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第3話
僕はヴェルディのことを考えていた。
どれほど寂しかったのだろう。僕が考えていたのは、ヴェルディを知っている人が全員いなくなってしまったことではなくて(もちろんそれも少しは悲しかったけど)、彼の苦しみが誰にも伝わらないことだった。彼があんなにも一人で悩み、苦しんでいるのに、周りの人間は彼のことをいまだに超人だと思っているあたりが、よくよく考えてみると、ぞっとするぐらい怖くなり、また同時に憎たらしくもなるのだった。
身支度を整え、僕は、学校へ行く準備をする。
玄関を出て、フィーちゃんに挨拶をする。フィーちゃんは、僕の家で飼っている犬のことだ。正確には、僕の家ではなくて、母さんの住んでいるアパートの犬なんだけど。
フィーちゃんは眠たげな眼差しで制服姿の僕によたよたと近づくと、「フグフグ」と、豚みたいに鼻を鳴らした。……譬えが悪かったかな。豚みたいって言うと、とても愚かな生き物に見えるかもしれないけど、実際にフィーちゃんはすごく可愛くて、キューティなんだ。近所にも大評判で、その鳴き方にもツボにはまると神秘的な楽曲のように聞こえて、心がときめいて健やかになるんだ。僕はフィーちゃんをこの世でもっとも高等な生き物だと認識している。
僕はフィーちゃんの頭をひとしきり撫でてやると、もう一度実家へと戻った。祖母ちゃんと祖父ちゃんに「行ってくる」と挨拶して、登校していった。
ヴェルディには、こんな安らぎの時間は無かったのだろうか?
いや、わからない。もしかしたらあったかもしれないし、なかったかもしれない。ただ、僕とヴェルディの決定的に違うところは、背負っているものの大きさと、体を縛っている鎖の固さだった。
現実にはよくあることだ、自分の苦しみを誰にも理解してもらえない、ということぐらい。
この世の中がしっかりと運営されていくには、必ずヴェルディのような哀れな生け贄が必要なのだ。周りの人間は、ヴェルディを超人だと思うことで生活の安定を得ている。でもいいじゃないか、もっと想像力を働かせてみろ、馬鹿野郎、とその馬鹿たちに言ってやりたくなるぐらい。
じゃあ聞くが、自分だったら、ヴェルディのことをもっと気遣ってやれるのか? と反問する声が自分の骨から返ってくる。できるさ、と反論してみるが、実際には難しいかもしれない。想像力なんて無くたって罪にはならないんだもの。罪じゃなかったら積極的に身につける人間なんていないさ。
僕はなんだか気分が悪かった。そうして足を急いだ。
その途中で麟太郎と出会う。
「おーっす」
「ああ」
僕は低い声で挨拶した。
元気ねぇな、と思われたのかもしれない、肩を並べたときに、麟太郎が心配げに僕に声をかけてきた。
「どうした、鐘?」
「どうもこうもしない。三日続けて学校に行くとなると、気分がすこし鬱だと思ってね」
僕はとっさに誤魔化しの文句を吐いた。べつに間違っているわけじゃないけど。
「そういやぁ、もう今日で三連勤だよなぁ。オレもここに来るとき、鐘に会えるの五十パーセントぐれぇだと思ってたんだよ。ラッキーだったぜ」
「五十パーセントって、意味、わかるのか?」
「そこでそんな驚いた顔されても!?」
ああ、やっぱりいつもの麟太郎だった。僕は麟太郎と話すと、若干気分が回復してくるのだ。
「ったくよー、おまえ、このまま同じペースで休んでたら、また出席日数足りなくなるぞ? それに休んでたんじゃ、ずっとクラスから怖がられたままじゃねぇか? いいのかよ?」
「……」
僕は目を逸らした。
「仕方ないさ」
霧島さんと麟太郎は、よく僕のことをこうやって怒る。
