私は、吉野さゆりという。

 高校一年生の二組に在籍している。

 長身とよばれるやつで、私はそれに価値を置いていいのやら悪いのやら、わからずにいるが、とりあえず一七五センチある。体重は秘密だが、少々痩せ型だと自慢しても差し支えないと思う。男友達より女友達に人気があるタイプだと思っていただいて差し支えない。まだ高校一年生だという自覚がうすい。私は中学三年生の延長のように感じている。

 読者は私が長身である――それも一七五センチだ!――ということについて何もコンプレックスを抱いていないかということを聞きたがるかもしれないが、そういう問題はほとんどないと言っておく。ただ、たまに男たちにからかわれたり、お母さんに棚の上にあるものを取って、あなたでかいんだから、と何気ないいじめに遭ったり、恋人についての話(もちろん理想的な恋人、ということだ)をするときに、まず一つに挙げなくてはいけないのが『自分より大きい』という条件なのが非常に悲しかったりするくらいだ。非常につらい。時にはかわいい男の子に出くわしたりする。たいていは警戒される。時折女らしく、かわいく猫をかぶって近付いても『ださい』とか『似合わない』とか『君がやっても無駄だよ』とか言われたりする。最後のは冗談だけど……でも目がそう語っているときがある。悔しいので断言しておくが、女友達からは結構親しまれやすく、猪木とか、ジャイアンとか、たいそう親しみやすい名前を付けられて、可愛がられたりする。その子たちとは時おり街に出かけたりして、カラオケで歌を歌ったり、ブランドショップへ行って服を物色し、お互いに着せ合ったりすると、大変楽しく、また趣味も現代風というか、流行に敏感で、私は彼女たちと一緒に遊んでいるおかげで、だいぶライフスタイルやファッションについて勉強することができた。私は私なりに高校生活をエンジョイしていて、好きな男の話やら、ジャニーズのライブのことやら、アニメの話とか、あるいはおしゃれの話とかで、大変楽しく盛り上がっている。

 そんなある日の午後のことだ。

 ある女の子が話題に上った。

 たいてい、こう言ってはなんだけれども、女の子同士で話をするとき、たとえば、その場にいない子が話題に上ったりするとき、たいていはボロクソに文句を言ったり、冷たく批判したりするものである。私もそうして少なからず自尊心を満たすことができて安心したり、お互いの意識を確認し合って、他の女子たちから一歩進んでいるような気持ちに浸ったりすることができたし、私たちはお互いに秘密を暴露しているという背徳感と共犯関係によくある高揚感に満たされ、いい気持ちになる。ある、うららかな日和のことだ。

 日射しが気持ちよく、また九月らしい、じょじょに涼しくなりつつある、気持ちよい風が吹いている午後のことだった。

 私は、話を聞きながら、ふと後方の席に座っている子に目を向けた。

 その子は一人で本を読んでいる。

 たいそうその子の暗さとか、気味悪さをやっつけて、私たちは安心とか、充実感を覚えていたのであるが、なにをかくそう、私はその子のかつての親友だったことがある。

 その子は、向島早月といって、さつきとさゆりで名前が似ているので、まるで姉妹になったような気がし、小学生のころから大変仲良く話をしていたものだった。

 その子の見たまんまの特徴といえば、髪が短く、また髪型は地味で、眼鏡をかけている。背は小さく、またお人形みたく華奢だ。性格は暗く、陰険。いつも一人で本を読んでいる。私たちは中学三年生――いや高校一年生の六月までは仲が大変良かったのだが、それ以後はこのように、影であれやこれやあること無いこと言って、二人すれ違った時は挨拶もしない、というような微妙な関係になっている。私は、私として、許せないことであるが、たまに今の仲間や知り合いとの関係を維持するために、彼女の悪口を言わざるを得ないこともありうる。

 そんなことをしつつも、私にそう言わせた子を少し睨んだりもし、向こうを見て心の中で謝ったりしながら、一体なぜ彼女も彼女で仲間やグループを形成しないのかと、なんだかいらいらさせられたりもする。彼女は決して友達を作るのが下手ではないし、それに彼女の同じ趣味のある友達ならいそうでもあるのに、と、やや自己防衛にも似た文句をたらたらと言い、その間には新たな話題が振られているので、それについて笑ったり、新たな話を提供したりして、すぐその思いは私の心からなくなり、彼女の影は教室の隅へと追いやられるのだ。

 だけど、私は、いつもどこかで彼女の心配をしている。疎遠になったことなど一度もなかったし、あんなにも仲が良かったので。

 でも一度疎遠になったのをまた復活させるのは何だか馬鹿らしいことでもあったし、今の友達と関係を維持していくことが私の最優先事項であったので、何となく、いつか仲直りの切っ掛けを掴めればいいのかなと思いつつもいつまで経ってもそれに着手できない私であった。しかし重要なのは、私は別に何とも彼女との関係について後悔も気後れもせず、今の新しい友達との関係を大切にエンジョイしているということである。

 

 ある時、休日に友達と遊んで、六時半ごろに家に帰ったときだったが、郵便受けにチラシがはさまっているのが見えたのでそれを取り、家に入っていった。夕方の郵便チェック係は私なので。

「ただいまー」

 おう。おかえり。とテレビを見ているお父さんが笑いかける。お父さんにチラシを渡す。それを読むのが数少ないこの人の楽しみだったりする。食事の間にチラシから話題を得ることだってあり得る。

「何だ? 市の行事みたいだな……」

「さあ」

 私はバッグを床に置いて、ダイニングテーブルの席につき、突っ伏した。

「あ〜……疲れた」

 お父さんは何も言わない。

 目を上げると、チラシをじっと読んでいる。

「何の行事なの?」

「おいおい。豪華景品だって」

「ごうかけーひん?」

 街歩きで疲れていた私はだらしなく机に顎をつけながら、長い手でそれを取った。ぼんやりと目を瞬かせながら眺めると、そこにはこんなことが書いてある。

「豪華景品・限定品多数、笹原市大オリエンテーリング大会! 参加無料。景品は以下の四部門から選べます。本・ブランドバッグ・ゲームソフト・旅行チケット。景品多数!」

「何これ……景品って」

「お父さん、参加しようかな。ちょうど来週は予定ないし」

「ううん……」

 そのうちにお母さんもキッチンから顔を出し、私バッグほしい! と興奮しだした。

「えー」

「えーって何?」

「それじゃあ私も参加しなくちゃいけないみたいじゃん」

「あんたどうせ暇でしょ? 暇ならバッグ取ってよ」

「いやだよ。別にブランドとか興味ないし」

 と、いいつつも、私は満更でもなかった。

 ブランドは本当に興味ないけど(バッグもすでに二種持っていた)、本には少し興味がある。何より豪華景品・限定品多数、という響きがそそる。日本人はこういうのに弱いのだ!

 予定をチェックするけれど、特に何にもない。

「お父さん。これって税金から出てるわけ?」

「多分な。だから馬鹿馬鹿しいと思う人も大勢いるかもしれんが、お父さんはいいと思うぞ。だってお祭りみたいで楽しいじゃないか。なあ?」

「なあ? って言われても……」

 オリエンテーリングなんてやったことほとんどないし……。会場は市街地全域って……アバウトにも程がある。

 早速両親二人は参加条項にチェックを入れている。

 携帯からメールを送れば仮参加登録されるらしい。携帯からなんて、とお母さんは鼻白んだけれど、お父さんはこういうのには興味津々だったし、メカ関係にも強いので、その権威を生かして、大丈夫だよ、大丈夫だよ、としきりに笑っていた。

 私は頭をかきつつも、空メールを市のサイトから送信する……。

 

 別になんともおかしいとは思わなかったし、私はこう言いつつも結構興味津々だったりする。お父さんと同じで。お父さんはこういう町おこしはおおいに歓迎すべきと熱弁を振るって楽しんでおり、旅行チケットを取ってみんなでハワイ行こうぜ! と早速もう取った気になって喜んでいる。お母さんはお母さんでバッグのブランドの知識を披露し始め、あれがいい、これがいい、とか、私たちをバッグブランドの虜にしようと躍起になっているみたく見えた。こんな母の下で育ったので私は大人しく人にあまり意見など言う子には育たなかった。

 だからずっと思っていた。豪華ってどのくらい?

