エピローグ 親愛なる、あなたへ

 ジルは、黄金色に染まる部屋の中で、一つの封書を手に取った。

 宛名は、親愛なるケインへ。

 書いたのはミレイ・ドールズ。

こちらは綺麗な状態のまま、残っている。

 お久しぶりです、ケイン。ミレイです。

あなたには、もうずっとお手紙を出していませんでした。ごめんなさい。こちらも、色々忙しかったから。

そちらではご機嫌いかが? 親しいお友達はできた? 

もしかして、新しい女の人と仲良くなんかなっちゃったりしていないかしら?

 私なんかはもう皺も増えて、おばあちゃんになっちゃったから、とても心配です。

 あなたとのしばしの別れから、もう十八年がたちます。その分だけ、こちらでは歳を取ってしまったので、いつまでも姿の変わらないあなたが、ちょっぴりうらやましいです。

ヘレナはもう十七歳になりました。

 お仕事の傍らに、必死に勉学に励んでいます。それと、ちょっぴり剣術も習っています。

 少しでも二人のお父さんたちに近づきたいようです。リニエルさんのことを話そうとすると、やっぱり怒るけど、私にはわかっています。ヘレナは、彼のことを一番意識しています。どうにか彼を追い越したくて、毎日書斎に行き、難しい本を読んでいるのです。

 ヘレナに、どうしてそんな一所懸命頑張るのって、一度聞いたことがあります。そうすると、「私がお母さんを守らなきゃいけないから」と大真面目に言ってくれました。

 私は思わず笑ってしまいましたが、その後で、少しそれを反省しました。やはり私は、だめな大人なのね……というわけではなくて、あの子にも、色々とつらい目に遭わせてしまったから、ということです。

 リニエルさんが亡くなってから、もう七年が経ちますが、その間に私たちは、息をつく暇もなく毎日を過ごしてきました。ヘレナには、しっかりとした子供時代を送らせてあげられなくって、本当に申し訳なく思っています。特に、あなたに対しても……。

 何度も何度も手紙で同じことを言っているので、さすがに嫌になってきてしまったかもしれませんが、やはり言わせてください。私は……あなたのことを裏切りました。

 ごめんなさい。

許してくださいなんて言いません。ただ、聞いてほしいことがあります。

私がリニエルさんと仲良くしていたころ、あなたがそちらでどんな想いをしていたか、私はそれを考えると、ひどく不安な思いに駆られます。ですけど、彼があまりにも本気で私のことを想っていてくれていたので、私はその一方で、わずかな冷静さを保つことができていました。そのおかげで、私は彼との婚約を思いとどまることができ、あなたの妻であり続けることができました。

なにも、あなたへの罪滅ぼしというだけではありません。私は、いつまでも私自身であり続けるために、どこか逃げ場所を残しておきたかったのです。「女」である前に、「母」でありたかった。彼の純粋な愛情が、あのときは少し怖かったのです。

過剰な愛は、人を臆病にさせるのかもしれません。

そうして私は、屋敷を出て行こうと考えました。ヘレナには申し訳なく思いましたが、私はもうここに居られないと思っていました。すぐに身支度を整え、彼に最後のお礼を言いに行きました。彼はひどく憔悴しきった顔でありながらも、了承してくれました。しかし彼は、その後私が出ていこうとした間際に、慌てて走って私の肩を掴んだのです。

「行かないでくれ……」と、言うのです。

「この話は忘れてくれていい。だから、どうかまだここにいてくれ……」と、涙声で、訴えかけるように私に言うのです。

 このときに、私にそれをきっぱりと断れる力があったのなら、彼は最後に自殺せずに済んだかもしれませんし、今も大切な恩人として、健全な関係を築けていたのかもしれません。

 すべてはこのとき、私が甘えた選択をしてしまったのが間違いでした。

 その先に、なにも希望がないとわかっていながらも、私は頷いてしまいました。その眼に惹かれてしまいました。許されるのなら、まだ彼と一緒にいたいと思っていました。

私は感情に負けました。せめて今までの恩返しを……などと、勝手な言い訳を考え、ほんの少しだけ留まるつもりで、私はまた元の生活を始めたのでした。

 それが、全ての間違いだったと思います。

 なぜなら、その私の選択のせいで、彼の心をしだいに追いつめ、最終的に死へと追いやってしまったのですから。

 私は、ただ……心の中で謝り続けていました。

 ごめんなさい、ごめんなさい……と、何度も謝りました。

彼が自分のことを抑えられなくなってからも、ひたすらそうし続けました。

ただ謝り続けることが、私の彼への償いだと、勝手にそう信じ切っていました。

 そうして彼は、誰の助けも得られず、やがて絶望して命を断ちました。

ケイン……私は、本当に罪な人間です。

 冗談なんかじゃないですよ。人殺しなんですよ。私は、人を殺したのです。

彼のことを愛していたがゆえに、彼を苦しめ……彼を追いつめ、殺したのです。

 彼の自殺した理由は、書斎にあった日記帳により、判明しました。

 私はただ、泣きました。

 どうしていいかわからずに、ただ泣きました。

あなたのときに流した涙とは違います。悔恨や、むなしさや、どうしようもない自分たちの愚かさに、雪解け水のような、自分でも驚くくらいに静かな涙を、ひたすら流しました。

