ここまでか――、と女は呟いた。

 焼け焦げた大気。ちりちりと音を立てて、きしんでいる。

 女のくたびれた背中を支えているのは、煤けた細木。葉は一枚もなく、枝は焼け焦げている。真っ黒に、まるで炭でもぶつけたようになって、この濃密な空気に焼けただれている。

 死ぬ、と女は思った。

 そしてその思いの後に、激しい悔恨の想いがやって来た。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 まだなにも為していない。

 目的を果たし終えていない。まだまだ途上。途上の、まだ、こんな道半ば。

 けれどどうすることもできぬ。

 魔法を使う腕はもう疲れて上がらず、剣も振るうこともできない。剣は血塗れし、刃こぼれし、がたがきている。足腰もそんな剣と似た状態だ。

 いな、足の首のところに、大きな裂け傷があった。血がドロドロと沼水のように出ていく。他にも腿や、膝、拗ねにも多数の傷があった。編み上げ靴はとっくに血で汚れている。中からのものか、外からのものかわからない。ただ、途方もなく痛い。

 頭に霞みがかってきた。

 気が遠くなる。

 その片隅で、遠くから、剣戟の音が聞こえた気がした。

 それとともに、今度は、近くで叫んでいるのか、遠くで叫んでいるのか、わからない叫び声。

「いたぞ!」

と誰かがいった。

「フューリーだ! フューリーを見つけた!」

「やつの名前はなんていうんだ? 最後に教えてくれ」

 そのとき、最初に叫んだものが答えた。

「アフェーナ・キシルリスティス!」

「なるほど。そうか。だがもういい。取りあえず――」

 そして、キィン、と鋼のこすれ合う音。剣を抜いた音だとわかる。

 だんだん近づいてくる。

 女は立てない。立つ気力もなく、立ったときに、足首がもげて、片足を失わないでいられる自信もない。

 だが、立たねばならなかった。

 ここで死ぬのはいやだ。

 死ぬことはできない。

 もう死んでもいいか。こう思ってしまうことが、死ぬことよりもずっと恐ろしい。

 死んでたまるか。

 そうして、女は、立ち上がり、剣を――。

 

第一章 森林の国ファルサリア

 

「もう、我慢ならないのよ、私は」

「そう言わねぇでくだせぇよ、お嬢様」

 ファルサリア。とある居住区の一角、お嬢様という呼び名が似つかわしくないほどこの薄汚れた部屋に、そのお嬢様と呼ばれた者と、白色の肌の、ひょろっとした、多少汚れた服を着た男がいた。

 二人のいる場所は、とある倉庫のようだった。

 暗く、そして冷たい、人気のない場所。そこで背の高い一方の男に対して、腰に両手を据え、居丈高に、大きく振る舞っているのが、驚くことに、男よりもだいぶ背の小さい、けれど美しい、またみすぼらしい格好をした、一人の少女だった。

「我慢できないといったら、できないのよ。パリス」

「そう言わねぇで」

「あなたといったらそればかりで、本当に話をしているのが嫌になるわ」

「それは、お嬢様が同じことばっかりいうからでしょう」

「あなた、使用人という立場の自覚はあるの? 私は主人なのよ! 主人にその口の利き方といったらなに!」

「それは……ほんとうに、困っちまいましたねぇ」

 その金髪の、髪の短い男は、ぴしゃり、と額を手でたたく。

 少女は怒りの眼差しをその男に向け続けている。

 少女の髪は紫色。若干黒みがかっていて、奥ゆかしさのある美しさで、こんな薄暗い場所よりも宮廷が似合った。顔はおっとりとした、本物のお嬢様のようだが、今の顔は相手への非難の気持ちでいっぱいのようで、淑やかさは離れている。

「私は、お嬢様のことを思ってこう言ってるんです」

「あなたの意志なんてどうでもいいのよ、パリス。とにかく、答えなさい。私の望みを承諾するのか、しないのか」

「だから無理だって言ってるんです!」

「わからずやっ!」

 そうして少女は男の肩を思いっきり突き飛ばして、部屋から走って出て行ってしまう。木の階段を上がっていって、自分の部屋へと飛び込み、中からカギをかけてしまう

「もうこうなったら、」

 彼女は息を荒くし、自分の部屋にある少ない着替えをかき集めに奔走しながら、こういった。

「自分だけで用意をするほかないわ。パリスの馬鹿! ……ベルと、カテリーナは許してくれるかしら。いいえ、もう許してもらえなくたっていいわ。もうこんな生活は嫌だもの。死ぬまでこんなところにいるのは、嫌」

 そういって少女は、あっさりと荷物袋すべての服をしまい終えてしまうと、数少ないお金(それでも銀貨二枚)をポケットに入れて、壁にかけていた剣を取り、あとは食料が必要ね、と思い当たると、扉の鍵を再び開いて、そーっと、下へ降りていこうとした。

「なにをしてる!」

「ひゃっ!」

 少女は、ちょうど階段を上ってきたパリスと出くわしてしまい、怒鳴られた。

「た、旅に出るのよ!」

「なーにあほらしいことをいってるんですか!」

「あほですって! あなた! 主人に向かってなんたる口の聞き方!」

「主人だろうとなんだろうと、無茶な行為してるんだったら止めます! それが、お嬢様のお爺さま、先代のご主人からのお言いつけです!」

「あーっ! もう! 怒った、馬鹿パリス!」

「な、なにをするんです?」

 少女はゆっくりと、先ほど壁にかけていた剣の鞘を抜くと、その切っ先をパリスへと向けた。

「や、止めてくださいよ!」

「止めるのはあなたのほうよ。この剣がなんだか知ってる? 我がヴィンフィールト家に伝わる古代の秘剣、ジャックステルダムよ。この剣には魔法がかかっていると聞くわ。あなたなんか、私がこうして一振りするだけで真っ二つになってしまうのよ。怖いでしょう? 私にもわかるわ。とっても怖い……。ね? だから、引きなさい? そうして私への道をお開けなさい? 私、あと五秒数えてあげるわ。ごぉ〜、よ〜ん、さぁ〜ん、にぃ〜……」

 パリスは逃げなかった。というより、ちょうど後ろが階段になっているので、どのようにしたらこのお嬢様の下から去れるのか、わからないでいた。

 そうして、やっぱり後ろに引き下がるしかないと考える。

「でやぁぁぁぁぁ〜〜!」

 なのにお嬢様は、思いっきり上段に、剣を振り上げる。

 そのまま、真下に打ち下ろす!

 ガシュンッ、パリーン!

「え?」

 木が砕ける音と、なにかが割れる音。

 そうしてお嬢様の間の抜けた声が響いた。

 目の前には、真っ二つに折れたジャックステルダムと、やや低い天井の、木のほんの一部が、崩れていて、破片が床に散らばっていた。

「あ、ああっ!?」

 少女は思わず悲鳴を上げる。

「な、なんてこと! 我がヴィンフィールト家の名剣が!」

「ひゅう〜……」

 パリスは驚いた顔で、のっしのっしと階段を上ってくる。

「危ないところでしたね、お嬢様。主にこの私が、でしたけど」

「あ、ああ、あぁ……うっ、うう〜……お、お父様になんてお話ししたら」

「折っちまった、っていうほかないでしょう。あーあ、だいぶ錆びてますねぇ。こりゃあ。お嬢様、こんなのを旅に持っていくつもりだったんですかい? これじゃ兎も殺せませんよ」

「だ、だってっ!」

 パリスはお嬢様の近くにまで歩いてきて、しゃがみ、パリ、パリ、と割れた破片を集める。

 その隣には、へなへなと腰を下ろしてしまった、お嬢様。

「割れるなんて思ってもみなかったわ!」

「そして私を殺そうとしたんですか?」

「殺そうなんて思ってなかったわよ! 寸前の所で止めるはずだったのよ! なんてこと……私が、ジャックステルダムを折ってしまうだなんて!」

「家宝の剣というのは、おおかたこんなもんでしょう。本当に魔法がかかっているなら、腐りはしませんし、折れもしません。どうやらこの剣は別物だったようですね。仕方がありません」

「あ、ああ。どうしようかしらパリス。お父様になんていい訳したら……」

「取りあえず破片を片づけます。危険ですから。お嬢様はお部屋に戻って、とにかく休んでください。旦那様はまだ戻ってきていませんから、なにか細工をするなら、今のうちですよ」