 市とかの景品ってしょっぱいもの多いんじゃ……とか、そんなことを考えてたら、お父さんが市のサイトをくまなく調べてくれて、どうやら例の景品にはハワイ旅行三泊四日分がリストアップされているらしい、と情報を入手したので、私も大興奮してしまった。

 とは言いつつも、それ以外がヘボってのはよくあることだ……。興奮しすぎないようにしつつ、ベッドの中で、開催日が来るのが待ち遠しく、メールでその日用事が入っている旨を友達に告げつつ、おおいに楽しみにしている自分が何だかおかしいと思った。

 

 市のイベントなんか期待していなかったけど。

 この大勢の人だかりを見たら、そんな期待など甘かったと白状せざるを得なかった。

 私たちの街は決して大きい方じゃないし、本気で買い物に行くときは電車で東京の原宿や新宿に行くもんだけど、私たちの街にも駅前には大きなビルやショッピングモールがずでん、と並んでいる。

 またターミナルや、大きな立体交差点など、他の街にはない、ちょっとした小都市じみた特権もある。

 空は真っ青に晴れていた。雲が少し散っていて、綺麗だった。私はTシャツにデニム、そしてスニーカー、ベースボールキャップと、非常にださい格好で来た。オシャレなんかしてたらやってらんない、すぐ負けてしまうと思ったからで、動きにくいものは全て取っ払った。暑いので日焼けしないように長袖のシャツにして、帽子も被った。白のTシャツだし、光が弾かれるはずだ。

 オリエンテーリングはあちらからこちらへと走るスポーツなので、汗もかくだろう。オシャレ着に汗が染みこんだら泣きたくなる。

 オリエンテーリングとは、チェックポイントを探すスポーツで、指示された通りに森や山を走り回るものだ。本式は野原とか、自然公園でやるもので、草の茂みや池の縁の隠された場所にチェックポイントがあり、そこにある隠れたメッセージとか、物を手に入れてゴールする。先にゴールした者の勝ち。

 本来はそうだけど、今回は街中でやるらしい。どうしてこんなに人が大勢いるのか分かっていない人が、私たちを奇異の視線で見つめながら歩く。変なの。こんな大勢の人がいたなんて思わなかった。みんな欲望にまみれた大人たちなんだなぁ……。

 時間が来ると、市の職員の人がテントにみんなを並ばせる。そこで本登録をしろと言うのだ。名前を言ってチェックシートをもらうだけでいいのだが、なんせ参加者が多すぎるため結構な時間を待たされた。

 朝の十時だ。暑い。チェックシートを見ると、十個の空欄があり、そこにチェックポイントにあるスタンプを押すことになっているらしい。チェックポイントはこの街にある様々な場所……ということ。

 私はお父さんとお母さんから離れながら、参加者の集団に混じり、開始合図を待った。

 参加者には見慣れない人たちがいる。

 他の市からも来ているんじゃないだろうか……そんなに豪華景品が欲しいの? 人間って最低!

 出場受付がついに締め切れられ、市長が簡単に挨拶し、開始の合図が打たれた。

 と同時に、私の携帯の着信音が鳴る。

「?」

 どうやら周りの参加者の携帯も鳴っているようである。みんなポケットから取り出して、不審そうに受信ボックスを開く。

 受信ボックスからメールを開くと、市からメールが来ていた。メールの内容はこうだ……。

 

『次のチェックポイントは、青葉通り、チェイリービル4F、収納ボックスの隣ダヨ。隣のビルの一階にはセブンイレブンがあるカラ、目印にしてネ』

 その下に地図が添付されていて、地図のある一点に×印が打たれている。……

 こういうこと? と、やっとこのゲームのルールがはっきりし始めて来た途端、もう気の早いやつは目標地点に向かって駆け出した。一人が駆け出すと慌てて他の連中も駆け出す。私は携帯を抱え、画面を見つめながら位置を割り出した。

「うわ……」

 大勢がチェイリービルの入り口に入っていこうとしている……ざっと百人以上はいるだろう……。日曜なのに出勤して来ている人は驚いてこの景品を食らい尽くそうとしている欲深き罪人たちを見る。

 セブンイレブンで何か買っている人も私たちを信じられないような目で見ている。私も何だか恥ずかしい気持ちのまま、またうんざりする感じのまま、ビルの中に入っていったのだが、早速正面のエレベータの様子を見てげんなりした。

 4Fっていったら、結構階段だと大変だ。そう考えた連中のるつぼと化している、エレベータは押し合いへし合いして、つかみ合いのどかし合い、ぶつかり合いの汗の飛び散り合いとなっており、男も女も知ったことではなく、みんな死に物狂いの狂人と化していた。

私もエレベータに近付いたのだが、重量オーバーのブザーが鳴り響き、誰かを出さなきゃいけないらしく、その誰をどこのどいつにするかでもめているのを見ると、階段を選んだ方が手っ取り早いのに気が付いた。私は階段を上り出す。大勢の連中が上っている。

 私は、背は残念ながら高いけど……いや、本当に残念なんだが、体力がない。足も遅いし、運動は全般苦手ときている。だから二段飛ばしで上っていく男子には勝てっこないし、後ろから突き飛ばされれば目が回ってしまう。足を止めたらすっ転ばされて、目が回ったまま次のにふっ飛ばされて、巨体のおばちゃんに弾かれて、大きいのに、私は、まるで小さなピンボールのように弾き飛ばされまくっていた。

 大人は、非情である……。こんなにも欲深くて醜いとは思わなかった! でも自分だってこの醜い連中の一人なんだからやってらんなくなる。

 こうなったら、やけだ。一人だって私をもう吹っ飛ばせるものか。私は気力を振り絞って、この狂える暴徒の一人と化した。

「どいてどいてーっ!」

「うるせぇ! どけっ! デカ女!」

 ぷちっ、と血管にきた。ちびっこい男子を蹴り飛ばす。

「あぁー」と階段から落ちて、群衆の中へ消えていく。

 ああ……もう戻れない。私。

 そんな感じで蹴り飛ばしたり、吹き飛ばされたりしながら、何とか四階へと辿り着いた……。収納ボックス、って、どこだろう……。

 四階にはカフェと、どこぞの企業のオフィスがあり、オフィスの方は電気が消えて閉まっていたが、廊下の先に何か収納棚のようなものがあり、そこに人が群れていた。

 あった! スタンプ台!

 ここでもスタンプの奪い合いが発生していた……。

 何なの、こいつら!