「仕方ないって、なんだか深い事情があるやつみてぇに聞こえるけどよ、要するにただのサボりだろ? 羽柴のやつ、ぜってぇヤンキーだ、不登校生のオタクには見えねぇし、間違いねぇ、って噂してるぜ? 高校デビューくんたちからよ」
「あんな最低の奴らからは、そんなふうに思われていたほうが気が楽なんだよ」
麟太郎は肩すかしを食らったような顔をした。「ふーん?」と、まるで呆れたような返答をする。そうして登校途中のカエデ並木を見上げた。
僕がクラスにとけ込めていないのは、様々な要因がある。僕がクラス中の人間を嫌っていることと、そのためにあまり学校へ行っていないことが主なそれだ。
麟太郎が言っている「高校デビュー」とは、要するに、中学校時代ではあまり目立つことのできなかった人間が、よせばいいのに、人間関係が綺麗に一新するこの高校時代を大いに利用して、華々しく不良としてデビューを飾ろうとする現象のことだ。僕はこいつらをかなり嫌っている。麟太郎がどう思っているのかまではわからないが、同時に良い印象を抱いていないというのはわかる。
だって見え透いているんだ。やること為すことのすべてが。教師のいないところでは散々教師の悪口を言うが、教師が現われるとすぐに氷像のように固まってしまう。それだけ度胸があるなら他校に喧嘩でも売りに行けばいいのに、それもしない。学校がだるいなら休めばいいのに、それも結局しないで、必ず二言目には、「お母さんがうるさい――」「お父さんが怒るから――。」馬鹿か? なんの役にも立たない、口だけ達者のクズ野郎。なんのために生きてるんだよ。全員いなくなってしまえばいい。そんな馬鹿野郎たちの挙動すべてが、僕にとって不愉快で、気持ち悪いものなんだ。
要するにあいつらは、あまり学校に来ていない僕を、本物のヤンキーかなんかだと勘違いしているんだろう。不登校生には見えないし、かといって、いじめられてるふうにも見えない。サボり、イコール不良、だなんて単純思考もいいところだが、良家で大事に育てられてきたお坊っちゃまには、もうそれだけで十分常軌を逸脱した行為なのだろう。なにからなにまで腹が立つんだよな。ああ、くそ。
もし奴らに不良だと思われているなら、もうそれでいい。関わってほしくないんだ。目に入れたくないんだ。
でも、なんでだろう。どうでもいい、関わりたくないというわりに、こうしてあいつらのことを考えると、心がざわついてどうしようもなくなるのは。一度ぶん殴ってやらないとどうしようもないくらい、血が沸き立ってくる。
僕は胸がむかむかした。
「麟太郎」
「お?」
「……」
なにを言おうとしたのだろう、僕は。麟太郎の顔を見るとすぐに、溶けて消えてしまった。
麟太郎が不思議な顔をしている。
「んだよ、鐘?」
「……麟太郎って、不良のグループだったっけ?」
「おうよ! オレは、なにを隠そう、天下無双、天下無敵、最強最悪の竜童寺麟太郎様だぜっ!」
びしっ! とまるで映画のヒーローのようなポーズを取る。自分で「最悪」という人、初めて見たよ。
不良という生物も、これくらい素直にやられると可愛げが出てくるものだった。不良をなんかのアクションヒーローと勘違いしているのだろうか。僕は心が安らかになった気がして、麟太郎を見てけらけらと笑った。
「馬っ鹿だなあ、麟太郎」
「へっ、馬鹿は不良の代名詞、ってな! 鐘美もそう思うだろ!?」
「なんの名言だよ、それ? 僕は不良じゃないからわからないな」
「そう言うなよ! 不良の友達もまた不良っていうしさ! というわけでお前も今日から不良の仲間な! なんだよ、っていうかそもそも、鐘はすでにクラス中からそう思われてんじゃんか! いいなぁ!」
「……なんか、麟太郎にそう言われると不良と思われるのも悪い気はしないが、事実は否定したい」
そもそも不良というのはいったいなんだ? なんの社会貢献をしているんだ? 僕はなににたいして怒っているんだろう?
