第三章 ロザンクト=ニデル

 

 三日経ってから、一行はニデルにたどり着いた。

 そこは、フューリーのいったとおり、ベリエスよりもだいぶ賑わっている都市のようだった。城壁が丸く、市街地全体を囲っているようで、入り口の門を捜すのにもジーナたちはだいぶ手間取った。その城壁に沿って一時間ほど歩くと、その門にようやくたどり着いた。

 門は西からのノヴァリース街道から直接繋がっていて、近づいてみると、城壁から奥へ、蛇のように曲がりくねった道となっていて、ジーナたちは左に曲がり、右に曲がり、くねくねと行ったり来たりを繰り返して、ようやく小さくて頑丈な鉄の門にいたるのだった。ベリエスよりも少々詳しく名前や素性を聞かれ、ジーナはしかたなく、パリスの妹(フューリーはパリスの恋人)ということにして、入国するのだった。

 石畳で地面は隙間なく舗装され、ファルサリアよりもだいぶ広々としていた。木が植わっているところなども所々見受けられるが、それは道路脇の並木にしかすぎず、そのほとんどは住宅街や商店街であった。都市といっても農地や森林ばかりであったファルサリアとは大きく違っていた。

「すごいわ……」

「この町の中で直接敵が襲いかかってくることはおそらくないだろうが、警戒を緩めてはならない。人混みには間違っても入ってはならないし、つねに隣に私かパリスをつけたまえ。単独行動は絶対に避けるのだぞ。さて、まずは宿屋を取ることにしよう」

 フューリーは先導して、舗装道路を歩き、街の中心のほうにある、大きな宿屋の一室を取った。あまり外れのほうの宿屋であると、逆に危険だと思われたのだ。

 部屋は広々としていて、前に使ったベリエスの宿屋よりも、さらに横長に広かった。ジーナは女性と男性でついたてをまん中に立てて、部屋を仕切るようにした。久し振りのふかふかのベッドなので、そろそろ女性としての気分を取り戻したいと思ったのだ。

「のんびりしている時間はない」

 だがフューリーの言葉は依然、緊張したままだった。

「この居場所を突き止められ、ひそかに襲撃の準備を立てられるのも時間の問題。さっさと人を探しに行こう。まだ夜までしばらくあるな――」

「ねぇ、私湯に入りたいわ。体の汚れをきちんと落としたいもの」

「なんだと」

 フューリーは怒るのを通り越して、逆に呆れたようだった。

「正気か?」

「ええ。あなたも行きましょうよ、フューリー。この宿には湯があるそうよ。めずらしくしっかりしてるじゃない。こんなときに入っておかないと、今後いつ入れるようになるかわからないわよ。それって損じゃない。ほら、行きましょ」

「えっ、待て。そんな、私はいいから――」

 フューリーはめずらしく冷や汗を顔に浮かべ、ジーナに手を引っ張られ、足をもつれさせる。

「だいいち、いつ敵が襲ってくるかもわからないんだぞ!」

「そのためにあなたが戦い方を教えてくれたんでしょう? 大丈夫、素手でも戦うことができるわ。そう教えてくれたんでしょう? 最悪下着一枚でも逃げ出すことは可能よ。あなたと一緒なら心強いわ。ねぇ、私を一人にするつもりかしら? ほら、行きましょ! 夜にならないうちに!」

 時刻は夕方だったが、夜までにはまだすこし時間があった。オレンジをすり潰したような鮮やかな夕焼けが街の隅々まで伸び、風が和やかにそれを横へふかしていた。ここにはめずらしく平和な夕べがあった。

 そんな場所にいて、フューリーもやや警戒が解かれたのか、ジーナの誘いを最後まで断ることができず、ずるずると、湯の場まで引きずられていってしまった。

「なあ、ベルよ」

「なんだ?」

 ついたての向こう側で、パリスが水に濡らしたタオルで体を拭きながら、どたどたと駆けていった二人の女性の名残の、ぶらぶらと空を切っているドアを見つつ、嘆息した。

「お嬢様もたくましくなったこって……」

 ベルは返事をしなかった。そんなお嬢様の成長を眺めるのが、かれの一つの楽しみでもあったから。

 湯には客が一人もいなかった。

「すごいっ! どこまでいったい武器を隠し持っているの!?」

「あんまり、大きな声を出さないでくれ……」

 顔を赤くしてフューリーは、体から魔法具や隠しナイフを外しながら、横目でジーナの顔を見やった。

 最後に銀の鎖かたびらや、下着を外し、湯へ体を洗い流しに行く。

 ジーナは、あっと息を呑んだ。

 フューリーは自分よりもずっと長い間一人で旅をしてきたはずなのに、土埃や傷、汚れがほとんど付いていなかったのだ。いや、付くには付いていたのだが、それはとても微少なほどだったし、いわば肌の上に付着するといった程度で、肌自体を傷つけるには至っていなかった。

 こうして一度身を湯で洗い、清めると、そこには驚くほど白い、雪の花のような肌と、渓流の、太陽に当たって揺らめくような美しい髪があった。

 ジーナはそんな彼女の人間離れした美しさに見とれていた。

 だが、フューリーはなぜだか、湯に入るのを嫌がった。

「どうしたの?」

「私はいい」

 お湯は、まるでジーナのも見たことがないような、心に優しい香りを放つ、緑色の葉っぱで満たされていた。その匂いをかぐと、まるで頭の隅々まですっきりとするような、清冽な感情に満たされるのだ。

 なのに、フューリーは遠くで知らんぷりをしている。

「湯が嫌いなの?」

「好きではない」

「いいから入りましょうよ。私だけこうして入っているなんて、なんだか気が引けるわ」

「……」

 ジーナがそう言うと、フューリーはどこか済まなさそうになって、苦虫をかみつぶしたような表情で、そろそろと入ってきた。

「うっ」

 フューリーの顔が真っ赤になる。

「熱い……。人間の湯はこんなにも熱いのか」

「入ったことがないの? べつに普通じゃないかしら? 北国ではもっとぬるいの?」

「……。いや、そうではない。私は、今まで久しく湯に入っていなかったからな。ずっと水浴びだけで済ませてきた。北の、美しい湖の水でな」

「勿体ないわ。湯に入らないなんて」

「そうかね」

 フューリーはそう簡単に答えた後、もやもやと煙る浴室を、頭の隅で考えている危険への緊張までも薄れるみたいに、ふぅ……と目を細めて、ぼんやりと見つめた。

「ねぇ、アフェーナ」

「なんだ」

 唐突に本名で呼ばれ、フューリーはどきっとする。

「やっぱり気になるわ。どうしてアフェーナは、幼いころから魔法を使えたの? 誰からも教わりもしないで」

「私の生まれた国ではそれが普通だったのだ」

「北の国ってこと? エル・ギルドっていう……」

「……いや、」

 フューリーは遠い過去を思い出すように、目を寂しく細めた。

「私の生まれた国はもっと遠い。ずっと遠くて、東にあるところだった」

「へぇぇ……。そうすると、私の国とちょっぴり近いのかしら」

「かもしれぬ」

 ふ、とフューリーはうすく微笑んだ。

「でも、それだと不思議ね。私の国では全然魔法を使える人がいないのに、アフェーナの国ではたくさん魔法が使える人がいたのね」

「……」

 フューリーは沈んだように黙ってしまった。

「ずっと、」

「え?」

 驚くくらい低い、そして寂しそうな声で、フューリーは呟いた。

 そのためジーナはもう一度聞き返してしまった。

「ずっと、いたよ。たくさんいたよ」

 そうして、ゆっくりと続きを語った。

「私もそんな場所で育ったから、魔法はどんな人間も使えるものだと思っていた。ただ、それが間違いであったと気づけたときには……」

 フューリーは顔を伏せて、もうそれ以上は何一つ語らなかった。

「フューリー」

 ジーナはなんだか聞いてはならない域に足を踏み入れてしまったと思ったので、それ以上尋ねるのは、止めた。

湯を上がり、さっぱりとした体で、パリスやベルのところに戻り、それから軽い食事を採って、夕暮れの酒場へ、人を捜しに向かったのだった。

「気をつけねばならない。人と話をするときは」

 酒場に入る前にフューリーはそんなことを言った。

 夜の闇が降りしきり、見えているのは星の光と、やや満たされつつある三日月の、青白い光明だけ。そんな街の通りの橋の袂に、一軒とても賑やかな酒場があった。そこは旅籠も兼ねているようで、二階にも大きな建造物があった。軒先から淡い金色の光が漏れている。仕事を終えた職人たちや、商人たちが飲んでいると思われる。