 パリスは足を曲げながら、どんどんお嬢様のほうへ近づいてくる。それだけ、お嬢様は後ろへお尻をつきながら後ずさりする。

「そ、そうだわ!」

「え?」

 パリスが顔を上げる。

「旅に本当に持っていったことにすればいいのよ! そうすればお父様にはこのことがばれないわ! このなまくらは、あとでロヌス湖にでも捨ててしまいましょう」

「まだいうんですか! お嬢様!」

「ねっ、頼むわ! パリス! あなただけが頼りなのよ!」

 さきほどまでとは打って変わって、お嬢様は身をすり寄せ、あの馬鹿パリスに懇願する。

 今後はパリスが後ずさりする。

「ん、んぅ〜む……」

「ねえ、お願いよ!」

 パリスは考えた。

「……とにかく、今は部屋にお戻りください。そんな格好じゃ旅なんてしたくてもできません。金、いくらあります? 銀貨二枚? 銀貨二枚か……十分でしょう。ですがさすがに今すぐってわけにはいきません。お戻りください。まずは。私がここの証拠隠滅をしておきます。お嬢様が本気なら、私たちも考えましょう。私たちのほうにも考える時間をください」

「う、うん」

 お嬢様はおずおずとしながら、パリスが自分の願いを少しでも聞いてくれたことに感動しつつも、ひょこひょこと、自分の部屋へと戻っていき、ばたんと扉を閉じた。

 旅の荷物をどさりと床に落とし、安価なベッドに、ぎぃ、と横になる。

 そのころ、扉一枚隔てた廊下では、パリスが長い長い溜息をついていた。

 彼のお嬢様がこんなにも旅に憧れるようになった理由は、幾つかある。

 一つは現在父親とその娘が不仲なこと。現在というか、過去から、現在まで、ずっとそれは続いている。お嬢様はもういい加減家を出たがっている。

 二つ目は、彼女の唯一の兄のチューザーが、彼女と同じように、大昔に旅に出てしまったこと。お嬢様は彼女の兄を捜索してみたいと思っているのだ。

 三つ目は、学校の授業で悪い影響を受けたこと――。

「そんな、エルフの国や、炎の国、ドワーフの国だなんてなぁ……」

 パリスは呆れた顔で、階段正面についた小窓から、小さい、とても狭い青空を眺めた。

 パリスにはお嬢様の言う冒険の醍醐味がわからなかったのだ。

「なにが楽しいんだかねぇ。おれにはわからんな……」

 お嬢様は学校の知里や歴史、神学の授業で、良くない知識を得てきたのである。

 過去の三度の戦争。それが行なわれたのがログザントの静かヶ原。そこを見に行きたいとか、勇者たちの墓、アンゴルの塚山に行ってみたいとか、エルフの国には誰も行き着いたことがないから、ぜひ自分が踏破してみたいとか、ようするに、彼女は極端な冒険家になりたがっているということだ。

 そこに兄の失踪のことや、父親の嫌悪のことなどが重なって、「旅」に出る決心をさせたのだ。

 お嬢様ももう十六。もう婚約者を見つけてもよいくらいだ。ヴィンフィールト家は、もう落ちぶれてしまったが。

 しかし元は由緒正しい名家だった。その再興のためには、縁談探しにもっとも気を遣わなければならないとパリスは考える。パリスはどちらかというと父親のほうの味方なため、お嬢様の奇行にはしばしば手を焼いていた。このように。

「しっかし、あの責任逃れのご様子……」

 もう、「旅」のことから目が離れていない様子である。

 だが旅とは容易なものではない。ましてやお嬢様が考えているほど観光めいたものではないし、そんなお嬢様にはとうてい無理なものだと思う。つねに死と隣り合わせの毎日。不眠の日が何日続いたって、文句が言えるわけでもない。自然の力に圧倒されることだって、ままある。パリスはどうしてもお嬢様を旅へは行かせたくなかった。

 ただ、お嬢様の心情を察すると、やはり、同情を起こさぬわけにはいかないのだ。

 やさしいパリスだった。

 パリスは古代の名剣ジャックステルダムの死骸を拾い集めると、頭をかきながら、下の暗い倉庫へと降りていったのだった。

 カテリーナと、父親が戻ってくる。

「そうだわ!」

 お嬢様は暗い部屋で考えていた。

「やっぱりパリスは旅に連れて行かなければならないわ。旅には詳しいようだったし……剣は折れちゃったけど、短剣くらいならきっとまだあるわよね。探すだけならやっておこうかしら」

 そうして家をがさごそと荒らしていく。

 彼女の家は貧乏だった。ただ、日々の生活はやっと送れるくらいには、収入があった。

 母のセレニアが亡くなってしまってから、急に家計が傾いていったのだ。そのころには兄のチューザーも家を出て行ってしまったから、父は誰かに手助けをしてもらうこともできず、金はどんどんヴィンフィールト家を離れていき、残っているのは、かつての名誉に囚われた幽鬼のような一人の男と、残された最後の花弁、このお嬢様だった。

 しかし、お嬢様は、もうそれから、父親とは上手にやっていけなくなった。

「もうこんなところにいるつもりはないわ……パリスや、カテリーナは、お父様のことをもっと考えてあげなさいというけれど……ちょっとだけ、家を空けるだけよ。お兄様を探してこなくちゃいけないもの。いまはお兄様のお力が必要よ。お父様も、私がいなくなればすこしは反省するでしょう。そのときにはきっと戻ってくるわ。私も、お兄様も」

 お嬢様はがさごそと物置を探しながら、そんなことを考えていた。

 すべてが幼い自己弁護だったかもしれないが、彼女の気持ちの発露は、半分真実であった。

 彼女は父親とはもう離れたがっていた。かつての名誉に囚われて、周りに当たり散らしながらも妄言を吐き続ける父親には、娘として、憐れみと怒りを同時に覚えるほどだったし、ましてや、愛することも、尊敬することさえもできずにいた。それが至当だとしても、十六歳の娘には難しすぎた。

 そんな折、学校の授業で聞いた、ファルサリアの外の世界と、唯一尊敬の念を持っている兄のことが、切っ掛けで、彼女に旅に出る決意をさせたのだった。

 彼女の住む国ファルサリアは、中つ国の東のほうに位置している。森が多い森林地帯で、ほかの地方からはギルバニオンと呼ばれている。北東には古森という迷路のような森がある。そちらからきびすを返して反対側に行くと、ログザントで、そこには人間たちの多くの国と、二度の大戦で戦場となった、静かヶ原がある。風も吹かず、木もなく、動物も住まないため、そんな名がつけられた。旅人がそこに行くと、戦争で散っていった数々の兵士たちの想念が、その人物に去来するのだという。

 学校の図書館では、古代の文献を何度も読み返した。そんな中には、かつての大戦のつまびらかな経過や、エルフの叙事詩や、ドワーフやホビットたちの研究の成果、自分たちの知らない知識のなんと数多く存在したことか。

 彼女は驚嘆して、感動した。

 彼女の住んでいるこのちっぽけな都市、ファルサリアの、外の世界に、城を囲んでいるいかめしい城壁があり、天をつく白いカルデナッハの塔があり、ドワーフの作った地中帝国があり、エルフたちの築いた深遠なる森や滝がある。

 それを聞いて外に飛び出せないほど、彼女は非行動派ではなかった。

「あった!」

 彼女は父の部屋に入ったときに、棚の奥に、布と、黒地の鞘に包まれた短剣を発見した。

 それを抜いてみる。

 銀色に光った刀身は、薄暗い部屋で、彼女を導く外の世界と同じように、魅惑的に光った。

「持っていきましょう……」

 彼女はそれを大事に胸に抱えて、自分の部屋へと帰った。

 そこに父親が帰ってくる。階下で父の濁った怒鳴り声がした。

 パリスが若干慌ただしげに階段を駈けのぼってくる。

「お嬢様。いますか!?」

「なに? パリス。慌ただしいわね」

 お嬢様とパリスは、廊下で鉢合わせた。

「ベルと相談しました。お嬢様が家を出て行くっていう件――乗ってもいい気がしました」

「ほんと!?」

 お嬢様は飛び上がる思いだった。

「ですが、一つ条件があります。――お父様にちゃんと話してください。お許しをもらってください。家宝の剣を折っちまったことは、言うか言わないか、そちらにお任せしますが、なにも言わないで、家出みたいに出ていって、旦那様を心配させることは絶対にだめです」

「なんですって……」

 お嬢様はすこし身を引いた。

 けれど、すぐに取って返した。

「い、いいわ。お父様に話せばいいのね? そんなの簡単よ。今すぐ話してくるわ!」

「待ってください! 今ベルがお夕食の準備をしています。せめてその折にでも――」

「待ってられないわ!」

 そして。

 そのまま父親に談判しに(本当は話し合いの予定だったのだが、彼女のおかげで、それは談判になってしまった)行った結果、パリスやベルの危惧したとおり、決裂――もっと端的な言い方にすれば――みっともない大喧嘩になってしまったのだった。

 お嬢様は涙を浮かべながらパリスを睨み付けて、いった。

「あ、明日一日で、準備を整えなさい。もう、出ていくわ! こっ、こんな家! ねぇ、銀貨二枚でいいでしょう。ほら、あげる。持っていきなさい。明後日の早朝に出発するわ!」

