(二―一) エルフの旅人

 

 エッシェン・バルダは西のガラスの砂漠という一面白い砂漠を渡り終えたところだった。

「いやはや、この『羅針盤』ってのは素晴らしい発明だな! 曇りの日でも雨の日でも容易に方角が確認できるとは……比較的安価な国で手に入って助かったぁ……これ、ぼくの国で売っ払ったら一年間生活できるはずだぞ!」

 エッシェンはマントを払い、鞄から地図を取りだして、羅針盤とそれを見比べ、目を細めた。

「なるほど。この地図が正解だとすると、こっちが『人跡未踏の地』か。ゼイン地方……か。近隣の国じゃ悪魔がいて魔王が住むなんて噂があるけど……どうもあの話は嘘っぱちくさいね。誰も行ったことがないのに悪魔が住んでいるとはこれいかに。どうせ人々の恐怖心から生み出た幻想だろう」

 エッシェン・バルダは簡素なテントを張り、近くに枯枝を集めて焚き火を起こした。

「乾燥しているからかよく燃えるなぁ」

 彼は火に当たりながら、持っていた携帯食料をかじった。それは干してカチカチにされた粘土のようで、味はしないが、とても長持ちし、このように獲物が容易に見つからない最果ての地では、大変重宝するものであった。

「ううっ……寒い……」

 エッシェンは東の海を渡った先にあるエルワリ諸国という中の一つ、リューゲルという島国出身で、比較的温暖な地方で育った者である。その国の中でも特に寒いところで育った者なので、寒さにはそう弱くないと思っていたが、このクローズ地方という極寒の地では、一年間訓練しないと旅など到底できなかった。

「しかし……ゼインに入るためには、この山を抜けなきゃならないのかぁ……」

 エッシェンは背後の山を振り返る。頂上が目で確認できない。恐らく一日で越えられる山ではないだろう。

 人跡未踏の地、ゼイン地方は、三方を高山で、一方を氷海で囲まれた鉄壁の地である。

 肝心の地図も、そこだけは真っ白である。ただ「ゼイン」と大きな文字が横たわっているだけ。

 エッシェン・バルダは冒険家であった。およそ暮らしが豊かだったエルワリ諸国では、学院に通える中流階級以上の者は、皆たいてい冒険家や芸術家、あるいは学者、それらともまた違う彼ら曰く「放浪の民」を目指すのが常だった。その中でもたいていの者は、さまにならず、牧師か、役所勤めか、親の財産を継いでぐうたら生活するのがほとんどだった。

 エッシェンはその中でも大志を抱き続けた希有な例であって、交易船に飛び乗り、このエルドール大陸の最東の都来る手巣に辿り着き、そこで新しい言語を覚え、一年間働いたのである。

 旅は彼にとって食物と同じようなものであった。人間は誰でも、生きている間で自分自身の人生の意味を知りたくなるものだが、彼の場合、それは旅だったのである。多くの文化や土地を見て、曇った目を洗い清める。そしてそれを故郷に持って帰るのだ。

 彼はまっさらな気持ちを好んでいた。恐怖はまだ見ることのない事物からやってくる。偏見という御者に引き連れられて。彼はそれを滅ぼし尽くせば、お互いの国はもっと良い関係を築けるはずだと確信を持っていた。

 エルワリ諸国はエルドール東部の一部の国としか交易を行っておらず、その先の土地に入っていく者もいない。

 それは結局商業上の便宜から生まれたものだったが、もっと広い世界を知るなら、そんな便宜などはぶっ飛んでしまうだろうというのが彼の考えだった。

「ようやく来たって感じだよなぁ〜……」

 彼の持っている地図では、彼は今エルドール北東のクローズ地方にいるはずである。

 この中央部に、皇都イェーセンがある。

「誰も行ったことない場所……神聖視されている聖地か……いや、ここは畏れられている、って言った方がいいかな?」

 ゼイン地方。

 秘境であり、魔境。

 誰もその土地の中身を見たものはなく、見て生きて帰ってきたものはもちろんない。

「ここから先は何が出てくるかわからないぞ……」

 彼は体を温めた。

「すぐ迎え撃てるように準備しておかなきゃ」

 背中の弓のシルエットが、黒く光った。

 