 愛のために人を殺すなんて、馬鹿げていることだわ、ケイン。

私たちは、どうしてここまで愚かなのでしょうと、私は泣いて、泣いて、涸れたと思ってもまた泣いて、三日三晩泣き続けました。

 そうしていつか泣きやんだ後、私たちには、また新たな現実の波が待っていました。

 彼の親族の方々は、私たちにこう言いました。

こんなやつらに遺産を分けるなんて馬鹿げている、むしろすぐにここを追い出してしかるべきだ、と。私はそれももっともだと思い、そのとき自暴自棄になっていたこともあって、すぐにそれに頷きました。

 ヘレナのことはもうなにも考えていませんでした。私は今すぐ死にたくって、彼と同じ死に方をしようと考えていたのですが、ヘレナだけは、そんな私の目の前で、ただ一人毅然としていました。

 凛とした眼差しで、ヘレナは一人、親戚の方々の前で、深々と頭を下げました。

 お願いします、お金はいりません、ですがここに居させてください、ここは大事な場所なんです、追い出さないでください、私たちを使用人として雇ってください、ここに住まわせてください、お願いします、お願いします……と、何度も皆さんの前で頭を下げました。

 私はそれをぼうっと眺めていて、それでひどく悲しげな気持ちになり、また泣きそうになりました。

 けれど、泣きませんでした。私も一緒に頭を下げ、お願いします、お願いします……と繰り返しました。

 そうして私たちは、今もここで生きています。

ヘレナが、どうして急にそんなことを言い出したのか、私はその頃全く知りませんでした。

 とにかく、私たちの嘆願は無事に皆さんに受け入れてもらい、私たちはどうにか追い出されずに済みました。

 嫌われもしました。しかし、私たちの味方をしてくれる方々もいてくれました。その中のとあるご夫婦は、すすんで私たちと一緒にこの屋敷に住んでくれるようになり、多くの世話もしてくれました。

 そのときに知ったことですが、ヘレナは、この屋敷が売られるかもしれない、しかし買い手はいないだろう、そうすれば荒れる一方だ……という困った話を聞いていたのでした。

 ヘレナは賢くも、それを両者の利害の一致として判断したのです。

ヘレナはどうしても、リニエルさんの残り香を消したくはありませんでした。彼女は否定しますが、やっぱりヘレナも、リニエルさんのことが大好きだったのです。今憎んでいるのも、その前の優しいリニエルさんのことが忘れられないからでしょう。

 そうしているうちに、私はやがて管理人代理として任命され、今となってはたいていヘレナと二人きりでこの家に住んでいます。お金はあまりもらえませんが、生活は十分できます。

 たまに、親族の方々がこぞって遊びに来られます。ヘレナはお爺さんたちの大のお気に入りで、私は奥様方と仲良くさせていただき、たまにお茶や園芸のお話などもします。

 そんなふうに、私は生きています。

 こんな歳になるまで、私は何度死ぬべきと思ったか、わかりません。

 そんな度に私は、周りの人々に励まされ、勇気を与えられ、恥ずかしく思いながらも、ここまで生きてきました。

 ねえケイン……私は、本当に、重罪人だと思います。

 本当は生きていてはいけないくらいの重罪人です。

 けれど……周りの人々に生きてもよいと言われるなら、生きてみようかと思います。

 人生を全うし、本当のよぼよぼのお婆ちゃんになるまで、あなたには会わないことにします。

 そう、約束します。

 さて、ところで、あなたに一つお願いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか。

 リニエルさんに向こうで会ったら、ぜひ仲良くしてあげてください。

 あなたにとっては憎むべき相手かもしれませんが、あなたと彼なら、絶対に親しい友人になれると思います。

 私が、ほんの少しでも愛した人なのですから、間違いありません。

 私がそちらに行くことになったときは、三人で仲良くお話ししましょう。

 どうかそれまで、ごきげんよう。

                                   ミレイより

 