「おまえがどう思おうと、オレはこの際おまえを味方につけてのし上がるぜ! よしっ、まずはクラスの中から制圧だ! ガキんちょの口だけ野郎どもをけちょんけちょんにやっつけて、クラスの支配者になるぜ!」
「あっ、おい待てって! 僕を巻き込むな!」
腕を引っ張られ、駆け出す。
どうしてだ。
他の連中のことを見ると、嫌で嫌でどうしようもなくなってくるのに、不良という言葉さえ嫌になってくるのに。
僕は、麟太郎ならいいって思える。
麟太郎なら許せる。こんなに心が綺麗なやつなら。
不良、不良、って馬鹿みたいだ。でも僕は、そんな麟太郎のことを、自分の一番の親友だって、高らかに叫びだしたかった。
ここで真っ正直に伝えたかった。でも恥ずかしいからそんなこと言えないけど、麟太郎がつくと、途端に、その他のクラスメートたちも、少しは優しい目で見られるようになるのだ。
麟太郎の計画は開始数秒で頓挫してしまった。
「……怖くね?」
「すごく簡潔な感想をありがとう。読者もきっと全員納得したよ。素晴らしい結果報告だ」
「だぁ――――ってよぉ! どうしてあいつら、あんなにいつも怖ぇ顔してるんだよ!?」
麟太郎はクラスの端に固まっている、不良の一団を指差した。
「あいつらにとってはあれがデフォなんだよ。喧嘩やエロい先生の話になると、いっそう醜怪さが増すぞ」
「げっ……まじかよ。オレ、あんなやつら手下につけて歩きたくねぇぞ?」
「手下を見れば親玉の器量が知れる、という。麟太郎、その判断は正解だと思う」
僕が溜息をついて、首を横に振ると、もう一度、その不良の連中に一瞥をくれた。
向こうの一人と目があって、僕はほんの数秒の間睨む。すると向こうは、気まずそうにすぐ視線を逸らした。
ひそひそと仲間になにか伝えている。そうすると全員の視線が一緒にこちらを向いた。麟太郎が縮み上がる。
「……な、なんだよ? なんなんだよ!?」
「怯えてはだめだ、麟太郎。あいつらはああやってガンを飛ばすだけで、手は出してこない。喧嘩なんか一生の間でやったことないんだ。ビンタ一つするだけで大騒ぎするような家庭の中で育ったんだ。僕たちは別の道を行こう」
そうして悪意たっぷりの眼差しをくれてやると、僕は顔ごと逸らして、歩き出した。自分の席に向かう。麟太郎はその後もじっとその連中を見つめていたが、しばらくすると僕の後を追いかけてきた。
「……やっぱ、計画はなしで」
「そうしよう。不良の親玉でいるよりも、一介の学生としてのんびりやっていたほうが、人間として健全だ。あのヴェルディの話を聞けばわかるだろう」
「あぁ〜」
麟太郎はそこでようやく、昨日のことを思い出したらしい。
「可哀想だったよなぁ〜、ヴェルディ」
「うん、確かにそうだな」
僕は席について、ポケットに手を突っこんだ。
「オレ、家に帰ってからも思い出して泣いちまったよ」
「そんなにも?」
「だってよぉ」
馬鹿な麟太郎は、今でも目をうるうるとさせて、鼻をこすっている。
「良いところなんて、一つもねぇしよ……。オレ、もっと王様って、気楽なもんだと思ってたよ。普通のやつとは違って、うまいもんは食えるし、綺麗な女近くに侍らせられるし、良いことずくめだって思ってた。でも、違ったんだな……」
麟太郎は赤い目をこすって、すん、と鼻をすすると、窓の外の青空を見つめた。
「オレらとなんにも変わることがねーんだ……。普通っぽく悩んで、普通っぽく苦しむんだ」
「え?」
僕は驚いた。麟太郎が僕とまったく違う観点であの物語を捉えていたことにだ。
「普通に悲しむし、普通につれぇことはつれぇって言うし、普通に生きるんだよな……でもみんなの上に立ってるやつって、周りから誤解されやすいんだよな。すげぇ」
麟太郎は涙まで流した。僕はぴたりと固まっていた。
「……麟太郎?」
「ああ、いや、」
麟太郎は慌てて涙を拭い、笑顔で手を振った。
「不老不死ってそれだけでもすげぇなー、って思ってたからよ、ちょっとショック大きすぎて、マジ、悲しくなっちゃったんだよね。それだけだからよ。あははは」
「……」
僕は不思議な気持ちになった。
そうか。そういう見方もあるのか……麟太郎と話して、僕はすこし勉強になった。
火影の物語って、なんか不思議だな。
