ある都市のレクイエム

 

   少女は目を覚ますと、見たこともない場所にいた。灰色っぽい汚れた風が吹きすさぶ、廃都市だった。

 廃都市の荒れ様は奇妙だった。いたるところの壊れ方が中途半端で、ほとんどの建物はいまだ半分くらい形を留めていた。しかし廃墟には違いがなく、街のどの辺りも、かすれたねずみ色の霧にも似た汚風が包んでいた。

 少女は絹のように滑らかな金髪を背まで生やしていて、靴も手袋も何も安全なものは身につけず、ただ白くて薄い布を一枚着ていた。

 彼女は瓦礫の林から起き上がって、立って辺りを見回した。ああ、無残かな。少女の視界の中で動き出す者はいない。

 少女は「ここはどこだろう」と思った。見てみればなにやら馴染の深い光景のような気がする。

 彼女はとある四辻に立っていた。対岸の正面には、大きくて白い建物が半壊している。その崩れ方というのも、まるで大砲を天からぶち込まれたみたいで、粉々に消し飛んでいない代わりに、灰色の血を噴き出したみたいに、瓦礫の大きな山が近寄りがたい冷たい風を纏っていた。

 道路に反対側の大きな建物が、その身を崩してうつぶせに倒れていた。彼の下半身は直立したままで、中途から切れていた。

 木々の葉っぱが多数原所からもぎ取られて四辻に散乱していた。

 あっちこっちの看板が剥がれ、片方だけくっついたままで宙ぶらりんになっているものあれば、完全に下に落ちているものもあった。

 少女が空を見上げると、薄い雲が暗く天を覆っており、ところどころ層が薄い所から白く美しい光芒が地面へ突き刺さっている。

 折しも、暗く冷たい風が吹いて、少女は剥き出しの腕を抱いた。少女は上方の大きな建物をじっと見つめて、「あっ」と、あることに気がついた。 

「ここ、私の街だ」

 そうだった。そのとおりだった。

 少女は眠っていた眼をようやく開き、この人が誰もいない廃墟を自分の街だと知覚した。

 少女は悲しみに暮れた。思いがけなく涙が浮かんできて、少女は一人、号哭した。瓦礫の山の上にへなと座り込んで、涙を水のように流した。けれど彼女の慟哭を聞いてやる人物はいなかった。

 ただ暗い色の風が瓦礫の隙間を通り抜けるときに聞こえる「ひょおひょお」という悪魔のような声が、彼女の絶望に対する返答であった。

 あたりに漂うのは物と物の残骸の気配のみであったので、少女はやがて立ち上がった。

 泣いたあとの目で、しっかり廃墟のありさまを目に焼き付けてから、彼女は細い糸のような溜息を吐いた。

 少女は恐ろしいと思いながらも、同時になんて美しいんだろうと思った。彼女は破壊され崩壊して生気もなく横たわっているこの廃墟たちを、まるで古典派の画家の書いた絵のように美しいと感じた。

 それは、倒錯的な美であってどこか終末の匂いのする、侘しさを含む擦れた愛であった。破れた感情の中には、倒錯的な美意識が潜む。

 少女は宝石の粒子のような涙を流して美に耽る。禁断的な愛。しかし世事というものは、こういった危険な光の中にも見劣りしない真実があるもの。少女はうっすらと微笑を浮かべた。

 彼女は景勝を鑑賞するのに飽きると、どこかに生存者がいないかどうか、廃墟を歩きだす。

 ぱき、ぱきん、と小石や瓦礫をどかしたり避けたりしながら、少女は歩いていく。

 しかしそれにしても奇態なことである。

 いったいなぜ私の街は滅んでしまったのだろうか。

 そしてなぜまだ私は生きている?

 ほかの人々が死んだなら、自分もまた死ななければならないはず。だけれども死んでないどころか無傷、そしてもっとも奇態であるのは、私以外の人々の死体が一つも見当たらないこと。結論として思い当ったのは、戦争による都市破壊。他の人々は他所へ避難したか捕えられて殺された。私は運よくかろうじて物陰に隠れられた。そして敵軍が撤退した後ここに出てきて、力尽きて倒れてしまった、と。

 少女は我ながらたいしたこじつけだと考えた。特にその説を保証する証拠はどこにもなく、また意味もなかった。だが精神を安定させるには思考の繰返しが必要であった。

 廃墟は荒涼とした風のほか、ひっそりと黙っていた。

 少女が歩いていくと、通りの右側に、萌黄(もえぎ)色の外装をした三階建ての建物があった。ぼろぼろに塗装の剥がれた階段が上と下に繋がっていて、下は瓦礫の山、上は縦に長い窓が割れていて、その隣の壁に大穴が空けられていた。

