第4章 サンシャの森

 

「怪我をしているじゃないか」

 戦いが終わった後、フューリーはひとまず一行をその場から大急ぎで離れさせ、木々から洩れ出る明かりがとりわけ強い、森の温かい岩場に腰を下ろして、心配した顔で、ジーナの傷の手当てにあたるのだった。

「痛いか? しみはしないか? 歩けるか?」

 フューリーは持っていた薬草を短剣で切り刻み、傷に押し当て、その箇所を包帯で巻いた。

 ジーナは微苦笑を浮かべるのだった。

「あなた、いつもだったら、『それでも歩かなければならぬ!』っていうのに」

「当然だ」

 フューリーはむきになったように言い返した。

「私たちに可能な限りの速度で、今すぐここを離れなければならない。またオークがうろうろしているとも限らないからな。だがこの名誉の負傷を見たまえ。敬意を払って治療するべきだろう!」

「そんな、名誉の負傷だなんて――」

 ジーナは照れた。顔をやや赤くして、フューリーの顔を正面にとらえることができなくなる。

「よくやった」フューリーはまたもいった。「あのオークの種族を知っていたか? 顔に赤い斑点があっただろう。『バルナグス』だ。一対一の戦闘におそろしく強い、闇の部隊の戦闘兵だ。君たちはそれを破ったのだぞ。それも、まだ経験が浅い面々で――。これは、不肖私ながら、責任を持って今この場でできうる限り褒め称え、治療をせねばなるまい」

「思うのだけれど、」

 ジーナは苦笑した。

「フューリーって、ひどく、自分に対しては厳しいわよね」

「? そうだろうか?」

 フューリーはきょとんとした。

「おれもそう思うぜ」

「ギザラ?」

「今回のおまえの戦いをじかで見たが――、またまた、おれは、とりわけおまえ、フューリーに興味を引かれたね。どこのもんだい? おまえ、見るところによるとかなり訓練を受けた上部の軍人だな? 将校であることは間違いねぇ。それに、さらにおれの見るところによっちゃぁ――」

「いい! それ以上は言わないでくれ!」

 フューリーは恥ずかしくなったのか、顔を赤くして首を横に振ると、立ち上がり、ジーナの傷の部分をぱしん、と軽く叩いて、胸のうちにある恥ずかしさを隠すようにきまじめな顔をした。

「『ロスリエ』だ」

 フューリーはいった。

「私が知っている限りで最高級の治療薬を使った。みるみるうちに傷が癒え、さらに前より快活で丈夫になるだろう。これを私の、最大級の讃辞と受け取られたい」

 そうして鞄の蓋を閉じ、それを馬の背に積み直す。

「さぁ、出発しよう。私たちの敵は私たちの匂いを嗅いで、すぐそこまで追跡してきているぞ!」

「私、ちょっといいかしら、武器がなくなっちゃったのだけれど」

「心配しなくていい。それは私も承知している。これをやろう」

 フューリーは背中に隠し持っていた、一振りの美しい小太刀を取りだし、ジーナにそれを授けた。

「これって……?」

「私の持ち物だ。これを新しい剣にするといい。前よりちょっと刃が長いな。だが使いやすいだろう。名は『シュフラストゥ』という。それはエルフの言葉で、『理智』を意味している。理智の魔法をかけつつエルフの技術で何度も念入りに鍛えたものだ。これをジーナ、あなたにやろう。この剣は、あなたに理智の力を授けてくれるだろう」

 それを端で聞いていたギザラが、眉をひそめた。

「エルフだと?」

 しかしその言葉の領外にいた二人は、気に留めることなく、会話を続けた。

「まぁ……。なんて素敵なこと。ありがとう……いいのかしら?」

「よい。私はあなたを信頼した。武器を託したというのはそういうことだ。共に戦える者としてな。しかし高ぶったりしてはいけない。もっとも、『理智』の魔法が、あなたにそんなことはさせないだろうが」

「……、受け取っておくわ」

 ジーナは感極まったように、ゆっくりと、満面の嬉しそうな微笑みを浮かべると、その小太刀を鞘ごと、胸に抱きとめた。そしてやがてベルトに差し込み、しっかりと固定し、そうすると、それがなぜだか、まるで自分の身体と同一になったかのような不思議な感覚にとらわれた。

 一行はそれから出発した。パリスやベルも打ち身や切り傷など、いくつかの怪我をしていたので、歩むスピードはだいぶ遅くなった。しかし、森は意外なほどに早く途切れ、目の前には新たな深々としたかの森が広がっていた。

 