またいつか、聞きに行ってみようか。なんなら今日の放課後でも。
そう思っていると、
「ねーねー」
反対側から、女子の一団に声をかけられる。
振り返って見てみると、それは僕が普段嫌っている、というか、若干苦手としている女子の一団だった。僕は顔を曇らせた。
「あいつらさぁ、なんか、すっげぇ羽柴君のことウワサしてたんだけど」
「あたしらそれ伝えに来てやったんだよ」
「……あいつら?」
「あいつらっつったらあいつらっしかねーっしょー」
けらけら笑っている。僕はなんでそこで笑うのか、なんべん考えてもわからなかった。
「後藤っちとか、喜納君たちだのことだよぉー」
僕は名前を聞いて、ああ、さっきのやつらか、と考えた。さっき僕らのことを見つめてきた連中だ。女子に言いふらしたんだろう。まったく考えるたびに男気のない、腐った連中だ。
もっと素直に生きることはできないのか。
「だからさー、あたしら、羽柴君があいつらと本気でやり合うのか、聞きに来たってわけよぉ」
「……鐘美?」
麟太郎が、どうするんだよ? と目配せしてくる。
麟太郎はちょっと怯えている。僕は首を横に振った。
「どうでもいいよ、そんなこと。喧嘩はなるべくしたくないが、向こうがしたいって言うんなら受けてやる。いつでも来い。だが、僕は、僕に関わろうとしなければ、っていうか、まず僕らの視界に入って来なければ、お前らとは仲良くやってもいい。そう伝えろ」
「うわっ、それ、チョーキツクねー!?」
女子がキャハハハハ、と笑っている。僕は心臓が震える心地がした。なんて甲高い声を出すんだろう。怖い……男よりこいつらが怖い。
女子たちは「振られた、振られた」と謎の言語を叫びながら、あの男たちの元へと帰っていく。麟太郎は呆然としていた。僕は黙ったままでいた。
そうすると、くすくす、と後ろで笑い声がした。さっきの不良たちの声。
振り返ってみると、笑っている。僕らのことをちらちらと見つめながら。僕はまた不機嫌になった。
安心している顔だ。喧嘩が起きなくてほっとした顔。だが精一杯僕のことを「臆病者」と軽蔑したがっている顔だ。僕は頭に来た。いい度胸だよ、だったら本気で喧嘩してやろうか、と思ったが、やっぱりそれは大人げないと思って止めた。僕まであいつらと同レベルになってしまう。
僕らは、学生というやつは、どうしてこんな下らないことにいちいち心労を費やさねばならないのだろう? もっと他にやることがあるじゃないか? どうしてそれにまっすぐに向かえない? この悪意の鎖は、いったいどこから生じてくるんだ?
いったんその鎖に絡みつかれれば、どんな聖人だって、その束縛から逃げ出せやしない。
どうしてそんな厄介なものがあるんだ? いっそのこと、消えてなくなってしまえばいいのに。
僕がなんとなく悔しい気持ちになっていると、麟太郎も、つまらなさそうな顔になって、言った。
「やっぱ向いてねぇよなぁ……不良は。オレ、不良廃業にする」
「そもそも始業してなかったじゃないか」
僕は力を抜いて笑った。それから麟太郎もけらけら笑う。
「不良って大変だなぁ。やっぱ普通の平民として生活しているほうが、楽だぜ、きっと。あ、そうだ、鐘、今日ゲーセン行かね? 気分転換に、ぱーっと遊ぼうぜ」
「いいぞ、そうしよう」
僕はもう、明日学校に来る気がなかったので、ゆったりとした気持ちで遊びたいと思っていた。麟太郎は嬉しそうにガッツポーズをした。
悪意の鎖より、善意の鎖のほうが遙かにいい。僕はそっち側にいよう。そうして遠巻きにあいつらを見つめていよう。
鎖を作る能力は僕にはないけれど、麟太郎や霧島さんが作った善意の鎖を、よく伸ばし、太くして、周りに巻き付ける能力ならある。
僕はそうしよう。麟太郎や霧島さんたちと一緒に。そう思わうことができれば、今さっき受けた不快感も、少しは和らぐのだった。
「1902年、日本とイギリスとの間に締結された同盟はなに?」
「日英同盟」
「初代内閣総理大臣の名前は?」
「伊藤博文」
「ふんふんふん……よく知ってるねぇ……」
「覚えたらどうかな? それくらい……」
僕は冷や汗を垂らした。今は日本史の時間だ。霧島さんは僕の答えを聞いて、丸写しという体裁を取っている。すごい光景だ。普通、シチュエーション的に逆じゃないか?