 まるで軍隊が本当に来たか、あるいは竜巻でも通っていったかのようだった。けれど少女にとっては、どちらももう終わったことで、調べる意味もないと思われた。けれど少女はこの夢のような都市の中で、たった一人で冷静になってしまうことが怖くて、ずっとここの滅亡の原因を調べたいと思っていた。意味のないことだとお腹の中で思っておきながら。

 少女は時折、本当にこれは夢でないかと考えた。生ぬるい風、汚く荒れ果てた地、時間が止まっているような店内。店の中は床板が全て剥がされて非常に寒々しいあり様となっている。

 こんなお店もあった。

 少女はガラス窓の外から店の様子をのぞいた。このお店は災禍の攻撃から免れて、貴重にもお店の様子をそのまま残していた。

 そのお店は花屋さんだった。

 入口はほかの建物の瓦礫が塞いでいて入れなかった。そのせいで仕方なく少女はガラス窓のところから中に人がいないか探した。

 うごくものはなかった。

 試しに窓をドンドンと叩いてみるが、音が響くだけで、何も動きを見せなかった。

 少女はまじまじとその店内を見た。

 ちょうど店の裏側だったので、会計のカウンターが見える。

 少女は、この近くに住んでおきながら、一度もこの花屋に入ったことがなく、またこのような装いになっていることも知らずにいたことに驚いた。

 カウンターの裏側には、店番が座るためのものだったろう小さな円い椅子と、その裏に本を載せる台がある。台と椅子はそれぞれ木製で、暖かく重厚味があって、黄色い肌をしていた。花々がお洒落に店の後ろにも飾りつけられ、通る人々が喜びそうな可愛さがあった。明るい色のバラやライラック、スミレなどが花輪にされ、間隔をとって、白いレースなどと一緒に飾りつけられていた。花々をいっぱい詰めたバスケットもあった。カウンターの裏の、少し離れたところに花柄のついた白くて古いティーポッドがあって、いつでもお茶が飲めるようになっていた。そのさらに奥には階段があって、きっと住居に繋がっているのだろう、と少女は思った。

 少女はその時が止まった店内を眺めて、胸がきゅっ、と締めつけられ、涙をまた流した。拭おうが、涙は止まらなかった。途方も無いほど自分の知っている風景と変わってしまって、少女は自分が異邦人のような考えがしたのである。そしてまた、自分の知っていた風景、あの温かくて平和だった、キラキラと日光がまぶしい、人が多くて息苦しい、あの軽蔑していても愛していたあの土地の風景が重なって、郷愁の思いに、泣いたのである。泣いていくうちにだんだんそれは絶望と現実否定に変わっていった。

「これは夢だわ」と少女は思った。

 夢に違いないと思った。いつかはっ、と目を覚まし、自分の暗い部屋で、夜明けが訪れつつあるのを確認し、ああよかった、と安堵する瞬間が来るのだ。しかし風は生ぬるくも生気を吸い取るように体の内から冷やしていくし、足を先ほどから傷つける瓦礫と砂とガラスの感触は本物に近かった。

 少女はそろそろ足が痛いと思うようになっていた。

 なるべく瓦礫の飛散が激しくない大通りを歩いて行こうと思い、少女は柵を飛び越えた。

 まずは自分の家が無事かどうか確認しようと思い、少女はそちらへ向けて歩きだした。そしてできるなら、そこでベッドの中に入って、休みたいと思うようになった。その後目が覚めた時、街が元通りになっていることを信じて。

 しかし淡い夢想は破れやすいもの。それ以上の確固とした夢想に押し潰されて。

 大通りから脇道へそれて、ちょっと進んだところにある彼女の家。なかなか構えがよく、決して無作法に大きくはないが、よくお金と手間がかけられてある白い家。外装は白。小さな庭があり、そこに一本古い棕櫚(しゅろ)がある。玄関は赤がかった茶色で、その隣りの窓からは、家で飼っているオウムが顔を覗かせている。はずだった。

 しかし彼女が行ったら、そこは見たこともない家だった。

 背が高くて先端が尖っている棚に取り囲まれており、家の外装は黒かった。奇妙な様子で、漂う雰囲気は陰気だった。

 庭に一つの黒いお墓が立っており、それを少女が柵から身を乗り出して覗いてみると、そこには自分の名前が彫ってあった。

 少女は悲鳴を上げたが、そこまで長続きさせる体力もなかったし、聞いてくれる人もいないから、少女は一頻り悲鳴を上げると、口を閉じて震え出した。なんだか胸にズンと重い鉛を入れられたように、叫び声が上げられなくなるのだった。

