第5話

 

 ヴェルディ。

 君は、特別な人間には、なんの幸福もないと言ったね。

 いや、正確には、語り部である火影がそう言ったのか。

 でも火影に尋ねても、「物語だからねー」という理由で教えてくれないし、僕は、僕の中にいるヴェルディに尋ねるしかない。

 ヴェルディ。

 ねぇ、ヴェルディ。

 でも、君のように、特別な人間になるしか方法がなかった人も、もしかしたらいるんじゃないか。

 ヴェルディ、君は特別な人間になろうと望んだ結果、そうなった人じゃない。なるべくして、そうなった人間だ。僕はそういうふうに認識している。

 でも、そのとき、君は、君の心に訪れるはずだった幸せを、すべて失ってしまったと言うのか?

 ……、失ってしまった、んだよな。

 死ぬことのない体になって、老いない肉体になって、普通の人とは遠く離れたところに配置された。それは誰も周りにいない寂しいところで、強風が吹いても、誰もかばってくれないし、誰も身を寄せてくれない、吹きさらしの荒野みたいなところなんだ。

 でも、本当にそれだけだったのか。

 幸福はそれっぽっちしかなかったのか。本当に不幸ばっかりだったのか。

 僕は……わからない。

 ヴェルディ。

 君は、物語の果てに、いったいなにを見いだしたんだ。

 

「僕はもう昔の僕じゃないんだよ」

 にやにや笑っている坊主頭の二人は、僕がそう言うと、はっと顔色を変えて、薄く睨んだ。

「高校生になった僕だ。中学生の僕じゃない。……いつまでも、そうやって昔の関係を引きずろうとするお前らには苛つくんだよ。さっさと消えろ。これ以上僕の目の前にいると、殴るぞ」

 僕のそう言う声は震えていた。正直言うと、怖かったんだ。

 でも怖じ気づいたのは向こうも同じだったようで、僕と似たような悪態を、引きつった顔で殴りつけるようにつくと、すたすたと歩き去っていった。

 僕は、彼らが去っていってからも、まだ早鐘を打ったように胸がカンカンと鳴っていて、体が動かなかった。

 ぴりぴり、と、少しずつ体の緊張が解けていくような感触があって、だんだん肺から息を吐き出せるようになる。すると、長く止まっていた頭がようやく動き出すようになって、肌がふつふつと沸き立ってくる。

 最初に来たのは苛立ちだった。

 そして、恐ろしさ。

 今ここで喧嘩が起きていたら……僕はきっと、やられっぱなしだっただろうな。

 僕はもともと、喧嘩なんか強くない。でも、それでも、弱いやつだって思われたくなかったから、精一杯威勢を張って、強いやつだって、いや、正確には「強いやつかもしれない」と周りに思わせることに躍起になっていた。でも、本当の僕は、喧嘩なんか中の下くらいの強さだ。本気でこられたらびびるし、経験も、自慢できるほどない。普通の中学校生活を送ってきたやつより、ちょっぴり多いくらいだろう。あんな悪ガキが周りに腐るほどいれば、そりゃ、数は嫌でも多くなる。

 悪意の鎖の工場だったから。

「あいつら、お前と同じ中学だったやつなんだろ?」

 麟太郎が、気遣わしげに尋ねてくる。

僕は苛立ちを隠さずに、頷いた。

「そうだよ」

「なんて言ってきたんだ?」

 麟太郎は心配した言い方。唯一、この学校で初めて知り合ったやつで、僕の事情をよく知っているやつだからだ。

 僕は深呼吸をした。

「思い出したくもない。僕のことを嘗めやがった一言だ。……要約すると、またつるまないか、ってことだけど」

「つるむのなんのって、あいつら運動部だろ」

「まあな」

「難しくね?」

 あいつらは馬鹿なくせに、運動部推薦でこの学校に入ってきた。僕の中学校はこの地元にあるのだが、総じて頭が悪く、反してこの高校は県内トップクラスの進学校だ。麟太郎が未だに裏口入学の嫌疑をかけられてるぐらい。

「かけられてねぇよ!? 嫌疑!」

「人の心を読むんじゃない」

 だが……しかし。

 と、僕は額に指を押しつけた。

 僕はあいつらから逃げおおせたと思っていた。なのに、あいつらもまさか、この学校に推薦で入ってきたのだ。運動関係にも力を入れている学校だから……馬鹿なやつでも運動さえできれば学校に入れる。

 誰も僕のことを知らないところに、ようやく来れたと思ったのに……いざ学校に来てみると、昔の僕を見知った連中がいっぱいいた。

 僕は網に絡め取られた気がした。だからといって、どうしようもないから、普通に過ごしていたが。

「運動部のやつらと、一般生徒のオレらじゃ、あんま時間合わねーってわかってても、来るんだな」

 麟太郎の言うとおりだ。一般生徒と運動推薦の生徒は、きっちりクラスと時間割が区切られていて、校内で出会うことも稀だ。

「そりゃ、あいつらの思惑はわからないが、来るには来るだろう。実際に来たんだし。まあ、本当にたまにだけどさ」

 あいつらが僕の教室に訪ねてくるようになったのは、一年生の終わりごろからだ。最初のうちは頻繁に来だして、それからめっきり来なくなって――今日、突然来た。

 ――おまえ、なにやってんの。

 へらへらした笑みを浮かべながら、相手を完全に見くだした、あるいは嫉妬した両眼で、それというのに自分は完璧な好意を向けているかのように自己陶酔した、おかしなしゃべり方で、やつらは僕に声をかける。

