第四章 くるくる回り
雨は鈍色のカーテンとなって、いまだに降り続いている。
ジルとアシャンティは建物の陰に入って、雨宿りをしていた。
「それで、具体的にはどうするのですか? マスター」
ジルがそちらに顔を向けて言うと、アシャンティは「ん」と答えて首を回した。
街灯がアシャンティの髪をぼんやりと淡く照らしている。帽子を外して、その中に指を入れ、くるくると回しながらアシャンティは笑っていた。
「やれることはいくつか考えてある。まあ、本当にあたしがその気になれば、街中の店の帳簿を全部誤魔化して、その現金をドールズ宅に放り込むことだってできるんだがな」
アシャンティはそう言って、陽気に笑った。ジルはあほらしくなって、肩を落とした。
「マスターがそれを完了する前に、本部の監視員に見つかって連行されるでしょうね……」
「だろうな。まあ、だけどそれは……ジルが庇ってくれるんじゃないのかな?」
アシャンティは突然甘い声色を使って、ジルに流し目を向けてくる。ただふざけているだけだ。ジルはこういうときこそ、毅然とした態度でありたかった。
「冗談はよしてください。部下なんぞに庇われて恥ずかしくないと思っている上司は、一度投獄されてみるべきです。私は捨て駒ですか」
「ふふふ、そうだなあ。捨て駒だと考えなかったこともないね……」
アシャンティの目が、すっと危なげに細められる。「特に、昨晩のころなんかはね……」
ジルは、どきっとした。首の裏に嫌な汗が流れる。
今ドールズは、ミレイの傍についているため、ここにはいない。ジルとアシャンティの二人きりである。どこにも逃げ場がないことを悟ったジルは、観念することにした。首を横に振って、コートの裾をたくし上げ、そこからユースティアを取り出す。
その堅い鞘で地面を軽く叩いてみたが、音は鳴らなかった。
「まだ怒っているんですか、昨晩のこと」
あれは自分が悪かったとは言え、ジルもいいかげん腹が立ってくる。
アシャンティの顔から、すっと妙な色気が消えた。
「わかってるじゃないか。だがまあ、安心していいよ。おまえがヤバ目のマザコンだったということは、もう全然怒っていないから」
「そんなことで怒られても困ります……」
そもそもマザコンなんかではない。そうジルは反論したかったが、余計話がこじれそうだったため、それを一つの長い溜息に変えて示した。
「マスターは……そんなにユースティアのことがお嫌いなんですか。まだどんな女性なのかもわかりませんのに」
アシャンティは鼻で笑って、手をひらひらと振った。
「いいや、あたしにはわかるね……その、すっごく貧乏くさい名前からして、きっとそいつは男と間違えそうなほどの不細工で、性格は狂暴、貪婪、陰険、礼も品も美も知らない俗女で、おまえのことは息子ながらも次の餌として狙っていた。これは間違いない……絶対」
「マスターの想像は全くあてになりません」
「けっ!」
得意げに喋りまくっていたアシャンティが、とたんに不機嫌顔になってジルに蹴りを入れる。痛くもあったが、ジルは黙って無視をしていた。
今アシャンティが不機嫌になっているのは、ただ昨晩、ジルが二人の約束を破ったからだ。
その約束とは、もう自分たちは生前のことに固執しない。思い出そうとしないということ。
そして前を向いてずっと歩いていく。ジルとアシャンティがいつか、大昔に二人で交わした誓いだった。
ジルはそれを破る気など全然なかったし、どちらかというとドールズのために過去を語っただけにすぎなかったのだが、反論をするのは止めた。結果として似たようなことをやってしまったのだし。小言や皮肉、蹴りの一発や二発は、黙って受けてやることにした。
足がじんじん痛むのを我慢し、ジルはじっと雨の強さを観察していた。
雨は、しとしとと小さい音を立てて降り続けている。先ほどより少し雨足が弱くなったが、止む気配は止む気配はいっこうになかった。おそらく今晩中まで降り続けるだろう。
いつか、やがてこの暗雲がちぎれ出し、天から光明が地に降り注ぐころには、ミレイの心の雨も止むだろうか、と気障くさいことも考えてみたりもした。
自分たちがここの雨に濡れることはないのだが、雨の中にじっと佇んでいるのはやっぱり嫌なものだ、とも、ジルはまたなんとなく考えてみた。
そんな繊細な情緒など、まるで塵一つも感じていないように、アシャンティは脳天気そうに喋り続ける。
