第7章 パルス=アンデュラス

 

しばらく、奇妙な浮遊感があった。

風がごぅーっ、と耳の端をこすっていき、ジーナの心には、落ちている、という感覚がしばらく続いた。なにも見えない暗闇へ真っ逆さまだった。ジーナにとってはそれが何分も、何十分の長さにも感じられた。しかし地面にぶつかったときの衝撃がさほどではなかったので、ジーナは一瞬、不思議な感覚にとらわれた。

それは実際の落下時間が二秒ほどだったからで、――しかし、ジーナたちはまだ助かったわけではなかった。そこからさらにまた斜面となっていて、ジーナたちはさらなる暗黒のほら穴へと滑り落ちていった。

 ベルやフューリーのかすかな悲鳴が聞こえる。ジーナはそんな悲鳴などを上げる余裕もまったくなかったので、上げられなかった。ただ極端な浮遊感と空気の圧迫感に体の中の神経がめちゃめちゃになり、ただ待つことのほかには、なにも手だてがないという状況だった。

 しばらくその斜面を転げ落ちていくという感覚が続き、やっとそれが切れてくれたのは、最後に大きくぶつかった地面が、柔らかい砂のようになっているとわかったころだった。

 ジーナはそこからよろよろと立ち上がり、尻をさすりながら、上を見上げた。

 なにも見えなかった。

 先ほど角や斜面にぶつけて怪我をしたところをさする。案外怪我はひどくなっていなかった。先日オークに切られた傷もやはり無事であった。ジーナは、ここの地面が砂状でひどく助かった、と感じた。

 しかしそこは、やはりなにも見えない空間であった。それは、ただ明かりが存在しないからといった暗闇ではなく、暗闇という物質が、つねに四方にびっしりと箱詰めにされているような、そんな種類の暗闇で、つねに陰気な空気が自分の四肢にまとわりついている気がして、気持ちが悪かった。あと、なぜかものすごく寒かった。

 ジーナは深呼吸をして、ゆっくり考えてみる。

 ほかの仲間たちも同様に落とされてしまったはずだ。まずはかれらを探すことにした。

「フューリー! フューリー!?」

 ジーナはこごえる声で叫んだ。

「パリス、ベル!? 虎さん!」

 しかしすぐには返事が返ってこなかった。だが、

「ジーナか?」

 すこし離れたところから、フューリーの希望の声が返ってくる。そちらにジーナが顔を振り向かせた直後、ぼっ、と炎の灯る音がして、フューリーの顔が認められるようになる。

 両者は駆け寄っていって、ひしと抱き合った。

「フューリー!」

「よかった! 無事だったか!」

「ええ。……でも、私たち、出口にはたどり着けなかったわね。相当下のほうまで降りてきてしまったわ」

 喉が枯れきっていて、ジーナはそれからごほごほと咳き込む。フューリーは自分の背中から水筒を取り外し、ジーナに飲ませた。

「私は身が軽かったから、いいとして、きみに怪我がなかったのは奇跡だな」

「そうね。地面が砂だったから助かったわ」

「思うに、こう計算されていたんだろうな」

 ギザラの声が、遠くの暗闇から聞こえた。フューリーの炎を目印にして、のしのしと、頭を押さえながら歩いてくる。パリスやベルも後ろにいた。

「お嬢様……怪我がなかっただか? なによりで……」

「もうだめかと思いましたよ。ふぅ、気が抜けちまったら喉がかわいたな。おい、おれにも水くれ」

「たしかにみんな無事でよかったけれど……どこなのかしら、ここ?」

「おそらく坑道の最下層だ」

 フューリーが厳しい顔でいった。

「我らは、門にたどり着く直前で、橋の下に落ちてしまったのだな」

 ギザラがその言葉を引き継ぐ。

「あの最後の橋は、おそらく、なんらかの仕掛けでオークが触ったらすぐ切れるようにできてたんだな。マントヴァかドワーフが最後にしかけていったんだろう。敵を外に出さないためにな。まさか、その下がつるつるの斜面になっているとは思わなかったが」

「……」

 フューリーは油断のない顔を崩さずにその話を聞いていた。

「どちらにしろ、」

 一行を見渡して、それから、周りの暗闇に目をやる。

「私たちはまた振り出しに戻ってしまったというわけだ」

「振り出し、で済めばいいけどな」

 ギザラの皮肉に答えるものは誰もいなかった。

「みんな。まず、自分の装備や持ち物が無事か確認してくれ」

「剣はあるぜ」

「おいらも、剣と鞄は無事でしただ」

「私もよ」

 それぞれ、自らの荷物がなに一つとしてなくなっていないことに気がつく。しっかり体に括りつけていたからだろうか。

「おれも槍を手放すことなんかねぇしな」

「よし」

 フューリーはいった。

「ならばまず、上への出口を探そう。なにか階段があるはずだ。ここはとてつもなく広い空間のようだが……なるべく速い時間で見つけるぞ。ここは寒いし、夜が更ける」

「まじかよ……」

 すこし休ませてほしい、と表情に出したパリスが、思いきり溜息をついたその直後だった。

 獣のうめき声がかすかに聞こえた。

 それは狼の威嚇の声のようでもあったが、またそれとは違う、もっと巨大な生物を想定できるようなおぞましい声だった。

 すくなくとも狼の体格の十倍はあっただろう。

 ジーナたちはその声の聞こえたほうへと全員顔を向ける。

 うめき声はまたもや続けて発せられた。それは、なにか、神聖な獣がうるさい虫の羽音のせいで眼を覚ましてしまい、不機嫌による訴えを発しているようにも感じられた。

 フューリーが、息を飲む。あのフューリーまでもが恐怖で硬直していた。

 それから、地面が大きく揺れて、それが重い足音だと数秒後わかった。ジーナは倒れそうになり、フューリーに支えられる。

 のっし、のっし、と地響きを四方に轟かせながら、ゆっくりと砂地を移動してくる物音が聞こえる。

 それはどちらへ?

 こちらへ?

 思考は速く動いても、体は動かなかった。

 そうして、おぼろげな闇の向こう、枯れた黒褐色の向こうに、なにやら、おぞましい巨大な影がうっすらと見えたとき――、

ぼうううぅっ!

 と、巨大な火焔が、この砂地の上に降りかかり、地面は焼かれた。めらめらと火柱がそこかしこに立ち、そこに鎮座していた巨大な獣の姿を照らし出した。

「りゅ……」

 フューリーは引きつった声で叫んだ。

「りゅ、龍だっ! 黒龍!」

 ジーナたちの目の前にいたのは、赤々と燃える炎に照らし出された、見るもおそろしい、神聖で重厚な輝きに包まれた、屈強な黒龍だった。まるで宝石のように艶やかで堅固そうな鱗を持ち合わせており、眼は燃えるように赤く、かぎ爪は処刑器のように鋭く、また不吉な色であった。

 めらめらと炎が沸き立つ中、フューリーは全員に向かって叫んだ。

「逃げろっ! 散れ!」

 フューリーの声によって、ジーナたちは正気を取り戻し、一目散にそれぞれ違う方向へ逃げ出していった。

 しかしそれは、めずらしく、フューリーのとった失策であった。

 黒龍はじっと動かずにその光景を見守ると、ゆっくりと、自らの視界にある三方向をねめ回し、もっともひ弱そうなジーナの元へ、右足を踏み出した。

 そして左足、右足、次は左足、と、だんだん歩く速度が上がってくる。

「しまった!」

 フューリーもそこでやっと冷静さを取り戻し、駿足の魔法をかけて、一瞬にして龍とジーナの背中の間に割り込んだ。そこで彼女は翡翠の名剣、ハイゼルフェルトを抜いた。

 主人の危機に際して、その魔法の剣は、ほとばしるようにその光芒を四方に放った。

 そしてその輝きは、一瞬ほど、その黒龍の動きをひるませた。

「すまない、ジーナ! 一瞬でも私は誓いを忘れてしまった! くっ……やはり、こいつは古代の上龍、ラヴァエーレの眷属バルシェアだな! やはりまだこの坑道に住み着いていたのか!」

 黒龍はその輝きの原因、一人の人間の女を認めると、ガフッ、と口の中で炎を噛み殺すようなうめき声を上げて、あごを引いた。

「ジーナ、これから私の言うことをよく聞いてくれ!」

 フューリーはハイゼルフェルトを構えつつ、後ろに必死に逃げているジーナに向かって大声で呼びかける。

「こいつがかつて外の世界と行き来していたころの抜け穴がどこかにあるはずだ! 見つけてくれ! それはとても大きい! くっ!」

 そのとき、黒龍バルシェアの口から灼熱の火焔弾が出て、フューリーのついその直前までいたところを、真っ黒く吹き飛ばした。運よく足速きフューリーは、それを逃れ、砂煙を巻き上げながら、黒龍のやや左に移動した。