 あいつらに比べれば、喜納たちなんてまだガキの遊びみたいなものだ。僕に会いに来たやつらは、本物の不良というやつで、前時代の産物のようなやつらだ。もちろん相手はこの学校の一番上部にいると錯覚している。そんなの、僕ら学生たちにしかわからない、なんとなく生徒の間に香っている雰囲気からわかる、くだらない学生の序列のようなものだけど。

 でも、運動推薦のやつらが一般生徒の教室に来ると、たいていの一般生徒はびくびくする。田舎出のヤンキーが、垢抜けている都会に仲間とやって来て、向こう見ずに喧嘩をふっかけるようなものだ。僕らは、やつらに半分好奇な視線を向けるけれど、同時になにをされるかわからないから、びくびくするのだ。そういう奇妙な序列が、学校という空間にはどこにでもあるのだ。

「仲直り、することはできねぇんだな?」

「仲直りもなにも……」

 僕は呆れがちに首を横に振った。

「そういう問題じゃないんだよ。僕にとっても、あいつらにとっても。……僕も、あいつらがどういう考えで行動しているのか、よくわからない。いや、わからなくもないけれど、それを考えると無性に腹が立つ。喜納たちよりもずっと。本当に、今すぐ死んでしまえばいいってぐらいに腹が立つんだ」

「……それ、なんとなくわかるけどよ」

 麟太郎はいつものように、真面目な調子で僕に合わせた。いつものように、というのは、僕の中学校のころの話をするときのことだ。そういうとき、麟太郎は、馬鹿なりに、真剣に物事を捉えようとする。冗談で済ませられない話だとわかっているから。

「でもよ、鐘」

 このときに、麟太郎がこう確認を取るのも、いつも通りだ。

「おまえの周りには、あんなやつらだけでも無かったんだろ」

「ああ」

 僕は相づちを打つ。目を細めて、麟太郎の言葉に頷く。

「ああいうやつは半数ぐらいだったよ。他のやつらは、あいつらの仲間だけど、多くの点であいつらと違っていた……僕に優しくしてくれて、僕とちゃんとした友だちでいてくれようとした……」

 目が霞んで、またあのときの光景が蘇ってくる。僕の中学生のころ。

 薄闇の夕暮れ。部活の帰り。自転車で通った道楽通り。焼鳥屋。鈍く光るライトに、徐々に消えていく夕焼け。生ぬるい風。広い砂利道。寒い中でも、温かい体で、駆け回った記憶。

 でも、僕の友だちは、僕と友だちでもあったけれど、ときに、あいつらと同じようになった。

「適当に無視してりゃいいだろ」

 ぶっきらぼうな麟太郎の弁は、もう何度も聞いたものだけれど、優しく、思い出すんじゃねぇ、と僕の耳に残る。

 そうすると、僕は無性に元気が湧いてくる。

「そうだな」

 と、僕は溜息混じりの微笑み。

「でも、あいつらになにか言われるとさ、むかついちゃって。何様だよ、って怒ってやりたくなるんだ。……はは、僕もまだまだ子どもだな」

「ははは」

 麟太郎も、気安げに、にっ、と笑う。

「オレらにゃ、まだ大人っぽい対応は無理だ。子どもだからな」

「そうだよ」

 なんだか僕は嬉しくなって、麟太郎とけらけら笑い合っていると、鐘が鳴って、けたたましく霧島さんが駆けてくる。

 安全地帯に飛び込むように僕の隣の席について、あわわわわわ、と教材のワークなどを引っ張り出す。その間に、麟太郎は、じゃっ、と手を振って別れていった。

 そういえば次の授業は、課題確認の英語だった。

 僕は、隣の席で、小動物のようにせかせかと動き、ぐるぐると目を回している霧島さんを見つめ、そうすると、なんだかほっとした気分になり、のんびりとノートと教科書を出した。

 霧島さん、そんな餌をねだる子犬のような視線で見られても、僕もやってないよ、宿題。

 

 英語の時間。

 霧島さんは教師に指されることもなく、無事に過ごしていたが(くそっ、運のいいやつめ)、僕のほうは途中で指されてしまった。

 ノートは真っ白だったが……僕は、即行で問題を解いてみせた。

 悠々と答える。

But, 」ネイティブな調子で。

even within the United States there is much diversity from region to region….しかし、アメリカ国内においても……地方ごとに、多様性が見られます」

 言い切ると、教師は「うん」と頷いてくれる。僕は安心して、溜息をつき、席に座る。

 ふう……まあ、これだけできれば上出来だろう。ちょっと、途中でつっかえて危なかったかな。

 おおー、と、横を見ると、隣で霧島さんが小さく拍手をしていた。

「頭のいい子だねー……羽柴くんは」

「……なんだよ、その言い方。どこのおばちゃんだよ」

「そんなにできるんなら、宿題、ちゃんとやればいいのに」

「面倒くさいんだよ」

 僕は霧島さんと言葉を交わしながらも、教師が書いた黒板の文字をノートに書き写す。

 霧島さんは、さきほど宿題を見せようとしなかった僕に、まだ不服を抱いているようだ。っていうか、メモしろよ。こういうところから、勉強の出来映えが違ってくるんだよ……。授業しろ。

