第4話

 僕は学校を休んだ。

べつに風邪をひいたわけじゃない。これはよくあることで、週に必ず一回は休むのだ。長く学校へ行くと、体力的にも精神的にも我慢ができなくなってくるから、自主休校ってやつだ。平たく言えばサボりだ。

 家族は知ってるけど、なにも言わない。そりゃ、最初は、戸惑ったり、叱ったり、喧嘩したりもした。けれど、僕はその度に家族に自分の気持ちを打ち明けてきた。なるべく正直に、自分でも手探りだったけど、嘘偽りなく、驕りも、正当化したい心も捨て去って、本当の気持ちを打ち明けた。だから、家族はそれで僕を信用してくれたのかもしれない。

 怠けているだけ、って言えば、そうだろう。でも、怠けずに毎日学校へ行って、心がねじくれてしまうよりはマシだと、僕は思っている。そうなるもんか、と僕を怒る人もいるだろう。でも僕は、心がねじくれるというか、歪んだ形になってしまうと思うのだ。そもそも、あんな狭い部屋に、四十人も無理やりに詰め込まれたら、普通、人間は、自分が人間だということを忘れてしまう。自分がただのモノだと勘違いしてしまうだろう。

 小学校のころはもっと楽しかった、いつからだろう、こんなに毎日が苦しくなったのは、と、僕は朝露の滴る草花を見つめながら思った。空気はちょっと湿っぽくて、ぼんやり温かかった。

 僕は祖父ちゃんと祖母ちゃんの、掃除機の音を聴きながら、自分の部屋をすこし整理した。漫画や文庫本の並んでいる本棚を整理して、プリント類の散らばっていた勉強机を綺麗にした。軽く床を雑巾で拭いて、その後にからぶきした。あと、ベッドの乱れもきちんと直した。

 みんなが学校へ登校していく時間、そして、朝礼が始まっている時間を、僕は時計を見て追った。その間も掃除を続けた。

 僕は昨日、麟太郎が「放課後に落ち合おうぜ」って言っていたことを思い出して、携帯を開いた。メールでいいかな。まっ、どうせ麟太郎の言いだしたことなんて、本人も忘れていることが多いけど、こっちが一方的に約束を破ったことになるのは、なんだか癪だったので、一応連絡を入れておくことにした。「学校が終わったら火影のところに来い」。

 僕は携帯を閉じる。

 午前中は少し読書をした。

泉鏡花の『夜行巡査』と『外科室』だ。

 泉鏡花は、その言葉の意味がすこし難解だが、作品の雰囲気がとても独特で、面白かった。とくに、『外科室』のラストのシーンは凄まじかった。とても壮絶な話だ。

 それから僕は、ちょっとの間テレビゲームをした。すこし前に買ったRPGゲームだ。でも、昨日の玲ちゃんとの遊びや、麟太郎とのいつものやり取りに比べると、とてもつまらなく感じた。途中で嫌気が差して、セーブするのも忘れて、止めた。

 下の階へ降りていく。とんとんとん、と木の床が鳴る。僕の部屋は二階だ。祖父ちゃんや祖母ちゃんがいるのは下の一階だ。

「あれっ、もう、お腹すいたの?」

と、祖母ちゃんが僕を見て目を丸くする。まだ十時半だ。そんなわけないだろ、と思いながら、僕は椅子に座った。

「ううん。茶のみに来ただけだよ」

「そっかー。じゃあ、ちょっとあたしもお茶飲もうかなぁ。はぁー、肩凝ったー」

 祖父ちゃんと祖母ちゃんは、毎朝、掃除、洗濯、買い物、ゴミ捨て、など様々な家事をしている。僕なんかとは違って、とても立派で働き者だ。

 僕は「手伝うよ」と言って、「えっ、いいよいいよ」「いいから。僕がやる」と、祖母ちゃんを制し、台所のほうへと向かった。

 慣れない手つきでお茶を入れる。緑茶。僕と家族がみんな大好きな。

 とぽとぽとぽとぽ、とポットから急須へとお湯が落ちていく。そして、湯気と一緒に芳しい香りが漂ってくる。僕はこのお茶を入れる瞬間が一番好きだ。心が安らかになる。

 僕は、二つの湯飲みを用意した。

 どうだろう。

「ありがとう」

 お祖母ちゃんは、僕よりもお茶を入れるのがずっと上手なくせに、そうやって素直にお礼を言ってくれる。安らかに笑って。僕は、すこし誇らしくなった。

「ふ〜」

 僕と祖母ちゃんは、テーブルに隣り合って座って、お茶を飲んで溜息をつく。

 正面には、窓から差し込んでいる五月の陽光。その窓の近くで、祖父ちゃんが新聞を広げている。「お茶を飲みません?」と言っても無駄だ。自分の好きなときにしか飲まない人だから、僕らは敢えてなにも言わない。仲間はずれにしているわけじゃない。

 僕はお茶を飲みながら、今日の予定を頭の中で思い描いた。

 今日は木曜日だ。明日一日は、金曜日だから学校があって、土曜日も確か、第三土曜だから学校があったはずだ。今日はもちろんゆっくり休むつもりだが、麟太郎には「火影のところに来い」と言っちゃったし、どうも、一日中家にいるわけにはいかない。っていうかそもそも、僕は実際ヒマで、勉強と読書以外にはすることもあまりないのだ。昼寝をして、フィーちゃんとずっと遊んでいるのもいいが……そもそもあいつはかなり気まぐれだから、自分の遊びたいときにしか遊ぼうとしないから困る。こっちがどれだけ「遊ぼうよ」と言っても無視してごろごろと豚みたく床に転がっているか、変な寝息を立てながら、目をかっぴらいて微動だにせず、不気味にこちらを見つめているかのどちらかだ。僕の相手なんかしてくれない。

