第二話

 

「で、結局なんだったの?」

「ん?」

 僕は席に座りながら、霧島さんに言った。

「ただの説教だよ。不登校になったやつがいるから、そのことで校内アンケートを取らされただろ。その質問の中に『神』についての項目があって、それに答えたことが、先生の目に留まったらしい」

「怒られたの?」

 霧島さんは率直に言ってきた。僕は溜息をついた。

「怒ってやったんだよ」

「え!?」

 説教したのは先生が、じゃない。僕のほうだ。

 最初は先生のほうから僕に説教しようとした。なんてことを書くんだと。君はいったい何者だと。

 でもすぐに僕が取って返した。職員室の中はそれでちょっと騒然となった。

「神のことでふざけたことを言ったから、僕はその間違いを正してやった。そもそも、不登校の生徒のことで、なぜ『神』の問題を持ち出すんだ。なんの関係もない。彼らは『神』の存在を侮辱している」

「……羽柴君って、キリスト教の人だったっけ?」

「ううん、違うよ」

 僕は手を横に振って、騒がしい昼休みの教室を、くるりと見渡した。

「でも聖書は一通り読んだことがあるよ」

「そっか。それで……」

「納得いかないことだったんだ」

「神様のこと?」

「ううん。違うんだ」

 僕は悲しかった。神様を冒涜されたことじゃない。先生が、神様のことについてなにも知らないくせに、知ったかぶりを決め込んで、子どもを説教しようとしてきたからだ。

「彼らはなにも知らない。なにも知らないくせになにも知らないことを知ろうとせず、知っていると思いこんで、居丈高に振る舞っている。僕にも、かっこ悪いけどちょっとそんなところがあるから、同族嫌悪、ってやつでね。そういうの見ると腹が立っちゃうんだ」

「へぇ……」

 霧島さんが呆然としている。視線はもう、机の上の課題に向かっている。僕は霧島さんにわかる言葉で喋ってないから、当然のことだろう。

 すこし興奮しているのかもしれない。やっぱり大人から、あんなに悪意のある言葉を言われたのはショックだったみたいだ。僕も人間なのだ。人間で、子どもだ。苦しいときには苦しい顔をするし、悲しむときは人並みに悲しむ。

「『神も間違えることがあります』、だってさ。そんなことを言う人は偽物のクリスチャンだ、って言ってやった」

「どういうことなの?」

「それを説明すると長くなるから、手短に言うけど、神のことを疑っている人が神を信じることができるのは、物理的に不可能じゃないかい?」

「あっ、そうだね」

「そうだろ? だからおかしいんだよ。神のことをさらさら信じていないくせに、神のことを問題に持ち出す人は。そんなのあやふやだ。僕だって、普段から『神』のことなんて話すか」

「私そんなの全然考えてなかったから、『そうですね』って普通にアンケートに答えちゃったー」

 でへへ、と頭を掻いている。僕はそんな霧島さんに柔らかく微笑んだ。

 それでいい。

それが人間としてのあるべき姿だ。僕は霧島さんを誇らしげに思う。

 キリストはペテロや使徒たちに向けてこう言った。

「天国に入るのは、この、子どものような人間である」と。

 それが真理だ。なにも知らない、なにも考えない、そんな純粋無垢な人間こそが、人間として最高の善の形なのだ。僕なんかは、人間としては霧島さんよりも、麟太郎よりもずっと劣っているのだ。雲の遙か下、海底よりももっと下、底辺、地獄にいるような存在だろう。

 僕は霧島さんの屈託のない笑顔に、心が救われるような気持ちになった。

「不登校になった人はちょっと可哀想、って思ったけれど、神様のことについて尋ねてくるのは、なんか変だな、ってやっぱり思ったよ」

「それが正しい考え方だよ」

 僕は霧島さんの黒い髪が、ふんわりと空気を掴むのを見た。くりくりとした瞳が、動物のように可愛げに動く。薄い唇は、美しく弧を描いていて、そこには何の雑事も感じさせない。僕よりもずっとすっきりとしていて、広大な世界を持っている。

 僕はそんな笑顔に憧れた。僕もそんなふうに広い笑顔を浮かべてみたい。なにも雑事のない広い世界に住んでみたい。溜まったゴミや瓦礫のくずなどを、一掃したい。

 そうなるためには、一度なにも知らないふうになってしまえばよいのだろうか? けれど僕にそんなことができるだろうか? 

