第5章 斬り崖山
最初はなだらかな山道が続いていたのだが、登りだしてから一時間ほど経つと、すぐにジーナたちは「斬り崖山」の本当の由来を知るようになった。
山道の山側は切り立った崖、そして谷側も同様だった。歩ける範囲はかなり狭く、さらに落ちないための柵もなにもないため、非常に困難な隘路となっていた。もしここで、敵にでも出くわしたら、非常に厄介なこととなる――。
ジーナは恐ろしい気持ちで歩いた。
さらに登山道自体も、なかなか高いところまでやって来ると、樹よりも岩石が増え始め、それは歩くというより、よじ登るといったやや難しい作業に変化してきていた。そんな登山道を、まるで山の表面をぐるぐる回るように、何周もして、じょじょに頂上にまで近づいていくのだった。
ジーナは汗をかいた。風はびゅうびゅうと縦横無尽に吹き荒れ、肌を突き刺し、痛みさえ感じるくらいだった。体勢を維持するだけでもかなりの体力を消費し、ジーナは体中の組織をすべて駆使するように、汗を沸き立たせ、よろよろと重い足取りで山道を進んでいった。
だいぶ登り、冷たい夕陽が間近にきているのを感じられるようになると、ジーナたちは、やや広い岩棚を見つけ、さらにその奥に小さな洞穴があるのを発見したので、そのまま一行はそこで休むことにした。
くたびれた身体を横たえると、瞬く間に外は日が暮れ、なにも見えない暗闇に包まれる。
ジーナは洞窟の奥で一度服を脱いで、水で湿らせた布で体を拭いた。フューリーも顔を拭いていた。
「今日は存分に休んでおいたほうがいいぞ」
暗がりで、フューリーはジーナにそういった。
「どうして」
「アファドの坑道は、斬り崖山の山腹にある。しかし山腹といってもここからはだいぶ遠く、標高も高いところだ。それまでに、一つの困難がある」
「雪が降ってるってことだよ。嬢ちゃん」
ギザラがそこに説明を付け足した。
ジーナの目はきらきらと輝きだした。
「雪! 雪が、降るのね!?」
「そのとおりだ」
「私、雪を見るのは初めてだわ! だって、ファルサリアには降ったことがなかったから!」
「そうそう冗談っぽいこと言ってられんのも今のうちだけだと思うがね……」
見張りのために洞窟の入り口に立っているギザラの、呆れた皮肉が、奥のほうにまでこだましてくる。
その日は特別に、火を起こしてもいいとフューリーやギザラから許しが出たので、夕食はベル手作りのジャガイモのシチューになった。火を起こすと敵に位置を知られてしまうことになるが、警戒しすぎて倒れてしまうわけにもいかないので、今日は特別になった。そもそも敵に見つかるといっても、相当高い位置にいる今、ジーナたちのことを見つけられるのは特別な力を持った鷹やそれと近い屈強な鳥類しかいないので、まず見つからないだろうというのだった。
フューリーやギザラが許可してくれるのは当然であり、ましてや本人たちも、今日の食事で確実な力の源泉を作っておきたいと願うようであった。
ジーナは、火がぱちぱちと爆ぜる対面の席、フューリーの顔にじっと視線を注いだが、とくに、なにも怪しむような気持ちは起こらなかった。
フューリーはフューリーだ。
それは「シュフラストゥ」の理智の力に頼らなくても、ジーナの理性だけでわかる、もっともこの世で簡単な真実だった。
ジーナは満足すると、これから先のことに、とりわけ、魅力的な旅の景色や様相に、その少女的な想像を働かせた。疲れはあまり知らなかった。もとより覚悟の上だった。
それが、フューリーの目には、やや救いと、尊敬の念を併せ持って、映されていた。
翌日。とても早い時間に起き出して、一行はその洞窟から抜け出てさらに登攀を開始した。
ひどく寒い時間だったが、やむを得なかった。口数は少なかったが、文句をいう人間はいなかった。
夜が明けて、一時間ほど歩いてから、足下の登山道に雪が見え始める。ちらちらと。そしてそれはどんどん嵩が高くなっていき、はやくも一行の足を煩わせた。
切り立った崖に挟まれた、とても狭い登山道を、さらに滑りやすい雪で煩わされるのだ。足下は覚束ないし、いちいち靴の下を注意して歩くため、神経まで疲れてくる。