 サンシャの森だった。

 榛の木が表面に生い茂り、一行の行く手を遮っている。一行はギザラの案内で、そこから道をさらに西方に折れ、森の表面に沿いながら、やや北西のほうに向かった。一マイルほど進むと、右手の木々の壁の隙間に、急に道が開け、そこから森の中に入れるようになっていた。ギザラはその木々の間の道を案内した。

 さらにそのまま真っ直ぐに進んでいくと、突然、鬱蒼とした森の中間に、ある種異様な、城壁のような、人間の手でつくられた煉瓦造りの高垣が出現した。

「サンシャの門だ」

「森の中に……門……?」

 ジーナは、まるで、ここではじめて新しい世界というものの存在を知らしめられたような気がした。

 ここから先に立ち入ってはならないという――、古い先人からの、無言の圧力のようなものを感じて、やや身が震えた。その高垣は、ここから見渡せる限りの遠方まで、人を威圧するようにずっと続いている。そして、今一行がいる道の、ちょうど真っ直ぐ進んだところに、人間一人分くらいの大きさのやや小さなアーチ門があり、そのさらに奥に、これもまた小さな、古ぼけた鉄格子の門があった。

 ギザラはそれをきぃ、と開けた。鍵はかかっていなかった。

鉄のこすれ合う音がして、その格子門はゆっくりと開いていく。ジーナたちはその門を通過した。

「いったい何だ、こりゃ……?」

「ここからサンシャの森が始まるってことさ」

「なんだって?」

 パリスがギザラに聞き返す。ギザラは泰然とした顔で前を見すえ、パリスのほうを見ないまま答えた。

「今まで通ってきた森は、正確にはサンシャの森じゃねぇ。ここから先が、『サンシャ』の森だ。サンシャってのは、遠い昔にここに住んでいたエルフの貴族の婦人の名前でな。そりゃすげぇ美しい婦人だったっていうらしいぜ。サンシャはこの森を愛した。それゆえ、いまだにこの森は、その美しさを損なわずにいられるという。この門は、昔、そのエルフたちの一族と仲が良かったマントヴァがこしらえたらしい。邪悪なる者が近づかないように、ってな」

「エルフかぁ……!」

 ジーナはギザラの言葉を聞いて、目を少し輝かせた。恐れながらも、すこしエルフというものに会ってみたい気がした。また、これから会えるのかもしれないとも。

「まだ住んでいるのかしら?」

「いいや、もう住んでねぇと思う」

 だがギザラはそれをあっさりと否定した。

「おれは何度かここを通行したが、一度も会えなかった。森も昔ほどは綺麗じゃねぇ。まぁおれも、昔のありさまは知らねぇわけだが。サンシャももう住んでねぇから、森も荒れちまったんだろう。だが、おれたちパッセルナの古い言い伝えによるとな、ここのエルフと親交を持っていたチャルトス(兎のパッセルナ)の豪商がいたが、そいつの書いた手記によると、宝石がまるで枝葉となっていて、風にそよいでいるよう――、吹きぬける風は黄金で、りんごの香り、花は妙なる色を幾層にも掛け合わせ、詩人や旅人の心をなぐさめ、森は白銀にも、緑色にも、また黄金にも変わる――、小川は緑水に満ちあふれ、陽のゆらめき美しく、風に揺られた葉の擦れる音は、この世のどんな歌声よりもあでやかなり――」

 ギザラは古い手記の詩を簡単に口ずさんでみせた。ジーナやベル、パリスは、獰猛で野蛮な人間だと思っていた彼の、意外な一面をかいま見た気がした。

「だがサンシャの森はもう昔のサンシャじゃねぇ。さっきも言ったがな。荒れ果てているところが多くあるし、さすが、エルフの住んでた森っつーかな……わかるかな、森に『意思』があるのよ。樹は必ず意志をもつが、ここの樹はずっと目覚めているし、我が強い。自分たちの住みかに侵入したやつらを無事通してくれるのも、迷わせて白骨化させちまうのも、やつらの機嫌一つってわけ。まぁ、悪い樹もいれば、良い樹もいる。そいつらに一貫して共通しているのは、エルフが好きで、エルフがいるなら必ず良くしてくれるってことだ。エルフもその特性として古い森を愛する。言葉のないやり取りを木々との間でできるって話だ。だよなぁ、……フューリー殿?」