 できるのは、あの惨めな教師のように、無知蒙昧さを引っさげて、それを恥とも思わないような、愚かさを出さないようにすることだ。愚かさを愚かだと思わないことが一番愚かだ。それは正確だ。

「でも先生に文句言っちゃ、だめだよ? キリスト教でも、そうなんでしょ?」

「だから僕はキリスト教徒じゃないんだってば」

「キリスト教徒じゃなくても、同じだよ。目上の人が説教するのに、説教を返しちゃ、それはまずいよ」

「霧島さん」

 霧島さんが珍しく真剣に怒った顔をしている。本気で僕に説教しようとしているのだ。

 僕は、心中嬉しくなって、笑いながらお手上げのポーズをした。

「わかったよ。反省する」

「もちろんだよ」

 私、もっともなことを言った、というような、きりっとした顔をしている。僕はそんな霧島さんの顔に、穏やかな顔を向けた。

 すると霧島さんも、ぱっと打ち解けた顔をしてくれる。やっぱり持つべきものはこんな友達だ。

 友達って言ったって、僕と霧島さんは、隣り合って座っているときに話をするくらいの浅い関係だけど、それでも霧島さんは僕の親友で間違いない。こんなにも親しく、熱心に、僕なんかを叱ってくれるんだから。

 もっとも、霧島さんは女子の友達のほうが圧倒的に多くて、男子なんかとはさらさらで、僕と接するときの態度も、女友達と会話するときとなんら変わりないから、特別な感情なんか僕に向けてくれているわけないのだけれど。

 それがちょっぴり残念な僕。

「でも、羽柴君って本当によく色んなこと知ってるよね? 先生のこと説教できるなんて、それだけですごいよ。弁慶のことについてはなにも知らなかったみたいだけど」

「あの件、まだ根に持ってるんだ……」

「当たり前だよ。一生忘れないから。本当だよ? でも、羽柴君のこと見ていると、いっつも不思議な感じになるんだー」

「不思議、って?」

 霧島さんは、その普通な体型を、ぎゅ〜っと、上に伸ばした。

「普通の人にとって常識みたいなこと、まったく知らないし、普通の人が全然知らないようなことを知っているんだもんね」

「哲学の話とかかい?」

「あとは神様とかの話。小論文とか、作文書かせるとものすごくって、まるで博士みたいなのに、実際の勉強のほうはそんなにできないんだよね。私、お母さんにそのこと話したら『それはすごく変な人ね』って言ってたよ」

「止めてよ。なんで僕のことを親に話すんだよ……」

 今時そんな素直な親子関係まれに見る。なぜだか、ものすごく恥ずかしい。

それと、おい、親、なんだその、「変な人ね」っていうのは。ちょっと待てよ、それは、まだ会ったこともない人間に対して失礼なんじゃないか? 僕は変な人なんかじゃない。

「私も、『そうだね』って言っておいた」

「あの……」

「でも、」

 と、そこで霧島さんは、言葉を切って、すこし果敢無い顔をした。

「やっぱり、不思議なんだよね。羽柴君って」

「……」

 会ってからまだ間もない僕たち。

 まだ季節は五月だ。学年が始まってからたった一ヶ月とちょっとしか経っていない。

 なのに、なんだろう、この気持ち。僕は胸の秘密を唐突に暴かれたような心地になる。

「学校にはあまり来ないし、かといってヤンキーさんでもないし、普通に愛想いいし、冗談もたくさん言えて、頭もめちゃくちゃ良いし、なのにクラス中からは敬遠されていて、怖がられてて……っていうか、私も最初そうだったし」

「霧島さん。一度言葉を切ろう」

 このまま放っておくと、どこまでも霧島さんは突っ走りそうだ。

「みんな羽柴君と仲良くしたいんだよ」

「……」

 その言葉で僕は固まってしまった。

「でも、なんか近づきにくいんだよ。頭が良いからかなぁ?」

「そんなわけないだろ」

「ま、今のは冗談だとしておいて」

 冗談じゃなくっても、僕は霧島さんより頭がいいつもりだ。この前の弁慶は超例外。

 でも、いったいそれがなんだって言うんだ? 頭が良いのが一体なんだ? なんの誇りにもならない。自慢にもならない。重たいだけだ。敬遠されて、羨ましがれて、遠巻きにされる理由になんてなるか。

 なんかむしゃくしゃした気分だ。

 僕は、ちょうどいいタイミングで五限目の鐘が鳴ったことをいいことに、そこで霧島さんとの会話を切り上げ、そこから先は、いつもの霧島さんと僕との関係に戻った。

 