「そもそもな、あたしもそのユースティアって名前を聞くと、なんだか嫌な気分になってくるんだ。おまえが理由もわからずに良い気分になるように、あたしも同じように理由もなく悪い気分になるもんだ。ここは隣人の幸福を願ってやるところじゃないのか?」
最後の一節は聞かなかったことにして、ジルはちょっと気になったところを質問してみることにした。昔何度も質問し合ったことのような気もしたが。
「マスターも、生前はその方とお知り合いだったんですか?」
アシャンティは不機嫌そうな顔のまま鼻を鳴らして、首をすくめた。
「さあな。もしそうだったとしたら、あたしはおまえとも生前知り合いだった可能性があるわけだが、まさかそんな漫画みたいなラブロマンスが発生する可能性は相当低い。アイボイルドの宝くじを当てる確率よりはるかに低い。あたしがもう数百回もチャレンジしてるんだから、相当だ」実に暢気な例えである。
「マスターとのラブロマンスですか……」
「な、なんだよ」自分で言ったくせに、恥ずかしそうな顔をしている。
「幸運かどうかは、わかりかねます」
「うっさい!」
怒って肘で突っついてくる。冗談ではないくらいに痛い攻撃だった。アシャンティの貧弱な攻撃力にしては。
「あ、あたしだって、おまえとのラブロマンスなんかごめんだよ! こっ、小うるさい説教で全て灰色に塗り潰されそうだからな!」
ひどい言い方だった。真っ赤に怒った顔と、尖った目を向けられて、ジルは謝る気すらなくしてしまう。さらなる皮肉を飛ばしたくなるのを我慢して、ジルは目を逸らす。
それからしばらく、二人は黙ったまま、雨の降る様を見つめていた。
しめやかな雨音は、相手への苛立ちを落ち着ける効果があると思った。少なくともジルは、もう今の喧嘩が馬鹿馬鹿しい遊戯のように思えてきた。アシャンティの心の中がどうなのかは知らないが。
あーあ! と突然アシャンティが呆れたような声を上げて、頭の裏で両手を組んだ。
「ったく、暢気なやつだよ。こっちはこっちで仕事が大変だっていうのに、アレストさんは一人で知らない女に夢中になっているんですか? あー、やだやだ……これだから女ったらしの軟派野郎は」
むかっとする。なにが軟派だ。どこまでユースティアのことを引きずる気だろう。彼女自身に固執しているのはむしろそっちのほうじゃないかと思った。
せっかく落ち着いてきた心が、またぴりぴりと緊張し出す。
「誰が女ったらしですか。勝手に人の性格を捏造しないでください。子供ですか、あなたは」
意に反して、強い口調になってしまう。心にもないことを、言ってしまう。
「だいたい、生前の過去に固執するなと言ったのはマスターじゃないですか。言っていることとまるで反対のことをしています。特にユースティアは、私の大切な人なんです。もう故人でもあります。その方への侮辱は、いくらマスターでも許しません」
「なっ――」
アシャンティが突然目をむいて、驚いた表情でこちらに振り向いた。
それからわずかに頬を紅潮させて、ぷるぷると打ち震え、ジルのことを鋭く睨み付ける。
ジルは至極もっともな正論を言ったつもりだったのだが、なにか妙な異変が起こっていることに気がついたときにはもう、アシャンティの拳が顎先にやって来ていた。
「おっと」
「!」
ふにゃふにゃのパンチだったのでつい受け止めてしまう。アシャンティは、色々な感情が混ざったように顔を二段三段変形させた後、悔しそうに歯がみして、体を丸めて体当たりしてきた。
「むっ……」
ジルはバランスを崩して、雨の降りしきる中に飛び出してしまう。突然の豹変にジルはわけもわからず、困惑した表情でアシャンティの顔を見つめた。
アシャンティは、はあ、はあと呼吸を切らせ、やがて少し後悔した表情になった後、すぐに怒った顔を取り戻し、地面の石ころを蹴っ飛ばそうとするが下手で当たらず、自分の帽子を投げつけて叫んだ。
「けっ! ばーかばーか! そんなにその女のことが大事なら、とっととプレークタに戻って旅にでも出ればいいだろ! きゃーすごいね、絶対探してきてね! あたしは絶対行かないけどなっ!」
「あの、ちょっと――」ジルは帽子を拾って、近づこうとするが、
「うっさい来んじゃないぼけ! そういうことだったらもう、ずっと暇を出してやるよ! もうおまえ今からでもとっととプレークタに帰れ! 本部にはあたしから辞表を出しておいてやる! そんじゃな! 達者で暮らせよ!」
アシャンティは顔を真っ赤にして手をぶんぶん振り、叫び、金色の髪をひるがえして、向こうに走り去っていってしまった。