 フューリーは素っ気なくそれに答えた。

「ああ」

 目を合わせることなく。

「そのとおりだ」

 ギザラは頷いて、続けた。

「だからよ、油断するな。おれだって、今までなんの危険もなしにここの森を通過できたわけじゃねぇ。古い大木で、木のでこぼこした幹に、もしかしたら……と思ってでも、両眼が認められるようだったら、そいつの前では神妙にしたほうがいい。間違っても斧や火なんか出しちゃならねぇ。まっ……これから通っていくのは、おれらがいっつも通る安全な道だがな」

 そういってギザラは、のっしのっしと、大股で土の地面を歩いていった。フューリーがその後についていく。ジーナはフューリーの隣に並び、そしてそのすこし後に、パリスとベルが怖々とついていく。

 風の音は、歌っているようにも、あるいはまた怒っているようにも思えた。ざぁざぁ、と枝葉はこすれ合い、その間から洩れてくる夕陽は、地面に届くまでに何度も明滅した。木々はどれもジーナたちの目にしたことがないものばかりで、故郷の近くの古森よりも、ずっと古い森のように感じられた。ジーナはそこかしこに、エルフの生活の名残を感じ取れるような気がした。

 そんな中で、フューリーがなぜか、ほんのちょっとだけ、そわそわしているように見えた。

 

 その日はサンシャの森にすこし入ったところで、野営となった。ジーナたちを取り囲んでいる黒々とした木々は、もの言わぬ壁のようになって、一行を守ってくれていた。

ギザラはジーナの手を掴んで、樹の枝にまで上り詰め、その上に寝かせた。枝の上といっても、それはまるでベッドのように広く、また頑丈そうであった。人二人分くらい寝られる規模があった。

ジーナはその樹の枝の上に身を横たえると、あの自分がまだ幼かったころの、今よりもずっと優しかった父親に、いとおしげに抱かれているような心持ちがした。柔らかくて、また安心もして、いい薫りもした。

「これは『トースカ』っていってな、」

 ギザラはいう。

「樹の上で寝る習慣のことだ。仲良くなった樹はこうしておれたちを外敵から守ってくれる。このあたりの樹はまだ穏やかなほうだし、逆にこうしてやると友好的な姿勢を取っていると見なされて、旅がいくらか安全になる。樹の家にお邪魔しているって感じだからな」

「なんだか、とっても気持ちがいいわ」

 ジーナは、ぽん、ぽん、太い枝の木目を手のひらで叩いて、その上ですこし腰を浮かせてみたりなどした。

「だが、勘違いするなよ」

 ギザラは忠告する。

「ここでは、おれたちは樹の客なんだ。いくら客だからって調子に乗ってっと、ふるい落とされるぜ。迷惑な客はお断り、ってな。だれもが思うことだ。神妙にしていろ。それか、身の安全を大事にしたいんなら、地面の下に穴を掘ってもぐらの家に世話になりな」

「ひ、ひぇ……」

 ジーナはギザラの言葉に怖じ気づいて、また枝から下を見て、今の自分が相当高い位置にいることに気づき、腰を引かした。

「お嬢様。なんならおれんとこにきますか?」

「や!」

 ジーナはそれを固く拒否して、もぞもぞと動き、フューリーの懐に逃げ込む。

 パリスはぽかんとしていた。

 同様にフューリーは驚いた顔をしつつも、しっかりとジーナを脇に抱きとめ、パリスの顔と彼女とを見比べ、気が抜けたように笑いながら、頑丈な樹の幹を背にし、こういった。

「しかし、これのおかげで敵にも見つからなくて済むというもの」

 フューリーは夜の闇に包まれた、古い森と、その上に照り輝く白の星々を見て、つづけた。

「間違いなく敵は我々の後をつけているだろう。先のオークの部隊が我々のことを知らなかったのは幸いだった。まだそこまでジーナのことは公にされていないらしいな」

「でも、あの軍は、きっとチューザー様のお邪魔をしに行ったんでしょう?」

 ジーナはフューリーの腕にしがみつきつつも、不安な声でいう。

「まだそう決めつけるには早いな」

 フューリーはすこし張りつめた声で、ジーナの言葉を訂正した。

「われわれには情報が少なすぎるのだからな。少ない情報で憶測を働かせてはならない。まぁ、真実を知ったところでどうすることもできないが」

「ようするに、どっちにしろ移動を速くするっきゃ手がないってことか」

「そのとおりだ」

 ギザラとフューリーの間に確認のための会話がなされ、それが切られると、ジーナは眠くなった。フューリーはジーナの綺麗な前髪を指で撫で、優しく小声で、「もうおやすみ」といった。

 ジーナは自らの心の中から不安の闇がいつまでも溶け去ってくれず、こんな状態ではとうに眠ることなどできないと思ったが、我慢して、どうにかして寝てしまうつもりになった。目を閉じて、フューリーと一緒の毛布を共有し、ささやかな眠りに就くことができた。