 放課後、麟太郎は僕のところへやって来た。

「なぁ、鐘? 今日火影(ほかげ)ちゃんのところ行かね?」

「え?」

 僕は固まってしまった。

「んだよ、そんなハムが豆鉄砲を食ったような顔をしやがって」

「それはいったいどういう状況なんだ……? ともあれ、とにかく、お前からそう言い出すのは珍しいな。別にいいけど」

 そう言いながら僕は鞄を持ち、席から立ち上がった。

「あんなところつまらないし、気味が悪いって、お前この前言ってたじゃないか」

「うん、そうだけどさ……」

 麟太郎は僕と一緒に教室を出て行こうとした。けれど僕は振り返って、霧島さんに手を振った。

 霧島さんは笑顔で手を振り返してくれる。周りにいた女の子は、奇妙な顔でこっちを見つめていた。

 背を向けて歩き出す。麟太郎にはもとより、わざわざ手を振って別れるほどの爽やかな友達もいない。

「なんか、ずっと行ってねぇと、変な気分になってくるんだよな……寂しいっつーか、しゃきっとしねぇっつーか。はっ……これってもしかして、オレ、火影ちゃんに惚れてる?」

「どうだか」

 もっとも火影は、麟太郎のことを「馬鹿な子供」としか認識していなかったようだけど。

「もしそうだとしても、おまえに望みは薄いと思うぞ?」

「なんだと? そりゃ、てめー、俺のほうが火影ちゃんから好かれてんだよ、てめぇなんか眼中にねぇ、プップップー、とでも言いたいのか?」

「僕はそんなふうに笑わない。それは確実だ」

 まだ明るく光が透き通っている校舎の中を、出口のほうへ向かって歩いていく。部活に出ていく生徒たちが、ジャージ姿で僕らを次々と追い抜かしていく。

「麟太郎。なんか火影に話してもらいたいことでもあったのか?」

 僕はすこし真面目な顔になって言った。「いんや、」と麟太郎は、頭の裏で手を組む。

「相談事があるってわけじゃねぇけど、火影ちゃんの話、どうしてか無性に聞きたくなるときがねぇか?」

「ふむ」

「どうだよ?」

「ん。……」

 そこで、僕は、さっきの「神」のことを思い出した。

 もう終わった話だ。なにか相談したいことがあるわけじゃない。もうとっくに結果が出たはずだ。

先生には言いたいことを言ったし、それでどんなに邪険に扱われようとも、他の生徒が依怙贔屓されるようになろうとも、僕には後悔がないはずだった。

 でも、なんだろう。このむしゃくしゃした気持ち。

 食べ物をむさぼり食ったり、飲めなくなるまで飲み物を飲んだり、一日中ゲームをしていたときに感じる「苦しさ」と、すこし似ている。

 僕は首を縦に振った。

「ないわけじゃ、ない」

「なんだぁ? その妙な言い方は」

「複雑なんだよ。おまえだって似たようなもんだろうが」

「オレは火影ちゃんと会いてぇだけだよ。ラブ」

 馬鹿じゃないのか、僕は麟太郎の肩を小突く。すると麟太郎はけらけらと笑った。

 早いところからは、もう部活動の掛け声が聞こえてくる。イチ、ニ、サン、シ、イチ、ニ――吹奏楽部の調律の音も。無茶苦茶にラッパを吹きまくっているとしか思えない音が耳に伝わる。

 僕と麟太郎は、やや黄色みを帯びていく空の下、鞄を脇に抱えて、制服のまま、校門を出た。

 

 火影に会いに行くためには、この「道楽通り」を、決まった順序で歩かなければならない。

 まずスーパーの「乾元堂」からスタートし、青木肉屋、フラワーショップサントウ、紀市書店と通り抜け、アルジェ像の角を右に曲がる。そこからは住宅地だ。古ぼけた、茶色くなった木の壁や、錆び付いて剥がれたコンクリートの壁に、蔓草が巻き付いたような家の間を歩いていく。そこを三百メートルくらい進んでいくと、右に、広い、駐車場のような、砂利の溜まった空き地がある。そこをよく目に留めた後、元の通りの、逆のほうへ道をずっと行ったところにある、「林の道」というパン屋の隣を見ると、不自然な隙間がある。そこを通って抜けていくと、火影の家だ。

 その隙間は、普段は古ぼけた空き家となって埋まっている。

通り抜けようとしても、そこに空き家は確かに存在していて、ただ僕らは壁に当たるだけだ。何度も試した。

 いまだに、僕は火影がどういう存在かわからない。

 見た目はどう考えても人間だし、もうちょっと俗っぽい目を向ければ、結構可愛い女の子だ。

「可愛い」という形容をここで使うのは、火影の見た目が僕らよりもずっと年下だからだ。本当のところの歳は知らないけど。

尋ねたら本気で怒られそうなので、僕も麟太郎も聞いたことがない――。

「着いたぁ」

 麟太郎が溜息をつく。

僕らが道楽通りをうろうろしている間に、陽が若干傾いて、黄金味が増している。僕の額にもじんわりと汗が滲む。

 僕は、その火影の屋敷――赤色の屋根に、赤色の壁、一見すると、銭湯のようにも見える大仰な入り口、和風の造り――に目を向けた。とんとんとん、と軽くなったコンクリートを渡り、入り口に向かう。