 黒い墓に自分の名前、見たこともない不気味な家。少女は恐怖で息が難しくなった。

 棕櫚の木は切り倒されていた。子どもが遊ぶようなボールや、木でできた三輪車などが奥に転がっていた。

 少女は気分が悪くなって、顔を背けた。元来た道を振り返って、両側から崩れている家々、穿たれた堀、道路にまで飛び出した建物の肉片などをじっと目を細くして見て、この終末的な荒れ果てた寂しい世界を、やはり美しいと思った。言葉にできないほど美しいと思った。思った後で、泣いた。

 嗚咽を混ぜて、年相応の少女らしく泣いた。

 顔を覆いながら歩いて行くと、やがて元の大通りへと出た。涼しくて陰気な風が、右から左へと抜けていった。かつては建物が立て込んで、狭苦しかったこの通りの景観も、今ではだいぶ広々としている。少女は泣いた眼から手を離して、すすり泣くのをほんの少し止めた。真っ赤な眼を少し開いた。いつもより背が短くなった建物のために、空がたくさん見えた。寒々しいねずみ色の雲の隙間から、宝石のように煌めく光芒が流れ出ているのは変わりない。止まったままの空模様に、少女は寒気を起こして腕を抱いた。そうして細い息を吐いた。かろうじて吐く息が冷たくならないくらいの寒さであった。

 少女は涙を拭いて、喉の詰まりを整え、再び生きている人の探索を開始した。道で拾ったパイプを手にし、杖がわり、瓦礫どかしに使った。

 動くものはやはり誰もなかった。人間の死体が一つもないのは、やはり奇妙だったが、少女にとっては助かった。

 青々とした街路樹が道路に引き倒されていて、その葉はまるで先ほどまで生きていたかのようにキラキラとしていた。しかし少女が手にとって眺めてみると、それはとたんに輝きをなくした。色が薄くなった葉っぱは、少女の手から離れて、ひらひらと宙を舞った。

 少女は足元の倒木を跳び越えて、また瓦礫の上へ下りた。

 少女はさらに廃墟を進んだ。

 背の高い塔のような住居の、いくつも窓のついた一つから、ふわふわと風に乗ってカーテンがひるがえっていた。建物の壁は剥げて、一部分茶色になっていた。

 少女はそのアパートとかつての食堂との細い路地を抜けて、もう片方の大通りへ出ようとした。ところが、大通りへの出口を瓦礫の山が通せんぼしている。けれど少女は今ではパイプを持っていたので、一つ一つ、上から向こうへ、瓦礫を押し落していくことに成功した。ある程度山が崩れると、少女は出っ張りで怪我をしないように、足をひっかけ、その壁をとび越えた。

 こちらの大通りは、商店よりも住居が多いので、広々としているし、あまり道に瓦礫は飛散していなかった。

 少女は、大通りの一方を見て、目を疑った。なにやら黒くて巨大なものが動いている。なんだろう、と少女は目を凝らした。

 黒くて巨大なものの前に、倒れた塔の上層部が横たわっていて、その黒いものは、切り崩しと突破に余念がなく、こちらに背を向けたまま。

 少女は、しだいに「それ」は、大きな蟻のような昆虫だとわかった。黒くて長い足。足には小さい繊毛が生えている。巨大で丸まった腹部。見ているだけで不気味で、恐ろしかった。

 少女は動悸がしてきて、足が震えた。逃げなければ、という意志と、ああ、こいつだ、こいつがこの街をこんなふうにしたのだ、という確信が彼女の中で氷と炎のように同居した。

 やがて氷は炎に溶かされる。少女が「逃げよう」と思って足を動かすと瓦礫につまずいて転び、「きゃっ」と悲鳴が湧いた。

 とたん黒い昆虫の足の動きが止まり、細い触角をふわふわと空に動かした。

 そして何か感知したらしく、虫はこちらをぐるんと振り向いた。触角をまたふわふわさせると、目標を定め、ものすごい速さで突貫してきた。

 少女は悲鳴を上げて、座ったまま、後ずさりした。腰が抜けて立ち上がれなかった

 しかしそのとき少女の中に、また別の炎が湧き起こってきた。

 街の人々や街を滅ぼしたのはこいつだ。まちがいない。この蟻の化け物がやったのだ。きっと全員この化け物に食べられたのだ。そうなのだ。

 少女は近くのパイプを掴んだ。座ったまま、走ってくる蟻の化け物を睨み、パイプを突き出した。

 絶対に許せない、と思った。少女は歯を噛み締めた。けれど彼女は自分の命がもう無いことを知っていた。けれど不思議と未練はなかった。もう自分以外滅んでしまったからだろうか。あるいは、これでやっとこの奇妙な夢から抜け出せると安堵したのかもしれない。この現実という夢の中から。