「フューリー殿。今日はおいらが見張りをするだよ」

「そんな、ベル君」

 ジーナが寝てしまったあと、ベルとフューリーのそんな会話が、暗闇の中でなされた。

「何日ももうずっと寝てねぇでしょう? それにあのときはフューリー殿が一番数多く敵を倒してくれただ。ちっとは休まなきゃば、なんねぇだよ」

「しかしだね。私の任務はジーナ嬢の護衛であって……」

「その、寝顔」

 ベルは、フューリーの肩に頭をもたれ掛けて休んでいる、ジーナの穏やかな寝顔を指差していった。

「寝ている人の隣で、いつまでも気を張っていると、その人の夢にまで緊張が伝わってしまうだよ」

「……」

 フューリーは無言で溜息をひとつ吐いた。

「……では、眠らさせてもらうとするよ。優しいあなたよ」

「ぐっすり眠ってくださいだ」

「忘れまい」

 そうしてベルがうなずくと、フューリーは両眼をつぶった。

 ベルにとってはそれがはじめて見られた彼女の美しい寝顔だったことに、かれは、いささか驚きを禁じ得なかったのだった。

 遠くでふくろうの鳴き声が聞こえる。夜の闇は更けていく……。

 

 朝になり、サンシャの森には光明が差してき始めていた。

 うすい靄がかかっている。

 サンシャの森にはところどころ切れた石畳の破片があり、それは昔、かのエルフの村があったとき、道路となっていた名残だと判明された。

 ギザラはそれを目印として、足を踏みならしつつ、進んでいった。

 フューリーはあまり喋らなかった。ただ以前よりもすこし速い足の動かし方で、前へ、前へ、そして奥へ、奥へ、と焦るように進んでいった。

 一行は木々の根っこが幾重にも地面に突き出た、非常にでこぼこしていて歩きづらい道をも進んだ。動物の出すような声はほとんど聞かれなかった。敵の声も、自然と。

 森には静寂が漂い、一行の存在を、この世界から、狭い場所として切り取っているかのようだった。

 ジーナはずっと、故郷のファルサリアのことを考えていた。

 フューリーはいった。「君は敵に狙われている」と。

 だったら父はどうしたのだろう? 

あの恐ろしい騎馬の男たちは、そういえば、三人ほどいた。

その中の一人は、たしか、ファルサリアのほうへと向かった。それから目にしていない。

 ジーナの目の奥の光を感ずるところのずっと奥に、めちゃくちゃに荒らされている、自分の屋敷(屋敷というほど大きくはなかったが)、自分の部屋、父の寝室が、まざまざと浮かんできた。そうして真っ赤な血の海に横たわっている、自分の父のすがたが――。

「っ……」

 悲鳴を上げそうになった……。

 ジーナはそれを噛み殺して、喉の下へと送り、顔を俯けて、黙々と歩く。

 そのうち、ジーナは考えるのを止めた。

 腰元の、シュフラストゥに触れる。すると、その胸の中のもやもやしていたものが次第にすっきりしてきて、ジーナに、迷うことを止めなさいと優しく諭してくれるのだった。

 常に正しい道を教えてくれる。

 ジーナが顔を上げると、ギザラは立ち止まっていて、振り返り、なにか言うところだった。

「十字路だ」

「え?」

 ジーナはぽかんと口を開ける。

すると、よく見てみると、ギザラの立っているすぐ傍に、石でできた標識があり、そのまま道を真っ直ぐ進むと、明るく美しい森へ、そして右に行くと、暗く、やや危険な香りのする森へ、そして左へ行くと、森は開け、だんだん寒い地方へと続いているのだと、その標識は示していた。

「おれたちは今までずっと東に真っ直ぐ進んできた。その証拠がこの十字路ってわけだ」

「斬り崖山はこの先になるのだな」

 フューリーは左の道を見ながらいった。

「そのとおりだ。――おまえは、前に一度行ったことがあるんだったっけな」

「行ったことはない。ただ、話として聞いたことがあるだけだ」

「ほう。そうだったのか」

 ギザラは驚いて目を丸くしたが、あまりそのことに感心は持たないようだった。

「じゃあここはおれの独擅場ってわけだな。感謝しろよ、おまえら」

「ははは」

 パリスが苦笑する。

 一行はそれからさらに、そこから左に折れ、北への道を進んでいった。

 森はしだいに開け、樹もまばらになっていく。

 地面は凍り付いているみたいに白くなっていた。しかし雪ではない。砂だった。砂と土が混じり合ったような、灰色の地面で、そこから焦げ茶の太い大木が、一定間隔を置いて、乱立している。その寂しい森を一行は会話もなく進んでいく。