 集団というのにますます嫌悪を感じる。

 狭苦しいし、汗くさいし……でも並んでいる時間もないし……いやむしろ、並ぶ列とかないっぽいし。私はそれでも人からスタンプを奪うのは気が引け、集団を外からじりじりと詰め込むように立ち、スタンプを押してダッシュしていく人間を見ながら、自分の番を待つことにした。

 スタンプを持とうとしたら奪われた。目の前にいたおばちゃんである。睨みつけると、物凄い形相で睨み返された……だが、私はますます何でもやれるようになり、そのおばさんから無理矢理スタンプを引っ張って、多少荒々しかったけど押してしまった。きーきー騒ぐしわしわのおばさんから逃れ、膝に手をつく……。

 何なんだろう……このイベント。

 高校生が参加するイベントなのかしら。ほんと。人間が欲深くなるとこれまで怖くなると初めて知った。

 何だか疲れてきた……やめよっかな。

 と思いつつも、メールを送り返す。メールを送り返すのはスタンプゲットの証らしい。次のチェックポイントが指定される。

 もちろんこれはきちんとスタンプを押した後じゃないといけない。その証拠としてスタンプの文字を返信の時に打って送り返さなきゃいけないのだ。

 私は迷いつつも、また階段を降りていこうとした。階段は上ってくる連中でいっぱいだったので、降りれなかった……。

 え、なに。この罰ゲーム。

 こんな集団の中降りたくないし……。

 仕方なく、エレベータのボタンを押してみると、どうやらすぐにやって来たようだった。だが……。

「え? う、うわぁ――――っ!」

 出てきたのは群衆だった。破裂しそうなぐらいぎゅうぎゅうに押し込められていたものが一気にあふれ出し、私もろとも押し流した。

 私は服を引っ張られ、足をふんずけられ(頭が来たので蹴っ飛ばしてやったら誰かがこけた)、弾き飛ばされた。服がもうくたくたである。何とか奔流が行ってしまった後、エレベータまで辿り着き、中に入り込んだ。その後といったら地獄だった……。

 通勤電車とはこのようなものだろうか。

 経験がないからわからないけど、いたい! いたい! 押し込まれるぅぅ――っ!

「う、うぅ〜……」

 胸が押しつぶされる……。

 やっとエレベータが動きだし、一階へと辿り着く。われ先に出ようとする群衆だったが私も負けていなかった。もうプライドとか、人に奉仕する精神なんてものはなかった。あるものなんでも掴み取り……ん?

 つるっ、とすべる。

「あっ!」

 私はハゲのおじさんの頭を鷲掴みしていた……ハゲって言ったら失礼だわ。丸刈りの方はこちらに振り向いて、侮辱されたような深い悲しみを湛えてこちらに視線を送っていた……私は手を合わせて謝り、なるべくすぐそこから離れようと躍起になった。

 胸とか色々なところを触られたり、触ったりしながら何とか這い出る。

「はぁ……きっつ」

 携帯を見ると、新たなチェックポイントが指し示されていた。

 ここまでやったんだから、諦めたくないなぁ……。私は走り出した。何とか諦めてくれる人が出ることを祈りながら……。

 なんとまあ、勝手な人間なんだろう。私ってやつは。

 次は向かい側のビルの隙間にあるという。

 私は横断歩道を走って渡り、帽子を取って汗を拭いながら、目標のビルの隙間に入っていった。

 ここにはまだ誰もいないようだ。

 不思議だ。バラバラにルートを指示されているんだろうか。

 私はどこにチェックポイントがあるのか探った。しばらくすると、道の小さい隙間に、お地蔵さんが三人座っているのが見えた。そこの隣にスタンプ台がある。私は嬉しくなって、「可愛い」とお地蔵さんにお参りしながら、スタンプを押した。

「あっ、猪木だ!」

 私は飛び上がる。

 誰だ、私をその名で呼ぶのは!

「って、本田君!」

 クラスメートの野球部の坊主君だった……こんな時にも制服でまあなんというか……スポーツ少年野郎だった。

「私の名前勝手に変えないでよ! 私は吉野であって猪木じゃないんです!」

「猪木もスタンプ探しやってんの?」

「話聞いてよ!」

「俺、ゲームソフト欲しいんだよねー。おまえは?」

「えぇーっと……本、ですけど」

 なんだか釈然としないまま答える。猪木じゃないと何度言えば……。

「え、本? 似合わねー」

 次の瞬間、私の拳がこいつの脳天に突き刺さっていた。

「ぐはっ……ナイス、拳骨……巨人……吉野……」

「あんたってやつは……」

 巨人という言葉に私は火がつけられた。

 巨人。身長は気にしてないって冒頭で言いましたけど!

 巨人と呼ばれることほど私は愚弄されたって思う時はないんです!

「私は猪木って名前より巨人って名前のがいやなのよ――っ!」

 胸ぐらを掴んでぐらぐら揺さぶった挙げ句、中空に吹っ飛ばした。

 ふん……小さいやつはよく飛ぶわ。

 じゃねぇぇ――っ!

「ひっ、ひぃぃ――っ!」

 のびてる本田を見た一般人が悲鳴をあげる。

 あっ。私がやったなんて思われたくないんですけど!

 と、思ったら逆に突っこんでくる太った男がいる。なんで?

「隊長! この男、確保しまぁぁ――すっ!」

「よく言った! いけ、隊員田中!」

 まるでラグビーのタックルのように私のウエストを掴んでくる。勢いあまって転んでしまった。

「同志! 行くがいい! 我らが天使・秋葉京子ちゃんのマル秘写真集をゲットするために――! おい君、暴行罪はいかんぞ! 我々に屈服するがいい! しゃふぁふぁふぁふぁふぁ! ……ん?」

「どこ触ってんの変態!」

 ひじ鉄砲が男の頬にヒットする。

「ひっ、ひいぃぃ――! 女子です! 女子であります隊長ぉぉ――っ!」

 悲鳴を上げたいのはこっちだ。けど先に悲鳴を上げられたものは呆然と見ているしかないという法則を弁えていやがるこのオタク共……。

「何ぃっ! そんな長身の女子は見たことないぞ……男の娘の間違いだろう! とにかく! ずっとそいつを押さえておくのだぞ!」

「(むか……)」

「ひっ……無理です! 無理です隊長! リアル女子の柔らかさには耐えられません! ああ……天国……しかも結構可愛いですぶぎゃぁぁ――――っ!」

「あんたらセクハラで訴えるよ!」

 ニキビで顔がテカテカしているやつにはアイアンクローしたくなかったが、これも仕方がない……。

 私の背中に体をくっつけているやつには遠慮などしたくない。

「ひぃぃ――っ! いつまでこうしていればいいですかぁ――!」

「おい男!」

「私は女です!」

「我々は必ずや京子ちゃんのマル秘写真集をゲットするぞ……」

 何それ。

「じたばたせず、抵抗など諦め、そこで大人しくしているがいい!」

「何それ! 意味わかんないんだけど!」

「隊長! スタンプゲットしますたぁ――っ!」

「よしっ。オーケー!」

 七十年代のファッションみたいな格好した眼鏡の男がサムズアップする。私を拘束していた太ったてかり顔の男も泣きながら離れて去っていった。

 私は肩を抱いて身震いする……。

 何だろう……汚された気分。じゃねぇ。

 頭来るな、もう。

 私は立ち、メールを送りながら次の指示を待つ。

 どうやら今みたいに集団で景品をゲットしようと、連携(?)プレーをしてくる奴らもいるようだ……ああ、いやんなる。

 だけど、あんなやつらには負けたくない。

 私は走り出した。

 次の目的地がわかったのだ。

 もうほとんど人の姿が見当たらない。

 もう街のあらゆるところへ分散したのだろうか。自分が今何位ぐらいなのかわからない……あのオタク共をやっつけてやりたいとも思ったが、とりあえずスルーしておいた。まずは次のポイントだ。

 しかし男と間違えられるなんて……ベースボールキャップを取って、しまっていた髪を解いた。ポニーに結び直して、もう帽子は被らなかった。こいつのせいだ……ポケットにねじ込んで次の目的地へ向かった。