この斬り崖山に、人があまりやって来ないのも、また、同様に鉱山としてなぜ重宝されたのかも、ジーナの頭には現実的な重みをもって納得せられた。
やがて降り積もった雪がすねのあたりまで伸びてきたころ、ジーナは立ちつくしてしまった。
疲労で頭がどうかしてしまいそうだった。
ギザラも立ち止まり、息を切らしながら、赤い顔で振り返る。
「すこし、休むか」
「……っ」
ジーナはからからに乾いた喉で、「ええ」と返事をしようとしたが、それはただ、ひび割れた喉の残響を発するだけだった。
立ったまま、ベルから水筒をもらい、わずかな水を口に入れる。
それはただ、やっと低くて物憂げな声を出せるだけにしかならない程度の水だった。
「もう……、ほんと、ひどいわ」
「二度と来たくねぇって思っただろ」
ギザラが疲れた顔で皮肉を投げかける。
「嬢ちゃんは若いなりにかなり頑張ってるが、それもなかなか限界のようだな。正直いままでよく文句を言わなかったよ。さすがだ」
「……」
ジーナは「ありがとう」というのも、疲労に邪魔されて、覚束なかった。
「本当はな」
ギザラはつづける。
「もうちょっとまともな準備をしてくるんだ。おれじゃねぇぜ。マントヴァたちはな。飲み物や栄養剤もばっちりでよ。だが、今回はそんな暇もなかったしな」
「ジーナ……大丈夫か」
フューリーが心配そうな顔で尋ねてくるが、そのフューリーの額にも、多くの汗が浮かんでいた。
体の外側からの寒さと、体の内側からの熱さが、ジーナの皮膚の一枚下のところで、せめぎ合っている。正直吐き気がしそうだった。冷や汗が額に浮かんで、背中が冷たくなった。そしてそれはパリスやベルもやや同様であった。ジーナよりはやや体力があったが。
ギザラは空を見上げて、しずかにつぶやいた。
「雪が降るかもな」
「……」
空は灰色にくすんでいて、重く立ちこめていた。
「……今は、ぜんぜん、雪が降っても嬉しくないわ」
「はははっ、そうかよ」
ギザラは笑う。
「だが、燦々と太陽が照ってる斬り崖も、なかなかきついぜ」
「どうして」
「目が焼かれる。日光を遮断する道具がないとだめだ」
「……」
ジーナはぞっとした。熱さのせいだけではなく、また寒さのせいだけでもなく、それとは別の悪寒に背中が襲われたせいだった。
「敵の気配はどうだ? フューリーさんよ」
「……」
フューリーは疲れた顔をした。空を見上げて、それから、今まで登ってきた、峻烈な崖下を見下ろす。
そちらはうすく霧がかかっていて、とても下まで見下ろせなかった。
「本当であれば私たちは、もっと足早に進まなければならない」
フューリーは重い口調で言った。
「敵に進みやすい道を与えているわけだからな。……敵はどんどん近づいてきている。やつらの足音が聞こえてくる。おそろしく速い。この足跡は、オークだ。数が多い」
「そんな……っ」
ジーナは、体から出た冷や汗が、さらに凍り付いたような感覚を覚えた。
「しかし、疲労で倒れてしまっては元も子もない。ギザラ、あとどれくらいで坑道の入り口に着く?」
「距離的にはもうすぐそこだ」
ギザラは首を上へやって、坑道がすぐ近くにあることを示した。
「だが、とてもすぐには着けねぇだろうぜ」
「どうしてだ」
ギザラはすぐには答えなかった。
まるで鋼鉄のような山側の岩壁を、がっちりと掴みながら、道中に積もった雪をつま先で蹴落とし、つぶやいた。
「今にわかるさ」
そしてそれは、確かに、これからすぐ後に、ジーナたちの知れるところとなったのだ。
ジーナたちはそれからすぐに登攀を開始した。
途中から雪が降り出した、と感じた。
ジーナはとても新鮮な思いに、心がややときめく思いだったが、すぐにそれも憂鬱へと変わった。
風が強くなっている。雪はしんしんとではなく、ぼうぼうと、まるで嵐のように吹き、ジーナはまるでまったく別の世界に紛れ込んでしまったかのような錯覚を覚えた。
一行の体は後ろへ追いやられ、油断すると崖から落ちてしまいそうになった。岩肌の割れ目をつかみ、足を止めて、何度も忙しく呼吸する。雪と風の嵐は、まるでジーナたちの体を巻き上げるように吹き荒れ、ジーナは手の感覚がだんだん無くなっていくのを、とても恐ろしく感じた。
これが俗に言われる、「吹雪」というやつだった。