「いいか! とても大きい穴があるはずだ! それもこいつがまるまる通れるくらいだ! それを探してくれ! いそいで! それまでは私がこいつの注意を引きつける!」

 ジーナはそのとき、ちょうど遠くの端にまで逃れ得て、頭が混乱したまま、息をぜいぜいと吐き、呼吸の苦しさに肺を押さえて、もう片方の手で膝をついていた。

 ちっぽけな勇気はすべて、浜辺で流されるゴミのように、圧倒的な恐怖に流されてしまった。

 理智の剣、シュフラストゥは沈黙している。

ジーナは身体が萎縮し、思うように動かせなかった。ただ心がどんどんと血流に載せて、「恐ろしい、恐ろしい」という命令を全身に発していた。それを四肢は自然的機能として受け取り、ジーナをここまで情けなくも遁走させたのだった。そしてようやく今ごろになって、ジーナは背後でフューリーが黒龍バルシェアに向き合っていることを知るのだった。

それはここから遠く離れた場所での出来事だった。フューリーは黒龍の火焔をかわし、かぎ爪の合間を縫って、脇腹に剣を流させていた。そしてそれから、龍の肩を、とん、とん、とん、と軽い足取りで登っていく。

 そして輝き放つハイゼルフェルトで、竜の弱点――竜の角を横向きに斬りつけた。

 しかし角に傷はつかない。バルシェアはそれでかんかんに怒ってしまったようで、頭上のうるさいハエかなにかを追い払うように、かぎ爪を駆使し、首を振り、逃れ得たフューリーに、黒い火焔の奔流を浴びせかけた。

 フューリーはそれをさらに風の魔法で回避していた。

 自分の身体を風の魔法で吹き飛ばしたのである。それは火焔をとても綺麗にかわし、また彼女の四肢を砂地の上に立たせるのに成功した。それはまるで何事もなかったかのように。

 ジーナは身震いしていた。

 体の皮膚の一枚下のところで、勇気と怯懦がともにせめぎ合っていた。

 そしてそこに様々な感情が、入り乱れて合戦を行なっていた。

「どうすればいいの……どうすればいいの……っ」

 ジーナは震えて力の入らない両腕を、持ち上げ、ゆらゆらと頭に寄せた。

 そして感情の合戦でめちゃくちゃになった頭で、考えた。

 逃げること。なにか安全な武器で遠くから戦うこと。魔法でフューリーを援護すること。そんな選択肢しか思い浮かんでこなかった自分の脳細胞と虚弱な精神に、ジーナは鉄槌を食らわしてやりたくなった。憎々しい感情が心全体を支配し、地団駄を踏んだ。砂煙が立つ。

 どうすればいい。どうすればいい。

 考えがうまくまとまらなかった。

 もはやフューリーの先ほどの呼びかけなど、ジーナは覚えていやしなかった。

 ただパリス、ベル、フューリー、ギザラと一緒に無事にここを脱出すること。そのことしか考えられなかった。

 そのとき、左手に固い、こざっぱりとした感触が伝わる。

 ジーナは無意識に「シュフラストゥ」に左手を伸ばしていたのだ。

 シュフラストゥの冷たい表面温度に手は冷やされ、ジーナは瞬間、迷妄から解き放たれる。

 じょじょに頭から熱気が消えていき、氷の気配がにじり寄ってくる。

 ジーナの心に静かなさざなみが立った。

 それは、ジーナの立っているこの場だけ、この恐ろしい暗闇の戦場から、神の手によって区切られてしまったかのような感慨だった。

「シュフラストゥ」

〈あなたよ〉

 冷たい呼びかけが心の中に反響する。それは、女性とも男性ともつかない中性的な声だった。

〈あなたにできることをまず考えなさい。そして無理をしてはなりません。また、意味のないことをしてもなりません〉

 ジーナは黙っていた。静かなさざなみの音を聞いて、まるで自分が物音静かな海岸にいるような感慨になっていた。

〈時間はたっぷりとあります。ここでなら。あなたの抽象的な世界でなら、いくらでも、あなたは、あなた自身と会話できます。あなたの無理のないように、あなたにできる最大限のことを行ない、あなたの目的と希望を達成しなさい〉

 ジーナはそこで、自分自身の意思と、また、その「シュフラストゥ」という存在と、思う存分語り合えた気がした。

 そうして、会話や議論にも飽き、考えもまとまると、さよならをして、ジーナは暗闇への扉をくぐっていた。

 直後、視界はあの魔の戦場の端へと戻る。

 それは、たったの一瞬の出来事でしかなかった。

 しかしジーナは、そこでもう何年分もの会話をなしたような気がした。

 ジーナはもう慌ててなどいなかった。むしろ、ふと他人が見たら気でも触れてしまったのではないかと疑うくらい、落ち着いていて、平静であった。

「そうね」

 ジーナは鞘から理智の小太刀、「シュフラストゥ」を抜いて、目前に掲げてみせた。

「まずはここから逃げる算段をすることが重要よ。龍に本気で立ち向かうことほど無謀で無益なことはないわ。さぁ、逃げましょう。私のやるべきことは、フューリーの言ってたとおり、まず逃げ道を確保することよ。できるだけ速く。そして……」

 ジーナの言葉に反応して、そのシュフラストゥの刀身は、じょじょに銀色の輝きを強くしていった。

「私の愛する人たち、ベル、パリス、フューリー、そしてギザラさんたちを逃がすのよ。逃げ道は、必ずあるわ。この地下には風の流れがあるもの。ほら、よく落ち着いて。風の流れを感じて。わかるでしょう? あったわ。風の流れ。さぁ、そちらに行きましょう」

 ジーナはシュフラストゥを片手に持って、先ほどよりもずっと速い速度で、出口のほうへ向かいだした。それはフューリーたち黒龍に立ち向かっている仲間に背を向ける行為であったが、あの中で誰よりもジーナは、現実的な勝利へと立ち向かえている人だった。

 ジーナの口には微笑みさえ浮かぶ。

「シュフラストゥ、あなた好きよ」

 手元で銀色に光る美しい魔法の小太刀を見ながら、ジーナはつぶやく。

「私の力になったのね。これからもよりいっそう私の力となりなさい。一緒に、あなたも好きな愛すべき人たちを救うために」

 ジーナは着実に出口へと近づきつつあった。

 パリスは左手の彼方の先に、米粒くらいの大きさのジーナの姿を認めることができた。その頭上には銀色に発光して、パリスにそれと知らせる「シュフラストゥ」の刀身があった。

 逃げ出したいという気持ちを振りほどいて、パリスは地面にばらまかれた火柱をかわしつつ、お嬢様のいるほうへと走っていく。

「お嬢様ぁ――――っ!」

 だがその瞬間、ごぅぅぅ――――っ、とパリスの面前を黒い炎が通り過ぎていった。

「うおっ!?」

 パリスはすっころぶ。

 火焔が飛んできたほうを見ると、黒龍バルシェアが翼を広げて跳び上がっており、それをはためかせながら、大口をこちらに向かって開けていた。

 パリスは一瞬、自分が狙われていると勘違いしたが、その黒龍バルシェアの狙いはまったく別であった。パリスのような虫けらではなく、それよりやや強力な、その近くを旋回する、鷹のような神速の剣士フューリーであった。

 フューリーは全身に魔法をかけ、その軽やかなる足をさらに軽やかにし、また、手さばきをさらに素早くし、注意を全方向へ向けながら、龍の関心を一心にこちらへ注がせることに、全神経を集中していた。ときには魔法で眠りの風を起こし、龍を苛立たせたりしていた。

「すまない、パリス!」

 遠くからフューリーがパリスに詫びを言ってくる。

 パリスはなんの詫びだかわからなくて、しばし呆然としていた。

 しかしそれが、先ほどの火焔の攻撃の件だとわかったとき、パリスは、今神速のごとき動きで四辺を飛び回っている彼女は、自分とは戦闘レベルにおいて次元の違う存在なのだと身に染みて実感した。

 パリスは立ち上がり、どうするべきか考えた。

 このままジーナお嬢様と合流しても、できることは少なそうだ。

 そもそも今からあちらに追いつけるのだろうか。

 ジーナはおそらくフューリーの言うことを聞いて出口に向かっただろう。しかし一人だけ逃げるなどという利己的な性格ではない。なぜなら、パリスはジーナがまだほんの子どもだったころから彼女をよく知っていたし、また成長を見てきたからだ。

