「もう十分生きました。そろそろいいでしょう」

 町長のハイスキーさんは、そう言いました。

 暗闇の中に、ぼうっと、茶色いランプの光が、ヴェルディと、ハイスキーさんの顔を照らします。ハイスキーさんの白い顎髭が、透けて、夕空にたなびく雲のように煌めいています。

「そうですか」

「この町には私ぐらいの年寄りがたくさんいる。経験豊富な、ね。私が死んでも、大丈夫ってなもんですわ。人より長生きするやつに頑張ってもらいましょう」

 かっ、かっ、かっ、と笑います。

 ヴェルディはお茶を口に入れました。

「物騒なことを言うものではありません、という言葉は、やはり思いやりがありませんか」

「そうでもないです。言われてみると嬉しい。でもね、私たちは、もう諦めがついてるんです。もう満足していると言っていい。ねぇ、あなた、」

 と、ハイスキーさんは老人らしい気のいい語り口調を見せます。

「人が生まれてから、こんなジジイになるまで、生き延びてこられるやつがいったいこの世に何割の確率でいると思います? 飢餓、疫病、突発的な事故、戦争、災害……死ぬ要因なら、いくらでもある」

「実際……少ないでしょうね」

 ヴェルディは、今まで数多と殺し、殺し、殺し尽くしてきた、若い兵士たちの、絶望する顔を思い出しながら、言いました。

「そうですよ。本当に少ない。うちのガキも両方、戦争に行って死んじまいました。下の弟の嫁さんも、従軍看護婦として夫についていって、爆風に巻き込まれて死んだ。……世の中、狂ってます。いや、私は、別に世の中が狂っているという話をしたいわけじゃないんだが。狂っているのは、もちろん、わかりきっていることです。そこで私たち人間は、生きるのです」

 ぐいっ、とお茶を飲みます。そして、はあ、と溜息をつきました。

ハイスキーさんの白い顎髭がちょっと濡れます。

「こんなに長く生き抜けたのは、まあ、惨めだとは思わないが、やはり幸運というものでしょう」

「そうですね」

「だから、こんなジジイになって、もうそろそろ私も死ぬんだなぁ、と、ぽっと口に出すことぐらい、許してもらいたい。もちろん、まだ死ぬつもりなんかございやせんよ。若者から怒られるのも気持ちがいい。まだまだ生きさせてもらいますよ。フィーちゃんの成長も楽しみだしね」

 ヴェルディはぼんやりと光るランプに照らされる、壁に掛けられた絵を見ました。

 題名は、『炎』――。

赤、橙、紫などの絵の具を精一杯塗りつけたような、凄まじいパワーを放つ絵でした。

 ヴェルディがくつくつと笑います。

「孫みたいなものですか」

「そうですとも。可愛いじゃないですか。お上品だし、素直だし、口は聞けないが、その分お淑やかだ」フィーのことをたくさん褒めます。

「かと思ったら、意外とおこりんぼさんで、男顔負けなくらいの、果断家っぷりを見せる……。ずいぶん変わった子ですが、世の中には、こういう変わった子が、まだまだ必要だ」

「……そうですね」

「変わっていると言えば、サンさん。あなたもですよ」

 ヴェルディは目を細めて、ハイスキーさんの顔を見ました。

 この町の町長らしく、豪快で、けれど、どこか憂いを滲ませた、奥の深い両眼。それがヴェルディの瞳と、中空で、数秒間交差しました。

「気が付いたのですか」

 出し抜けにヴェルディが聞きます。ハイスキーさんはゆっくり頷きます。

「やっぱり、あれかね、お病気かね」

「病気、ですか?」

「そう」

歳のまったく取らないことを、なにかの病気だと思われたようです。ヴェルディは、現実的な、しかし非現実的なことをロマンとする町長の気質に、わずかに触れた気がしました。