 ギザラは唐突にいった。

「おれたちはサンシャの森を、できる限り奥に近づかないで、外ればかりを通って歩いてきた」

 ギザラはつづける。

「本当のサンシャの森は、もっと深いぜ。そして美しい。いつか、じっくりと探検できるときがくればいいな」

 ジーナは、それが、自分自身に言われていることだとわかったので、すこし小走りになってギザラに駆け寄り、微笑んで返事した。

「ありがとう、虎さん」

「……」

「また次の機会があるわ」

 ギザラはすぐには返事しなかった。

「――気の毒に、な」

「え?」

「本当はもっと気楽な旅がしたかっただろうによ。兄のチューザーが有能すぎるせいか……。あるいは、エルフがこの森から消えちまったせいかな。どっちにしろ……気の毒なことだ」

「そんな、私、全然気にしてなんかいないわ」

 ジーナは、しかし心の中で、それは嘘だと思った。

 しかしギザラ(怖そうな男)の手前で、弱音を吐くことなどできなかったのだ。

 ギザラは哀れそうな眼差しでささやかに微笑む。

「ジーナ、」

「なに?」

「逃げ出さねぇだけ立派さ」

 ジーナは黙って、顔を赤くしてしまった。

 照れたからではない。むしろ先ほどまで、はやくお家に帰りたい、お父様と離れるべきではなかった、とやや後悔していたことに、自分自身で腹が立って、恥ずかしくなってしまったのだ。

 そんなことは許されなかった。誰かに許されたとしても、ジーナがそれを選択するはずがなかった。

「ところで、おれは、ちっとおまえさんに尋ねたいことがあるわけだが」

「なに? 虎さん」

 あたりは寒々しい空気の中、しだいに夕闇が降りてくる時分だった。灰色のうすい靄に、だんだんと陽の明るい茜色が混じり、それが幻想的な色合いとなって、森を静かに輝かせていた。

「フューリーのやつから、いったいどんな戦い方を教わったんだ?」

「え?」

 ギザラはすこし声をひそめるようにしていった。

 ジーナは、思い出す。旅の途中でちょくちょくフューリーに教えてもらったこと。

「短剣の扱い方とか、状況の判断の仕方とかよ。あとは、魔法だったら、火を起こす魔法と、風を起こす魔法と――、あと、これは内緒にしてって言われたんだけど、姿を隠す魔法よ」

「それだ」

 ギザラはちょん、と指で空気をつっつく。

「あいつの魔法の多彩さとその精度を見たか? おれも、傭兵だから、多少は戦場を生き抜くための知惠や知識を身につけてきたつもりだ。それで、いいか? 魔法ってのは、本来学問なんだ。人間の理性(神から与えられたものではない、純粋な思弁の力)が生み出す技術だ。そしてそれは、『信仰』とは真っ向から対立するものだ。すべての懐疑からまず魔法の習得は始まる、といわれている」

「すべての、懐疑……」

 ギザラはなおも、声をひそめていった。

「だから、本来は歪な形をしているもんなんだよ。魔法を実戦で使おうとするとな。自然に愛されねぇ。だが、もう一度聞く。見たか? あいつの技術を。そしておまえさんの術も。どれもこれも、めちゃくちゃ自然だ。自然がおまえらに味方してくれているようなもんだ」

「それが、なにかおかしいというの?」

 ギザラは声にちょっと呆れた感情を混ぜた。

「おれの話を聞いていたのかよ? 自然や信仰とは真っ向から対立するのが『魔法』だって言ったろ。なんならおれの魔法を見てみるか? もっと大声で、力込めて呪文を言わなきゃなんねぇし、言わねぇでも、相当精神を統一する必要がある。おまえらみてぇにうまくはいかねぇ。ましてや、あいつ、フューリーの魔法は、おれが今まで見てきた中でも――それは、マントヴァだってパッセルナだって一緒だが――魔法軍特殊部隊以上の精度と多彩さだ。正直あれは、どうしてあんなに魔法が上手でありながら、大将クラスじゃなく、こんな、サブの作戦の、嬢ちゃんの護衛なんかしているのかわからんね。国にいれば上位の将軍であれるだろうによ。それに剣技とのコンビネーションもすげぇ」