 パリスは今ここで、自分自身になにができるかを、必死に、真剣に考えた。

 そして、

「おいおい……」

 パリスは、フューリーの戦う様を横目で見やり、ゆっくりと剣の柄に手をかける。

「死んじまうだろ。ありゃあ……」

 フューリーの頬は、片方黒ずんでいた。おそらく紙一重で黒炎をかわしたからだろう。そして彼女の額にはめずらしく大粒の汗が浮かんでいた。何十キロと走ってもほとんど汗をかかない彼女なのに。さらに強化魔法もいくつもかけている。それでも彼女は、今、いともつらそうに一人で龍に立ち向かっていた。

「ベルの馬鹿野郎はいったいなにやってるんだ? それと、虎野郎はどこいった? 逃げちまったんじゃねぇだろうなぁ……」

 パリスは銀の刃を静かに鞘から抜き、黒龍にそれを差し向けた。

 黒竜バルシェアは翼を休めるため、それをたたみ、ゆっくりと地面へ降りていった。とたん、にものすごい突風が前方から押し寄せてきて、パリスは目を瞑る。

 砂嵐のようだった。

 おそろしい怪物。

 死なないでいられる確率はおそろしく低い。

 おそらく足手まといにしかならないだろう。

 だが、パリスは、厳しい顔を再び上げた。

「すんません、お嬢様」

 そして彼は砂地を蹴り、しっかりと剣の柄を握ると、大声を発しながら、黒龍に突撃していった。

 

 ギザラは暗闇の中に佇んで、一行の中で、ジーナを除いてもっとも冷静な思考を働かせていた。

 黒龍バルシェアは古代の龍。どれだけ傷つけても、倒すことはできない。エルフの古代の王の血を引いた者によって、特別な魔法をかけられた者以外は。

 人間ごとき微弱な生物のつけた傷など、必ずあとで蘇生して復活してしまう。

 ギザラは、フューリーの戦いぶりを、遠くの暗闇でじっと観察していた。

 彼女はなぜあんなにも必死になって戦う?

 その答えは簡単であり、明瞭だ。ジーナを逃がすためだ。

 そして今、ジーナはなにをやっている? あの黒龍がかつてよく出入りしていた大穴を探しているのだ。

 これが現在の状況分析。あと付け加えるとすれば、今の状況がひどく危険であること。絶望的であること。

 その皮肉的な二点だった。

「ふぅん……」

 ギザラは肩の上で槍の柄を叩き、したたかな顔を戦場へ向けた。

「フューリーのやつ、かっこいいじゃねぇか……。護衛対象のために、あそこまでできるたぁ」

 ギザラはちら、と右方の銀色の輝きを見やった。シュフラストゥの輝きは奥のほうへだんだんと小さくなっていった。

(おれの鼻からしても、おそらくあっちが出口で正解だ。新鮮な風が流れてきていやがる。この近くにおそらくでっけぇ入り口があるに違いない……。さて、そこは、崖か海か、林か、森か……。崖くさいな。まぁ、奈落の底じゃないことだけは確かだが……)

 ギザラは暗闇の中で、槍を構え、ステップを踏んだ。

(あのフューリーのやつのスピードには、さすがにおれもついていけねぇ……。いま、あの金髪が助っ人に入った。これ以上邪魔に入ったら、そもそもフューリーが戦いにくくなるか……)

 ギザラは長年培ってきた戦闘の経験で、最善たる道を叩き出そうとしていた。

(おれも嬢ちゃんと一緒に出口を探しに行くべきか? いや、だめだ、いくらおれも出口がわかるからって、おれが嬢ちゃんと一緒に行ったってなにも意味がねぇ。あの様子じゃ、嬢ちゃんもしっかり出口がわかってて向かっているようだ。信用していい……おれが行ってもただ足手まといだ。さて、どうするか……。そういえばふとっちょのほうはどうしてるのかな。あいつぐらいは嬢ちゃんと一緒に行って守ってもらうのが助かるんだんがな)

 ギザラは気配を消し、ゆっくりと歩いて、黒竜の炎に当たらないようにしつつ、したたかに、そして油断なく、槍を構えた。

(とにかく、おれのやれることは一つのようだ)

 獲物を狙う獣のように息をひそめ、ギザラはじっと待った。獲物が射程範囲にかかるそのときまで。

 

「ばかなことしただ、ばかなことしただ……っ」

 ベルは肺を潰さんほどに全力を挙げて、走っていた。

 お嬢様を捜すためだった。

 まさか、本当に龍がいるなどとは思わなかった。そしてオークたちに先ほど囲まれたとき、かれは自分たちが本当にもうおしまいだと思った。

 そうしてその橋が崩れて、穴に吸い込まれたときも。

 それから、この状況!

 なぜこんな必死の危険に次々と巻き込まれなければならないのだろうか!

 ベルは、そんな運命を片方で呪いつつも、もう片方では、必死に、先ほどの自分の不甲斐なさを非難し、そこからさらに希望を見いだそうとしていた。

 自分を罵る言葉を頭の中で、もう一人の自分に吐かせる。

「なにやってんだ、ベル? おまえ、いったいなにしただ? お嬢様おいて、とっとこ、べつのほうへすたこらさっさ、とんざらかましただか?」

「おうともよ。そうさ。くそっ。竜に怖じ気づいて逃げちまったのさ。びびっちまった」

「ばかやろう!」

 ベルは冷や汗を体中から噴き出させながら、必死に、必死に、銀色の光が見えるほうへ走っていた。

「どんなときもおらはお嬢様を守るだ……それが旦那様のお言いつけだ。おらたちマルムス族の後裔の者にも優しくしてくれた旦那様……疑って、悪かっただよ。ほんに旦那様はお優しい方。それがちょっと、傷つけられて周りが見えなくなっちまっただけです」

 ベルは砂地に足を取られながら、よろめき、壁に手をつきつつ、苦しげに走る。走る。走る。

「旦那様はこの世で一番お嬢様を愛していらっしゃる。今おらは、あの方の使い人だ。手の代理だ。足の代理だ。あの方はご自分の娘御と離れちまっている間、そんなふうにお思いのはず。おらは旦那様の望むように動くだ。ぜってぇ守り抜く。お嬢様をあんな化物のくせぇ息なんかにゃぜってぇ触らせねぇ」

 そうしてベルは、肺の中からできうる限りの声を出して叫んだ。

「待っててくだせぇ、お嬢様ぁ!」

 しかしそれは、からからに乾いた、獣が事切れるときのようなかすかな掠れ声でしかなかったのだが。

 

 フューリーは黒竜の腕めがけて剣を振り下ろす。

「くっ!」

 しかし、金剛石かと見まがうほどの黒い鱗に弾かれ、傷一つつけることができない。力の入れ方をすこし誤ったら、逆に刀身の方が砕けてしまいそうなほどの硬さだ。

 フューリーは残像を作りつつ、黒龍バルシェアから素早く距離を取る。先ほどからいっそう黒龍は怒り狂っており、うるさいこの鳥を自分の巣から叩き出したくて、必死のようだ。

 龍は叡智の象徴である。会話も、おそらくエルフや人間の魔法使いたちであれば、できたであろうが、この龍の場合はそんな段階など完全に飛び越えてしまっているように見える。長年この魔窟に住んで、心まで魔に染まってしまったのかもしれぬ。あるいはただ、それはこちら側からの幻想であり、なにかかれの機嫌を損ねるようなことをしでかしまったのかもしれない。ただ確としてわかるのは、かれが共通語をはなす様子がまったく見受けられないということだった。

 そもそも会話を為したところで、なんになるのだろう。もうこちらはかれに剣を振ってしまっている。せいぜい生きてこの洞窟を出さぬ、覚悟しておけ、と宣告されるのが関の山かもしれぬ。

「でりゃぁぁぁ――――っ!」

 そのとき、逆の方角から何者かの叫び声。

 ある男の声だった。

 フューリーがそちらに目を向けると、それはなんとパリスだった。

「あのばか!」

 パリスは黒竜の左足に剣を突き立てる。しかしそれが突き通るわけもなく、逆にその金剛石のような鱗に、体が弾かれてしまった。それからバルシェアはパリスを踏みつぶすために足を持ち上げ、パリスは慌ててその場から後退する。