「どうですか。すべて写し終わりましたか?」

 ジルがそう呼びかけると、アシャンティは机に顔をくっつけながら、「ん〜……」と曖昧な返事をした。

 もう少しかかる、ということだろう。ジルは首をもたげて、天井を仰ぎ、溜息をついた。

 窓から差し込んでくる夕暮れの明かりが、部屋を金色に照らしている。

「ん〜……っ……、終わったぁ!」

「はい、お疲れ様です」

 ジルは肩を揉んでやりに行く。アシャンティは猫みたいに目を細くして、首を垂れていた。

 ミレイの手紙が、さらさらと柔らかい風に揺れる。

加筆作業は終了した。ミレイの手紙を、巻末に書き加える作業は。

アシャンティはペンをポケットにしまうと、ぱたん、とドールズの本を閉じた。

「完成だ……これで、あいつの本も」

 アシャンティは満足げに笑ってそう言った。ジルは彼女の肩を叩きながら、問いかける。

「まだ、リニエルさんの日記の分が残っていますが?」

「えっ? あ、あー……うん、まあ……あいつのはいいよ。なんでもかんでも書きゃいいってもんじゃない。書いちゃいけないことだって、ある」

「そうですか。……いや、確かにそうですね」

 ジルは微笑んだ。アシャンティは、そんなもっともなことを言いながら、実はリニエルの日記を怖がっているだけだ。ジルにはなんとなくそれがわかっていた。

 けれど、確かにもう彼のことは、なるべくそっとしておいてあげたいとジルも思っていた。故人の日記はみだりに複写するものじゃない。ジルも同じ立場だったら、少し嫌だと思った。

 ジルは、最後にうなじと肩を軽く撫でてやって、マッサージを終わりにした。

 それから二人で長い息を吐いて、穏やかな空気に身を任せた。

 ゆるやかな西日に、アシャンティの髪が美しく金色に輝いている。小窓の隙間から吹いてくる風は、春の香りがしていた。さわさわと梢の擦れる音が、心地よく胸に響いた。

 アシャンティは、ふと半身でこちらに振り返り、何気ない調子で口を開いた。

「なあ、ジル……」

「どうしましたか」

 お互いに、穏やかな声だった。

「ドールズのやったことは……やっぱり、悪いことだったと思うか」

「……そうですね」

 ジルは顎に手を添えて、少し考える振りをした。

 しかし答えは、元から決まっているようなものだった。

「やはり、その通りでしょう」

「へえ……どうして」

 アシャンティも、質問しているわりには、そんなものどっちだって良いと思っている様子であった。気楽そうに口元で笑う。

「どんな理由があれ、人を殺すのは罪です。それは永久不変のものでしょう」

「ふうん」

「ですが、」

 ジルは言葉を切って、苦笑した。

「それを言ってしまっては、私たちも重罪人です。本来、人が罪と縁なしに生きるには、相当の苦労が要るかもしれません。ミレイさんのように知らずに犯している場合もあります。あるいは、ドールズさんのように、そうせざるを得ない人も、中にはいるかもしれません」

「……不幸だな。それは」

「不幸、かもしれません」

 アシャンティとジルは、寂しそうに笑った。

 それからアシャンティはなにか言いたそうにしたが、やっぱりなにも言わなかった。穏やな笑みでかき消して、首を横に振るだけだった。

 ジルは壁にもたれ掛かって、さらに続けた。

「しかし、不幸なだけではありません」

 アシャンティがふと、眩しそうな目を、こちらへ向けた。

「彼らの真実は、こうしてある人間たちの目に留まりました。彼らの霊魂は……書き記され、知らされることにより、ほんの少しだけですが、報われたことでしょう」

「そうかな……」

 アシャンティは少し嬉しそうに笑った。

「あたしが、この肩と首を痛めた分だけ、あいつらも救われたってことか」

「あなたは運動しなさすぎです」

 ジルがそう言って茶化すと、アシャンティはむーっと頬を膨らませる。

 それから二人して、ぷっと噴き出して笑った。

ドールズの深紅の本を眺めて、お互いにうっすらと微笑みながら、静かにうなずく。

「帰りましょうか」

「ああ、帰ろう。プレークタへ」

 アシャンティはそう言って立ち上がろうとした。と、そのとき、ぎぃ、と部屋の扉が開き、ミレイの手紙がかさかさと風に揺れた。

「お母さん――? いるの?」

 慎重そうに、扉の隙間から顔を出す、茶色の髪の少女がいた。

 その少女は、中に誰もいないことがわかると、何気ない様子で「どこ行ったんだろ……」と顔をしかめて部屋に入ってくる。

 早速机の上の手紙を見つけたが、それはちょっとだけ手に持って読んで、すぐに棚へと戻してしまう。出っぱなしの椅子を戻して「うわあっ!」と、アシャンティに悲鳴を上げさせると、「ん?」と目を瞬かせる。