 駅は大賑わいとなっている。テレビ局も来ているみたいだ。ああ、なんてことだ。これじゃただ恥さらしをしているだけなのに……全国放送されでもして、もし自分が映っていたら死ぬほど恥ずかしい。

 次は、街の中央にあるビルの八階だった。

 下にファミリーマートがある。

 その隣から建物に入ると、やはり案の定群衆がエレベータに殺到していた。階段を探そうとしても、駄目だった。ぎゅうぎゅうに階段に列を作って塞いでる。誰も通れなくなっているようだ。困ったな。何とかエレベータに乗れないかやってみたものの、重量オーバーのブザーが鳴り響くばかりで、まだそれでも入ろうとするやつがいるんだから、押し合って、外にぶん投げて、いがみ合って、エレベータが行ってしまう。次のを待とうとしても、どんどん入り口から人がやって来る。

 階段にも行こうとしたが、こちらも同じようなものだった。

「あぁ〜っ……」

 頭を抱える。座り込む。

 すると、「ちょっと」と男の人の声がかかった。

「大丈夫? お姉さん」

 見上げると、男の人が立っていた。

 う……結構カッコイイ。鼻がすらっとしていて、目が大きくて……体ががっちりとして、肩幅も広い。彫りが深く、眉も男らしい。爽やかにジャケットを着ているが、どことなく高級感がでてる。

「ええ、どうも……」

「おや。お姉さんじゃなくてお嬢さんだったかな……ゴメンゴメン」

「あ、いえ」

「すごいイベントだよね。人だかり」

「はい……」

「君も参加してるの?」

「はい……まあ、」

「実は俺もなんだ。でもまったく、やってられないよ。参加者が多すぎるんだもの。景品が凄いってネットで広まったみたいだね。どうだい? ちょっと休まない? あんなに必死になったってつまんないよ」

 彼は私の手を引っ張って、立たせ、階段に連れていった。

 階段にいる人だかりは彼の姿を見ると、左右に割れていった。まるで彼がその群衆を操っているみたいに。

 って、ええー。

 意外とカッコイイ人なんですけど……でも、ナンパだと思うし……うーん。こんなことしている場合じゃ。

 彼は私を爽やかに、また優しげな手つきで二階まで案内した。二階にはカフェがあり、そこに入ろう、と誘ってくれた。

「君、大学生?」

「いえ……あの、高校一年生です」

「え」

 彼は少し驚いたようだったけど、笑ってくれた。笑い飛ばすような感じだった。

「あの……私、急いでるので」

 そうすると、手を少し強く引っ張られた。

 すぐ近くに体がある。

 背中が仰け反りになる。

「ねぇ……君、綺麗だよね」

「いえいえ! 全然!」

 息がかかるっ! 何だかさっきのオタクたちみたいに力いっぱい突き飛ばせない!

 しかも力強いし!

「全然そんなことないですってば!」

「俺さ……こんなイベントやめて、君と一緒にゴハンでも食べたいんだよね……大丈夫。女の子とか他にもいっぱい呼べるし」

 ああーっ!

 私は迷いに迷ったが、何とか力を込めて彼の胸をぎゅっと押した。

 彼は笑いながらも私の腕を掴むと、手の甲にチュッとキスをした。

 私はびくびくする。

「あはは。冗談だって」

「しっ、失礼しまっすぅ――っ!」

 私はドアを開けて(ちょうどそこに非常階段を見つけたので)出て行った。その男の人は私に手を振っていた。

 

 男はさゆりを見送ると、携帯を取りだした。

「うん。俺。非常階段があった。そっち一人行ったから。うん。勘弁してくれよ。さっきから変なおばさんばっかり来るんだから……逃がしてくれないんだよ。じゃっ。また可愛い子見つけたらお話しとくから」

 携帯を切って、にっと微笑む。

 

 非常階段は外に取り付けられている。

 カンカン、と音を立てつつ、私は階段を上った。ひぇぇ……高い場所。でも、こっちはまだ人に見つかってないらしく、私一人しかいなかったのですいすいといけた……。

 しかし、さっきの人……。

 よく我慢できたもんだ。えらい。自分。

 そうやって色々考えながら階段をだいぶ上っていくと、

「ほっ……ほっ……」

 変なおじいさんが階段を上っていた。

「あっ……ちょっとー。大丈夫ですかぁ〜?」

「んんっ?」

 彼はこちらを振り返る。腰が曲がっている……大丈夫か、このおじいちゃん。

「何でこんなところにお一人でいるんですか?」

「あぁ……すまん娘さん。手を貸してくれんかのぉ……」

「ええ? いや……うん。はい。いいですよ」

 急いでるんですけど。と言いたかったけど、こんなところにおじいさんが一人ぼっちでえっちらおっちら上っているのは、きっと私たちイベントの参加者のせいだろう。

「おじいさんは、何でこんなところにいるの?」

「ほれ……えっと、何トカ建設じゃったか……ここの四階だか六階だかにある事務室にちょいと用があってのぉ……だけどエレベータちゅうもんは人だらけで使えんし、階段も全然通してくれんもんでのぉ……」

「そうなんだ……はい。気を付けて」

「ありがとうよ……」

 手をぎゅっと掴んで、一歩一歩進んでいくのを手伝ってあげた。

 はぁ……何やってるんだろ。私。

 いくら景品欲しいからって、せっかくの休みの日なのに、友達とも遊ばないで。景品を本気で取ろうって思ったら、ここでおじいさんと手繋いでるし。

 でもおじいさん放っておけないし……。

「すまんのぉ……娘さん」

「あ。いえ。いいんです。気にしないでください」

「ありがとうよ……」

 震える声で、

「めんこい娘さんじゃのう……わしの死んだばあさんの、若い頃にそっくりじゃ……」

 ああ。嬉しいのやら、微妙な気分……。

 苦笑いしていると、

「ああ……ちょっと休ませてくれんかの……ふぅー。ちかれた」

「あの……もう」

「後もうちょっとじゃぞい! 頑張っていこうじゃないか!」

「……はい」

 涙を流したい気分だった。

 これでゲーム敗退確定か……別に、いいけど。今までのあの本田君やオタク、イケメンとのやり取りは一体……。

「あぁ……そういえばのう」

「え?」

「すまんな……娘さん」

 おじいさんは手元に何か持っていた。それは綺麗に折りたたまれたハンカチだったが、その中から出てきたのは……、

「え?」

「わしも、参加しとるんで……おりえんてーりんぐ……」

 チェックシートだった!

 ま、まさか!

「すまん……大事な研究のためなんじゃ……」

「教授、ナイスです!」

 階段の上方から若い男の声がした。

 大学生らしき、茶髪の男だった。パーカーを着ている。

 その奥から女の声もする。

「やるじゃないですか! 教授」

「君、高校生? 悪いねー」

 教授と呼ばれたおじいさんはピースサインをしている。

「俺たちは××大学の古書研究会といって、サークル生全員がこのイベントに参加している、希少な古書が数点用意されていると聞いてね」

「うそ……」

「すまん……娘さん」

 私は頭をかきむしった。

「あぁぁ――――っ!」

 最低だっ。人を騙すなんて!

 こんな大学生なんて最低だ!

「どいて!」

「どかない。悪いが、ここを通りたければ僕を倒していくのだ!」

 ゆらり、と格闘術の構えを取る。

 ええ? 私は格闘術なんて知らないよ?

 ぼこぼこにやられるだけだと思うけど!

「どいてください!」

「逃がすか!」

 脇をすり抜けようとして、シャツを引っ掴まられる。私は手で振り払って、何とかドアに逃げ込もうとするが、数人の女子たちに囲まれた。

「古書のために!」

「死んでください!」

「死ねるか!」

 もういや! こんな人達!