 蟻は少女のパイプをその黒い足で押さえつけると、少女の腹部を足で引っかき、しかるのち、食べた。

 

 

   ○

 

 

 少女がふたたび目を覚ますと、そこは、なんとあの荒れ果てた四辻だった。

 対岸にあるあの大きな白い建物は、銀行だったと知れた。街のシンボルだった。少女は腹部をさすった。先ほどあの化け物に切り裂かされた場所だからだ。しかし傷がついていないどころか、服も元通りだった。それどころか廃墟を歩くときについたかすり傷や切り傷もなくなっていた。

 少女は立ち上がった。廃墟は元の通り崩れたままだったが、空を見ているとだいぶ薄暗くなっていた。橙色に染まっているのは一部のみであとは紺色に暗くなっていた。時の経過がうかがえた。

 少女はなぜ自分が生きているのかということ、あの化け物はいったいなんだったんだろうと考えてみた。しかし答えは出ず、こういった意識のみが残った。

 ともあれこの廃墟は消えることがなく、今もあの化け物は破壊と殺戮をくり返しているのだろうと。

 ふいにかすかな人の声が聞こえた。それはまがうことなき人の声であり音楽であった。いや、人の声というよりももっと霊妙で、触れられないほど恐ろしく、それでいてよわよわしい響きであった。じっと耳をすませて聴いてみると、それは歌だった。少女は歌の聞こえてくるほうに吸い寄せられていく。

 二、三歩通りを歩いて、すぐ右手にある、手すりつきの階段を降りていくと、その歌声は大きくなった。

 歌声は子供のように繊細で、絹糸のように美しく、また脆く、そして厳かだった。

 少女はぐるぐると階段を降りていく。今まで見覚えのない階段も降りていくと、外の世界がすっかり隔たってしまったような感慨をえた。ここは別の世界だった。階段の両側は煉瓦の壁となり、蝋燭で明るく茶色に照らし出されていた。少女は手に壁をついてひたひたと降りていく。

 やがて数段降りて行くと、とある小さな部屋についた。部屋には少女と似たような白い布を着た子供が数人いて、それぞれ横に数列並んで歌を歌っていた。

 少女は階段の登り口のところで止まってしまった。

 小部屋の中央には、一人の女性がいた。白くて、まるで星の河のような銀色に見える美しい御髪を、腰のあたりまでふわふわと柔らかく伸ばしていて、彼女は部屋の奥の祭壇に向かって玲瓏な歌声を捧げていた。

 女性の唱歌の後に子供たちの斉唱が続く。それは楽しいがための歌唱ではなく、何かに対しての祈りのように思われた。悲しくて優美な祈りだった。鈴がころころと鳴って、空の模様がころころと変わる。朝、昼、晩。朝、昼、午後、夕、晩、真夜中、夜明け。どんどん変わっていく。やがてこの少女は、これはまるで人の人生を歌っているようだ、と思った。そしてそれを悼んでいるような。そのような気がした。

 歌は長く続けられた。少女はその間ずっと登り口に佇んでいた。ここを去る気も、彼女らに声をかける気も、起こらなかったからである。ただ少女は、彼女らの歌を聴いていて、恐ろしいと思う気持ちよりも、なにか、慰められる気持ちがした。肌がヒリヒリして、胸の奥がぽっと赤くなった。喉が熱くなって、涙が出た。それから彼女は嗚咽をした。そのかすかなすすり泣きさえも、歌声の織り合わせによって取り囲まれて温められた。少女はまるで自分も一緒に歌っている気になった。風が踊り、雲が開け、日光が舞った。歌声は羽根になり、大空をふわり、ふわりと飛んだ。少女は気持ちが良くなって、目を開いた。

 開くと、天使たちは歌い終わってこっちを見ていた。微笑を湛えて。

 女性がするするとこちらに歩み寄ってきて、少女の両手を持って、少し哀しげに微笑んだ。すると少女に向けて「安らぎを」と小声で言った。そうすると天使たちが歩み寄ってきて、「そろそろ帰る時間ですよ」と少女に言った。そうして少女に帰ることを促す仕草をした。