「病気ではありません。私は元々こうなのです」

「……もしかして、あの、妙なことを聞きますけど、私より年上だったりしますかね」

「……」

 ヴェルディは気構えを解いて、ふっ――……と、元の自分自身の顔を内から出し、ハイスキーさんと相向かいました。

「はい」

「なんと」

 ハイスキーさんは目を剥きます。しかし、ヴェルディが予想していたほどには、驚くこともありませんでした。

ぼんやりと考えるように、中天を見つめました。

「なるほどなあ」

「歳を取らないだけではありません。死ぬことも不可能です」

「そうか。そりゃ難儀だなあ」

 ほくほく、と口を動かします。薄暗く照る木造の天井を見つめたまま、ぴくりとも動きませんでした。

「もう、こんな年寄りになっちまうと、並大抵のことには、驚かなくなってくるもんです」

「それは、確かにそうですね」

 ヴェルディも、若い顔のままで、同意します。

「驚くのも疲れるんです」

「でしょうね」

「……もう一度聞きますけど、本当ですか?」

「本当です」

 ヴェルディは懐から果物ナイフを取りだして、ピッ、と自分の指を傷つけてみせました。

 瞬く間に傷が消えていきます。血はほとんど出ませんでした。

「ははあ」

「だからといって、」と、ヴェルディは懐にナイフをしまいながら言います。

「これで得したことなど、なにもありません」

「そうですか。……いや、そうですか」

 ハイスキーさんはそう言って、お茶を飲みました。

自若として、落ち着いていました。それはヴェルディも、まったく同じでした。

「いやね、こう言うと怒られるかもしれないですけど、子どもみたいだなあ、ってお思いになられるかもしれませんけど、」

「不老不死が気になりますか?」

「……まあ、ちょっと」

 その子どもっぽく、可愛い言い方に、ヴェルディは微笑みました。お爺さん、お婆さんになっても、可愛さを捨てていない老人は、ヴェルディの一番好きな人種でした。

「私、こう言っちゃなんですが、若いころは結構ハンサムだったんですよ」

「ほお」

「見ます、絵?」机の引き出しを開けようとします。「確かここに肖像画が、」

「見なくてもわかります。鼻が高くて、目と眉が綺麗でいらっしゃいますから」

「ほ」

 ほ、ほ、ほ、と、ハイスキーさんが誇らしそうに笑います。

「サンさんに認められれば私の鼻も高い。――まぁ、そんなわけだから、若いままの自分を永遠に残したかったなぁ、と、今ちょっと思ったんですよ。あなたももしかしたらそのクチ……?」

「さぁ、どうでしょう」

 ヴェルディは楽しくって、楽しくって仕方ありませんでした。

「……まあ、こんなジジイのままで長く生きるつもりはありませんがね」

 ふう、と、つまらなさそうにハイスキーさんは溜息をつきます。

「ははは」

 ヴェルディは笑いました。

「あとは、もう生きて三、四年でしょうから、いさぎよく、やることをやって、死にます」

「それがよろしいでしょう」

「そうだね。それが人間の本来の生き方ってもんさ。諸行無常、すべて変わりゆく、って、遠い異国の偉い博士が言ったものです」

「そうですか」

「そうです」

 ヴェルディは、初めて聞く言葉だ、と思いました。長く生きても、人間というちっぽけな存在では、世界のすべてを掌握できないものです。

 なんの意味もない、と、ヴェルディは自分自身の能力を見て、そう思いました。

「でも、ちょっとは憧れるもんですよ」

「不老不死が、ですか?」

「ええ」

 ハイスキーさんが、目を細めて、遠くを見つめます。冗談ではなさそうな言葉の感じに、ヴェルディは笑うのを止めました。

「特別な人間になってみたい、って、人間なら誰でも思ってみることです。そして不老不死というのは、その最たるものだ。世界中で有名な王様になることよりもすごい。人間の力を超越した業です」

「たいしたものではありません」

 ヴェルディは心の底から言いました。

「わかっています。私も、本気でなろうとは思っちゃいやせん。今、願いが叶って、若いころのままの私で、そうなれたとしましょう。でも、辞退しますよ。そんなの不自然だ。永遠の命を得られようが、それはひどく脆い。永遠であって、永遠でないようです。私はもっと堅実なほうを選ぶ」