「すごいパワー!」

 うっさいわ!

 私は女子たち数人を取り払った。

 ちっちゃかったので……。

 時々、身長があるというのは、役に立つかもしれないけど、こういう悲しい事情を伴うこともあるわけで……。

 その時私は全員を引きはがして、廊下の奥へ行った。そのタイミングでチン、とエレベータが到着した音が聞こえ、どっと人波があふれ出す。それがうまくあの古書研究会というやつらを塞いでくれたみたいで、私は難を逃れることができた……。

 押し合いへし合いしている中を何とかかいくぐり、スタンプ台へ辿り着く……。

「待つがいい! 我々が何人いるのか知っているのか! 数百人は動員しているんだぞ!」

 さっきのやつら。

「あんたらアホじゃないの! 他にやることあるでしょ!」

「情熱なんだよ! 情熱! いいかい? もう我々のスタンプ奪取組は四つ目を取っている……我々の知る限り、一位だ。我々は景品全て奪取するつもりでいるのでヨロシクゥ!」

 私は携帯をいじってメールを送信した。

 携帯をポッケに押し込んで、人波に相対する。さっきのやつらも混ざっている。私は飛び越えた。手すりに足をかけて、人々の頭の上を跳躍しつつ――時には踏んで――申し訳ないと手をこすり合わせながら、非常階段まで行った。

「待ちたまえ!」

「会長! 無理ですぅー! 動けません!」

「押しつぶされますぅー!」

「くっ! 階下班に連絡だ!」

 その階下班とやらは私を食い止めに非常階段を上って来たけれど、

「高所恐怖症なんで、俺!」

「役に立たないわね。あなた!」

「ちょっとどいて! きつい!」

 私は連携を乱した奴らを抜いて、一人で階下へ降りていくことができた……。

 お父さん……お母さん……無事で……。

 なんていうか、この騒ぎに乗っかっていてほしくないので、そういう意味で……。

 私は二階まで非常階段を使って降りていく。ドアを開けると、さっきのイケメンが別の女子に声をかけているところだった。

「や」

 私はスルーしようとしたが、彼は

「古書のために!」と言って叫んだ。

 私が、信じられない気持ちで振り返ると、彼はピースサインでも浮かべそうな満面の笑みでこちらに手を振っていた。

 なんてこと……古書研究会……恐るべし。

 

 それからは、体力をさらに削る戦いだった。

 私は一応、結果的に言えば、順調に八個目のスタンプをゲットすることができた。ただ順調といってもそこには、また嫌な気持ちになるバトルがあったわけで……本当に、男も女もいやになってしまう。私はするすると抜けるつもりだったけど、この大きな背と女ってだけで目に付くのか、やたらと妨害を受けた。ただ妨害してくる人間は、また誰かから妨害を受けるのが天命らしく、私は誰にも迷惑をかけずにいこうとしたので、迷惑は逆に降りかからなかった。ひどい迷惑は……。

 相手たちがお互いに邪魔し合って潰れ合ってくれたおかげで、私はその隙間を縫ってスタンプをゲットしていく。そんな感じで私は八個目まで集めたので、そろそろ終了かなと、安心しているところで、一位の発表が来てしまった。

 もうすでに、古書研究会とやらが(本当かどうかは知らないけど)一位で到着したらしい……ああ。でも、放送では、まだ景品は九つもあるから頑張ってくれとのことだった。九つもあるんだ! 私はやる気を出した。

 足がくたくただったけど、次の目標地点に向かって歩き出した。

 ビルの中だったので、階段を使って、一階へ戻ったところ、

「あ」

 ちょうどエレベータの扉が開いて、中にいた人物が降りてきた。

 目が合う。

 それは、何を隠そう、私のかつての親友の向島早月だった。

 早月は私だとわかるとすぐ目をそらし、カツカツと靴の音を立てながら歩いていく。私はその隣に立つ。

 手元を覗き込んでみると、チェックシートを持っている。

 声を掛けにくかったが、まさかこうばったり分かりやすい形で出会ったら、挨拶ぐらいしとかないとと思い、おそるおそる、「ねぇ」と言った。

「あの、」

 早月はちらり、とこちらを見た。

「それ、参加してるの?」

「さゆりも?」

「うん」

 それだけだった。

 私のことなんか興味ないといった感じで、口を閉じて、何だか不機嫌そうな顔のまま、つかつかと歩き出した。

 私と一緒にビルを出ると、早月は前に停めてある自転車に寄っていった。自転車の鍵を開けて、またがる。

「ねぇ!」

 と、私はさっきよりも強い声で言った。

「何個、集めたの?」

「八個」

 私と同じだった。出てきたのは、私と同じビル。

 って、いうことは……。

 挨拶もしないで去っていこうとするので、走って追いかけた。

 隣に並ぶ。

「ねぇ、私と同じ場所なんじゃない?」

 それがどうした、と目で語っている。

「乗っけてって、くれないかなぁ〜?」

「……」

 無理にこぎ出した。

 私はその荷台を掴む。

 止まらざるを得なくなる。

「無視しないでよ!」

「ちょっと、危ないじゃん!」

「荷台あるんだから、せっかくだし……」

「何がせっかくとか、意味わからない……」

「お願い乗せて!」

「一人用だから無理!」

「だから荷台に乗っけてって!」

「あんたって……」

 私のことをじろじろと見て、

「体重いくつ?」

「えっと……」

「別に太ってないけど、身長でかいし重いよね」

 重いという言葉が胸に突き刺さる。

「私力ないから。じゃ」

 無理矢理発進しようとする。

 私が放さないのを見ると、手で払った。

「ね、待てって」

「まだ何か」

「本?」

 これは、部門の話だ。

 部門ごとに参加者はルートを分けられるので。

「それが何か」

「じゃ、競争しよう!」

「は?」

 私は彼女の前に出て、信号が赤になったタイミングを見計らって、横断歩道を渡った。

 赤になってすぐだったので、車の方は動き出さず、ちょうど渡り終えて少ししてから動き出す。

 もう渡れまい。

 べー。私は目元に指を当てて舌を出した。

 生意気。

 ちょっとぐらい乗せてくれたっていいのにね。私に何か恨みでもあるんだろうか。

 ちっちゃいからって、何か鬱屈したもん持ち過ぎ。

 馬鹿みたい。

 悔しそうにしている。

 私は少し休憩してから、駅の方へ向かった。

 今度は駅である。

 

 駅講内にある、立ち食いそば屋の券売機の隣にあるという……何だそりゃ。立ち食いそばなんて食ったことないよ! おじさんたちが立ち並ぶ隅で、いそいそとスタンプを押す私。参加者がだんだん居なくなってきたな。他の参加者たちもゴールしたのだろうか。まだ景品が残っているといいけれど。

「どいて」

 頭を叩かれる。

 振り返ると、あの早月が立っていた。肩で息をしている。

「デカ女」

 そっと、囁くように言われたこの台詞に、自分は頭に来た。

 同時にメールを送信する。

 そば屋の男性たちは不思議そうに私たち女子高生を見ている。

 同時にメールが返って来る。

 場所を思い出しながら、私と早月は一緒に駅を出た。

「邪魔すんなって!」

「あんたが邪魔してんでしょ!」

 自転車に乗って追い付いてくる。

「何で一緒の方来るわけ!」

「だから同じルートだって言ってるの!」

 ぎゃあぎゃあ言いながら、私は走る。走る。にしても向こうは楽そうだ。こちらの必死な様を笑うかのように、じっと見ながら、目を細くしている。

「馬鹿みたい」

「は!」

「さゆりって男の子みたいだよね。熱血で、行動派で……勝負とか意味わかんないし」

「別にどうだっていいでしょ!」

「背大きいし」

「何を! 背のこと馬鹿にすんなよ!」

「お先」

 シャリリ、と車輪が回る。

 早月は立ち漕ぎして、路地の方へ消えていく。

 私はどっちに行ったら?