呆然とその場にたたずむジル。
右手にはユースティアの剣、左手には、アシャンティの三角帽。
ここに来て、ついかっとなり、馬鹿なことを言ってしまったのだと、ジルは後悔した。
冴えた雨は降り続け、しとしとと地面を煙らせる。
雨具を着た老人が、すり抜けるようにジルの体を横切っていった。商店街の賑わいは、先刻の事件のことで少し弱まりながらも、無情に続けられている。ジルは溜息をつき、ぼんやりと店先のランプを眺めた。
「……どうしよう……」
がくり、と肩を落とす。言ってはならなかったことを言ってしまった。
ドールズ夫妻のことなんかはすっかり忘れ、ジルは商店街の路傍で、特に意味もなくアシャンティの帽子をかぶり、ただただ壁にもたれ掛かって、落ち込んでいた。
それからしばらく経って、夜。
夜になったらまた雨は少しだけ弱まった。ジルたちは暗い路傍を歩き、ぼんやりと桃色に煙っている街灯の先へと集まった。
「時間を進める?」
ドールズが怪訝そうに聞き返すと、アシャンティは心得顔でうなずいた。
「ああ。一度プレークタに帰って、インファーナの門をそこから操作してやると、ある程度こっちの時間を進めてやることができる。手はもう打ったからな。あとはその蒔いた種が実を結ぶか――はたまた、枯れてしまうだけか――少し時間を置いて観察しようと思う」
「え? で、でもそれじゃあ――」
ドールズはひどく狼狽した。
どうして時間を置く必要がある。ミレイはそれまで、一人で苦しまなければならないのに。ドールズは、それが理解できないようだった。
アシャンティは笑顔を消して、真剣な表情でドールズを見すえる。
「納得できない気持ちはわかる……だが、よく聞け」
アシャンティの深紅の瞳が、冷然と雨の中に輝く。
「簡単に手に入ったものは、その後簡単に消えていくものだ。長い幸せを望むんだったら、ここで安易な手は打てないんだ」
場当たり的な手段を打ってはいけない、とアシャンティはここで言っているのだ。
ドールズは、苦々しそうな顔で、アシャンティの瞳をじっと睨んでいた。
「わかったな? わかったら、帰るぞ」
「……」
ドールズは拳をぎゅっと握りしめた。まさかアシャンティを殴る気か、と思ったが、違うようだった。どかんっ、と自身の胸を力一杯殴りつけ、悔しそうに歯がみした。
責めるべきなのはアシャンティではなく、無力な自分自身。ドールズの顔はそう言っているようだった。
ジルはアシャンティのほうに近寄って、こっそり耳打ちする。
「対策を講じたって……マスターはなさったんです? まさか……私に内緒で、勝手に重大な干渉行為を――」
「黙れ、姑」
ジルは固まった。
姑。
あたしに気安く話しかけるんじゃねえ、このオバサン男。と、一瞬で罵倒された気がして、ジルはおかしくって噴き出しそうになりながらも、同時に泣き出したくもなった。姑。
奇妙な沈黙が降りてから数秒、アシャンティは白々しい笑顔を作ってドールズに振り返った。
「やあドールズくん。どうしても納得がいかないなら、もうちょっとこの世界の仕組みについて教えてやろうか?」
「……」
ドールズの憮然とした目が向けられる。
「このインファーナという世界は、プレークタとパラスの両世界によって管理されている。あたしたちは、その鋭い監視の目をかいくぐって力を行使していくわけだが……これがまた難しくってなー、それを誤魔化すことのできるのは――」
アシャンティは人差し指をぴんと立たせ、ドールズの前に突きつける。
「一回だけだ」
「一回……」ドールズはぼんやりと、だが確かに、その言葉をはっきりと繰り返す。
「そうだ。目立った干渉行為は、一回だけに留めなければならない。だからそれは最後の手段だ」
アシャンティは指をくるくると回して、誰かさんへの当てつけのように言った。
「あたしがさっき蒔いた種っていうのは、まあ、うす〜いテレパシーみたいなもんだ。それだったら、たとえ連発でもしない限りばれることはないからね。まあ、これで未練が晴れてくれるといいな。ドールズくん」
「……もちろんです……」
ドールズが静かに言葉を返すと、アシャンティはご満悦の表情になった。そして、嫌みったらしい視線をジルに向ける。
テレパシーだがなんだか知らないが――おまえの心配なんかあたしには全然必要ないってことがこれでわかっただろ? ばーか――という意志は、テレパシーなんかなくとも伝わってきた。ジルは余計腹が立って、再び帽子を目深に被って、そっぽを向いた。
