8

 文化祭当日がやって来た。俺もあれから料理の基礎を少しは学んで、他のやつの手伝いくらいならできるようになった。

 厨房は調理実習室。ここは大変賑わっている。メールで次々に注文が入り、ホール係が調理されたものを持っていく。同じ階で助かった。俺は主に皿洗いや素材の用意などをやった。

 二宮鏡子はもっぱらコックに専念し、全体の指揮は鎌田美穂がやった。全員が真剣だった。この日のためにみんなで頑張ったんだから。

 昼を少し過ぎると、入れ替わりで別の調理班がやって来た。俺はようやくそこで一息つけた。午後はずっと彼らに任せてもいいことになっている。鎌田美穂や二宮鏡子はどうするのかというと、にやっと笑って、まだ残ると言いだした。この二人がいなければ、絶対に厨房は回転しないだろうから、仕方ないといえば仕方なかった。

 あれから二人は、仲直りしたように思えた。でもなんで仲直りできたのかはわからない。俺はあれから二人とそのことを話してないし、話す暇もないほど忙しかったから。

 さて、そんなことより神崎さんだ。

 神崎さんはなぜか一向に厨房に現われてくれなかった。きっと不純な男どもが教室で引き留めているせいだ。そうはさせるかっ! まずは彼女の御姿を拝見して目の保養とさせていただこうっ!

「神崎さん!」

 教室のドアをくぐると、彼女はこちらを振り向いた。

「あ、木田君。いらっしゃい」

 おお、なんて眩しい姿……って、むさ苦しすぎる!

 教室内は男で溢れかえっていた!

「あ、そうか。もうお昼の時間なんだ。なーんだ。すぐ過ぎちゃったね。ウェイトレスの格好、気に入ってたのに」

『よければずっとその格好で!』と野太い声がこだまする。

 彼女は平気なんだろうか。こんな変態じみた者どもに囲まれて。俺だったら発狂しかねないが。

「うーん。でも……」

「いや、ぜひぜひ!」

「一日中その格好で!」

「他の男どもに見させるのは癪だが……俺らは間近でその姿を見られる権利を持っている!」

 だめだ、こいつら。頭がイってしまっている。

「やっぱ、やめとくー」

 ふんわりと甘い匂いを漂わせる茶色の髪が翻る。

 ふと、男どもの方を振り返って、

「だって……スカート、めっちゃ短いんだもんっ☆」

『う、うわぁぁ――――――っ!』

 スカートを、ちょんっ、とつまんだ格好が野郎共に火を付けた。涙と鼻血と汗ですごいことになっている。彼女の痩せすぎてない、ちょうどいい形の足が、ステップを刻み、騒動の間に廊下に逃げてしまった。

 ちょうど俺の横を通り過ぎるさい、ふと見てしまった、いたずらが成功した時のような、ほくそ笑む顔。俺と目が合ったとき、神崎さんは俺を小馬鹿にするような笑みを見せた。そのまま猫が逃げるようにするすると彼女は廊下を歩いていった。

 一般の客は完全に引いている。もちろん神崎さんのウェイトレス姿は目の保養になっただろうが……うちの生徒たちが気持ち悪すぎる……。

 エロカメラ小僧が撮った彼女の写真を競りにかけている。「三百円!」「四百円!」「もう一声!」「ええい、五五十円!」

 俺は溜息をついて廊下に出た。なんという馬鹿どもだ……。神崎さんがこんな変態どものアイドルになっているのは少し残念だった。

 とにかくだ。

「おい」

 俺はもう一度教室に入って全員に向かって呼びかけた。

「千円だ」

 横でレーエが重い溜息をついていた。

 

 制服に着替えてきた神崎さんと俺たちは文化祭を回ることになったのだが、なんせ、やたらと男子が多い。三十人くらいいるのではなかろうか。他校の男子までいるようだ。一体なんの宗教団体だ、これは。神崎さんが中央にいるらしいが、ラグビー部らしき図体のデカいやつにきっちりガードされてそれ以上中に入れない。

 神崎さんの高笑いが聞こえてくる。くそったれ、俺じゃない一体誰と話しているというんだ。どけっ、このデブめ。

「すまんな」

 そいつはタックルを繰り返す俺を見下ろして、哀れそうに言った。

「先輩の命令なんだ。破るとひどい目に遭わされる。ここは俺たちのために諦めてくれ」

「うるさい。俺は最初に神崎さんと約束したんだぞ! 文化祭一緒に回ろうって!」

 ビクともしねぇ。なんてやつだ。

「おまえ、木田康作か?」

「そうだけど。なんだ!」

「はやく逃げたほうがいい。今、美琴ちゃんがお前のことを探してる。見つかってみろ。おまえうちの先輩にえらい目に遭わされるぜ」

「上等だ! どっからでもかかってこい!」

 その先輩とやらにリンチをくらわされる心配はなかった。俺はそいつの隣にいたやつに逆にタックルをくらわされて、大きく吹っ飛ばされてしまった。

「二度と来んな!」

 下卑た声が頭上に響く。俺はコンクリに頭をぶつけたようだ。体がとても熱く痺れた。しばらく体を起き上がらせるのもひどくつらく、ようやく誰かの手を借りて起き上がったとき、最後尾のやつらの姿がうっすらと見えただけだった。