「なんで来たのだ! パリス!」

「なんで来たかだって! なんで来たか、ねぇ! 泣けるな、おい! おうっと!」

 黒竜はうなり声を上げて、ばっすばっす、と砂地を何度も踏みしきる。もうもうと砂煙が立ちこめ、パリスの姿が見えなくなる。

「パリス!」

 フューリーは一瞬恐ろしく、自分の中のなにか大事なものが失われてしまったような気分になる。だが彼は、無事であり、フューリーの心の中には安心が舞い戻ってくる。

 傷一つなく、剣を構えながら、龍と渡り合っている。近づきすぎず、遠すぎもない絶妙な距離で。

「パリス――」

 フューリーはほっと溜息をつき、魔法を再びとなえ、神速となると、龍の注意を自分のほうへ再び逸らせるために、龍の角に向かって跳躍する。

 もう一度あの弱点の角に剣を叩き込むのだ。

 だがそこに竜のかぎ爪が襲ってきた――。

「ぐっ――」

 ハエでも叩くようにフューリーは弾き飛ばされ、地面に叩き落とされる。背中から全身へかけてくまなく激痛が走り、また再びそれは取って返し、中心に戻ってくる。

 それはおそろしい鈍痛だった。

 フューリーは重い息を吐き出し、瞬時に危機を悟る。

 さらなる追撃が待っていたからだ。フューリーは再び神速の魔法をかけ、すばやくその場から逃れ得る。今フューリーがいたところへ、バルシェアの炎が勢いよく吹かれた。

 フューリーは体勢を立て直し、ハイゼルフェルトを構え直した。

「おい、パリス!」

 もうもうと上がる砂煙の向こう、パリスのいるところへ、フューリーは呼びかける。

「角だ! 角をねらえ! そして竜の後ろには決して立つな! 尻尾で弾き飛ばされるぞ! 粉々になりたかったら別だがな!」

「わかってるよ! 粉々になったら龍のやつのミルクにでも混ぜられそうだからな!」

「こんなときに冗談言っている場合か!」

 そうこう言い合っているうちに、今度は龍の尻尾が動き出す。ぐるんと遠心力をつけて一振り、パリスのいるところを横向きに通過していったが、間一髪でパリスは、体をかがめてやり過ごすことができた。

 瞬時の戦闘能力は高いようだと、フューリーは改めてパリスの評価をつけ直す。

 フューリーは息を深く吸い込み、肺に溜めてから、再び強く地面を蹴って、瞬時にしてパリスのいるところにたどり着く。

「おっ?」

「本当は水のベールをかけてやりたいがな――、」

 フューリーはパリスの顔に彼女のそれを近づけ、人差し指を口元にやり、ふぅ、とささやくように口をすぼませる。するとなにやら聞いたことのない、しかし美しいとわかる不思議な言葉がそこから流れ出た。

 するとたちまち、パリスの数フィート四方に、うすい風の膜ができる。

「あいにくここには水気がない。今はこれで我慢してくれ。すこしは龍の攻撃を和らげてくれるだろう。そらっ! 来たぞ!」

 フューリーとパリスが集まっていたところに、竜の尻尾がまさに鞭のようにしなり、叩き下ろされる。二人は逆方向に飛び退き合った。

 フューリーのマントは焼け焦げ、かぎ爪によって切り裂かれ、ぼろぼろになっていた。美しく、まるで絹布のように清らかな彼女の白肌は、ところどころ引っ掻かれ、赤い線が走っていた。

 フューリーはさらに疾走しながら魔法を唱える。

 やや長い詠唱でなされたその強大魔法は、フューリーが唱え終わるととたん、大きな竜巻となって、砂を巻き上げ、バルシェアの目に一直線に放たれた。

 しかしそれは、ここを住みかにしている黒竜バルシェアには、なんの効き目もなかったようである。

「ちっ!」

 フューリーは舌打ち。

「やはりここを住みかにしている龍。砂の目つぶしは効かぬか……」

 バルシェアはただ目をこすり、首を振っただけである。

「フューリー、悪い、一瞬だけ引きつけてくれ!」

 パリスが向こうで叫ぶ。フューリーは諒解した。

 竜の正面側に立ち、そこでフューリーは手に、真っ白で清らかな烈しい炎を作りだし、龍に投げつける。

 竜はそれをさらに邪悪な暗黒の火焔によって焼き尽くした。その間にフューリーは竜からして左側に移動し、その左手首の、比較的柔らかい場所に向かって剣を振るう。

 そのとき反対側から竜のかぎ爪が襲ってきた。フューリーはそれを跳躍して上手にかわし、さらに龍の手に爆発性の火炎弾をもう一つ残し、そこから脱出した。

 火が爆ぜ、龍が一瞬苦しげな悲鳴を上げる。

 フューリーはその間に距離を取り、龍の四方を疾駆していた。

 その間にパリスは、足のところからよじ登り、すでに背中の上部にまで到達していた。

「くっそ――もうちっとじっとしてろぉ!」

 龍は叫び声を上げる。

「なにをしてる! パリス!」

「へっ――、今度はなにしてる、かい! あんたのお望みを叶えようとしただけだぜ! 角、攻撃せよ! ってな」

「無茶だ! 死んでしまうぞ!」

「心配してくれんのはありがたいがね!」

 パリスはバルシェアの尻尾がここまで届かないことを計算していた。バルシェアは背中の異物をどうにか取りたくて、落ち着きなく身を震わすが、それを振り落とすことはできなかった。さらにフューリーは目隠しのために炎の潮流をつくり、龍の面前に展開したからだ。

 そうしてパリスはついにバルシェアの後頭部にまでよじ登れた。

「成功したらなんかよこせよ! 酒でも肉でもキスでもなんでも! もちろん、死なないように祈っててくれたらあとでリンゴをやるぜ!」

 ぐらぐらと揺れる地面でパリスは、角に片手をつきつつ、彼らしい軽口をつくと、ようやくわずかな地面の落ち着きを見つけ、剣を両手でしっかりと握り、思いきり振りかぶって、そのまま一直線に龍の角を斬りつけた。

 直後、バルシェアがひどい泣き叫び声を上げる。

 ぐらりと体勢が傾いて、そこからパリスが振り落とされた。

「パリス!」

 慌ててフューリーは駆け寄る。パリスは立ち上がった砂煙の底、仰向けに倒れ伏していて、額からは血を流していた。

「い、てて……」

 パリスの銀色の剣は、真っ二つに割れていた。しかしパリスは無事であった。

 竜の泣き叫び声がようやく途切れてき、憎み抜くようなうめき声が頭上からもれる。

 フューリーがパリスを抱え起こし、そちらを見上げると、殺意のこもったバルシェアの瞳と交差した。

 しかし、その角にはなんと大きなひびが入っていた!

 奇跡だった。それを彼女が喜んだとたん、どこからか、見えないところから、すたたたたた、と地面を駆る妙な音が聞こえ、フューリーがあたりを見渡すと、その直後、なんと龍の左目に深々と深紅の長槍が突き刺さったのだ!

 さきほどよりもずっと壮絶な、龍の叫声が空洞内にこだました。

 その槍の飛んできたほうに居たのは、放り投げた姿勢を保ったままの、虎のパッセルナ、ギザラ・アーシュベルトだった。

「へっ! ちょうどいいところに当たったぜ。さすが、おれ様!」

 黒龍バルシェアは、苦痛に泣き叫びながら、その小さな両手で、必死にその槍を抜き取ろうとする。フューリーほどではなかったが、彼もその巨体のわりには素晴らしいほどの素早さを有しており、その身の軽さで、とん、とん、とん、と龍の肩を上っていくと、ギザラはバルシェアの横顔にしがみついた。

「おお、いてぇかい? 残念だな、大事にしてくれよ。おれの大事なキスなんだからよぉ」

 ギザラはその深紅の長槍の、柄に手をかけた。

「ま、もっともよぉ――」

 ギザラは竜の頬に足をかけ、力いっぱいその槍を引き抜こうとした!