 これからこの酒場で、北の斬り崖山の坑道を通れる者を探すのだ。そんな人間は滅多にいないと思うが、昔アファドの坑道はミスリルが取れた有名な坑道だったと聞くので、そのことに希望を託したのだ。

「私たちの正体をかぎつけられてはならない」

 フィーリーは厳しい目でいう。

「どこに間者が潜んでいるのかわからんのだ。そいつに知られてはならぬ。しっかりと用心しろ。まぁ、もっとも、私が直前に判じはするが」

「そんなことわかるのかよ」

「わからなくてはしょうがない。勇敢なるパリス君。まぁ見ていたまえ」

 フューリーはそういって先頭に立ち、ぎぃ、と木の扉を開けて中に入っていく。中は、ジーナが途端、耳が若干麻痺してしまったほどにうるさく、また、空気がたちこめていた。息苦しい苦痛を我慢して、ジーナはフューリーのあとについていく。あとからパリスとベルがつづく。

 一行は端の、やや大きいテーブルについた。そこでフューリーは四つビールを注文する。

「一つ言い忘れていた」

 そこでフューリーは囁くようにいった。

「酒は飲むんだぞ。飲めない者もすこしは飲め。怪しまれてはかなわんからな」

「わかったわ。……それじゃなかったら、魔法でこっそり水に変えるとかできないの?」

「そんな妙なことに魔法を使いたがる者がいるとは、私も初耳だったよ」

 フューリーはそんな冗談を言って、すこし呆れた顔をした。

 それから指を一本立て、すらすらと呪文を唱え、目に魔力を宿した。あたりを注意深く観察する。すると次いで耳にもかけた。フューリーの目と耳が両方、若干赤く光る。フューリーは簡単にこんなこともできるのだ。

 誰がどんな話をしているのか、どんな様子で飲んでいるのか、飲み具合はいかほどか、ぎこちない点はないか、探っているのだ。

「私たちを注視している者はいない」

 フューリーは一度魔法を解除して、小声でそういった。

「魔法を使用したことに反応した者も見あたらなかったな。おそらく間者はいるまい。まぁ、噂好きの連中ならたくさんいるだろうがな」

「そうすると、やっぱり目立った行動はできねぇってことだか?」

「そのとおりだ。聡明なベル・ジャグジー君」

 フューリーは頬杖をついて、談笑に楽しんでいる振りをしながら、パリスとベルに向かっていった。

「私たちは談話を楽しんでいるように見せなければならない。話をする相手ならもう少し待ってくれ。信用できそうなやつらを探し出す」

「すげぇな、魔法って……」

「私もすこし習ったのよ」

 ジーナは、パリスに手のひらをかざして自慢する。その間にもフューリーは抜け目なく周囲を観察している。

「お嬢様、さすがですだ!」

「もっとも、彼女のようになんでも出来るわけじゃないわ。そもそも、フューリーのは魔法であって魔法でないようなものよ」

「? どういうことです?」

「たとえば、私たちは魔法って聞いて、どんなものを想像するかしら? たとえば火、風を起こしたり、水を凍らせたり、自然の力をコントロールするものだと思うものだけど、フューリーのものは、その先を完全に超えて、すっかり自然に溶け込んでいるようなものなの。すごいと思わない? 彼女の魔法はすっかり自然なのよ。そしてそれを幼いころから自然と使えたの。私たちが魔法を使うといったら、そりゃ、やっぱり火を起こすとか、風を吹かすとかその程度のものだけど、フューリーの魔法はそんなものじゃ収まらないわ。本当に色んなことができるのよ。姿を消したり、体の速度を上げたり、身を軽くしたり、天候を変えたり、遠くの気配を察知したり、火で龍の形を作ったり……。私もそういった特殊な魔法をすこしだけ習っているのよ。ものすごく難しいけれど……」

「へぇぇ……」

 パリスとベルは小難しい講義に、ただただ嘆息をしている。

「今はどんな魔法が使えるんだか?」

「火を起こすだけよ。しかも、それも、本当に五回に一回ぐらいの成功率。乾燥した木とか、燃やす材料に指を直接つけないと起こせないわ。まだそんなものよ。考えることが多くありすぎるの。それに、もっと自然のことをたくさん勉強しないといけないのよ」

「……なんだかお嬢様、もうすっかりフューリーのやつと馴染んじゃってますね」

「そう。そうなのよ。わかる? 私、なんだか新しいお姉さまを持っちゃったみたいだわ。えへへ、すっごく怒りっぽくて、子どもみたいな人だけど、可愛いわ」

 ジーナは楽しそうに、また恍惚とした表情で、熱っぽく新しい姉妹について語る。フューリーの行動は、その大半が尊敬できるものだったし、またその僅かに見られる欠点も、すべてを鑑みると、まるでそれも長所を引き立てるささやかな魅惑点のようにジーナにうつるのだった。

 ジーナは、いつかフューリーのような素敵な人間になりたいと思っていた。そしてそのために本気で努力してみたいと思い始めてきたのだ。

「まっ、それはいいっすけど、」

 そこでちょうどビールが四人分運ばれてきたので、パリスはそれに口をすこしつける。それからテーブルにコップを置いて、フューリーを見た。

「ずいぶん時間かかるっすねぇ。フューリーのやつ。なんだか手持ちぶさたなんで、これからの話でもしません? 坑道の話とか、竜の話はいやだけどさ……」

「おらは、野菜園の話をしたいですだ。ああ、旦那様はちゃんとチェリーの世話をしてくださってるだろうか……」

「まったくもう、あなたたちったら」

 おのおのがくだらない話に話題を転じようとしていたところ、フューリーが目の光と耳の光を再び消して、一行に向き直った。

「だめだな」

 それが彼女の最初の一言だった。

「まったく見つけられない。……それぞれのうわさ話でわかったのは、あの坑道に近づく者はほとんどないということ、そしてここから南の地域、カラサドのほうに、妙な、見たこともないような連中や獣がうろつくようになったということだ」

「それはどういう意味なの?」

「おそらく、アーキュトスの手の者たちだろう。あるいはそれと強く関係を持った者たちだ」

「げっ……」

 パリスがぎょっとして、顔を蒼くする。

「つまり、敵ってことだか?」

 ベルがこわごわと尋ねる。

 フューリーはしかめつらしい顔で答えた。

「敵ではないかもしれんが、確実に味方ではない。ただ残念なのは、坑道を案内できそうな人間がここには一人もいないということだ。なんて安穏とした地域なのだろう。ここにはるばるやって来たのは無駄になってしまったのか……。せっかく時間を費やしてやって来たというのに」

