ある男のバラード

 

   この話は、とある不幸でやる方無い男の半生を綴ったものである。

 読者に断っておくのは、この男の半生を、決して自分も体験してみたいなどと思ってほしくないということだ。

 しかし多くの人間は、この男と同じような苦難の道を歩むだろうし、そこからどうしても抜け出せない恐ろしい神秘を知っていることと思う。

 共感してくれとは言わない。ただ彼を、慰めてやってほしい。私が知る限り、慰めることと、許すことは、人間が実行できる行為の中で、もっとも美しくもっとも偉大なことだ。

 彼は本当に哀れな人間であり、実はこの世の中には、この男の友になれる人間があまたいるということを忘れないでいてほしいのだ。それが私の、この作品を書く大きな理由の一つだ。「伝えること」という権利をもっとも享受しているのは、この作家という職業に他ならないのだから。

 

 白く、まるで額縁に縁取られたかのような一風景。

 彼、ルチャーノ・ルッジェーリの目に、華やかな表通りの、白々しく見える風景が、そこを過剰な音を立てて行く馬車が、焼き付いた。

 彼は路地の先の表通りから目を逸らすと、陰鬱な目をし、帽子の庇を手で掴んで目深に被り、ゆっくりと裏通りを歩きだした。

 この彼の住んでいる街、サンチャーノは、表向きにこそ華やかで美しい街だと知られているが、その光が街のすみずみま行き渡るとは、必ずしも、この混沌を好む世の中では、保障されていない。

 ある物体に光を当てればその後ろに必ず影ができるように、物にはすべて陰陽が存在する。それが物事としての正しい姿であり、この影を認めない人は、自分の後ろの影にも、いや待った、自分の影の存在は認めていても、他人の影の存在などまさか見聞きもしたことがなく存在していること自体も知らないから、どこか歪んでいる。

 ルッジェーリも、その影としての正常な産物だった。しかし、ここで特筆しておくべきことがあるが、彼の存在の生まれ方は、他の存在の生まれ方とは、ちょっと違っている。

 いったいそれはなんなのか。

 ルッジェーリは当初光の当たる方にいた人間だ。

 こんな泥とゴミにまみれた裏通りには、ひょんな物好きが起きたとき以外には、一生行かないと思っている大富豪の嫡男に生まれた人物だ。

 彼の本名は、ピエトロ・ヴィンスコンティといい、かつては社交界にも出入りしたことのある人物だ。おそらく彼のように、表の花咲く社交界と、こちらの泥と犯罪の臭いしかしない裏の世界を両方知っている人間は、彼を除いてほかに誰もいないであろう。

 ヴィンスコンティはまだ若かった。そしてとても美しい、天使のような顔をしていた。

 それゆえに幼いころには非常に周りから可愛がられたものだ。彼のいたずらを許さない者はなく、彼に恋慕の情を抱かなかった婦人はおらず、彼と友達になろうとしないやつはいなかった。

 彼、ピエトロは、その全てを冷たくあしらった。またはいいように利用した。彼の心に届いた想いはかつてなく、彼の心を揺り動かした者は、たった一人を除いて、誰もなかった。

 その女性こそが、侯爵家の娘の、そして将軍マルキアンディ氏の妻である、ジュリアーナ・マルキアンディだった。

 彼はジュリアーナに近づいて、その美貌と愛される宿命の力を使って、誘惑した。

「ジュリアーナ様。お気づきではありませんか。あなたのその高貴で冷徹な眼差し、尊大で非常に美しい佇まいに一人のサンチャーノ小僧が挫折と熱病の間で焼かれているのを? おお、答えてはくれませんか、この私の稚拙な愛の詩に? 苦しいことですね、幸福というやつは。嘆かわしいものです、毎日の朝というものは。すべての中心にあなたがいらっしゃらなければ、この言葉もすべて詩人の戯言となるのに!」

 ジュリアーナは顔を真っ青にさせ、目を尖らせ、その非常に美しいヴィスコンティの繊細な目尻を、色赤く、誘惑的な唇を、ほっそりとした鼻梁を、そしていかにも哀れを誘う香り麗しい嘆息を、ほとんど傾きかける思いで見つめた。

 そして、言った。

「まぁ、なんて畏れ多いことを! あなたがなにを考えているのかわたくし、ちっともわかりません!」

「どうかわかっていただけませんか、ジュリアーナ。わたくしは真剣なのです。それと、わたくしをいったいだれだとお思いです? ヴィスコンティ家の嫡男でございますよ?」

「わたくしには、」と、ジュリアーナははらはらしながら言った。

「熱に浮かされて迷子になっている哀れな詩人にしか見えません」

「熱! そう、熱でございます。わたくしはたった今病に侵されています。言うのも恥ずかしい、子どもっぽいものにね! ねぇ、美しいぼくの星よ! 質問に答えていただきませんか? あなたはぼくを愛していますか、それとも愛していませんか?」

 ジュリアーナはためらいがちに言った。

「わたくしは、あなたを愛していますわ」

 熱っぽい眼差しながらも、睨みをきかせて。

「夫よりもずっと。でも、あの人のほうがあなたよりもずっと勤勉で、優しく、物分かりが良いですわ! 恥を知りなさい、坊や! あなたは鳥籠の中で鳥を飼うのが好きでしょう。あなたは私を愛することなどできないわ。さようなら! 哀れなお方!」

 そう言って、マルキアンディ夫人が去っていってしまってから、ヴィスコンティは、いっそう堕落する道を取っていったのだった。

 元々ピエトロは生家が要求する後継ぎとしての資質など、それは具体的に言えば詩や音楽などではなくて実学的な知識だが、軽蔑していた。おお、哀れな坊やよ! 時には絵の純粋な美しさより、絵の作成者の人物像、そして絵の値段のつけ方のほうが、重要になることがあるのだ。このようなやる方ない不幸を背負うことになった彼に神の哀れみを!