 玄関というものがそもそも無い。常に開けっ放しにしてある状態だ。僕は土間のようなところに入って、

「おーい、火影―!」

 と火影を呼びつけた。

 すると本人よりも先に、黒猫のミュウちゃんがやって来る。黒猫というものに縁起の悪さを感じない時代の僕らなので、普通に可愛がって頭を撫でてやる。そうしていると、奥のほうからちゃんちゃんこ姿の火影が顔を出す。もう初夏だというのに、さすが火影だ。

「やぁ、来たね。鐘美くんに龍太郎くん」

 手を振る。「おはよう」

「龍太郎じゃなくて麟太郎だぞ、オレの名前。あと、今、おはようって時間か?」

「あれ、ごめんごめん、麟太郎くんじゃなくって龍太郎くんだね。あれ? どっちだっけ?」

「麟太郎だって!」

「どっちでも構わない。お前の名前は、どっちでも馬鹿っぽい」

 なんだと! と後ろで怒った声がする。僕はしらを切って、中へと入っていった。

 麟太郎はまだここに来た回数が少ないので、火影に名前を覚えてもらってないのだろう。そうは言っても、そもそも、火影は人の名前を覚えることが苦手だが――。

「今日もまた、誰も来てないんだな」

 僕が言うと、

「あー、そうだねー」

 手元を隠しながら、火影。

「鐘美くんと麟太郎くんが、一週間前に来て以来、誰も来てないかなぁ」

「寂し――」「寂しくねぇの? 火影ちゃん」

 僕が言おうとしたところに、不意に麟太郎に邪魔された。

 むかっとする。不躾にも、こっちは『火影ちゃん』だと。

 馴れ馴れしいんだよ。僕が怒っていると、火影はその儚そうな両眼を、線にしてからからと笑った。

「寂しかったから、麟太郎くんや鐘美くんが来てくれてとっても嬉しいなっ」

「え、マジで? やったー!」

「なんでお前が喜んでるんだよ」

 演技に決まってるだろ、馬鹿。

 火影は、そういう女の子だ。浮世離れしていて、時間の流れなど感じさせない。見た目は子供だけど、実際の年齢は僕らよりずっと年上に見える。

 艶やかな灰色の髪の毛に、透き通るような白い肌。瞳は水色の透明で、唇も色が薄い。これだけ説明すると「妖精」みたいだって思う人がいるだろうけど、僕は妖精という形容は当たっていないと思う。雰囲気はもっと俗っぽくって、目はいつも眠たげだ。半分閉じている。そこに鼻眼鏡のトッピングと来たら、幼い少女がオヤジ成分をぷんぷんさせている模様が思い浮かぶだろう。実際その通りだ。

 人をからかうのが好きで、僕も最初はいじられっぱなしだった。もう慣れたけどさ。

「そりゃあ、嬉しいからだよ! 好きって言ってもらえて!」

「べつに好きって言ってないだろ、火影は」

「あははは」

 火影が笑っている。火影はいつも、表情や言葉に本当と嘘とを交えるから、騙されまい、と心を引き締めていても、目に見えているそこに、紛う事なき「真実」が隠れていたりする。