アシャンティの小馬鹿にしたような笑い声が聞こえ、ジルは悔しくなってそっちを睨み付けると、アシャンティは再び挑戦的な笑みでジルを見すえた。それから白々しい声で「それじゃあ早速戻ろう」と笑い、指で空中に紋章を描いていく。すると、ジジジ、となにかが焼けこげるような音がし、ぶわっとそこから青白い光が出、ジルの体を包み込んだ。
意識がだんだんと遠くのを感じながら、ジルは考える。
戻ったとたん「帰れ」と言われたら、どうしよう――。好戦的な態度を取りながらも、内心ではひどく心配になっていたジルであった。
仕事を放り出すことはできない。そうしたら、いやが応にも彼女との縁は切れる。
そんなのは嫌だ。情けない気もするが、「帰れ」と言われたらひたすら謝り通すしかない。
格好悪いが、しょうがない――と、改めて気合いを入れ、ジルは思考を手放していった。
ジルの不安は、ただの杞憂に終わった。
アシャンティは徹底的にジルを無視する方針に決めたようだ。もはやそこに存在する者なし――といった態度で、アシャンティは淡々と作業を押し進め、そのくせドールズには愛らしい笑顔を振りまきながら、ジルを一週間後のエレノアへと無事に連れてきた。
からりと澄んだ正午の空の下、ジルたちは教会の前で足を止めた。
そこで、よく知っている亜麻色の髪の女性を、見つけたからだ。
「ミレイ……」
ドールズが、消え入るようにつぶやいた。
彼の話によると、兵舎の立ち退き期日は、おそらく今日だったはずだ。
見ると、きっと必要な荷物以外は全て売ってしまったんだろう、ほんの小さな鞄だけを脇に置いたミレイが、教会の法衣を着ている男性と、熱心な様子で話し込んでいた。
「お願いします。ほんの一週間だけ……」
聖職者と思われるその男は、眉をひそめながら首を横に振った。
教会は、貧しい者に救いを与える場所だったはずだ。雨風をしのぐ部屋と、わずかなパンを与えてもらうために、ミレイはこうして教会にやってきたんだろう。
だが、そこの聖職者の顔に浮かんでいたのは、明らかな難色だった。
何度も首を横に振っている。そこにどんな理由があるのかわからなかったが、入り口の周りには、肌寒そうな子供たちが数人ほど立っていた。もう妊婦などを受け入れる余裕などないと言っているのだろうか、とジルは思った。子供たちはみんなひどく痩せていた。
「では、せめて祈りだけでも……」
ミレイがほとんど泣きそうな声でそう言うと、聖職者は渋々だがうなずいた。扉を開き、中へと招き入れる。
ドールズはすぐに駆けだして、それに続いていった。ジルとアシャンティも歩いていく。
扉をすり抜けると、少し奥のほうに立派な祭壇が見えた。そこには、まるで生前のようにぴったりと寄り添って、祈りを捧げているドールズ夫妻の姿があった。
死んだドールズは、その身体に触れられないながらも、甲斐甲斐しく妻のことを支えているように見えた。手を合わせて、ゆっくりとその隣で、目を閉じる。
こんなに傍にいるのに、二人の間には、途方もないほどの隔たりがあるような気がした。
祈っていることは、きっと同じだろうに。
両者とも、両者の幸せを願っているはずだ。これが生前のことであれば、どちらからともなくうっすらと目を開いて、お互いに目を見合わせ、気恥ずかしそうに笑い合うはず。
そんな当たり前な幸福が、ここにはない。
ジルはそれを遠くから眺めているうちに、不意に、自分のほうまで寂しくなってしまった。
「マスター」
ふと横を向いて、隣の人間に声をかける。
「マスターは……お祈りにならないのですか?」
「……」
やっぱり無視された。
こっちのほうは、すごく近い距離にいるはずなのに――、寂しさはどんどん募っていくばかりだ。なんだかそう考えると、すごく馬鹿馬鹿しくなった。
アシャンティはつんと怒った顔をしつつ、奥のドールズたちのことをじっと見つめている。
ジルはなんだか面白くなく、手をその目の前に差し出して、ぶんぶんと振っていると、アシャンティは、んーっ、とうめき声を発し、
「うざいっ!」
手を払いのけられた。
ジルはじっとその瞳を見つめていると、アシャンティは白々しくも、まるでたった今ジルの存在に気が付いたかのように、目を丸くした。
「ジル……? おまえ、なんでここにいるんだ?」
「……」
なんでここにいるって言われても。ジルは目を丸くして、固まった。
ここはやはり、触らぬアシャンティに祟りなし、ということだ。機嫌が直るまで放っておこう。ジルはそう思い、溜息を吐いて天井を見上げた。