 さて、どうするか。

 街へ繰り出すにしても、この僕の歳じゃ色々と問題がある。平日の真っ昼間から、ガキが堂々と街の中を闊歩していて、無視してくれるほどこの街の住人は親切じゃない。警察官からの説教は食らいたくないし、そうすると祖母ちゃんや祖父ちゃん、母さんにも迷惑がかかる。そういうのはなるべく避けたいところだった。

やっぱり……火影のところに行くっきゃないか。

「祖母ちゃん」

「ん?」

 祖母ちゃんはこっちを見てきょとんとする。

「僕、ちょっと休んだら、友だちの家に行って来るよ」

「あら? 出かけるの? ちょっと、いいの? 学校お休みしたのに」

 祖母ちゃんが目を丸くしている。学校を欠席しているわけだから、外出するのはまずいということだろう。

 でも、そんなの知るもんか。僕は頷いた。

「うん。行くよ。良くはないだろうけど。……この前行った友だちの家だよ。僕と似たようなやつだからさ、きっと今日も休んでるだろうし、会いたいんだ。行かせてほしい」

 祖母ちゃんは、「ふぅん」と言っただけで、あとはなにも言わなかった。体裁がどうとか、十分議論尽くされたことだからだ。

「あらぁ……それじゃぁ、何遍もお世話になっちゃうから悪いねぇ。電話の一本でも差し上げようかしら」

「余計なことだからいいよ。僕のほうから『よろしく』って言っとくから、それでいいだろ」

「余計なことじゃないでしょぉ……大事なことだよ。そうだ、この前斉藤さんにせんべいをもらったから、あれをちょっとつまんで持ってきな。なんなら一袋全部でも」

 そう言って席を立ち、棚を空けてごそごそとお菓子を取り出しにかかった。

「い、いいよ、そんなもん。あいつ、そんなの食べるかわからないし」

 僕はちょっと声を大きくして言った。

「そんなこと言うもんじゃないの」と、祖母ちゃん。「鐘ちゃんはなんとも思わないかもしれないけど、世の中はそういうもんなの。これはね、世の中のルールとして決まっていることだから、守ったほうがいいの。大人の言葉だと思って素直に聞いたほうがいいんだよ。ほら、持っていきなさい」

「……って、こんなに!?」

 祖母ちゃんは僕に山ほどのお菓子を持たせた。両手でかろうじて持ちきれるほどだ。こんなにたくさん、食べきれるのだろうか、あいつは……。そもそも、火影って、お菓子というものを食べるのか……? 人間じゃないじゃないか。

「お菓子なら、また買ってくればいいから、これも、これも、全部持ってってね」

 孫の友だちだからだろうか、祖母ちゃんは可愛くって仕方ないみたいだ。嬉しそうにたくさんお菓子を渡してくれる。って、こんなにたくさん、要らないんだけど……どんな友だちだと思ってんだよ。大食らいのデブかよ。

 僕はなんとか祖母ちゃんをなだめすかして、せんべい一袋だけにした。それでもかなり多いけど。

 軽く睡眠を取って、昼食を取り、僕は私服に着替えて出発した。

 かなり大人っぽい服を選んだから、僕を知っている人に見つからない限り、あるいはよく顔を見つめられない限り、大丈夫だろう。僕はようようと道楽通りを行く。逆にこそこそしていると、不審がられると思ったからだ。堂々としていれば意外とばれないものだ。

 この前と同じ順番で道楽通りを回り、火影の家にたどり着く。

 いつも思うんだが、ここは本当に不思議な場所だな……。空気がここだけ澄んでいるようにも見えて、柳の影が、古ぼけた印象を持たせながらも、清廉で、神秘的な雰囲気を形作っている。街の中から、一気に田舎のところへと来たようだけど、その雰囲気がどこか高尚で、オシャレなのだ。

 涼しくって、いい場所だ。

「おーい、火影―」

 僕は玄関に入って火影を呼んだ。さすがに、断りなしでずかずか入り込むほど、僕は図々しくない。

 ミュウちゃん、今日は来ないなぁ……。

その代わりに、数匹の見ない猫と一緒に、眠たそうな目をした火影が出てくる。またちゃんちゃんこ姿だ。年代物のジーンズを合わせている。色気もへったくれもない。もっとも、小さな女の子に色気を見せられても困るけど。

「やっほー。今日は、サボり?」

「うん」

 僕は土間を渡って、靴脱ぎ場で靴を脱いだ。数匹の猫が足にまとわりついてくる。

「ちぇっ……」

 もう見つかったらしい。僕は、火影の手にせんべい袋を渡して見せた

「これ、うちの家族から。火影へのお土産に、ってさ」

「え、ほんと?」

 火影が嬉しそうに受け取る。

「わおー、せんべい?」

「火影。こんなの食べるのか?」

「食べる食べる。おいしいじゃん。って、これ、なに、すっごく高級そう。おおー」

「……」

 ばたばたと座敷へ駆けていってしまう。僕は呆れながら、後を追った。火影、急に俗っぽくなったな。最近だんだん僕らの服装に似てきたし。存在の高尚さが無くなったよ。

 足下の猫たちが、標的のせんべいが出現したことで一層興奮し、足にまとわりついてくる。なんで、どうして僕なんだよ。ってか、この猫ってなんだよ。。いてくるてしまって、手で顔を覆った。うだ。陰ができて。