 走っているだけじゃ追いつけない。

 私はショートカットを使うことにした。

 狭い路地を使って、反対側へ出る。

 相手は回り道をしないといけないから、これなら先に目的地へ着けるはずだ。何だかゴミ箱とか、変な染みとかあって汚かったけど、服は汚れてないし、別に汚れてもどうってことない服だし。

 道へ出ると、右から早月が自転車に乗ってやって来るところだった。

 私を見ると、驚いている。

 やや不機嫌そうに目を伏せて、また力いっぱい漕ぐ。

 私も並ぶ。

 ぜいぜい。しんどくなってきた。

 コーヒーショップの角を曲がり、そこに早月は駐車する。ガチン、と鍵をかけて、向こうはまだ、走るつもりはないらしいけど、私は走る。走る。そうしたら向こうもなんだか腹が立ったのか、負けるのが悔しいのか、速歩きで追っかけてきた。

「勝負なんてくだらないんじゃなかったの?」

「別にそんなこと言ってないし」

「ゆっくりしててよ」

「どいて!」

「いや! 私を倒していくがいい……」

 邪魔してやると、小さい早月は精一杯背伸びして私のことを睨んだ。

 なんだか面白い。こうやっていじめ合ってよく遊んだっけ。

 だけど、いじめるのはいつも向こうだったような。

 それでいて楽しんでるのだ。早月はそういうやつだった。私は追っかけてぶうぶう文句を言って。

 今、私が逆転してやっているのが、何だか楽しい。

「とおせんぼして、何が楽しいの?」

「べっつにー」

「えいっ」

 すり抜けようとしたので、そっちに移動する。

 また逆側から。移動する。移動する。移動する。

 ディフェンス、ディフェンス!

 向こうは顔を真っ赤にして汗をかきだした。

「さゆりって最低」

「うっさいわ! 楽しかったでしょ」

「別に楽しくないし……どけっていい加減に」

「チビ」

「何よデカ女」

 私たちは小さな路地へと入っていった。

 そこはラーメン屋の隣だったので、換気扇から蒸気がむわーっ、と私の顔にかかってきた。目をつむる。うわっ、最悪!

 くさっ……私が手をパタパタ動かしていると、「プ」と笑う声が聞こえた。

「背大きいって大変だよね……」小声で言っていたが聞こえた。

「あんたも肩車してほしかったらいつでも言いなよ! 味わわせてやるから! スープの香りを!」

「別にかぎたくないし。さゆりじゃないし」

「あんたそれどういう意味よ!」

 つかつかと歩いていく。

 ゴミだらけね……何でこんなところにチェックポイントが……。

 隙間の小さいところにチェックポイント。スタンプを押すために早月がかがみ込む。

「小さいって便利よね」

「どうとでも言えばいいよ」

「むか」

「よし。これで十個……」

 チェックシートを持って笑っている。

 ふん。安心したような顔しちゃって。

 甘いんだ!

「また通せんぼ? 他にやることないの?」

「別にー……私はここに立ってるだけだけど?」

 道を塞いでやる。早月は溜息をついて、携帯でメールを送っている。

 あ、私もスタンプ押さないと。

 かがみ込むと、足を踏まれて、逃げられた。

「あいたっ!」

「べー!」

「くそっ! あんにゃろ……」

 スタンプを押すときも足の痛みで震える。

 あいつ、思いっきり踏んづけやがって……。

 男だ巨人だとか、好き放題言われてさ……傷付かないわけないじゃん。馬鹿どもが。

 それだけ、いつも笑って慰めてくれていたのにさ……早月は。

 私は、なんだか、寂しくなった。

 こんな勝負で子供っぽくなるのも馬鹿らしいけどさ。

 仲直り……これでできたら、いいんだけどな。でも、あいつは私のこと嫌いっぽいし。別にそれならそれでもいいんだけど。

 私はとぼとぼと路地から歩いて出た。

 やめよっかな。

 人はいつも通り、商店街を歩いている。もうイベントの参加者らしき人々の姿は見えない。どこに行ったんだか……。

 一位発表以後の放送はない……あるいは聞こえていないだけなのか。

 本は欲しいけど、こんなに必死になってやるほどのものか? 古書なんかいらないし。私は貴重なもんがあったら、オークションかなんかで売っちゃえばいいって思っただけで。

 あ〜……まあ、本は好きなんだけどさ。

 あいつと一緒で。

 そうすると、胸がぎゅっと締めつけられた。

 あ〜……走ろ。

 ださいけど。足くたくただけどさ。

 なんかあいつに、言ってやりたいこともあるし、なんつーか、むかつくし。

 負けたくないし。

 私は走りながらメールを確認した。

 次は街の銀行だ。

 銀行?

 銀行のどこだっていうんだ?

 しかも十個のスタンプはもう押しているはずで……次はどうすればいいの?

 メール本文をよく見ると、こう書いてあった。『銀行内部に景品アリ。以下の順序に従って向かってください』

 銀行内部って……そこには詳しい順序が書かれてあった。入り口から、事務室に入って……って、ええー、そんなのいいの? 困惑する。

 取りあえず、行ってみることにする。あの子もきっとそこにいるはずだ。

 指定された銀行に着くと、涼しいクーラーが汗をかいた体を冷やしてくれた。受付の人が頭を下げてくるが、すぐにオリエンテーリングの参加者だと知ると、指を差した。

 そちらを見ると、事務所に入ろうとして、それがいいものかどうか逡巡している早月が見えた。

「あっ」

 こちらに気付く。

 私はパタパタと手で首の部分を扇ぎながら、その小さい女に狙いをつけた。

「見つけたよ! ガキんちょ!」

「うっさいよ!」

「そこに入るって?」

「うん……って、近寄ってこないでよ。汗臭い」

「汗臭いですって? なんて酷い言い草!」

「近寄らないでって言ってるでしょ!」

「健康なんだよ! 汗は健康の証だよ!」

 しかし、言い争っていても始まらない。こうしているだけで、どんどん時間は過ぎる。

 こうして入ってもいいってメールに書いてあるんだから、入ってみればいいんだ。私はドアを開けた。

 すぐひんやりした空気が体に触れる。

 早月もすぐ入って来る。

 走り出す。どちらからともなく。

 携帯を取りだして、次のルートを確認する。

 突き当たりを右に曲がり、廊下を突っ切って、次の突き当たりを左へ。

 階段があるのでそれを降りる。

「ぜぇ……ぜぇ……」

 走りは向こうの方が速かった。

 運動は早月の方が断然得意だ。

 私は背が大きいだけで、運動が全然駄目。

 頭もちょっと向こうのがいい。

 本読んでるし。いつも。

 本、私も好きなんだけどなあ。いつからこうなった。

 私は昔からこうだったわけではなく、立場は向こうと逆転していた。小学校の頃は向こうのが大きかったし、運動だってちょっと得意だったけど、早月はオシャレで、人気者で、私はその後塵を拝していた。

 でも早月は私を独りにしなかったっけ……。

 あ〜っ! 何を思いだしているんだろう!

 諦めちゃだめだ!

 諦めるな私!

 負けてたまるかっ!