天井は高く、薄暗かった。どこか無機質な寒々しさを感じさせ、ジルは心が引き締められるのを感じた。
神は、どう思っているのだろう。ここに生者でない者が三人もいるということは、とジルはなんとなく思った。
「神は、」
「え?」
まるでジルの考えを読んだようにアシャンティが話し出したので、ジルは思わず振り返ってしまった。どうやら独り言という体裁だったらしい、「ちっ――」という舌打ちを食らい、ジルは慌てて知らない振りで、前を向く。
テイクツー。んんっ、と再びアシャンティは声作り、再び静かに呟きだした。
「神は――パラスの連中のように、人々に対して公平に接せられることに大変お忙しい。救いの手は、もっと特別な不幸者に対して差し伸べられることだろう。ドールズの不幸は、極めて平凡なケースだ。救いは来ないだろう。なぜなら、神は公平だから……」
そんな諦観じみた呟きに、ジルは、自らの心がしんと静かになっていくのを感じた。
アシャンティの言葉の意味を、静かに探っていく。
ジルはなんとなく、ドールズ夫妻のことを見た。そして貧しい子供たちに目を向ける。続けて自分たちの姿を、手を、透けている両足を。最後に、数知れないプレークタの住人たちのことを思い出した。
ジルは、じっと中央の祭壇を見つめた。壁に天使の絵が描かれてある。
「……神が公平でもないならば、」目を細めて、ゆっくり口を開く。
「……」
「私や、マスターのような存在も、きっといません」
アシャンティはなにも答えなかったが、しばらくしてから、こくんと小さくうなずいた。
「不幸の自慢では、世の人に負けてしまうかもしれませんが、私たちは確かに不幸だったと思います。神の加護を受けられずに、プレークタの住人になったのですから、尚更です。ドールズさんたちも私たちと一緒かもしれません。ですが、私は――」
ジルは、口元にうっすらと笑みを灯した。
「それだけではないと知っています。不幸の中に、たった一つの希望というカケラが入っていることだってあるでしょう。神から助けられずとも、人間はその希望のカケラをつかみ取って、さらに前へ進むことができます。それだけでも、神に感謝する意味はあるでしょう」
ジルはふと、次の言葉を考えて、少し気恥ずかしくなった。
自分は強い人間ではない。こう考えられるのもまた、自分が幸福者だからだろうと思った。
「私は不幸者かもしれませんが、不幸なだけだとも思っていません。こうして、この姿でここにあれることを。ですからつまり、これがどういうことかというと、あなたの――ふぐっ」
仲直りのための決めゼリフを言おうとしたところで、アシャンティの肘がジルの脇腹に突き刺さった。
「マゾ男……教会の中でぺらぺらと喋るな。ほんとに……調子乗んな、あほ」
「うう……」
情けない声を上げるジルに冷淡な言葉を残し、アシャンティはすたすたとドールズのほうに歩いていってしまった。そのときに少し、口元が笑っていたような気もするが、きっと勘違いだろう。変なことはあまり考えないことにした。
アシャンティがそちらに近づいていくと、ドールズはそれに気づいて目を開けた。ゆっくりと立ち上がり、複雑そうな視線をアシャンティに向ける。
アシャンティはそれになにも答えず、きょろきょろとあたりに視線を配った。
「そろそろだ」
「は?」
ドールズが目を丸くして固まった。
そうしてアシャンティの視線は、最後に教会の扉のほうへと留められる。
ジルは不思議になり、少しその言葉を考えてみる。そうしてすぐにある考えに達した。
アシャンティの蒔いた種だ。それが今まさに芽を吹こうとしているのだ。
ミレイもやがて祈りを終えて、足を崩したが、そこからは立とうとしなかった。ぼんやりと座って、祭壇の天使を見つめていた。
先ほどの聖職者は、やはりミレイのことが哀れになったのか、祈りを長く続けていた。
ジルはやっとお腹の痛みが治りだし、自分もゆっくりと扉のほうに視線を向けた。
永遠に思われる一瞬の後、やがて木の扉の開く音がした。と思ったら、自分の後ろの扉からだった。慌てて振り返ってその人物の姿を認めたとき、ジルはやっと、アシャンティの狙いを知れた。
「神の祝福を」
胸に片手を置いて、一人の若い男が頭を下げる。それからジルの体をすり抜け、聖職者のほうへと歩いていく。
「おや……リニエルさん? 今日はたしか……約束の日ではございませんが?」
