみますまい。さあて、」ジィドは不敵に笑う。「次の話だ。お二方、これからの話を是非聞いていって下さい。ベルナレスよ、待たせたな。諸国の反応はどうだった?」

 エラズムスは答えた。

「南方のアルザヴィーラは駄目でしたな。叡智溢れる君主でしたが、辺境の平定に大忙し。こちらへは五百の兵しか出せないそうです」

「五百か……いや、いないよりは有難い。次は?」

 エラズムスは胸から紙片を取りだした。

「城塞都市マインツは二百。カルアリは五百。ユーゲル卿のところは六百五十。ベルゼニミル卿のところは五千です」

「でかした! さすがベルゼニミル卿だ。時局に敏感だ。他には?」

「あとはどれも色よい返事をもらえませんでしたな」

「なに」

 ジィドとエラズムスは気落ちしたように息をついた。

「皆保守派に押され、兵を出せないと。理由は大概ここと同じかと」

「何たることだ……愚かな」

 ジィドは顔を上げる。

「しかし最も愚かなるは我ら皇都。今まで手をこまねいて傍観しておったのだからな。我々の方も同様、他国へ使者を通して伺ってみたが、同盟はいやだ、盟主なら俺がなる、いや私が、いったいどういう権利が発生するのか、どうたらこうたら、はぁ……まあ、はかどっていない」

「皇帝陛下は」

「あの方はご病気だよ。一番信頼できるのは、アウシュバイン卿ときてる。事態は最悪だ。何一つ統率が取れていない。一枚岩で来ている向こうと違ってな」

「まさか……闇の国ではもう準備を?」

「そなたがやって来たのは少々遅かったかもしれん」

 ジィドは目を窓の方へとやった。

 青い水のような空が、先程から徐々に曇り空へと変じてきている。

「アシュトン。例の話を」

「はい。近隣のアニトス国ですが、先日悪魔の一隊と衝突があったようです」

「なんと」

 レナリーが立ち上がる。コール嬢も目を剥いた。

「おわかりだろう」

 それからジィドは、沈黙した。口を閉じ、恐怖すべき現実が各々の体に染みわたるのを待つかのように。

「もう時間がないんだ。アニトス国ではもう緊張状態が走っている。たいした被害はなかったらしいが、このままじゃ最前線にいるアニトスは敵の軍勢に飲み込まれてしまう。その後同盟を募っても遅いんだよ。奴らの出鼻をくじかなきゃならん。そのためには今集められるだけの兵を集めてアニトスに向かわなければならん!」

 レナリーはおずおずと、

「大戦の予兆……ということですな」

「そうだ」

 ジィドは二人を見すえた。

「昨夜から出ずっぱりでお疲れだろう。それにお嬢さんは父上をなくしてからまださほども経たない身と来ている。我々は、明日、ここを発ちます。その前にもう一度この部屋に集まりたい。その時に返事を聞かせてください。騎士風情が、栄誉ある議員相手を呼びつけ多大な無礼を働いた……お許しいただきたい」