 翌朝、曇り空で風弱し。

 雪でも降りそうな寒々しい陽気である。

 彼は気合いを入れて、登山を開始した。

 この東の高山はゴルゲミスといい、荒ぶる神の住まう山として地元の人々から畏れられている。

 とてつもなく高い山であると同時に、ある一面では多くの空洞を持つ山だとも知られている。

 エッシェンはその空洞をどうにか利用できないかと考えていた。

(でも迷路に入って出られなくなったりしたらいやだな……)

 燃料はいくつか用意があるものの、なるべく使いたくないし、通り道としては不的確だと思った。

 登り始めてから三時間ほど経過したころ、雲が晴れ始め、青空が出た。彼は立ち止まって額の汗を拭った。

「うわぁ、綺麗だな」

 遠くの緑の原っぱが見渡せる。太陽の位置からすると、あれは南だろう。麦粒ほどの大きさで、人の住んでいる小屋がかすかに見える。

「ちょっと休憩するか」

 彼は近くに転がっている小岩に腰を下ろした。水筒から水を飲み、改めて周囲一面の白岩石群を見る。

(溶岩、なのかな)

 火山なのだろう。変なガスなど出ていなければよいが。

 彼は手帳を開いてインク瓶とペンを取り出した。旅の光景を忘れないようにつけている旅行日誌である。

(今、ゴルゲミスという高山に登っている。……空は晴れ渡って気持ちがいい。ここはどうも生き物が住んでないらしい。エルドールに来てから、不思議な生き物や怪物に多く出会ってきたが、ここにぼくの国リューゲルのペスクが一匹でもいてくれたらと思ってやまない。エッシェン)

 彼は風の動く音……というより大気の動く音を、遠くに聞いていたが、その音と雲の動き方から、どうやらまた曇りになりそうな気配を感じ取った。

 風が強くなっている。ここで雪でも降ったら、吹雪になるかもしれない。

(急いで休める場所を探さなきゃ)

 そこで慌てて休める場所など探さなければ、よかったものを。

 風など吹かなければ、よかったものを。

 彼は偶然奥へ繋がる一本道を発見し、その洞穴に入り込んでしまったのである。

 そのまま奥へと進んでしまって、彼は、ゼイン地方へと、出てしまった。

  (二―二)魔王の城コキュートス

 

 さらわれた、とエッシェンは感じた。

 彼がそう感じたのは、彼の首に太くて黒い鋼鉄の腕がまきつけられていたからである。

 彼は捕われ、突風の中を泳ぐ。

 掴まれたままものすごい速さで運ばれているのだ。

 彼のことを捕まえたのは見たこともない生物だった。人間に近い形。だが顔は見たこともない、怪物。

 黒い肌で光沢がある。そして背中に羽根があった。ゴルゲミス山の向こうへ抜け出る坑道を偶然見つけ、ようやくゼイン地方に降り立った彼を襲った突如の災難であった。

 彼は呻きながら言った。

「お、おい。離せ……」

 そう言うのが精一杯だった。化け物は言葉を解するのか、こちらを見てニタリと笑いながら、首を絞める力を強くした。必死にもがいていた彼も、顔を赤くさせ、やがては気を失った。

 

 次に目覚めたのは黒い廊下だった。壁も天井もどこも黒い。大理石のような光沢のある石でできているようだ。明かりは存在し、ぱちぱちと火の燃え盛る音がした。

 顔を上げた瞬間「ギャースッ」と鳥の鳴くような声が轟いた。何なのか正体を探るまでもない。彼、エッシェンの四方に悪魔がいて、彼の体を覗き込んでいるのであった。

 悪魔、とエッシェンは直感ですぐ正体を察した。先ほどの怪物。怪物に違いないが、それは悪魔だ。ここでこうして囲まれていればわかる。この世の者ではない。負の存在。悪の象徴。おとぎ話の地獄の使い魔。それが今四匹もいるのだ。