 ピエトロは間もなく生家を離れた。多くの健全な若者がそうするように。ちょっと外国へ勉強しに行ってくる、そう言って、たいていの若者が両親の期待を裏切るのと同様に、ピエトロもそうした。彼はそこで酒とギャンブルと犯罪の味を覚え、多くの女を不幸にし、多くの友人をだまし、いつの間にか、数多くの不良どもの統率者となっていた。

 そしてそのかつての仲間も、好きなだけ悪いように利用して、(彼からすればそれが至当だった)彼は故郷に帰ってきた。

 大学ではとっくに登録を抹消されているだろうから、もう両親には報告が行っているはずだ。

 彼はそれを思うと、酒に向かわずにはいられなかった。彼の周りには常に多くの仲間、よくない女、その中でも、熱情的な女、暗くて美しい女、頭がいい女などさまざまな人間がいたが、彼はもう誰にも心を開く気は無かった。

 彼の最大の欠点といえば、この人に愛され慣れているという点だった。

 ルッジェーリはいつも満たされていなかった。

 サンチャーノでは、盗賊の頭領をやっていた。ルッジェーリが盗賊を始めたわけではなかったが、人から盗んだ金をもらって、「わるくないね。もっともっとないのか?」と言ったら、いつの間にか頭領になっていた。

 しかしルッジェリの決まりとして、金持ちからしか金を取ってはいけないというのがあった。この規律は彼がまた愛され尊敬されるのに役立ったが、彼は、実はただ社交界とマルキアンディ夫人に復讐をしたいだけだった。

 ルッジェーリは、改めて視線を上げた。

 糞を焼いたかのような汚臭。潰れた家屋。そこに人が住んでいる。黒い人。

 空は雪色で、煙色。灰色のゴミが溜まっているようで、どこか圧迫感がある。

 ルッジェーリは昔の青春を思い出していた。あの倦みを知らなかった時期はいつまでだったろう。素直な心があったのは? 彼とその他の人らと、恋のやり取りをしていたのは? 全てもがもう自分の手の届かない場所にあった。

 彼はそれをいつ失ってしまったのか、思い出したくても思い出せなくて、非常に虚しい心持ちがした。

 駆け抜けていく埃風。ゴミ。すべてがすべて、ルッジェーリに青春の呼びかけをしているようだった。

 亡くされた青春。黄金の風が吹いていたあの頃。彼自身もそのころは尊大だったが、純粋だった。

 ルッジェーリは息を吸い込んだ。汚物が喉に詰まって、噎せ返るような気がした。

 彼が裏通りを歩いて行くと、右手に半ば破壊された倉庫が見えてきた。そこに近づくルッジェーリ。正面真ん中についているドアを重く開けた。彼の盗賊団の隠れ家の一つがここだった。仲間たちは酒盛りをしている最中だった。

「よう、ルッジェーリ」

 大柄な男が駆け寄ってきて、肩に抱いた。

「今ブルーノたちと飲んでるんだ。おまえもこっちきて飲めよ。きれいな女たちがかなり来てるぜ」

「ああ、わかったよ」

 ルッジェーリは仲間に囁かれると、もうさきほどまでの憂鬱な感じなど、綺麗に忘れてしまった。

 ルッジェーリは多くの見知らぬ女と笑い合い、けど容易にキスは許さず、女たちを焦れさせて何か恥ずかしい真似をさせるのだった。その一人の女が愛の歌と一つの金色のネックレスを贈ると、ルッジェーリはしぶしぶ、頬にキスをすることを許すのだった。踊りを披露したり服を一枚か二枚脱いだ女もいて、そういった催しものをするごとに、彼の仲間たちはいっそう盛り上がった。

 そうして飲み合いもやや佳境を過ぎてきたころに、今晩の仕事の話を彼らはするのだった。

 ルッジェーリは真ん中に立って言った。

「誰か目ぼしい調査をしてきた者はいるか?」

 ルッジェーリの透き通るような美しい声と、その水晶のように雑り気のない瞳にさらされると、みなどうしても出し惜しみなどする気にはなれず、彼に認められたい一心で、我先にと、「あそこなんかいいんじゃねぇだか?」、「いや、おれならもっと簡単にやりやすいところを知ってるぜ」、「金の面だったらウリゴール宅、安全の面だったらカルガランティ宅だな」と、報告し始めた。

 ルッジェーリは魔女のようにくすり微笑んで、「金の面ならウリゴール宅か。どうせなら派手に行こう。理屈で盗みをやるのは好きじゃない」そう言って、行こう、と言うかのように、腕を回した。

 そう、ルッジェーリにとってはどちらでもよかったのだ。こんなものはただの遊びだった。この盗賊業は今の彼にとってはすべてだったのだが、そのすべてこそが、彼にとっては遊びだったのである。

 おお、このような病に罹ることのなんて可哀そうで不幸なことか! 彼、ルッジェーリとその仲間たちに罰と救済あれ!

 ルッジェーリは夕方から晩にかけて、その邸宅を襲うと決めた。なぜならその時間こそが、人々がもっとも浮足立つ時間だと知っていたからだ。嵐のように現れて嵐のように立ち去る。それをルッジェーリたちはモットーとしていた。

 先行していた仲間の一人、カンパネラが情報を携えて戻ってくる。

「やっぱりいけそうだぞ! おれたち、ルッジェーリ団!」

 おお! と仲間たちが声をそろえる。当のルッジェーリは、その中心で、にたり、と奇妙で恐ろしい微笑みを浮かべていた。

「さぁ行こう!」

 ルッジェーリがそう合図すると、男たちは一斉に行動を開始した。邸宅に四方八方から近づき、まずは陰に身を隠す。玄関組がまず呼び鈴を押し、使用人に鍵を開けさせる。その時間と同時に全員はハンマーでガラス窓を破り館内に突入するのだ。

 使用人はすでにのびていた。昔からそうなのだが、盗む人間というのは、蛾のように光り輝く金銀財宝にたかる。自分に少しでも資産があると感じたなら、家主は必ず厳重に害虫対策をしなければならない。

 もちろんウリゴール宅にも門番や警備人などがいたのだが、すでに油断しているところを倒されていた。この黄昏どきというもの、もっとも人に対して注意を払わなければならないというのに、人間というのはとにかく気を緩めてしまいがちである。それも、誰もこの夜になにか危険なことが起こるとは夢にも思っていないからだ。