「おい、火影」

「なにー?」

「この猫たちはなんだよ。また新しいのが増えてるな。迷い込んできたのか?」

「んーん、遊びに来てくれたんだよー」

 火影は縁側のほうに出て、なにかをやりながら、僕のほうへ遠く声を返してきた。僕はそっちに向かった。

「お客さんだよ」

「お客さん……? この猫が?」

「うん。猫は、人間のお客さんよりよく来るんだよ」

 僕は目を見張った。

ミュウちゃんはいないが、虎猫、三毛猫、白猫、紫の上品っぽい猫と、盛りだくさん居る。

こんな日もあるのか。

「残念ながら、わんちゃんはあまり来ないねー」

「ふぅん」

 わんちゃんは来ないのか。それはちょっと残念だった。

僕が縁側に出ると、火影は苦笑いしながらお茶を用意していた。僕は灰色のジャケットを脱いで、たたんで床に置いた。

「猫たちに話はしてやらないのか?」

「話? しないよ」

「やっぱ、そうか」

 火影がこっちを丸い眼差しで見つめる。そんな視線に、僕はちょっとどきっとした。

「どうして、そう思うの?」

 火影が、妖しい眼差しで、僕をねっとりと見つめる。僕はちょっと驚きながらも、淡々として答えた。

「だって、猫には必要ないことだろう」

「ふぅん……」

 両眼が細められる。

はっずれー、はずれー、と思いっきり口で言われているみたいだった。

「当たり」

 僕は喜ばなかった。火影は、とぽとぽとぽ、とさっきの僕よりも簡単にお茶を注いで、せんべいの袋を開けた。ぱっきんぱっきん、と砕いて、破片を猫にあげている。

「でも、意味は全然違うよ。そこでは外れだよ」

「……どういうことだ?」

 火影はぱりっ、とせんべいにかぶりついた。

「……ふぁねよしふん、ははぁ」

「まず食えよ。食べながらなにか言うなよ。ばりぼりばりぼり……女の子だろ」

「やだ。あたしったら。こりゃ、失礼」

 わざとらしく口を押さえて、恥じらいの笑みを浮かべる。僕は半眼になってそっぽを向いた。片耳で美味しそうにせんべいを頬張る火影の音を聴く。ん〜、と恍惚とした声を上げて、お茶をずずず、と飲む。

 はあっ、と艶やかな溜息音。

「猫に小判、って思った? そうでしょー?」

「……」

 僕はしばらく黙っていた。

「そうだけど」

 不可解だったのだ。「違うのか……?」

「違わないけど、違っているというかねー……」

 僕はせんべい袋から一枚取って、ちょっとだけ猫にあげて、かじり付いた。横目で火影の顔を見つめる。

「ところでさー」

「?」

「『猫に小判』って、よくできた言葉だと思わない」

「……」

 あ。

 僕は、あることに気づいた。

「ねー?」

 火影がにっこりと笑っている。

 僕は、やっと、火影の言わんとしていることに気がつけたと思った。

「そうか。なるほどな……『猫には必要ない話』か」

「わかった?」

「ああ。うん」

 僕は柳の、さわさわさわ、と風に揺れる音を聞き、その揺れる影を見つめた。

 あれ、そういえば、猫たちって、こんなにも静かだったんだな。

「必要がないから、だめだというか、劣っているわけじゃないんだな……なにかが必要ないということは、それを必要としている存在より、ちょっと上等だということだ」

「そうだねー」

 僕は猫の頭を見つめた。

「猫……『猫に小判』。確かによくできた言葉だ。猫に小判という価値がわからなければ、人よりもはるかに幸せだ。ずっと自由で、ずっと幸せなんだ……」

 僕は手元の猫の背中を撫でた。猫は気持ちよさそうにじっとして、庭を見つめている。せんべいをぽりぽりと食べながら。僕の手を舐める猫の舌は、ちょっとざらざらしていて、妙に心地よかった。

 縁側には花が咲く。薔薇やライラック。たんぽぽ。皐月。それが儚げで、揺れる輝きを作る。

「猫はさ、人間が大事にしているものの価値が、なーんにもわからないんだよね。だから、話も要らないの。こうして一日、一緒に日向ぼっこしているだけで幸せ。だからあたしもそうするの。ああ、お茶が美味しいね」

 火影の水色の両眼が冴える。僕は、火影が入れてくれたお茶を飲んでみた。

うん、美味しい。なかなかやるな。

人間に与えられている幸せというのは、自分がどれだけ不幸か、そしてその上でどれだけ幸せなところにいるのか、理解する心が与えられているということかもしれない。僕はそう思った。

「鐘ちゃんも結構幸せ?」

「さぁな」

「あはは。平日の真っ昼間から、平気で人の家に上がり込んで、お茶を啜ってあぐらかいている学生に言う質問じゃなかったかぁ」

「……」

 僕は黙った。くっくっく、と火影が嫌らしく笑う。

「友だちとか、もしかすると寂しがっているんじゃないの?」

「……かもな」

 僕は、昨日一緒に遊んだ玲ちゃんのことを思い出した。一緒に遊んだ翌日に学校をサボってしまったら、もしかすると悪い印象を与えてしまったかもしれない。一緒に遊んだことがつまらなかったとか、もうついてくんなよ、とか、そういうメッセージに取られてしまったかも……くそ、メルアドでも聞いておけばよかったな。

 いや、別に玲ちゃんとメルアドを交換したいというわけではないんだけど……。

「悩める年頃、ってわけ?」

「誰が」

「いやー? でも……そうだねー、鐘美くんは普通の子よりはだいぶ幸せだろうね」

「……なんでだ?」

 僕は訝しがった。

 別に、僕は、前々から自分自身が不幸だと思ってはいなかったけど、同時に幸せだとも思っていなかった。そう言う火影の理由が気になった。

「だって、自分でもだいぶ、『幸せになる方法』を知っているみたいだから。まだ発展中だけど」

「……」

 僕をからかっているのか。そんな視線で、僕は火影の顔を見つめた。

「人は、どうやったら幸せになれるか、常に考えながら生きているの。その道を探して迷っているの」

「……」

「ある人は他人よりもその道を上手に見つけられて、ある人は他人よりも上手に見つけられなかったりするの。そして、鐘美くん、」僕は指を指される。「あなたはその上手なほう。よく生きてんじゃん。ははは」