「あなたは諦める。ついでに神崎美琴のことも諦めなさい。あれは、あなたの手に負える人間じゃありません」

 俺は萎縮していた。まさかあんな衝撃をもらうとは思っていなかった。

「あなたが最初に諦めなかった影響がその怪我になってやって来ています。これから先、もっとひどい怪我、精神的な傷、惨めさ、絶望感は免れ得ません」

「うっさいな」

 一人になった後、服から石を払いながら、俺はそう言った。

 レーエは横でうすく微笑んでいた。こいつは俺のそばにずっといるんだ。こいつがそうだと言えば、必ずそうなるんだ。

 レーエ。

「はい」

 おまえは俺の味方か?

「はい」

 じゃあ、あいつをやっつける力をくれ。さっきのあいつのどこを殴ったらあいつをうまくやっつけられるか教えてくれ。

「無理です」

 は?

「あなたにあの男を傷付ける力はありません。あなたよりずっと頑強ですし、あなたを深く傷付ける残酷さも持っています」

 トラック事故を回避したみたいにうまいやり方を教えてくれりゃいいんだよ!

「ですから、無理です。私の力は仕返しするためにあるんじゃありません。もう二度とそんな願いは言わないでください」

 はぁ。

 俺は溜息をついた。

「どうしますか?」

 どうすりゃいいんだよ。

「ご飯を食べましょう」

 どこで?

「調理実習室で」

 はあ……そうすっか。すっげぇ腹減った。

 レーエは微笑んだ。

「きっとそう言うと思ったんです」

 

 調理実習室に入ると、二宮鏡子と鎌田美穂が昼食を取っていた。今はもうほとんど注文がないようだ。お昼の時間も過ぎたし、何より神崎さんが教室にいないのが原因だろう。

 二人は面と向かって仲良さそうに話してたが、俺が入ってきたことに気が付くと、両方「あ」といった顔になった。

 二宮鏡子の方はおずおずと、「お昼?」と俺にうかがうように。鎌田美穂は、前のことをまだ気にしてるのか、若干俺に気まずそうに、「まだ食べてないんでしょ?」と言う。

「うん」

「私、なんか作ってあげよっか?」

「頼むよ」

 鎌田美穂は立ち上がって、エプロンを取った。フライパンを洗って、ボウルから材料を取る。

 オムライスを作ってくれた。驚いたことに、今度はめちゃくちゃ美味かった。

「どう?」

「めちゃくちゃ美味い!」

 照れたように微笑んだ。

「そっか。よかったよ。練習した甲斐があったなあ」

 俺は美穂の顔を見上げた。

「あのさ……この前は、迷惑かけちゃって、ごめんね」

「いや、」

 やっぱり、美穂はいいやつだと思った。俺の思った通りだった。

「気にしてなんかない」

「そお? こっちはだいぶ気にしてたんだけど。……あんたのこと、正直言って、最初は余計なことしたやつだって思ってて、陰口たたいてたんだけど、よく考えたらさ、あんたのおかげであたし目、覚めたんだよね。本当にすまなかったと思ってる。これで許してくれなんて言わないけど、あたしと仲直りしてくれっかな?」

「もちろんするよ。いいやつだな、おまえ」

 そう言うと、美穂ははっとして、うすく笑った。

 二宮鏡子もこちらをじっと見ている。

「なんだ。どうした」

「いえ」

 二宮鏡子も微笑んだ。

 前髪が、今は髪留めで留められていて、両目がよく見える。

 微笑もレーエとよく似ていたが、こっちのほうがより人間くさかった。

「仲直り、してくれて」

 そうかな。俺は美穂のことはたいして悪いやつだと思っていなかった。ただ誰でも悩むことなんだ。とても自然で、気持ちの良いことだと思う。

 いや……だめだな。おっさんくさくなっちまって。

 初子のことを思い出す。

 もう、二、三年したら、二宮鏡子や鎌田美穂のような悩みもあいつは持ったのかな。素直なやつだったけど、もし生きてたら、こいつらみたいにちょっとは大人っぽい悩みも持ったのかな。

 もう、いないんだ。

 やめよう。

 思い出すと、きりがない。

「あの、私とも、友達になってくれますか?」

 現実に引き戻された。

 なんだって?

「あの……美穂ちゃんとは仲直りしたので、その、友達である私とも、友達になってくれたりは……」

「なっちゃいなよ、康作。女二名と友達だよ。絶対後でいいことあるって」

 顔が熱くなった。

 なんだ、これは。

 おい、レーエ!