 どういうことかというと、火影は、実のところ、本当に寂しかったのかもしれない。火影の腕の中に抱かれているミュウちゃんも、心なしか笑っているような気がする。

 僕らは靴を脱いで板の間に上がり、そこから座敷へと通された。

「それで、今日はなんで来たのかにゃ? 二人とも」

「にゃ、は止めてくれ」

「もちろんっ、火影ちゃんに会いたかったからに決まってるじゃないか!」

「きゃっ、嬉しい☆ 王子様―」

「おまえ、もう帰れよ……」

 なんなの、この空気。火影ってこんなキャラじゃないだろ。

もういやだ……。

「ねー、麟太郎くん、鐘美ちゃんは言ってくれないみたいなの……」

「おい鐘美! てめぇふざけんな! 火影ちゃんを泣かせんじゃねぇ!」

「いいかげんにしろ! おまえがふざけるな! そもそもなんだ、火影、『鐘美ちゃん』っていうのは! 僕のことを子供みたいに呼ぶな! 虫ずが走る!」

「えー、鐘美ちゃん、いけずー」

「オレもそう思う!」

 僕は麟太郎のほっぺを引きちぎる思いで引っ張った。

「いだだだだだだ!」と麟太郎がうめく。

「調子に乗るんじゃねぇ、麟太郎」

「はい、ごめんなさい……」

「あははは」

 座布団の上に座った火影が、気持ちよさそうに笑う。

「ほんっと、いつも通りだねー、君たち」

「……いつも通りにからかわれたんじゃ、こっちはたまんないんだよ」

「だって楽しいもん。麟太郎くんは正直で面白いから、話しがいがあるなぁ」

 あ、でも、と付け足し、火影が唇に妖しく指を当てる。

「……ほんとーは、一番楽しいのは、鐘美ちゃんなんだよねぇ……純情で」

「……っ」

 僕は目を逸らす。麟太郎が「なにぃっ!」と叫ぶ。

「それはマジか!? 本当なのか!? 鐘!?」

「……どうして僕に聞くんだ?」

「あとで、麟太郎くんも一人でここに来るといいよー」

「え、ホント? 来てもいいの?」

「うん。お姉さんがじっくり相手してあげる」

「……っ」

 ぞっ、と。

さすがの麟太郎も、背筋になにか来たらしい。

思い出したくない。あの、一方的に上から弄ばれる感覚。ここに最初に来たときがそうだった。

 麟太郎もまだ、ここに一人で来る勇気はないのだろう。ずっとそうしているのが賢明だ。

「さて、冗談はここまでにして、君たちは今日、どんな用事で来たの?」

「僕らに用事があるってどうしてわかった?」

「だって、世間話にわざわざここまで来るお客さんはほんとに珍しいから。――別に、あたしはそれでもいいんだけどねー」

 ちょっと寂しげに、火影はミュウちゃんの肉球をいじいじしている。僕は息を止めた。

「世間話でいいなら――」

「世間話でいいならいつでも来るよ! オレ!」

 また邪魔をされた。僕は顔をしかめて麟太郎の顔を見る。

 火影はくすくすと笑っていた。麟太郎の優しさに、というよりも、邪魔された僕のしかめっ面を見ているのが楽しそうだった。

「ありがと。また気が向いたときにおいで」

 その、「気が向いたとき」というのが、火影に「話」をしてもらいたいときに限ってしまうから、僕らは困る。気軽に来られる場所じゃないし、そもそも、ここは、外界とは隔離された場所だから、僕らもすこし怖くって、来るのにどうしても茶飲み気分ではいられないのだ――。

「で、今日はなんなの?」

 三度目の質問。僕はこれ以上答えを先延ばししても無駄だと思い、簡潔に答えた。

「『話』をしてもらいに来た」

「ふんふん。どんな話?」

「どんな話でもいい。僕らはそれをなんでも受け入れる」

「うーん。それじゃあ、あたしが勝手に処方しちゃうけど――」

 そこで僕らは、呼吸を止めてしまった。火影の柔らかくも深い眼差しに、釘付けにされる。見透かされている気分になる。

 火影はどう見ても人間だ。けれどこのときは、どう見ても人間じゃないように思われるのだ。不思議に思われるかもしれないけどそうなんだ。

半分閉じた、その水色の瞳の中に、どんな世界が広がっているのか、僕ら、人間のような無知蒙昧の生物には、とうてい見当もつかないようなことみたいに思われるのだ。

「うーん、じゃあ、こういう話にしよう」

 ぱっと張りつめた空気が解けて消えて、火影の微笑みが温かくなる。

 人差し指に視線を釘付けにされた僕は、一瞬惚けた。

「不老不死の話」

「……ふろうふし?」

「なんだそりゃ?」

「小説とかで見たことない? 竜の血とかを浴びて、不老不死の体になっちゃった人間」

「……なっちゃった?」

「麟太郎は、小説は読まないし、RPGゲームもあまりやらない。僕ならよく知っている」

「そっかー」

 火影はふっと、深い微笑みを浮かべる。

「どんなものだと思う? 君たち」

「不老不死って、要するに歳取ったりもしねぇし、死ぬこともないってわけ?」

「そうだね」

「うわっ、そりゃいいな! ずっと女の子にモテモテじゃん! オレだけの王国を作ってやるぜ」

「夢みたいな夢だな」

「あんだと、てめぇ鐘美!」

 火影は一人でニコニコと笑っている。遠いところから僕らのやり取りを眺めている感じだ。

 そして口を開いた。

「鐘美くんは、そんなふうになれたら、いいと思う?」

「……まあ」

 僕は一瞬口ごもった。

「ちょっとは、嬉しいんじゃないかな」

「ふぅん」

 舐められたような視線を感じる。僕は、麟太郎ほど屈託なしには喜べまい、と心中で思った。

 なぜなら、僕が知っているRPGゲームや、小説などで不老不死の秘宝を手に入れる人間は、必ずと言っていいほど、その「不老不死」という能力を嫌って、後悔するからだ。

 でも僕には、そんな超人者たちの思惑には完全に同意ができなかった。なぜなら、そうなったことがないから、彼らの気持ちがわからないのだ。どういう苦しみなのか、どういう寂しさなのか――。