 もぐもぐと、小さく、低く口を動かしながら、ハイスキーさんは話します。

「すなわち、人間としてもっとも自然な、死、をね」

「それはそのとおり。あなたの言われるとおりです」

「ははは」

 ハイスキーさんは力なく笑いました。

「ちょっと怒りましたか?」

「まあ、それは、当然、ですが、ハイスキーさんですから、あまり……」

「うぅむ……」

 ヴェルディが珍しく、決まりの悪さのせいで顔を逸らすところを、ハイスキーさんは自若とした表情で見つめ、腕を組みました。

「私は、思うのです」

「なんです?」

「普通も、特別も、ないと」

「どういうことでしょう?」

「そんなものただの一定の価値観でこしらえた代物です。一定の線引きがあって、ここからこっちが普通、ここからこっちが特別と、私たちが勝手に作ったものです。もうちょっと視野を広くしてみれば、そんなものはどうってこない、同じ土地の上にできている垣根だって気づくんです。ただ、世の中には、美しい生き方と、そうでない生き方がある。それが何だかわかりますか?」

「……」

 ヴェルディは息を呑み、腕を組みました。

 数百年生きたからといって、その分人間としての経験を積めるわけではありません。ヴェルディの心はまだまだ若いままなのです。命の際限がない分、太く生きられないのです。

「自然に従って生きる、ということでしょうか?」

 ヴェルディが、かじった程度の知惠を振り絞って答えてみると、ハイスキーさんが、正解、と指を差しました。

「そのとおりです。神に造られたままの自分でいることが、もっとも美しい生き方なんです。それをわかりやすく言ったのが、『自然に従う』ということです。神は、二つのものを造りましたね。人間と、自然です。自然は人間の上に立つものです。人間は自然の上に立てません。私たちは、雷の到来を予期することはできますが、雷自体を操作することはできないでしょう?」

「それはそのとおりです」

「人間は自然の上に立つことができない。しかし、それでよいのです。自分が何者であるかを知り、自分の中にある『自然』――、つまり、『霊魂』の言うことに従って生きることができれば、それ、すなわち美しい生き方、美しい死に方です。ただ、世の中にはそれだけが存在するのです。特別や、普通など、人間が造りだしたもの。自然なる生き方にはかないません」

「……」

 ヴェルディは黙って、お茶を飲みました。

 反論するわけでもなく、驚くわけでもなく、ただただ、この老人の言うことに、感心していました。

「だから、サンさん、私が言いたいのはね、」

 ハイスキーさんの目が、優しく細められました。

「あなたも私も、生き方によっちゃぁ、同じだったってことですよ」

「――」

 そのとき、ヴェルディの体の芯の中を、びゅっ――……と、爽快なものが、駆け抜けていきました。

 ゆっくりと肩から力が抜けていき、ぐでっ、として、ハイスキーさんの視線を捉えました。

「私は美しく生き、美しく死ぬつもりだ。美しい死は、それから先も、『生きる』ってことですからねぇ」

「……」

「死ぬことのない体になっちまったら、あなたは私たちと同じ道を歩めないだろうが、結局は、違うってだけで、よく似ているんですよ。あなたが自分自身で不老不死を望んだなら、それは、自業自得だと思って諦めるように。なに、罰はそんなにたいしたことありません。でこぴん程度のものでしょう」

 ぴぃーん、と、ハイスキーさんは指を重ねて、空中で弾いてみせます。

 それから、人生最大のいたずらを披露してみせたように、いたずらっぽく、ヴェルディに笑いかけます。

 その笑顔は、ヴェルディの中で、ぽっ――、と、温かくなりました。

「ははははは」

「おや、あなたのそんな豪快な笑い方を、初めて見ました」

「はっはっはっはっはっは!」

 ヴェルディは笑いました。目元を手で押さえ、仰向けになって、椅子に寄りかかり、笑いました。

 ほ、ほ、ほ、ほ、と、ハイスキーさんも、あまり力を入れずに、かっこよく笑います。

 ヴェルディは思ったのでした。

 それはただ、ほんの、些細な変化だったかもしれません。

 でもこれで、自分の身の、長らく巻き付いていた、鎖の一つが、外れたのだと。

 なにかが劇的に変わったわけではない。

 ただこれは、彼の歩むべき幸せの道の、確実な一歩であったのだと、自分でそう思いながら、笑ったのです。

「いや、きっと、あなたの言うとおりです。私は皆さんとなにも変わることがない」

 ヴェルディはとても若者らしい笑みで、ハイスキーさんに言いました。

「私は一番いい生き方を見つけました」

「ほお」

「私は不老不死だが、一番いい、生き方と、死に方を、見つけることができました」

 宝物でも発見したような、透き通った空のような、そんな瞳を大きく見せて、ヴェルディは子どもっぽく、笑ったのでした――。

 高く積み上がった塔――、ここに、雷を受けたり。

 