 変な物音でも聞いたかのように、周囲をぐるぐると見回し、アシャンティに睨み付けられながらも素知らぬ顔で、机の下を覗き込んだ。

「あ、猫ちゃん」

 とつぶやいて、しゃがみ込み、ゆっくりと机の下に手を入れる。

「ちちち、みーちゃん……よしよし、怖くないよ〜、怖くないからね〜……。そうか、窓から入って来ちゃったんだね。いけない子だ。よしよし、怖くない、怖くない〜……よいっと!」

 ジルも思わずびっくりしたぐらいに急に態度を一変させて、その少女は見事猫を捕獲した。

「も〜、勝手に入ってきちゃだめだって。黒猫」

その猫は特に怖がりもせず、澄ました顔で少女に運ばれていった。上品そうな黒猫だった。

 その猫を窓の縁に置いてやり、少女はさよならと手を振る。

「ばいばい。お母さんに見つからないでね。あの人、動物好きだから。餌あげちゃうから」

 そう言うと猫は、あなたも大変ですね、とでも言うかのように一声鳴いて、窓から去っていった。

 少女は苦笑しながら「あたし、猫になに言ってんだろ」と言い、部屋を出ようとする。

 だがそこで、その少女はふと足を止めた。

「ん……?」

 なにかに気づいて、しゃがみ込んで手を伸ばしてみる。

 そこには、今の猫騒動の件で机から出てきたのか、埃をかぶった一枚の画があった。

 持ち上げて、ぱっぱと埃を払う。けほけほ、と咳き込みながら、それを見つめる。

 それは、誰かの似顔絵のようだった。

 ひどく不格好な、未完成な絵画。少女はそれを見て、思わず率直な感想を口にしてしまう。

「うわ……下っ手くそ……」

 下手くそだ。

 線は波打ち、顔のバランスは崩れ、そして、なぜか一箇所だけ努力して技巧を走らせようとした形跡があり、そこだけが妙に異彩を放っていた。

 誰を描いた似顔絵なのかもわからない。気まぐれに書いたものかもしれない。書き手もわからない。謎の似顔絵。

 ただその少女は、それを眺めながら、穏やかそうに微笑んだ。

 とても懐かしそうに、まるで子供のころの宝物を見つけたように、嬉しそうに笑った。

「よっし!」

 その紙を脇に挟んで、立ち上がる。

 今度こそ部屋を出て行こうとしたが、そこで少女はもう一度、部屋の中を振り返ってみる。

 誰もいない空間をじっと見つめて、不思議そうな顔をしていると、やがて階下から誰かを呼ぶような声がした。

「ヘレナー。どこにいるのー? はやくしないと時間が来ちゃうわよー?」

「あっ、お母さん!」

 弾けるようにそちらに振り返り、そのまま階段をどたばたと降りていった。

「あ! もうヘレナ! どこに行ってたの!? こっちはさんざん探したのに!」

「ええっ! それあたしのセリフなのに……あ、それよりね、お母さん、今お母さんの部屋に行ってたらね、こんなのが――」

 だんだん遠くなっていく声を聞きながら、ジルはアシャンティと目を見合わせて、微笑んだ。

 アシャンティは、ドールズの本を手に持って、金色の光に照らしていた。

 深紅の装丁だったドールズの本は、今は綺麗な褐色に輝いている。

「そういえば、結局その本のタイトルはどうするんですか?」

「え?」

ジルが聞くと、アシャンティは今気づいたかのように、はっと目を開いた。

 ジルの目を見て、何気なく言う。

「全然考えてなかった」

「では、今考えてみましょう」

 うーん、と二人して悩んでみたが、ジルの頭には良い案は浮かびそうにもなかった。

 元々こういう芸術みたいなものは専門外なのだ。得意分野であるアシャンティに全部任せてみようかと思った。

 アシャンティも悩んでいたが、唐突になにか思いついたというような顔になって、言った。

「良いものを思いついたぞ」

 きらきら光る眼差しをジルに向けた。ジルはなんでしょう、と微笑んで訊く。

「『聖人』じゃなくって、『恋人』っていうのはどうだ?」

 アシャンティははしゃぎながら、嬉しそうに本を裏返したり、宙に掲げてみたりして、「ぴったりだ」と笑った。

 ジルは、少し恥ずかしいタイトルだと思ったが、今の自分にそれより良い案は出せると思わなかったので、微笑みながら、

「とても良いと思います」と答えた。

 春のそよそよとした風が吹く中で、ジルたちは、そうして元の場所へと帰っていった。

                                               終わり

 

 

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