第五章 ミレイとヘレナ 

 次にやって来たのは一年後だった。

廊下の窓から見た空は曇っていて、少し湿った風が吹いていた。

 リニエルの邸宅は、また少し華やかになったようだ。廊下や居間などには色とりどりの花々が添えられ、新しい使用人も一人増えていた。

 その使用人は、いったい誰のために雇われたのか。ジルはなんとなく想像がいった。

 音もなく階段を上がっていき、ジルは、かつてミレイが住んでいた部屋の前に立つ。

「ヘレナ?」

 優しげな声が聞こえてくる。

「いい子ね。ちょっと待っていてくれる?」

鈴を転がすような、澄み切った声。

ジルは目を伏せて、じっと扉の木目を見つめた。

「待っていてね。お母さん、今ちょっと書き物しちゃうから。ごめんね」

「ばぁ〜、あ〜! あ〜!」

 赤ん坊は、不安がるように母親のことを呼んだ。

ミレイは、はぁ、と溜息をついて答える。

「……もう、わかったわよ。書き物はまた今度にするね。ヘレナ、おててをちょうだい」

「だぁ〜、きゃっきゃ」

 部屋に入らずとも、ジルはその中の光景を容易に想像することができた。

振り返って、背後の人物に話しかける。

「ヘレナ……ということは、女の子ですか。すでに名前を決めていらしたんですね?」

「……いいえ」

 ドールズは力なくつぶやいて、首を横に振った。

 ミレイの楽しそうな歌声が聞こえた。するとヘレナが、嬉しそうに声を上げる。

 ドールズだけが、ひどく悲しそうな顔をしていた。

「こら」

最後に階段を登ってきたアシャンティが、ぴしゃりとドールズの背中を叩く。

「なに沈んだ顔をしているんだよ。父親だろう? 笑うところは笑え」

「え?」

 ドールズは、今やっとそのことに気がついたみたいに、目を見開くと、それから軽く息を吐き出して、優しく笑った。

「はい」

「中へ入って、ご覧になってくるといいでしょう」

「はい……」

 ジルがそう勧めると、ドールズは嬉しげに頷いて、扉をすり抜けて部屋に入っていった。

 ドールズがいなくなってしまった廊下で、ジルはアシャンティと対面する。

「ふん」

と顔を逸らされるのは、もうお決まりのこと。

ジルは、もう溜息は出なかった。呆れてきたのもそうだが、今は別のことを考えたかった。

壁にもたれ掛かり、窓の外を眺める。

「ミレイさん……やっぱりまだ、残っていましたね」

 何気ない調子で話すが、アシャンティはなにも答えない。

視線を向けると、アシャンティはわずかに開いている扉の隙間から、部屋の中の様子をじっと見ているようだった。

「出産してからまだ一年たっていませんし、当然ですね」

 ジルは、淡々と呟いた。

思っていたよりも感情のこもっていなかった声が、薄暗い廊下に響く。ミレイの部屋の中からは、無邪気に喜ぶ赤ん坊――ヘレナの声が聞こえてきた。

「赤ちゃん、無事に生まれてよかったですね」

 アシャンティはすまし顔のまま、やっぱりなにも答えなかった。

 ジルは、だんだん自分の白々しい声にも嫌気が差してきたので、黙ることにした。

 ミレイがまだリニエルの屋敷に残っている。

 考えてみればおかしなことじゃない。産後は体調が回復するまで身体を休めるべきだし、赤ん坊だってまだまだ目が離せない時期だろう。ミレイ一人じゃどうしようもない。誰かが外から支えてやらねばならない。

 とにかく今は、赤ん坊が無事に生まれたことを純粋に喜ぶべきだ。

なのに、ジルはドールズのことを思うと、どうしても心が晴れなかった。

 曇っている。別にアシャンティの方針に口を挟むつもりはないのだが。

「ねえヘレナ……ケインのことはわかる?」

 ふと、切なそうなミレイの声が聞こえてきて、ジルの体は固まった。

 慌ててそちらに視線を送る。

「ケイン、ドールズ……あなたのお父さんのことよ。もう……いなくなっちゃったけど」

「あう、あ〜?」

 ジルは、だんだんと喉の奥が枯れていくような気がした。

ドールズはなにも話さない。物音一つすらしない。

 アシャンティは無心そうにそこから視線を外し、窓の外の景色を眺める。ジルは数秒たってから、やっとのことで事情を飲み込め、息を吐き出した。

「いい、ヘレナ? あなたはちゃんと覚えていなければだめよ? ケインというお父さんがあなたにはいて、毎日私たちと、街のみんなを守るために働いていたということ……ね?」

「う〜」

 ヘレナは、少し退屈そうな声を上げながらも、ひとまず母親から話しかけられていることで嬉しがっているようだった。ミレイの声が、さらに感傷的な色を帯びる。

「ケインはね、すごく立派な人だったのよ。本当に立派すぎて……もう、見えないところまで先に行かれちゃったけどね」

 ドールズはなにも言わなかった。ただ、苦しそうに心で叫んでいる姿が想像できた。

 そんなことない。自分は立派なんかじゃない! と、一心に。

 ジルは――ミレイが、一体自分の子供になにを話そうとしているのか、わからないでいた。

 ただ耳を塞ぐべきではないということと、ここから動くべきではないと言うことだけは、わかっていた。

「でもね、ヘレナ? ケインはもういなくなっちゃったけど、大丈夫よ。私たちがずっと……彼のことを覚えていれば……お父さんは、いつまでも心の中に住んでくれるのよ。本当よ……本当……だから絶対、忘れたりなんかしたらだめだからね……」