「もう、ロザンクトの街道を通っていくほかはないのかしら……」

「おらはそっちでもいいですだ」

 ベルはやや諦めた口調でそういった。

「どっちの道に行くにしろ、おらたちにもう安全と希望は残されていないように思いますだ……」

「ベル! なんてことをいうの!」

「だって……」

 フューリーはジーナとベルのやり取りに、溜息をついて、こめかみに指を当てた。

「くそっ……なぜだ。どうしてここには人がいない? ここはどこだ? ニデルだぞ。ロザンクト=ニデル。屈強な旅人や危険なことを生業にする人物たちが集う聖地ではないのか。なぜなんだ? ひょっとして……来る酒場を間違えたか? そんなことはない。ここはこの都市でもっとも賑わっている酒場だ。もしかすると、時期が悪かったのか? わからない……。くそっ、もう、そろそろここでじっとしていられる時間もなくなってきたぞ。いったいどうすれば……」

 フューリーの独り言は、とても空々しく、そして霧のように広がって、水の中に砂が沈むように、一行の間に暗澹と沈んでいった。

 そんな折だ。

 店内にとても珍しい客が入ってきた。

「あっ……」

 ジーナもそちらを振り向いて、呆気に取られる。

「……パッセルナ」

 フューリーもそう呟いて、ゆっくりと目を見開いた。それから、やや嬉しそうな顔つきに変わる。

 それは、その男がパッセルナ(パッセルとは、獣人のこと)だったからではなく、その男の独特な油断のない佇まい、鋭い隻眼の眼差しが彼女の探し求めている条件に一致したからだろう。希望をやや見いだしたような顔になった。

「虎?」

 パリスとベルは訝しげにつぶやく。

 その大男は虎の顔をしていた。鋼の、やや覆う箇所が少ないハーネスを着込んで、その下の筋肉は隆々と盛り上がっていた。背は高く、足腰は長い。右目に黒い眼帯をしており、口は油断なくしっかりと閉じていた。

「初めて見たわ。私、獣人のひとは犬のひとと、牛のひとしか見たことがなかったから」

「ファルサリアにはパックス(犬の獣人)しかいませんでしたからねぇ。それにしても、このニデルじゃ獣人もめずらしいんですね。みんな、驚きの視線でやつのことを見てるぜ……」

「虎の獣人を見たことがない、という点に関しては君たちも同類だろう。さて、私も周りの連中の好奇心に乗じてみるか」

 その虎の男は、堂々とした佇まいで、また、力を抜いた柔らかな足取りで、カウンター席に腰をかけると、酒場の主人となにか話した。それから一度酒場内を振り返り、自分を見つめてくる視線に気づくと、鼻で笑って、また前を向いた。

「彼は? 間者? フューリー」

「わからぬ。だが――私が、ジーナ、君の言ったことを信頼するのなら、おそらくあれは我々の敵ではあるまい。もっと小綺麗な格好をし、もっと嫌な、薄気味悪い視線を感じるのだと思うから」

「まあ。信用してくれるなんて嬉しいわ。フューリー」

「……まぁ、ともかく私たちもすこし飲むとしようか」

 フューリーは気を取り直すように、全然手つかずであったビールをひとあおりし、彼女はまたゆっくりと、そして小声で、これからの話を語った。北のサンシャの森のこと、追っ手たちのこと、チューザーのいるラストバルトの様子のことなど。それを、まるでまったく別の、楽しい談話をしているように、揚々と語るのだった。ジーナはむしろそのフューリーの演技力のほうに、やや釘付けになった。

 そして、最後に、アファドの坑道、およびその奥に棲んでいる龍、そしてその坑道の案内人についての話に戻ったとき、フューリーは突然はっとして、後ろを振り返った。

 その場に気配もなく、先ほどの男が立っていたのだった。

「よっ」

 その虎男は気安げに挨拶をした。

「嬢ちゃん。筆談、してねぇな? ほんとに聞かせたくねぇ話なら、そいつらに紙を持ってこさせるべきだったぜ? それか魔法を使わせて、思念で会話するとかな。ま、そうした場合おれはもっと警戒していたわけだが」

「!」

 フューリーは驚いて立ち上がると、素早く剣の柄に手をかける。

 そしてそれとほぼ同時に、男の分厚い手が、フューリーの剣の柄の上に、覆い被さっていた。

「こんなところで斬り合おうなんて、ますます不用心だな? みんなの前でいいのかよ?」

 いきなり椅子を蹴飛して立ち上がったので、みんなから好奇の視線が向けられていた。フューリーは怠っていたのだ。この男自身にさらなる警戒の視線を向けること。ちょっとした気のゆるみから起こってしまった、間違い。「この男だけは直感的に警戒対象からはずそう」という気持ちを起こしたこと。

 その虎男は、「驚かせてすまねぇ」と、まるで周りに釈明するように、やや大きな声でフューリーたちに話しかけると、ぱぁん、と自分のコップをフューリーのそれとぶつけたのだった。

「あんたと話がしてみたくてな」

 そうして同じテーブルの、空いている一つの席にどかっと座り込む。それだけで、周りの注目はだいぶ収まった。数ある酒場の出来事の一つでしかない、と思わせたのだ。

「いや、正確にはあんたらと、かな」

 その隻眼の虎人は、その語調が正面からでは信用できないほど、油断のない、また、奇妙に輝いた視線で、一行を見渡した。

「何者だ」

「おれはあんたらのほうにそれを問いたいね。この物騒な世の中に、さらに輪をかけて物騒な話をしているじゃないか。寝言でもほざいてやがると最初は笑ったが、だんだん聞くにつれて、本気だとわかってきたじゃねぇか。おれは、あんたらと話がしてみたいぜ。なんなのよ。何者なんだ? 詳しく教えてくれねぇか」

「質問に答えろ」

 さらに低い声で、フューリーはこの虎人に問い続ける。

 虎男は軽薄な素振りなど一切見せず、肩もすくめないで、なのに言葉だけは軽薄な調子で答えるのだった。

「ますます興味が湧いたなぁ。お嬢ちゃん」

 フューリーは黙ってしまった。

「おれはギザラだ。ギザラ・アーシュベルト。マントヴァの都市で傭兵やってる」

「マントヴァ?」

「あんたら猿の人のことだよ。小さいお嬢ちゃん」

 ジーナはやや呆気に取られた。自分のいたファルサリアでは、たいていパッセルナは、奴隷や使用人、一番偉いのでも、優秀な店番くらいしかいなかったので、こうまで彼らに気安く話しかけられたのは初めてだったのだ。

「あんたらはいつも自分が世の中の中心だと思っていやがる。まっ、それはおれたちパッセルナ(おそらく彼はヌースと、自分たちの呼称で自分たちを指したかったのだろうが、皮肉屋なためかこう言った)だって、たいていの連中はみんなそうだけどな。でも考えてみな、嬢ちゃん。世の中にはたくさんの、自分と同等以上の能力を持った、異なるものがいる。マントヴァ、パッセルナ、ダイトの民(ドワーフのこと)、ホビルトラ(おそらくホビットのこと)、それにエルフ、エルフのなり損ないの、オークまでいやがる。こんなに多くの種族に囲まれていて、どうして自分が中心だと思う? おれたちパッセルナはそういう思想を持つことを当然としているんだぜ」

「ご高説、どうも」

 パリスが冷や汗を浮かべながら、引きつった表情で、答えた。

「傭兵か」

 フューリーが、唾棄するもののように顔をしかめて、ギザラを睨んだ。

「貴様、どこまで話を聞いていた」

「ここからラストバルトにまで行きたくて、だが追っ手がいるからロザンクトは通っていけなくて、仕方なくアファドの坑道を通ることになり、そこでおれ様の助けを必要としているところまで」