「話はこれにしてお終い」と、火影が打ち切ってから、僕は悠然とした足取りで、道楽通りと佐々城銀座の境目にある東佐々城公園へとやって来た。霧島さんや麟太郎、玲ちゃんを連れて。

 公園は人気がない。月が上っている明るい夜空には、薄く雲がかかって、幻想的な絵を造りだしていた。僕はそれを見上げつつ、小さな子が乗る、ブランコに腰かけた。

 麟太郎が鉄の柵へと尻を乗っける。霧島さんは僕の隣のブランコに座って、玲ちゃんはその隣に立った。

「僕は、不登校だったんだ」

 出し抜けに言ったが、驚いて声を上げる人はいなかった。前もって話をしていたからだ。「みんなに話したいことがある」と。

「今の高校生活の話じゃない。中学校のころだ。まあ、今だって不登校とも言えなくもないが――、当時は、もっと凄かった。半年くらい学校に行かなかった」

 僕はきぃ、とブランコをこぎ出した。ゆるく、小さく。

「一学期だけならちゃんと出席していたから……この加々良高校は、私立高校だから……受験に足りるだけの出席日数は、なんとかなった。私立高校は一学期の成績しか見ないからだ。それで僕は、この加々良高校にやって来れた」

 麟太郎も霧島さんも、玲ちゃんも口を挟まなかった。麟太郎はもともと知っている話だ。だが、霧島さんと玲ちゃんは……ただただ驚いて、不登校生とこうして面と向かって話していることに、不思議な新鮮さを感じているようだった。

「僕はいじめられっこで、中学時代はずっと周りのやつからいじめられていた。でもそのことが原因で、不登校になったんじゃない。僕の居場所が、学校のどこもなくなったから、物理的に行くことができなくなったんだ。それを話すと、説明が長くなるが……」

「いいだろ、そのへんは適当で」

 初めて麟太郎が口を挟んだ。僕は麟太郎と目を合わせ、ゆっくりと頷いて、話を続けた。

「わかったよ。とにかくそうなったのは、それ相応の理由があった。いじめられていることとは別の。……そもそも僕は、自分をいじめられっこだとは認識していなかった。からかわれている、その程度の認識だった。僕と彼らは正真正銘の『友だち』だったから」

「どうして? どうして……そんなふうに思えるの?」

「どうしてだろうな……」

 僕は、足を伸ばして、曲げて、その動作の繰り返しで、ブランコを前後にゆっくりと揺らした。

「僕は、フィーのやつとも似ているのかもしれない……」

「え?」

「あのくだり。フィーがレイたち暗闇シンドバッド団にいじめられて、ヴェルディに『自分は悪い子ですか?』と聞く場面があっただろう。……僕は、誰かにいじめられたって、どうしてもそいつらを憎み抜くことができなかった。嫌だ、とは思ったけれど、もちろん。でも、心のどこかでは、まだ僕らは繋がっていると思っていた……」

 でも僕は、あれからいくらか成長した。そのおかげで、今では「友だちだったやつ」と「そうでなかったやつ」にカテゴリーを分けられているけれど。

「羽柴君……」

「僕の友だちは、みんなの前では、僕をいじめるけれど、二人っきりになると優しくしてくれた。『ごめんな』と、謝ってくれもした。僕は……それを了承した。そして後になってから、彼らも、苦しくって苦しくって仕方のなかったのだとわかった」

「どういうこと?」

「彼らは、特別でありたかったんだ。弱い者の僕をいじめることで、仲間内の面子を大事にしたかったんだ。当時校内には僕は弱々しい、やられ役のマスコットキャラとして認知が広がっていた。だからそれをみんなの目前でいじめないと、不良の幹部としては、顔が立たないんだ。僕はそれを途中からわかって……なんとなくそのことを了承することにした」

