9

 夏の日差しがやって来た。

 学校は夏休みに入っていた。ここのところ、天気が悪く、気温が下がって夏らしい感じがしなかったが、ようやく七月も終わりになって夏らしい、あのギラギラとした日差しと、むっとする湿気の高い空気がやって来たのだ。

 俺は上機嫌でとある準備を進めていた。海パンにバスタオル、新しく切った髪型で、七月の終わりの海水浴に臨む構えを見せていた。この俺の胸の高鳴りの原因となっているのは水ではない、もっと高貴で刺激的な、水着……なる物体だ。なにも自分の水着に興奮しているのではない。なんと神崎さんに海水浴に誘われてしまったのだ。

 それはある七月の、放課後のことだった。

「康作君。海得意?」

 なんの気なしに尋ねられた。

「得意得意。めっちゃ得意」

 俺は悟っていた。これは海水浴デートフラグが立ったのだ!

 だが油断は禁物だった。辺りに目を配れば、耳を傾けている男どもがいる。まったく男というやつはモテないやつに限ってハイエナのように嗅ぎ回るものだ。

 そお。じゃあ予定空けておいてね。七月末くらいに。こっそり言うので俺は破裂しそうなばかりに喜んでしまった。もちろん外見はきちんと冷静に、ああ、いいよ。と爽やかに。

 レーエは背後で何だかんだ言ったが、頼み込むとオーケーしてくれた。神崎さん、やっぱ俺のこと好きなんじゃ……。神崎さんは綺麗で愛想もいいから、学校中の男どもが好きだが、俺は今かなり良い位置につけていると言っても過言ではあるまい。

 神崎さんは子猫のように可愛く微笑んで、じゃあまた、と絶妙に、品良くウインクして去っていった。その夜脅迫じみたメールが謎の人物から届いたが、俺はレーエとその嫉妬野郎についてずいぶん馬鹿にし合って満足した。危害は、俺が考えている以上にはない、というのがレーエの意見だった。その後神崎さんからメールが来て、しばらくやり取りした後、七月の最終日にみんなで海に行くことに決まったのだった。

 海かぁ……やっぱり高校生は海だよな! 可憐で華やかな女子高校生たちと海へ行けるなんて俺は幸せ者だなあ! 現金かもしれないが、俺はこの時ばかりはレーエが現われてくれたことに感謝するのだった。レーエとの関係も夏になってからはうまく行っており、俺は何よりもあいつの言葉をずっと以前より信頼するようになった。少しずつだが、自分の勝手な考えというのを、俺なりに、あいつとの会話によって気付けるようになったのを、俺はあいつと共に喜んだ。レーエは二宮鏡子そっくりの微笑みを見せて、俺の頭を撫でた。

 というわけだ。

 俺はいよいよ明日に迫った海水浴に期待を寄せすぎてあまり眠れなかった。何度も神崎さんと恋人になる様を想像して、俺は幸せだった。彼女に相応しい男に自分が変化していく様を、俺は見れて胸が躍った。まだ釣り合わないかもしれない。でも俺は彼女が今の自分を認めてくれるなら、俺は彼女に釣り合うように精一杯努力し、金も貯めることができるだろうと考えた。

 七月三十一日を迎えた。先日までずっと続いていた雨は綺麗に晴れて、壮大な青を空に残してくれた。突き抜けるような虚空は青春の予感を俺に抱かせた。

 とにかく海だ!

 俺は母さんがこしらえてくれたおにぎりを持って、朝早くに出かけた。商店街にあるファッションショップの駐車場に集まることになっている。そこの店長さんで、神崎さんのなんと叔父さんに当たる人に海に連れていってもらえることになっているのだ。メンバーは今のところ不明だが、男子も女子も手頃な人数を集めるということになっていたので、そこそこ賑やかなようだ。

 どうやら俺が一番遅れたらしく、「やっと来た!」という声が聞こえた。俺は手を振りながら走っていったが、声は途中で切れ、かけるべき言葉は一瞬はじけ飛んでしまった。

 男子は、三人。俺の親友の才賀義時(さいがよしとき)に、クラスのイケメンでちゃらちゃらしている奴2名。……まぁ、この辺はいいんだが……。

 女子は四人。我がアイドルの神崎美琴ちゃんが大きな目を太陽のように輝かせて、手を振っている。俺が来たのを一番待っていたみたいに。格好はラフで、白い雪の花のような肌が朝露の空気に触れて一瞬輝いた。

 後は神崎さんと仲のいいギャルが一人。こっちはあんまり親しくない。残り2名が俺の度肝を抜いた。

 鎌田美穂……はまだいい。なぜ、あの根暗女、二宮鏡子がここにいるのだ?