「私は、そういう面倒くさいとか考えないもん。できないからやらないだけだもん」

 そっちのほうが問題だろ。なんで小学校からやり直さないんだよ。

「羽柴君ってさー、よく学校休んでるくせに、普通に勉強できるから、ずるいよね」

「ずるいとか言われても……。あと、よくじゃないよ、学校休んでるのは」

「昨日だって休んでたじゃない」

「それは、三日間続けて学校に来た、自分へのご褒美として……」

「なによ、もう」と、霧島さんはぷりぷり。

よっぽど僕が楽に問題解けたのが悔しかったのか……。

「羽柴君なんか、みそ汁の中に飛び込んで具にされちゃえばいいのに」

「待って。それはいったいどういう状況なの?」

 ここにきて霧島さんの言動は謎っぷりが極まっていた。

「私だって、ちゃんと毎日頑張っているんだよぉ……」

「あー」

 なんか面倒くさそうな感じになってきた……聞かなくちゃいけないのかな。

 僕はペンを動かしつつ、隣の霧島さんの言に耳を預ける。

「あ〜あ……私ってば、ほんとなに頑張っても、頑張った分だけしか返ってこないし……それすらも、ちょっと怪しいし。なんでこんな普通なんだろぉ……」

 普通。

 通常だったら、聞き流すべきところに、僕の耳は自然と留まった。

「羽柴君みたいに勉強超人じゃないし」

 そうか?

「玲ちゃんみたいにちっちゃくて、可愛くもないし……綾子ちゃんみたいにかっこいい彼氏いないし……勉強も普通、運動も普通、っていうか苦手。は〜あ……」

「……僕のように、なりたいの?」

「え?」

 ふと、霧島さんの目がこちらに留まる。

 一瞬だけ僕らの間に流れる時は止まったが、霧島さんはすぐに頷く。

「うん」

「そっか……」

 僕はなんだか寂しい心地。ペンを止め、頬杖をついて、霧島さんの顔を見、外の蒼と緑の山を眺める。

「僕は、霧島さんのようになりたいな」

「え?」

「……いや、」

 なにを言っていたんだろう。

 僕の頭は一瞬真っ白になって、その直後、その間隙を埋めるように、猛烈に速い速度で物事を解析し始めた。

 な、なんだ?

べつに、恥ずかしいことは言ってないのに、僕の頭は、すっげぇはずかし――っ、っていうぐらい、猛烈に恥ずかしくなって、なにも考えられなくなった。

今すぐ突っ伏したい気持ちだった。

「いや、いや、」と手を振り、顔を押さえる。

「忘れてくれ。今すぐ、忘れてほしい」

「え?」

「そうだ、そんなこと、霧島さん、言っちゃだめだよ。霧島さん。霧島さんはそのままでもいいんだよ。他の人が持ってない、霧島さんだけのいいところがあるんだから」

「え、どんなところ?」

「それは……」

 僕は言葉に詰まる。場を紛らわすために紡いだ言葉だったので、なにを伝えるべきか考えていなかったのだ。言葉が出てこない。

「それは〜……」いよいようずくまる。

「ん?」

「それは、そ、それはだね、ええっと……」

「そこで黙られるのが一番つらいんだけど!?」

「いやっ! あるんだ! ちゃんと! そうだっ、霧島さんのいいところって、言葉に表しにくいところなんだ! そうだよ、うん……」

「え〜」

 と、霧島さんは不服顔。

「今、私の存在価値が決まりかけているところなんだよ? 羽柴君」

「いや、そんな僕の言葉なんかで自分の価値を決めないでくれ、霧島さん! 僕はそんな偉い人間じゃない!」

「なによ」ぷりぷり。

「もう、さっきから言おうとしたり、言わなかったり……羽柴君ってさ、」

 僕らがだいぶ大きい言葉で喋っていたので、教師から、「んんっ」と意味深な咳払いをもらう。慌てて僕らは居住まいを正した。

 微妙な視線が痛い……霧島さんからも、周りの生徒からも……。

「ねぇ、羽柴君」と、もっと小声で霧島さん。

「言いかけで、やっぱり止めるだなんて……勉強はできても、そっちのお勉強はできてないみたいだね……」

 あんたに言われるなんて相当だよ。

「はあ……やっぱり私って、普通な女……客の誰からも注文されない、ベーシックなドーナツみたいな存在なんだわ……」

 意味不明だよ。なんでドーナツ?

「どうしてドーナツと比べるのかわからないけど……まぁ、落ち込まないでよ」

 僕は霧島さんを元気づける。

「僕は好きだよ。オールド・ファッションとか、ポンデ・リング。一番好きだ」

 すると、霧島さんは目をぱちくりとさせた。

「霧島さんは好きじゃないの? ベーシックなドーナツ」

「ううん、好きだけど」

 僕はずっこける。呆れてしまった。

「でも、どっちかというとエンゼルシューとか、クリームたっぷりのほうが好きなの」

「ああ、そう……」

 これ以上は話になるまい、として、僕はそうそうに話を切り上げることにした。

「ふーん」

なんで僕らはドーナツの好みの話をしているんだろう。今は授業に集中しなきゃいけないのに。危うく霧島ワールドの餌食にされるところだった。

「でもさ、」

 と、ちょっと落ち着いた風味の霧島さんの声。

「私、よくよく考えてみたら、古くって素朴な味も好きだよ。ベーシックでオールドな味もいいよねぇ……」

 どうでもいいよ。僕は無視を決め込むことにした。

「羽柴君も、普通な味が好きなんだね……ちょっと、嬉しいかも」

 そう言ってほのかに涼しく笑って、優しげな響き。

「ありがと、羽柴君」

 小さい声で、耳に囁くように。

 僕は目をかっ開いて、それ以降、まったく授業に集中できなくなってしまった。

 