 もうパリスは諦めかけていた。

 もう一人の使用人、女のカテリーナに相談したところ、出ていくのは男の使用人だったパリス、ベルの二人と決まり、カテリーナは旦那様の世話のため、居残ることにした。

 パリスは翌日、その三人の分の、食料や道具一式を買いに、町中を奔走するのだった。

 朝靄がかかっていた。日はまだ照ってなく、薄暗いが、東の彼方には太陽の光芒がうっすらと見えてきている。あと数十分でこの場も明るくなるだろう。

 そんなころ、お嬢様は旅装を整え、一人で、城門の上の石畳に佇んでいた。冷たい石の地面の上にお尻をつき、片膝を曲げて、その上に手を斜交いに乗せて、はるか遠くの森林を見、またその反対側の、ファルサリア市街地、ギルバニオン大学を眺めやっていた。

 お嬢様はなるべくこの風景を心に焼き付けておこうと思った。いつ戻ってこられるかわからない。もしかしたら、もう永遠に思い出の中の風景として見るだけになるかもしれない。

 自分の故郷。

自分はここで生まれ育ち、そして死ぬのもここだと思っていた。母が亡くなるまでは、そして兄がいなくなるまでは。父と自分の関係が変わるまでは。

 ファルサリアは平和な国だった。そしてヴィンフィールト家は、その国の名士ともいえる存在だった。麗しの嬢、とも呼ばれた。そんな一人の少女が、今やこんなざま……笑う人もいるかもしれないが、お嬢様は今やそれを微笑をもって眺めやる心境だった。

 これから旅に出て、ノスタルジックな気持ちになるときはどれくらいあるだろう。お嬢様はぼんやりそんなことを考えていた。朝寒の風がやんわりと睫毛を揺らしていって、お嬢様はすこし肌寒くなった。革の手袋をきゅっとはめ直して、両膝を立てて、腕でその膝をくるむ。

 そんな折に、ようやくパリスが姿を現わした。城壁の上へ、ゆっくりと梯子を伝ってのぼってくる。

 後ろにはベルもいた。

「お待たせしたっす。お嬢様」

「申し訳ねぇだ」

 後ろにいたのは褐色の使用人、ベル・ジャグジーだった。若い男で、田舎言葉が抜け切れていないが、パリスよりもずっとお嬢様寄りの人間で、よく落ち込んだときなどは慰めてもらっていた。

 お嬢様は座ったまま、ひらひらと手を振る。

「いいのよ。改めてお礼をいうわ。ありがとう、二人とも。こんな旅に連れ出して迷惑をかけてしまったわね」

 お嬢様はそういうと、目を細めて、顔を逸らし、上ってくる朝日を正面にとらえ、赤々と照っている市街地や教会の尖塔を眺めながら、黙った。

「そう思われるなら今すぐお家に戻るこってす」

 パリスは呆れた口調でそういった。それに反応し、ベルはお嬢様の肩を持つ。

「おらはそうは思わねぇだ。出ていっても悪くねぇだよ。もうお嬢様と旦那様はどうあってもうまくやれねぇだ。おら、旦那様にはちょっと反省してもらいてぇと思うだ」

「こいつっ! なんてことをいうんだ!」

 パリスが大声で怒鳴り、ベルの短い髪の頭をなぐる。

 お嬢様はとっさに立ち上がり、パリスの口を塞いで、「しーっ……」と、静かにするようにいった。

「す、すみません」

 パリスは謝る。

「おら、間違ったこといってないだ」

「まだいうか。このまぬけ野郎」

「いいのよ、パリス。ベル」

 お嬢様は二人を手で制して、ベルに向かってまずは優しくほほえむ。

「ありがとう、ベル。おかげですこしは気が晴れたわ。お父様は本当は優しい人よ。でも、お母様がなくなって、お兄様もいなくなって、元気がなくなってしまっただけなの。そうなのよ……本当はわかっているけれど、私のほうがわがままだから、うまくいかないのよ。私、旅をして、もうちょっと成長してきたいわ」

「そんな、お嬢様」

 ベルは顔を赤くして狼狽する。

「そして、パリス」

 そうしてお嬢様はパリスのほうにも向いた。

「ありがとう。あなたはなんだかんだ言うけど優しいわね。あなたはずっと私たちの家のことを思ってくれているわ。あなたがいなかったら、私たちの運命もずっと早く切れていたことでしょう。それも、これよりもずっと悪い形で」

「お嬢様……」

「……」

 お嬢様は昔日を懐かしむ顔で、城壁の外の暗い森林を眺めやると、ん〜、体を伸ばした。

「行きましょう。センチメンタルな気分はもう終わりよ。これから冒険が始まるんだわ」

「お嬢様ぁ……」

 お嬢様はそういうと、ひらりと軽い足取りで歩き出し、城門の上をてくてく歩いて、鞄の中から麻の頑丈なロープを取りだし、城門の下へするすると下ろした。城壁の角の一箇所に、固くそれを巻き付け、縛り、容易に取れないことを確認する。

 そうして荷物を背中にくくると、身軽な身のこなしで、するすると城壁を降りていった。

「あーあ……」

 パリスは諦めたようにそう呟くと、自分も一緒に降りていった。ベルもつづけて降りて、あらためて荷物をせおう。

「このロープはどうするのかしら?」

「あとで、カテリーナさんが回収することになっています」

「そう。それならいいわね」

 お嬢様は必要な事項を確認すると、灰色のマントを身につけ、森の中へ歩き出していった。

 お嬢様とパリスとベルの三人は、それぞれ灰色のマントを身につけていた。そしてその下には焦げ茶の温かそうな毛皮服。黒のブーツ、手袋。すべてパリスが昨日調達してきたものである。

 お嬢様一行は、そんな身なりでしばらく森の中を歩いていった。

 すると、前方のやや開けた木の生えていない場所に、一つのかがり火が焚いてあって、その火花の茎に、一頭の馬が紐で繋がれていた。

「こんなところにハレリーを置いといて、大丈夫だったのかしら」

 ハレリーとは、ヴィンフィールト家のもっとも上等な馬である。お嬢様たちはそれを奪って逃走するわけである。

「ばれたでしょう。でも、なんの用途の馬か証拠がなかったわけですから、まさか街の警察も市民に調査して回ったりはできなかったでしょう。市民は昨今自分たちの権利にうるさいですからね」

 パリスはその茶色の馬の背中を撫でると、ハレリーは一鳴きする。その背中に、それぞれの少ない荷物を載せた。

 ほのかに明るくなっていく森の中で。

「さて」

 お嬢様は軽くなった背中をぴん、と伸ばして、腰に手をやって前方を見すえる。

「どちらに向かいましょうかね」

「お嬢様はなんの目的もなく、旅をしようとなさったんですかい?」

「あるわよ。まずは、お兄様を捜すのよ。ねぇパリス、あなたは言っていたわね? お兄様のチューザー様が、どっちに行ったか知っているって」

「ええ、まあ……あのころは私もチューザー様と同じ年齢でしたから。でも、私の知っているのは、チューザー様がどちらに行かれたかというだけですよ」

「いいのよ、それで」

 パリスは、遠い過去の記憶を思い出すように、眉をひそめて目を閉じると、数秒後、森の南のほうを指差していった。

「あちらの方角に、森を抜けて、ファルサリア国境近くに行かれたと思います」

「よし。それじゃあ、これからそちらに行ってみましょう」

 お嬢様一行は再び森の中を歩き出した。

 森の中にはまだ靄が晴れないでいた。ただし、この辺り一帯はお嬢様もよく出かけたりしていたので、目の前に見える木の種類と並び立っている状態だけで、今自分たちがどこにいるのか大体見当をつけることができていた。靄は一行を迷わすのに働きがなかった。

 靄はその代わり、ファルサリア森林を静寂(しじま)で包み、神聖な空気をただよわせた。朝のかすかな白光が、お嬢様たちの上部に生い茂った、まるで天蓋のような葉群を透かして、地面にかすかに降りてきていた。お嬢様たちはそれを爽やかな風と同時に受け取り、自然といい気持ちになった。

 三十分ほど歩いたところで、お嬢様は、ふと、思い出したように口を開いた。

「そうだわ。名前を変えなければならないわ」

「へ?」

 その発露は、旅の寂しさにようやく気づいてきたからか、あるいは、これからの冒険の楽しさに思いを馳せたゆえか。

 それか、そのどちらもだったのか。

「私、もう旅人になったのだから。それにずっと本名を名乗るわけにもいかないわ。だってファルサリアから半分の意味で逃げてきたのだもの。私をもう昔の名前で呼ばないでちょうだい」

「じゃあ、なんて呼べばいいんです?」

 パリスがきょとんとした顔でそう答えると、お嬢様はすっと唇に人差し指を当て、んー、と考え込み、思案した。

「適当な名前が思いつかないわ。考えてちょうだい、二人とも」

「私たちがお嬢様の名前を考えるんですか? やれやれ……それはいいですけど、もしそうなさるんなら、名字までは変えないほうがいいですよ」

「どうして?」

「それでは兄のチューザー様とのご縁が切れてしまいます。あっちはどうやってお嬢様のことを探すんです? ヴィンフィールトには一応の縁の意味があるんです。変えないでください」