 そうして盗賊たちは思いのままに振る舞っていた。家の住人らを薙ぎ倒し、金品を漁る。これは明日の酒手だ。戸棚から銀の食器を奪い取り、宝石箱は我先に。服飾品もほとんど持ち去り、上等な酒を金庫で見つけると、盗賊はおぞましく微笑んだ。

 ルッジェーリは事件の中心で神として指揮棒を振っていた。彼はオーケストラのリーダーであり、音楽の根元だった。

 財宝に目の色を変えている仲間をよそに、彼だけはなんの金品にも手をつけていなかった。ただ気のいい仲間たちが宝石のついた指輪やブレスレットなどをズボンのポケットなどに入れてくれていた。

 彼だけは正常な顔をして中心に立っていた。いや、彼が一番狂っていたのかもしれない。この事件すべてを茶番だと感じているのだから。

 と、そのとき、奥の部屋で一つの恐ろしい叫び声が聞こえた。住人の悲鳴や盗人の喊声ならさっきから聞こえていたが、その声の、事切れるような、悪魔が一瞬現実に現れたかのような声音は、とても独特で、その後ずっと耳に残ったので、邸宅は数秒静まりかえった。ルッジェーリは奥の部屋に急いで行ったが、たどり着くと、一人の大男が、地面に蹲っていた。

「おい、ブルーノ?」

 ルッジェーリが呼びかけると、大男は、自らの下にいた者から手を離し、立ち上がった。なんと、そこには、一人の老婆がいた。

 大男は首を絞めていたのだろう。死んでいる。

 ルッジェーリの後ろにどやどやと他の仲間も集まってきた。

 その老婆の死に顔の恐ろしさといったら! まるで悪魔にでも会ったというような、あるいはこう言えばいいのか、蛙が挽き潰される瞬間の顔とも――。

 目は過剰に見開かれ、眼球が若干浮いている。口は奇妙な形で中途半端に開かれ、舌が下唇に乗っている。手はなにかを掴もうとしたのか、中空に伸ばされたまま固まっている。

「おい、ブルーノ?」

 ルッジェーリはもう一度繰り返した。

 大男は振り返って言った。

「よぉ、どうした? おまいさん方。さっさと取るもん取って、ずらからねぇのかい? いい気持で自分の手柄なんかを眺めてると、すぐにそいつも消えちまうぜ」

「それはいいけどよ、ブルーノ! まずはそこんところに横たわってる哀れなボロぞーきんについて説明してくれよ!」

 ビアージョというのっぽの仲間が言った。

 ブルーノは足元にいる踏みつぶされた虫でも見るような目つきで、答えた。

「ああ、これかい? ははっ、あんまし首のネックレスを離しやがらねぇもんだから、つい、やっちまった」

 このブルーノという男は、今の「つい」という言葉を特別強調し、にたりと微笑んだ。

「それでどうしてかなーっ、って思ったらよ。見ろよ、この宝石の裏ん所、親愛なる母、ジュリーへ、って掘ってあんのよ。ケッ、おおかた、可愛い息子さんからのプレゼントじゃねぇの?」

 この薄汚い物言いと微笑みには、ブルーノと仲の良い数人の盗賊たちも、顔を引きつらせ、首を振ったり、後ずさりした。

 ブルーノは凄んだ。

「それともなんだ。このおれのやり方がまさか気に入らねぇとでも言うのかい? それともあるいは、このおれのネックレスが欲しいか、ああ?」

 そんなネックレスなど欲しいものは一人もいなかったが、仲間たちはそんな残酷な巨漢に恐れをなして、ほとんどは廊下へと出て行ってしまった。

 一方ルッジェーリ当人は、さっきからずっとこの老婆から目を離せないでいたが、ふいに視線を上げると、その眼差しはブルーノのそれと交差した。

「いかしてるよ、ブルーノ。ケッサクだ」

 ルッジェーリはブルーノのぶ厚い胸を二三度拳で叩くと、冷酷な笑みを浮かべて彼に背を向けた。

 ルッジェーリに褒められたことに最高に気を良くしたブルーノは、その後さらに屋敷内で暴れまわり、街の警察が現れるまでたった一人で金品を物色していた。そして彼はいつの間にか仲間が全員消えていることにも気が付かなかった。なんていう皮肉だろう。彼はさきほど自分が言っていた通り、自分が手に入れた宝物に酔いしれて、ついにはそれを手元からなくしてしまったのである。

 ブルーノの暴走はルッジェーリ一味にとって、目くらましの効果とほとんど同じだった。彼がたった一人で置き去りにされたと気づいたころには、ルッジェリたちは別の街の倉庫にたどり着いていた。そこに盗んできた物品を一度隠し、それからは数人ごとのグループに別れて、それぞれ別の方法で本の街に帰るのだった。

 すべてこれはルッジェーリが考え出したルールだが、彼だけはいつも、一人で街に帰郷するのだった。盗人の仲間の誰一人として信用していないので、いつでも行方をくらませられるようにするためだった。

 ルッジェーリは馬車も蒸気機関車も使わず、徒歩で暗い道を歩いていた。

 通りの片側だけ家々が連なっている風景を、そしてそのそれぞれのつつましくも華やかな装いを、四角い窓の奥から見える黄金色の蝋燭の明かりを、彼は見た。

 すべてがくだらない、と彼は思った。あの家々から聞こえてくる軽薄な笑い声も、海が近いことを知らせる潮騒のソナタも、この陰湿な風も。彼にはぜんぶの景色がくすんで見えた。そしてそのそれぞれにも、情緒や一種のノスタルジックな美しさとかは、少しも見い出せないのであった。

 彼は今まで途方もないくらい忘れてしまった過去の思い出の数々を思い出そうと努めた。しかし浮かんでくるのはどれもさっきの悪鬼のような老婆の死に顔の様子だった。あの必死になにかを求めている顔。生前は優しかったろう、柔和な瞼の線が、あの無作法な力によって引きちぎられていた。あの老婆の顔が、なにかを訴えかけるように、何度も何度もルッジェーリの頭に飛来した。

 ああ、なんとあの女性の不幸だったことか!