 放課後になると、玲ちゃんがやって来る。

 一緒にゲーセンに行って以降、僕らはとても親しい友だちになってしまった。今じゃ休み時間で、麟太郎や霧島さんくらいに一対一で話す仲だ。

 僕と麟太郎が帰り支度をしていたところへ、玲ちゃんが霧島さんを連れてやって来る。

「鐘ちゃん」

「なんだよ」

 気安い呼び名は、もうほぼ僕らの間に定着した。まぁ、僕にとっては男友達みたいなものだ。

「火影ちゃんのところに行こ」

「ん」

 と、僕は振り返って、まじまじと玲ちゃんと霧島さんを見る。

 火影のところ、か。

 今日は別に火影のところに行く予定はなかったけど、別に避ける理由もないから、そうしてもいいけど。でも、理由も気になる……。

「別にいいけど、どうしてだ?」

 一度火影の家に行ったことがあるやつは、まず初めに、あいつの存在自体、あの経験自体が嘘だったのか真実だったのか、深く考えるようになる。あまりの非現実的な空間、非現実的な事態に、自分の身の回りにある現実感と照らし合わせてみて、改めて驚くんだ。

 出会った次の日に、もう火影のところに行きたがる、なんてやつのは、玲ちゃんが初めてだった……。

「だって、気になるんだもん。続き」

「……おまえ、意外と子どもっぽいよな」

「なんでっ」

 玲ちゃんが顔を赤くする。

「この場合、意外、じゃねぇと思うぜ……」

 耳打ちする麟太郎に、そうだな、と僕は頷く。

 恥ずかしさと困惑の間で揺れ動いている玲ちゃんの隣で、霧島さんが苦笑する。

 霧島さんは、玲ちゃんと一緒にいるときだけは、ちょっぴりお姉さんっぽい。「まぁまぁ。火影ちゃんも、友だちが増えて嬉しいんじゃないかな」

「霧島さん」

「私も、久し振りに会いたくなっちゃった」

 霧島さんはちょっと気恥ずかしげに笑う。

 霧島さんは、その、一回だけで火影の非現実性に圧倒されてしまい、それ以降足を向けなくなった例の一つだった。

 もっとも、霧島さんの家がここから遠くで、気軽に火影の家に行けないという理由もあるけど。

 でも、その封印を今日で解くらしい。

「最近、玲ちゃんと霧島さん、僕らと一緒に遊んでばっかだな。友だちが寂しがってるんじゃないのか?」

「麻衣ちゃんは今日塾だし、紗也子は彼氏と一緒にいるからいいって」

「あたしらは明日みんなで遊ぶことになってるからいいんだよっ」

 そういえば明日は土曜日だった。午後は目一杯遊べる。僕はなにも予定ないな……。

「まあ、いいんじゃねぇの」

 適当にどっちかの家へ寄って、適当にゲームでもして遊ぼうと考えていた僕らは、納得した。

 僕自身も、ヴェルディのその後の話は、すこし気になっていたからだ。

 一人になったヴェルディ。

 特別と、普通。

 それぞれの観念。

 彼は、「特別」から逃げ出した旅路の果てに、いったいなにを見いだしたのか。

 僕の、冷たく刺々しい過去と向き合うすべと、これから前に進んでいく糧になるものが、そこに眠っている気がした。

 僕らはどういうふうに生きていったらいいのか……幸せとはいったいなにか、気の遠くなるような歩み。その道の重要な一歩として、ヴェルディの話が参考になると思った。

「じゃ、行こうか」

 僕は黄色の温かい光が、斜めに伸びる教室の中、鞄を肩に引っさげて、教室を出て行った。

 

 ヴェルディ。

 君はいったい何者なんだ。

 火影の作り話の人形か。それともみんなの影か。

「特別」の象徴なのか。「普通」の象徴なのか。

 答えなんかないだろう。でもそれでも、なぜか惹き付けられる。

 君はいったいどういうふうに生きたんだ。死ぬことのない体。老いることのない体。

 そういった壁を前にして、そこでどんなふうに「答え」を出した。

 僕に教えてくれ。

 どうか知りたい。

 僕のこの胸の内に巣くう苦しみを、過去への鎖にひっつかまれている僕を、どうか救ってください。ヴェルディ。

 火影――。

 

「やー、遅かったねー」

 火影の家にたどり着くのに、すこし時間がかかってしまった。

 夕陽はそれだけ傾いて、赤みがやや増してきている。ほの暗い薄影から、火影の雪のように白い肌が現われた。

 線香のような薫りが辺りにただよっている。からりとした涼しい座敷に通され、僕らは腰かける。猫の姿は一つもなく、火影は、いつものようなジーンズ姿ではなくて、元の姿の、薄い羽衣のようなものを引っかけた、幻想的な姿で僕らを待っていた。

「この姿に特別意味はないんだけどねー」

 僕らがその格好について尋ねる前から、火影は若干苦笑気味に教えてくれる。

 持っていた分厚い本を、ぱたん、と閉じた。

「やっぱり物語の締めを語るときに、適当な格好でやってたんじゃ、物語にも人物にも申し訳がたたないでしょ」

 火影の格好を、まじまじと見ると、まるで、本当に、この世のものじゃないように思える。

 いや、この世界には最初から住み着いていたのかもしれないけど、科学が発達した、僕らが今認知しているような複雑極まりない現代社会には、まったくそぐわないものだったのだ。