 それよりもむしろ、僕は一度不老不死というものになってみたいと思ってさえいた。それは麟太郎のように、浅はかな願望などではなくて、その不老不死という特別な人間たちが持つ、特別な孤独感というものを一度味わってみたいと思ったのだ。

 知ることで特別な人間になれると思ったのだ。特別な人間は、どうしても平凡な人間の上に立つ。僕にはそういう思考があった。そんなことしか考えられない自分がたまらなく嫌だったけれど、否定しきることもできなかった。

「じゃあ、始めようかな。準備はいい?」

「タイトルは」

「――あたしってさぁ、タイトル決めるの下手くそなんだよねぇ。適当に決めちゃっていい?」

「ああ」

「じゃあ――、」

 僕らと火影を包む場の明かりが、ぼっ、と一段暗くなった気がした。

 雷の塔の話――、火影は、その話をし始めた。

  

 

 

 小説 雷の塔の話 

 

 あるところに、一人の男がいました。

 名はヴェルディといいました。すらっとした長身の、黒髪の美青年でした。

 ヴェルディは一国の王に仕える兵士でした。なかなかの切れ者で、将校でした。

 ある遠征途中、一つの弱小国を滅ぼし、戦利品を回収している中、目録に、「神酒」という宝物を見つけました。

 それを探すように言うと、部下がすぐに持ってきました。

 神酒とは――、言い伝えによると、飲むと体中の「気」が目覚め、神と同じように体になるといわれる秘宝です。ヴェルディはさっそく飲んで、自分自身で試そうと思いました。

 ですが、すぐに体に異変が起こりました。体中が灼けるように熱くなり、血を吐き、頭が割れんばかりに痛くなりました。

「毒か」

 と、すぐに飲んだことを後悔し始め、ヴェルディはベッドの中でもがき続ける夜を数度、過ごしました。

 その後、ある日、体中の組織がいっぷう変わったような感触を覚え、床に降りると、自分はまるで身体機能が停止してしまっているように、体が冷たく、人形のようになっていることに気づきました。

 死んでいるようですけど、生きています。頭の痛みも取れました。しかし、血液がまったく生きている心地がしません。

 ヴェルディは昔からの友達の、親しい同輩に相談しました。その同輩は大学出の博識で、生物学にも、神学にも長けた秀才でした。

 その同輩は、君は、おそらく仮死状態にある、と言いました。

それはなんだい、と聞き返すと、同輩は、「神酒」と呼ばれている、謎の妙薬の影響で、君は今そんな状態になっている。死んでいるのと似ている状況だ。それだけでも教会の異端審問は免れず、あの「神酒」は、きっと悪魔の薬だったのだから、それを飲んだことは部下には当然、ましてや国王陛下には絶対に報告するな、と言いました。

 ヴェルディはそれを聞き入れ、飲んだことは罰当たりだったか、と自分の所行を後悔し、親友の神父を呼んで、たっぷり懺悔すると、今は取りあえず体の異変に構うことなく、いつものように戦に出ていきました。

 ある王国の一部隊と一戦交えると、その薬の効果がはっきりと表われました。

 矢弾によって傷つけた肩が、みるみるうちに治っていったのです。血も一滴も出ませんでした。

 ヴェルディは、神と同じ体になったと思いました。あの「神酒」の影響だと。勢いづいた彼は、防御を捨てて一気に攻勢に出、高名な相手方の武将を三人ほど討ち取りました。

「すばらしい。私は死から遠いところに立ったのだ。神の位に立ったのだ。これで人間との戦は、まさに向かうところ敵なしだ。陛下にはこの上ない戦果を報告できるだろう。私は一気に出世する」

 ヴェルディは一気に兵を進め、その巨大な王国を瞬く間に滅ぼしました。そこは金銀財宝の貯えが素晴らしく、領地もたっぷりあったので、部下にそれを大らかな心で存分に分け与えると、故郷に勝利を伝えるため、急いで国元に凱旋しました。