「いっ! って……」

 上体を起こそうとした彼の胸を悪魔の一体が足蹴にする。

 それはどうも人間の言葉を語るらしい。

「人間、起きたぞ」

「皇国、皇国」

「やつらの味方」

「ベンゲルさまニ、おとオシしロ」

 一匹言葉が不自由なやつがそう低く言った。体が一回り大きいやつだ。他三匹は頷き、エッシェンの四肢を持った。

 そのまま次の間へと移され、彼は放り投げられた。きしむ体に、痛みを感じるが、起こそうとした体を止めたのは、彼の腹スレスレに突き下ろされた、黒い鋭利な刃物だった。

 それはどうやら、鎌のようなものらしい。

「エルフか」

 今度は意外なほどに透き通った声だった。聞き取れるほどといったそのようなレベルではない、玉を転がすような、綺麗な女性の声だったのである。

「敵のスパイということだな。よく竜爪岳を越えた。だが残念だったな。貴様は多くの我らに益となる情報を吐いた後、地獄に等しい苦痛を受け、果てるのだ」

 彼は体を起こしてその女性の顔を見ようとした。だが――、

「がっ」

「馬鹿が」

 足蹴にされ、床に転ばされる。

 (はがね)の靴だった。離れたところで起き上がろうとすると、その女性が、暗くて判別しがたくとも、漆黒の鎧を身に纏っていることがわかる。頭から足の先までだ。

 ただ背はそれほど大きくもなく、細い四肢と体のラインから、やはり女性か、それかもしくは若い少年だと判断できた。

 そして、恐ろしいことに、彼(彼女?)の手には彼の身長ほどもある大鎌が握られていた。

「逃げるか?」

 その黒い騎士はエッシェンが考えてもないことを口にした。エッシェンは、何故こんなところに人間がいるのか、わからなかったのである。

「逃げようとしても無駄だ。背後にはデーモンが四人いることを忘れるな。やつらの方に逃げれば、八つ裂きにされるだろう」

 エッシェンは何も答えず唇を噛んだ。彼は憤っていたのだった。何に憤っていたのかはわからない。この騎士の有無を言わせない物言いか、あるいな不運な自己の運命にか。あるいは、これが一番有力かもしれない。自分を殺すだろうと平気で語っているこの黒の騎士の、声の透明さ。こんな恐ろしい人外の巣窟にいるのに、その中心で彼(彼女)は黒く輝いている。鎧を着れる年齢でも性でもないだろうに、軽々と着こなし、自分の身の丈ほどもある大鎌を操っている。その圧倒的な矛盾。しっくり型にはまらない感じ。なぜ、という疑問。それがエッシェンを苛立たせているのかもしれなかった。

「何とか言ったらどうだ? せっかく私が来ているのだぞ。話のわかる者としてな。なぁエルフよ」

「……さっきの、竜爪岳、って何だい?」

 黒の騎士はピタリと動きを止めた。機械的に鎌の柄で鳩尾(みぞおち)を殴られる。

「っぐ、おぉぉぉ……」

「私はそういう態度が嫌いだ。立場をわきまえてない。私がデーモンじゃないと知って安心したか? この愚か者め」

 エッシェンは倒れ伏す。ものすごい力だ。少年や女のものだとは思えない。彼の頭は熱くなって、冷えるを繰り返していた。

 彼の背中に騎士の足が乗せられる。

「私はついでに言うとエルフも嫌いなんだ。でかい顔してやる事といったら森に隠れるだけ。何をしているかと思えば何もせずただ真面目な顔をしてのさばっている。真に唾棄すべき種族だ」

「い、て……」

「痛いか? なら貴様らエルフにも唯一役立てる道を教えてやろう。皇国軍は何をたくらんでいる。統率のない振りをして水面下で何かを仕組んでいる様子だ。他の国も、非協力なんだか、協力的なんだか、いまいち見当がつかん。あのベルナレスとかいうエルフと交わった魔法剣士もちょろちょろと目障りな動きをしているな。やつと絡んでいる諸侯貴族の名を教えろ。全員血祭りに上げてやる」