「おっそーい」

 神崎さんは目を怒らせていた。と言っても時間ギリギリのはずだが……彼女の持論で言えば、男は女より早く集合場所に現われなければいけないらしい。なんてこった。はやくも出遅れたか……。

 いや、それよりもなぜ二宮鏡子がいる? 鎌田美穂はまぁわかるとして……。

 鎌田美穂はニヤリと笑った。俺のほうを見て。二宮鏡子は俺のほうを見もしない。なんだか、帰りたくなってきた……一日こいつと一緒に過ごさなきゃいけないだなんて。

 言ってなかったが、俺はあれから二宮鏡子を遠ざけていた。無闇に拒絶したわけではないが、少しずつ、少しずつ、相手との距離を取っていった。今ではもうあまり話もしなくなったし、メールすらほとんどしない。視界にいなけりゃ痛くないんだが……どうも気まずい。

 それとなく挨拶して、二人とも、神崎さんとすごい仲良かったんだな。意外だったよ。と言うと、美穂は「うん。まあね」とニヤニヤ微笑んで、鏡子の方はこちらを見ないまま、「はあ」と言った。お前には関係ないだろ。とでも言わんばかりに。

 二宮鏡子は桃色のワンピースを着ていた。髪型を少し変えて、前髪の量を減らして、空のように透き通った瞳を見せていた。後ろで髪を結い上げていて、ヘアピンで留めていた。

 美穂もばっさり髪を短くしていて、雰囲気がかなり少年っぽくなっていた。明るい雰囲気に包まれていて、以前のような不安さは無くなっていて、姿は自信に満ちあふれていた。

 俺は本当のところ、こうして久し振りに二人に会って、いやな気持ちどころか、なんだか懐かしい気持ちになったのを白状しないといけない。もちろん外には出せなかったのだが。

 二宮鏡子が女子たちと親しげに話しているのを見て、ちょっとした後悔にさいなまれたのもまた事実だ。だけど、あのときはあれが最善だった。俺と神崎さんが結ばれるためには、二宮鏡子をどうやっても遠ざけないといけない。

 神崎さんは私服がとっても可愛かった。茶色い髪を美しくウェーブさせて、その髪に合うような白い輝くブラウスを着ていた。Tシャツでいる自分が恥ずかしくなるくらいだった。

「やっぱりおまえだったか、康作」

「義時。またなんでおまえが……」

「悪いか?」

 義時は目を逸らして頬を染めた。うーん……義時は男らしさで言えばクラス一の美男だが、どうにもシャイで、女っ気ゼロの硬派だと有名だった。

 ところが、どんな運命のいたずらか、義時も神崎さんに恋をしているとついこの間暴露されたのだ。隠れ義時ファンの女子陣はこれを知ったら激怒するだろう。神崎さんはその注目のせいで、ほとんど好意と同程度に嫉妬も多いらしいから。

「美琴が誘ってくれたのだ。なんと俺を一番にな。俺はこの夏……恋の大きな発展の予感がする」

「んなわけねぇだろ。俺が一番に誘われたんだよ。楽しそうな妄想しているところ悪いけど」

「なんだと」

 睨むと迫力がある。剣道部でかなりガタイがいいし、とにかくその目に捕らわれると蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。