 ジーナは、滔々と捲し立てるギザラの言葉に、すっかりわけがわからなくなってしまった。

「ちょっと、虎さん」

 ジーナは一呼吸置いて、冷静な意見をはさむ。

「それがなにかおかしいというの? フューリーは私たちを守ってくれるのよ? その強さも、私たちの中では――あなたには失礼だけど――最強というものよ。彼女が近くにいれば、オークの一隊が向かってきたってまったく怖くないわ。その力がどのようにつけられたかなんて、知ってどうするの? まん丸と太った貴族のおぼっちゃまを見て、あの方の脂肪にはいったいどれだけのお豚の分と、お牛の分と、お鳥の分があるのかしら、と議論するようなものと同じじゃないかしら。違うかしら?」

「ははははは!」

 ギザラは胸を震わせて笑いながら、頭をぴしゃり、と叩いてうなずいた。

「面白い表現をするな。きっと嬢ちゃんの言ってることは当たっているぜ。あの女がどんな正体で、どのように力をつけてきたかなんて、結局はどうでもいいことだ。確かにな。おれにゃ関係ねぇ。強さもそのまま認めるつもりだよ。だがな、そう考えたときに、ちっと腑に落ちねぇことがあるわけだよ、あの女にはな――」

「なんだっていうの?」

 そうやってジーナが苛立たしく聞き返すと、ギザラは一度黙り、うーん、と腕を組みながら、こっそりと、さらに声を低くしてつづけた。

「おれは、生まれたときからああやって魔法を自由に使いこなせる種族を、一つだけ知っているんだ」

 そこでギザラは、フューリーのほうをちらり、と振り返ってみた。

 フューリーはどこを見ているのかわからない、か黒い両眼で、その薄桃色の真っ直ぐな髪を風になびかせながら、表情のない顔で、すこし後ろの位置で歩いていた。

 聞かれているかもしれない、と思いながらも、ギザラはつづけた。

「もちろん伝承の中だけだ。その種族は、生まれたときから自然に愛され、自然の力としての魔法を使うことが許され、そしてそれは、魔法といってもおれらが知ってる魔法じゃなく、自然を味方につける術で、それは術というより、行動の仕方。純粋な能力の一部だ。おれらが定義している魔法の枠よりも、さらに多くのことを行える。根本的になにかが違う。自然に愛されている種族だ」

「な、なんだっていうのよ」

 ジーナは、すこし、そこから先のことを聞くのが怖くなった気がして、ギザラから離れようとした。

 しかし、不思議な魅力に惹き付けられ、その先の言葉から耳を守ることができなかった。

「ここまで言ってわかんねぇか。古い、とても古い種族だ。今はもう見られねぇ、おれらパッセルナよりも古い、その種族の名前はな――」

 その言葉は、霧の中にふんわりと溶け込むように、優しく、そして確かな重量をもって響いた。

「エルフ、っていうんだよ」

 

 森は夜になった。

 一行はその樹のまばらな灰色の泥地で、各自それぞれの樹の幹に寄りかかって、野宿をした(今度の樹は、枝のあるところが高すぎて、上れなかったのだ)。

 茶色の枯れ葉が、ふわふわと風に身を翻しながら、空中を散歩するように、ゆったりと落ちてきている。

 ジーナはいつものとおり、フューリーの肩に身を預けて、彼女の毛布に一緒にくるまって、木の幹に寄りかかっていた。一日中歩き続けたぶんの疲労が、ぼうっと頭を霞で包む。

 ジーナはもう眠ってしまいたい気持ちになった。

 しかし胸騒ぎがして、どうにも、目を瞑ったとしても、夢路までたどり着くことはできなかった。

 瞼をゆっくりと開け、隣の彼女に目をやる。

「……」

 フューリーは起きていた。一睡もしていないようだった。凛とした銀色の輝きは、前方の森の影を愛おしげに見つめていた。

 しばらくして、フューリーはジーナの視線に気づき、そちらを見てうすく微笑む。

「眠れないのか」

 ジーナは、

「……」

 小さく横に首を振って、そしてそれからまたすこし目を瞑る。

 ほう、ほう、ほーう、とフクロウが鳴いている。霧はだんだん深くなる。

 フューリーの体温が肩ごしに感じられた。温かかった。

 ジーナは、目を瞑りながら、深く考え、フューリーのことを静かに思っていた。

 美しい容貌。

 風と同化したかのような素早い身のこなし。

 驚くほどの魔法の精度と、その多彩さ。

 そして、エルフが鍛え上げたという名剣、「シュフラストゥ」――。

 ジーナは、腰元に吊るした剣を、指でそっと触ってみる。

 剣はなにも語ってくれない。ただ、フューリーは怖がる必要のない、私たちと一緒の種族だと、ジーナは改めて思えるようになる。

 最初から魔法が使えたという種族。

 ジーナはなにも思わなかった。

 ただ安心して、身体から力を抜き、すこし寒かったので、もそもそとフューリーの肩に抱きつくように移動し、そのまま彼女の存在を感じつつ、寝てしまった。

 