 それからというものの、ヴェルディは「最強の騎士」「神に選ばれたもの」「不死身の英雄」「アキレウス、ジークフリートの再来」と、国中の人たちからもてはやされるようになりました。国王からは英雄と評され、国家の名剣を与えられ、身分も王様一族の次に偉い、北方大将軍の地位に昇りつめました。

 ヴェルディは戦の知識にも、軍隊の心理学にも元々長けていたので、向かう戦は、本当に負けなしでした。次々と近隣諸国を渡り歩き、損害もほとんど受けずに、滅ぼし続けていきました。

 そのうちやがて、宮廷内に、王の一人娘、麗しの姫、ブリュンヒルデとヴェルディを婚約させよう、という話が持ち上がってきました。そのころ彼は、国内外に名をとどろかせる、稀代の英雄だったのです。

 とにかく死ぬことがない。一騎で千騎を相手取るなんて、普通の所行。大砲の弾を生身ではじき飛ばすのも楽々。銃器にもびくともせず、剣と槍を使わせれば勝てる者なし。いつも勇気凛々、天下無双、部下には広大無辺な精神で接し、争いの裁定にも英知澄み渡る。こんな者を、次代の王に、ぜひ、と考えない者はほとんどいませんでした。

 ヴェルディの心にひそかにあった野心も燃え始め、ブリュンヒルデとの縁談はとんとん拍子に進められていきました。そうしてある春の日、ヴェルディは、妻ブリュンヒルデを娶りました。

 ブリュンヒルデとヴェルディはとても仲睦まじく暮らしました。

「私は今、幸せの絶頂にいるだろう。そしてその幸せはこれから永遠と続けられていくことだろう。義父が亡くなり、私が次の王になれば、私は永遠にこの国の支配者だ。この世界の支配者にもなれるかもしれない。ああ、良い政策を布こう、国民全体を幸せにしよう。そうして世界でもっとも有名な王となろう。妻ブリュンヒルデは、最も有名な后となる。貞節の星ともてはやされるのだ。詩人の歌にもなるだろう。石碑にも刻まれるだろう。私の活躍は続けられていくのだ。永遠に……」

 ヴェルディは日々こう思いました。彼は、老いで少しずつ衰弱していく義父を影から支え、その間ひっそりと、義父が病気で亡くなるのをひそかに待っていました。

 不老不死になったことは一度も明かしませんでした。知っているのは、かの同輩と、わずかな親しい部下だけでした。その部下たちも、ヴェルディのことはとても好きだったので、秘密を明かすようなことは決してしませんでした。

 そうして義父はいつしか亡くなりました。

彼こそが、この物語で、もっとも幸せな男だったでしょう。そうしてヴェルディは最も不幸な男となるのです。

 ヴェルディは新たな王となりました。彼は国民のため、そして自らの名誉のため、獅子奮迅のごとく、身を粉にして働きました。それは、もう嫌というほどの、書類の山と、施策の嵐と、国民の要求、苦情の相手の、連続でした。

 ブリュンヒルデは美しく、そして淑やかに年老いていきました。しかしヴェルディは昔の、元の若いままの美青年でした。けれどブリュンヒルデは疑いませんでした。いつまでも若いですわね、と笑顔で言われ、ヴェルディも笑顔で答えましたが、内心、心はもうくたくたになっていました。ブリュンヒルデよりも半世紀分、頭が老け込んだようでした。

 ヴェルディは睡眠を必要としませんでした。眠ろうとしても眠くならなかったのです。だからいつもヴェルディは、暗い執務室の中で、蝋燭を灯しながら、たった一人で職務に当たりました。疲労ばかりが募っていきました。

 ヴェルディは、いつしか、「そろそろ死にたい」と思うようになりました。

「なぁ、イシルディ」

 ヴェルディはあのときの同輩に声をかけました。

「人間はいつになったら死ぬんだろう。私は、いつこの苦境から抜け出せるのか? 義父はすぐに亡くなってしまった。いや、もう二十年も前か。なのに私は『すぐ昔』だと思ったのか。妙だ。頭が変だ、ブリュンヒルデも、もう立派なお婆さまになった。後もう二、三十年すれば、いつ死んでもおかしくない時期になるだろう。なぁ、そのころ私は一緒に死ねるだろうか?」

 イシルディが言いました。

「残念ながら、私は存じ上げません。閣下が亡くなられ遊ばれるときに、私はとうに生きていないでしょう」

 事実、イシルディはそうなった。ヴェルディがまったく昔と変わることなく、眉目秀麗、女性のように美しいままであるのに対し、イシルディはとても人間らしく老け込んで、とても人間らしく寿命で死んでいきました。

