舟歌

   

   舟が、すぅーっ、と、湖水に走った。

 それを手で押し出した若者が、それを追いかける。後ろであわてている婦人の手を引いて、その小さい舟に飛び乗るのだ。

 湖の水面がかすかに揺れて、男女のひそやかな笑い声がこだまする。

 刻は月明かりの夜。パーティを離れた城主と若い婦人が、ひっそりと舟でおしゃべりをする。

 舟の中には火を入れられたランタンと、ヴァイオリンが一張あった。

 若い貴族はその楽器を手に取ると、出だしはゆっくりと、雅やかに、愛の歌を弾き始めた。

 その弦の響き様といったら、とうてい素人の言葉では、言い表せるものではない。夜の薄闇に優しく織り込まれ、月光が彼を明るく照らすのは、まるでその音に導かれ、祝福しているのかと思われるほど。さらにその楽曲には変化があり、ときには熱く希望を語り、ときにはさわやかな海の調べを送り、またときにはしっとりとした郷愁の風もそよがせた。

 森林のささやきも彼、ダヌンツィオの演奏にうっとりとし、夜鳴くナイチンゲールも彼の歌に合わせて歌った。

 その愛の音楽を聴いたエリーゼの心境といったら、このか黒い月夜もまるで美しい暁となり、同様に黒い湖も湖底の王国が見えるようだった。舟によせつける波紋ひとつひとつが、湖の精の祝福に見え、星々は彼の演奏の抑揚に応じて輝きの度合いを変えているようだった。

 ときにダヌンツィオは演奏を幻想的な夜想曲にと変えた。

 それはというと、先ほどの演奏よりいっそうたおやかで、いっそうしんみりと心誘われるようで、エリーゼは顔を真っ赤にして、涙をうっすらと溜めた。

 するとどうしたことか、ダヌンツィオとエリーゼの小舟のまわりに、小さな羽根の生えた、子どもの天使が現れたでないか。

 天使たちはめいめい楽器を手にしており、一人はフルートを、一人はヴァイオリンを、一人はヴィオラを、そして一人はシンバルを、そしてあとさまざまなものを持っていた。

 さらに演奏を続けるダヌンツィオの頭に花環が乗せられ、すると、ダヌンツィオの演奏がいっそう華々しく響くようになり、彼の姿はいっそう美しく見えた。

 羽の生えた愛らしい天使たちは、彼の楽器の高鳴りに合わせて、めいめい楽器を鳴らし始めた。天使たちの伴奏がつけ加えられはじめると、その夜想曲はいっそう豊かに、いっそうたおやかに、そしていっそう物語を語るのだった。

 それは愛の物語。

 憧憬と求愛。愛が突然窓をたたいて顔をのぞかせたあの日。ぼくはそれ以来あなたの青い眼差しから離れられません。女神のごとき美しさ、神聖さ。ぼくは跪いて、頭を垂れましょう。あなたがぼくの額か唇にキスをしてくれるまで、ぼくは決してあなたの傍から離れません。

 エリーゼ。ああ、愛しのエリーゼ。

 愛しています。あなたの柔らかい頬、桃色の唇、かわいらしい瞼、いたるところにキスを捧げるお許しをくれませんか。

 ヴァイオリンの音楽で、幻想的でほのかに苦しい旋律が高鳴る中、ダヌンツィオは指先や弦の弾き具合、歌の調子で、自分が知る限りの愛の誓いを、そして誠実な心情を、あますところなく伝えきった。

 そして演奏が終わる。

 火照った顔でダヌンツィオはエリーゼの顔をうかがうが、そのときの美しさ、愛らしさといったら! 天使たちにも劣らぬほど!

 ダヌンツィオはすぐさま跪いて、エリーゼの御手を取った。エリーゼの手の甲にキスをする。

「愛しています。ああ、ぼくのこの気持ちは、ちゃんとあなたの心に届いたのでしょうか! 愛しい愛しいエリーゼ! 宝石や天使の絵にも劣らない美しいあなた! どうかぼくのものになっておくれ!」

 エリーゼはかがみ込んで、ダヌンツィオの額に小さくキスをした。

 それから女神のように敬虔な顔をして、ゆっくりとダヌンツィオの唇に唇を合わせた。

 エリーゼの目から涙があふれた。

「どこにも行かないで。私の愛しい夫。私の騎士。あなたが行くところならどこまでも行かせてください。私は最初から、それほどまでにあなたを愛しているのです」

 ダヌンツィオとエリーゼは結婚した。

 天使たちからは祝福され、愛しい愛の歌を聞いた森の動物たちは木の実やそれぞれの持つ宝物を持って現れた。

 さまざまな人がこの、幸せな二人組を祝福し、これ以上似合いの夫婦もいないと、みな微笑んだ。他の夫人で、エリーゼの幸福を羨まない者はいなかった。

 彼らはみんなから祝福された。

 そうして、彼らはそんな祝福を裏切らなかった。湖畔の城にはいつも優しさと微笑みが絶えず、ダヌンツィオとエリーゼが結婚してから、湖の周りには色取りどりの花が植えられ、森の動物、鳥たちは喜びと幸福の歌を歌ってやまなかった。