 ギザラはいった。

「やつはエルフだ。おれは、そう思う。――あの、嬢ちゃんがもらった『シュフラストゥ』っていう剣があったろ?」

 ギザラは身振り手振りで説明する。

「あれをもらったときに、あの女が、エルフだと確信した」

 ギザラはつづけた。

「万一エルフでなくとも、少なくともエルフの種族と親戚関係にいる人間だ。じゃなかったらなんでそんな魔法の剣を持ってる? 魔法の剣を作れるのはエルフだけだ。――って、おいおい、勘違いしねぇでくれ。おれはべつにあいつがエルフだからって、どうもこうもしねぇよ。そもそも、おれはエルフに会ったことすらねぇんだ」

 さらにギザラはジーナにいった。

「ただよ、どうしてあいつはエルフだって秘密にしていたのか? 秘密にすることか? もしそうだとしたら、その理由はいったいなんだ? それに、どうして今はもう、あいつはエルフと一緒に住んでねぇんだ? 北の人間の国にいるんだろ? それも人間の国の王に仕えている。どういうわけかな、って、おれはただ気になったってだけよ」

「どうしてそんなことを私に話すのかしら」

 ジーナはそのとき、少し怒ったように言い返したと覚えている。

「なんでだろうな」

 そしてギザラは、遠くに目をやって、すこし同情するように話したとも。

「よくわかんねぇ。ただ、聞いておいてもらいたかったんだよ。おまえにもな。おれは、人がエルフだからっていって、疎遠にしたり、嫌ったりする人間じゃねぇ。ましてや、おれは、エルフが好きなんだ。一回エルフの里に行ってみてぇ、って思ってるくらいだ。あいつと一緒にいたら、いつか行けるんじゃねぇか、ってなぁ……。そう思ったんだよ」

 ジーナはとぼとぼと、朝の穏やかで、静かなサンシャの森の道程を歩きながら、そんな昨日の会話を思い出していた。

 周りにはパリスとベルが歩いている。フューリーとギザラは今では遠く離れ、ギザラが先頭、フューリーがしんがりとなっている。

 ベルが心配そうな表情でこっちを見てきた。

「どうしただ? お嬢様。なんだか元気がねぇだよ」

「無理もないだろ。飯もろくに食ってねぇし、連日歩き通しだからな。ったく、こっちは怪我人だってのに」

「温かいもの、食えねぇから、元気が出ねぇだか?」

 ベルは沈んだように眉を下げて、ジーナの顔を覗き込んだ。

 もう何日も火を見ていない。火を起こすと煙が上がる。敵に場所を気取られやすくなるからだめなのだ。

 斬り崖山から吹き下ろす北風が、身に染みる。なにせジーナはマントがないので、その風を防ぐものがないのだ。パリスたちが貸してやるといっても、絶対に受け取らなかった。

 しかしジーナは、元気なく顔を伏せているだけで、べつに歩みは緩慢ではなかった。むしろ誰よりもしっかりと歩き、その歩みは遅れることなどなかった。つねに隙のない歩き方で、その姿勢も堂々としていて、弱いところは欠片もなかった。

 ジーナは、心の中で、フューリーのことをどう定義していいか、ただ決めかねていたのだ。

 ジーナはフューリーのことを、本心から、本当のお姉さんのように考えていた。優しいし、強いし、厳しいので、甘えやすい自分の欠点と、うまくかみ合ってくれると思ったのだ。フューリーが姉で、ジーナが妹で、それはなんて素晴らしいことだろうと思っていた。

 いや、ここは彼女のことを本名で呼ぼう。

 アフェーナ・キシルリスティス。それがフューリーの本名だった。

 本来はその中間にもっと長い名前があるのだったが、久しく名乗ってないので、フューリーは「もう忘れてしまった」と言っていた。だがそれは、ただフューリーが嘘をついているのだと、そのときのジーナは見破れてしまった。