 その後でブリュンヒルデが亡くなりました。子供はいませんでした。ヴェルディがブリュンヒルデと体を重ねて、自分の体の冷たさが明らかになるのを恐れたのです。そもそもヴェルディには、跡継ぎを作る必要がありませんでした。

 それからヴェルディは、職務に没頭し続けました。力を尽くしても、精根を捻り尽くしても、問題は消えませんでした。彼に媚びへつらう者は増え続け、陰口をたたく者も変わることなく、犯罪をする者も減りませんでした。

 ヴェルディは天国から一気に地獄へ落とされたような感覚を覚えました。

「寂しい、つらい。寂しい、つらい」

 そう何度も呟きながら、ヴェルディはとても若者らしく涙を流して、一人で深夜、誰もいない執務室で、ペンを動かし続けました。

 不老不死になる前の彼を知るものは、ついに一人も居なくなりました――。

 ヴェルディはひそかに、権力を使い、不老不死を「殺すことのできる」薬を作れる錬金術師を探しました。

 偽者だったらたくさん見つかりました。

ヴェルディはそれを熱心に一つずつ試しました。血を吐きそうになったり、頭をかち割られそうになる痛みに耐えながらも、その失敗作たちと戦い続けていきました。偽者と断定された者たちは、部下たちによって一人残らず処刑されました。

 ヴェルディの名は世間各国に知れ渡っていました。しかしヴェルディの心は決して満たされることがありませんでした。

 国民はしだいに彼に必要以上の働きを要求するようになりました。不老不死とは思われないまでも、ヴェルディのことを超人的な存在だと思えるようになったので、それに見合った働きを要求するようになりました。すなわち、不眠不休で働き、戦にも毎回出馬し、自分たちを守ってくれと言うようになりました。だって人間ではないのだから――。

 ヴェルディは気が狂いそうになりながらも、名声を失うのを恐れて、職務に当たり続けました。

 それからヴェルディは、やがて「国王」という身の重さに耐えられなくなり、国から逃げ出すことを考え出しました。

 地方の視察と称して、たった一人で旅に出ることを考えたのです――。

 

「と、おしまい」

 火影は、ぱっと手を離してそう言った。

 僕の意識がふっと元に戻る。

「あれ? ……終わり? ヴェルディは? ヴェルディはどうなったんだよ?」

「火影のいつものパターンだ。『今日はここまで。この話の続きが気になるなら、また今度ここに来い。』そういうことだろう?」

「そゆこと」

 それから火影は時計を指差した。

「っていうか、ほら、もう時間が遅いし」

『あっ』

 僕と麟太郎の声が重なった。小さな木時計は七時半を指していた。振り返って窓の外を見ると、もう薄暗くなっている。

 そろそろ帰らないと祖父ちゃんや祖母ちゃんが心配する。まずい。いつの間にこんなに経っちゃったんだろう。話に聞き入っていて、時間が経つのを忘れてしまった。

 慌てて鞄を取る。まだ名残惜しそうにしている麟太郎の肩を叩く。

「ほら、帰るぞ。りんたろ」

「……ヴェルディ」

 なにやら遠い眼差しをしていたので、僕はぽかっ、と頭を殴って、引きずっていく。

「かわいそうだなぁ〜……ヴェルディ〜……」

「まさか、おまえがそこまで感情移入するとは思わなかったよ」

「麟太郎くんにも効き目がある話をチョイスしたからね。あたしの話し方も上手だったでしょ」

 火影の自画自賛など聞いてられない。僕は靴を履いて、猫のミュウちゃんにお別れを言った。

「またくるよ」

 ミュウちゃんは「にゃおー」と鳴いて、僕の手のひらにおでこをすりすりとくっつけてきた。うわ、可愛い……けれど、もう夕飯ができて、祖父ちゃんたちが首を長くして待っていることだろうから、お別れだ。

「また来っからよ! 火影ちゃん」

「うん。また来いよ」

 近所のお姉さんのような口調で、小さな女の子は火影は、麟太郎に別れを告げた。

 にやにやと笑っているのはいつものことだ。俗世離れした容姿と、俗世を象徴した雰囲気を併せ持つ不思議な妖精。いや、少女か。不思議な存在だ。

「またな。火影」

「あーい」

 火影は薄暗くなる中、見えなくなるまで、こちらに手を振っていた。

 僕らは道楽通りに戻ると、麟太郎は帰りがけに「林の道」でパンを買っていくぜ、と言い、僕はすぐに自宅に帰りたかったので、そこで別れた。

 

 第二話 終了

 

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