「だって私、理系脳だから」
「じゃあなんで、文系に来たの……」
そもそもの問題がおかしいんだ。
「だって好きな人が文系にいたんだもん!」
「だもんっ、って言われてもねぇ……」
今時の女子高校生で、だもん、って力一杯言う人、初めて見たよ……。
「で、その彼は今なにしてるんだい?」
「友だちの綾子ちゃんと付き合ってる」
「あー」
「あー、って言わないでよぉ!?」
僕が顔に手を当てて「あちゃー」というポーズを取っていると、霧島さんが目に涙を溜めて肩を揺さぶってきた。
僕は溜息をつく。
「友だちの綾子ちゃんに先を越されたってやつ? 霧島さんのことだから、その綾子ちゃんのことを気にして、好きだって口に出さなかったんだろう」
「う、どうしてわかるの……」
「それくらいわかる。霧島さんは、そういう人だから」
僕がそう言うと、霧島さんはしょんぼりしてしまった。そういう悪意の全然無い人なのだ。悪意が無さすぎるせいで、普通の人が持つべき損害を全部しょっちゃってる。せっかく苦手な文系クラスに来たというのに、目的がおじゃんになっちゃったら苦しさしか残らないじゃないか。
「余計なお節介をかけるつもりはないけど、そのために霧島さんは今、苦手な歴史に悪戦苦闘しているわけで、僕に迷惑をかけているわけだね?」
「う、実は理科も嫌いなの……」
「じゃあなんなんだよっ!?」
「す、数学は、わりと好きだけど……」
にっこり、としている。わりとかよ。もしかして霧島さん、あとは、体育も好きで給食も好きです、ってやつか? 給食ないよ、この学校。中学校に帰れよ。まったく、麟太郎の女の子バージョンみたいな人だ。もっとも麟太郎は数学もだめで、国語もだめだけど。
僕は呆れてしまった。その間に霧島さんは元気を取り戻して、精一杯日本史の問題にチャレンジしている。まるで小動物だ。フィーちゃんに近い。
「そろそろ時間っぽいけど」
「えっ!?」
僕は周りに目をやった。
早いやつはもう僕みたいに顔を上げて、ぼんやりと頬杖をついたりしている。教師はそういう人間の数を数えて、問題の解説に移る目安にするから、早くしないと危険だ。
「羽柴君は!? 終わったの!?」
「終わったよ。っていうか、まず問題を解こうとするよりも、誰か自分に近い道連れを探すくせ、早く直したほうがいいと思うよ……」
「そんなんじゃないよ!? ただ気になっただけだもん!」
また、だもん、だ。
「気になるなら、問題を時間内に終わらせることを気にしよう。ほら、ヴェルサイユ条約。この条約の背景を一つでも覚えると、この問題の解きやすさが違うよ」
「えっ、ちょ、ちょっと待って!」
僕と霧島さんが小声でお喋りしていたのを見つけたのか、女性の、ノーメイクの色気まったくなしの、そばかすだらけの先生が、怒った声で言った。
「はーい、そこまでー。なんかもう終わっちゃってる人がいるみたいだから、あたしもそのつもりでいくことにするからね。みんな、まったく頭いいねぇ」
ちぇっ、しまった。僕らのことか。
隣の霧島さんに視線を送ると、精一杯知らんぷりをして、まさに自分の力だけで解きました、っていう顔をしている。くそっ、なんてやつだ。
うぁぁぁぁぁ、と後ろのほうから麟太郎の叫び声が聞こえてきた。
……なんか、悪いことをしちゃっただろうか。
これからは少し反省したほうがいいのかもしれない。僕も、霧島さんも。
授業終了後、霧島さんはべたっ、と机の上にのびてしまった。
「あうあうあうあ〜……」
「お疲れ」
「もう、頭、ぱんぱんっ……」
僕は苦笑した。せっかく一か八かで文系クラスに来たのに、これじゃ毎日大変だろう。もうちょっと霧島さんに、優しく解答を教えてあげてもいいかもしれない。
そう思っていると、霧島さんは横目でこっちを見つめてきた。
「羽柴くんは、どうして学校来てないのに、こんなに簡単に問題解けるの……」
「言っとくけど、それなりにしか解けないよ。全然簡単じゃないから。学校に来ている日はそれなりに全時間集中するけど、休んでいる日はごっそり内容抜けてるわけだからね。これでも努力してるんだよ」
「羽柴くんは、ほんとすごいなぁ……」
そう褒められるとすこし照れる。女の子に、はっきりとすごいって言われたの初めてだ。