「そんなことは一言もしゃべっていない」

「ありゃ? そうだったっけか?」

 まるでおどけるように、驚いた振りをしたあと、ギザラはまるで別人に変わったかのように表情を鋭くし、太くて低い声で真剣にいった。

「行けるぜ。おれ」

 一行の間に沈黙が流れた。驚いたのと、今の言葉の真偽をどう判断していいかわからないためだった。

「あそこなら何度か通ったことがある。おれたち傭兵は比較的好きに行動できるからな。よく敵陣の弱点をつくのにあそこの道を使っていた」

「通れるのか?」

 フューリーが、さらに低く、真剣な語調で尋ねた。

「だから通れるといっている」

 そして、それに負けじとギザラは真剣な口調で返した。

「あの坑道は確かにやべぇ。オークやゴブリンどもが住み着いているし、迷路みてぇに入り組んでるから、山の構造を熟知した人間じゃねぇとすぐ迷っちまう。まさか誰も通り抜けようだなんて思わねぇよ。ここで張ってても無駄だぜ。ここのマントヴァは絶対に行かねぇ。まさかオークに襲われるわけにもいかねぇからな。だが、おれなら大丈夫さ」

「その根拠はどこにある」

「おいおい。聞いてなかったのかい? おれは、『通ったことがある』んだよ。前に何度かな。出口への最短距離だって知っている。もっとも、おれだって、必要に駆られなきゃ絶対入ったりはしねぇよ。あそこの洞窟はなにか『いる』。おそろしい何かがな。正直、素人にはお勧めできねぇ。おれだって正直気が進まねぇんだよ」

「ならば、どうしてそんな話を私たちにするのだ?」

「そりゃ、あんたらが行くって言ったからさ」

 そこでギザラは、やや誇らしげに一行を見回した。じろじろと、しかし決して嫌な視線ではなかった。

「最初はただの馬鹿で死にたがり屋かと思った。そういうやつはなるたけ放っとくことにしてんだ。だが、だんだんそうじゃねぇとわかってきた。なにか目的があるんだろう? そんで、それはあの暗闇の国から追われるほどにやべぇことだ。面白ぇじゃねぇか。おれも混ぜろよ」

「……」

 フューリーは、なんて反応したらいいのかわからないように、顔をしかめ、また、怒り出せばいいのか、呆れたらいいのか、判断がつかないように、表情を何度も変え、また、そうであるべき表情にたどり着く前に、失敗していた。

「奇怪な人物だ」

「豪快な人ね……」

 ベルとパリスはなにも語らなかった。ただ困惑した目でギザラと、一行とを見比べていた。

「金が目的か? だったら、私たちにはなにも……」

「金じゃねぇ」

 すこし苛ついたように、ギザラは断定的に言葉を覆い被せた。

「金は、いらねぇ。ただ最低限飯を食わせてくれ。それだけでいい」

「なんだ? いったい何があったのだ? 貴様は傭兵だろう?」

「おれ様にだって考えることぐらいはあらぁ」

 ギザラは肘をテーブルに付いて、まるで唾棄するものを思い出すように、溜息をついた。

「おれは、ついこの間、傭兵仲間と喧嘩別れしてきたのよ」

「はぁ?」

 フューリーは不可解そうに顔をしかめた。

「どいつもこいつもくだらねぇ。信じらんねぇことに躍起になってやがる。まぁ、そいつらからしたら、おれがパッセルナだから頭がおかしい、って理屈になってるんだが、まぁ、はんっ! 子どもじみた意見を出すもんだ。総じてそういうやつは」

 ギザラは続けた。

「ようするに、だ」

 手振りで説明する。

「おれは、『ただ生きるためだけに金を稼ぎ』たくはねぇのよ。おれは傭兵だ。なにで金を得る? 戦争と、地位に決まってら。だが、自分の命を危険にさらして、それで相手の命を刈り取って、それで、それが、おれたちの一時の生活のためだったら、それは一体どうなる? おれたちは真っ先に殺されて地獄に堕ちるべき人間じゃねぇのか? なのになんでそんな無駄な徒労を繰り返さなきゃならねぇんだ? 正直、もううんざりなんだよ。おれは、そんなことをするために戦うんじゃねぇのさ」

 さらにギザラは続けた。

「おれはなにか益ある仕事がしたかっただけさ。それで傭兵から、出世して、どっかの国に仕官できたら、ってガキながらに思ってた。そんなのが、馬鹿なガキがアーキュトスの存在をただの夢物語話だと信じてるくれぇに馬鹿げてることだと気づいたのは、傭兵を始めて二年くれぇ経ったころだった。そのころには、わりと話せる友人や、おれを慕う子分たちがいくつかできて、おれはどうにも身動きが取れなくなっていた。だらだらと長い間、傭兵を無意味に続けちまった……。それでこの間、ようやく、今までの友人や子分――そうと思っていたのはつい先日までだが――そいつらと本気で喧嘩する機会に恵まれてな。ようやくおれはいつ戦って殺されてもいい身になったってわけだ。そこで、どうした。なんだか面白ぇこと考えてるやつらに出くわしたじゃねぇのよ。すなわち、おまえらだ。ようやくおれは夢を叶える機会に恵まれたってわけだ。べつにもう、王国に仕官するとかそんなことは望んでねぇ。もっとおれは大きくて、そしてだれの目にもつかねぇような英雄的事業に立ち向かいてぇ。ところで、聞くところによると、こっちのちいちゃい嬢ちゃんは、あのラストバルトの英雄、チューザー・アルベルトの妹君だっていうじゃねぇか。はっはぁ、見えねぇなぁ? なるほどぉ。いや、確かに面白ぇ。敵は嬢ちゃんの命を――もしくは、嬢ちゃんの立場を――狙っているわけだな。なるほどな。確かにチューザーの力量はばかげてる。フラド・アルバの上古の英雄、グゼルミルナの再来だって噂されるくれぇだからな。ちっとは周りから攻略してぇって敵も思うわけだな。面白ぇ……すっごく楽しそうじゃねぇのよ。おれも混ぜろ。アファドの坑道ならすぐに案内してやれるぜ。出発はいつだ? はっはぁ、今からでも出発できるぜ!」

 さんざんギザラはフューリーたちに捲し立てた後、溜息をついて、こう締めくくった。

「なんだか、脱線した話を聞かせちまったな。おれが言いたいのはこういうことだ。おれを連れてってくれ。そんでその代わりの条件として、おれがおまえらを斬り崖山の向こうにまで連れていってやるよ」

「本気か? 私たちの旅についてくることで、おまえになんの利益があるのか、まだ理解しかねるが」

「利益ならあるさ。おれにも、あんたらにもな。だが、こうして一緒についていった後で、おまえらがつまらねぇ、口だけの嘘つき野郎の、腰抜け野郎だとわかったら、即座に殺すぜ。おれの槍で心臓をひと突きにしてやる」

 ジーナとパリスたちは顔を青くして、身震いした。

 だが、フューリーはそれで、ようやく意を得たように、静かに頷いたのである。

「なるほど。そういう理屈だったのだな」

 そうしてジーナたちのほうに向き直る。

「この男を連れていっても問題はないと思う……信用しよう」

「フューリー!?」

「ああーっ!」

 ベルは悲痛な叫び声を上げて、また頭を抱えた。

「どんどん危険な旅になっていくだ……。どうしてだ? そもそも、おいらたちは、ただお嬢様と住むところを探したかっただけなのに……」

「元気出せよ、でぶっちょ」

 虎の人、ギザラはず太い腕で、ばしばしとベルの背中を叩く。豪快に笑いながら。

「きっと希望はあるぜ。全部が終わったころに、おまえの願いはきっと叶えられらぁ」

「ほ、本気なの……?」

 その間に、端っこで、ジーナはまるで信じられないことを目の前にした人のように、ぼそぼそと小声でつぶやいた。

「私たち、もしかしたらとっても危険な人を連れて行こうとしてるんじゃないかしら」

「大丈夫。この男は裏切らない」

 だが、フューリーはその可能性を否定する。

「私はただ、君のいっていたことを参考にさせてもらっただけだよ。これほど平明な男もいまい。本当に信用できる人間というのは、このような者なのだ」

 フューリーは、うすく柔らかに微笑んで続ける。

「我が王が知ったら、きっと重用したことだろう。もし、彼が裏切ることがあるとすれば、それは、おそらく私たちが彼のことを裏切ったときだけなのだ。そのときは覚悟するとしよう。どちらかが間違っていたのだから」