 赤く、袖の短い、妖精のような、花びらのような形をした上着に、こちらも裾が短い、花びらのようなスカート。

 普段見ることのできない細く、白い、雪を纏ったような素足が、妙に蠱惑的で、触ったらすぐに溶けてしまいそうで、僕の胸はぐらついた。

「今日は礼子ちゃんも一緒なんだねー」

「ど、どうも」

 二度目の再会となった霧島さんも、前回の印象と甚だ違ったのか、火影を前にしてまごついている。

 火影は霊妙な姿のわりに、座敷にあぐらという不釣り合いな俗っぽい格好で、頬杖をつき、にやにやと笑いかける。

「今日の話は、鐘美くんたち専用の、思いっきり続きからのストーリーになるんだけど、いい?」

「羽柴君たちにあらすじを聞いたから……」

「そ」

 と、火影はあでやかな微笑み。

 いつもとは違った雰囲気に、僕も、麟太郎も、言葉が出せないでいた。

「それじゃあ、話を始めようか」

 火影はねっとりとした、この世を離れた霊妙な霧島さんを、麟太郎を、玲ちゃんを、そして僕を――、じっと見つめた。

「各自、思うところはあるだろうけど、」

 火影は特に、僕のほうをじっと見つめ、目を細めた。

「ヴェルディはなんでも答えてくれるから」

 そして、にやっと笑う。

「その生き方でね」

 雷の塔の話――、その、終章が始まった。

 

 続続 雷の塔の話

 ヴェルディとフィーの暮らしは穏やかでした。

 早朝に畑を耕し、そして朝食を取り、お茶を飲み、また畑に出かけ、野良仕事をし、昼は家に帰って休み、本を読んだり昼寝をしたり、たまに言葉のお勉強、夕方は人と出会って、夜はお話。人を招いて、食事をしたりもしました。

 フィーは物静かで、控えめでした。文章を使っての会話も、ヴェルディ以外とはほとんどやらず、身振り手振りで人に意を伝えるのも意外と疲れるのか、平時はじっと人の顔を見つめているだけでした。

 それを奇妙だと思うのは同じ歳の悪ガキたちだけで、老人や女性たちにはいたく可愛がられました。

 ヴェルディはフィーに手紙の書き方を教えました。常に文章に携わっている癖をつけさせようとしたのです。案の定、手紙はフィーのお気に入りとなり、それを使ってよく近所のおばあちゃんやおじいちゃんに、お茶会の誘いを出したりしました。

 他人の子どもたちとも遊ばせようとしましたが、子どもというのは本来純粋な生き物ですから、一方で天使のように全く邪気がないこともあり、もう一方では悪魔のように残虐さを兼ねそなえていたりするものです。物珍しい目で見られるフィーは、それだけあまり他の子と仲良くできませんでした。

 それを見かねたヴェルディは、かつて考えていたほどよりも、ずっと、フィーを可愛がるようになりました。まるで実の娘のように。それを感じていたフィーも、だんだんヴェルディに懐くようになりました。

(お父さん)

 と、フィーは、若干読みやすくなった字で、くしゃくしゃの紙に書きました。

(と、呼んでもいいですか)

 茶色のランプの光が輝く部屋で、ヴェルディの隣にちょこんと座ったフィーは、まん丸い目を向けながら、薄く、柔らかに微笑みました。

「君の本当のお父さんは、どうした?」

 と聞くと、フィーは、いやいや、と首を横に振り、ヴェルディの腕に抱きつきます。

 顔を埋めて、すこし震えます。

 ヴェルディは息を吸って、吐き出しました。

「いいよ」

 フィーはヴェルディの腕に抱きついて、顔をぐりぐり。

「『お父さん』と呼んでもいいよ」背中をさすります。

「好きな呼び方をしておくれ。パパ、でも、お父様、でも。でも僕は、サンだよ……他の誰でもない。そのことを僕は、ずっと忘れない……」

 フィーは顔を離して、ちょっと悲しそうにしつつ、鼻をすすった後、また腕に抱きつくと、抱きついていない右手のほうで、よたよたと、また汚く文字を書きます。

(サン、お父さんと、呼びます)

 これにはヴェルディも面食らった。噴き出して、笑う。

「はっはははは」

 一通り笑うと、

「ねぇ、フィー」

 よしよし、と、その短い黒髪を撫でます。

「私の娘だね……。小さな娘。名前も名字も違うし、かけ離れているが……間違いない、私の娘だ。そうだ。きっとそうだろう。私とおまえは家族だ。片時も忘れまい……」

 ヴェルディは泣くべきか笑うべきかわからないでいるフィーを、優しく寝かしつけた後、一人で日記をつけつつ、妻、ブリュンヒルデのことを思い出します。

 数百年生きて、初めてもうけた自らの子供です。

妻ブリュンヒルデはなんと思っていることでしょう。

あのときの生活から、今を見ると、とんと様変わりしてしまいました。今、妻は、あの世でなんと思っていることでしょう

 喜んで、温かくフィーを迎えてくれるでしょうか。ヴェルディは羽根ペンを動かしつつ、妻ブリュンヒルデのことを思います。

 若いままの自分。ブリュンヒルデの顔は、今も記憶力が明細で、若いころ、すこしだけ年老いたころ、老婆になったころ、と次々に、つまびらかに思い出します。

 ヴェルディは泣きたくもなり、笑いたくもなりました。

 ブリュンヒルデとの子供を作ることを考えませんでした。必要ないと思いましたし、ブリュンヒルデのほうも求めてくることはありませんでした。不老不死であることを、彼女も実は知っていたのです。夫が必要ないと言えば、必要ないでしょう、とすぐに言い切れる、妻の鏡のような女性でした。ヴェルディはそんなブリュンヒルデの優しさと強さに、心の底から惹かれました。素敵で、素晴らしく、この上ない女性だと思いました。