 そうして夏が過ぎ、秋がひっそりやってきて、冬になった。何年も何年も過ぎ、ダヌンツィオとエリーゼの子どもも大きくなった。

 彼らの湖の畔には、幸福や笑いだけでなく、ときには言い合いやすすり泣きの声もあったが、それがしばらく続いたと思うと、今度は必ず仲直りの印、演奏会やダンスパーティなどが開かれるのであった。彼らの音楽は絶えることなく、いつまでも続いた。

 そうしていつしか、二人にかわいらしい孫ができたころ、ダヌンツィオとエリーゼも老いてきた。頭には霜をかぶり、長い間、とても長い間の苦難と希望、喜び、優しさ、涙のあとが、額や目元に、皺として刻まれた。

 孫との暮らしは、老年になった彼らにとってなんて楽しいことであったろう! 子育ての気負いから、思う存分優しくしてやれなかった息子と娘、しかし荷が降りた今なら、好きなだけ可愛がることができるのだ! それはなんて楽しいことであったろう! 城にはかつてないほど音楽と詩と絵画と微笑みがあった! 森に住む動物たちの名前をダヌンツィオは教えてやり、エリーゼは湖の周りに咲くさまざまな花の名前とその魅力について教えてやった。

 孫たちはすくすく成長していった。男勝りな姉、シルフィアと、気が弱くやさしい弟ダッデはそれぞれ楽器に親しくなった。ダヌンツィオもいっしょにヴァイオリンを取って花咲く湖畔で曲を弾いた。老年になった彼の演奏は昔とまったく変わっていなかった。青い天空に爽やかに溶けこみ、滝の音をあらわし、壮大な冒険を語った。孫らにとって彼はホメロスであり、ときにはオルフェウスだった。世界を愛し、世界に愛される爽やかな人だった。演奏が終わったあと、花畑で待っている祖母のエリーゼの焼いたクッキーとお茶がおいしかった。

 そして時は流れて、六十五歳のダヌンツィオの誕生日、この日に立派で素敵な城主様の誕生日を祝うとともに、気立てがよく、優しい奥様、エリーゼとの結婚四十周年を祝うパーティも開かれた。

 地方や都会の城主様の友人たちが現われ、さまざまな遊戯をして楽しんだ。紅いワインを飲み、温かく笑い合った。著名な詩人なども来て、とっておきの出来の詩などを奥方に贈った。しかしその詩の意味は当の詩人にしかわからず、苦笑をもよおした。

 詩人たちや代議士たち、教授、将軍などが酔って騒ぎ、疲れて眠くなってきたころ、老城主はみんなを息子に頼み、エリーゼとともに城外へ出た。

 城の外へ出る時、若い青年、淑女も後ろについてきた。彼らは楽器をたずさえていた。孫のダッデとシルフィアだった。

 老祖父母は頭をなでてやり、頬にキスをした。

「おじい様」

 と、ダッデがダヌンツィオの懐に隠されているものを指差した。

 それは一張の古いヴァイオリンだった。今まで一度も弾くことがなかった、とうに思い出の品と化したと思っていたあの古いヴァイオリンだった。

 ダヌンツィオは子供らしく、「ちぇっ」と口をすぼませていう。

「見つかっちまったなぁ。いいよ、おまえたちもおいで。いいね、エリーゼ?」

 エリーゼは優しくうなずいた。

 そうして四人は城を出て湖畔へと向かった。

 満月の、綺麗な月夜だった。

 湖畔には一艘の舟が用意されていた。

 老人のダヌンツィオが舟を湖面に押し出そうとすると、力が足りなかったので、ダヌンツィオとエリーゼは初めから舟に乗っていることにした。後ろからダッデとシルフィアが押し、すぅーっ、と、舟が湖に走ると、駆け寄って、その舟に飛び乗った。

 その舟は偶然、四人が乗って、少しくらい強く動いても、びくともしない大きさだった。

 ダヌンツィオはまず孫にこう言った。「まずはおまえたちが弾いておくれ」

 シルフィアはギターを、ダッデはフルートを持っていた。

 静かに、そっとかすかに、音を鳴らし始める。まるで夜の満月の光のように。森の眠りのように。それから曲は高く、広く、伸びやかになり、その曲調は、聞く者を大空に羽ばたかせ、空中を歩かせた。かと思うと水際に降り、水しぶきを上げながら走らせた。縦横無尽に飛び回り、老人たちを祝福した。若者らしい積極的な演奏だった。