「そんなっ!?」

 霧島さんが目を開く。玲ちゃんもなにも言わなかったものの、かなり驚いた表情をしていた。

 麟太郎は空を仰いで、苦々しげに目を細める。

「そんなの、そんなの絶対におかしいよ!? どうして羽柴君はそんなこと引き受けるの!?」

「みんな馬鹿だったんだよ……」

 僕は目を細めた。

「でも、とても人間らしい気持ちだった。あそこは苦しい場所だったんだ。悪意の連鎖が、次から次へと起こって……そこにいる人々は、必ずなにかの『地位』を得ないと、息をすることすら、そこにいることすら難しくなっていた。そんな場所だったんだ。そして僕は、とある事情があって、その『地位』を完璧に失った。『地位』は一応あったんだけどね……やられ役でありながらも、校内一のボスと親友である、うかつに手が出せないやつ、っていう」

 僕は冷静に自分の過去をさらけ出せていた。どうしてだろう。ヴェルディのあの話が、そうさせたのかもしれない。

 そう、僕は不良だった。不良の仲間。

不良の中での、マスコット役だった。だが、決して下っ端ではなかった。そういう序列とは別のところにいた。不思議な立ち位置だったんだ。

 喧嘩もそこそこだった。みんなの間では、遊びでボクシングや、喧嘩まがいのことをよくやっていた。そのときに相手を殴って血を流させたりもした。そこで、どうして僕がそんな立ち位置になってしまったのか……それはいくつか理由があるが、その一つは僕が、フィーのように弱々しく、一種奇妙な優しさを心に持っていたからかもしれない……。

「でも、それは僕のせいでもあったんだ」

 僕は目を閉じた。

「僕だって、特別になりたかった」

 僕はあのときの記憶を目の奥に呼び起こす。いつもなにかに必死になっていた。そのなにかとは、自分を周りによく見せること、誰かに負けないこと、すこしでもかっこつけること、すこしでも、武勇伝を作ること……すこしでも、すこしでも……。

 いったい僕は、誰と張り合っていたんだ?

「僕は、知らなかった」

 うっすらと涙がにじんでくる。ヴェルディの話に出てきた、ハイスキーさんの生き方、そして、ヴェルディの生き方、フィーの生き方は……。

「僕は、自分自身の生き方を、いつも他人に任せていた。でも……そうじゃないんだ。それじゃだめなんだ」

 目の端を制服の袖で拭って、はぁ、と息を吐き出す。

 湿っぽく、温かい五月の空気が、喉を暖かく抜けていく。

「自分のことは自分で決めるんだ。自分のことまで、他人が決めてくれるわけないんだ。それは優しさじゃない。放っておいてくれるのも、冷たさじゃない。僕らは、他人の生き方にまで口を挟むだろうか? それは思いやりじゃない。お節介というものだ。それに、僕たちはそんなことをするほど暇じゃないんだ……」

「そうだぜ」

 麟太郎はこっちをしっかりと見つめて、大きな瞳で返事した。

「自分のことは自分で決める。それは、とても当たり前なことだったんだ……人として。僕は、それを、中学三年生の十五歳になるまで、気づかなかった……自分のことを他人に決めさせていて、そのツケがいつか回ってきて……僕は、ついに十五歳の二学期から、学校に行けなくなった。いじめに耐えられなくなったんじゃなくって、そこに耐えることすら許されなくなったんだ……」

 僕は、そうすることになった理由も霧島さんたちに説明したかったが、それは冗長すぎて、興が削がれてしまうと思ったので、しなかった。それも「自然な生き方」ということなのだろう。

 僕は再び、ブランコをきぃ、きぃ、と鳴らした。今度はもっと強く。大きく。

「僕は不登校になりながらも、担任の先生の勧めで、夜に毎日学校に行った。そこで先生が用意してくれたプリントを、毎日一時間ずつやった。それが受験対策となったんだ。面接の勉強もしてくれた。そのおかげで……この学校に来た」