 いえ、と短く言い残し、二人は退室して行った。

 エラズムスは誰もいないソファーを見つめた。

「期待できるでしょうか」

「できるとも」

 ジィドはこちらを見ずに言った。

「コール嬢は世間知らずって聞いたが、なかなかどうして、肝が据わってる。父上の姿を見ていたからだろう。あの目は、やってくれる。私はそう信じている」

「しかし、カーメンツィントがついたとしても……」

「もちろんこれから方々へ出向かなきゃならん。時間との戦いだ。……アニトスはどれくらいもってくれるだろうか」

 そこでエラズムスに目を向けた。

「そなたもご苦労だったな。部下でもないのに……世話になってしまった」

「よいのです、ジィド殿。世界を想う気持ちは一緒です」

「それを聞けて嬉しいぞ」

 ジィドは微笑んだ。

「ところで、そなたの真の目的……近い将来、諸国をまとめ上げることのできる英雄は見つかったのか?」

「ジィド殿よ」エラズムスはふさふさと髭を弄んだ。「英雄なる人物は小石のようにその辺に転がっているものではない」

「駄目であったか」溜息をつく。

「これこれ。まだわしは駄目であったと言うとらんですぞ」

「なら見つかったのか!」

 エラズムスは沈黙した。遠い眼差しをして、髭をいじる。

「いいや……もうちょっと、様子を見る必要がありそうですな」

「なんだ」

「ぶわっははははは、ははは!」

「なんだ、いきなり」

 エラズムスの哄笑に、ジィドはまたも鼻白んだ。

「いやいや……そなたとのかつての旅を思い出してただけじゃよ。幼い頃から、そんなところだけは変わっておらんな。ジィド坊」

 ジィドは笑った。

「なんだ。大戦の頃の話か。その話は照れ臭くなるからよすがいい」

「そんじゃあよしましょう。英雄といえば、しかし、めぼしい人物はあなたが一番なんですよ。二十代で異例の出世だ。すべてそなたの力量で登り詰めたのじゃ。世の人は英雄といえばたいていはそなたを始めに数え上げるじゃろう」

「やめてくれ、気味悪い」

 ジィドは苦笑する。

「私はただの人間だよ。人類をまとめ上げるなどという所業、とうていできる自信がない」

「あなたは謙虚ですな」

「なに本当のことだ。だからこそ、そなたの報告に期待しておったのだからな」

 窓の外の灰色を見て言った。

「父上も言っておった。ベルナレス、やつは必ず戦後の世界で大いなることを成し遂げるだろう。今の内からやつの見る所、動く所を真似しておけと。それが父上の口癖であった……」

 

 

(三―終わり)憂いの野

 

 エッシェンは翌朝、といってもまだ夜の明けないころに起こされて、兵服に着替えるように言われた。

 三十秒で着替えろ、私は外で待っている、という彼女の声に、今までの冷徹さを感じながら、エッシェンは慌てて兵服に袖を通す。

 その服はベンゲルの黒鎧などではなかった。温かい皮服で、無駄な装飾はなく、非常に動きやすい。色は闇の色だったが、長身のエッシェンには、それはよく似合っていた。

「遅い」

「ごめんごめん!」

「馬鹿者」

 廊下で会った彼女は、兜を被っていた。

「以後は口調に気を付けろと言っただろう。私は何だ? おまえの友達か? くだらん馴れ合いはよすんだな。今からおまえはデーモンの指揮官を前にしていると思うがいい」

 座ネロは踵を返して階段を降りて行く。

「ま、待って! いや待ってください! これからどこへ行くんです?」

「知る必要はない」

「そんな〜……」

「口を慎め! この――、」

 ザネロは振り返って怒鳴ろうとしたのはいいものの、何か悩むように腕組みした。

「まだ名前を聞いてなかったな。ゴミエルフ。私に貴様の名を教えろ」

「エッシェン。エッシェン・バルダです……」

「ふむ。エッシェン。いいかエッシェン! 上官に対する口の利き方を教えてやる! 私が行けと言ったら『了解』と言って行く! 私が死ねと言ったら『了解』と言って果てるのだ! わかったか!」

「……」

 エッシェンは目を逸らしながら頷いた。

 ザネロは舌打ちする。

「……まぁいい。ともかくも、悪魔たちがいる前ではそのような姿勢を取らなくてはだめだ。でないと命取りになるぞ」

 エッシェンは少し驚いてザネロを見つめた。

 ザネロは、

「わかったらとっとと行くぞ。返事は」

「……了解」

「よし」

 背を向けて、階段を降りて行く。

 別棟の扉を開けると、外は雪が降っていた。夜が明ける前の薄暗い蒼空に、白い粉雪がしんしんと降り注いでいる。

 その連絡橋を抜けて、ザネロは本殿の方へ歩いて行った。

 扉に手を置いて、ザネロはエッシェンに振り返る。

「ここから先は悪魔の巣だ。貴様、本当に殊勝な兵士を演じてないと死ぬぞ。奴らは人間のことを何とも思ってないからな。ここは、私に任せておけ。……いいか、絶対に離れるんじゃないぞ」