その男がやって来たのがわかると、聖職者はすぐに祈りを中断して、薄い微笑みを浮かべて言った。リニエルと呼ばれた男は、少し苦笑して返した。
「いいえ。たまたま少し時間が空けてしまったので、気晴らしにでも、と教会に寄ってみることにしました。それと、もしよろしければ、蝋燭などの消耗品のご注文を承ろうかと」
「おやおや、そうですか。わかりました。では少しお待ちになっていてください。担当の者を呼んで参りましょう」
「下賎な訪問で申し訳ありません」
リニエルはそう言って、軽く会釈をした。
ぱりっと糊の利いた服を、貴族のように着こなしている。髪はつやのある茶褐色。ジルは一目見て、その男をただ者でないと感じた。商品の話をしていたことを見ると、教会付きの商人だろうか。
ドールズは、不思議そうに首を傾げていた。どうしてあれがアシャンティの待ち人なのか、意味がまったくわからないようだった。
リニエルは、おそらくアシャンティがここに呼び寄せた人物だ。
若くて有能そうな商人か――あるいは、貴族。それはもちろん、お恵みを与えてもらうためなどではない。アシャンティの狙いはもっとストレートなはずだ。
「おや?」
リニエルは簡単な祈りを終えると、すぐになにかに気づいたように首を動かした。その視線の先には、悄然とした様子でゆっくりと立ち上がったミレイがいた。
祭壇に背を向け、ぼんやりと冷たい石の床を歩き出し、リニエルの横を通り過ぎていく。
これから彼女はどこへ行くのだろう。
どこへも行けない人なんじゃないのか。わからないが、そんな顔をしている。
ならばなぜ教会に助けを求めない。どうしてここを出ていこうとしている。わからない。
リニエルはずっと、そんなことを考えているように見えた。
「お待たせしまして申し訳ありません、リニエルさん。担当の者を呼んで参りました」
「あの……司祭様」
「はい?」
リニエルは振り返って、その彼に尋ねた。
「あの女性は、ここに救いを求めてやって来た方ではないのですか?」
リニエルの指し示す方向を見て、聖職者はすぐにあいまいな表情を浮かべた。
「え……い、いえ? たしか、祈りを捧げたい……とだけ」
リニエルはその言葉と表情だけで全ての事情を悟ったらしい。「そうですか」と冷たくつぶやいて、踵を返した。
「え、あの、リニエルさん!?」
「今日はやはり失礼します。申し訳ありません、司祭様!」
駆けながら後ろを振り向いて、その聖職者に手を振ると、リニエルはスピードを上げて、ミレイの後を追っていった。
「すみません、そこの方!」
「え?」
ミレイは憮然とした表情で振り返って、その男の姿を認める。
美しい亜麻色の髪と、華奢な体つき、品の良さそうな容貌――それはたとえ生気のない表情であっても、逆に一種の不安な色気となって、男の心を捕らえるだろう。
リニエルは少しどもりながら、自分はフィズィ・リニエルという商人であるということ、そして女性一人くらいなら十分養えるほどの資産があるということを説明し、もし住むところがないなら、ぜひ自分の家に来てくださいということを伝えた。
ミレイは最初こそ警戒したように身を引いていたが、だんだんと打ち解けるにつれ、その表情は少しずつ柔らかくなっていった。そして最後には淑やかに頷いて、それなら出産までの間、よろしくお願いしますと言った。
リニエルが少し嬉しそうに承諾すると、ミレイの顔に今日初めての笑顔が浮かんだ。
そうして、楽しそうに会話しながら、教会を出て行く。
ジルは、じっとアシャンティの顔に目をやった。
アシャンティは、一人でうまくいったとほくそ笑んでいた。
ドールズは笑っていなかった。
ドールズは茫然として、その場に立ちつくしていた。なにも喋ることができなかった。
くるくる、くるくる、とジルは手の中で帽子を回す。
幸福でも不幸でもない、運命の歯車を回すように、くるくる、くるくると、ただ。
微笑まずに。
アシャンティの考えはこうだった。
ミレイを養える者がいなくなってしまったのなら、また新しく作ればいい。
アシャンティは、あれから――ジルと喧嘩別れした後――早速大きな屋敷や商館に出向き、金持ちそうな人物たちに軽い暗示をかけて回ったらしい。ちょうど一週間後、正午のころに時間を作って街を散策してみようと思う、そんな程度の軽い暗示を。