 ルッジェーリはいらいらした。

 光り輝く不気味な白い月が、ほのかに彼の視界を照らした。

 通りの左側をみると、家の並びは終わっていた。代わりに街役場のような大きな、威厳の香る建物があり、それは壊れていた。

 警士の持っている明かりや、街の灯が、その崩壊した建築をバラ色の輝きで包んでいた。それはなんだか見たことのある建物だった。しかし彼には、どうしても思い出せなかった。

 崩壊は先ほど始まったようで、犯人はまだ捕まっていないらしい。役人や野次馬たちが輪をかいてその建造物を取り囲み、なんだかひっそりとしていた。

 ルッジェーリはいい気味だ、と思った。この牛野郎め、くたばっちまえばいいんだ。そう思って背を向けた。

 風がいつになく強く吹いていた。ルッジェーリは歩き出そうとしたが、また立ち止まった。

 この群衆はいったい何のために集まっているのか、不可解だった。彼にはすべて意味がなく思われた。

 人が生きている意味は何だろう、とルッジェーリは思った。

 それは……。

 そんなものはない。ただの無だ。そう考えた時、ルッジェーリは突然後ろから誰かに突き飛ばされた。

 起き上がってみようとすると、腰に焼かれるような激痛が走って、立ち上がれなかった。思いがけなく腰に触ってみると、妙に温かくひりひりした感触が手に置かれた。

 それは血だと、判断しきれたのは、自らの背後に立っている男の手の中に、赤い染色がべっとりとされた、一振りの刃物が握られていると気づいたときだった。

 そしてルッジェーリは、「あっ」と思った。

 後ろに立っているのは、自分の先ほどまでの仲間だったのである。

「おまえ……」

「ル、ルッジェーリ。いてぇだか? オラちゃんと刺せただか? あんたがもう動けねぇように」

 ルッジェーリは、うずくまり、ただこの男の名前を思い出そうとつとめていた。

 この男の名はなんだっただろう。あれ、おかしい。覚えてないぞ。ああ、そうか。おれはこの男の名をはじめから覚えてなかったのだ。彼はその答えに行き着いて、満足した。口に冷笑を浮かべ、そこから漲る赤い血をたらした。

「ルッジェーリ。頭領。あんたは最低男でゲス野郎だ。あの腐った男、ブルーノの豚野郎とあんなにひ弱そうな婆さんを殺したことで盛り上がってやがって。あんたはすげぇ美しくて天使みてぇだが、心には悪魔や化けもんが住んどる。これから先、いってぇどれだけの男や女がその顔に騙されるかわからん。だ、だから、ここでオラがあんたを殺しとくんだ。ひ、ひぃー!」

 男は感極まった表情(かお)で、喜んだ。

「や、やった。ルッジェーリ様をオラが殺したぞぉ! オラのものになった! あんたは一生オラの中で生き続けるんだ! そうさ、オラの名はマセラッティ! あんたの顔はオラのもんだ!」

 ルッジェーリは霞がかかっていく意識内で、理解した。マセラッティ。そう、そんな名だった。ルッジェーリは微笑する。

 それは彼にも理由のわからない微笑みだったが、彼はこの自分の前で飛び跳ねる狂人のことを、わずかだが愛した。

 憎しみの気持ちや怒りよりもまずそれが先行した。

 死に行く身体をわずかに動かして、彼、マセラッティに顔を向ける。そして彼と目が合った。そのときにつぶやいた一言といったら、彼ルッジェーリが大人になってから初めて真心を込めて言った一言であったろう。

「ありがとう」

 マセラッティ。ルッジェーリはかすかにそう呟いて、こちらを見下ろす狂人を見ながら、目を閉じた。

 何も見えない闇の底に沈んでいくようだった。

 そうして何も考えられなくなる。

 彼の体は暗闇の渦の中を散歩していた。

 やがて衣服が剥ぎ取られ、すべての空間が自分の皮膚と、魂そのものと一体になっていった。

 するとやがて一筋の光明が差し、それがだんだん大きくなっていった。

 暗闇が消えていく。輝きが強くなっていく。ルッジェーリの身体はものすごい速さで光のほうに飛んでいった。

 そしてそこにたどり着くと、彼は目を覚ました。

 うっすらと目を開けると、そこは森であった。木漏れ日が美しい。彼が眠っていたのは森を通る道の中心であって、土は土色だった。まるで乗馬の練習場のような長い長い、先はほとんど見えないほどの一本道であって、彼は立ちつくしていた。

 自分の姿を見るとなんと少年の姿をしていた。手足は細く、貴族が着るような上品な青い服を着ていた。

 ルッジェーリは「ここはどこだろう」と思った。さわさわと葉擦れの音しかしない。

 しかしこの木漏れ日の美しさといったら! 何本も連なって地面に照りかける光芒は美しかった。風の調子で千変万化し、それはまるで、葉擦れのコーラスによる、無音のハープの演奏のようだった。

 ルッジェーリは非常に感動して、足を踏み出そうとした。しかしそのとたん彼の足元に穴が開いて、彼は落ちてしまった。

 彼が落ちていく筒状の穴の中には、星々の運行が綴られていた。まるで宇宙空間に投げ出されてしまったがごとく、彼は星々の舞いと演奏を目の当たりにする。

 流れ星が流れてきて、ほかの星に当たる。すると、こつん、と木琴のような音がして両方とも砕け散る。流れ星はどんどん飛来し、星々はかちかちと鳴る。とたんに木琴の踊り出しそうな演奏が始まって、彼の目の前では星々の踊りが始まった。