「だいぶ熱烈すぎてヤケドしちまったかなぁ! ごめんよっ!」

 ずるずるとそれは引き抜かれ、さらに緑色の血液がどぼどぼと流れ出すが、ギザラはそれを意に介さず先端まで引き抜く! そのまま空中で美しく回転し、砂地に着地した。

 龍はいとも凄絶な叫び声を上げながら、目を庇い、痛みでよろよろとふらつくが、決して倒れはしなかった。足を踏ん張り、もう片方の残った瞳で、とても憎々しげにギザラを見下ろす。

「おれとお揃いになったじゃねぇか。もっと喜べよ。おれは嬉しいぜ」

 竜の左目からは、緑色の美しい体液が滝のように流れ出ていた。

「って、なんだこりゃ。おれの槍についちまったな。きったねぇ」

 ギザラは槍を振って竜の血液を払うと、さらに彼の肩に槍をかついだ。

「おーい、フューリーさんよー! あとそこの金髪!」

 ギザラは後ろを振り返って、今まさに上体だけを起き上がらせていたパリスと、それを介抱しているフューリーに声をかけた。

 その直後、ギザラの立っていた位置を炎が通過する。

 ギザラは瞬時にそれをかわし、横に飛び退いた。

 ばっさばっさと翼を広げて、バルシェアは再び空中に跳び上がっていくが、ギザラは意に介さず、いとも冷静に二人に声を投げる。

「龍は殺せねぇってちゃんと知ってんだろうなぁ? あぁ? こいつはどれだけ攻撃したって無駄だぜぇ。すぐ回復しちまうからな。追っ払えるのも、今のおれたちにゃ難しいだろうよ! そろそろ本気でかかってくるから気をつけろよ!」

 フューリーはなにも答えず、パリスを立ち上がらせ、腕でそれを支えながら、よろよろと歩き出した。

「ここから逃げる算段はできてんだろうなぁ? 嬢ちゃん、うまくやってるぜ。だが、それでおまえらが死んじまったらあいつ悲しむぜ。どうすんだよ、おい?」

 フューリーは疲れた表情で、低く言い返した。

「場合によっては……我が主君のため、ここで討ち死にする覚悟である」

「そいつは結構だが、生きられるんなら生きておいたほうがいいだろう! あいつのためにもな! よっ、と!」

 さらに龍の口から火が放たれ、ギザラは跳躍してそれをかわす。

「そろそろおれたちもずらかるとしようぜ! もう十分だ! ま、それまでこいつが許してくれたらの話だけどな!」

 龍はこの憎々しい虫けらを絶対に逃がすまいと決めたようである。大声で叫ぶと、身を細く、小さく丸めて、まるで弾丸のように、ギザラのいる場所におそろしい速度で突っこんできた。

 ギザラはそれを紙一重でかわそうとするが、肩部が龍の腕に当たってしまい、その勢いに押されて彼方に吹っ飛んでしまう。

 ごろごろと地面を転げ回り――、しかし最後には受け身を取って、立ち上がるが、その額と頬からは血が出ていた。

「くそったれが!」

 フューリーはパリスを肩で支えているのと、極まった疲労のため、すぐには動けない。

 逃げるにしても、どこをどうやって逃げたらいいのかわからない二人は、ギザラの戦い振りをみて半ば呆然としていた。

 と、そこに、一筋の希望の光が輝き渡る。

「みんなぁ――っ! フュゥーリィーっ!」

 剣を高く頭上に掲げたジーナが、この広大な戦場に戻ってきた。遠くから声がこだまする。

 パリスの目に生気が宿る。フューリーの視線もそちらを向いた。

 しかし彼女の到来に気づいたのは悪龍ルシェアも同時だった。

 ジーナは決して臆することなく、厳しい顔つきで、手を空中でぶんぶんと振った。

「出口を見つけたわ! この先っ! 確かにあったわ! 急いで逃げるのよ! さぁ、はやく!」

 フューリーは顔をパリスに近づけて、小声で呼びかけた。

「行こう」

「い、いってて……大丈夫だよ。おれももう一人で歩ける。離してくれ」

「そうか」

 フューリーはパリスから手を離す。パリスは軽薄に笑いながらよろよろと体勢を整え、彼女と併走し出す。フューリーは彼と一緒に走った。剣は抜き身のまま、手に持って、つねに視線はバルシェアとジーナの間を交互に行ったり来たりしていた。

 バルシェアはしばらく、ばっさばっさと翼をはためかせていたが、一行の逃走をその目で理解すると、またもう一声鳴き、腹をへこませて、最大級のか黒い火焔の奔流を吐き出した。

 一行の頭上へと降りかかる。フューリーは直後振り向いて、それをかろうじて強靱な風の魔法によって逸らした。一行の逃げ道をわずかに確保する。

 しかし魔力を使いすぎたためか、額を押さえ、わずかに足をふらつかせた。

「フューリー!」

「……っ、だいじょう、ぶだ。はやく逃げよう……確かにこっちなのだな。すぐにここを脱出するぞ。バルシェアはすくなくとも私たちを出す気はないぞ!」

 パリスと同様にぼろぼろになっていたフューリーは、よろよろと、それでもとても美しく軽やかな走り方で、出口へ向かって逃走していく。パリスやジーナ、ギザラもそのすぐ後について、必死に出口への道を駆け抜けた。

 龍はそれを逃すまいと、地面に降りて、がっすがっす、と砂地を蹴ってくる。

「いそげ、はやく!」

 一行はただ細長い洞穴をひた走る。走る。走る!

 新鮮な風の流れが肌を撫でていき、出口の接近に希望を持つ。

 真っ暗な空洞では、シュフラストゥの銀色の輝きと、フューリー手に宿ったわずかな炎だけが頼りであった。

 空洞を進んでいくと、だんだん視界の先に、青黒い夜空の切れ端が見えるようになる。

 アファドの坑道、最後の一本道だった。

「ギザラ、少しなりとも我らで時間を稼ぐぞ! ジーナ、きみは先に!」

「でもっ!」

 ジーナは振り返って、立ち止まり、躊躇する

 しかしフューリーは厳しい顔を向けた。

「きみは『シュフラストゥ』を持っているのだぞ! なんのためだ!?」

「……っ!」

「いけっ!」

 ジーナは顔を引きつらせて、震わせて、目に涙を浮かべていた。パリスに肩を押される。

「ジーナ様」

「っ!」

 ジーナは声を噛み殺して、振り向く。それからゆっくりと、また全力で走り出した。

 シュフラストゥの力があったとしても、物事のすべてが全部、解決できるわけではないし、人の心に宿る悲しみは、たとえ最上の真理があったとしても、それで癒されるわけではないのだ。悲しみの存在をなかったことにはできないし、またその度合いを減らすこともできない。

 ジーナは走りながら涙をこぼしていた。ぽろぽろ、ぽろぽろ、と。それは風に乗って後ろへ流れていった。悲しみは彼女の心の中で優しくはぐくまれていた。

 ジーナはパリスとともに出口へ走っていくと、やがて、だんだんそれは近くなり、はっきりとした夜空だと確認できるようになる。そして、その縁にベルの姿があって、「おぉ〜い!」とこちらに叫んで手を振っているのが見えた。

「お嬢様! こっちですだ! ここに出口がありますだ!」

「ベル!」

「おまえ、こんなところにいやがったのか! 無事でよかった!」

「ああ! でも、その――、」

 ベルのすぐ背後には、確かに外の青黒い深夜の空があった。その穴は大きく、たしかに黒龍バルシェアがまるまる通り抜けられるほどであった。

 これは正真正銘坑道の抜け穴なのだ。

 しかし、それは――、

「なんて、こと――」

 断崖。

 切り立った崖だったのだ。

 だが、よく目を凝らして見てみれば、正確にいえばそれは急勾配な斜面にすぎなかった。森林がはるか下のほうに見える。しかし、そこまでの空いた距離は、岩石が散らばる荒れ地であり、ここから下っていけなくもなかった。

「お嬢様、あのフューリー殿とギザラ殿はどうしましただか? まだ龍と戦ってますだか?」

「ええ。でも、これは――、」ジーナは出口の斜面を見下ろし、口を手でおおった。

「どうしたらいいというの? 私たち、せっかくここまでやって来たのに、こんな状況だなんて――」

「行けますよ」

 パリスが煤けた顔を腕でぬぐいながらいった。

「多少の傷を我慢するなら、行けます。あとは、あの二人をどうやって逃がすかですけど……」

「私、行ってくるわ!」

「なりません!」

「離してよ、パリス!」

 パリスはぼろぼろの手で、ジーナの肩をつかんだ。

「いくらなんでも、それはだめです、ジーナ様!」

「なんでよ! だってこのままじゃ、あの人たち死んじゃうわ! あなただって戦ったんでしょう!? あの龍と! 私だって戦わせてよ!」

「フューリーたちならすぐこちらに戻ってきます! 今おれたちはここで万全の準備をして待っていなければなりません! わかってください! ジーナ様ならわかるはずです!」

 パリスは力一杯肺をふるわせて叫んだ。それは外の美しい夜空に木霊していった。

 洞窟の奥からは竜の咆哮がまだ聞こえてくる。かぎ爪と剣がかち合わされる音も。

 いてもたってもいられなくなったジーナは、せめて、と、両手を口元へやって、洞窟の奥へと、届くように願いを込めて、大声でかれらにメッセージを送った。

「ギザラさぁ――――んっ! フューリィィ――――ッ! はやくこっちに来てぇ――!」

 その言葉を聞き届けたのか、あるいはそのままこちらへと逃げてくる途中だったのか、たちまち二人と背後の一匹は、暗闇の中から姿を現わした。

 フューリーとギザラは交互に立ち止まって、剣を向け、槍を構え、彼を攻撃し、炎の奔流をかわし、そうしながら少しずつこちらに向かってきているようだった。

「フューリー!」

 たまらずジーナは叫ぶ。フューリーは一行の中でもっともぼろぼろになっていた。それでも彼女は美しかったし、まだ目がきらきらとしていた。

「なにをやっている! はやく逃げろ! 死んでしまうぞ!」

「でもっ、でもっ――」

「なに? ……」

 フューリーは出口が近くなってくるにつれ、その様子がおかしいことに気がついたらしい。ジーナから数ヤード離れた段階でそれに気づき、出口の奥の青黒い夜空を見て、その頬を真っ青にした。

