第六章 消えるとき
ジルたちは、五年後にやってきた。
うららかな陽射しが注ぐ窓際で、リニエルとミレイは、テーブルに座ってお茶を飲んでいた。ヘレナは別の部屋で遊んでいるのだろうか、姿が見えなかった。
ドールズは、笑っていた。
半分は、その光景に希望を見いだして安心したかのように。もう半分では――失望し、自身の過酷な運命を嘲笑ったかのように。
心地よい風が吹く中、途切れ途切れで吐き出される笑い声は、とても空虚な感じがした。
ジルは悲しかった。
どうしてドールズをこんな目に遭わせなければならないのか、わからなくなってきた。
「なあ、ミレイ」
リニエルは落ち着いた調子で、ミレイに話しかけた。
彼は少し歳を取って、その分だけかつての軽妙さを失っていたが、それに代わってさらに気品が磨かれ、立派な紳士としての佇まいを獲得していた。
こちらもいっそう淑やかそうな婦人となったミレイは、「ん」と小首を傾げて、柔らかな微笑みをリニエルに向ける。
「なあに? フィズ」
「ああ。いや……」
リニエルは笑って目を伏せた。花の香りがする微風が、その前髪をさわさわと揺らす。
「なあ、ミレイ……急にこんなこと言い出して、変に思うかもしれないが」
「いったいどうしたの? そんなこと思わないから、言ってみて」
「ああ……あのさ、俺、もうあんまり家を出なくても、生活できるようになっただろ? 仕事はだんだん部下に任せられるようになったし、おれは重要なことを担うだけでよくなった。きみと一緒にいられる時間も……ずっと増えたな」
ミレイはおかしそうに笑い出した。
「そうね……フィズがずっと家にいてくれるから、ヘレナがとても助かっているの。あの子、私よりあなたのことが好きなんですもの。毎日しつこく報告してくるのよ、今日はおじさんとこんな遊びをしたって」
「ははは。本当は、そんなに暇じゃないんだけどなあ……」
リニエルも笑った。ティーカップに口をつけて、茶を飲む。
「まあ、いい運動になっていると思う。こんな歳になると、簡単な運動も貴重になる」
「そうじゃない。フィズももう立派なおじさんよ。おとがいのお髭も立派になって」
「これかい?」顎の髭をなでながら、リニエルは冗談っぽく苦笑した。
「ちょっとは部下に威厳のあるところを見せなきゃいけないからな……。そういうきみだって、もう立派な歳じゃないか」
「まあ! ひどい。女性にそんなことは言っちゃいけないのよ」
ミレイは頬を膨らませながらも、もう半分ではおかしそうに笑った。「知り合いのご婦人には、そんなこと言わないでしょう」
リニエルも笑いながら、言い返す。「まあ、おそらく言ったことはないと思うが、本当に歳を取らない人には、気兼ねなく言えるから」とふざけた冗談を言って、お茶をすすった。
ミレイは恥ずかしそうにそっぽを向きながら、窓の外を眺めた。
ミレイが、まだリニエル邸に残っていた。その意味をわざわざ声に出して語ろうとする者はいない。みんな黙って、その光景を見守っている。
「それで、どうしたの?」
ミレイが再びそう尋ねると、リニエルは「ん? ああ……」と目を細めて答えた。
それから、ふと視線を横に逸らし、窓の外の景色を眺めた。
高級住宅街の広い庭園には、色とりどりのフリージアやラナンキュラスが咲いていた。その間を、ひらひらと黄色い蝶が舞う。
「近頃……君といる時間が増えたせいかもしれないが、おれは……色々なことを考えるようになった。きみと出会ったばかりのころには、考えもしなかったことだ」
「そうなの?」
リニエルはゆっくりと頷いた。
「ああ、そうなんだ。本当に色々なことを考えた。本当は、考えなきゃいけないことだったんだ……。きみの過去や、おれのこと……罪人の行く末について……」
「え……? きゅ、急にどうしたの? フィズ」
ミレイは目を丸くして、まじまじと彼の顔を見つめた。
「ああ、いや……」とリニエルは苦笑し、手を振る。それからまた少し庭の景色を眺めた後、思い切ったように向き直り、ミレイの目をじっと見つめた。
いささか緊張した面持ちで、口を開く。
「ミレイ……これからおれの言うことを、よく聞いてほしい」
「え、ええ」
「ずっと、迷っていた……。きみと出会ったあの日から、ずっと心の中に留めてきた迷いなんだ。最初のうちはほとんど考えなかったが、きみのことをよく知っていくにつれて、本当に考えなきゃいけないことだとわかったんだ」
「フィズ……」
ミレイもやっとリニエルの思惑に気がついたのか、困ったように眉を下げ、顔を下げる。話題を変えようとするが、変えられない。そんな、そわそわとした気持ちが見て取れた。