 彼は地面に着いたが、痛くはなかった。彼はそのまま走り出し、ぽんぽこぽんぽこ、と鳴る音楽に後押しされるように、その青い暗闇をかけ抜けた。

 やがてかけ続けると、アーチ型のトンネルの出口のようなものがあり、そこを抜けると、彼はまた森へと出た。

 そこは先ほどの森とは違っていて、幾分か魔術的であり、メルヘン的であった。やや丸い葉っぱが特徴的。

 さてそこでルッジェーリが目にしたのは、木造のスイス風の山小屋だった。その玄関から外にちょっと進んだところに、大きな木のテーブルがあり、白いテーブルクロスが布いてあった。その上には銀製の見事な茶器があり、なんとウサギの紳士風の妙な生き物が、座ってお茶を飲んでいた。

 ウサギ男の前にはアヒルの女性がいた。やはりこちらもお茶を飲んでいて、ピンクのドレスを着ていた。

 二匹はこちらをほぼ同時に見た。

「きみはだあれ?」

「あなたは、どなた?」

 ウサギの紳士とアヒルの淑女は、大きくて丸い瞳をくりくりさせて尋ねた。

 ルッジェーリは胸に手を置いて、貴族らしく挨拶をした。

「わたくしは、あー……、ピエトロと申すものです。姓のほうはヴィスコンティ」

「ヴィスコンティですって!」

 ルッジェーリは「そうですとも」と答えようと思ったが、そのウサギの紳士の驚きようがすごくて、黙りこくってしまった。

「ああ、大変だ大変だ!」

 ウサギは立ちあがって、せわしそうに左右を行ったり来たりしていた。

「まあギュッペルさん、少し落ち着いたらどうなの?」

「えっ、ええ。そうですねマドモアゼル」

 ルッジェーリは困惑して動けずにいたが、ウサギの紳士が何か言いたげにこちらを向くと、すっと背すじを正した。

「なにか?」

「いえ。あー、あなたはですね、ヴィスコンティさんというんですね」

「そうですが」

「まずはその名をお捨てくださるようにお願いします」

 ルッジェーリは不思議なことだと思った。この名前が必要ないどころか名を捨てるようにお願いされるとは。

 ルッジェーリは首を横に振る。

「ではわたくしは何と名乗ったら?」

「あなたはこれからハインリヒと名乗ります」

「ハインリヒ? わたくしが住んでいた国の名前とは違いますね。それじゃまるでドイツ人だ。ほかの名前ではいけませんか?」

「なりません」

 ウサギの紳士はせわしそうに懐中時計を見ながら言った。

「あなたはこれから私についてきて下さるように」

「どこへ行かれるのですか?」

「それはあなたにとって大事なところです。ああ、時間がない! それとあなた、えー、ハインリヒさん。先ほどの私の失態、見なかったことにして、忘れてくださいね。さっ、行きましょう!」

 ルッジェーリはやれやれ、と思った。けれどこの愛らしくせわしないウサギの紳士はなかなか好きだ、と思った。

 ああ、好き! 好きだと思ったのかぼくは! ルッジェーリは驚愕した。このような気さくな友情、今まで誰にも感じたことがなかった!

 ルッジェーリはアヒルの淑女のほうにも向いた。

「ではごきげんよう」

「行って参ります。お茶にはまたあとで、ご同伴させていただきたく存じます」

「まあ」

 アヒルの淑女はそう言って、ガーッ、と笑った。

「ご丁寧なこと」

 ルッジェーリはお辞儀した。そうするととてもいい気分だった。ルッジェーリは新たな発見を感じてばかりだった。しかしこの感慨、この純朴とした奉仕の気持ち、これらはみな故郷の匂がした。なにものにもたとえがたい、素朴な完美さをそなえていた。ルッジェーリは心でうちふるえて、どうにかこの原因を突き止めたいと思った。

「ねぇギュッペルさん」

「なにか?」

 彼は振り返った。

「ぼくはどうしてハインリヒになるんでしょうか? それとこの場所は?」

「やれやれ、ハインリヒ殿!」

 ウサギの彼は肩をすくめた。

「あなたは聞きたがり屋さんですね、博士殿! 一度に二つの質問をしてくるとはなかなか見上げた人物だ! 答えは一つ、あなたにとって必要だからだ! そしてもう二つ、あなたの性はアッシェンバハですよ」

 ルッジェーリは体の中で反芻した。ハインリヒ・アッシェンバハ。

「アッシェンバハ、かぁ。なんだか詩人みたいな名前だな」

「あなたはこれからあなたの必要な場所に行くのです。ハインリヒ君。あなたがそうであるべきところにね!」

「それは?」

「せっかちな坊や! まずは私についてきて! ああ、長話! 長話! 時間がなくなっちゃったよ! あー忙しい!」

 ウサギはとても速い足で飛んでいったので、ハインリヒ(ルッジェーリ)は走って行った。

 やがて白いオパールでできた、とても高い塔に着き、二人は扉を開けて中へ入った。

 中は非常に美しい装いだった。なにか高価そうな家具が置いてあるわけではないけれど、壁や地面はすべて真っ白で、螺旋状に上に伸びた階段もすべて白だった。

 ウサギは階段を登ったのでハインリヒも後から登った。

 最初は軽やかに登れたが、ハインリヒはだんだん登るのが辛くなった。

 唯一外を見れる窓があって、そこを覗いてみると、なんとルッジェーリの故郷が見えた。遠い彼の故郷は、マロニエの葉が春風に舞っていて、美しかった。彼は故郷を懐かしいと、一瞬思うと、すっ、と首を引っ込めて、また階段を登っていった。

 さらに登ると、ハインリヒはますます体が重くなった。ウサギの彼に休みませんかと伝えたが、彼は時計を指差して、急ぐようにとせかすのみ。

 ハインリヒはくたくたになりつつ、ふと、塔の壁を見ると、真っ白だったのが、いつの間に変わったのか、だんだん黒い鉄色にくすんでいるのに気が付いた。階段の色も、黒く、重苦しかった。

 今度は窓ではなくて、壁の一部分が崩れていて、風がひゅーひゅーと音を立ててそこから出入りしていた。

 ハインリヒは近づいて、建物の外を見下ろしてみた。そして彼は驚いた。今度は彼の街が赤々と燃えていたからである!