 エッシェンは咳き込むだけで何も答えなかった。

 エッシェンは何も知らないのだ。皇国という存在は知っているが、所詮よその国だし、行ったこともない。首都が地図上のどこにあるかぐらいしか知らない。

 だがここでそれを正直に答えたら殺されるだろう。そんな間抜けな(ざま)を晒すより、かえって「くたばれ。悪魔ども」と言って往生したほうがいかほどましだろうか。

 エッシェンは考えを巡らせた。

「……まず、その足を上げてくれないかい?」

 踏みつける力が強くなった。

「断る。情報一つと交換だな」

「いっ、てててててて。そんなんじゃ、話せる情報も話しにくいぜ。肺が潰れる」

「だめだ。そのままで言え」

「お、おれが、起き上がったところで何になるっていうんだい? 君ならすぐその大鎌で刺し殺せるんじゃ?」

「魔法を使ってこないとも限らん。エルフは油断ならんからな」

 エッシェンは喘ぎながら言う。

「その、魔法とか、森とかいうところが引っかかるんだよね。どうも君はぼくのことを知らないようだ。そこんとこ、君にまず教えてあげたい。一つとして、ぼくは魔法が使えない」

「何だと?」

 踏む力が弱まった。

 エッシェンは床を叩く。

「証拠というか、そんなのにならないかもしれないが、それに近いものを君に提示することができる。魔法は使えないんだ。ちょっとそれを証明するから、立たせてくれ」

「……」黒騎士はためらうように足をそっと下げた。

「ふーっ」

 エッシェンは溜息をついて、服の胸元に手を入れた。

「おっ。あったあった。取られていないでよかった」

「なんだそれは」

「ぼくの旅手帳だよ。今までの旅の記録を残してある。ここ、ここを見てごらんよ。ぼくはこの大陸のエルフじゃないんだ。はるか東の小さな島国、リューゲルからやってきたエルフなんだよ」

 黒騎士は手帳を手にとってまじまじとその帳面を見つめる。

「文字が……エルフ文字でない」

「そうだろう? 彼らの森に行ってみたよ。なんせ迷いやすい森でね、森に嫌われちゃって、三回も振り出しに戻されたんだ。そのときちょうど外に出てきた男の子に案内してもらってようやく里に辿り着いたんだ。いやしかし焦ったよ。彼らみんなまだ古代語なんて言葉を使ってるんだもん。標準語ももちろん話せたけどね。でもぼくは古典研究の成績がよくなかったから彼らの文字に慣れるまで苦労したな。そこの人たちからはずいぶん変な目で見られたっけ」

滔滔(とうとう)と喋くりまくるエッシェンを無言で見つめ、黒騎士は手帳をだらりと下げた。

「だから? なんだというんだ?」

「ぼくはリューゲルのエルフなんだ。だから皇国のスパイなんかじゃない」

「嘘をつくな!」

 黒騎士は鎌をエッシェンの喉元に突きつけた。

「なら何故このゼインにいる。しかも竜爪岳を越えて。……どこ出身だろうと、途中で皇国に雇われたり、日記を改ざんしたりできるだろうが!」

「冒険のためなんだよ」

「冒険?」

 怪訝そうにする。

「ぼくは、冒険家なんだ。こう……知的好奇心がメラメラッ、とね。燃えちゃって。だって人類未踏の地なんだもん。誰に聞いてもここに何があるのか教えてくれないし、近寄っちゃならんって言うし」

 黒騎士は動かなかった。

「……それで? 貴様は皇国のスパイでないから、やつらの情報を何も知らないわけだ」

 ここが生死の境目だ、とエッシェンは思った。

 答えを間違えれば殺される。エッシェンは果敢に笑って口を開いた。

「そう。ところでお願いがあるんだけど、ぼくをここの兵隊にしてくれないかな?」

「なに?」

 膨らんでいた殺気が治まる。予想外の解答に困惑しているのだろう。

「ぼくは安い宣伝はしない。ぼくをここの兵隊にしてくれ。君もどうせ人間だろう? 君も大丈夫ならぼくも大丈夫なはずだ。忠誠心さえあれば。そういうところなんだろう? 魔王城というのは」