その中の一人がフィズィ・リニエルという商人だった。行く当てもなく彷徨うミレイと鉢合わせ、その姿に目を留めさせるとともに、生活の援助を申し立てさせようという作戦だった。リニエルの場合、若くて独身だったので、うまくいけばそのまま新たな夫婦に――とはさすがに飛躍しすぎだとは思ったが、身の安全が固まるに越したことはないと思った。ドールズの手前、なにもいわなかったが。
ドールズは、リニエルの素性に疑わしげだったが、奴隷商人ではないとアシャンティの口から聞き、ひとまず納得したようだった。だが、その顔が晴れることはなかった。
「そうだったのか……」
リニエルは、ミレイの身の上話を最後まで聞き終わり、同情するように目を伏せた。
リニエルは依然として商談の件で家をよく空けていたが、暇ができた夜には必ずミレイの部屋に立ち寄って、話をしていた。
あれから三週間が経ち、ミレイはやっと全てのことを話し終えた。リニエルがなかなか聞き上手だったのだ。詮索するような素振りは決して見せず、かといってはれ物に触るようでもなければ、人の心の氷は自然と溶けるものだ。
全てを吐き出したことで少しは気が楽になったのか、ミレイは長い溜息をつきながら、指で目元の涙をぬぐった。それから、ゆっくりとお腹の子を撫でる。
目を伏せながら、ミレイは小さく笑って、リニエルに礼を言った。
「……本当に助かりました。リニエルさんがいなかったら、私も……この子も、絶対に助かっていませんでした。ケインのこともゆっくり考えられず、ただ死んでいくしかありませんでした。本当に……リニエルさんには、どんな感謝をすればいいのか……」
「やだな。止めてくれよ、ミレイさん。そんな言葉を使わなくたっていい。おれは偉い人間じゃない。ただ普通の人よりちょっと金が余ってるっていうだけさ。それで広い家を建ててみたんだが、やっぱり住む人がいないから寂しくってね。同業者は泊めたくないし、どうしようかと思っていたら、たまたま良さそうな人物を見つけたんだよ。おれとしても助かった」
リニエルはそう言って陽気に笑った。
彼は実際に、商人としては異様なくらいの大きな屋敷を持っていた。有力な貴族と勘違いされそうなほどの――。その割に彼の家族は誰も住んでおらず、使用人も少なかった。
リニエルの陽気な冗談に、ミレイは少し元気を出して笑った。
「……助かったって言われると、困っちゃいます。私だってすごく助かったんです。こんな素敵な部屋を用意してくださって、さらに毎日の食事まで――本当に私、言葉じゃ語り尽くせないほどに感謝しているんです。このご恩は、いつかきっと必ず……」
「だからいいんだってば。もうすぐ一ヶ月も経つんだから、いいかげんにその感謝モードは止めてくれよ。ミレイさん」
「そう言われましても……」
「むぅ――あっ、そうだ」
リニエルは、なにかを思いついたというふうに悪戯っぽく笑ってみせた。ミレイは不思議そうに目を丸くして、彼の顔を見つめている。
「ちょうどいい機会だから、おれのことも……そろそろ名字じゃなくって、『フィズ』って呼んでくれないかな? 本当の名前はフィズィなんだけど、近しい友人はみんな『フィズ、フィズ』って呼ぶんだ。なあ、頼むよ」
「え、ええ? で、でも……」ミレイは慌てふためいて手を振る。
「だって、こうでもしないとミレイさんはいつまでも他人行儀のままだろ。それじゃこっちのほうまで疲れてしまう。だから……ここはおれのことを助けてやるっていう気持ちで、ちょっと『フィズ』って呼んでくれないかな。ね……お願いだ」
リニエルが少しそわそわした様子で手を合わせながら言うと、ミレイは顔を引いて、数秒逡巡した後、おずおずとうなずいた。
「ええっと……わかりました……」
少し気恥ずかしげな声に、リニエルは大喜びでガッツポーズする。
「これから、少しずつそう呼んでみますね。ひとまず、明日から頑張って……」
気弱な調子でそう言うと、リニエルはつまらなさそうに手で罰点を作った。
「だーめ。それなら今日から」
「ええっ!」
「そんなこと言っていたら、いつまでかかるかわかりゃしない。物事には一番いい時期ってものがある。それが今だよ。商売でも一緒、賭け事でも一緒。重要なのは、時期を見極めること」
「そんな……私、商人じゃないのに……」
目を伏せてぼそぼそと言うと、リニエルは「ん?」と胸を張って聞き返した。ミレイは目を上げて、さらに数秒逡巡した後、口をもぞもぞと動かし始めた。
再び顔を伏せて、右、左、右、左、と気恥ずかしそうにもじもじと動かしながら、
「うー……フ、フィ、フィ〜〜……」
「ん?」
「……だめ」
やっぱり言えなかった。