 しかしそれで諦める彼女ではなかった。

「行け! すこしずつでもいい! 降りてくれ! それまで私はこいつの相手をする!」

「そんなっ! 無茶よ! 一緒に逃げましょうよ! フューリー!」

「パリス、ベル、ご主人様は任せた!」

 フューリーはジーナの言葉に耳を貸さず、ただそういってジーナたちに背を向け、輝き渡るハイゼルフェルトの剣をそのまま龍のほうへと向けた。

 彼女の判断は正しく、ここから脱出しただけでは、龍から逃げおおせたことにはならないとわかっていたからだ。

「行きますよ、お嬢様!」

「いやよ! どうしてよ!」ジーナはシュフラストゥの力で「わかっていても」、それは納得できることとはまた別のことだったのだ。

「なんで私は逃げなくっちゃならないの! みんな一緒なのよ! こんなのって、こんなのってないわ!」

「一気に飛び降りるんだ! いくぞ、パリス!」

 ベルが荷物を背中に抱えて、先に飛び降りる。

「おうよ! お嬢様……わりぃけど、ちょっとの間だけ我慢していてください!」

 そういうとパリスは腕にジーナを抱え、その切り立った崖や岩石の衝撃から、ジーナの身を守るように、飛び降りていった。

「待ってよ! フューリー! ギザラさぁ――ん!」

 ジーナの叫び声は、余韻として、いつまでもフューリーとギザラの耳に残った。

 フューリーは剣を水平に構えた。

「ここは、通さぬっ!」

 フューリーは余力を振り絞るように叫んだ。

「我が剣ハイゼルフェルトと、我が主君、ハルバラ王にかけて――、貴様に、ここは絶対に通させぬ! あくまで通ろうとするなら覚悟することだっ!」

「おれもさ」

 ギザラも覚悟を決めたしたたかな顔で、槍を高く構え直し、いった。

「我が槍、カルロメーニオにかけて、貴様にこの場の通行の意思を折らせずして、永遠にここを立ち去らぬことを誓おう。あるいは、我か、貴様に死が振りかかる、そのときまでは――」

 龍は怒り、叫んだ。それはある種威嚇とも取れるような音だった。

 その咆哮を契機として、フューリーとギザラの二人は地を蹴って駆け出す。

 再び炎を吐こうと口を開けたバルシェアの元に、ギザラはすばやく接近し、槍を口の中へ入れ、その蛇のような細い舌を突き刺す。

 竜はこれにひるんだ。火は陰り、火焔放射は不発に終わる。

 その隙をついて、フューリーは再び竜の肩を昇っていった。

 ハイゼルフェルトの翡翠色の輝きは、このとき最大級に美しく、また鮮烈に輝き渡った。

 その生きた魔法の剣の、最後の命の光芒は、フューリーの手の中で、まさに標的の竜の角へ、突き刺さんばかりに刺々しく輝いた。

 フューリーは、

「やぁぁ――――――っ!」

 決死の叫びを上げ、そのひびの入った角に、最後の一撃を放った。

 そして、その角と、ハイゼルフェルトの刀身は、ほぼ同時に亀裂を生じ、また、修復不可能なほどに真っ二つに割れてしまった。

 竜はこれ以上ないほどに、また断末魔の叫びのように、特大な熱烈の火焔を吐き出し、その炎は大穴の外にまで飛び出るほどだった。

 その炎は、斜面を降りて気を失いつつあるジーナの目にも、青い夜空の中の不思議な影として、永遠に――、記憶に残るほどだった。

 

 眼を覚ましたのは、暁の輝きが木々の合間を縫ってジーナの頬を柔らかく照らすころ。

 ゆっくりと、首を動かす。

 ジーナは今までの経験の、ある程度までが夢の中の出来事で、まだここはサンシャの森かそこらであり、今にもその茂みの間から、「やあ!」と木の実をいっぱいに腕に抱えた、フューリーや、あるいはギザラに出くわせるような気がしていた。

 しかしいつまでたってもそれは現実にはならなかった。

 なぜならその幻想こそが、ジーナの「夢」であったのだから。

 風がそよそよと歌っている。

 静かな朝だった。

 ジーナの気持ちは穏やかに沈んでいた。

 輝かしい暁の日の下で、ジーナは少しずつ、昨日の顛末が現実な響きをもって自らの頭の中に浮かび上がってくるのを感じた。

 龍の最後の暗黒。あれは断末魔の攻撃だったのだろうか。二人はどうしたのだろう。

 そうして、自分は……?

 なぜ助かっている?

 その理由を探ろうとしたところで、ジーナは、ちくっと、まるで針にでも刺されたかのようなかすかな痛みを頭の表に感じた。

 触ると、そこには柔らかな包帯が巻かれ、針金でしっかりと留められていた。さらに左手も指が二本怪我しており、そこにも包帯がしっかりと巻かれていた。

 ジーナは、いったいだれが自分の怪我を治療してくれたのだろうと思った。

 そしてそれは、フューリーではなく、パリスであり、ベルに違いなかった。

 なぜなら自分の周りには彼ら以外の人の気配がなかったし、彼らの手元には救急箱があり、とりわけ、ベルの眠った手からは、包帯の残りがだらんと下に垂れてしまっていたからだ。パリスはよく見ると目を開いていた。どこも見ていない、静かで、また途方もない悲しみや憂いを浮かべた表情で、ジーナに向けてではない、どこか遠くの景色を眺めていた。

「パリス……」

「おや」

 沈んだ声でそれは答えた。

「お目覚めになりましたか。よかった」

 よかった、と心の底から思っているわけではなかった。そんな声である。

「怪我は治療させていただきましたよ。寝ている間に。思ったほどたいした怪我じゃなかったですけどね。……あの、ジーナ様、ちょっと、おれもそろそろ眠りたいのですがいいですか? 見張りを交替してもらっていいですか? 一睡もしてなくって」

「……ここはどこ?」

 パリスはくたびれた笑みを浮かべて、かすかに口を動かした。

「斬り崖山の反対側です。ここもだいぶ標高が高い場所みたいで、空気が肌寒いですね。きっとまだ平野までだいぶ距離がありますよ」

「……」

 ジーナは、パリス同様に、なんだか自分が、しゃべるのにひどく体力を使っているような気がした。

「ほかに人は?」

「いませんよ」

 パリスはややぶっきらぼうに答えた。

「ずっとここで待っていましたが、フューリーもギザラも、または龍も降りてきませんでした。なんなんでしょうね、これは……。わけがわかりません。まさか、あの二人は最後の最後で、あの龍の炎に焼かれちまったんでしょうか」

「あの龍……」

 ジーナは、あの龍の、最後の火焔放射の余韻を、パリスもしっかりと見ていたことにやや驚きを感じた。そしてそれから、そんなパリスのことをすこし腹立たしく思った。

 なぜならそれは、ジーナだけがフューリーの最期の瞬間を見ていたかもしれないという。かすかな矜持を、揺り動かしたからだ。

 それはジーナにとって、新たな驚きであり、新たな自己嫌悪の源泉であり、新たな悲しみの発端であった……。

 フューリーとギザラは帰らぬ人となったのだ。

 少なくとも、ジーナの中ではとっくにそうなっていた――。

「……」

 ジーナは膝の間に顔をうずめた。

「信じらんねぇ、っすよね……」

 パリスもうなだれた。

 かれは、すこし泣いたようだった。

 声の感じでジーナにはそうだとわかった。

 しかしジーナには、不思議と、涙の気がすこしも起こらなかった。

 ただただ、悲しさと、あとは、胸の奥にぽっかり穴が空いた感じが、茫漠と、まるで意味もないことのように、続いているだけだった。

「……」

 二人はしばらくなにも話さなかった。

 やがて、しばらくして、時がだいぶたち、周りがだんだん白く明るくなってくると、ジーナはよろよろと立ち上がった。自分が感じていた以上に疲労の蓄積が進んでいるらしく、ジーナは一瞬目が真っ暗になり、ふらついた。