 火の粉が空中に舞い、森に伝わっていた。ハインリヒは息を潜めた。なんで自分の故郷が燃えているのだろう。ウサギに尋ねてみようと思ったが、彼は黙々と歩き続けるのみ。ハインリヒは息を切らしながらも、慌てて追いすがるのだった。

 今度はどんどん塔の色が濃くどんよりとしてきた。窓の外を覗くと、暗雲は重くたれこめていた。彼の故郷は遥か彼方に汚くくすんでいて、なんだかちっぽけに思えた。彼は秋だ、と呟いた。

 それから彼とウサギはまた進んだ。彼はもうほとんど肩を落としてゆっくりと歩いており、その顔はまるでなにもかもに絶望したように見えた。

 ウサギは立ち止まり、情けなさそうにハインリヒのことを見下ろした。ハインリヒがそこに辿り着くまで、長い時間がかかった。

 いつの間にか塔の中心に大きな時計の振子が吊り下がっており、それが一定のリズムで、こち、こち、と音を立てていた。階段を登っていくにつれて、その音は静かに、重くなっていった。

「さあ、急いで! ハインリヒ!」

「そうは言っても、ギュッペル殿。ぼくの足はなぜだか非常に重いのです。この重さがなんなのか、教えていただけませんか」

「それはですね、手短に説明しますと、」

 ウサギの紳士は時計を見ながら言った。

「あなた自身の重みなのです」

「それは、どういうことでしょうか?」

「あー、時間がない! 急いで、ハインリヒ君。ああ、でも大丈夫。もうすぐだからね!」

「もうすぐとは、あとどのくらいでしょう?」

「それはね、坊や。窓の外を見ればいいんですよ。そうしたらきみの居場所がわかる!」

 ハインリヒはそうして、次の窓がある場所まで歩いて行った。

 足の重みにもだんだん慣れてきた。けれどその代わり、今度は胸に重みがやってきたのだった。軽快な足取りをえられた代わりに、ハインリヒは心をどんどん重くしていった。

 そうしてやがて窓のある部分まで辿り着くと、ハインリヒはほとんど首を突っ込むようにして覗き込んだ。

 ハインリヒは窓の光景を見下ろしながら、凍り付く思いだった。

 ハインリヒの街が灰にかぶっていたのである。真っ白く、人気(ひとけ)の消えた故郷は、ある見方で非常に美しく見えた。終末の都市としての、崩壊するものとしての寂しい静寂があった。もうハインリヒの故郷からは、花も、人も、音楽も、変化も、虹も、穏やかな風もなくなった。ハインリヒはじっと、窓の外から目を離せなかった。天を見上げると、か黒い暗雲がたち込めていた。ハインリヒはとあることが恐ろしくなって、首を引っ込めてしまった。

 しかし、首を中に戻す間際、偶然だが目に留まったものがあった。それがわずかな一筋の黄金の光だった。ハインリヒはそれを胸に留め、非常に苦しい階段を登っていった。

 ウサギの姿はもう見えなくなってしまっていたが、ハインリヒはそのためたった一人で登った。ハインリヒには、ここがどこだかわかったのである。

 そして息も切れぎれ、頭はちぎれるような痛さ、胸には非常に深い悲しみを感じながら塔の終焉に行き着くと、ウサギは待っていてくれた。

 ハインリヒはウサギの姿を見ると、今までの疲労や重みが嘘のように消えてくれた。しかし胸の中には非常に凄烈な悲しみと、少々心地よい郷愁が残った。塔の最上階には不思議な民族的情緒のある門があり、ウサギはその前で待っていた。

 天空で朝らしい黄金色の光が、窓からほんのわずかに入ってきていた。

「ようやく来ましたね、ハインリヒ殿。三分五十二秒遅刻です。また私は怒られちまうよ!」

「ありがとう、ギュッペルさん」

 ハインリヒは微笑んだ。

「わざわざ案内していただいて」

「いえいえ! あなたもよく頑張ったと思われますよ! ところで、この長い塔を最後まで登りきった者に、ご褒美があるんですけどご存知ですか、ハインリヒ!」

「いいえ、ギュッペルさん」

「それは一つ願いが叶うことですよ」

 ハインリヒは息を止めて、じっとウサギの紳士の眼を見た。

 ウサギは何も語らず、ハインリヒの目を見返しながら、こう続けた。「なにかないんですか?」

「願いはどんなものでもよいのですか?」

「どんなものでも! それがあなたの権利であり義務だ!」

「それでは、」

 ハインリヒは胸に手を置き切実な目で言った。

「わたしにひととものを愛する心をください!」

 ハインリヒは続けた。

「わたしのもう一つの名は、ルチャーノ・ルッジェーリ。悪名高き盗賊の一味です。わたしが人生を駄目にしてしまったのは、答えは一つ! わたしは愛されるばかりだったからです! わたしは愛するというものを知らなかった。いや、知っているには知っていたが、それを忘れてしまったのは子どもの何歳くらいだったのでしょう。わたしがすこし媚を売れば、聞き従わない男女はいなかった。すべてが思い通りに行きました。たった一つ、愛する喜びを感じるということを除いては! それはなんという不思議なことだったのでしょう! 愛されること、とりわけ多数の誇り高い女性に愛される満足感や快感より、一人の友人を愛することのほうが、何十倍も大きくて充実しているだなんて! それはこの世の神秘! しかし今のわたしはもうそれを感じ取ることができます。どうか、ウサギのギュッペルさん。わたしの願いを叶えてください!」

 ウサギの紳士は、ハインリヒに答えて言った。

「おめでとう、ハインリヒ・アッシェンバハ君。さあこの門をくぐって」

 すると、塔の最上階の門が重く開いた。

 ハインリヒは、その門の奥からの、溢れんばかりの光明を浴びて、驚きと最大の感慨に、涙を浮かべるほどだった。

 胸のつっかえが取れ、彼は、力が抜けると、その黄金色の輝きの中へ引き込まれていった。

 彼は眠くなったので、去り際にウサギに対してこう言った。

「そういえば、あなたはとっても男らしい目をしていましたね! ダイヤモンドのようだ! そんな美しさに気が付かなかったなんて、わたしは今までどうかしていたよ! それじゃあまた! アヒルの彼女にもよろしく!」