「……もう、アフェーナがそういうなら、私も、いちおう信頼することにするわ」

「任せてほしい。この男の手なずけ方なら、私は心得ている」

 そういってフューリーは、信頼の眼差しをギザラに向け、おそらく今のやり取りを全部聞いていただろうギザラは、なにも聞こえなかったかのような振りをして、がははは、とベルやパリスを鼓舞するように哄笑していたのだった。

 

 ギザラは黎明に、城門の外にまでやって来て、ジーナたちはかれと再会した。

 彼はすっかり旅の支度を整えているようだった。

「よう」

「おはよう。……なにも、持っていかないの?」

 ジーナはやや驚いて尋ねた。ギザラは驚くほど軽装だったのだ。

「持っていくものならある。槍だろ、鎧だろ、食いものだろ、あとマント、ロープに水筒」

「おそろしく軽装だな」

「身軽なのがおれたち傭兵の持ち味だからな」

 彼は、穂先が布にくるまった槍の柄を、どん、と地面に打ち付けて、笑った。

「ここから先の斬り崖山は、おそろしく寒いぞ?」

「そんなこと知ってらぁ。おれは何度もいっただろ。通ったことがあるんだよ、あそこは」

「そうだったな」

 やや嬉しそうにフューリーは目を閉じ、うすく笑う。元の薄黄色のマントを身につけ、銀の鎖かたびらのこすれ合う音を響かせながら、北へ歩き出した。

 日はまだ薄明かりで、雲が厚く、世界は白々としていた。誰も通っている者などいない。動物さえもいない。鳥のさえずりも聞こえない。不気味な原っぱを、ギザラを加えた一行は、北の山脈へと向かう。

 ニデルの街からサンシャの森までは、起伏の激しい丘陵が続いていた。街道から外れ、一行は馬を中心に挟み、その道を徒歩で進んでいった。

 フューリーがギザラに話しかける。

「ギザラよ。生きるために金を稼いでいるのではない、と言っていたな」

「お。そうだが」

「……」

 フューリーはしばらくなにも言わなかった。

「この旅で、貴様の命が終わってしまうことになるかもしれんのだぞ」

「なんだ。そんなことかよ」

 ギザラは、そんなフューリーの心配を蔑視するように、静かに答えた。

「おれの命なんてたいしたもんじゃねぇよ。やってもいい相手になら、いつだって心臓くれてやらぁ。人生にはもうあまり未練はねぇよ。もう見極めてる」

「……」

 フューリーはなおも黙った。黙ったままで、なおも進んだ。

「貴殿は、欲が少ないのだな」

 そして、そう小声でいった。

「我が主君が知ったら、今すぐフィルベルムの謁見の間に連れてこいと叫び出しそうなほどの武人だな。わが国に仕官する気はないかね」

「あ? くだらねぇよ、そんなもん。もうそういうのはいいって言ったろ。結局おれはもう命が少ねぇ。運よく生きながらえたら、そのときは話をさせて頂こう、と暇があったら言っといてくれねぇかな」

「わかったよ」

 フューリーはかすかに微笑むのだった。

「生きていたら、な」

「死ぬつもりはねぇがな」

 ギザラは虎のパッセルナらしく、鋭い牙を出して、獰猛に笑った。だが嫌な笑みではなかった。胸が大いに揺れるほどの彼の屈託のない笑みは、少なくともそこにいた他の三人の気持ちも晴朗にした。

「にしても、敵はまったく出てこねぇのな。おまえらがベリエスからニデルに来るまで、ほとんど遭遇しなかったんだろ」

「正確には一回だ」

 フューリーは、いまだになお、口惜しげに答える。

「ラストバルトとアルバスの戦争がいよいよ激しくなってきたのだろう。こちらに割ける要員も限られてくるはずだ。戦争はラストバルト側の優勢だからな。だが……」

「チューザーはそれでも危険だ、っていいてぇのかい?」

 ギザラはフューリーの言葉を先取りして尋ねた。

「……その問いに答えるには、いくらか説明がいる」

 フューリーは黙りこくって、後ろにジーナを含むファルサリアの三人がしっかりついてきていることを確認してから、再び口を開いた。

「まずチューザーはラストバルトの軍師だ」

フューリーは淡々と話す。

「もちろんチューザーと同様に素晴らしい知将も数多くいる。だが、今のところチューザーの存在に頼りすぎている側面がある。彼が落ちたら総崩れになるだろう。兵の数ではアルバスのほうが圧倒的に上だし、やつらの背後にはアーキュトス、ジャンス=アキュラの魔塔の兵、モンドリエールの死人たちがついているし、その魔王や死人の王の力を受けて、兵たちの強さはいや増している」

「うへぇ……。そいつは骨が折れそうだな」

 ギザラは心底嫌そうに顔をしかめて、首を振った。

「しかし、アーキュトスは、べつにアルバスに味方してぇわけじゃねぇんだろう?」

 アルバスというのは、ラストバルトと敵対している南西の国だ。

「アルバスはやつらの犬にすぎない」

 フューリーは憐れむようにいった。

「アーキュトスの魔王の目的は、自国の勢力の拡大、畢竟すると我らの種の絶滅か奴隷化だ。われらエル・ギルドはそのためにラストバルトに協力している。これは、いってみれば、人間とオーク・死人たちとの戦いなのだ。ラストバルトとアルバスの戦争は、その縮図にすぎぬ」

「その話……本当?」

「うむ」

 後ろで聞いていたジーナが恐る恐る問いかけると、フューリーは振り返って、うなずいた。

「アーキュトスの魔王は以前の大戦で大幅に力を失った。敗北したからな。だが、また再び徐々に力を取り戻し、脅威となり始めている。前よりずっと力を強くしてな。我々は恐れているのだ。彼らに勝つ勝機がほとんど無くなること。チューザーはその一つの柱だ。彼の戦い振りは本当に素晴らしい。百の兵で三千の兵と渡り合う術を心得ている。知将の鏡なのだ。私たちとしても、かれを失うわけにはいかぬ」

「すごい人になったこっですだ……おらは会ったことがねぇが」

「……」

 パリスはどこか寂しそうに目を伏せ、ベルはただそれも知らず、驚嘆するばかりであった。

「私が敵につかまったら、具体的にどうなるの?」

「それは私にもわからぬ。ただ、決して良いようには使われまい。それは確実だ。君に不幸が訪れ、そのためにチューザーが苦しむのを知って喜ぶ連中がたくさんいる」

「そいつらこそ、真っ先に倒さなきゃいけねぇ敵ってわけだな」

 ギザラが、担いでいた槍を、肩の上で威圧するように揺らした。まるで馬のいななきのようだった。赤色に輝いて、さらなる獣たちの血を欲している。

 彼ら一行は、荒れ果てたロザンクト東地域を、薄もやを身に振りかけるようにして進んだ。右手には、古そうな森が続いている。森の表面にはすがれた不気味な木々が乱立していた。ほとんどが焼かれていて、死んでいた。このあたりには近い過去に戦争があったのかもしれない。

 風は北東から真っ正面に一行に吹きつけ、全員を肌寒がらせた。フューリーはマントをフードごとすっぽりと被り、ギザラは体を大きく上下に動かすようにして、体の熱を維持するのに懸命だった。ジーナたち三人は、すぐ縮こまってしまった。

 だがそれもしばらくすると、雲がちぎれ、日が明け、気温もだんだんと上がってくる。風も温暖となり、周囲に緑が増えてくる。小川のせせらぎが西に聞こえ、一行はその川からやや離れた丘陵を、並行して歩いていく。