 この学校。この加々良高校だ。県内トップクラスの進学校。あのときの先生は、もう未来が潰れてしまいそうになる僕を引き止めて、この学校に入れてくれたのだ。

 命の恩人だ。

 でも、やってきたこの学校は、予想以上につまらないところだった。

「それから僕は、自分のことは自分で決めるようにした。家族のみんなにも色々意見をするようになった。押さえつけて指図するのが好きだった僕らの家族は、かなり反発したけれど、議論や喧嘩を重ねて、かなり柔和になってくれた。僕が変えたというわけではないのだろうけど、家族は実際に変わってくれた。僕のことをよく知ってくれるようになった。だけどそれは、きっと……僕が変わったせいなのかもしれない」

 僕は、家族の表情の裏側に、自分自身の顔を見ていたのかもしれない。

 押さえつける、押しつける、あざむく、秘密にする、出し抜く、軽蔑する、陥れる――、それらの概念しかなかった世界は、ひどく窮屈だった。綺麗な人の顔が歪んで見えるくらいに。

 でも僕は、そんな世界からちょっと抜け出せて、確実に、本当に幸福になった。高校に入ってから友だちの数は一気に減ったけれど、それが不幸になったしるしだとは、どうしても思えなかった。

 ただ、現実はそんなに一気に変わるものじゃない。

「僕がよく学校を休むのは、その結果だということだ」

 当初の議論に戻るが、僕は僕で、自分の過去をさらしたかった。それで同情してほしいわけじゃない。ただ、僕も自分の生き方というものを表明したかったのだ。ヴェルディの話に感化されたのかもしれない。

「自分で考えて、自分で決めたことだ。それは必ずしも正しいことじゃないのかもしれない。でも、僕はこれで幸福だ。自分のことをずっと他人に決めさせていたときより、ずっと自由で、縛られない生き方だ。そして僕は、さらに幸福に生きられる道をつかみ取った。火影の話によって……」

 僕はブランコから飛び降りて、麟太郎がいる柵の前に着地する。麟太郎と目を交わして、ふ、と気楽な表情で笑う。麟太郎は目を丸くしていた。

 僕はそれから、夜空にうっすらとたなびく薄雲を見上げた。すぅ、と深く息を吸って、ふぅ、と細く、長く息を吐いた。

「ヴェルディもそうだったんだ。なにかがわかって、一気にどん、と幸福になったんじゃない。ちょっとだけ幸福になったんだ。人生って、そういうものだ。すこしずつ幸福になっていくんだ。すこしずつ自分の過ちを正していって、すこしずつ幸せになっていくんだ。僕は、今日、その道を一つ、つかみ取れた……」

 僕はそれで鞄を取り、麟太郎の横に腰かけた。

 霧島さんと玲ちゃんを見つめて、にっこりと笑う。

 霧島さんはうっすらと微笑んでくれていた。玲ちゃんも、気安い微笑み。

 麟太郎も笑ってくれた。にっ、と、いつもの気安い微笑みで、拳を突き出す。

 がつん、

「へっ」

 と、僕らは拳を甲の側でたたき合う。それから、息を吸って、

「あ――――っ!」

 と、上を向いて叫んでみせた。肺の空気が一気になくなっていく。

 でもそう叫ぶのは、気持ちが良かった。

「……疲れたな」

「そうだね」と、霧島さんは笑う。

「火影ちゃんの話、長かったもんねー」

「もう八時だよ」

 うわー、と、玲ちゃんが腕時計を見つつ顔をしかめる。僕も時計を見て、それから

「ははは」

 と、笑った。

 時刻が八時。なんて面白い数字だろう。僕はどうでもいいことに、どうしようもない愉快さを感じるほど、馬鹿みたいにハッピーだった。

「礼子ちゃんの家、こっから遠いんだろ?」

「うん。四十分ぐらいかかる」

「大丈夫かよー」

 麟太郎は心配げである。

「もう、お父さんに今日は遅れる、ってメール打ってあるから」

「なんて言ってたの?」

 玲ちゃんが尋ねる。

「返事はまだ見てない……あ、あはは、」

 と、冷や汗顔。案の定、僕の勧めで電話をしてみると、親父さんはカンカンだった。今すぐ家に帰ってこい、この馬鹿、とのことだったので、僕らはそこで解散にした。

 僕の家族もきっと、帰りが遅いことに、怒っているだろう。でも僕は、今日ぐらい目一杯怒られてもいいだろう、と思えたのだ。

 新たな道を発見できたのだ。

 自然、という道だ。

 僕は今の学校に対してどう思っているんだろう。

 そして、普通と特別とは?