 そして今、ヴェルディのもとに一人の子供ができました。

フィーという、黒髪の、短く切った、若干ヴェルディと似た、つり目の、手足のちっちゃく、可愛い子。

 生きるのに何を糧にしてきたのかわからない、いざとなれば食べ物もいらなかった自分は、ここに来て、生きるとはなにかを、感じ取れたような気がしました。ヴェルディはそう思いました。

 あまりにも歳が離れた親子は、町内のどの親子から見ても、仲睦まじげでした。

 一度は距離が離れたと思っていた人々も、また少しずつ、元のように友だちとして通じ合えるようになっていきました。

 そんなある日のこと。

 フィーが怪我をして帰ってきました。

 肘や膝を擦りむいたようで、せわしく呼吸をしながら、声にならない泣き声を上げて、よたよたと帰ってきました。ヴェルディは花に水をあげていたのを、慌てて、じょうろを投げ捨て、駆けつけます。

「どうした、フィー!」

「……っ、……っ」

 フィーは口をぱくぱく、書く物を与えても書ける状況じゃないと思ったヴェルディは、しゃがみこんで、目線を合わせ、涙を拭いてあげて、抱きました。

 背中をぽんぽんと叩きます。

「そうか。痛いんだね、フィー」

「……っ……っ……」

「手当をしなきゃね……」

 ヴェルディは泣きじゃくるフィーの手を引いて、家の中へと入れました。

 時刻は夕月でした。庭の(すすき)がオレンジ色に染まるのを、窓から眺められました。

そこで、壁にかかった棚から、買い付けておいた、小さい救急箱を取りだして、応急措置します。

影がかかっていて、薄暗い部屋の中でも、ヴェルディは手早く傷を消毒し、包帯を巻いてあげました。

 消毒が傷に染みたのか、暴れたフィーに、がぶっと噛み付かれた手の傷が、みるみるうちに消えていきます。ヴェルディはそれを寂しい眼差しで見つめながら、温めたミルクを入れました。

 本来必要のない、五人がけの大テーブルに、小さく隣り合って、ヴェルディはフィーに語りかけます。

 フィーの前には紙とペンが置かれます。

「落ち着いたかい、フィー」

 フィーはぶすっとしていました。消毒の痛みを、まだ根に持っているようです。

「なにがあったか、話してくれるかい?」

 フィーは文字を書きます。

(お父さん)

 ぶすっとした気持ちの中に、若干悲しみが光るような書き方でした。

(私は、わるい子ですか)

「そんなことはないけど、」と、驚くヴェルディ。

「消毒している最中に噛み付くのはよくないね」

 そう言うとフィーはしゅんとしてしまいます。でも、フィーが聞きたいのはそこではないようでした。

(ごめんなさい)

「謝ったフィーは、とっても偉いよ」ヴェルディは頭を撫でてやります。そうするとフィーもすこし気持ちが落ち着いたようで、出されたミルクを飲みます。

 ちょうどよくぬるくなっていたそれは、フィーの小さい喉に、すんなりと通ります。

 改めてフィーは伝えたいことを書きました。

(きょう、レイさんたちと、遊ぼうとしたのです)

「へえ、レイさんと」

 レイさん、というのは、町内の、子どもたちの中心人物のような子です。元気いっぱいの男の子、あちこちに探検ごっこや、秘密基地を作ったり、大人にいたずらをしたりして回っています。フィーはいつもそれを、どこかうらやましそうに見つめていました。

「話しかけてみたんだね、フィー」

 ヴェルディが優しく言うと、フィーは意外にも悲しそうな顔になって、

「……」

 わずかに頷きます。

 ペンが動きます。

(はい。でも、レイさんたちには、お父さんのように、優しくしてもらえません)

「それは……」

 ヴェルディは目を細めます。

 仲間に入れてもらえなかったのでしょう。

 遠くから、子どもたちの、追いかけっこをするような、元気よく飛び回る声が聞こえてきます。闇に紛れた、影法師のようでした。

 フィーは寂しそうに俯き、唇を尖らせて、なにかを我慢していました。

「フィー」

 ヴェルディはフィーの名を呼んで、こちらに向かせました。

 不思議そうな顔でこちらを見つめるフィーの、肩に両手を乗せます。

「フィーは今、どういう気持ちなんだい?」

 フィーは黙ってじっとしていました。困ったようになって、俯いてしまいます。

「……そうか」

 ヴェルディは気が付きました。

「それでフィーは、自分が悪い子かもしれない、って思ったんだね」

 フィーは黙っていましたが、すこし経ってから、頷きます。

 ヴェルディは微笑みました。

「そんなことないよ、フィー」

 フィーの頭を撫でてやります。

「フィーはとってもいい子。悪い子なわけがないよ」

 フィーはそう言われると、すこし照れくさそうでしたが、嬉しそうに笑います。

「でも、」と、ヴェルディは続けます。

「悪い子かもしれない、って、もう思っちゃいけないよ。フィーはなにも悪くないんだから」

「……」

「フィーは、どうしたい?」

「?」

「きっとその怪我は、彼らと遊ぼうとしたときについちゃったんだね……。もう痛くないかい?」

 フィーはぱっと微笑んで、頷きました。

「……仕返し、してやろうかい?」

 ヴェルディが試しにそういうと、フィーははっとして、ぶるぶると首を横に振りました。

 ヴェルディは笑いました。

「そうか。フィーはとっても偉い子だね。そうか。すると、それじゃあ、フィーは彼らと仲良くなりたいんだね」

「……」

 フィーは迷うようでしたが、紙に文字を書くともなしに、しっかりと頷きました。

 ヴェルディはフィーの意を汲み、すべてフィーに任せることにしました。

「頑張れ、フィー」

 優しげにそう言います。

「私の可愛いフィー。フィーはとっても強い子。自分のことはすべて自分でやろうとするんだね。でも、私にできることは協力させておくれ。私だってフィーのお父さんなんだから」