 誰もあまり口を開かなかった。フューリーは靄が晴れてから、つねに周囲に動く者がいないか、注意を払っていた。ギザラもそれ以上ではないが、常に周囲に気を配っていた。ジーナはそんなときに、気軽な話ができないと思われたのである。パリスやベルも、自己流に警戒していたのだった。

 そんなときだった。

 遠くからかすかに鬨の声が聞こえた。

 フューリーが立ち止まり、一行の行く手を手で遮る。フューリーは一番先頭に立っていた。その後ろにギザラ、ジーナ、パリス、ベルと続く。フューリーは立ち止まるように小声で言い、自分一人だけで、足音もなく前方に進んでいった。

 ギザラは腕を組み、待つ。

 ここから数ヤード前方に進んだところに、小高い丘があった。ちょうどこちらが緩やかな上りとなっていて、あちら側が崖となっている都合のいい丘で、フューリーはそこに身を伏せ、前方を凝視した。

 フューリーは一目見ただけで、素早く帰ってきた。

 その顔は慌てていた。

「みんな、聞いてくれ!」

「なに? どうしたの?」

 フューリーは、まるでぞっとするような物言いで、こういった。

「オークの大軍だ」

その言葉を聞いたとき、ジーナの耳には、かの鬨の声や、太鼓の音、大地を踏みならす音が、いっそう不気味に、またおそろしいものに変貌してしまったように感じられた。

「私たちのところから、数マイル前方に……オークと、おそらくカルテス族の連合軍が集結している。数は、……私の目を持ってしても計りきれない。やつらはサンシャの森への道を塞いでいる。そこを通ることはできぬ。しかし……なにをもって、ここに軍を停めているのか」

「アルバス軍の援護に行くんじゃねぇか」

「行軍中、というわけか」

 フューリーは、やや意識して自分を落ち着けるように、静かに呼吸をして、腕を組み、視線を四方にめぐらしてからいった。

「見つかってはならないな」

「見つかったら旅はここで終わりだ」

 ギザラが冗談とも取れない冗談をいう。

「うっへぇ……」

「なんてこった……」

 パリスとベルがげっそりとした顔になって、うつむいてしまう。

「どうするの?」

「ここにいては危険だ。すぐ見つかるかもしれぬ。しかし、もし奴らの目的がアルバス軍の援護ではなかった場合、こちらにやって来る可能性がある。そうするといずれ見つかってしまう。ここであいつらをやり過ごすためには、あいつらの目的をしっかりと量らなければならない。それかもしくは、ここから一気にサンシャの森まで抜けてしまうかだ」

「それがどれだけ難しいか、知っているというの、フューリー?」

 フューリーはジーナに真剣な顔で答えた。「もちろんだ」

「ちっと、見て来ていいか」

 ギザラは親指で駐屯場を指す。フューリーは頷いた。

「おまえらもついてきてみろよ」

 ギザラがそういったので、ジーナやパリスたちも、ついでに、フューリーも一緒に、その小高い丘の斜面に身を伏せて、前方を観察してみた。

 ジーナはフューリーほど目が良くないので、遠く、小さく見える彼方に、黒々とした、川のようなものが、うっすらと流れているのが見えるだけだった。なのに、それが、見えるだけだとしても、おぞましくも不気味な、たとえていえば黒い夜空の中に、いっそう黒く輝いている暗黒星のように不吉に思えた。

 ギザラが目を細めてつぶやく。

「アリベルジャがいやがるな……」

「アリベルジャ?」

「アリベルジャってのは、灰色の獣で、山のようにばかでかく、鼻は蛇で、ラッパのような声を出すやつだ。やつら、何頭かそいつらを連れていやがる。どこかに戦いに行くんだな、すくなくとも。見たところこっちへ来る気配はねぇ。今日はこのへんで、あいつらを監視しながら夜を明かすのがいいと思う。死にたくねぇだろう? それとも今から出ていって、死んでくるか?」

「いっ、いやよ! そんなの、あなた一人で行ってよ!」

「はははは! そんときはおれの霊に呪い殺されることを覚悟しろよな! だっはっはっは!」

 そのようにギザラは哄笑すると、胸を張って、しかし気を抜いた様子は見せず、ジーナの頭を撫でながら、ちらちらとその軍隊のほうに視線を送りつづけるのだった。

 その日の晩はそこから半マイルほど離れたところに、野営をすることにした。ギザラとフューリーは交替で監視に当たり、夜が明けるまで一行はそこにいた。

 

 大軍は夜の明けきらぬうちに、そこを去っていってしまったようだった。フューリーとギザラは朝方相談をして、念のため、あの平原は通らずに、ここからすこし離れたところの、古い森を迂回して通っていくことにした。

 それは平原を突っ切るほどの細長い森で、名があるほどまでには広い森でもなかったが、身を隠すにはちょうどいい隠れ蓑だった。灼けて死んでいるのは表面の木々だけで、中はまだ鬱蒼とした緑のオアシスが生き残っていた。そしてそれは一行を遅らせる役割も受け持った。フューリーがジーナに、これはサンシャの森突破の予行演習のようなものだ、とうまい言葉を投げかけなかったら、ジーナのストレスは間断なく降り積もっていただろう。

 そうして、一行が淡々とその名も無き森を進んでいる折、

 その空気を破る存在が現われた。

「グッ……」

 うめき声の聞こえてきたほうに視線をやると、木洩れ日に照らされた、灰色の肌の、歯をむき出しにした三匹のオークがいた。

「オーク――」

 それは行軍を離れた、ならず者のような一隊だったらしい。血のように赤黒い鎧をつけた三匹が、こちらを発見する。そしてそのマントヴァとパッセルナの一行の中に、ジーナの顔を見つけたからか、あるいはそんな娘の存在など知らず、獲物を見つけたとただ頭で考えただけなのか、かれらは口をにたり……、と横に気味悪く伸ばすと、そこで一鳴き「ガァァァァッ!」と咆哮し、でかい図体の割におそろしいスピードで、こちらに駆け出してきた。

「軍団くずれかっ!」

 ギザラは槍を手に持ち、構える。

「ギザラよ! おまえは一匹を頼む! 私のほうで二匹を相手にしよう! ジーナたちは決してあれに近づいてはならぬ!」

 フューリーは緑色にうすく輝く、魔法の名刀を鞘から抜きはなった。

「どうしてよ!」

 ジーナは後ろで叫ぶ。フューリーはそれに一瞬反応して振り返ると、怒った顔をした。

「答えてる暇はない! ゆくぞ、ギザラよ! 隠れている兵に気を抜くな!」

「おれの力を見くびってるようだな――。あんなオーク一匹なんぞ――倒すのに手間がかかると思ってんのかよ!」

 そういうと二人は強く地面を蹴り出し、オークにも負けないほどのスピードで猛然と突進していった。フューリーのほうがずっと速く、閃光のようなスピードで戦場に到着し、剣を薙ぎ、鎧を叩き、一人をよろめかす。ギザラが、今まさに助太刀に入ろうとしていたオークを一直線に槍で串刺しにした。そこから槍を引き抜くと、この狭い場所で槍の出番はこれまでだと思ったのか、槍を背中にしまい、腰から短剣を引き抜いた。そこでもう一匹のオークと渡り合う。

 凄まじい戦いだった。

 オークたちはそれぞれ鈍器を手にしていた。フューリーやギザラに劣らないほどのスピードとパワーを持っているように見えたが、徐々に押され気味となり、ついにはフューリーの剣、ハイゼルフェルトの刃を受けることになった。もう一匹のほうは、二対一となったことに怖じ気づいたため、逃亡していった。