リニエルは感傷的な、魅力的な顔になって、目をわずかに伏せながら言う。
「けれど……おれは、やっとその答えを出すことができた。迷いを捨てるんじゃなくって、抱えていこうと思った。その上で、前に進むことができれば、たとえ罪人になったっておれは嬉しい。なぜなら――」
リニエルは、彼女の手をそっと上から押さえた。ミレイがびくっと肩を震わせる。
ジルもアシャンティも息を呑んだ。まさか、こうなるとは、思わなかった――。
「君といる時間が、こんなに幸せだ。理由は、それだけでいい」
「フィ、フィズ……」次の言葉を遮ろうと、身を起こすが――、
「結婚してくれミレイ。おれと……」
その一言に、ミレイの体は、まるで完全に時が止まったかのように、固まった。
腰から力が抜け、ふらふらと揺れながら、すとんと椅子に座る。
目は大きく開かれたまま――。やがて、その純白な頬に、林檎のような赤が付け足され、彼女は困惑したように眉を下げた。
周囲の音がすべて、静まり返っていた。誰もなにも言わない。
ドールズが、どんな顔をしているのか、わからなかった。
ミレイはただそわそわと首を動かし、子鹿のように震えている。
アシャンティはとうとう、「なんて恥ずかしいやつだ……」と頬を赤く染めて呟いたが、ジルはなにも答えなかった。
永遠に続いていくかと思われた一瞬は、しかし、ぱたぱたと跳ね回るような階段の音で、遮られた。
「ままー! おじさーん!」
ヘレナの声だった。「見てみて! すごいのできた!」元気よく廊下を走り過ぎ、彼女たちに駆け寄ってくる。その声で、場の沈黙は遮られた。
ミレイは弾けるようにそちらに振り向き、ひどく安心したような顔になって、
「あ、あら。どうしたの? ヘレナ」
と言い、頬の赤さを若干残したまま、ヘレナの相手を始めた。
リニエルは少し残念そうにしながらも、ふっと口元に笑顔を灯し、ヘレナの茶色の髪をごしごしと撫でた。
ヘレナは、どうやらお手製の月桂冠を作ったようだった。それを両手に持って、高くかかげ、精一杯二人に自慢している。
「すごいわ、ヘレナ。とってもすごいわ」
ミレイがぎこちなく笑いながらそう言うと、ヘレナは「ままのも作ってあげる!」と元気よく喜び、踵を返して元来た道を戻っていった。
ヘレナのことを最後まで見送った後、ミレイは、ふとリニエルのほうに振り返って、口を開く。
「……今晩まで待って。フィズ」
リニエルは一瞬驚いたが、その後、少しぎこちなく笑い、うなずいた。
ミレイは物憂げな様子で、ヘレナのことを追っていった。ジルがその姿を見送った。
「まさか、まだ結婚してなかったとはな……」
アシャンティがまだ顔を赤くしながら、そんなことを呟いている。
不意打ちであんなシーンを見せられてしまったのもそうだが、ジルも、あの二人がいまだ結婚していなかったことについては、さすがに驚いた。
五年後の今も一緒に暮らしているというのだから、とっくに夫婦になっていてもおかしくなかったのに。いささか事情が違ってきているらしかった。
「ドールズさん」
しかしそんな曖昧な関係も、今日にて破られることになる。
ドールズは、ここで選択をしなければならない。
ドールズは悩んでいた。ジルが呼びかけると、ぱっと振り向いて、曖昧に微笑んだ。
「……どうかしましたか?」
「ドールズさん……。どうかしたかではありません。これからどうするつもりですか。あなたは選択しなければなりません。ここで運命に流されるか、あるいは――」
運命を、破り捨てるか――。
そうジルが口にする前に、ドールズは儚げな笑顔になって、首を横に振った。
「いいんですよ……もう。アレストさん」
「なにが……いいんですか」
ジルは自然と、低い声で責めるようになってしまった。
ドールズはさして気にしたふうもなく、目を閉じて笑った。
「もういいんです。決心はつきました。そろそろ、消えるべき時でしょう」
ジルは、口を閉ざしてしまった。
そう言ったドールズの顔は、今にも消えてしまいそうなほどに白く、儚くなっていた。
ドールズは、諦めようとしている。上っ面だけの言葉じゃない。本心からそう思い始めている。その証拠に、頬がどんどん青白くなってきている。
すなわち彼は、もうここは自分のいるべきところではないと、存在に見切りをつけたのだ。
アシャンティはこれで喜ぶだろうが、ジルはそれでもなお、ドールズに問いたださずにはいられなかった。
「あなたはそれで……本当にいいんですか? 納得がいくのですか!?」
引き止めるような乱暴な言い方になってしまっても、構わなかった。