 パリスは寝てしまっていた。

 ジーナはかれの寝顔を覗き込んで、それから、てくてくと歩き出す。

 白と緑の混ざり合った、美しい森の色合いの中を、彼女はただ一人で歩いていく。

 森の地面には芝が生えていた。

 そして木の根本には、美しい朝顔がいくつも咲いていた。藍色のつつましやかな花弁が、そよ風に揺れてふわふわとしていた。

 ジーナは朝日がとくに強く洩れてきているほうへ歩いていった。

 そちらが、森が切れている可能性が高いからだ。

 そちらに進んでいくと、予想通りだんだん森が開け、広い、木の生えていない空間へと出る。木が生えていないのは当然であった。

それは陽の光が美しく映える、清らかなみずうみだったのであるから。

 みずうみはそよ風にその鏡面をたおやかに揺らし、さざ波を広く立たせていた。

 その彼女の身の輝きは、まるで水中から発せられているようで、こうして静かな感慨で眺めていると、まるでみずうみの中に、もう一つの光の階段ができているようであった。

 ジーナはその水辺まで歩いていって、透明で清冽な水をすくい、ぱしゃり、と顔を洗う。

 そのときにやがて気がついた。

 自分の目が赤く腫れ上がっていたということに。

 それは涙のあとだった。

 きっと、先ほど涙が出ないのを感じたのは、もうとっくにその源泉が枯れてしまっていたから。

 寝ているうちに枯らしてしまったからだろう。

 ジーナは鏡にうつった自分のあまりにもひどいありさまを見て、また、ひっく、としゃくり声を上げた。

 しかし泣くことはできなかった。

 泣くにはどうしても水分が必要で、今はそのような無益な行動よりも、体は現実的な栄養、とりわけ水分を取ることを欲求した。その水は清く透明で、澄んでいたので、いくらでもおいしく飲むことができた。

 気もそぞろなままに、水筒にそれをすべて詰め込むと、ジーナはその水辺の芝に腰を下ろして、ぼんやりとその湖の水面を眺めた。

 偶然、そのとき、後ろの手に固いものが当たる。

 ジーナはそれを横目でちらりと見て、驚いた。

「あ……」

 シュフラストゥだったのだ。

 ジーナはそうして彼女に初めて、フューリー――お姉様が、自分にこの持ち物を託してくれた由来を知るようになる。

 彼女は自分のことを愛してくれていたのだ。

 自らの身が滅んでも、せめてジーナ――彼女が、無事に生きられるようにと、自分の手が届かないところでも、自分の助けがどんな形であれ、届くようにと。

 ジーナはその白の小太刀を取って、目の前に持ってくる。

 そうして、語りかけた。

 理智の力が銀色に反応する。

「どうしたらいいのかしら……」

 ジーナは心の中でその言葉を繰り返した。

「教えて、あなたよ。私は、これからどうすればいいのかしら……」

 シュフラストゥは銀色に輝いて答えた。

〈それはあなたが一番よく知っています。あなたはあなたのできる最大限のことをよく知っているし、自分の限界をよくわきまえているから。そして、その上であなたはとても勇敢であり、反対の臆病さもよく知っているから〉

 シュフラストゥは、それ以上は答えてくれなかった。

 ジーナは今度は、自分自身の奥の奥、もう一人の自分自身に、問いかけた。

「どうするべきかしら。私ができることっていったい何なの? それからしたいことは? このままお兄様のところに会いに行って、そこで死ぬまで平穏に暮らすのかしら? それとも……?」

 もう一人のジーナは極めて冷静な意見を下した。

「あなたはそれでなにか満足を得るのかしら? 故郷にいつか戻って、お父様を助け、悪いやつらをみんなやっつけて、それでお兄様やお姉様――アフェーナはもう死んじゃったけど。あなたのせいよ――とずっと幸せに暮らすことが、あなたの最大の目標じゃなかったかしら? 中途半端な現実問題に妥協して、あなたはなにか一片でも喜びを感じるかしら? そうであるならそうしなさい。私はそうする前に、あなたに、このみずうみに飛び込んで死んでおしまいなさいと忠告するけれど」

 ジーナの中のもう一人のジーナは、涙を流しながら、そう、表のジーナに向けて言った……。

 森には鳥の音が、まるで一編の音楽のように、清らかに、また美しく、響いている。

 ジーナは再び、手の中に収まったシュフラストゥの白い鞘を眺めやった。

 その剣は言葉によってではなく、精神で、再び深く、ジーナの心の中に語りかけてきた。

「そう……」

 そうしてジーナはあることを思い出した。

 昨日のこと――それはもうずっと昔のことにように感じるが、昨日で間違いなかった――ジーナは、フューリーに向けてこう言った。

あなたが私を生かすなら、私もあなたを生かすから。

「アフェーナ」

 しかし死んでしまった。

 なんて情けない自分だったのか!

 あの戦いの中で自分はなにをしたろう? だれを守ることもできず、ただ逃げるだけで(結局は逃げ道を見つけるのもベルに手伝ってもらった)、誰かの重荷になってばかりで……。

 結局剣を振るう機会もなく、自分はこうして生きながらえている。龍と一度も対峙していない私が、こうして最後に生きている。

 ジーナは、あることを決心するのに十分な経験をした。

「寂しいわ、アフェーナ……」

 その白い小太刀を抱え直して、ジーナは立ち上がろうとする。

 だが、力が抜けてしまって、立ち上がるにはやや気力が要った。

「あなたの名に比べれば……んっ、私の『ジーナ』という偽名なんて、なんて薄っぺらいことかしら……」

 ジーナは立ち上がり、その白い小太刀を中空にかかげ、朝日の照り返る中で、しゃき、とそこから刃をゆっくりと抜きはなった。

「私はもう、ジーナとして生きるのはやめましょう」

 そしてそれを、ゆっくりと胸元にまで持っていく。

 それは、大切なものとして、ゆっくりとジーナの胸に抱かれた。

「これからは私が『フューリー』の名を名乗るわ……。厚顔無恥なことかもしれない。無謀といえることかもしれない。でも……こうすればあなたと私は強い絆で結ばれていることの証左になるし、それに、ね、寂しくないでしょう?」

 ジーナは木の葉が風に舞っている空を見上げた。

「あなたとの約束、最低限でも守るわ。もう手遅れかもしれないけどね……。あなたを生かすわ、アフェーナ。私の名を捨てることによって。私が代わりに『アフェーナ』となるから、あなたはそれで生き続けるのよ。……『フューリー』……軽やかなる、か。できるかしらね? これからずっと厳しい鍛錬が必要ね」

 そうしてジーナは、湖にゆっくり背を向けて、森の中へ戻っていこうとした。

 その間で唐突に足を止めて、抜き身のままのシュフラストゥを片手に持ち、シュン、シュン、と空間を斬ってみる。

 そこでジーナはあることに気づいた。

 シュフラストゥは――彼女は実際に今までそんなことにすら気づかないほど腕が上手ではなかった――おそろしく扱いやすい剣だった。雪の羽のように軽い。そして、その風を切る音は今まで聞いたこともないくらい鋭く、強固で、厳しく感じられた。

 ジーナはその刀身を再び目前に持ってくる。

「強くなる。強くなれるわ、私……アフェーナ」

 そうして強い眼差しで、その剣を愛おしげに眺める。

「だから見ていて。どこかで。そうして私の帰るまでの時を、待っていて。なるべく、ずっと遅くにそちらに行くわ。そうしてなにかを為すまで、あなたと会わないわ。でもずっと見ていて……私、あなたに見られても恥ずかしくならないよう、強くなるから」

 ジーナこと、アリーシャ、そして新しいフューリーこと、アフェーナ・キシルリスティスは、銀色の小太刀を鞘に収めると、軽やかに、まるで生前の彼女の親友を思い起こさせんかのような美しい足取りで、楚々と、パリスたちの休む森の中へと戻っていった。

 

 第一の作者の物語はここで終わっている。

 おそらくこの奇妙な物語には、まだつづきがある――。

 そう思う理由ももっともである。なぜなら、多くの歴史記録では確かにフューリーという名の女将の活躍が残されているし、そこには同様に、チューザーの戦いも多く見られたからだ。

 しかしその記録を実際にこのような幻想小説にした例は非常に少なく、またそのためにこの物語の価値も非常に高い。

 私が、この作者の続きの物語が存在するということを考えた理由は、こうなのだ。

 ここまで綿密に細やかな歴史を調査(またあるいは、作者のお茶目――歴史の詳細を「考案」するようなことだが――そのいたずらも多少あったのも容認すべきである)、さらにそれらの事実を非常に丁寧に構築、またその他の雑多な伝承や習慣にまで目を向けた熱心なこの作家が、作中に数多く残してきた布石、伏線と呼べるようなものを適当な、大ざっぱな形で、そのまま放置すべきものとして、このように無惨にこの物語の中に捨て置くわけがないからだ。

 しかし、この第一の作者、デヴィッド・スコルマンはもうすでにこの世を去っている――。

 スコルマンには二人の息子、カレゾンとベンジャミンがいた。カレゾンは外交官であるが、この弟のベンジャミンのほうは、不出来なわりに、デヴィッドはより多く彼のほうを愛し、その実際、デヴィッドの貴重な「最終物語」の第二話の遺稿は、この弟のほうに引き継がれたという可能性が非常に高い。

 なぜならベンジャミンは生まれた土地で郵便配達人という非常にこざっぱりとした(このような言い方も妙だが)職業に就いているし、厄介な父上からのプレゼントをどう処理するべきか――彼の意思を継ぐか、あるいはそのまま焼き捨てるか――という難題を考える時間も十分にあると思われるからだ。そしてそのまま意思を継ぐなら、かくれて執筆に当たる時間も。

 おまけにデヴィッド・スコルマンは、友人ギャスター博士(言語学者)に宛てた書簡に、息子のベンジャミンのほうに、「最終物語」の執筆を引き継いでもらおうかと考えている、と記していたからである!