 お嬢様はパリスの考えに耳を傾けると、またもや、んー、と顎に手を当てて、考え込んだ。

 しかしパリスの言っていることは間違ってないように思われた。

「そうね。パリスの言うとおりだわ。私がお兄様を捜しているとなれば……手がかりが必要よ。そしてあちらもまた、私たちと同じように、私たちを捜してくれていると考えなければならない。そのときのために、両者を繋ぐ、『ヴィンフィールト』の名前は必要ね。でかしたわ、パリス。じゃあ早速そうしましょう。名字は変えないから、名前を変えることにするわ。あなたたち、手早く私の新しい名前を考えなさい」

「そんなこと言われたって、難しいんですけど……」

「お嬢様が自分でお決めになるのがよろしいと思いますだ」

「使えない部下たちだこと……」

 お嬢様はつまらなさそうに顔をしかめた後、頭の中の選定レベルを一つ下げて、自分で(命名は得意ではなかったが)なにか適当な名前をすぐ見つけることにした。

「よし、決めたわ」

 お嬢様はぽんと手を打って、楽しげな微笑みを浮かべて二人に振り返った。

「ジーナ」

 その言葉は鳥の声のように澄んでいた。

「ジーナ・ヴィンフィールト……名字がわりと大仰すぎるかしら? でもいいわ。旅人っぽくて。正確には、隠れたミドルネームがあることにしましょう。ジーナ・アルズベル・ヴィンフィールト。平時にはジーナでいいわ。どう?」

 ベルもパリスも、なにも言わなかった。ただお嬢様が決めたものならなんだって黙って従うつもりだったし、かりにそうでなくても、とくにその名前に不満は見られなかったからである。ただ、花のファルサリアのお嬢様が、大仰な名前を捨て去って、そんなさっぱりとした旅人の名前になってしまったことに、一抹の寂しさを感じたのだった。

 しかしお嬢様は新しい名前になったことに気をよくしたと見えて、これまたこざっぱりとした、動きやすい毛皮の服をぽんぽんと上から叩き、子どものように顔をほころばすと、意気揚々と多難たる前途に向けて、歩き出していったのだった。

 

 森を抜けきるまで、二日かかった。広大なギルバニオン特有の森であったのと、とくに急ぐ旅でもなかったのが二つの理由である。

 食料は銀貨二枚でだいぶ買い貯めていたため、満足がいくまでのものではなかったにしろ、二日経ってもまだたんまりと残っていた。

 しかしこの二日間、一行の間にはとくに目立った危険はなかった。夜はパリス、ベルが交替で見張りをしたが、狼も来なかったし、盗賊もやって来なかった。ただ自分たちと同じ旅人(といっても行商人と思われる)が、夕暮れも終わるころ、こちらの火を見て歩み寄ってきてくれたりしただけだった。

 ジーナは短剣を抜いて、夕暮れの闇にかざしてみたりした。時たま、ぶん、ぶん、と宙を切り刻んで、感触を確かめたりしていた。

 その児戯を、本格的に剣技の域にまで上達させたいと言いだしたのは、一行が森を抜け、イセンの早瀬が通っている、広大なカテラの原に出たときだった。

 ジーナはパリスに向かっていった。

「ここから先は、私たちの国の目もなかなか届きにくいところだし、なにより、身を隠すものがないわ。盗賊や夜盗などにずっと襲われやすくなるだろうし、そうすると、私、自分の身は自分で守らなければならないときがいつか来ると思うの」

「そりゃあ来るでしょうねぇ」

 パリスは半ば呆れたように返事した。

「それで、時々でいいから、例えば――朝と夜に、ベルが食事の準備をしている時間に、私に剣の稽古をつけてもらえないかしら。あなた方使用人のほうが、きっとこういった旅にも慣れていると思うし、その分剣の腕というのもずっと身に付いていると思うのよ」

「そりゃ結構なことですが」

 パリスは、さぁぁ、とそよ風になびいている草原を見すえながら、ちょっと厳しい顔になっていった。

「お嬢様……いえ、ジーナ様は、剣の技術をどれほどお持ちで?」

「確かお学校でちょいちょい習っていたと思っただよ」

「あれはただの遊戯よ。本当に、ただの、柄の握り方とか、応急手当の仕方とか、そういう基本的なことしか知らないわ」

「よいでしょう」

 パリスは頷いた。了承したのだ。ジーナに剣を教えることを。

 旅にとって必要不可欠な技術だった。いつ何時、何があるかわからない。パリスの計画では、ファルサリアの国境近くの街に行くまでが、その旅の内容の大半であったが、それまではこうして野放図の大草原が広がっている。危険極まりない「旅路」なのだ。最低限の「旅人」に、ジーナを仕立て上げる必要があった。

 そうしてその日も何マイルか歩いた後、なだらかな丘の、てっぺんの木が生えている場所で、野営をすることに決まり、ベルが枯れ木を集めに行っている間に、パリスは、ジーナと相向かって剣を持つように言った。

「言っておきますけど、」

 と、かれはいう。

「私は剣を抜かないですよ」

「どうしてよ」

「主人に剣を向ける使用人の話を聞いたことがありますか? 私はない。あったとしても、私の耳にとどく前に、あなたのお爺さんの霊魂がやってきて、この不届き者めと、呪い殺されてしまうでしょう」

 そういってパリスは、冗談っぽく笑うと、西側の平野に沈んでいく夕陽の光をバックに、風なびく丘で、腰に渡したベルトから、黒革の鞘ごと剣を引き抜き、片手に持った。

 ジーナはすこし戸惑ったが、あれこれ考えた挙げ句、怖さを隠すように、やはり短剣を鞘から抜きはなった。

「短剣ってのは、いい武器です」

 パリスは鞘を構えながらそういった。

「最初の武器選択にしてはなかなかいいせんいってます。最初っから長剣を持とうとしちゃいけません。槍を使うのもオススメできません。戦場での野伏たちが使う武器だからです。死にたければ使うがいいが……その先はなにも見えません。まずは、短剣を使って軽いフットワークを身につけ、生きる術を学んだほうがよろしいでしょう」

「……」

「ましてや、ジーナ様の細腕などで大剣を振り回されたりなどしたら、こっちが危険です。素人の無茶は思わぬ怪我を呼びますからね」

 ジーナは腰をひくくかがめ、パリスの顔を睨み付ける。

「ずいぶん、なめたこといってくれるじゃない……」

 ジーナの短剣が薄闇にぎらりと鈍く光る。

 パリスは声もなく、また笑った。

「怪我しても知らないから!」

 そうしてジーナは地面を蹴った。おそるべきスピードだった。大きな怪我とならないように肩口をねらう。スピードだけは賞賛に値し、実際パリスも驚いたほどだったが、その軌道は読みやすく、その短剣の切っ先は、軽々とパリスの黒い鞘によって弾かれた。

 その弾かれたのが意外だったのか、ジーナは危うく短剣を落としそうになってしまって、よろよろと足をもつれさせてしまう。

「ちゃんと柄を握っていませんね。あと体重のバランスコントロールも下手です」

「くっ……」

「ほら、接近した状態でそんなちんたらちんたらしていると、こんなふうに、」

 今度はパリスが一気に間合いを詰めて(といってもそこから一歩も動かず、体勢をやや前に倒しただけであったが)、目の前に黒い鞘を叩きつけようとする。

 それは寸前で留められた。ちょうど顔の前だった。ジーナは動けなくなってしまった。

「絶体絶命、ってわけです」

「う、う〜っ……」

 悔しげに顔を赤くしたところで、ベルが蒔をかかえて戻ってきた。

 その日も簡素だが、温かく、おいしい食事となった。

 陽が沈んで、真っ暗になってから、火がぱちぱちと爆ぜる手前で、ジーナがまじまじとパリスの顔を見つめていう。

「パリスって、すっごく強かったのね……」

「言っておきますが、」

 そしてかれは、またもや彼のくせである、強い前置きを置いて、話し出した。

「私の腕は、まだ全然剣士の腕に達していませんよ。ただ自分の身を守れるだけの、護身術でしかありません。剣士の腕はこれと比べものになりませんよ」

「まだもっと強いのがいるの!?」

「いますいます。私の腕は、夜盗を撃退できるくらいですから。なにかを倒す任務を帯びた剣士などには、どうあってもかないません。ジーナ様もゆめゆめそれをご承知なさるよう……」