 そう言って、エッシェンの返答を待った。

 エッシェンはごくりと唾を飲み込んで、頷いた。

 ギィ、と開けられる。

 中に入ると、意外と明るかった。禍々しい装飾に灯が当てられて、黒と緋が混じった空間を呈している。扉が閉まると驚くほど静かになり、ザネロはその静かな空気に合わせるように粛々と歩を進めて行く。

 歩くスピードがはやい。ときどき走らないとエッシェンは追い付かなかった。

 城の中は外よりも冷たく、心細かった。黒い通路に鉄格子が降りているところもあり、少し誇張すると迷路のように入り組んでいる。

 ザネロは早歩きでエッシェンをとある部屋に案内し、振り返った。

「私はまだおまえの戦い振りを見たことがなかったな。まぁ、巡回兵一人にもコテンパンにやられてしまうほどの能無しであることは知っているが」

「あれは油断してたんですよ」

「武器を選べ」

 ザネロは中を見渡した。

 その部屋の中には様々な武器が並べられてあった。悪魔用の禍々しい大きな曲刀や斧がある一方、人間でも扱いやすそうな短剣や槍がある。

「旅人だったんだから、最低限身を守る術は持っていたんだろう? 獲物を狩るときは? どうしていたんだ?」

「それは……、あっ!」

 エッシェンは傍らにあった弓を取った。人のサイズとしてなら、中型だ。

「オレは弓を扱っていました。……といっても、獲物を狩るときぐらいだけど」

「それならこれも使えるだろう」

 と言って、ザネロが投げて寄こしたのは、黒い短剣だった。

 鞘の部分を掴んで、エッシェンは「まぁ……」と言った。

 さらにザネロは奥に入って皮の服を投げて寄こした。

「これはおまえが持っていた荷物だ。我々に特別必要な物以外返ってきたから、検分しておけ」

 エッシェンは自分の荷物袋の口を開け、溜息を吐いた。

 あったのは簡単な携帯食料と、救急用具のみであった。地図も羅針盤も失われている。もっとも意気消沈の種であったのは、旅の手帳が失われていることだった。

「簡単な医療衛生などは行えるんだろう」

「……そりゃ、行えますけどね……」

「そうか。それは助かる」

 ザネロはそうして、背中に背負う矢筒と、束ねた矢二十本をくれた。

「これで何とか体裁は整えたか……」

 エッシェンはこっそり溜息をついた。

 部屋を出ると、ザネロは早速外へ出ようとした。表庭の片隅に出、そのまま大門へ足早に進んでいく。

「ど、どこへ行くんですか」

「貴様が知る必要はない」

 またこれかよ、と彼は心で溜息を吐いた。だが彼女は態度に気を付けておいた方がいいと言っていた。それは、何も彼女の上官としての矜持を満たすためのものではないことくらいエッシェンにもわかっていた。