 そうしてハインリヒは、目を閉じた。

 ハインリヒが目を閉じると、そこからもう彼の意識はなくなった。闇に心の眼が覆われ、光の温風によって彼の魂は天空に運ばれていった。

 そのころ、同時に、あるドイツの寒々しく辺鄙な街で、一人の赤ん坊が生まれた。

 彼は街の老牧師から、ハインリヒという名を賜った。

 彼の瞳は氷のように透き通っていて、見る者の心に感傷をもたらした。膨らんだ頬も、可愛らしく、口に湛えた笑みは天使のようだった。

 けれどこのハインリヒという男の子、育つ旅に醜怪さが増し、人々は街の遊歩道で彼とすれ違うたび、いやな思いがして、気分が悪くなった。

 なんて奇怪で醜悪な子どもなんだろう、と、誰もが思った。

 ハインリヒ・アッシェンバハは誰もがするような遊びをしなかったし、しょっちゅうぼーっ、としているので、よく人々から気味悪がられた。

 ハインリヒ・アッシェンバハは不浄の子どもであり、彼の両親はきっと悪魔的な秘儀を行っていたから神様の罰が当ってこんな醜怪な子どもが生まれたんだろう、と揶揄した。

 けどハインリヒ当人は、そんな人々のことを、ちっとも憎んでなどいなかった。自分のことで悪い冗談を言われたとき、悲しそうな父親の眼が、「おまえはどうしてこの家に生まれてきたんだい?」と語っていても、いやには思ったが、彼は自分を嫌う人々を、愛さなくなったりすることはなかった。

「これが報いだ」

 あるときハインリヒは、考えてもないそんな言葉を、鏡などで自分の顔を見つめている時に、突然口にすることがあった。ハインリヒはそれが自分の中に住む悪い本心だと解釈して、次に人々から悪口を言われたときは、いっそう自分の態度や行いを責めるようになった。

 果物屋のおじさんが泥棒をしたと言ってハインリヒの顔をしこたま殴ったときも、ハインリヒは自分の、泥棒に間違えられそうな仕草をしているから、こんなことになるのだ、と思って、本当の犯人が彼の息子だと判明したときも、何一つ口を開かずにいたし、彼が学校に上がってから先生にひどい差別的な採点などされたときも、自分の行いや容姿のことを恥じた。

 けれどハインリヒは自然、天空、人々、鳥たち獣たち、水の流れる音さえも愛した。

 ああ、なんて美しいんだろう!

 雨の上がった後の森の葉っぱ、静かな夜のもの言わぬ月、こっちを見てふんわりとほほ笑んでくれる花、見ているだけでずっと飽きない空の青さと雲の動き! 散歩している親子の戯れ、子供が母に言うわがまま、それを宥める母、調子よく一緒に子と遊ぶ金髪の父、みんながハインリヒの眼には光り輝いて映った。

 ハインリヒはよく自身の街の裏にある山へと出かけ、そこにある数多くの自然を享受した。

 遠くで水の流れる音を聞くのが好きだった。山の斜面に咲いている多種多様の花々にひらひらと舞い降りる蝶々が好きだった。地面に寝転んだとき、目に見える木漏れ日の揺らめきが好きだった。おお、なんて美しいことよ! 特に雨上がりの朝は! 水分がはじけて飛んで、草花のつつましい香りを増して、そこらじゅうで微笑んでいるみたい。夕べの湖に移る入り日の段切りにされたのも忘れてはならない。ふくろうの奥深い鳴き声、そしてなんといっても山の中腹から見下ろす街の夜の華やかでどこか魔法的な装い、遠くかすれた笑い声、それをたった一人で聞いている穏やかな気持ち。ハインリヒは醜い容貌を顔に携えながらも、この世界に満足していた。彼の心の中に響いているある音楽があり、それが彼にこの世界を輝かしいものに見せているのであった。

 ああ、しかし、彼は人々のほうを愛しても、人々が彼を愛するということは、なかった。

 同級生の子どもたちからいじめられ、時にはどうしようもない悪がきから唾をひっかけられても、ハインリヒの心には、そういう人々が、じつに生き生きと、美しく息づいていて、しかたなかった。

 彼が成長していくにつれ、その度合いは高まった。

 彼は詩を書くようになった。

 この彼の美しい気持ちを、いつまでも残すのは、詩しかなかったのである。

 だが詩に没頭していくにつれ、彼の顔はいっそう醜悪になっていった。

 しかし彼の心は、これだけは忘れてなかった。親切の心! 彼は多くの人々や生き物に親切を施した。見返りは多くの場合返ってこなかったが、彼にはそれでもよかった。なぜというなら、彼が人々や動物に優しく愛情を贈ったことで、それだけで彼の心は満たされたからである。自分は自分自身に対していつも誠実であり続けました。その約束だけで、いつも彼の心は満たされたのである。

 詩はことごとく不評だった。しかし彼は目に映る美しいものを書き留めるため、詩を書き続けた。

 鳥の、ぶぅん、と、弧を描いて飛んでいく姿が好きだ。空色の天にある一つの光芒、それが差し込む教室の窓が好きだ。早朝に野良猫たちに餌をやる近所のおばあさんが好きだ。夜に鳴くナイチンゲールの歌う歌が自分の心を冷たく孤独にする。でもそんな感慨が、まるで自分の心が洗われるようで、気持ちよかった。

 ハインリヒは年齢に比して、過剰なほどに老いていった。若年のうちから目の尻に皺が入り、顎鬚は白くなった。

 けれど彼はそのようなことを気にも留めなかった。

 ああ、彼以上に、この世という時間を楽しくすごしている者はいるだろうか! いないはずだ! なぜなら物を愛するということは華美な装飾、美しい恋人、金と銀でできた、この世に一つしかない調度品を手に入れるよりも素晴らしいことだからだ! 愛の花よ、彼だけでなくみなの心にも咲け! 愛よ、そなたは美しくないものの体に宿るであろう! その者の美しさを高めるために! そしてそのものの心を唯一無二のものとし、かけがえのないものにするであろう! ハインリヒ君、きみは実年齢のわりにお爺さんで不細工だが、なんて世の寵愛を一身に受けていることか! 信じがたいほどである!