リニエルは苦笑した。「すみません……」と謝るミレイの肩を叩いて、陽気に笑う。
「しょうがない。また今度挑戦してみよう。今日はもう帰るよ。話、ありがと」
そう簡単に言って、椅子から立ち上がり、ジルたちのいるほうへ歩いていく。
「いいえっ。こちらこそ、聞いていただいてありがとうございました。本当にお忙しい中……わざわざ会いに来てくださって」
「いいんだ、気にしなくて。全部おれが好きでやっていることだ。それじゃあ」
紳士らしい微笑みを見せて、リニエルは部屋から出て行った。
ミレイはそれを見送った後、そっとお腹のあたりに顔を伏せた。ジルはなんとなく、その表情の意味に見当がつくような気がした。
夫の死を悼んでいるのもそうだろうが、今頭の中に大きくあるのは、もっと別のこと。
ジルは――、余計なことは考えないようにした。
ただはっきりしているのは、リニエルは金持ちの商人で、器量も良く、女性の扱いにも長けているということ。
そうしてドールズは、今ここにはいないということだ。
恋愛物語が好きなアシャンティからすれば、手に汗握る展開だろうが、ジルはドールズのことが気の毒で、あまり表情に出して喜ぶことはできなかった。
「ミレイ……」
ドールズの呟きは、ミレイには届かない。
お腹を支えるようにゆっくりとベッドの縁から立ち上がると、ミレイは机に向かって、なにか書き物を始めた。アシャンティが部屋を出て行ったので、ジルもそれに続く。
「ん? おまえは、ミレイの傍についてやらなくていいのか?」
外の暗い廊下に出たところで、アシャンティがジルのほうを振り返って言う。もちろんジルに対して言っているわけじゃない。後ろのドールズに対して言っているのだ。
ジルが振り返ると、ドールズは迷うように目を伏せて、しばらくしてから首を横に振った。
「いいんです……別に」
「そうか?」
アシャンティは少し面白がるように返事をすると、ふと「ジルは――」と言いかけて、慌ててその口を閉ざした
おおかたジルにも意見を聞こうとして、いまだ喧嘩中だったことを思い出したんだろう。なんだか寂しいので、こっちから話しかけてやることにした。
「マスター」
目を逸らされる。
「いやー、暑い暑い。それにしてもあれだな。あたしの作戦、結構うまくいってるんじゃん? 結構多くの人間に声をかけてみたんだが、まさかあんな都合のいいやつが来てくれるなんて思わなかったよ、はっはっはっは」
「……」
アシャンティがそう早口で捲し立てると、ドールズはいっそう深刻そうな表情を浮かべ、拳を握りしめた。ジルは閉口し、気まずい沈黙があたりに流れた。
「あー……」とアシャンティは決まり悪そうな声を上げ、んんっ、と払い、
「それにしても、あれだよな……」また繰り返す。
「なんなんですかさっきから、その下手な切り出しは」とジルが突っこむと、アシャンティはぴくりと顔を引きつらせながら、ドールズに笑顔で言う。
「おまえ、全然消える気配ないけど……どうしてだ?」
「……」
ドールズは、気まずげに目を逸らした。
再びいやな沈黙が降りると、部屋の奥から、かりかり、かりかり、とペンを動かす音が大きく聞こえててきた。ミレイは今も無事に生きている。無事に生きて、書き物をしている。
シンプルに考えれば、ドールズはここで消えることだってできた。けれど、消えない。
「どうして消えないんだ。おまえは、あいつら二人の幸せを願っていたんじゃないのか? リニエルはなかなか優秀なやつだと思うぞ。気品もある。女性にもてそうだが、独身だ。あいつら二人の生活は、今後永遠に約束されたのも同じじゃないのか?」
「……永遠じゃありません。出産までです」
ドールズは少し苛立ったように言った。アシャンティは薄笑いを浮かべて、うなずいた。
「そうだったな。それじゃ、もう少しだけ様子を見よう」
「……」
ドールズは黙って背を向けた。部屋の中からはペンの走る音が聞こえてくる。
ジルは、なにも言わないつもりでいた。
ただ――こんな時だけは、微笑みは浮かべていられなかった。
やがてアシャンティの指輪が光り、空中に紋章を描く。直後、青白い光に身体が包まれる。
その中で、考えた。
まだ後一回、インファーナに干渉できる。
ただの暗示なんて弱さじゃない。もっと直接的に力をぶつけることができる。
たとえば、ドールズが望むのなら――と、そこまで考えて、その先は止めた。
馬鹿な考えだ。剣に左手で触れていることに気づいて、ジルはすぐにその手を離した。