 だが、

「俺は一番だったはずなんだけど。お前誘われたのいつだよ?」

「先にそっちが言え」

「え? 七月十四日だけど」

「俺は十三日だ」

「おっと間違えた。やっぱ十二日だった」

「十一日」

「十日!」

「九日だ!」

 こいつと仲がいい俺くらいなもんだ。こいつの子供じみた見栄をやっつけられるのは。

「はいはいまあまあ」

 割ってはいるのはクラスのチャラいやつ。日焼けして、香水たっぷりの髪がちょっとおかしなやつだ。

「喧嘩はそこらへんで。気持ちはわかるけど、別に何番でもいいっしょー。順番とか関係ねぇし。ランキングなんかすぐ入れ替わるだろうからさ」

 それは、お前らが仮に何番でも、俺ならすぐにひっくり返してみせるという軽蔑に満ちた自信が溢れていた。

「それにさ、仮に一等賞が外れたところで……ほら見ろよ。結構上玉じゃん? あの鏡子って子……めちゃくちゃカワイイじゃん。あの暗そうな女があそこまでビフォアフ(ビフォア・アフター)すんなんて、超ビビリじゃん? 激アツだよマジで。美穂もよく見りゃ悪くねぇし、佳保はまぁ、滑り止めってところで☆ っちゅーわけで、ヨロシク♪ まぁ気楽にいこうぜ。でなくてもせっかくのビーチなんだからさぁ」

 俺たちはすっかり毒気が抜かれてしまった。

 そうだな。いちおう海なんだしな。髪は変な形してるし香水きっついけど、まぁ、こいつの言っていることも当たっちゃいる。だけど、マジか? 二宮鏡子ってこんなふうに女遊びに長けていそうなやつにも可愛く映るのか? たかが前髪分けて少し明るくなっただけじゃないか……。複雑な気持ちだった。

 あの二宮鏡子がなぁ……だなんて思っていると、叔父さんが店から出て来て、今日はよろしくと言ってきた。ひげ面のファンキーそうなオッサンだったが、なるほどね……神崎家は飽きがなさそうだ。俺とは違って。

 車内じゃレーエとばかり話していた。というのも、あの鏡子が俺の隣になっちまったからだった。気まずい沈黙が、ワゴンの片隅を流れる。俺はレーエに助言を求め続けていたが、レーエはとにかく話しかけ続けろと言ったのでそうしてみた。返答はどれもすげなかった。いったい全体どういうことだとレーエに言えば、

「それがあなたの罰なのですよ。とっくに恋仲になっていたところを、あなたのすげない行動が彼女をこんなふうにしたのです。今あなたは、この一ヶ月間のあなたの姿を二宮鏡子を通して見ていると言っていいでしょう」

 なんて言うのだ。そんな因果応報みたいな話じゃなくって、ここをどう切り抜けられるかが聞きたいんだが。

「あなたは今借金を返しているのと同じなのです。これが最善なんですよ。……と言っても、あなたが可哀想過ぎますから、一つ教えてあげましょう。あなたが二宮鏡子を見て一番変わったと思うところはどこですか?」

 え?

「そこを聞いてみなさい」

 こんなふうに、うまくいきそうなヒントを残して一旦去っていくのがレーエの常だったが、今までの俺を騙したようなものとは少し違う気がする……。そうか。あそこを話題にすればいいんだ。

「あのさ」

 二宮鏡子はこちらを向く。

「髪、すこし変わったんだな」

 はじめて冷酷な表情が和らいだ気がした。

「はい。美琴ちゃんにそうしたほうがいいと指導を受けて」

「友達になったんだな」

「はい」

「そっか」

「……」

 俺はどうしてこんなふうにしてしまったんだろうと、つくづく思った。髪が、じゃない。

 そうじゃない。友達だったじゃないか。友達だったのを無理に破綻させて、俺は何を得たんだろう。こんなにも修復に苦労させられて……こんな喜びを、俺は今まで無いものとしてきた。

「似合ってるよ。すごく」

「え?」

 びっくりしたような顔になった。

「顔はいいんだからさ。あんまり隠さなくていいんじゃないかな。そりゃあんたの都合は良くないかもしんないけどさ。そっちの方が断然……似合ってるよ」

 俺は、いったい何を言っているんだ?