 ギザラはそれを追わず、ただ舌打ちだけをして、短剣を腰に収める。

「ちぇっ」

圧倒的だった。

ただ今度は、フューリーが、この前のゴブリンよりも倒すのにすこし手間がかかったことに、ジーナは一抹の不安を覚えるのだった。フューリーはさらに息を切らしていた。

それから素早くジーナたちの元に駆け戻ってくる。

「怪我はないか?」

 オークはあの三匹だけしかいなかったのに、フューリーはジーナの身を心配しているようだった。またそれもジーナの不安をあおる材料となった。

「オークが三匹だけでよかったな。この狭さで、ちっと、四、五匹いたらきつかったぜ。中には弓矢を持ってるやつもいるからな。油断してっと――」

 と、そのとき、唐突にギザラが中空に短剣を振り上げた。

 そこに、キィン、と鋼の弾け合う音がして、黒い羽のついた矢が、地面に落ちる。

 矢の飛んできたほうを見ると、先ほどのオークが、先とはべつの仲間をつれて、矢をつがえていた。

 短剣で受け止められたのは、ギザラ自身も驚いていたらしく、目を大きく開けて、ひゅうぅ、と感嘆の声を上げていた。

「やっぱ仲間がいたか」

「くっ――森であるのが難しいな。やはり、この進路は不正解だったか」

「いや、そうでもねぇさ。あんたはすこし自分に厳しすぎるな、フューリーさんよ? あのまま平原を行ってたら、間違いなくおれたち死んでるだろうぜ」

 そうしてギザラは、短剣を持って再び駆け出していく。フューリーはギザラと共に駆けていくことに、若干の迷いを覚えたようだった。

 このまま、戦えない者たちを残していくか――。

 そう迷っているように見えた。

 なにも戦えないわけではない。現にパリスは、この前のゴブリンや狼たちとの戦いのときは、なかなかの活躍を見せていた。しかしこれはオークとの戦い。危険度が違いすぎる。仲間を近づけたくない、と思ったフューリーの考えは、的確で当然だったはず。

 しかしそれでどうしても納得のいかない娘が、ここにいるのだ。

「ねぇ、フューリー」

「なんだ!」

 苛立たしげに問い返される。

「あなたは、私たちを守ってくれるのよね?」

「そうだ、もちろんだとも! 指一本触らせはしまい! あの汚い指で――君たちを傷つけさせはしまい! 私たちに任せておけ!」

「……」

 ジーナは物思いに沈んだようだった。

 後ろからパリスとベルに声をかけられる。

「お、お嬢様……」

「戦わねぇほうがいいだ、お嬢様。危険だよ。ここはフューリー殿たちに任せて、おいらたちはここでじっとしていることにいたしやしょう」

 ジーナはそれでも反応しなかった。

 フューリーはその間に、前方を向いて、魔法でギザラを援護し始めた。風で花粉を送っているのだ。オークたちのいやがる臭いを、そしてギザラにとって元気の出る香りを。

 ジーナはか細い声で、こういった。

「だめなのよ、それじゃ……」

 ゆっくりと顔を上げて、決死の覚悟をした眼差しで、決然といった。

「確かに恐ろしいわ……。あれがオークなのね。ひどく凶悪そう。私、はじめて見たけれど、こんなに恐ろしいものだとは思わなかったわ。あんなのに触られでもしたら、それだけで皮膚が病気になって死んでしまいそう。いえ、それ以前に、私たちはそのまま食べられてしまうかも――」

 そういいながらも、ジーナは胸元から短剣をそっと取り出す。

 それはあの短剣だった。小さな短剣。刃の直径が手のひらほどしかないもの。

「でも、だったら私たちはどうすればいいというの? ここでびくびく怯懦していろと?」

「そのとおりだ!」

 フューリーは大きくそう叫んだ。

 しかし、その後で、大きく失言をしたと、後悔して驚愕したような顔つきになって、おそるおそる後ろを振り返った。

「いいえ。それは違うわ」

 ジーナは顔をまっすぐに見すえて、前方の危難を受け止めていた。

 だが額には汗が浮かんでいた。

「これから行く先、幾度としてこんな状況があるというの?」ジーナはいった。

「あの恐るべき血塗れの刃――氷の手、毒の牙、呪いの弓矢に、立ち向かわなきゃいけないときがいったい何度あるというの? 私たちははたして死ぬべき定めを歩いているのかしら。 いいえ、そうではないわ――生きるための道を歩んでいるのよ!」

 ジーナは身の内に巣くっていた恐怖を押しつぶし、倒して、支配し、理性と勇気をその上に立たせることに成功したのだった。

「なにかできるなんて思っていないのよ! でも、死ぬべき道とは何――? ここでこうしてじっとしていることよ! そして生きる道とは? 私も一緒に戦って、みんなの力になることよ! 怖いけど、そうに決まっているわ! 私も力を貸す、一緒に戦って! フューリー!」

 そうしてジーナは短剣を鞘から抜きはなった。

 空気が振動する。

 その短剣の刃は、ジーナの勇気に喜んで応えるように、ぎらぎらと力強く銀色に光っていた。

「だめだ!」

 フューリーは甲高い声で反対する。

「君は何をいっているのかわかっているのか? 相手はオークだぞ! 鬼だ! エルフのなり損ない――悪意の固まり、憎しみの権化、貪りと妬みの象徴だ! そんな相手に君を近づけたら、いったいどうなってしまうか――」

「もちろん一人で相手ができるなんて思っていないわ」

 ジーナは厳然とした顔で強く一歩を踏み出し、いった。

「私たちファルサリア組の三人で、オーク一匹を相手にするのよ。いいこと、パリス、ベル?」

「本気っすか!?」

「う、うはぁ――!」

 二人とも心底驚いていたが、だが、それから、だんだんとジーナの覚悟に感化されたように、パリスよりは先にベルが、ぐっと息を呑み込み、覚悟を決めた。

「……わかっただ。お嬢様」

「ジーナ様が絶対前線に立たないってんなら……約束しますよ」

「わかったわ。フューリー。あなたは私たちの戦いに邪魔が入らないように、外で援護をしてちょうだい。そのほうがずっと守りやすいでしょう。ほら、見なさい。あの虎さんがやや押され始めているわ」

「くっ……」

 ジーナのいうとおり、フューリーが視線を向けた先には、オークの一隊に取り囲まれた、苦戦中のギザラの姿があった。短剣一つでよくやっているものの、それだけで数匹のオークを相手取るには、相当骨が折れそうな仕事であった。

「私たち、ぐずぐずしてられないわ。戦いに出ましょう。彼を助けてあげないと」

「っ……」

 フューリーは鞘に手をかけ、名剣ハイゼルフェルトを解き放つと、やや下段に構え、走り出す準備を取った。

「けっして無茶はするな――私は君にも用があるのだ。敵と同じくな。相手に君を渡さず、また安全に保護するという用事がな――」

「わかっているわ。その最善策をここで採ろうというのよ」

「――君の命をもし失わせたら、私も死ぬことになるだろう――」

 フューリーは覚悟を決めた顔でそういい、ぐっと息を呑み込むと、剣をはすかいに構えたまま、オークの群れに突進していった。その後でジーナたちもそれぞれ続く。

 ジーナたちは雄叫びを上げた。

「やぁぁぁぁぁぁぁ!」

まだ身の内に巣くっていた恐怖や不安を、この間だけ完全に外に追いやるのと、相手の勢いを一瞬でもくじくためだ。現実、オークはその鬨の声に体を強張らせ、一瞬逃げる準備をした。しかしその結果、戦いの意志のほうが打ち勝り、ジーナたちにも負けないほどの威嚇の雄叫びを上げると、一隊の半数がこちらに向かってきた。

 フューリーはいったいいつ詠唱したかわからないほどに――、おそろしく素早く魔法をかけ、自分の姿を森林の景色に紛れ込ませた。ジーナたちもどこに行ったのかわからなくなったほどだ。