「あー、もー、私ってほんとだめだぁ……」
また落ち込んでしまう。
僕は、さっきの話が少し気になった。霧島さんは友だちに、好きな男の子を取られてしまったわけだろう。
言っておくが……霧島さんはわりと美人だ。いや、美しいというより、可愛い人という形容のほうがよく当たっているのかもしれない。人間離れした、モデルみたいな美しさはないけど、庶民的な輝かしさを持っている。素朴で、嫌らしさがなくて、清々しくて、からりとした空みたいだ。宝石の輝きよりも、飴玉の光だ。きらきら光っている。その光は、温かさだ。
僕は、こんな可愛い霧島さんのことを振る、いや……振ってはないのか、相手にしなかっただけのやつっていうのは、いったいどういうやつなんだろう、と思った。なんとなくそいつとじっくり話をしてみたい気持ちになった。
そう思って霧島さんの横顔を見つめていると、向こうと目が合った。
「え、なに? どうしたの?」
「いや……」
なんて言ったらいいものか、と僕は顔が熱くなる。なにか会話を繋げなければ、と反射的に思って、こんなことを声に出してしまった。
「そのっ、さ、霧島さんが好きだったやつって、どんなやつ? もしかしたら同じクラス?」
「あっ、う、ううん! もぉ、羽柴君も聞いてよーっ!」
「え、え?」
涙を浮かべて、がばっ、と起き上がってくる。僕は面食らってしまった。
「あのね、あのね、サッカー部のキャプテンで、エースで、えーっと、部自体はすごく弱いんだけど、彼だけはすごく上手で……みんなを引っ張ってて……顔が、とにかくかっこいいの! ジャニーズみたいで、それで優しくて、頭もかなり良くて、男の子の友だちもいっぱいいてさぁ……」
「あぁ……」
僕は説明を聞いてようやく思い出した。確か、そんなかっこいいやつ、いた気がする。
モデルみたいに背が高い。廊下で何度かすれ違ったことがある。一人で下校しているときに、サッカー部の練習をやっているのをちょっと見かけて、ああ、そういえばあのイケメン、サッカー部だったんだ、くそ、上手いな……もてるだろうな、と思ったんだった。
そうか、あいつなのか……。
「友だちの子もみーんな彼のことが好きで、私、それでみんなと一緒に、金島君――あっ、その子の名前ね――彼と離れないために文系に来たんだけど、そこで新しく友だちになった、綾子ちゃんっていう子に、その金島君が突然告白しちゃって……」
「あ〜……」
僕はそれで、その金島君と付き合っている女の子のほうも思い出した。よく一緒に歩いている子だ。
結構美人で、清楚系のお姉さん、って感じだった。麟太郎が「白鳥お姉さま」って密かに呼んでいたから、なんとなく知っている。
それはそれは、お似合いのカップルだろう。末永くお幸せに、といったところだ。
でも、それはそれで、霧島さんに何かトラブルでも起きなくって良かったと思う。もし今までの仲間たちから、金島君の彼女が選ばれてしまったら、霧島さんはその彼女たちとの思い出さえ、楽しく思い出せなくなるだろう。新しく入った子なら、みんなで傷を慰め合える。
そんなことをなんとなく思っていると、突然霧島さんに真顔で尋ねられた。
「ねぇ、羽柴君は好きな子とかいない?」
「……僕?」
僕はきょとんとした。
「うん。羽柴君ってよく学校休むから、もしかして校外の病院とかに、今付き合っている美形の彼女とかが入院しているのかなって。今ふと思ったの」
「ないから。ないない……」
僕は馬鹿らしくなって手を振った。どこまで想像が子供なんだ。あるわけないだろ、そんな映画的シチュエーション。
「僕が学校を休むのは、ただ単に面倒くさいからだよ。そんな、どっかの映画みたいな関係、ない」
「そっかぁ〜、残念」
霧島さんは、う〜ん、と手を口に当てる。残念だと思っているんだか思ってないんだか。僕は、霧島さんを心配していたのがなんだか馬鹿らしくなって、目を逸らした。
霧島さんは僕のこと、どうせなんにも思ってないんだろうなぁ。べ、別にいいけどさ。
こっちの生活に支障はないし。でも、なんとなく寂しい僕……。
はぁ〜。僕って、意外と、うざいやつだなぁ。