 火影は朗らかに笑う。

「立派なほうだよ。まだまだ子どもっぽいけどさ」

「……それは、僕がもともと『幸福』だって、そういう意味なの?」

 もう僕は、火影のことを年下の女の子だと思っていなかった。突っこんだ質問をした。ここで、どう受け答えするかで、本当に火影が僕よりも賢いのか、そうでないかはっきりする。

 火影は首を横に振った。

「そうじゃないよ。もともと『幸福』か『不幸』かについては、生来の運のことを言っているんだね? それはそう。それはそれで、存在する。けれど、鐘美くん……あなたはそのどちらでもないし、多くの人間は、幸福でも不幸でもないの。中庸なの」

「……」

 ぽかぽかとした天気。僕は、ここに人生の真理が詰まっているように思えた。

 火影はその淡い水色の瞳を空に向けて、溜息をついた。

「人間はねー、生来の運だけしか、幸福を持つことができないわけじゃなくて、幸福を新たに作っていくこともできるんだよ。それか、あるいは、今まで不幸だったものを幸福なものに変えることもできるの。それが幸せの道ってやつだよ。みんなそうやって生きているの。でも、世の中にはその道を見つける人が上手な人と、下手くそな人がいてね、鐘美くん、あなたは結構上手なほうだから、良かったねー」

「……僕が、上手?」

 僕は、腑に落ちなかった。そんなわけがあるかよ。だったら、あれは……いったいなんだったって言うんだ。

 幸福でもないが、不幸でもない。それが僕の、今までの人生における素直な感想だった。そういう経験の連続だったのだ。それを全部、ひっくるめて、『幸福だった』だって? 馬鹿言え、寝言もたいがいにしろ。べつに同情欲しさに言うわけじゃない。けれど、僕は今までの人生を不幸だったとは思っていない。けれど、『幸福だった』とも思えないのだ。あれが、幸福なことであるわけが、あるだろうか……。

「鐘美くん」

 火影は、その半眼で、僕をじっと見て、うっすらと笑った。

「あなたは、幸福者だよ。間違いない」

「……」

 僕は、そんなものは間違いだと思った。

 けれど、反論したくはならなかった。今の火影には。なんとなく、尊敬する気持ちも芽生えてきていたし、そもそも、他人から幸福ですよ、と言われて、逆に怒り出すのはどこか間違っていると思ったからだ。それもそうだけど、それよりも――うまくいえないけど――火影の言い方に、一種の不思議な優しさを感じたからだ……。からかっているのではなくて、皮肉っているのでもなくて、祝福して、認めてくれているようだったから……。だから僕は、微笑みは浮かべないまでも、不機嫌になって怒り出すことはなかった。

 ああ、お茶が美味しい。

「……麟太郎と、ここで待ち合わせをしたんだ。今日」

 僕は出し抜けに言った。火影はからからと笑う。

「ひとんちを、勝手に待ち合わせ場所にしないでくれるかなー」

「べつにいいだろ。会えなくて寂しがってるって言ってたし、お土産のせんべいも食えたんだから」

「うんっ。最高♪」

 まったく、と僕は呆れる気持ちになった。

 せんべい一つで幸せになれるんだったら、火影こそこの世の中で一番幸せなやつだ。あー、馬鹿にされた。やだやだ。

「ふ〜む」と、思考中の火影。

「もうそろそろ学校終わる時間だねぇ」

「そうだな。今日は、六時間授業だから、いつもより早い。ひょっとしたらもうHRかもな。……っと、」

 僕は、麟太郎からメールの返事が来たかを、確認するのを思い出した。携帯のふたを開ける。

 すると、メールの着信が一件来ていた。ずいぶん前だ。

『おまえ、』

 と、僕は出だしを見ただけでちょっと凍り付いた。

『おまえ、馬鹿じゃねー?』

 頭が固まってしまった。なんだと、くそ、と怒り出すことも忘れた。

『空気読めねぇのもたいがいにしろよな。ったく、馬鹿野郎、花咲ちゃん、すっげぇ気にしてたぞ。なにやってんだよー、こんなときに休むなよ』

 僕は動揺した。玲ちゃん? あいつに、そんな殊勝な心が本当にあったのか? むむ……メールにはまだ続きがある。

『取りあえず、わかった。学校終わったらそっちへ行くけどよ、花咲ちゃん、そっちへ連れてっていいか?』

 僕は息を呑んだ。

『かなり気にしてんだよ。もしだめだったら、早めに連絡くれ。じゃねーと困る。すげぇ困る』

 メールはここで終わっていた。

 霧島さんよりも……玲ちゃんだったのか。僕のことを気にしていたのは。

 それは、なんだか……いやいや、うむぅ……困るな。背中がむず痒くなってくるというか……お腹の底がふわふわするというか……うむぅ。こんなときに、「うむぅ」としか出てこないが自分に、腹が立った。くそ、どうすれば……。