 階段を飛んで追い付く。向こうも息は上がっている。

 職員さんたちが私たちを避けて通る。

 驚いている人たちが多いが、止めには入らない。

 やがてエレベータに辿り着いて、下行きのボタンを押すと、ようやく会話ができるタイミングが訪れた……。

「何、本気になってんの……」

「早月もじゃん……」

「別に……あんたには関係ない……」

「ねぇ、」

 そう言いかけたところで、エレベータがやって来る。あの子はさっと入り込んで、急いで「閉じる」ボタンを押そうとする。足にガタがきていた私はちょっと転びかける。

 あの子が笑っているのが見えた。私は手を挟んで、エレベータが閉じるのを何とか止めた。

「あいたっ……」

「ちっ」

 おもむろに舌打ちする。

 私は手を抱えながらエレベータに入って、彼女を睨みつけた。

「あんたさ……変わったよね」

「……」

「前は、あんなにいい子だったじゃん。いつも私に優しくてさ……そんな暴言吐ける子じゃなかったじゃん」

「昔からそうだったし……それに、さゆりが知らなかっただけで、別に私、優しいわけじゃないし……」

「じゃあ、」私は声を大きくして言った。「何で私たちこうなっちゃったの?」

 エレベータが停まったので、降りる。

 地下二階。電気が点いているけど、壁が暗い色のせいか、どこか薄暗い……。ゆっくりと早月がエレベータから出て、こちらを振り向いた。

「だって、変わったのってそっちが先じゃん」

「私?」

 記憶にない。

「変わったよ……私とずっと仲良かったのに、どうして……そんな人になっちゃったわけ?」

「私は」

 胸に力を込める。

「私は、変わってなんかないよ! いつだって、自分のまんまだもん!」

「あのさ」

「何?」

「友達、今日一緒じゃないんだね」

 友達というのは、いつも付き合っている子たちのことだ。

 今日は、いない。だってオリエンテーリングとか知らないと思ったし、馬鹿らしい遊びだと思っているはずだったから。理解してくれないと思ったので。

「呼んでないだけだよ」

「あ、そう」

「別に、何なの?」

「仲良いの?」

「仲良い……はず」

「ずっと一緒にいるよね。それにしては」

「だってそれが友達でしょ?」

 はっ、とさせられた。

 友達。

 友達って、何?

 私はそれを最初から知っていたはずなのに。

「私……もうさゆりの友達じゃないんだよね。ずっと前から知ってたよ」

「え」

「入院して、高校生最初から始められなかったとき……あの時、お見舞いに来てくれたよね……一緒の部活入ろうって、言ってくれたよね……文化部。今も入ってるけど、来てくれたこと一度もないよね」

 早月は、説明していなかったが、高校に入る直前に病気にかかって、二ヶ月ほど入院していたことがある。

 そのせいで高校生活に出遅れた。

 私は、六月まで誰も友達を作らないでいようと思っていたのだが、

「だって……そっちが言ったんでしょ? もう毎日見舞い来なくていいって」

「だってさゆり本当に毎日来るんだもん」

 顔を背ける早月。早月は少しずつ歩き出した。もう景品のことは、頭にないようだ。

「私、それじゃ学校でさゆりが独りぼっちになると思ったから、きちんと一週間に一回ぐらいに見舞い来てくれればそれでいいから、友達作ったり勉強したり向こうでやってって。そう言って……ずっと待ってたのに、来なかったじゃん」

「そう……だね」

 私も歩き出した。

 人の気配はない。かつ、かつ、と音がする。

「ずっと……待ってたんだよ……一人で」

 あのときのことを白状しなければいけない。

 早月が見舞いに来いと言ったのは、一週間後だった。ほとんど毎日欠かさず見舞いに行っていた私だったので。それの意を解して、私は学校に慣れるために、友達作りを頑張ったし、勉強も一生懸命やった。

 でも、友達のことが主に、なんかどんどん大変になっていって。

 あの子たちと一緒にいるには、やはり、他の女の子とも平等に付き合うわけにはいかず、ボーリングに行ったり、あるいは放課後同じ街のCDのお店に行って最新のアーティストの曲を聴いたり、あるいはただカフェでだべったり……それらが全部楽しいわけじゃなかったけど、でも仲を維持するのはやはり大変で、少しでも欠席すると、私なんか見てくれなくなるんじゃないかと必死で……その子たちは綺麗だったり、あるいはお話が上手だったり、素敵な彼氏を持っていたり……いろいろあって。

 私は何だか、不安で不安で、仕方なく付いて行っただけの付き合いも少なくはなかった。

 そうしているうちに、勉強が追っ付かなくなって、小遣いをお母さんにせびり出し、そのせいで休日も手伝いをしなくちゃいけなくなり……バイトも少し始めたし、いろいろやらなきゃいけないことが多すぎて……つい、なおざりになった。早月の見舞いのことが。

 早月の見舞いに予定日に行けなくなったことが、その当時にはすごく気がかりだったけど、メールで明日行くよ、と打てば、明日にはまたつい何かの用事が出来て、その次の日もやっぱりいけなくて……毎日行けないメールするのも疲れて……結局行ったのは一ヶ月くらい後だった。

 私はそれでも、何とか予定を切り詰めて行ったつもりだった。でも迎えてくれたのは早月の笑顔じゃなく、冷淡な顔だった。

 会話も花が咲かず、話題を振ってみても切り捨てられるだけ。私はそうそうにそこを辞去してもう会う約束もなくなったのだった。

 確かに、こうしてみれば私だけが悪い。でも、少し言ってくれればよかったのでは?

 メールだってきちんと一度もしてくれないし。いつもいつも私が謝るメール送ってばっかりで。

 本気で早月が会いたいなら、何とか予定をキャンセルしてでも飛んでいったのに。

 だって忙しいんだよ、こっちも。

 ああ、言い訳。

 うざい。私。

「そうか……」

 私がうなだれると、早月はそれを無視するかのように飛んでいって、先に向かいの角を曲がった。

 私も慌てて行くと、彼女が驚愕して立ち止まっているのにぶつかった。

「あいた!」

「え……何、これ……」

 早月が息を飲んでいる。

 ぶつけた箇所を押さえながら、見てみると、そこには多数の人間の体が倒れていた。

 私は悲鳴をあげそうになってしまう。

 だって、こんなの見たことないもの。

 映画の中でしか。

 しかし、この人々は、誰か一人の殺人鬼にやられたようには見えなかった。むしろ、互いにやり合ったような……そうか。ここでもお互いに邪魔し合って……。

 なんていうことだろう。なんて醜いんだ。人間って……私も人間だけど。このゲームでがっつり人間性が鍛えられたような気がする。私はもう欲に走って他人を陥れるようなことはしないだろう。でも同時に人間の汚さもまざまざと知って、泣き出したくなった。

 虚しい……。

「きっと……お互いにやり合ったんだ」

 早月が私と同じ見解を抱いていた。

 男も女も。気絶している。

 と、そこに、動く者の気配があった。

 廊下の奥。

 ずるずると体を引きずっている者がいる。

「ぜぃぜぃ……待っててくれ。京子ちゃん……今俺が全神経を使ってそっちに向かっているから……君のことは俺が守るんだ……」

 って、おまえかぁぁ――――っ!

 私は飛んでいって、リーダー格のオタクを上から見下ろした。

「や。変態さん」

「なぬっ! き、貴様は! あのときの不良じゃないか!」

「変態さん。私の体触ったよね?」

 不良という言葉にカチンとくるが、私は構わず無視する。

 見れば、さっき会った二人のオタクも倒れていた人々の中に見つけた。

「何を馬鹿な……私じゃなく隊員田中だっ!」

「痴漢は連帯責任!」

「聞いてない! あと別に男の体を触る趣味は――いだだだだだっ! 手を、手を踏むなぁぁぁ――――!」

「ほんっといらつくわ……」

 もうこうなったら、いちいち女だと分かってもらう必要もないと思った。馬鹿は相手にしないに限る。これで借りは返したと思い、私はオタクを視界から外した。

 廊下の先を見ると、信じられない光景が待っていた……。

「げげ! しまったぁ――!」

 オタクが叫びを上げる。私もそう叫びたかった。

 本はもう目前にあったのだ。廊下の奥の金庫の中。金庫のパスワードを丹念に入れている早月が一瞬見えた。

 あいつ、私がオタクとやり合ってる隙に!