 ダヌンツィオはその白い顔に可愛らしい笑みを浮かべ、ヴァイオリンを取って立ち上がった。

「わしの演奏も見ていておくれ、エリーゼ」

「はい」

 エリーゼは立ち上がる夫の姿を見て、結婚したあの月の晩のことを思い出していた。

 途中から、まるでそこに最初からいたかのように、ダヌンツィオのヴァイオリンが演奏に加わった。

 曲はいっそう変化に富み、顔を輝かせた。楽しい光が周りに煌めき、湖の舟の周りをとびかった。森の住人たちは茂みから顔を出し、耳をそばだたせ、うっとりとした。

 森の妖精と巨人の行進のようで、老楽師は重く丁寧に、その周りを溌剌とした若い妖精が飛び回るように、ダッデとシルフィアは演奏した。それはそれは楽しい演奏会だった。シルフィアとダッデにとってもこの老楽士がこれほどまでに美しい演奏をしているのは見たことがなかったし、自分たちの演奏に加わることで、こんなにも形容しがたい美しさ、大空へどこまでも飛び立っていけそうな、神々にまで祝福されているとさえ感じるような、こんな奇妙で素晴らしい感慨に満たされるとは思ってもみなかった。

 さて、どうしたことだろう。

 自分たちの目の錯覚だろうか、舟の周りに本当に神々たちが現れたのだ。

 天使の羽が生えている人が数人、踊るように舟の周りを飛びかっていた。

 彼らはダヌンツィオとエリーゼを祝福しているようだった。

 至極霊妙な!  なんとその天使たちはめいめい楽器をいつの間にか持っていたのである!

 そして楽器で歌を歌い始めた。

 ダヌンツィオとエリーゼを祝福する歌だった。そしてこの可愛い子孫たち。天界の楽士たちの演奏は、耳にして心が躍るようで、言葉にできないほど美しいその音と旋律は、今聞いた直後に忘れてしまう、そのような美しさだった。

 ダヌンツィオはなんだか体が軽くなったような気がした。そうしてえも言われぬほどに心地が良い。

 弦の音ひとつひとつに自分の人生が集約され、それが高められ、どんどん際限なく空へ昇って行くような。

 もうダヌンツィオの目に夜の闇は映っていなかった。光の世界であり、宝石のように美しい粒子でちりばめられた天空に、清められた階段があり、自分はそこを登っていくのだ。演奏が高鳴っていくにつれ。

 ダヌンツィオは思った。おや。森の動物たちが見える。みんなこっちを見ておるぞ。愉快。愉快。

 今度はエリーゼが見えたぞ。老いてもまだ美しい妻。うっとりとこっちを見ておる。

 エリーゼはなんだか見たことのない花の花環をかぶっている。

 なぜだ、と思ったら、頭の上に羽の生えた可愛らしい子どもがいた。

 ダヌンツィオはそうして、ああ、と理解した。

 それからはどんどんきもちがよくなっていった。

 どんどん光の階段を登っていった。エリーゼとともに。

 ふと、気がつくと、舟はいつの間にか対岸へとついていた。

 演奏は止まり、ダヌンツィオとそのほか三人は岸へと上がる。

「眠いなあ」と、ダヌンツィオは思った。

「眠い。とっても眠い」

 そう考えながら、ダヌンツィオは、岸を歩き、孫たちに「ちょいと疲れちまったよ」と言って、月夜に浩々と照る湖畔の城をすべて眺められる位置に、木の幹にもたれかかるようにして、座った。妻のエリーゼもそうした。

 そうして老楽士とその良い伴侶は眠ってしまった。

 森の動物たちが集まり、花たちがそよと顔を向け、木が心配そうにうつむくが、それから、老紳士とその伴侶が目を覚ますことは、なかった。

 このとても幸福だった夫婦は、息子たち娘たちの手で手厚く、なんとあの城の全景が見渡せる、あの亡くなった場所に、葬られることになった。森の動物たちに委ねたのだ。

 棺に入れられた彼と彼女の顔は、天使のように美しく、見るものを驚かせた。

 それから、これはやや後日の話になるが、ある日、森の見張りが墓所の近くに巡回に訪れると、なんと、書いていなかったはずの文字が、墓碑の最後に、何者かによって付け加えられていたのである。

 これがその内容だ――。

「ぼくは幸せだった! みんなの心の中にも音楽が住みますように! 

                              ダヌンツィオ・ヨハネス」

                                     ―舟歌―

                                 

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