 彼は学校を卒業してから、働くあてもなく(彼の詩はほんに少数の人からしか理解されなかった)、家にも帰れないので、彼の昔のごとく、浮浪者の集まる場所を彼の住みかにした。

 彼は家なしの浮浪者たちの間でも、比較的孤独だった。彼の詩的な仕草や眼差しが、浮浪者たちからしたら理解されがたかったし、彼は詩人であったから、みなと仲良くなるために卑俗な世界に足を踏み入れるのは、妥協と映ってしまった。彼らと一緒に飲むと、とうとつに自然のことを愛する目がくもって、今まで非常に美しく見えていたものが、とうとつに何でもない粗雑な風景に変わってしまったから、彼はこのことを非常に恐れて、それ以来浮浪者たちとの会合も避けるようになった。

 彼は孤独になってから、さらに美しいものを多く感じ取れるようになった。

 彼はよく神に祈った。祈ることは何でもよかった。ただ「祈る」という敬虔な気持ちが好きだった。

 月の明るい冷えた晩、彼はふと裏通りを歩いていると、暴漢に襲われた。若い数人のグループだった。彼らは酒を飲んでいて、ふらついていた。彼らは新しい酒手を得るためか、ハインリヒの懐の財布を盗もうとした。ハインリヒは驚いて何も言えなくなっていると、彼はまだ何もしていないのに、背後から別のもう一人が、足の裏を彼の背中にくっ付けた。

 そのまま押し倒されるハインリヒ。地面に這いつくばる。そこを暴漢の拳や足が襲う。彼は血を吐いた。

 そのおりちょうど雪が降り出してきたころだったから、悪党たちが気分を紛らわすのを終えると、ハインリヒが倒れている周りが、真っ赤に円を作っていた。

 彼は眼から涙を流しながら、暗い夜空からしんしんと降り続ける雪の舞いを見た。彼は熱い息を吐いた。悪党たちは去っていった。

 ハインリヒは唐突に冷めていく自分の視界を、美しいと思った。体中が死にそうなほどに痛くてそれどころではなかったが、唐突にそう顔をあげたとき、そんな光景に、暗闇の黒と白に、どこか子どもの頃の淡い原風景にも似た、郷愁を誘われる美しい風景を見つけた。

 それは体の熱がなくなっていくときだけに見られる、彼特有の、彼だけにしか見えない幻の風景だった。

 彼はそこを立って自然に歩いていく自分の姿を想像した。彼は立ちあがってどんどん歩いて行く。すると次の瞬間には街の人々の影が現れる。ランプや街の赤色な街灯が流星のごとく流れ始め、彼は彼の頭の中で音楽を鳴らした。

 彼はその遠い景色を見て、にっこりとした。それから彼はゆっくりと起き上がって、体の大部分を地面につけながら、腕だけで雪の氷道を歩いたのだ。

 行き先はどこなのか、彼の頭には見えていた。

 途中、崩壊していたと思われた街役所が、ほとんど完成していた。その周りには誰もいなかった。彼は並木道の歩道を進んでいった。彼を取り囲んでいる家々は、ひっそりと物音もせず暗くたたずんでいた。彼は、真っ白な雪の海に、ずるずると血の川をつけながら、涙を流して進んでいった。

 そして彼が辿り着いた先、彼は息絶え、うずくまって、白くなった。

 その後その玄関のある家から出てきた中年の女性が、我が家の軒先に白い、うずたかくなっている固まりを見つけた。なんの気なしに雪の覆いを取ってみると、彼女は、その中から現れ出した老人の亡骸を見つけて悲鳴をあげた。

 折しも、夕食に呼ばれた牧師が夫と共に家の外へ出てくる。おびえている妻を目にして、引き締まった顔で歩いてくるが、妻を驚かせた原因のものを目に入れると、夫のほうは腰を抜かしてしまった。

 けれど彼とともにやって来た牧師は、男ほどには驚かないで、その代わり目から透き通った涙を流した。

 慌てふためいてこの家なしの老人のことを、我が家の前で死んだことに対する恨みや呪いばかり口にしている夫婦をよそに、老牧師は身をかがめて、亡骸の上に積もった雪をどけてやると、涙を浮かべ、「ああ、こんなことが!」と嘆いた。

 夫婦がいぶかしく思って、「そんな見ず知らずの乞食にまで優しく丁寧に慈悲をたれるとは、さすが牧師様!」というと、老牧師は涙をこらえきれなくなって、がばとかの亡骸の上に覆い被さり、額にキスをした。

 驚きおののいて後ずさりする二人に、老牧師は、雪の積もった固いところから、凍りついて真っ白になった老人を抱え起こして、顔に苦痛の表情を浮かべて言った。

「神の哀れみがありますように! お二人とも、まだ気づきませぬか! ああ、今宵は大変悲しいことになった。小雪が降りしきる中、神は慈悲を最後までこの子に注いではくださらなかった! いや、待てよ、おお、なんていうことだろう! 殴打され腫れ上がったこの子の顔が、血が現れて、だいぶ綺麗になった! おおハインリヒ! おまえは本当は愛されていたんだね! こんなにも安らかにうっとりとしたまま命を終えられるなんて。おまえは本当にいい子だったよ。ハインリヒ。おまえは、おまえは、ああ! 優しい子だった。よくお眠り。もう決して、おまえが辛い思いをせぬよう、私たちが立派に葬ってあげる。いつまでも幸せでいるよう、私たちは下界から見守っておくよ!」

 彼のきれいな死に顔を見つめた彼の両親は、涙声をあげて、その亡骸をいたわり、生前の不実を詫びた。

 その後彼の残した詩は、死という永遠美のため広く認められるようになり、今では錚々たる歴史的詩人の仲間入りをし、今でも孤独な愛に目覚めた人の、慰めとなっている。

                                

―ある男のバラ―ド

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