 フィーは温かいミルクを飲みながら、うん、と頷きました。

 

 ヴェルディは、フィーにも内緒で、フィーが頑張ってみんなの仲間に入ろうとしているところを、木陰から見ていました。

 フィーが、ガキ大将のレイに近づいていきます。

 仲間の一人がなにか面白い冗談を言ったようで、どっ、と笑い合う声が聞こえます。それにフィーはびっくりしてしまったようでした。

 仲間の中には男の子も女の子もそれぞれいます。フィーが身じろぎして、じゃりっ、と石を踏んだのを、皆聞き、なんだ? というように顔を向けます。

 フィーは全員の視線にさらされます。でもそれでも、フィーは逃げようとしませんでしたし、むしろ向かっていきました。

 足を一歩そちらに向けて、手振りでなにかを伝えようとします。

「こいつ、あのサン兄ちゃんちの子じゃん」

「昨日もきてたぜ」

「おれ、知ってる。こいつ、元は奴隷だったんだって」

「え、ほんと?」

「でも、いいわよ、仲間に入れてあげましょうよ」

「だめだ。おれは気に入らない。なんだ、こんなやつ。この『暗闇シンドバッド団』に入るには、なにか特技を持ってなきゃいけないんだ。ちなみにおれは暗算が得意だ。おう、おまえ、なにか持ってるのかよ」

 レイの友だちの、金髪の髪の短い子が、ずかずかとフィーに近寄ります。

 フィーは口をぱくぱく、精一杯なにかを伝えようとします。

「なんか言え、っての」

 ヴェルディがあらかじめ持たせておいた、紙とペンを持ち出して、なにか書こうとします。

 そのところへ、少年の手に押されて、後ろに倒れてしまいます。

 倒した少年が、ぎょっとします。

「パンツ、見ちゃったぁ〜」

 レイの仲間が笑いました。

「はははははは」

「だっせぇ〜」

「……」

 立ち上がったフィーは、顔が真っ赤っ赤、ぷく〜っと頬を膨らませて、飛びかかろうとします。ですが面白がったレイの仲間たちは、まず逃げ、フィーを追わせ、影から足を引っかけ、倒れたところに後ろからボールをぶつけたり、木の実を投げたりと、好き放題。

 リーダーのレイも、それを見ておかしそうに笑っていました。

 フィーはずたぼろでした。よろよろと立ち上がるところに、鳥打ち帽をかぶった大将のレイが、ニヤニヤとした顔で近寄ります。

「ここで一人くらい捕まえられもしねぇんじゃ、おまえ、一生『暗闇シンドバッド団』に入る資格はないぜ」

 仲間たちもにやにや笑います。フィーは黙って涙を溜めています。

「なんにも言えねぇのかよ」

 レイが不思議そうに言います。

 フィーは口を開きませんでした。

こういうときは、フィーはなにも言わないものです。

「ここでまだなにか生意気言えるなら、見込みがあるって思ったんだけどなぁ」

 そうしてレイは、かがみ込んで、フィーの白いスカートを思いっきりめくると、びっくりしたフィーの肩を思いっきり押して、倒しました。

「出直してこいよ! チービっ!」

 わーっはっはっはっは、と暗闇シンドバッド団の勝利、フィーに黒星がつきました。仲間たちはフィーを置いて去っていきます。

フィーは泣きました。声もかすれがすれ、わずかに聞こえます。高い、鳥の苦しむような声でした。

 ヴェルディは駆けつけたい気持ちを押さえながらも、冷静に、手元の紙にメモを取りました。

 家に帰って作戦を考えます。

 