ジーナはとてもゆっくりと進んでいった。
山道は、今ではもうだいぶ幅が広くなっており、油断さえしなければ落ちる心配はなくなったが、あまり嬉しい事実には聞こえなかった。
ジーナは手の感覚がなくなった。
だれも口を開くものなどいなかった。
この極限の場面では、各自、目的を達成するのに純粋な奴隷へとなりはてていた。そしてそのための情報交換は、伝言形式によって為された。先頭のギザラから、最後尾のフューリーまで、坑道はもうすぐだ、との連絡がなされる。それがささやかな希望となり、一行の棒のような足を、さらに前へ進ませる活力となった。
その活力の源泉は、もう一つあった。
フューリーのほうから返ってきた伝言は、こうだった。
「今、ものすごい勢いでオークたちが山を駈けのぼってきている」
オークは吹雪に強かった。さらにそれだけではなく、火焔にも、飢餓にも強い。ただ弱いのは、聖なるエルフの光と、エルフの森に流れる、清冽なる川の水のみであった。あとは水害や竜巻など、自然的な一種の圧倒的破壊によって一挙に攻撃するほか、彼らを悩ませる方法はなかった。
ギザラやジーナはそれを聞いて足を速めた。ベルやパリスも、そろそろ精神が限界にきていたが、負けじとそれにつられて足を動かした。フューリーもかなり疲労を感じているようだったが、一行の中で一番落ち着きを身に宿していた。
ジーナは、まるで足下からとどろき渡ってくるように、オークの猛々しい叫び声と、鎧のこすれ合う音、獰猛に笑う歌の声が聞こえた気がした。
そしてそれは本物だった。気のせいではなかった。
「ついた! ここだ!」
ギザラは、ある一つの大きな岩棚に到着したとたん、そう叫んだ。
ジーナたちはその言葉を聞いて、さらに足を速めた。浮き足だったのは弁解できぬ。ギザラは一行の中でもかなり足の速いほうだったが、それと同じくらいの速度でパリスやベルも駆けていった。ジーナも恐ろしさのため、小走りになってその広い岩棚を進んでいった。
やがて、一行はとある鋼のような絶壁にたどり着く。
ギザラはそこに手をついて、いった。
「ここだ! このへんにある! くそっ、吹雪でよく見えねぇが……」
「キーで開く形態のようだな。知っているのか?」
「知っているとも。あー、イル キュレス アレ ドント ハルザムヌ ベルソレッタム ハープアー。(私は望む。あなたが許しをくれることを。ドワーフの友人として、ハープアー。ドワーフ語)」
ギザラのはなす言葉は、ドワーフの言葉だった。
するとその言葉に反応して、うっすらと、断崖に掘られていた美しい紋様が、吹雪の嵐の中、浮かび上がった。
きらきらと宝石が燃え立つように、そのアーチ形の線が輝きだし、それがギザラたちの面前に浮かび上がってくる。
「まだか! はやくしろ! オークたちはもうすぐ後ろに来ているぞ! はやく入って、やつらの道をここで遮断せねば!」
「わかってる! ちっ……あいつらがここの合い言葉を知らなかったら、の話だけどなぁ!」
ギザラは壁に張り付いて、扉が開くのをまだか、まだか、と待っていたが、やがて扉の紋様がじょじょに消え、そこに、まるで最初から存在していたかのように、ほら穴が出現した。
「やった! はいれ!」
手で行け、行け、と合図され、ジーナたちは慌ててその中に入る。全員入りきると、最後にギザラがもぐり込み、今度は「イル ナムス バル カチュイルス キルア」と叫んだ。
するとまた扉の紋様が浮かび始め、今度は強い閃光を放って、壁となっていった。
ジーナはその最後の煌めきの奥、さらに奥に、まるで獰猛に飛びつくように、登山道を登ってきたオークの一団、灰色の怪獣の群れを遠くに見た気がした。
だが、扉は閉まってくれた。
音もなく、静かに。
真っ暗闇があたりをつつんだ。
外界の音はもうなにも聞こえない。吹雪の音でさえも、轟いているであろう、オークたちの罵り声でさえも。
静寂だった。
ギザラが「ハム」と重く呟いて、その直後、ぼっ、と炎の灯る音がして、ぼんやりとギザラの指の周りが照らされた。
「ようやく着いたな」
ギザラは重々しい声でいった。
「ここからが本番だぜ。行くぞ」
ここがアファドの坑道だと知って、手放しで喜べるものなど一人としていなかった。