「む〜……むむむむ」

 ジーナは腕を組んで黙り込んでしまった。

 パリスは赤々と照る、精悍な顔で、にっこりと笑った。彼なりの謙虚さから出た言葉だったかもしれないが、パリスの言葉はよく真実を物語っていた。

 ベルがそんなところに陽気な口をはさむ。

「おらも剣はちょっくらだが、使えるだよ」

「ほんと? ベルにも教えてもらおうかしら」

「でも、止めておいたほうがいいですだ」

 褐色の使用人、ベルは素直にほほえむ。

「どうして?」

「おらはお嬢様に料理の腕を教えているほうがすきですだ」

「そっちのほうがいいぜ」

 パリスも笑う。

「だんだん旅人らしくなってきたじゃないですか。お嬢様」

 ジーナは、自分の予期していないところから、急に難しいことが、わーっ、とまるで大波のように押し寄せてくるのを感じて、ちょっとの間だけ、旅がいやになった。

 物事というのは、始めてみてわかる、恐ろしいくらいの難しさというものがあるものである。

「この辺で食べられる木の実と茸の種類を教えますだ。その調理方法も。生き物は捕まえられたら御の字だが、捕まえるのがそもそも難しいんで、うまく見つかったときだけです。あとはなるべく簡単で、携帯が楽で、保存もしやすい木の実の調理方法を教えますだ。これはおいらの五つ星マーク、絶対見つけたら取ってほしい木の実ですだ。覚える用意はいいですか?」

「ちょ、ちょっと、待ちなさい!」

 ジーナは慌てて、書くものがないか捜した。けれどそんなものは持ってきているはずがないので、彼女はその自身の頭に記憶を委ねるしかなかった。

 彼女は観念して、神妙に居住まいを正す。

 ベル・ジャグジー、褐色の治療人は、そんな自分の主人にからからと田舎くさく、きさくげに笑った。

「いいか、ベル。おれの考えはこうだ」

 霧も晴れた穏やかな朝に、近くの銀筋川に顔を洗いにいっているジーナがいないのを見計らって、パリスが真剣な口調でベルに話しかけた。

「チューザー様はもうとっくに亡くなっている。どうしてまだ生きているって思うんだ? 一通も消息を伝えた手紙が来ないんだぞ? ヴィンフィールト家の坊ちゃんが他国で出世した、なんて噂も聞かない。こりゃ死んでる。間違いなく旅に負けて死んじまってる。お嬢様はそれを捜そうとしている……ただの口実かもしんねぇけどな。それも」

「おらはまだ生きてると思うだ」

 ベルは真面目な顔で反論した。

「おまえとこのことで議論している時間はないんだよ。親愛なるベル・ジャグジー君」

「おらもそう思うだ」

「とにかく、この旅は国境の、ベリエス町までにすることにして、お嬢様にはそこでたっぷり静養してもらい、ほとぼりが冷めたころに本国に帰ることにしよう。こんな旅、命がいくつあっても足りねぇ」

「……おらもそれに同感だ」

 ベルはわりと残念そうに答えた。

「残念そうだな」

「だってお嬢様は、またあの旦那様のところに戻らないといけないだ。またきっと喧嘩になるだよ。おいらはそれを思うと、気の毒で、気の毒で……」

「なにも今すぐ戻れって言っているわけじゃない」

 パリスは肩をすくめる。

「おれも旦那様にはちょっと懲り懲りだ。なんなのかね、あれは。どんな病気に取り憑かれちまったんだか。だが、それはいい。おっと、誰にも聞かれてないだろうな。こんなことを聞かれたら殺されちまう。だが……まぁいいだろう。おれはこのまま延々と旅を続けるのが嫌なだけで、お嬢様を国に連れ戻したいわけじゃない。ベリエスでどっか気前のいい旦那と昵懇になって、結婚してもらうのもいいな。おれたちはそこで使用人としてまた働く。どうだ?」

「きっとそれがいいだよ」

 ベルはもうそれ以上なにも言わなかった。

 パリスはもっともらしい顔をする。

 そうこうするうちに、日が高くのぼり、それを合図としたように、ジーナが二人のところへ戻ってくる。

 

 それから旅は三日続いた。広大なカテラ原は、所々に樹木の生い茂っている場所を残すだけで、あとは一面に緑の原っぱだった。危険な動物は見あたらなかったが、木の梢にはリスがいたし、湖の周辺にはキツネ、ウサギなどがいた。鳥たちは自由に大空を旋回している。木々は涼しげな風に吹かれて、さわさわと歌を歌っている。夏の終わりの風は、すこし冷たく感じられた。

 今ジーナたちがいるのは、カテラ原のはずれの、すこし急な丘陵が続いているところだった。上がったり、下がったりを繰り返している。前にパリス、その次にジーナ、しんがりはベルがつとめた。

 パリスの言葉では、そろそろベリエスの街が見えてくるとのことだったが、ジーナの目にはなにも見えなかった。

「ねえ、本当にこちらで合っているの?」

「街道があるんだからそうでしょう。方角的には間違ってないです」

「おらたちもあまりベリエスには行ったことないんですだ」

「そう。そうなんですよ」

 ベルが同意すると、パリスは言い訳するみたいに手振りで説明した。ジーナは訝しく思いながらも、しぶしぶとついていく。

 太陽は正午の位置にまで上がり、真上から一行を照らす。人影はない。ベリエスと本国ファルサリアは、あまり交通する人が多くない。国外に用がある人ぐらいしか普通はベリエスに行かないし、ベリエスもベリエスで、独自の気風を保って暢気に暮らしているからだ。

 ジーナは今まで出会った人の数を頭の中で計算してみたところ、パリスとベルが紹介してくれた鳥の種類の数よりもそれが少ないことに驚いた。

 しかしパリスやベルも、これだけ出会う人が少ないのは、やっぱりどこかおかしいと感じていたようである。夜の食事で、口々にそんなことを話し合っていたからだ。

 そんな折。

 くたくたになった足を、さらに前へ、前へ、とジーナたちが歩き進めていたところ、街道に、こちらに馬を飛ばしてくる人影があった。

「お、めずらしい」 

 パリスがその人を捉えて、声に出す。しかしすぐに冷静さを取り戻して、駆け寄ろうとするジーナの前に手を出し、軽く止めた。

「油断はしないでくださいね。ここでは私がこの一行の長、ジーナ様が私の妹か親戚、ベルが家来、ってことにしておいてください。危険がない、とわかったら、正体を明かしてもいいです」

 ジーナは口を開かずに、ただ頷いた。わざわざ聞かないまでもわかっていた。旅のルール。

 近づいてくる者は、人であれ、動物であれ、一様に最低限の警戒をしなければならない。

「や、やぁ! こんにちはー!」

「……」

 近づいてくるその人は、薄黄色のフードを目深に被った、一見見ると修道士のような人だった。上から下まですべて薄黄色で染められている。パリスの挨拶に馬の速度を落とし、ゆっくりと、こちらに近づいてくる。

「どちらに行かれるんですかー?」

「……」

 馬上の人は、じろじろと、一行の顔を、一人ずつ観察すると、馬から降りて挨拶した。

 そして驚いたのは、皆同様だった。

 フードを取った先の素顔は――、見目麗しい、灰色の髪の女の人だったのだ。

「うはぁ……」

 パリスが感嘆の声を上げるおりから、その女性はつかつかとこちらに歩み寄ってくる。

 灰色の髪はこちらではものすごく珍しい。茶色が一般的で、金色、黒色、の順に希少価値が上がっていく。ジーナは貴族の娘であったため、髪もそれ相応の色だったのだが――。

 灰色というのは見たことなかった。

「申し訳ない。私はファルサリアへと向かっている。そこで人を捜す予定なのだ。君たちはファルサリアから来た人々か?」

 そう語る女性の口調は、凛としていた。

 灰色の髪は、太陽の光をまざまざと浴びて、若干桃色に変色してきていた。うすい桃色の髪だった。それが耳元を隠して、そのまま肩まで流れ、毛先はしっとりと、まるで水を吸ったようにしなやかに輝いていた。