 直後、オークの首が横に飛んだ。森の中に飛んで消えていった。ジーナは一瞬悲鳴を上げそうになったが、噛み殺して、再び喊声を上げた。そしてそのころには、ギザラも一匹敵を倒し、戦況はややこちらに傾き始めた。

 フューリーがもう一匹に剣を向けると、そのオークは巨大なその三日月刀で、危うげにフューリーの太刀を受け止める。それでフューリーの居場所が判明してしまった。オークも目は悪くない。それからの二、三の動きでフューリーのいる場所を完全に特定すると、不可視の魔法の有利性はすぐに切れてしまった。フューリーも魔法を切ってすぐに姿を現わす。

 そして、その間の剣戟を――、

「!」

 くぐり抜けてきた一匹のオークがいた。

「グルルルァァァ――――ッ!」

 そのオークは怒りにまかせて一度咆哮すると、のっしのっしとジーナたちに向けて走り出してきた。恐ろしいスピードだ。パリスとベルは攻撃を受け止めるべく剣を前に突き出して構える。完全に後手に回ってしまった。ジーナはそれを直感して危惧した。一歩前へ出て、指をオークの顔面へと向ける。

「えいっ!」

 そう叫ぶと、ジーナの指から小さな――とても小さな――炎が一瞬だけ飛び出した。それはオークを驚かせ、目を眩ませるのに十分だったようで、オークはその腕で目を覆い隠した。

「今よ!」

 その言葉を聞いて、パリスとベルは、ジーナと共に躍りかかった。

 パリスは腕へ、そしてベルは右の足下へ、ジーナは首へ――躊躇もなく、その短剣を突き立てるために。

 しかしそれはオークの意地と執念が許さなかった――。

「くっ!」

 短剣を突き立てようとして跳び上がったジーナを、その太い腕で、振り払うように殴りつけた。ジーナはなにか、とんでもない圧力によって吹き飛ばされるように感じ、宙に浮いてそのまま、後ろの木の幹へと叩きつけられた。

 オークが咆哮を上げた。

 どうやらベルの剣が右足を突き刺すのに成功したらしく、オークは悲鳴とも威嚇ともつかぬ声を張り上げていた。ベルはすぐさま剣を引き抜き、パリスは、オークの太い太刀を受け止める。踏ん張った地面が、もわぁっ、靴に押されて土埃を上げた。

「かかってこいや! この――汚ぇ怪物が!」

 パリスが叫ぶ。ベルがそれに応える。

「お嬢様になんてことしただ――もういっぺんも触れるなんて思うなよ! おいらたちが生きている間はな!」

「ギャォォォォォ!」

 オークは怒りにまかせて、剣を振りまくる。

「グググ! 許さん、くそ、人間ども……! 腐れた顔引っさげて、うじゃうじゃ、う、うっ、うざってぇうじむしのようにおれの周りを、お、おっ、おれの足に、まさか、おい、剣を突き立てやがった! だと! げふん! げほげほっ! 死ねぇぇ――――!」

「させないわ!」

 ジーナが隙をついて躍りかかり、空いた鎧のわずかなスペースを、一心に短剣で突き刺そうとする。

 だが、目ざとくその動きを読んでいたオークは、そちらに剣を振り向けた。剛毅の一太刀によって短剣は粉々に砕かれ、ジーナの手首はそれで折れてしまったように感じられた。(後から調べてみると、それはまったく無事だったのだが)

「お嬢様!」

 ベルが甲高く叫ぶ。そこにもう一太刀、オークの剣が振り下ろされた。ベルが必死に食い止める。威力があまって、ベルは後ろに吹っ飛ばされる。

 絶体絶命――。

 ジーナの頭にそんな言葉がよぎった。

 あと戦えるのはパリス一人。しかしそんなパリスに、この狂気の化物が、一人で相手取ることなどできるとは考えられず、やはりもう絶対――。ジーナはそう考えた。

 事実パリスは、戦いを持たせることなどできなかった。

非常に素早い剣を数太刀受けただけで、もう剣をにぎるのも辛くなってきているようだった。ベルも援護に入る隙がない。

 このときオークは、ジーナの目には、あの、先ほど見た、アリベルジャのように感じられた。灰色の巨獣で、すべてを蹴散らす魔王の手下のように感じられた。自分たちはただ踏みつけられる虫けらだ。

 だがここで、ジーナは諦めなかった。

 なにかできることがあるはずだ。それを探した。

 そしてその手がかりは、すぐに見つかった。

 ジーナは地面に落ちている敵の遺した武器を、震える手で拾い上げたのだ。

 そしてそれを、敵に向かって投げつけた。

「!」

意外と震える手でも、真っ直ぐに、勢いよく飛んでくれるものだ。オークはびっくりして、横に剣をなぎ払う。その投げた武器は容易に弾き飛ばされた。

だが――、

「今よ、ベル!」

「はいだ!」

 その間にベルが戦場に戻る機会を得られた。今度は、かれは足を強く地面に沈み込ませ、腰を深く落とし、容易に吹っ飛ばされない姿勢を作る。現に太刀を一つ受けても、びくともしない。

 オークはこれにかんかんに怒り狂った。

ジーナに向けてターゲットを変えようとするが、パリスとベルの二人がそれを許さず、その間にすばやく割り込む。ジーナはその間に、力の入らない手で、よろよろとフードをかぶり、先ほどこっそり唱えたのと同じように、なにかの呪文を口ずさむ。

 それは初めての試みだった。

 そしてそれがうまくいくかは完全にはわからなかった。

 しかし、今ならできるような気がした。

 ジーナはしびれる腕で、もう一度地面に落ちているオークたちの武器を探しだし、そこからちょうどいい大きさの短剣があるのを見つけ出した。

 自分が持っていたものよりずっと形がいびつで、重く、不吉な短剣だったが。

ジーナはすぐにそれを捨ててしまいたい気持ちにかられた。しかし今ある危難のためにも、それは捨て去ることなどできなかった。高く、肩の上にまで持ち上げて、真っ直ぐに構える。

 ジーナはそして、こっそりオークの側面へと移動する。

 そしてゆっくり、呼吸を整えた。

 オークはこちらの存在に気づいていない。それも当然だ。フューリーから教えてもらった、不可視の呪文をジーナもかけたのだから。いまだ実践したことがなく、これは初めての試みだった。しかし、このような異常な緊張の連続の果てに、研ぎ澄まされた感覚は目覚め、不可能なことを可能にするのはよくあることだった。

 隠れ身のジーナは駆け出した。そのころにはオークもやっと彼女の存在に気づきはじめる。こちらに睨みを利かせ、迎え撃とうとする。しかしパリスとベルがそれを許さない。剣を繰り出して、オークの注意を引く。

 ジーナは走りながら片手でマントのボタンを外した。それを脱ぎ捨て、風にはためかせながら、オークの顔に被せる。

 自分とオークとの間合いがゼロになった――。

「でやぁぁぁぁぁ―――――っ!」

 そのときジーナは、雄叫びを上げながら躍りかかり、オークの首の部分にその歪な短剣の刃を差し込んだ――そしてそれは実際にその箇所で正しかったようで、オークは衝撃が走ったように身体を一度ぶるっと震わせると、今度はいっそう無茶苦茶に――また最後の断末魔のように――剣を縦横無尽に振り始めた。

 その剣の切っ先はジーナの右腕の皮をもかすめていった。

 旅装が剥がれ、その隙間から血が漏れ出る。

 しかしオークは、だんだんと攻撃に威力と速度をなくしていくと、よろよろと足をもつれさせ、そして残ったわずかな力で、顔からマントをはぎ取ると、その首に深々と突き刺さった短剣を、精一杯引き抜こうとした。

 血が噴水のように飛び出る。

 そうしてオークはぐらりと体勢を崩し、緑の草の世界へ沈んでいった。

 ジーナたちの、勝利だった。

 

 つづく……

 

 

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