 金庫扉を開けて入っていく早月の後ろ姿。

 私も追っかけるが、ときすでに遅し――早月は宝箱を前にしゃがみ込んでいた。

「おめでとうございます! 景品は、先に掴んだ方のものとなります。表彰式がありますので、景品を持参して大会運営本部までお越し下さい」

 宝箱が音を立てて開いて、早月はそこにある一つの本を手に取った。

 古い本のようだった。少なくとも、マル秘写真集ではない。手のひらより少し大きい、ハードカバーの……表紙を見ると、ムーミンの絵が描いてあって(それもかなり古い。味があるやつ)、ムーミン谷のお話、と書いてあった。

 私は驚いた。

 この本を見たことがあったからだった。

「早月、この本……ムーミンだね」

「うん……懐かしい」

 それは、私たちが小学校の頃、大好きだった本だ。

 活字は当時苦手だったけど、大好きなムーミンだったので、読書感想文で読んだ。その後も面白くって、二人で代わりばんこにして読んだんだった。確かにこのタイトルで、この表紙で、こんなハードカバーだった。

「うわっ、この絵懐かしい〜」

「うん……落書きしようとして、さゆりに怒られたよね」

「え。そうだったっけ?」

「うん……本は大事にしなきゃだめって。さゆり、泣いちゃって……」

 くすくす笑っている。

 なんだか、気が抜けちゃった。

「はぁ……」

 私は溜息をついて、へたれ込んでしまった。

 ムーミンって……はずれかよ。とほほ。

「はずれなんだね……」

「ううん。これ、もう本当に珍しい本だよ。私、探したから知ってる。もうどこの図書館にも、ないんだよ……」

「え? そうなの?」

 うん、と頷く。

 小学校にはあるのかないのかわからないけど、今さら借りに行くことはできないし。と早月は続ける。

「はずれ……じゃないんだよ」

「むがぁぁ――っ! 何たることだ! 京子ちゃんのマル秘写真集あるんじゃなかったの……早速実況しないと! というより誰だっけこんな情報流したやつぅぅぅぅ! 許さねぇぇぇ!」

「うっさいよ! 黙ってて!」

 言われなくても黙ってるようだった。スマートフォンを片手に何だかえらい形相で作業している。

 マル秘写真集って……はぁ……なんだか馬鹿みたい。

 こんなもののために頑張ってた私もたいがいだけどさ……。

「お。そこ、懐かしいね。まだ覚えてるよ。スナフキンの切ない気持ちが書かれてるところ」

 ゆっくりと早月がページをめくる。

 挿絵の横に活字が打ってある。かなり古い本で、それは活字の打ち方でもわかる。小さくて、今みたいな本じゃお目にかかれない固そうな文字だ。

「懐かしいね……」

「うん……」

 そういえば、こうして二人で座って、図書室の席で読んだものだったっけ。

 放課後の、綺麗な夕陽が差してくる、あの静かな図書室で。

 私が隣で、見せてもらおうと首を伸ばしてる。ちょうど今みたいに。

 そうすると、早月が微笑んで、私にも見える位置に置いてくれる。それから、私が読み終えるまで待っていてくれたっけ。

 ちょうど今のように。

 あれからたくさんの本を読んだけど、このムーミン谷のお話だけは何故か記憶に残ってる。

 とても好きなお話だったっけ。可愛くて、でもどこか切ない感じのするお話……アニメと全然違った。どこか暗くって、でも神秘的で、ほんのり温かい。暗い部屋で、ロウソクを灯して、こっそり二人で読んでいるようなお話。

 ちりちりと埃が舞っている音まで聞こえる。

 そんな、静かな空気が思い起こされた。

 懐かしい。

「ちょっと、重いって」

「何を」

「あっち行って!」

 頬を押される。私が寄りかかりすぎていたみたいだ。

「集中して読めないじゃん」

 そうして一人で読み出してしまう。

 その横顔が何だか、冷たい感じがした。

 なぜ?

 物分かりが悪い私には分からない。

 ああ、いつから、こうなってしまったのか?

 今一瞬感じた早月との思い出は何だったのか?

 少しだけ見せた優しさは何だったのか?

 戻りたい。

 また前みたく仲のよかった二人に戻りたい……。

「ごめんね。早月」

 早月は本に目を落としたまま動かない。

「許してね……私、勝手だったよね。いつもそう。自己中心的でさ。流されやすくって。でもどうしようもなくってさ……」

 まだ動かない。

 聞こえているのかいないのか。

 まだ何も言ってくれない。

「私、早月に許してもらいたいよ……本当にごめんなさい。何も、言い訳できないよ。私、頭悪いから、また馬鹿みたく冷たいことしちゃうかもしれないけど……でも、仲直りしたいよ……何回でも許してほしいよ……早月……私たち、もう、友達じゃなくなったのかな」

「うん」

 むげない返事だった。

 そっか……そうだよね。

 壊したの、私の方だったもんね。

 寂しいの我慢して、それでも私のこと信じ続けてくれたのにね。

 どうして、こんな酷いの、平気でやれたんだろう……。

 そう思うと涙が溢れてきた。

 死にたい。

 自分の価値が分からない。

 友達に友達だと思ってもらえないことが……でも、自分を責めるしかないってことが、つらい……。

「さゆり……」

「許して……お願い……」

「……」

 涙が出て、止まらなかった。

 なんでだろう。自分で捨てたものなのに。

 後からそれを欲してる。どんなに大切で失ってはいけないものだったか、わかってからでは遅いというのか。

 それではもうやり直すのも許されないとでもいうのか。

 そんな残酷な――。

「私は、あなたのこと許すことができないの……」

 ゆっくりと、そう早月が答えた。

 私はただ悲しかった。

 胸が締めつけられて、もう本のことなど構っていられなかった。

 あの思い出が素敵すぎて。楽しんだあの時に戻りたくて、胸がズキズキと痛んで。

 それなのに、許されないとは。

 本が閉じられた。

 私に肩を預けてくる感触があった。

 不思議に思うと、それは早月の肩で、私の方を泣きながら見つめているのだった。

「だって、友達って許すとか許さないとか、違って、そういうのじゃないんだよ……」

 小さい。小さい早月が私の隣で憩っている。

 許して、くれたの?

「私の方こそ、許してね……さゆり……もっと、はっきりと、伝えればよかったんだよね……どこか、さゆりのせいにしてた……あなただけが、許してほしいって言うのは、違うよ……私の方こそ、許して……」

 私は微笑んで、髪をなでてあげた。

「許してくれる?」

「最初から……」

「また友達に?」

「いつでも。また一緒に……少しずつでいいんだよ……また一緒に友達になってこう……許して、くれた?」

「あったりまえだよ!」

 と、まあ、こういうわけで、私たちはお互いに気持ちを伝え合い、仲を取り戻すことができた。

 私たちが別れてしまったのは、誤解と怠け癖からだった。

 でも気持ちを伝えて、傷つけるのを、傷つけられるのを恐れないで、勝負してみれば、案外何とかなるもので。

 本気でやってみて、それでもうまくいかないことなんて、滅多にないんだ。

 私たちはそう信じているので。

 

                 おわり

 

 

 

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