 どうしたんだい、と尋ねても事情を話さないフィーに、ヴェルディは黙って傷の手当てをしました。

 メモを片手に、作戦を練り、翌日、フィーに、とあるお遣いを頼みます。

 レイの家の、果物をいくつか買ってきてほしいとのことでした。

 レイがこの日、午前中に店番に当たっているのは、すでにヴェルディの知るところでした。

 ヴェルディは力強く励まします。

「頑張れ、フィー」

 フィーは少々怖じ気づきながらも、果物屋へ歩いていきました。

 なかなか帰ってこないので、ヴェルディはこちらから迎えに行ってみることにしました。

 レイの家の果物屋に到着すると、案の定、

「ああ、ニーザさん。ごめんなさいねぇ、なんか、引き止めちゃって」

 レイのお母さんが、苦笑顔。

 ヴェルディは裏の玄関へと回ります。すると、フィーはやはり、

「やあ」

 お茶菓子をもらって、レイくんと一緒にお喋りしてました。楽しそうにレイくんの話で盛り上がっていたところを、ヴェルディがお邪魔して手をかざします。

「あ、サン兄ちゃん」

「すまん、レイさん。フィーが邪魔したようだね」

「ううん、別にいいよ」

 さて、どういうことか。

フィーやレイさんは知っていますが、ヴェルディは知りません。でも、ここでいったいなにが起こったのかは、容易に想像がつくのでした。

「これ、お土産」

 安いビスケット菓子を差し出します。するとレイくんは、「やーりっ!」と嬉しそうに笑います。

 フィーも楽しそう。けれど、ヴェルディが現われたのでどきどきです。

「レイさん、フィーとは前から友だちだったの?」

「いーや、」

 冷たいお茶を飲みつつ、ビスケットを囓りながら、レイさん。

「今日から友だちになったんだよ」

「……そうなのか、フィー?」

 聞き返すと、フィーは恥ずかしそうに、でもどこか上品に、笑います。

 レイさんはしみじみと言いました。

「こいつ、こういうやつだったんだなぁ。ずっと、奇妙で変なやつだと思ってたけど。あれ、そういや、名前なんて言ったっけ」

「フィ・キルウァ、という」

 ヴェルディが教えてあげると、レイくんは目を丸くしました。

「って、外国人? 蛮族か?」

「蛮族という言葉を、もう知っているのかい?」

「んーにゃ、本当は知らねぇけど」

 レイくんは、茶色い頭の毛を、ぽりぽりとかきました。

「父ちゃんたちが今戦争に行ってるのは、蛮族たちを倒すためだ、って母ちゃんが言ってた」

「フィーが蛮族……」

 ヴェルディは笑ってしまいそうになりました。

「ねぇ、フィー、自己紹介してごらん」

 ヴェルディが紙とペンを渡してやると、フィーは早速名前とすこしの文を書きます。

(フィ・キルウァ、です。はじめまして)

 まだまだ書きます。

(「バンゾク」という言葉はよく知りません。でも、あまり良い響きではないですね)

「読めねー」

「通訳してあげよう」

 レイさんは読み書きができなかったので、ヴェルディが代わりに読み上げてあげました。レイさんは呆然とします。

「……まじで? お嬢様?」

「フィー、もっと書くかい?」

 フィーは頷いて、もっとペンを走らせます。綺麗な字で、ヴェルディには、意識して、そんなふうに書いているように見えました。

(もし、私が「バンゾク」というものであっても、友だちになってくれますか。ああ、でも、それじゃお父様がかわいそう……)

「フィーは優しい子だね」

「……」

 レイくんはまるで新種の生物でも見るような目で、フィーの顔をまじまじと見つめていました。もともと奴隷の娘だと聞いていたので、話し言葉なども、もっとずっと汚いと思っていたのでしょう。

 しかし、その絶えず微笑みを浮かべている口元、品の良い両眼、すらっとした鼻梁、見れば見るほど「奴隷」という名は似つかわしくなく、加えて話し言葉も今まで物語の中だけでしか聞いたことがないような、鈴の鳴るよう、氷の菓子のような怜悧さ、これだけ見て、レイさんが一目置かないわけにはいきませんでした。しかし、みんなから尊敬されている、ヴェルディの下で育てられているのでは、それもある意味当然かもしれないと、納得したようでした。

「おまえって、奴隷だったんだろ?」レイさんが出し抜けに聞きます。

「ルイスに聞いたぜ」

「……」

 フィーは悲しそうな面持ちでしたが、頷きます。

 その様子を見ると、レイさんは口を閉ざしました。

 うぅん、とうなって、首を傾けます。

 陽射しが上っていって、窓からは差してこなくなりました。中天にいるのでしょう。外の生垣がやや黄色に染まります。

「奴隷の子どもっていうと、うるさくなるやつもいるぜ。カースのやつと、その母ちゃんが特にそうだ。でも、おれらは『暗闇シンドバッド団』、」

 思ったとおり、と、ヴェルディは内心ほくそ笑みました。

「子どもだけの、子どものための世界を作るためにおれたちは行動している。中には、親のいるところから逃げたいやつも、父ちゃんも母ちゃんも死んじまったやつもいる。奴隷っつったって、中身が綺麗なら、おれらは区別しねぇよ」

 そう言って、フィーと握手しました。

 フィーは感激して、目をきらきら、その日は一日中、笑顔でいるほどでした。

 ヴェルディは帰ってから後、その数日後の夕食にレイさんとそのお母さんを招待して、レイさんにこっそり、フィーと仲良くしてくれてありがとう、とお礼を言いました。

「そういう言い方、好きじゃあねぇぜ」

 鼻をこすって、若干誇らしそうに言います。

「まるでおれ、サン兄ちゃんにそう言われたから、フィーと仲良くしたみてぇじゃねぇか」

「……」

 ヴェルディは、目を細めます。

「最初は変なやつだなーっつーか、気味悪ぃって思ってたけど、一対一で話してみると全然普通なやつなんだな。紙の中じゃ、一番すげぇ会話ができるし、文字も一番綺麗だ。それだけで十分特技だしな。面白いやつだよ。もう友だちだ」

「……そうか」

 ヴェルディは、なんだか自分自身が救われる気持ちでした。

 それからフィーは、「暗闇シンドバッド団」の一子分となりました。それでも、女の子たちからは人気者で、無口な割に意外と行動派、顔も綺麗なので、男の子からもやや人気を得ました。

 それらの光景を、ヴェルディは、花壇に水をやりながら、まるで眩しいものを見つめるように、眺めました。

 自分の冷たい体に、少しずつ、なにかがぽっ――……と、宿るようでした。

 

 後編

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