 

 ベンジャミンはヴェスター州(ここはなんと元ギルバニオンのファルサリア国があった場所である!)のサン・デライド市に住んでいるが、私も近々、友人のアリス教授とこちらへ出向いてみるつもりである。彼は老齢だが、老齢であるがゆえに、ただ続きの物語を皆に読ませたいという純朴な気持ちである私たちを、追っ払うことはしないだろうし、また、それとは別なことだが、気晴らしに父の作り上げた物語の続きを書いてみたりなど、創作に興味を持っているという可能性も十分考えられる。

 たくさんの質問を携えて行く予定である。

 それらについて、余興ではあるが、ここでいくらか提示してみたいと思う。

 まず一つは、フューリー、ことアフェーナ・キシルリスティスという美しい女剣士の行方について。

 ちょっと奇妙なことがここにある。

 フューリーという名前が(またアフェーナ・キシルリスティスという名が)、最終章にあるようにまったく別の人間――アリーシャ(ジーナ)・ヴィンフィールト――に引き継がれたと仮にみなすならば、その行き先はイセンザラールのラストバルトであるはずなのに、彼女の名前はそちらで登場する直前に、なんとギルバニオン国境付近のベリエス町で再び登場しているからである!

 これはどういうことだろうか。

 ジーナ本人である可能性も、もちろん考えられなくはない。彼女がラストバルトに行くことを躊躇して、そこから山を下り、ロザンクトの平野を迂回して、そのまま故郷に戻って闇の勢力と戦ったということも考えられるし、この物語の続きとしては十分あり得る。ただそう考えて推論を進めた場合、次の一件がどうしても説明できなくなる。

なぜなら、それから数ヶ月後、ラストバルトの城塞、グリエルド城に、なんとエル・ギルド国からの使者として「フューリー」の名を名乗る人物が登場しているからだ! (もちろんこちらが史実で有名な、フューリー、こと軽やかなる乙女である)

 この「最終物語」の作者、デヴィッド・スコルマンは、世界に二人の「フューリー」が存在していた可能性を残した。つまり――もともとベリエス町で闇の大部隊を撃退し、そのままラストバルトのチューザー、及びラウデリゲール王の元へ出向いたのが史実のフューリーと通説では見なされているが、「最終物語」に登場したフューリー(龍と戦った方)はまだ生きていて、そのままこっそりと東地域ギルバニオンへ向かい、そこで闇の勢力を撃退した、そしてもう一人、フューリーの名を継いだジーナ本人が、そのままラストバルトへ兄に会いに向かい、兄と行動を共にした、こう考えられないだろうか――こういった「二人のフューリーが存在した」可能性である。

 これについて私たちはなんとも言えぬ。ジーナという少女の存在が、歴史的事情からはなんら説明されないし、(しかし彼女のような人物が実際に存在した可能性は非常に高い。なぜなら同時期にファルサリア市内の元貴族院の議員の屋敷が謎の男に襲撃されているからである)フューリー本人が死亡した可能性も、この物語の内ではぼやかされていて、ちょっと信じがたい。しかし、そのままフューリー本人が生存している仮説で推論を進めていくと、ジーナ本人の存在が非常にあやふやになってしまう。

 彼女「たち」はどこへ行ったのか。

 ラストバルトに現われたのはどちらのフューリーだったのか。

 そしてベリエス町で闇の大部隊を撃退した「エルフの友」、フューリーは、どちらのフューリーだったのか。

 私としても非常に興味がそそられるミステリーである!

 

さらにもう一つの件、ジーナがオークの部隊、そしてその背後にいるアーキュトスの国の王たちから追跡された真の理由について。

 私は、この件に関しては、当初作者の手落ちかと思ったほどだ。

 しかし、よくよく思い直して物語の各センテンスを読み直し、深く考察してみると、実はそうではなく、巧妙に隠された作者の実にうまい軽妙な手口があったと推察できる!

 つまり――私がなにを言いたいかというと――私は当初、ジーナがただチューザーの妹であるという理由だけでオークの部隊に追われるのは、すこし不自然なことだと思ったのだ。理由が不十分であると思われた。

 なぜなら、チューザーの妹を捕獲して兄の軍師に対する取引材料とする、という作戦はどのように考えても子供だましのようなもの、ようするに国家の政策としては比較的重要視されないものであるはずだし、ただそれだけのために、あんなにも執拗にオークたちを使って追わせるものだろうか、と考えたのである。読者の皆様にも、私と同じ疑念に陥った人はおそらく多いはずである。

 しかし、よく考えてみると、アーキュトス側のオークたち、ひいては鉄血国バルバスの戦士たちからしてみれば、ジーナ本人を捕らえて抹殺しようとする理由はその他にきちんとあったのである!

 それは、ジーナ本人もまた、チューザーに劣らない偉大な人物として、かれらオークたちの大敵になりかねないという懸念があったからだ。

 よく考えてみれば、彼女自身にも、大勢を統率する力量のようなものがあったし(そんな能力を窺わせるセリフがちらほらとあった)、人並み以上の勇気、そして知性も持ち合わせている。彼女個人で旅をしている場合はまだ懸念対象に上るほどではないだろうが、彼女の兄、チューザーと手を組まれ、鍛錬でもされたら、ちょいと厄介なことになる、と、アーキュトス連盟軍は考えたのだろう。

実際ジーナは、旅の一行の指揮をフューリー(本人)に一旦任せると言明しておきながらも、たびたびその後フューリーに冷静な意見を出したり、一行の中でつねに明るく振る舞い、また堂々とした身の振りで手本となったり、いくらでも統率者の性質をその中に見いだそうと思えば見いだせる人物であったからである。

 私は、このような説を取って、ベンジャミン氏をこれから訪問してみようと思うのだが、どうだろうか。

 

 話が少々逸れてしまったが、私は、実に真剣な気持ちで、この「最終物語」の第二話を、世に待っている読者(学生や、知識人)諸君のために発表してやりたいと思うし(もうあれから、二十五年の月日が経ってしまった)、また、「最終物語・第二話。作者デヴィッド・スコルマン」という名目で、偽名まで使って、実に教養のない、でたらめな、見るに堪えない二次創作にふけっている偽作者たちをこらしめてやりたい気持ちもあるからだ。

 たとえば「最終物語」原作に出てくるジーナとパリスがその後駆け落ちしてしまったり(そんなことはあるわけがない)、ジーナがそのままラストバルトには行かず、ギザラと同じ傭兵の身分に位を落としていたり(かれらは傭兵という職業の身分の低ささえ知らぬ)、まったく別の謎の人物が出てきて、フューリーの兄だと名乗らせたり(ここまで来るとその横暴さ加減に賞賛の拍手さえ贈らざるをえない)、じつに好き放題で見るに堪えないのである。

 このような横暴と混乱を食い止めるためにも、絶対に「最終物語・第二話」の正式な遺稿は必要であるし(デヴィッド自身、第二話の構想に着手した旨を、晩年の書簡でほのめかしている)、ベンジャミン氏にこれから第二の作者となってもらうか、でなければだれか信用できる作家を、正式な「最終物語・第二話」の作者として指定してもらおうか、なにがしかの処置を講じてもらうほかない。

 長く、つい散漫となってしまったが、このあたりで、「最終物語・第一話」の解説を終わりにさせていただこうと思う。

 形式ばった評論など期待してはならない。私も彼の作品を愛する、単なる熱烈な読者の一人にすぎないのだから。

 

 完成されてない作品を批評する気はない――。

 Ende....

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