「……」

 黒騎士は大鎌を振り上げた。

 だめか、と目を瞑った瞬間、エッシェンは風の止まる音を聞いた。そして、いつまでもやってこない死の感触。

 おそるおそる開けてみると、黒騎士は中空で腕を硬直させて、顔を俯かせていた。

「……」

「……どう?」

「そういうことになるなら、」と黒騎士は忌々しそうに言った。「私の一存で決めることはできん。あの方も、ただの捕虜だったら考えるまい。しかし、奇妙な人物なら、あるいは……」騎士は鎌を引っ込めた。「好奇心のみで竜爪岳をこえ、わざわざこのゼインにやって来たという馬鹿者がいることを知ったら……」

 黒騎士は鎌の柄でトンと床を叩いた。

「笑いの種ぐらいにはなるかもしれん。それまで貴様を生かしておいてやる。私がかけ合ってみよう」

「おお……助かるよ」

「それまで牢屋にでも入ってろ」

 蹴り飛ばされ、エッシェンはデーモンに引き渡される。

 逆方向に去り行く騎士に、彼は駄目元で叫んだ。

「でも、どうしてだい!」

 騎士は奇跡的に振り返った。

 そして騎士らしい凛とした声で返事した。

「あの方は、人間を愛してらっしゃる」

 では、と声にこそ出さなかったが、彼は動作でそう言ってくれた気がした。

 

 

 (二、終わり)ザネロ、そしてこれからのこと…… 

 

 エッシェンは暗い牢屋で、かすかに悪魔の足音以外の音を聞いた。

 それは確かに、人の足の音で、カツ、コツ、と音は硬かったが、悪魔のように物々しくない、体重の軽い者だと知れた。

 エッシェンはすぐにあの者が来てくれたのだと思った。

 やがて、蝋燭を手に持ったその人が、姿を表す。

「出ろ。生きていたら、兵士にしてやる」

 エッシェンはのそのそと牢屋を出た。

「生きてるよ……」

 黒騎士が開けた扉は、物々しい音を立てて閉まった。

「こっちへ来い」

 エッシェンは魔王とどんなやり取りがあったのか、彼の具体的な待遇はどうなったのか、知りたいことが山ほどあったが、黒騎士の背中は彼にそんなことを尋ねさせ得ないほど、威圧感があった。

 蝋燭の明かりを頼りに、どれだけ進んだことだろう。長い階段と、黒い廊下、柱廊、また短い階段、そして一旦外に出て、外郭をずっと反対側へ歩いていったところへ、城の別棟がある。

 エッシェンと黒騎士はその禍々(まがまが)しい棟の入り口をくぐった所で、足を止めた。エッシェンが(たま)りかねて問い質そうとすると、黒騎士は振り返って嬉しそうに両手で肩を叩いた。

「よかったな! おまえ!」

 エッシェンはこのときはっきりと解った。

 今まで騎士の声は作られた声だった。このとき初めて素の「彼女」の声を聞いたのだったが、エッシェンにはそれが(まが)うことなき高い女性の声に聞こえた。

 黒騎士は兜を取った。

 その中から現れたのは、美しい銀糸のような髪の、一本でそれが後ろにまとめられた、人形のように肌が白い、黄金の眼を持つ人間の若い女性だった。

 黄金の眼は、どこか猫を思わせる。

「驚いた……」

 エッシェンがそう言うと、彼女はいたずらっぽく眼を細めた。

「そうだろう。まずそれが最初に来る言葉だと思ったよ。新入りのデーモンみんなに言われるんだ。最初は嫌だったが、次第に慣れてきてその驚いた顔を見るのが楽しみになってくるもんだな。さて、ではさっそくおまえの部屋へ案内しよう。重要な客人などを泊める部屋だ。おまえのような旅人風情が、一生かかっても住めんような部屋だぞ。サウル様に感謝したほうがいい」

 彼女は初めて会ったときとは見違えるほどお喋りだった。そして明るい。公の場と、裏の顔を使い分けているのだと思った。

 エッシェンは彼女の目を見てみたが、どこにも濁った気色はない。エッシェンは目の様子で正常な人間かそうでないか判断するのだが、彼女の目は理性的なもので輝いていた。好感以外の何物も起こってこなかった。