 少女は「けれど」と言ってみんなを見回した。だけど天使たちは微笑むばかりで、少女の言葉を戒めるように首を横に振るのだった。それぞれ頭を撫でてくれたり、抱いてくれたりしたけれど、少女が無理を言おうとすると哀しい顔をするので、少女はついに彼らの手を離した。

 天使たちに別れを告げ、少女は頭を下げて小部屋を後にした。

 階段を登ると、降りてきたころよりもずっと早く上へ出ることができた。地下から外に出て、少女はあたりを見回すと、景色が一変していることに気が付いた。

 暗い夜空に呼応するかのように壊れた街に光が舞っている。否、そこはもう廃墟ではなかった。明るいランプが建物の軒先に吊るされており、花屋の中に光があった。

 瓦礫は風に飛ばされたかのようになくなっている。否、それはジグソーパズルのように戻されたのだ。建物の隙間に。

 街は歯車が舞わっていた。

 光が妖精のように楽しげに舞っている。街の中心地は星の河のようだった。甘いバラ色のランプが愛らしく咲いている。

 少女は一歩を踏み出した。すると足元でちりんと鈴の音がした。見てみると茶色いむく犬だった。紫の紐で繋がれている。紐の原初は男の人の手の中だ。少女は男性の姿を見て、「はっ」とした。

 男性の体は透けていた。白くて薄い輝きがよわよわしく体を包んでいた。男性はこちらを見て、なんにも表情を浮かべないまま佇むと、犬に一声かけ、紐を引っ張っていった。

 少女はびっくりして男性の姿を目で追うと、今度は背後から若い婦人の笑い声が聞こえてきた。少女が振り返ると、彼女らは白い服に赤い木綿のエプロンをしている。頭には白い布を。きっとそこの料理屋の働き手だろう。客に呼ばれないことをいいことに遊んでいるのかもしれない。彼女らも透けていた。お喋りで面白いことがあったのか、しきりに白い歯を見せて笑っている。

 婦人たちのお喋りに引きずられていくように、次々と街中に人々の影が現れ出した。彼らの誰一人として実体を持っている者はいなかった。否、それはこの街も同じだったのかもしれない。ひいてはこの世界も。自分も。

 ふと後ろの婦人の一人が「あ」と言った。少女が振り返ると、彼女は空を指している。暗い暗幕のような空から、白い宝石が降り出してきていた。その宝石は少女の体の中をふわりとすり抜け、地に着いてしゅんと溶ける。婦人たちはきゃーっ、と楽しそうな声を上げ、天からの玲瓏たる贈り物を喜んでいる。婦人たちが雪を掌に集めているのを見、少女が身をかがめて地の雪をつまんでみると、確かにそれは持つことができた。ひらひらと、まるで粉のようだ。冷たさはない。しかし、冷たいと感じられないわけでもない。少女は天の黒の生地と白の斑点を眺めた。まるで川の流れのようだ。止まることがない。人はまるで、その白い点に乗る旅人のよう。はかなく、終わりがない。

 少女は気分を変えて、甦った街を歩いてみることにした。復活した街の景色もなんて美しいことだろう! 人々のひそやかな楽しみと、魔法のような、不可思議なことが起こりかねない空気とが、手を取り合い踊っている。日頃目を覚まさない生き物が起き出し、路地の中から目を出している。探っているのは今夜の自分の舞踏会場。一番楽しんだ者が夜の世界では一番偉い。そう頭で信じ込んで。夜の表層はそれだけでなく、人をどこか詩的な気持ちにさせる。詩想が月の光の川を縫って、夜風とともにやって来るからだ。ひっそりと静まりかえった居住区はまるで別世界のよう。暗幕から奇跡によって降り立つ粒子は、人の心を沈黙させ、奇妙な気持ちにさせる。

 そのように少女は思っていた。街の幻影の地を踏みしめながら。廃墟のなれの果てを見つめながら。移ろいゆく光。何一つ、現実があろう。少女は口元で微笑んだ。手を広げて、踊った。

 しんしんと降る雪。あかあかと照るランプ。ささやかな歌声と踊り。ひっそりとした幽霊。月の夜の都。

 ああ、そうだったのだ。と少女は思った。

 先ほどの小部屋の女性が「安らぎを」と微笑して言ったこと。

 少女は、愛くるしい本の街を眺めながら、自分も人々の仲間入りを果たしたことに気付いたのだ。

          

                              ―ある都市のレクイエム―

 

                                トップページへ

 

inserted by FC2 system