 頭を抱えてうんうん唸っていると、横から火影に尋ねられた。

「なにかあったの?」

「……いや、なにも」

「ほっほっほー」

 妙な笑い方をされる。僕は目を剥いた。

「いやー、幸せだねぇ」

「なんでだよ」

「いや、だってさ、ほら、」

 火影は座敷に寝転がっている猫を指差して、それから、僕に手を向け、最後に、庭と空を指差して見せた。

「こーんな光景が、幸せ、って言うの」

「……」

 僕は、手元の、冷めているお茶を見つめた。

それから、太陽の匂いも感じた。服が熱を吸ってぽかぽかと温かかった。猫は伸びをして、寝っ転がって、すやすや寝息を立てていたり、あくびをしていたり、毛づくろいをしていたり、じゃれ合ったり、なにもしていなかったり。

 空気が良かった。きっと玲ちゃんは、……泣いているか、怒っているか、どっちにしろ困るが、どっちかだろう。

 謝る気は毛頭にないが、ちょっと、良くないことをしてしまった。僕は、もう手遅れかもしれないと思ったけど、携帯のメール文を操作して、麟太郎に『一緒に連れてこい。こっちは今火影の家にいる』と伝えた。そして火影の顔を見る。

 火影は鼻眼鏡を取って、布巾で拭き、空にかざしていた。ん〜、と片目を閉じて、なにが見えるのか、どうせなにも見えないだろうが、熱心に空なんかを見つめている。僕と目が合うと、にやり、と口を歪ませた。

 その妙な笑みの真意は、僕は一向に知らない。

ひょっとしたら火影は、メールの画面を横から見ていたのかもしれない。

玲ちゃんは固まった。僕と、僕と一緒にいる火影の姿を見て。

 その、火影の常人離れした容姿に惹かれたのかもしれない。あるいは、恐れたのか。

 どっちにしろ、ここに初めてやって来た客人には共通の現象だった。

あの麟太郎も、お化けかなんかだと喚いたものだ。実際火影は人間じゃないけれど。

「……鐘、ちゃん」

「やあ」

 僕は座敷に座ったまま、玲ちゃんに軽く手を上げる。私服姿の僕と打って変わって、玲ちゃんは昨日のままの、制服姿だ。足が短くて、細くて、まるで中学生のようにも見える。

「……」

 それから玲ちゃんは、火影のほうへと視線を移した。

「……」

火影は玲ちゃんが口を開くのをずっと待っていた。挑発しているような、探っているような、かすかな笑みを口に宿して。半眼で、じっ……っと。

 玲ちゃんはまだ戸惑いの視線を向けていたが、相手が自分と同じくらいの歳であったからか(べつに玲ちゃんは高校生だけど)逃げ出しはしなかった。これがもし、大人の女性の姿だったら、麟太郎か、僕か、壁の背中にでも隠れていたことだろう。

「この子、火影ちゃんな」

 そうしていると麟太郎がずいっと前に出てきて、火影を指差した。

「で、こいつ、花咲ちゃん。花咲、玲」

「よろしくー」

 にっこり、と、貼りつけたような笑み、火影。

 玲ちゃんはまだ戸惑いながらも、ぼそぼそと、よろしく、と言った。目を伏せながら。

 それから座っている僕のほうへと視線を移すと、口を横一文字にして睨みだし、つかつかと歩み寄って、僕の前にその渋面を向けた。

 しゃがみ込んで、すこし息を吸った。

 そして、

「きらい、馬鹿」

 急にこんなことを言われた。

「はしばなんか、大っ嫌い」

「……え?」

 ほんとに、「え?」だよ。僕は固まってしまった。頭の中が真っ白になった。

 玲ちゃんはそれから僕を無視して、火影のほうに歩いていった。

「あの、あなた……」

「あたし? 火影ちゃんだよー。あ、でも、この『火影』っていうのは実はこの人たちがつけたニックネームで、本名は『ミュウちゃん』って言うの」

「……ミュウちゃん?」

「えっ、それ、猫の名前じゃなかったか?」

 麟太郎がすかさずつっこむ。空気の読めないやつだ。ちっ、と火影が舌打ちをつく。僕はそんな麟太郎に、小声で「麟太郎」と呼びつけ、手招きをした。麟太郎は訝しそうにしながら、僕の方へ歩いてきて、隣に座り込む。

「……ちょっと、どういうことだ?」

「あ?」

「……玲ちゃんだよ。おまえの話とだいぶ様子が違うようだが。おまえの話では……その、ほら、僕に……」

 好きとか、好きでないとか。それは僕の妄想だったが、そうでなくても、怒っているのか、それとも……と、言おうとして、別に言ったとしても、今の状況とそう変わらないことに気が付いた。

 ああっ、もどかしい。麟太郎が目を丸くする。

「だから、見ての通り、怒ってんだよ」

「それでも、どこが違うだろ……おまえの話じゃ、もっとこう、イメージが異なるというか、なんというか、可愛いようなイメージだったんだが……」

 もにょもにょと言葉を濁してしまう。うわ、なんだ、これ、顔が熱くなる。なに言ってんだ僕は。馬鹿か。

 そこまで話が突き進むと、麟太郎の馬鹿でもようやく掴めたようで、「うーん」と腕を組むと、僕に言った。

「ツンデレってやつじゃねぇのか?」

「デレがどこにもないだろ、どこにも」

「そりゃおまえが悪いんだろ。元々あったデレ成分を、おまえの馬鹿でツン成分にしちゃったんだよ。今は、オレのほうにこそ、デレを向けてくれているね」

「え、まじ?」

 衝撃的だった。心臓が口から飛び出そうになったほどだ。

 僕と麟太郎がこそこそ話をしていたのが気になったのか、玲ちゃんが疑うような視線でじっとこっちを見ている。火影とは、意外や意外、すぐに打ち解けたようだ。

「ミュウ、って、猫の名前だったんじゃん。でも、火影のほうも変な名前」

「あたしとしてはミュウちゃんのほうが好きなんだけどもー」

「ねえ、それよりほら、麟太郎たちが……」

「んー?」

 火影は、最初から気づいていたくせに、カマトトぶって知らない振りをする。目をぱちぱちと瞬かせて、「あーやしいー♪」と、口をにんまり。玲ちゃんは面白そうな顔ではなかった。