ドールズは寂しげに笑って、ゆっくりと頷いた。
「ええ……納得がいきます」
「馬鹿な――、それは――」
ジルが思わず露骨に言ってしまった。直後、アシャンティにコートを強く引っ張られる。
いいかげんにしておけ、ということだ。
ジルもそこで初めて、知らない間に、彼に詰め寄っていたことに気が付かされた。
「もう……いいんです。アレストさん。ありがとうございます」
ドールズは微笑みながら、静かに礼を言った。
「何度も考えましたが……やっぱり、この結果が一番いいと思うんです。死んだ者は、潔く去るべきだ。いつまでも現世に執着していてはいけない。ただ残った者の幸福を祈りながら……去る。そんな人間で、ありたいと思うんです……私は、最後まで」
ドールズは、顔を動かして、去っていくリニエルの背中を目で追った。
彼が身につけているのは、一目見て上等な人間だとわかるぐらいの、豪華な服だった。
「ミレイは……彼との結婚を受けるでしょう。というより、受けなければなりません」
「どうしてですか」
「仮に求婚を拒否したら、妻はこの家から追い出されます。もう泊めておく必要がありませんから」
「……」
ジルは一瞬喉が枯れたように思い、ふらりとバランスを崩しそうになった。
ジルは――ドールズのことを説き伏せたいとすぐに思った。再び彼に歩み寄ろうとしたが、今度は少し弱めにコートの裾を引っ張られる。
ジルは、もう自分の気持ちがわからなかった。
よろよろとバランスを崩してしまい、足を戻して、ドールズに頭を下げる。
そうして、再び顔を上げたときに、なんとなく今のドールズの表情を見たくなく、ジルは持っていた三角帽を再び頭にかぶせ、目元を隠してしまった。
アシャンティがことさら愉快そうに笑って言った。
「もしかしたら、ミレイのほうから家を出ていくかもな。あの真面目そうな女なら、やりかねない。なにも知らないヘレナにとってはいい迷惑だ」
ドールズは苦笑して、「妻なら、そうかもしれません」と答えた。
「ですが、私は信じています」
「ほう?」
「妻は……本当の意味で強い女性であると。こちらの勝手な事情で、我が子を連れ回すような真似は絶対にしないと。そうして、妻も私のことを信じてくれているでしょう。死んでしまった後も、ケイン・ドールズは、必ずや自分たちの幸せを願ってくれているはずだと。私は……その妻の愛と信頼に、心から報いてあげたいと思う」
「ドールズさん……」
ジルの頭の中に、あのドールズ夫妻の、かつての幸せだったはずの日常がよぎる。
あの強盗犯のナイフの切っ先が、もうわずか数センチほど、首の手前を走っていたら。少しでもその軌道を外していたら。どうなっていたかわからない。
あの幸せな日常が、また再び、当たり前に続いたかもしれない。
ドールズは、あの笑顔の裏で、どんな苦しい叫び声を上げているのだろう。
身をつんざくほどの嫉妬の火焔を、愛と信頼だけで抱きとめなければならない苦しみは、一体どれほどのものなのだろう。
「ふっふっふ……ドールズよ」
アシャンティが愉快そうな声を上げた。
「素晴らしい精神だと思うよ。とっても男前だ……。思わず、あたしも惚れてしまいそうだ」
「……」ドールズはただ、無心そうに笑っている。
「これならば、きっと素晴らしい本ができるだろう。おまえの本のタイトルは……そうだな、『聖人』にでもしてみよう。おまえにぴったりじゃないか?」
「……似合いませんよ」
ドールズは目を閉じて、小さく首を横に振った。
ジルは、なにも口を挟まないでいた。
「じゃあ、これからどうする? 夜の返事まで待って、それから消えるか?」
アシャンティは指をくるくると回しながら、気軽そうにドールズに問いかける。
ドールズは、またもや首を横に振った。
「いいえ。もう一度、時間を飛ばしてください」
「そうか。何年後がいい?」
「……。また、五年後へ」
ドールズは外の景色を眺めながら、少し惜しそうに言った。
「その時代を見れば……きっと、さすがに諦めの悪い私でも、観念するでしょうから」
「いいや。諦めはいいほうだと思うよ、おまえは」
ドールズの言葉に、アシャンティは初めてそこで笑顔を消した。
そうして一瞬だけ寂しそうな顔を浮かべ、こっそりと呟く。
誰にも聞かせる気はなかったのかもしれないが、ジルにだけは聞こえていた。
「……諦めがよすぎるから、『聖人』なんだよ……おまえは」
アシャンティの描き上げた紋から、青白い光があふれていく。
その光は包んでいった。ジルの体も、ドールズも、アシャンティの寂しげな顔も――。
温かい庭で遊んでいた、ヘレナの満面の笑顔でさえも――。
全て。