 エッシェンは口をつぐむ。

 彼女は城の、大門から伸びる正道に足を踏み入れた。

 正道はそのまま真っ直ぐ歩いて行くと城の中枢へと繋がっていく。そしてやがては、闇の魔王の間へ。

 しかし彼女はそこへ行くようではなかった。大門から外へ出ようとする。

「ベンゲル殿」

 唐突に彼女を呼び止める重々しい声がした。

 彼女はピタリと足を止める。

「デュホルム卿か」

 思わず、エッシェンは仰け反ってしまった。

「こんな時間から、任務か」

 ザネロに話しかけた声の主が、巨大な黒い影だったからである。

 日がまだ出ていないせいで、うっすらとしか見えないが、その背丈はザネロとエッシェンを足したものよりも大きく、禍々しい形状の鎧を纏っていた。

「我々には、時間の問題などないはずだが?」

 その形は、デーモンのように思えた。

 デーモンの将軍なのだ。

「ん? そうであった、そうであった。いや、失礼。ベンゲル殿は我々と同じであった」

「……別に気にしてはいない。先を急ぐのでこれで」

「わしとしたことが、ベンゲル殿の呪いのことをすっかり忘れておったぞ。いやあ、最近ベンゲル殿は人間くさくなられたからな」

 ザネロは、反感を持ったように顔を上げた。

「おおっと。すまぬ」

 くくく、とそのデーモンは笑った。

 名前は確か、デュホルム卿。

 人間の言葉が堪能だ。

 ザネロのことを馬鹿にしているのがエッシェンからでも窺えた。

「それにしても驚いたぞ。サウル様もまさか人間の兵士を取られるとは。そのときわしは思い出してのう、そういえばもう一人人間の娘がいたではないかと」

「……」

「サウル様もいよいよ……」

「デュホルム卿。それ以上言うと、サウル様の名を汚したとして、あなたを罰しなければならないが?」

「なにめっそうもないことだ。わしはただ心配なだけじゃよ。まさかあのベンゲルのザネロともあろう者が、種の愚かしい本能に目覚めないかとな……」

「フン」

 ザネロはデュホルム卿の隣を通り過ぎた。

「種の愛に目覚めたのなら、まず私はあなた方を排除せねばならぬ。違うという私の言葉を、信じて欲しい」

「まぁ、元よりベンゲル殿を疑う余地は無いですからな。なにせベンゲル様だ。誰よりもサウル様に尽くしておられる」

「フン。失礼する」

「これから長旅だそうだな。忠誠心が厚いことだ」

「デュホルム卿。お喋りが好きなようだな。それも人間の言葉でのお喋りが。人間に生まれ変わりたかったのでは?」

 すでに背後に遠くなりかけていたデュホルム卿は、声音を変えた。

「なんだと」

「それでは失礼するぞ。我々には任務があるのでな」

 デュホルム卿は何か、エッシェンにはわからない恐ろしい言葉で毒づいた気がした。

 だがそれ以上追ってくる気配がなかったので、エッシェンは放っておくことにした。

 ザネロはそのまま城の外の厩舎に進んでいった。

 外は雪が舞っていた。エッシェンはようやく憧れのゼインに降り立ったわけだが、感動に浸りたくも、陽はまだ出ておらず、雪も降っていたので、空が暗いままで感動のしようもなかった。

 ザネロは厩舎に行く傍ら、何もエッシェンと話をしなかったが、エッシェンは彼女の背中に何やら話しかけづらい威圧感を感じていたからだった。まるで、話しかけてはならない、と言われているかのよう。

 やがて、城の厩舎に着き、彼女が乗るらしい馬の前にまでやって来たとき、彼女は初めて言葉を発した。

「ここで向かう所を説明する。目的地は、ここからははるか南、天狼岳を抜け、アニトス領のヴェイン丘陵を通り、カーメンツィント。そこからの任務はおいおい説明することにする」

 そう言って彼女は一頭の黒い馬を出した。

「ちょっと待ってください。オレの馬は?」

「馬などあるか。徒歩だ」

「えええっ! あなたは馬があるのに!」

「黙れ。貴様には旅で鍛えられた足があるであろうが。さっさと出発するぞ」

 とんでもないことになってきた、と前途に不安を覚えるエッシェンだったが、ならば彼女はゆっくり馬を歩かせてくれるんだろう、と甘い考えを抱いていたところ、そんな現実はまさか訪れるはずもなかった。