「もしかして……本気で好きな子いない? 付き合ってる子も、一人も?」
一人ってなんだよ。
「いないよ。そもそも僕は女の子の知り合いがほとんどいないから」
僕は気持ちぶっきらぼうに言った。
「う〜ん……そっかぁ〜」
と霧島さんはまだ唸っていたが、もうそれ以上なにも言ってくることはなかった。
僕は、いったいなんだったんだ? と不思議に思いながら、帰り支度をした。
HRが終わったとたん、麟太郎がすっ飛んでくる。
「いやっほう! 帰ろうぜぇ、鐘美!」
「いいけど、そのテンションの高さはなんだ? 麟太郎」
僕は笑いながら立ち上がる。
「オレ、決めたんだよ! いや、わかったって言ったほうが正確かな!?」
麟太郎のくせになにやら難しい言葉を使う。麟太郎は、その場でなにやら妙なアクションポーズを決めた。しゃきーんっ! と擬音でもつきそうだ。
「現実で不良のボスになるのは色々と面倒くせぇ。だが、それならオレにいい手がある! バーチャルであいつらのボスになりゃあいいんだ! つまるところ、鉄拳であいつらと勝負ってわけさ! 現実で面倒くせぇならバーチャルで挑めばいい! 勝っても負けても後腐れなし! どうだ、これが、オレが数学の時間に考えついた鉄拳の法則だっ!」
鉄拳の法則より、その頭に鉄拳を食らわせて奇跡的に頭良くする麟太郎の鉄拳の定理でも見つけたほうがよかったんじゃないか。
「ゲーセンにはあいつらもよく来る。今日もゲーセン行こうぜ、って話しているところを聞いたぜ! どうだ、カネ! 舞台は整ってるぞ! オレと一緒にコンビ組んで、あいつらをコテンパンにやっつけようぜ! なぁなぁ、早く行こうぜ! あいつらが来る前にオレらで時間の許す限り特訓だ!」
僕は呆れながら鞄を持ち上げた。僕と麟太郎が肩を並べるのを、隣の霧島さんが、じっと見つめている。
「わかったわかった。だが、金の無駄遣いには気をつけろよ。小遣い、少ないんだろ」
「へっ、そんなのあいつらから巻き上げりゃいい話だぜ。くっくっく――、あいつらが悔しさに負けて連コインするのが目に浮かぶぜ!」
恐喝でなくて、連コインで搾取しようとするあたりが、健康的な麟太郎らしいよな。
「だけど僕には、お前が連コインしていく姿しか目に浮かばないぞ」
「なんだと――」
「ねぇ」
と、麟太郎が怒った直後、後ろから声をかけられた。僕と麟太郎が同時に振り返ると、霧島さんが妙な顔で僕らのほうを見上げていた。
「羽柴君、麟太郎君と一緒にこれからゲーセン行くの?」
「そうだけど――意外? 僕がゲーセンって」
「ううん」
そう言いながら、霧島さんは微笑んで、立ち上がった。
「ちょっと意外だけど……意外じゃないっていうか」
「どっち?」
「あはは」
霧島さんはちょっと力なく笑っている。
「あのさ、羽柴君」
「ん?」
「その……突然だけど、私も、一緒に行っていい?」
「へっ――」
僕は呆然とした。その直後、僕と霧島さんとの間に、麟太郎が割ってはいって、
「おうおうおうおう、ちょっと待ってくださいよ!?」
それから、僕に耳を近づけて小声で言う。
「ちょっと待て――おい鐘、なんでてめぇ、この霧島ちゃんと仲良くなってんだよ!? オレが必死こいて数学の時間に鉄拳の法則を編み出している間にぃ!?」
「礼子って呼んでいいよ、麟太郎君」
「はいっ! 礼子さん!」
麟太郎が向き直る。
「なにが礼子さんだよ……馬鹿が。まったく調子いいやつめ」
とはいいながらも、僕も麟太郎も、霧島さんがついてくることは、かなり意外だった。なんの理由もなく、僕らについてきたいというのだ。
なんか嫌なことでもあったのかな。それでスッキリしたいとか、僕らと同じか? とは思わないが、その理由を尋ねてみるのもなんだか不躾というか、僕も霧島さんもちゃんとした友だちなんだから、一緒に連れ添ってゲーセン行くぐらいは普通にあるだろうと思って、聞くことは憚られた。
「ちょっと待ってね。麻衣ちゃんたちにも行くかどうか聞いてみるから」
麻衣ちゃん、というのは、確か霧島さんの友だちだ。霧島さんと雰囲気が結構似ていて、ちょっとつり目の、大人しい子だ。あと、似たような、素朴系な美人が二人くらいいたはず。
もしかして、それが全員来るのか!?