「なに話してるの」

「いやっ! な、なんというかだな、今日、学校であったこととか、報告を……」

 僕は振り返って愛想笑いを浮かべた。言い訳だ。うわー、なんだこれ、冷や汗が背中のほうからたくさん出てくる。

「そう、はしば、あのさ」

 玲ちゃんがさらに怒ったような顔でこっちに詰め寄る。でも、その顔には、僕を軽蔑するような意図は消えて、若干説教するような趣があった。

「どうして、学校を休むの」

「いやっ! べ、べつにこれは……」

 あー、という眼差しを麟太郎からもらう。馬鹿の麟太郎も、こういうときだけは冷ややかだ。

「別に、玲ちゃんが嫌いとか、そういうわけじゃないんだけどさ……」

「は?」

 玲ちゃんはきょとんと、丸い瞳。

「違う、馬鹿」

「はいっ!?」

 さらに冷たい。僕は極寒の雪空の下に、裸で投げ出されたような気分になった。

「あたしが聞いてるのは、はしばが、どうして、元気なのに学校を休むのか」

 僕は固まった。

「それを聞きたいの」

 冷や汗は止まったけれど、今度は代わりに心が、闇の泥沼の中に沈んでいくような心地になった。

 心配をかけているのに、僕はなんだ、今の玲ちゃんからすごく逃げ出したい気持ちになっている。そんな自分が、ひどく矛盾しているように見えて、嫌気が差した。

「どうして、って……」

 僕は答えられない。どうしてもなにも、主立った理由なんかないからだ。

 ああ、そうだ。理由。理由だ。理由はなにか、と聞かれて、探せばいくらでも見つかるけれど、そのどれもが、本当の理由なんかではないのだ。

 自分でもわからない。ただのサボり癖、ってことかもしれないし、かといっては、あの、「学校」という空間が、しきたりが、制度が、僕にとって特別に嫌気が差すものであるという事実もあるのだ。

 平たく言えば、僕は、あの「学校」というやつが、たまらなく嫌になるときがあるのだ。

 それは、いつも感じていることだし、その感情が膨らむにつれ、僕はだんだん学校にいられなくなる。

 普段は麟太郎と一緒にいて、つまらないことにもいちいち気を立てて、楽しいと言えば楽しいが、「学校」そのものは、まだ、たまらなく嫌なのだ。

 勉強自体も嫌いじゃないし、どっちかというと好きだ。人生に必要なことだとも思っている。でも、僕は、あのミカン箱のような狭苦しい空間に、嘘の連鎖や、つまらないプライドの張り合いや、駆け引きや、くだらない勝負意識や、競争意識や……本来巻き付ける必要のない「鎖」を、わざわざ自分の体に巻き付けて、間違った方向へ進んでいく「濁った雰囲気」が、渦巻いているような気がしたんだ。僕はあの場所に長くいると、だめになる。そう思ったんだ。

 だから逃げだそうとした。濁った空気から、逃げだそうとしたんだ。

 あれ、そう思うと、僕は、結局なにも変わってないんだろうか……。

「鐘ちゃん?」

 玲ちゃんの心配するような声に、僕は、ふっと現実に呼び戻された。

 顔を上げると、玲ちゃんの驚いたような顔が正面にある。

 僕は、なんとなく、同情を誘っているようには見られたくなくて――、ぶっきらぼうに言ってみた。

「面倒くさい。ただ、それだけだよ」

「……」

 これは、僕が、よく友だちに使っている言い訳だった。

 同情なんてしてほしくない。僕は、しっかりとした、一人前の人間にならなきゃいけないんだ。誰にも縛られない、独立した人間になるのだ。

 そうしないと……だめなんだ。いつまで経っても、あのことから逃げられないんだ。

「面倒くさい、って……」

 玲ちゃんが信じられない、といった顔になる。

「まま、ここはほら、」

 火影が唐突に声を上げた。

「あたしのお話でも聞いて、二人とも落ち着いてよ」

「……話?」

 玲ちゃんが訝しげな顔をしている。

 そうだ、火影は「お話」をする存在だ。

それが火影のやるべきことで、僕が最初にここに来たときも、そのとおり、「お話」をしてくれた。

 火影はなんでも知っている。よく知らないことも知っていて、即興でその人に合った「お話」を作る。

 一見僕らに関係ないようだけれど、深く考えてみると、実はどこにでも繋がっている話で、よく身に染みる、寂しくて、美しい、暖かな夕陽のようで、ひぐらしの鳴き声のようで、澄んだ朝の霧のような……そんな、お話。

「お話って、なんなの?」

「火影は、僕らによく『話』をしてくれる」僕は話し出した。「とくに関係もなく、お茶を飲みながらの、微妙につまらない喜劇話のときもあるけれど……」

「今回は、あのヴェルディの続きだろ」

「ヴェルディ?」

 玲ちゃんはさっぱり意味を掴めないようだった。意を掴んだ火影が、大ざっぱに説明してくれる。

「ヴェルディっていうのはね、不老不死になっちゃった人でね」

 また、なっちゃった、だ。

「死にもしないし老いもしない体になったヴェルディは、その能力を認められてある一国の王さまになるんだけれど、最後には、たった独りぼっちになっちゃうの」

「……」

 独りぼっちになる、男の子の話。

「誰も自分の気持ちをわかってくれない、人だけど人でないような、そんな、寂しい男の子のお話なの」

 火影は、たっぷりと間を置いてから、意味深長に玲ちゃんに問いかけた。

「聞いてく?」

「……」

 玲ちゃんは黙っていた。

けれど、僕らの顔を見回して、目線だけで言ってきた。

すなわち、「どうするの」と。

僕らの決定に委ねるというだろう。僕は手を、あぐらをかいた膝の上に置きながら、まず玲ちゃんの顔を見、それから火影の顔を見て、言った。

「聞いてくよ」

 元よりそのつもりだった。麟太郎を呼んで、ここで二人して聞くつもりだったのだ。

「じゃ、そこに座りなよ」

 火影が僕と麟太郎を指差し、その間に座るように言った。玲ちゃんがちょっと戸惑いげに頷いて、僕と麟太郎の間に収まる。体育座りだ。僕はあぐら。麟太郎は膝を立てて、若干壁にもたれかかるよう。