「ちょ、ちょっと待って!」

 ザネロが馬を止めて振り返る。

 もう空がだいぶ明るくなってきていた。ゼイン地方はどこにも「何も」なく、一面銀世界、空からはただ雪が降り、時折見える突き出た岩や枯れ木のようなものがなければ、ただ空虚な世界、死の砂漠のような寂しい場所であった。

 エッシェンは走ってザネロに追い付き、膝に手を置きながら、馬上にいるザネロに訴えた。

「全力で疾走ですか!」

「当然だろう。我々には時間がないのだぞ」

「危うく迷っちまうところでしたよ!」

「その心配はない。私は常におまえの位置に気を配っているからな」

「せめて、馬でも用意してくれよ!」

「寝言もほどほどにして言え。貴様は私を誰と心得ているのか」

 エッシェンが息を整えている間に、ザネロは再び馬に鞭を入れ、疾走させる。

 恐ろしく速い馬だ。風を切るように走る。エッシェンはそれを見失わないように全力で駆ける。

「いい加減にしてくれ! 無茶だってーの!」

 彼女には聞こえない。あるいは聞こえない振りをしているのか。蹄の音、雪を跳ね飛ばす音は徐々に小さくなっていく。

 幸い雪に足跡が残っているので追うのには困らなかった。ただ彼の体力だけが問題だった。

 だがそこで立ち止まらなかったのは脅威と言うべきだろう。それと言うのも、エッシェンは背後に、絶えず冷たく薄気味悪い視線を感じていたからだ。そう――立ち止まったらすかさず首を刈るようにしていている鎌が、絶えず後ろからかけられているかのように。

 彼は走り続けた。寒さなんてすべて吹き飛ばす程に走り続けた。

 ようやく終わりが見えてきたように思えた。薄(もや)の向こうに、彼女が馬に乗って待っていてくれた。終わりだと思ったのは、いつの間にやら道が狭まってきていたからだった。今まではただっ広い荒野を突っ走っていたばかりだったのに、いつの間にか両側から岩の壁がせり出してきて、細い岩間の道を作り上げている。

 彼女はその入り口に立ち止まってこちらをじっと見つめていた。

 彼女に文句を言ってやりたい気持ちよりも、先にこの一言が優先された。「み……ず……」

「ほら」

 彼女は馬上の荷物袋から、鋼鉄の水筒を取りだして、片足で蹴って寄こした。

「飲めまい。(こお)っていて」

 確かにそれは氷っていた。

「歩きながら舐めろ。時々叩け。もっとも、手足がまだ使い物になるのだったらな」

「……っ」

「とにかく、よくもった。死ななかったな」

 彼女はそう言って馬をゆっくり進ませた。

 エッシェンは呆然と、足をふらつかせながら、懸命に水筒の先の氷を舐め、時々手で割ろうとあくせくしながら、後を追った。

「ここでネメレスは終わりだ。ここから、ギグス氷河に入る。そら、」

 彼女が指差した先を、彼は呆然と目で追っていく。

 そこんは、黒い鉄の門があった。戸はなく、ただ二本の柱とその上に横棒を差しただけの枯れた黒門。誰かを通さないために建てられているのではなく、ただ通行者にある意味を教えるためにあるようだった。

 彼女は門の上を指差してこう言った。

「エルフの言葉でこう書かれてある。 

 

汝一切の望みを捨てよ この門をくぐる者

この先になんら希望はなく ただ絶望だけが生い茂る

我は誘う この奥へ

溜池がある それは汝の苦しみと悲しみでできている

一切の望みを捨てよ

 

ここまでがネメレス。ネメレスというのは我らの言葉で『憂いの野』を意味する。『憂いの野』を超えた先には、私たちが住むコキュートス。『絶望の池』だ。……もっとも、それこそが我々の望むものであるから、矛盾があるがな」

 彼女は馬の踵を返して、奥へと進んでいく。足のもつれるエッシェンの呼び止めも、聞こうとしない。

 二人はネメレスを抜け、ギグス氷河に入っていく。……

つづく

 

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