 口調通りに、顔は凛としていて、目は鋭くも理知的。遠くまで見渡せるほどに汚れなく、その瞳の色は美しい薄青色だった。口は小さくて上品だった。

 ジーナが呆然としていると、パリスはしどろもどろに答えた。

「あっ……は、はい。いや、ええ。そうです。私たちはファルサリア本国から、これからベリエスまで行くところです」

(なに)(ゆえ)にベリエスまで? 国境の街ではないか? 他国へ行かれるのか?」

「いやぁ、あはは! ……じつは、ベリエスに、従姉妹のサティっていう別嬪さんがいるんで、会いに行こうかと」

「……そちらは?」

 その女性は、後ろに立っているジーナとベルに視線を投げかけた。

「こちらが私の妹で、ジーナです。おいジーナ、挨拶しな」

 ジーナは途中まで固まっていたが、その後正気に返って、おずおずと頭を下げる。

「で、後ろのこいつが、ベル。いいやつさ。でぶっちょの使用人。料理がうまい」

「ベル・ジャグジーですだ」

「なるほど」

 その女性は頷いた。

「で、あんたは?」

 パリスが何気なくだが、やや語気鋭げに質問を投げかける。様子を探ろうとしているのだ。危険な人物か、そうでないか。

 ジーナはその空気を感じ取って、体を強張らせる。

「私は……フューリーという」

「フューリー?」

 と、パリスが聞き返した。

 女性はそのまま言葉を続けた。

「とある人物を捜している。君たちの国、ファルサリアに住んでいるという。なるべく早めに会いたいと思っている。君たちに尋ねてもいいだろうか?」

「そりゃ構わないですけど、顔は知らないんですかい?」

「顔は知らない」

 きっぱりとその人は答えた。

 うーん、とパリスが、若干芝居がかったふうに腕を組む。

「それじゃ探しようがないんじゃないか? ……名前は?」

「アリーシャ」

「な!」

 直後、パリスとジーナとベルは、跳び上がるほどに気が動転した。

 そして、その動静を見逃すほど愚鈍ではなかった。目の前に立っている貴人は。

 ゆっくりと、疑わしげに言葉を紡いでいく……。

「……ヴィンフィールト」

 貴人はもう疑いの眼を取り外せないようになったようだった。目を細めて、怒ったような、胡散臭そうな視線で三人を見る。

「知らないだろうか?」

「……」

 知っていないはずもなかった。アリーシャ――ジーナお嬢様の本名だ。

 アリーシャ・ヴィンフィールト。

 ファルサリア国の没落貴族ヴィンフィールト家の娘。幼いころはまだ贅沢な暮らしもしていたが、今ではただの、平民同然の身となってしまっている。ただ少しばかり金持ちなだけの。

 国ではもう絶えてその名前が公に口にされてないのに、なぜこんな見ず知らずの(おそらく他国からの)旅人に捜索されているのだろうか。安全だ、とこの時点で決めてかかるのは、旅慣れしたパリスの経験が許さなかった。

「……」

 だれも口を開けない。ただ、そんな中で、ジーナだけは、この緊張にやや不用心であったと見える。

「あ、あの……」

 おずおずと、前に進み出る。

「アリーシャ・ヴィンフィールトに……なにかご用事?」

 フューリー、という女性の顔が向く。

「知っているな?」

「え、ええ……」

「その娘に危険が迫っている。早急に保護して、連れて行かねばならない。ご一行、悪いが、予定を変更して私をファルサリアまで案内してくれるか?」

「はあぁっ!?」

 その言葉に大きな声を上げたのはパリスだった。

「ど、どうしてですか!? お嬢様に身の危険!? そんな、馬鹿な、お嬢様はもうとっくに没落して、周りから何の用事もないって軽蔑されている身ですよ!?」

「……っ」

 がすっ、と靴でパリスの足を踏みつけても、パリスの混乱は止まない。

「お嬢様?」

「そうですよ、お嬢様です! 私はお嬢様をよく知っています! そんな、いつものんびりとしていて、正直いうと間抜けだが、決して悪い人なんかじゃない! ましてや誰かに危害を加えられるなんて――それもお祭りの屋台から林檎を一個盗んだのではなく、こうして他国から、早馬に乗った人に、こうして捜索されているなんて――」

「パリスっ!」

 今度は髪を引っ張るしかなかった。いてて! とパリスは首を折り、ジーナのところまで引っ張られる。

 フューリーは腕を軽く組み、パリスとジーナを交互に見て、意を得たように答えた。

「どうやら手間は省けたようだな」

「ね、ねぇ……」

 パリスを解放し、ジーナはおずおずと、フューリーに近寄る。

「どういう……ことですか? アリーシャ・ヴィンフィールトに……身の危険? 私、なにかしてしまったのですか?」

「そうではない」

 フューリーは、ジーナがアリーシャ・ヴィンフィールトだと知った後も、平然として答えた。

「君はなにもしていない。敵方の一隊が君に用があるのだ。正確には、用事があると思われる――。私たちはそれを先読みして、君を保護しに来た」

 そうしてフューリーは、ジーナの細い手首をやや乱暴に掴むと、自分が乗ってきた馬に乗せようとした。

「きゃっ!」

「べつにあなたになにか特別な知惠や力があったというわけではない。ただあなたが選ばれてしまったのだ。不運を嘆くのは勝手だが、憎むな。さぁ、私と一緒に来てもらおう」

 そこまで言ったところで、フューリーは、キィン、キン、と鋼のこすれ合う音を聞いた。

 すると目の前には、もう先ほどまでの二人ではなく、剣を抜いた、敵対する二人が待ちかまえていた――。

「おやおや」

 しかしフューリーはおかしそうに口を歪めるだけ。

「おい……あんたの言っていることが本当だという証拠は?」

 パリスは低い声でそう問いかける。

「なんだろうと! お嬢様が嫌がっているのは確かですだ! おいらたちを使用人だと思ってなめなさるな!」

「ふふふ」

 フューリーは愉快そうに笑う。

「いい家来を連れているな」

 どこか感心したように、ジーナに語りかける。

 そうしてパリスたちに向き直った。

「その判断は間違っていない。私の格好や立場は君たちからしたらどう見ても怪しいし、私としても、お付きの人間が、そういう態度を取ってくれることは好ましい」

「? わけのわからねぇことを言って!」

「お嬢様を離せ!」

 ベルがそう叫ぶと、フューリーは真面目な顔になって、誠実に、こう言った。

「信用してもらいたい」

 場の空気は、一瞬静止した。

「兄のチューザーの、生死や没落に関わることだ。そしてそれを裏で静観している、アーキュトスの今後の動静にもな」

「アーキュトスだって!?」

 パリスが仰天する。ジーナは、だが、それよりももっと驚くべきことが他にあった。

「チューザー? ……お兄様を知っているの!?」

「知っている」

 フューリーは平然と答えた。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!?」

 パリスは剣を構え直して、いぜん警戒した様子で、だがやや頭が痛くなったようにこめかみを抑えながら、フューリーに質問を投げかける。

「どうしてうちの一家がそんなことになるってんですかい!? 正直、もう没落して、なんの害もない一家ですよ!」

 フューリーは気を乱さずにパリスの言動を眺めていたが、しばらく黙った後、静かにこう答えた。

「長男のチューザー・アルベルトは別だ」

「ア、アルベルト?」

「お兄様はまだ生きてらっしゃるのね!?」

「生きている」

 そのフューリーという女性は、物事をはっきりと述べる人だった。ジーナはもうその返事だけで、この女性が自分の味方だと知り、緊張を解く。

 だがパリスはそうはいかなかった。

「ほぉ……じゃあ、チューザー様、出世なさったんですね。それであんたは妹のお嬢様に会いに来たと」

「そうだ」

「で、その荒唐無稽な話が本当だっていう証拠は?」

 パリスに続いて、ベルも警戒したような視線を投げる。

「チューザー様が生きているっていうのはおいらたち信じられるにしても、その、あんたが、あの名をいうのが憚られる国の兵士だって、そう疑うのは不自然なことだか?」

「君たちの判断は正しい」

 やや調子を崩したように、フューリーは視線を下げる。静かな眼差しで、二人を見すえる。手にはまだジーナの手首があったまま。

「そう疑ってかかるのはたいしたものだ。それで、どうするのだね? 私と戦うのかね?」

「……いくつか質問に答えろ」

 じりじり、と歩み寄りながらパリスがいった。

「まずあんたは何者だ? それがわからないんじゃ、どうしようもない」

「私はフューリーと呼ばれている」

「それ、名前じゃねぇだろ」

「そうだ」

 きっぱりとした口調で、そう答えた。

「フューリーとは、エルフの言葉で『身軽、軽やかなる』という意味だ。私はどこでもそう呼ばれる」

 本名を知ったところで、どうにもならない、と悟った聡いパリスは、続けて質問をした。

「次だ。どうしてチューザー様を知っている? 私たちの国では、とんとあの方の噂を聞かなかったのに」

「ファルサリア本国でそのことを聞かれなかったのは私も初耳だが、とにかく、彼はまだ生きている」

「面識があるのか」

「あるわけではない。だがよく知っている。重要な人物だ。私たちからしても、敵からしても、もっと黒い、危険な国の者たちからしても」

 アーキュトス、という先ほどの黒い言葉が、ジーナの思考のふちに蘇った。

 考えただけで不安に襲われそうだったので、頭を振り、思考の中から外にやろうとした。

「チューザー様の命が危ないことと、お嬢様をこうして連れて行くことは、どこにどんな繋がりがあるんだ?」

「わからないか。君は。……それはあまり伝えるべきことではない。想像してくれ。それだけで事足りる。敵に今、我々の行動を知らせるわけにはいかない」

「おれたちが敵だって!」

「そうではない。そう易々と口には上らせられないと言ったのだ」

 そうしてフューリーは、ジーナの手首を握る力を、すこし弱くして、だらんと下に手を下げた。

 パリスはもうそれ以上近づけなくなった。

「最後の質問だ。……チューザー様を殺したのがおまえで、おれたちやお嬢様も殺しに来たっていう可能性は」

「……」

 フューリーは、その可能性の否定を証明するために、手早い方法を採った。

 神経を研ぎ澄まし、闘気を発し、その気の鋭さでパリスとベルを圧倒した。

「もし、君らの言うことがそのまま本当だとして、」

 そして、フューリーは、マントを軽く手で払いのけ、腰にある銀の帯から、黒の鞘で覆われた剣を手に持ち、そのまま、するり、と流れるように抜きはなった。

 それは特別な鉱石でできた剣のようだった。パリスやベルのものとは、明らかに威圧感が違ったし、また重厚な光を放っていた。

「君たち三人をこの場で殺すことなど、容易なのだが?」

「……っ」

 パリスとベルは、思わず後ずさりした。

「君たちの質問を先取りするが、おそらく最後の疑問、私が本当は敵方のスパイで、君たちを助けに来た者を殺し、その者たちを装って君たちに近づいて来たというのなら無論だ。今ここで君たちと戦って、君たちの命が一分後にあると思うかね?」