 もっとも、「理性的」という点で、彼女が騎士としてここにいるということに大いなる矛盾があるのだが。

「サウル様ってのは、魔王のことか?」

「そうだ。対外的にはデストローアと名乗っているが、我々はそう呼んでいる。あとでサウル様に直接会いに行かせる。そこでしっかり御礼を言うのだな。だが今は駄目だ。行ったら殺されるぞ。デーモンの貴族、バリウム卿とその眷属がいるからな」

「オレの入隊には反対だってのかい」

「反対していない者など私とサウル様ぐらいなものだぞ。おまえは城中敵だらけということを忘れずにな」

 彼女はずんずんと階段を昇って行く。

 エッシェンは言った。

「なぁ、ひとつ尋ねてもいいかい?」

「なんだ?」

「君の名前は?」

 彼女は振り返って目を丸くした。

「名前など気になるのか。妙な気は起こすなよ。ザネロだ」

「起こすもんかい」

「ならいい。私は身も心もサウル様に捧げてしまっているからな」

 ザネロという彼女はカツカツとまた昇り始めた。

 声が黒い大理石のような壁に反響して大きくなる。

「ザネロ。もうひとついいかい。もしかしたら答えたくないかもしれないけど」

「なんだ。話せ」

「君はどうして人間なのにここで働いているの?」

彼女は少し目を細めただけで、そこまで嫌な顔はしなかった。

「妙な事を聞く。そんなのは忠誠を誓っているからに決まっている」

 エッシェンは質問の仕方を変えなければいけないと思った。

「そうじゃなくて、どうして人間の君が、ここで働けているの?」

 彼女はそこで初めて警戒するような目つきになった。

「言っておく。答えるのは簡単だ。時間を要しない。しかしそう容易に人のことを根掘り葉掘り聞こうとすると、命をはやく落とすことになる」

 エッシェンは手を上げた。

「いやー、悪い。答えにくいんならいいんだよ」

 ザネロは何か呟いたかと思うと、暗闇の中に何か大きな光る物を取り出した。

 それは、よく見たらわかった。大鎌だった。

 首筋に当てられていた。

「愚か者め。調子に乗るな。私は簡単に答えられると言っているのだ。以後口調には気を付けるんだな。私はベンゲルのザネロ。貴様は私の配下の特務兵だ。私が何て言っているのかわかるか? 貴様はせいぜいスパイであることを疑われるなと言っているんだ」

「違うぜ。オレは、スパイじゃあ、ない」

 エッシェンは苦労したが声が上擦ってしまった。

「そうか。では私も別に答えたくなくはないということだ」

 ようやくザネロは大鎌を下ろしてくれた。

 どこから出したんだ、とエッシェンは思ったが、おおかた魔法なのだろう。いつの間にやら大鎌は消えていた。

「私は、」

 すこし失望したようにザネロは背を向けて言った。

「ただ楽しみでおまえを招いているだけなのだ。サウル様もそうきっとお考えだ。言っておくがおまえがスパイでも何でも構わない。脱出できる可能性はもう二度とない。ただそれだけのこと。それを抜きにしたらおまえとは普通に付き合いたいと思っている。頼むから、つまらん人間が聞くような陳腐な質問は、あまり口にしないでくれ。……そら、ここがおまえの部屋だ。わからないことがあればいつでも聞きに来るといい。私は隣の部屋にいる。ランプが点いていれば、私は起きている。……そら、入れ」

 エッシェンは言われるがままに部屋に入った。

 用意された部屋は広々としていて、温かい光に満ちていて、ベッドもあり、この部屋だけ見ていれば、まさかここが魔王城の一角にあるとは夢にも思えなかった。

 去り(ぎわ)、ザネロは悲しそうな顔をして言った。

「以後私のことはベンゲル・ザネロと呼ぶがいい。私はおまえの上司なのだからな。ベンゲルというのは黒騎士と言ってサウル様の直属特務部隊のことだ。悪魔のバリウム卿よりも若干位が高い。それを忘れるな……」

 そして最後に、言った。

「さきほどの問いは、いつか答えよう。……では」

 ばたん、と閉まった。

 

 つづく 

 

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