 火影は、麟太郎と玲ちゃんの分もお茶をつぎだして、こう言葉を紡ぎ始めた――。

「それでね、国を抜け出した後――、」

 

 

 続 雷の塔の話

 

 ヴェルディは、王国を抜け出すことに、成功しました。

巡察に出るという名目で、王国を出、引き連れてきた部下の騎士たちを、山奥で皆殺しにしました。その方法というのも、密通していた山賊たちに自分たちを襲わせるというものでした。ヴェルディは自分の部下たちが全滅していくのを見届けた後、打って返して、山賊たちを全滅させました。

剣を捨て、裏切られた山賊たちから服をはぎ取り、鎧を脱ぎました。

「これで、」

 丸い月を見上げながら、ヴェルディは言いました。

「これで……私は逃げ切れた。王という役目から、その身を、いくつかの犠牲を伴いつつ、滅ぼすことで……」

 ヴェルディは、森へ分け入りました。

 できるだけ、遠くへ行こうと思いました。自分の名や顔が知れ渡っていない、とても遠い国へ。

 そのためには、まず、名を変える必要があると思いました。

 サン――、サン・ニーザ。ヴェルディの頭には、そんな名が思い浮かびました。

 白く照りつける、銀の砂が降りかかるような月光夜。それとまったく対照的な名前を思いついたヴェルディは、ちょっとばかり意気揚々として、けれどどこか寂しく、森を抜け出し、山を登り、くたくたになりながら、反対側の国へとたどり着きました。

 その国で、ヴェルディはまず、持っていた金銭でまともな旅装を整えました。山賊たちの着ていた服は、どうしても不審に思われがちだったのです。ヴェルディが新しく纏ったのは、決して華美ではないが、とても実用的で、温かい、質の良い旅装でした。

 それからヴェルディは北の方へ向かいました。雪が降る国で、人通りの多くないところがよかった。けれど春にはちょっとばかりの花を咲かせ、夏にはちょっとした水浴びもできるような、子どもがたくさんいて、老人が多い、のんびりとのどかなところに行きたいと思いました。

 道中では様々な人とすれ違いました。そんな人々は、ヴェルディにとても、人間らしく接してくれました。ヴェルディはすこし感動しました。食べ物を分けてくれたり、一人旅を心配してくれたり、情報を交換してくれたり、こちらと物を交換してくれたり。ですが中には、ただ食料をねだってくるだけだったり、襲ってきたりさえする輩もいました。

 女の旅人と一緒になることもありました。女の旅人はとても珍しいものでした。

「あなたは、」

 その女性は、イーレン・ジーと名乗りました。

「きっと高貴な人ですね。素朴な格好をしてるけど、わかりますわ。なにか事情でもおありなんでしょう」

 そうやって男のように言うイーレンも、なかなか身分の高そうな佇まいでした。

「私は、とある豪農の一人娘です。父が地主で、金持ちでしたので、私は昔から何不自由ない生活をしていました。このしゃべり方は、文学を読んで勉強しました。まだ垢抜けてないかもしれませんが」

 確かにちょっとだけおかしなしゃべり方でした。しかしヴェルディは、そんなイーレンの素朴さに、微笑みを浮かべました。独り者で、平凡な生活から離れてしまった人間には、平坦で素朴な生き方をしている人間が、とても輝かしく見えるものです。

「私は、サン。サン・ニーザ。私のことを、受け入れてくれるところを、探しています。言うなれば、どこかの市民権を得たく、旅をしているのです」

「なるほど」

 ヴェルディは、身分を隠すために、もっともらしい理由をでっち上げました。しかし、まんざら嘘でもありませんでした。

 イーレンはその明眸なる瞳を、すこしも曇らさず、合いの手を入れました。

「それならば、私も一緒です」

 イーレンは、凛とした顔で言いました。

「父のケルビィは、私を、有力な貴族の若様と結婚させようとなさいました。名も知らない、顔も見たことがなかったお方です。しかし私は、父を愛していましたから、できるだけ、我が意を出さずに、父の言うとおりにしようと思いました。好きになる努力もしてみようと思いました。ですが、そのお方と相対してみたとき、私は、やっぱり嫌になりました。怖じ気づいてしまいました。それで、おずおずとながらも、その方と話をしてみるうち、その若様も私と同じで、結婚には不本意であることに気が付きました。両親が、子どもの結婚相手を決めるというのは、もう古い話。物語の中だけのしきたりでございます。そういう理論で武装をして、私たちは両親(りょうおや)を説得しようと試みました。しかし上手にいかず、私たちは、それぞれ家を出させられる羽目となりました。そのために、こうしてたった一人で、旅を続けているのです……」

 イーレンは、だんだん声に感情がこもってきて、つい、涙を片側から一筋垂らしました。

「あ、やだ、失礼」

 目を閉じながら、そうは言うも、イーレンは涙をふき取ろうとしませんでした。

 ヴェルディは、一つ、感じたことがありました。

「イーレン、殿」

 イーレンは、どことなく凛としていて、女ながらも一角の騎士のような風采なので、ヴェルディは敬意を込めて、「殿」と最後につけました。ですがその声は女性を気遣う、優しげなものがありました。