 じりじりと冷や汗がこめかみを流れ、肺が潰れそうなほど、パリスとベルは息を詰まらせた。

 それほどの威圧感だった。女性というのが信じられないほどの。

「……だが、」

 しかし、フューリーは、二人を威圧するだけ威圧した後、簡単に闘気を解き、一息ついて、剣を鞘にしまってしまった。

 マントを再びかぶる。

「私は、君たちと戦いはすまい。戦う意思がないのだから」

「……っ」

 その場は、すこしの間だけ、誰も口を開く者がなかった。

「ねぇ、」

 その沈黙を破ったのはお嬢様であり、今のジーナであった。

「お兄様をご存じって、本当?」

「ああ」

 フューリーは静かに答える。

「元気にしてる?」

「元気にしているかどうかは知らぬ。だが、きっと君の期待を裏切らぬほど、立派になっているだろう」

「そう……」

 ジーナはすこしの間考え込むように、視線を下へ下げた。

 そのままで数秒したあと、ジーナはそっと視線を上げる。

「……連れていって、もらえる?」

「お嬢様!?」

 パリスとベルが仰天する。

「あなたの話、よく理解したわ。私をお兄様のところに連れて行くんでしょう? 一人でいると危険だから……」

「そうだ。まずは私たちのほうで保護するが……無論、その形が理想だと思っている」

「そう」

 それからジーナは、振り返って、パリスとベルに語りかけた。

「信用しましょう? ベル、パリス。この人を。この人の言うことは信用してもいい気がするわ」

「お嬢様!」

「だって疑う理由はもともとないわ。それに、もし本当に私の命を狙いに来たのなら、会ってすぐに、こうして説明もしないで、殺してしまっているはずでしょう?」

「……ま、まぁそうですけど」

 パリスが落ち着かなげに答える。

「それに、私を騙して、お兄様の命を奪うために利用するのだったら、もっと言い方を丁寧にして、優しく、下手に出て交渉すると思うのよね」

 フューリーは、すこし驚いた顔をして、まじまじとジーナの顔を見つめていた。

「君は、なかなか聡明だな」

 フューリーは言葉を続ける。ける。ないわ。それにもし本当に私の命を狙いに来た人味

「それに肝も据わっている。そうか。私の言い方は丁寧ではなかったのだな」

「まだあるわ。本当に敵の間者なら、もう少し綺麗な格好をしてくるものよ」

「……ふ」

 フューリーは、初めて純粋な笑みを見せ、はははは、と大声で笑った。

「はっはっはっは。そうか。私は汚く、ざっくばらんで、敵は綺麗で、話し方もまとまっているということか」

 そうしてフューリーは、ジーナの手を離し、すこし離れる。

「面白い人だな。君は」

 自分が無害であるということを、両手を横に広げることで示し、パリスやベルのほうに視線を投げる。

「本当であれば、こうして街道のど真ん中で、話をしていられるほどもう安全ではない。私とともに来るなら、早急に街道を離れ、道なき道を突き進む必要がある。来るか?」

 それは、パリスやベルに向けて放った言葉だろう。なぜならジーナは、もうフューリーの隣に移動してきているからだ。

「……」

 パリスとベルはお互いに顔を見合わせたが、確かにジーナの言うとおり、疑う理由はもともとなかったし、自分たちが近くにいれば、常にお嬢様を護っていられると思ったのか、

「いいだろう」

 了承したのだった。

 

 それから一行は、すぐに街道を離れた。

 ベリエスで静養する見込みはまったくなくなった。なるべく早い間にベリエスを通過し、国外に出なければならない。パリスとベルの計画はおじゃんになってしまったのだ。

 フューリーは自分の、屈強で精悍な馬のほうにジーナを乗せ、自分は徒で進んだ。まずは街道を大きく右に逸れ、うねうねと蛇のように曲がりつつ、だんだんと大きく迂回してから、北側から南側へ、ベリエス方面の大きな森の入り口へと入り、そこで野営となった。

 太陽が沈んで、代わりに星が中天に昇ってくる。

「火を起こしてはならない」

 フューリーは凛としていった。

「今日は悪いが、火も、テントも使うことはできない。おそらく敵はもう君の顔を割っている。そして私が介入していることを知ると、おそらく、とても面白くないことが起きる」

「あなたはどこの国の人なんですか?」

 ジーナはフューリーにそう尋ねる。

「私は北の国から来た者だ。君たちも知っていると思われる、白の山脈よりずっと北な。私はそこから派遣されてきた」

「本当かよ。あの雪の山脈を抜けてきたのか」

「君たちは『雪の山脈』と言っているのだな」

 うすくフューリーは笑う。

「私はドワーフたちの坑道を通ってきたのだ。私の国はドワーフのアルファントたちとは昵懇の仲だからな。最短距離を案内してもらえた」

「へぇー……」

 ジーナは、うっとりと、そんなフューリーの話に聞き入る。

 ジーナにとっては、これから旅する、途方もない夢世界の一部なのだ。その憧れは命を狙われているとはいえども、完全に根絶やしにされるものではない。確かに、パリスやベルにとっても、フューリーの語る異国の話は、どこか魅力的な匂いがするように思えた。

「これから私たちはどこへ行くんですか?」

「この際になれば、君をそのまま君の兄がいるところへ案内してやろうと思う」

「ほんと!?」

「ああ。だがそれまでは、多くの困難がつきまとう」

 月は東の空に上っていた。上弦の月。まだまだ夜は長い。

一行は闇の中、身を寄せ合って、背中を木の幹にもたれさせながら小声で話していた。

「君の兄がいる国はここからとても遠いし、その間にも敵の監視の目に常にさらされている。油断してはならぬ。人間だけが間者だと思ってはならない。敵の魔法使いは鳥も操るし、影に目をつけることもできる」

「とんでもねぇ話ですだ、そりゃ」

 ベルが暗闇の中で、恐ろしげに嘆息した。

 アーキュトスの名前を、ジーナも知らないわけではなかった。学校でそれとなく勉強したのだ。もっとも、その黒い国の王や、それにまつわる歴史を記した詳しい本は、すべて図書館で禁書扱いとなっていたので、隠れて読み漁ったのだが。

 だがその読後感は、すべて不吉で気味悪く、恐怖するべきものだった。

「まずはベリエスを通過しよう。その後は、ロザンクトの地を通ることになる。こちらは人間たちの国がたくさんあるが、長居することはできないぞ。ある程度、怪しまれない期間滞在はするが、敵は常に私たちを捜しているのだからな」

「味方はいないんですかい?」

「いるにはいる」

 フューリーは腕を組んで嘆息した。

「だが、道中で離ればなれになってしまって、今は消息がつかめない。おそらくベリエスに着けばなにかがわかるだろうと思う。もっとも、捜して回る時間などないが」

 その夜の会話はそれでお終いとなってしまった。

 ジーナは寝心地の悪いベッドでもすぐ眠りに入ってしまい、それに続いてベルも就寝した。パリスとフューリーで、交互に見張りに当たった。

 そしてパリスは、フューリーの警戒も怠らなかった。休んでいるときも、常に目を開け、神経を研ぎ澄ましていた。しかしフューリーの様子におかしなところは見られなかった。

 

 その日の夜が明けるとともに、一行は出発した。空はやや薄い金色、または桃色に染まっている。しかし、日の出は木の葉に遮られて見ることはできなかった。その代わり木々の間から、木洩れ日として薄赤い新鮮な陽射しが差してきていた。