 すべての答えはそこにある。

 明日からの学校で、それが証明できるだろう。

 

 

エピローグ

 

 羽柴君はあれから変わった。

 前と比べて、顔の険しさが一つくらい取れた。もともと話しかければ、優しい顔になって話してくれる人だったけれど、それが通常の場合でも、よく出るようになった。

 前、私が麻衣ちゃんや咲ちゃんと話しているときに、ふと、羽柴君のほうに視線を送ってみると、彼は他のクラスメートと親しげに話していた。麟太郎君じゃない別の人だ。

 羽柴君の最も変わったところは、自分から他人に歩み寄るようになったことだ。

 前はいつも、交友するときに受け身だった。私たちから歩み寄らねば、彼と話すことはなかったのだ。それが、今、彼は努力して、他人に歩み寄るようにしている。自分から。

 それはまた、彼にさらなる試練を与えることだろうけれど……羽柴君は、嬉々としてその試練に立ち向かうことだろう。これから人生の先、何十回でも。

 羽柴君は女の子、男の子、分け隔てなく接するほうだったが、それでさらに、最近は気安い好意を持って話しかけてくるようになったので、女の子の間ではひそかに羽柴君ブームが起き出した。咲ちゃんも一時はひどく軽蔑していたものの、あの羽柴君の過去を聞いてから、またちょっと気になり出しているようだった。

 羽柴君、顔、そんなに悪くないもの。ちょっとだけ怖いけど、身に纏う雰囲気がオシャレというか、話し方に知性の高さが滲み出ていて、加えて、小論文の授業とかに提出した答案を国語の先生がべた褒めしているところを見ると、軽い、ミーハーな女の子はむかつく、とか、頭いいのを調子がってるとか言うけど、こういう、私たちのような、普通の内気な女学生なら、密かにファンになってしまいそうな格好良さだ。いやらしい下品な話も、まったくしてこないところがグッドだ。

 ……なにを言っているんだろう、私は。

 羽柴君が私に気を持ってくれているなんて、そんなわけないのに。そんなところがちょっぴり残念な私。

 も、もういいよね……忘れよう。うん。

 とにかく羽柴君は、あれからよりいっそう元気になって、よりいっそう元気に学校を休んでいる。先生に叱られたり、咲ちゃんに怒られたり、それでも羽柴君は泰然自若としていて、みんなを心配させて、自分はその中心で平気な顔をしていたりする。まぁ、元気ではある。

 時々、麟太郎君となにやら楽しそうに作戦会議とかをしているようなところを見かけると、仲間に加わりたくなる。恥ずかしいから、しないけど。

 そんなふうに、私たちは、なにも変わらずに、けれどちょっとずつ変わりゆく、とても自然な日常の中にいる。

 誰かを好きになったり、嫌いになったり、よくあることだ。

 でもみんなが心の中で抱いているのは、火影ちゃんや羽柴君の言っていたように、同じ、これよりどうしたら、もっと幸せになれるだろうか、ということだ。

 ときには失敗もする。恥ずかしい目にも遭う。でもそれでもいいでしょう。

 重要なのは、今の安閑にしがみついて、試練に立ち向かわないことを止めることだ。一時の快楽や安心ばかりを求めて、頑張ることを止め続ける。そんな甘ったれを憎むこと。

 恥ずかしい経験や、誰かからこっぴどく叱られた経験などは、自分たちが行動したという証拠なのだから、私は十分誇ってもいいことだと、ひそかに思っている。

 前に羽柴君が話してくれた、授業中の間でのことだけど。

 恥ずかしい目に遭ってもいい。つらい現実を背に積み重ねてもいい。

 でも自分の足で歩いていたい。誰かにおんぶされて、だっこされて、車みたいな、リニアモーターカーみたいなスーパー機械に乗って、一気に頂上にまで行っても、なにも楽しくない。楽しい振りをしているだけで、ひどく無気力だ。

自分の足で歩くからこそ、生きてるんだって実感できる。

 私たちは、それさえ知っていれば、なにが起きても、すぐ立ち直れる、タフさを持っていられると思うのだ。

 ああ、外は明るいね――。

 いい景色。目の先に見えるよ。

 

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