「う、うぇ?」

 赤ん坊がとうとう泣き声を上げ始める。母親が泣き顔をしているからかもしれなかった。

 少し鼻をすする音がして、ミレイは笑い、明るげな声を出す。

「そうだわ。ヘレナのために、お父さんの似顔絵を描いてあげましょう。お母さん、こう見えても結構絵心があるのよ。よぉく見てなさい」

 アシャンティは聞きながら、ふっ、と笑みをこぼした。ジルは不思議な気持ちになった。

 まるでミレイは、本当に、そこに夫の姿が見えているようでさえあった。

誰に対して、「忘れちゃだめ」と言ったのか。

誰に対して、「似顔絵を描いてあげる」と言ったのか――。

「そうね……まずは輪郭。結構ごつごつしていたと思うの。まるで岩みたいに頑丈そうで、ちょっと怖そう……なんだけど、目と眉は意外と優しそうで、ちょっと可愛いの」

 ヘレナは、突然目の前に現われた紙に、不思議そうな声を上げていた。

 ぱらぱら、と紙のしなる音がし、続けてペンの走る音がした。

「ほら、見える? ちょっと簡単に描いてみたの。それでね……ここからが本番。鼻のあたりは……こんなふうに、すっきりしてたかしら、意外とハンサムだった気がするわ。目鼻立ちがいいって言うのかな? でも性格は子供っぽかったから、異性にはもてなかったわね」

 ありし日の思い出が目の奥に浮かんでいるのだろうか。ミレイはそう言いながら、しばらくペンを立ち止まらせ、やがて黙った。

 ヘレナの無邪気な声だけが続き、またゆっくりと、さらさら、とペンを動かし始める。

「う、うーんとね……」

 ミレイはまたしばらく、ペンを止めた。

なにか考え込むようでもあり、迷うようでもあり。ヘレナが声を上げると、再びペンを動かすが、またすぐに止まる。

ミレイはそうして、何度も躊躇するようにペンを止まらせ、また動かし――の作業を繰り返していた。止まる回数が増えるにつれて、考え込む時間も増えていった。

「ここが……こうで……。あ、あははは……なんか、変……」

 ミレイは掠れた声で、そう笑った。

 そうして、最後に大きく息を吸い込んだ後、ついに、嗚咽が漏れた。

「っ……ごめん……もう、無理……」

 すすり泣くように息を詰まらせて、はらりと紙の床に落ちる音がした。

 肩を震わせているのが、部屋の中を見ないでもわかった。「ケイン……」と呼ぶ声がする。

「どうして、……ケイン……どうして……」

 どうして――。

どうして、今いないのか。どうして、こうまで鮮明に思い出せてしまうのか。

 ミレイはそう言いたかったのかもしれない。けれど、そこから先の言葉は、声にはならなかった。息を詰まらせるような嗚咽だけが、聞こえた。

 ミレイは再び、あの一年前の雨の日のように、ケイン、ケイン……と夫の名を呼び続けた。

 呼んでいる。

 まるで、幼子のように。はぐれた父親の姿を必死に探すように、呼び続けている。なのに、ドールズはなにも答えない。

 答えたところで、届かないと知っているからだろうか。

 ジルは、今ドールズになんと言えばいいのか、わからなかった。

 とうとうヘレナまで泣き出し、力一杯泣き声を上げる。

 ミレイも「あ……」と呟いただけで、赤ん坊をあやす元気もないのか、またしゃくり上げる声を大きくした。

 二人が泣いている。泣き続けている。ここで二人を慰めるのは、いったい誰の役目か。

「マスター」

「……」

 アシャンティは、今度は無言でこちらに目をやった。全てわかってる、といった顔だった。

一つだけ、声を向こうに届かせる方法があるのだ。

干渉の力を使えばいい。ただし効果は一瞬だけ。

 もしドールズがそれを望むなら、今すぐにその力を与えたってよかった。

 だが――アシャンティは動こうとしなかった。

 ジルはおそるおそる、ずっと考えていたことを尋ねる。

「ドールズさんは……干渉を望んでいないんですか?」

 アシャンティはなにも答えず、首を動かして、再び窓の外を眺めた。

ドールズがここで干渉を望まないとわかっているなら、アシャンティが動く理由はない。

アシャンティは、窓の外を見ながら、なにか熱心に考え込んでいる。

やがて、もう一度ジルのほうに視線をやり、口を開こうとしたその瞬間、ドールズが部屋の中から出てきた。

顔を見ると、憔悴しきっていた。ジルが駆け寄ろうとする前に、

「時間を」

 と、ドールズはただ一言――そう言った。

 少し泣いた後のような目元が、不思議な重圧感を放っていた。

 アシャンティは微笑んで、うなずいた。

「次は何年後にする?」

「何年後でも構いません。ただ……こういう時代は、もうなしにしてください」

 泣いている姿は見たくない、ということだろう。ドールズが力ない声でそう言うと、アシャンティは「難しい要求だな」と冗談っぽく笑った。

 やがて階下から、ヘレナの泣き声に気がついたのか、リニエルが駈けのぼってくる。

 アシャンティはそれに気づくと、すぐに指を宙にかざした。

「だが了解した。そういった時代に進んでみよう。おそらく次の世界で、おまえの未練も消えるだろう」

 リニエルは、一気に階段を駆け上がってくると、アシャンティの身体をすり抜けながら、ミレイの部屋の中へと走っていった。

 なんて無礼な、とでも言いたげな視線をリニエルに送ると、アシャンティは不機嫌そうに宙に紋を掻き上げる。

 青白い光が身体に及ぶ中で、リニエルとミレイの会話が、遠くから聞こえてきた気がした。

「フィズさん」と呼ぶ声が、ぼんやりとしたジルの頭の中に、繰り返し再生されていた。

 フィズさん――。

 

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