 ジーナはそのとき、どうしていいかわからなかった。

 ただ、その答えを「シュフラストゥ」から教えてもらった。

 かの白い剣の鞘に触れると、胸の中にぽっと冷たい光が灯って、厳しく清冽な早瀬のような音で、ジーナに囁いてくれる。

 ただ、簡単なことなのだ。

 ジーナも心の中ではそれがよくわかっているはずだった。

「アフェーナ」

 ジーナはフューリーの名を口の中で呟いて、かすかに後ろを振り返ってみる。

 フューリーは固い表情で、淡々とした足取りで後ろを歩いていた。つねに気を配っている顔だが、どこか、さらに緊張しているように見えた。それはいつもの彼女の緊張の度合いではなくて、なにか、べつの要因が重なって、さらに彼女の心を固く、かたくななものにしているように見えた。

 それがなんなのか、ジーナにはまだわからなかった。

 推測しようと思えば推測できたし、また、尋ねることもできただろう。

 しかしそれはジーナの心も、「シュフラストゥ」の知惠も、許しはしなかった。

 ジーナは落ち着かず、前方に顔を戻して、そのとき、ついに森が切れたことを知るのだった。

 広い原っぱに出たのだ。

 いや、それは、原っぱに似ているが正確にはそうではなくて、むしろ岩石の乱立した荒れ地であった。

「麓に来たな」

 ギザラはいう。フューリーは歩みをそのまま進めて、ジーナたちの前に出た。

「ここが斬り崖山か……」

「別の名で、『アムズンバ』」

 ギザラは切り立った崖を見上げていう。

「落とし山、って意味だ。言葉の意味するところはどっちも一緒だろうがな」

「……さて、」

 フューリーは一息つくと、後ろを振り返り、悲しげにその森を見渡した。

 しかしそれがなんのためかは、ジーナはまた、わからなかった。

「もうこれ以上馬は連れていけまい。この急勾配な登山道は、馬にはどうにも無理だろう」

「えっ!」

 そこでジーナはびっくりして、ハレリーや、フューリーの馬を見た。

 二匹とも寂しそうな顔で、仲間たちを見つめている。そして上をちらっと見て、鼻をぶるぶると鳴らした。

「そんな、こんなところに置き去りにしてしまうの!?」

「大丈夫さ。馬はひとりでに安全なところまで帰ってく。人間よりも賢いもんだ。なぁ?」

 馬たちはただ、ぼーっとするだけで、ギザラの質問には明確に返答しなかった。

「敵の兵に見つからないように、私の馬に案内させよう」

 フューリーはそういうと、自分の乗ってきた茶色の馬の背中を優しくなでて、こういった。

「さあ、カルシォーンよ。おまえは敵と我らの違いを見分けられるな。気配を察しろ。匂いを嗅ぐのだ。そうしてこの仲の良い友だちを、安全で、おまえの優しい仲間がいるところまで連れて行ってやってくれ」

 ぶるんっ、とその馬は一鳴きすると、ハレリーのことをじっと見て、それから尻尾を振り、きびすを返して、すたすたと森の中へ戻っていってしまった。

 ハレリーもその後についていく。

 ベルとジーナは、呆然と、そこに下ろされた荷物を見て、固まっていた。

「さて、」

 フューリーはその中の荷物を一つ取って、こういった。

「荷物を背負いたまえ。各自持てるだけの量を。いらないと思うものは捨てていくがいい。しかし、敵に見つからないように、ここからすこし離れた森の裾に埋めるのだ」

「……」

 ベルはなにもいわず、ただただ悲しそうに顔をしかめながら、自分の荷物から、料理に使うはずだったいくつかの器具をよろよろと取りだして、埋めた。

「鍋だけは捨てれねぇだ……」

 ベルは名残惜しそうに鍋を見つめて、つぶやいた。

「これからすっげぇ寒いところに登りそうだ。ぶるるっ……ここでも相当寒いもんな。お嬢様にあったかいもん食わせてやらねぇと」

「おれは、ベリエスに着いたら着回そうかと思っていた服を一つ捨てるよ。それから、雑貨類も。もともと軽装だったけどな。これからさらに軽装になるわけか……」

 パリスは青い織物や細工物を鞄から取り出すと、名残惜しそうにして、地面に埋めた。フューリーやギザラはもともと軽装だったためか、なにも捨てずに一行を待っていた。

 ジーナもなにも捨てるものがなかった。

 意外と自分の荷物が少なかったことに、ジーナはあらためて驚いた。怒ったまま自宅を出てきてしまったから、色々忘れてしまったものがあるかもしれない。色々なこと――。

 パリスやベルが荷物を埋め終わると、フューリーは一行を見渡して、やや西の空に傾きつつある太陽を見て、告げた。

「もう午後も半ばだな。急ごう。さぁ登攀だ」

 ジーナたちは斬り崖山に立ち向かう。

 

 つづく……

 

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