「その若様は、その後、どうなさったのですか?」

「別の道へ行ったと聞いております。というより、最後には会えませんでした。私より先に家を出させられたもので。手紙のやり取りで、最後に『もっと父を説得してみよう』と意気投合したのが二ヶ月前で、彼は、それから南のハーネス地方へと向かったようなので、私は彼と逆のほうへ向かおうとしました。そうして、今、ここに……」

「……」

 ヴェルディは一息ついて、腕組みをしました。

 ぱちぱち、と焚き火の熾る音がします。後ろの木々には、長く、二人の影が伸びています。

ヴェルディは、先ほどまでは、話を聞き終わったら火が消える前に彼女より先へ行こうと思っていました。なんとなく女の旅人と一緒に夜を明かすのは、憚られました。イーレンとは良き友だちでありたいと思ったのです。

しかし、まだ、一つ仕事ができることを知りました。

「イーレン殿」

「……はい」

「戻れるなら、戻りませんか」

「?」

 イーレンは、不思議そうに目を丸くしました。なにを言っているのかわからないといった風采でした。

「もうその若様は故郷におられないのでしょう? で、あれば、家に戻っても問題がないはずです。お父上の前に膝をつき、許してもらいましょう? どうして、あなたが、故郷に戻ることを妨げる理由がありますか? 故郷を離れる意味はもうありません」

「……そんなことは、ないわ」

「イーレン殿」

 ヴェルディは、彼女にまた優しい言葉をかけた。

「みんな、いつか帰るところがあるのです。どれだけ意地を張っていても、やがては、それも無になります。帰ることができれば、虚しい意地の固まりは消え、またあなたの魂は生き続けられます。ご説得しましょう。ご両親を。一度失ったことがあるあなたなら、彼らの言うこともよくわかるはず。慎み深く、彼らの言い分を聞けるはず。その上で、敢えて、またもう一度、彼らを説得するのです。やや譲歩しながら説得するのです。人を説得するならばそうでなければなりません。相手を思い遣ってください。そうすれば、必ずうまくいきます」

「……」

 イーレンは顔を伏せていました。膝の間に顔をうずめ、長い髪でそれを隠し、思い悩み、悩み、涙を流しました。

 ヴェルディは食料を出して、簡単なスープを作って、イーレンの体を温めてあげました。そして、自分が一晩中、火の番をすると買って出ました。イーレンは、それを遠慮しつつも、悩む時間がひとつ必要と見え、すんなりと、ヴェルディの厚意を受けることになりました。

 毛布を被って、イーレンは眠ります。

 ヴェルディは、日の番をしつつ、ある旅人から譲ってもらった本を読んだり、思索をしたりしながら、一夜を過ごしました。

 翌日になると、イーレンは、また元の凛とした顔のまま、きっぱりと言いました。

「帰ることにします」

「そうですか」

 ヴェルディは微笑みました。

「それがいいでしょう」

年の功を感じさせない、実に若者らしい微笑みでした。

 朝露のまだ残る中、霧が漂い、森の澄んだ空気に草花の声が香る中、イーレンはいそいそと旅装を整え、昨晩の礼を述べ、出発しようとしました。ヴェルディとは逆の、南の方へ。

「一つお聞かせ願えますか」

「なんですか」

 ヴェルディもゆったりと旅装を整えながら、イーレンに返事をしました。

「ニーザさん。……あなたは、昨晩私に、みないつか帰るところがある、とおっしゃいました。ですが、あなたはまだ旅を続けています。あなたの帰るところとは、いったいどこなんですか?」

 旅をこのまま続けるなら、それは無い、ということです。イーレンはそれをすべて知った上で、その質問をしているのです。

 それはつまり、あなたはどうしてまだ旅を続けるのか、という意味に他なりませんでした。

「私は、」と、ヴェルディは朝寒の空気に喉を通わしながら、言いました。

「私は、いつか帰るところとの繋がりを、断ち切ってしまったのです。自らの手で。それとは知らずに。ですから、私にはもう帰るところがないのです。帰りたくても帰れないのです。説得する相手も、もう誰だかわかりません。無限の群衆のようで、この世界全体のようです。もう帰ることなどできないのです。それは、誰もが同じく、時の流れに逆らい、あの楽しかった、幸福な、子ども時代に帰ることができないように……」

「……」

 イーレンは凛とした顔で聞いていました。ちょっと詩的な、哲学じみた言い方でしたが、イーレンは真面目に聞いていました。やっぱりイーレンは農家の娘といっても、余程教養が身に付いた人だったのでしょう。

 イーレンはヴェルディに、ほのかな笑みを向けました。

「それでは、」

 ヴェルディの思ってもみなかった答えを言いました。

「あなたは、これからその『帰るところ』を探しに行くのですね」

「え?」

 ヴェルディは一瞬呆けてしまいました。

「それでは」

 イーレンはヴェルディの返事を待たずに、元の凛とした顔のまま、颯爽と去っていきました。

 南へ。いつか帰るところへ。

 両親のいる故郷へ。

 ヴェルディは改めて、自分の姿を眺めてみました。

 ほのかに希望が持てるようになっていきました。

 今までひどい闇の泥の中にいたのが、今はようやく、その体にこびり付いた汚れを、森の露ですこし洗い落とせたようでした。数々の罪を。悪行を。裏切りを。それらをすこし善いものへと変えられ、ヴェルディはすこしだけ幸せになりました。

 ヴェルディは、北へ行く道を探しました。

 

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