 今、可愛い、と言いそうになってしまった。

 やっぱりだめだ。こんなのは。一度調子に乗ってしまうと、俺はすいすい恥ずかしいセリフを言うたちらしい。

 でも、思い切って言っちまった方が、気まずいこの感じよりはずっとマシだったろう。

 俺は移り変わっていく景色を眺めた。気恥ずかしくってこいつの顔を見れん。可愛いだなんて言っちまったら、俺の青春終わる気がする。もうちょっとだ。もうちょっと待って欲しい。

 いったい何を待てと? 俺の青春の相手はこいつじゃない。運命? 決まり切ったこと? ああ、相性はいいだろうよ。きっと。でもさ、俺はもうちょっと、頑張ってみたいんだよ。二宮鏡子なんてなぁ、神崎さんと比べたら子どもだっつーの。俺は意外とカタイやつだと初めて気が付いた。初志は曲げられないのだ。こんなこと恥ずかしくて言えないけどな。

 車内は女の子同士の会話が多い。そこに割って入っていける図々しさは俺にも義時にもない。鏡子にもないようで、俺たち三人は沈黙を守って、たまに、ぼそぼそと、大人っぽい天気の会話とか世間の話をしていた。少しだけ、二宮鏡子に相手にされるようになってきた。だけど二宮鏡子と仲良くなったって、俺はあいつを落胆させるだけなんだから、なんかしょうもない気がした。せいぜい海に着くまでの話し相手なんだから、俺のたったそれだけの都合でこいつに迷惑を掛けるのもなんだか気が引けた。

「こら勝手者」

 そこをレーエが咎めた。

 なんだよ。

「なんだよじゃありません。この自惚れや。まだ治ってないようですね」

 俺がいつ自惚れた?

「それがわからないのを自惚れと言うのです。あなたが無理に二宮鏡子と会話しないというのは正解です。あなたは今のままじゃ確実にドジを踏むでしょうから」

 しばらく聞かなかったな。あんたの毒舌。

「私の考えているとおりにあなたが従いさえすれば、徐々に性質も変わっていくというのに、あなたは頑固にも自分の考えを曲げませんでしたね。表面では私の言葉に従っているふうを装いながら、根っこは同じままだ」

 それが人間だろ。俺は頑固じゃないと思っているよ。お前にそんなふうに言われるのは残念だよ。

 急にレーエは悲しそうな言い方になった。

「今のは少し言い過ぎました。頑固とは違うかもしれません。あなたは聡明だし、周囲の空気にいち早く気付く敏感さと柔軟性も持っています。でも……あなたの根っこに巣くった、『人は人自身で考え、決定する。それは素晴らしいこと』という考えが全てを台無しにしているのです。あなたのその考えは一体どこから来たのですか? 漫画? テレビ? 未熟な友人? 父と母ではないことだけは確かです。あなたは素晴らしい両親を持っていました。と同時に、そんなことを教える親は愚か者だと言わねばなりません」

 なぁ……急に、どうしたんだ? なんでその考えがお前をそんなに怒らせるのかがわからないんだが。っていうかそもそも、俺は俺自身で決める。俺は俺によって生きている。そのことの何が悪いんだ? 自然なことじゃないか。

「自然なことではありませんっ!」

 耳が、キーンっ……となった。

 いったいなんだというんだ?

 わけがわからない。哲学的な話なら、これ以上はパスだ。

 レーエ。俺はあんたが一体何にそんなに怒っているのかわからない。

「そうでしょう。その間違いに気付かない限り、あなたが幸せになれることはありません」

 はぁ……わかったよ。もういいよ。しばらく俺に話しかけないでくれ。

 レーエは消えていった。俺は溜息をついて、窓の外を見た。透明な水色の空が、光を湛えてどこまでも、上へ、上へと昇っている。白い綿飴のような雲が、そのお供だ。

 俺はレーエの言ったことを忘れようとしたが、うまくいかなかった。その言葉は真実のような気がした。でもとうてい、受け入れられるわけがなかった。その時に俺は、人は、願ってもいない真実など受け入れることはできず、自分の好きな架空の真実だけを受け入れるように出来ているのだと、初めて知った。人ってずいぶん勝手なものだ。でも俺はそうするより他に仕方がないのだ。俺のせいじゃない。俺はまだ、何が正しくて、何が正しくないのか、今まで知ってきた人づてのこと、既成観念、これらからしか、その解答をくみ取ることができないのだ。でももうこれ以上はパスだ。脳みそが痛くなってきた。俺は朝の早起きがこたえたのか、唐突な眠気に襲われた。俺はしばらくの間眠ってしまった。

 10へつづく

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