 霧はなく、森を抜けると広く景色を見渡せる原っぱへと出た。そこでフューリーは面白くない顔をした。

「なるべく早い足で、そしてなるべく怪しまれない速度で道を進まなければならない。だが、この景色では、ただそこにいるだけで目に付いてしまうな」

 原っぱには動物が一匹も、通っている人も一人もいなかったからだ。

「どうしてこんなに閑散としているんですかねぇ」

 ベルが不思議そうに呟く。

「その理由は私にもわからない。しかし、これは何かの兆しのように思える」

「その兆しって?」

「それを教えるにはまだ時期が早い。私も確証のないことは言えないからだ。さあ、あまり無駄話もしていられない。進もう。ベリエスはもうすぐそこだ」

 そうして一行は道を進めた。風が南から吹き、ジーナの前髪を横になびかせた。フューリーはフードを目深に被るように忠告したので、馬の手綱を握っていないほうの手で、何度もフードを下へ引っ張った。

 一行の間には会話がなかった。それに、周りには物音一つすらしなかった。するといえば、南からの陰気な風が、フワァー……っと、草原を撫でていく音だけだ。ジーナは楽しかったはずの旅が、ここ二日で極端に恐ろしいものになってしまったと感じた。

「ね、ねぇ、フューリー……さん」

「なにかな」

「フューリーさんは、剣の腕前はいかほどなの?」

「ふむ」

 フューリーは一瞬の間だけ、考え込むように目を逸らした。

「それはどうして?」

「私……なんだか、嫌な予感がするわ。なんだか自分がとんでもない沼の中に足を踏み入れてしまったみたいな……おそろしい兆しを感じるわ。どうして動物が一匹もいないの? 鳥も鳴いてないわ。あんなに楽しかった旅の気分が、全部、落ち込んでしまったわ。これって、あなたが現われただけのせいではないんでしょう?」

「……」

 フューリーは面を上げ、前方をじっと見すえながら、答えた。

「あなたの言っていることはよく当たっている」

 フューリーの顔は緊張していた。

「なにかがおかしい。良からぬことが起こっている。それがあなたの感じた兆候だ。ただ、君の言うように、私が現われたからではなかった……。私が現われようと、別のものが現われようと、あるいは、なにも現われなかったとしても、君らの平穏は次第に壊されたことだろう。こうして、何者かの手によって……」

 そこまで言い終えたところで、フューリーは、はっと息を飲み、目を見開いた。

 じっ……と、神経を集中させるように、瞬き一つもせず、前方を睨む。

 急にしゃがみ込み、地面に耳を近づける。ジーナやパリス、ベルは、それがいったいなんの儀式かわからなくって、呆然としていた。

「まずい」

 フューリーは若干慌てたように手をジーナの目の前にかざした。

「この足音は、まずい! みんな、隠れろ! どこかに身を隠すところはないか! あった! あそこの林の中に全速力で駆け込め!」

 ジーナたちはわけもわからず、フューリーの言ったとおり、右手のほうの小さな林の中に身を隠した。丈がそれぞれ高く、馬の体まですっぽりと隠してくれた。フューリーは全員避難したのを見届けると、自分もその中に隠れ、フードをきつく被った。

「ど、どうしたんだ?」

 パリスが若干落ち着かなげに尋ねる。

「しっ」

 フューリーは指をパリスの唇につけ、しゃべるな、と目で語った。

 しばらくしてから、だんだんと、遠くから馬の蹄の音が聞こえてきて、一行は体を強張らせる。

 馬の足音は、どうやら三つ。この辺ではあまり聞かれない、重量のある、不気味な、そして力強い音だった。音を四方へ轟かせるように、草を踏みにじっていた。

 息をひそめ、じっと見える範囲に目を凝らす一行。

 するとそこに、三人の騎馬の人が現われた。それは全員男で、腰には長い三日月刀を差した者と、背中に槍を背負った者と、弓を手にした者がいた。ジーナはとっさに悲鳴が洩れそうになって、慌てた。恐ろしく思う気持ちを必死に抑えつけて、かろうじて口に手を当て、声が漏れるのを防いだ。

 恐ろしい感じがしたからだ。馬はどす黒い身体で、男たちは赤黒い鎧をまとっている。顔は遠すぎてよく見えないが、おそらく、ジーナは、最初にあの者たちに出会っていたら、このフューリーのように、信用はしなかっただろうと思えた。逃げるか、パリスたちと一緒に戦うか、どちらかはするだろうが、きっとどちらにも希望は残されていなかったことだろう。

 彼ら三人は、人間のようで、人間でないもののように思われた。

 そんな感じがしたのだ。

 その男たちは馬を止め、方々に目をやり、まるで一行がそこに先ほどまでいたのをかぎつけたように、疑わしく、まるで鼻をすんすんと嗅がすように、顔をあちらこちらへと向けた。そうして三人は、一旦集まって話し合うと、ばっ、と別々の方向へ馬を走らせていった。一人はファルサリアの方へ、一人はベリエスの方へ、もう一人はまったく別の草原へ。

 みんなが見えなくなり、馬蹄の音も完全に聞こえなくなってから、フューリーは小さい声で囁いた。

「もう戻ることはできまい。ファルサリアに残っていたら危険だった」

「なんてこった!」

 ベルが叫んだ。

「もう本国に戻れねぇですと! お嬢様がいってぇなにをしたってぇんだ? もし? ええ? おいらはさっぱりわけがわからねぇですだ!」

「わからなくても足は動かさなければならない」

 フューリーは無情にもそう言って、馬と自分の身を林から出した。太陽は正午の位置にあった。暑いからか、それとも冷や汗か、フューリーのこめかみには多くの滴がついている。手でそれを拭って、フューリーは目をベリエスの方へと向ける。

「魔法を使わないで正解だった。痕跡が残るからな。やつらにそれをかぎつけられてしまう」

「あいつらは、何者なんだ?」

 パリスが、草の根をかきわけながら、林の中から出てくる。

「おそらく私や、チューザーの国の者の敵対者だろう」

「人間なのか?」

「人間だと思う。まだあいつらは」

「まだ?」

「それ以上は私の口から言えない。確証のないことだから」

 そこでフューリーは、固まったままでいるジーナに気づいて、一度林の中に戻り、手を引っ張って外に出させた。

「大丈夫か?」

「あ……え、えっと……」

「無理もない」

 フューリーは悲しげに目を細めた。

「自分の命が狙われるなんて初めての経験だろう。アリーシャよ。いや……今はジーナというのか。名を変えたのは賢明だった。私もこれからジーナと呼ぼう。ジーナ。気をしっかり。今は落ち着かなくても、落ち着くときがきっと来る。国外へ出よう。そうしてしばらく安全なところに身を隠すのがいい。時間はないが。この不幸はベリエスを抜けるまでだと保証しておこう」

「……」

 ジーナはなにも言葉を返せなかった。ただフューリーの語る言葉が、自分の知覚できる世界のずっと外にある言葉のように思えた。自分に関係のない言葉のように。

「この原っぱは敵に見つかりやすいが、その分私たちの進行も妨げぬ。足を速くしよう。もたもたしていると敵に見つかる。おそらくやつらはあの数だけではあるまい」

 フューリーは前方を見すえながら、ジーナの手を引き、体を持ち上げ、鞍に座らせた。

「ジーナ」

 そこで改めて、ジーナの様子が変なのに気づき、フューリーはさらに悲しげに顔を曇らせた。

「フューリーさんよ。あんたの言っていることが全部夢物語だったら、どんなによかったことかね」パリスは言う。

「私もそう思う」

 それからフューリーは、やっぱりジーナを馬から下ろして、そこには各自の荷物を載せることにした。ハレリーと、自分の馬とで、半々に荷物を持たせることにして、ジーナは徒で進ませることにした。

「ジーナ」

「……っ」

 ジーナは顔を虚ろにしたまま、恐ろしげに肩を震わせていた。

「いまはなにも言うまい……私が傍に付こう」

「ベルも一緒に付いてやってくれ」

「あいさ」

「おれが先頭を務めよう」

 パリスはそう言うと、自分が先頭に立ち、早い足で、一行よりだいぶ先行して草の上を歩いていった。その次を遅れてジーナ、フューリー。最後にはベルと続く。

 そのうちとっぷりと日が暮れ、また野営となった。一言もしゃべらないうちにジーナは寝てしまい、フューリーにしがみつくように体をもたれさせて、眠りながらも恐ろしい夢を見ているのか、体を小刻みに震わせていた。

フューリーは悲しげに目を細めていた。パリスは疲れた顔で前方と後方の平野を睨んでいた。ベルもそれは一緒だった。

 パリスとベルとフューリーは、その晩、一睡もしないようだった。朝、パリスとベルはくたくたになってしまい、足の動きも緩慢だったが、フューリーはまるで疲れを知らないようで、軽やかな足取りで、今度は一行の先頭に立った。ジーナはそのころにはほんの少しだが、落ち着いてきているようだった。

 そうして太陽がまだ東にあるころ、ベリエスの城門にたどり着く。

 

 つづく……

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