ちょっとドキドキ……と、心を弾ませながら、いやいやいやいや、僕と麟太郎が呆然としながら待っていると、仲間たちと話をつけてきたらしい霧島さんが、もじもじとしている子を一人連れてきて、ちょっと照れくさそうに言った。
「ごめん。今日はこの子だけしか来ないって。でも、いい? 私たちも一緒に行っても」
その小さな女の子は、僕のことを真っ赤な顔で見上げた。
「いいけど」
――顔は知っているが、名前がわからない女の子だ。結構可愛い。霧島さんより小動物度がかなりアップした感じだ。確か、霧島さんととっても仲が良い子だったと記憶している。いつもはこんなに黙ってないし、わりとお喋りするほうだと思ったが。いったいなにを考えているのか。
僕は愛想笑いを浮かべて、その子に話しかけた。
「話すの、初めてだったよね。今日はよろしく」
「……っ」
その子は、余計顔を真っ赤っかにして、霧島さんの裏に隠れてしまう。
おい、なんだ、この反応。僕をからかっているのか?
そんなふうになにか物欲しそうな目で見られても、なんにもないぞ。
こんな小さいのに見つめられても、うむ、困るな、と思いながらも、実際の僕の機嫌は、上向きだった。
「おい、麟太郎……」
「なんだ」
「あとで……なんかおごれよ。この僕に、感謝のしるしに……」
「うわっ! てめぇっ、すげぇムカツク! 最悪だ! 見てろよ、この野郎! そうやっててめぇが天狗っ鼻で調子こいてられんのも今のうちだからな! よし、まずは鉄拳でオレと対戦だ。てめぇのことコテンパンにやっつけて、それで、後半からは一気にオレの時間だ!」
霧島さんたちに丸聞こえになっているのに、麟太郎がぎゃーぎゃーと喚く。霧島さんが「あはは」とおかしそうに笑っている。霧島さんの裏に隠れた子は、呆然と僕らを見つめて。
もしかして――、霧島さんは麟太郎のことが好きなのか。そんな疑念がふっと頭をよぎったが、同時にこんな馬鹿なやつに恋心を向けるやつなどそうそういやしまい、とそうそう結論づけることにして、頭の中から消した。
僕は鞄を肩に引っさげ、教室を出て行こうとした。すると霧島さんの後ろにいる子が、ぶるっと怖そうに震えた。
なんだ?
僕はじっとその子の顔を見つめる。すると目があって、数秒経ってから、僕は微笑んでみた。もしかしたら僕のことをまだ不良だと思っているかもしれない。
すると、その子は不思議そうな顔で、ちょっとほっとしていた。
よし、これくらいでいいだろう。
そもそも誤解なんだ。僕らが怖い人間だって。フィーちゃんには優しいし、近所には良い子で通ってるのに。なにがヤンキーだ。不良だ。くだらない。僕は、そっち側には行かないぞ。だから、他の子たちもそういった夢みたいな幻想はそうそうに排除してほしい。
じゃないと疲れるんだ。
「よっしゃ、行こうぜ!」
それらのやり取りにまったく気づかなかった麟太郎が、意気を上げて先頭に立った。その後に僕が続く。最後に霧島さんと、その小さな女の子が、まるで僕らを観察するようにゆっくりと続いた。
空がやや黄色みを帯びて、温かげになる。僕はその温かい気を吸い取って、吐き出した。
どうなることやら。