「私と話している暇などあるのですか」

 どう反応したらいいのか教えろ!

「あなたの思うままに解答してみなさい。そうすれば、うまくいきます」

 俺の思うまま……。

 べつに、付き合うとかじゃねーし、このまま二宮鏡子と仲良くなっても最後の一線越えなけりゃいいのかな……。ていうか、断る勇気もねぇし、できれば、二宮鏡子のことを、もっと、知りたい……。

「べ、別にいいけどさ。そんな改まって言うことじゃねーだろ。俺ら……もう友達だ!」

 二人と握手をした。二宮鏡子の手はすべすべで少しひんやりとしていて、気持ちよかった。

「あの、ありがとう」

「そんなたいしたことじゃないって。康作の言うとおり、もう友達だったんだから。あたしらは」

「もう。大事なことなのに」

 二宮鏡子はふくれっつらをした。食べ終わって、前髪を元に戻してしまうと、落ち着いたと言っていた。やっぱり二宮鏡子は変なやつだ。

 文化祭は、その後まもなく終わった。

 

 学校の教室で打ち上げ会をやり、班ごとに分かれて楽しい一時を送った。神崎さんは教室の中心でやっぱり華やかだった。デジカメで撮った写真を見せ合い、女友達と可愛い声でお喋りをしていた。

 俺はといえば、料理の時に一緒に奮闘した男子ら数名と特に仲良くなり、色んなゲームをやったり、冗談を言い合ったりして楽しんだ。

 二宮鏡子は、やっぱり二宮鏡子だった。

 鎌田美穂もこの時ばかりは女子陣の中心になっていたが、時折、二宮鏡子の方を心配そうに見て、決して輪に誘うような無粋なことはせず、場が落ち着いてくると、二人で教室の隅に座って、仲良さそうにお喋りをしていた。

 神崎さんとも俺は喋ることができたし、満足。一緒に文化祭を歩けなかったことを残念がってまでくれた。あのラグビー部の先輩は何かまずい冗談を言ったらしく、もう二度とあいつと話さないと神崎さんは言っていた。これでまた神崎さんと仲良くできるってわけだ。甘い香りと声が、俺の心をぐっと掴んで離さない。この強烈な可愛さは、二宮鏡子とは比べることなどできない。

 レーエ。

「なんですか」

 俺、もう一回やってみるわ。怪我とかぐらいなら、何とかなるからさ。やっぱり信じてみたいんだ。

「はぁ……言っても無駄なようですね」

 うん。

「二宮鏡子はあなたに明確な好意を抱いている。だとしても?」

 おいおい。本当か?

「はい」

 またお前の策略なんじゃないだろうな……。

「そうそう信じられないと?」

 そりゃそうだろう。そんなにモテないしな、俺。

「はぁ……まったくあなたという人は。よろしい。わかりました。好きになさい」

 運命なんて信じないからな、レーエ。

「私はあなたを信じています。キダ」

 いきなりなんだよ。

「いいえ。私はあなたのことが大好きなので、そう表現したまでです。私はあなたのことを信頼しています。頑張ってください」

 言われなくてもやるよ。……いや、ありがとな。レーエ。おまえがいてくれて、とても安心するよ。

 レーエは微笑んだ。

「ありがとう。キダ。でもあなたはそれでも運命にまだ逆らうというのですね?」

 まだ俺は負けていない。

「勝ち負けではないというのに……」

 うるさいな。俺の意地なんだ。一度決めたら気持ちをグラつかせたくないんだ。おまえは人の気持ちなんて簡単に揺らぐと言ったけれど、俺はそんなことはないって証明したいんだ。

「神崎美琴と結ばれることによって?」

 それはそうと決まったわけじゃない。でもまだ俺にはやれることが残されているはずだから。

「わかりました。なら、私も少しばかり協力はしましょう」

 いいのか?

「はい。忘れないでください。私はあなたの味方です」

 そっか……ありがとな。

 俺は、打ち上げが終わってから、学校を出た。

 

 家路。夕焼けがまだ空に色濃く残っている。夜の紫と赤い夕焼けが混ざり合って、不思議にこの世と思われないような美しさを湛えている。温かさとひんやりとした冷たさが奇妙に同居していた。

 徐々に人数が減り始め、最後には神崎さんも家へ帰っていった。俺も帰ろうと思ったのだが、なぜか二宮鏡子が隣にいることに気が付いた。

「あれ? おまえ、こっちの方が家なの?」

「はい。これからもうしばらく、歩きます」

 こいつの横顔を見ていると、なんだか急にドキドキしてきた。こいつ……そういえば、俺のことが好きだって、レーエにそう教えられたな。本当なのか? とても俺に興味あるふうには見えないが……。

「あの」

 おずおずと話しかけてくる口調には、不思議と妙な美しさがあった。ほほが赤く照らされている。俺は意図的に目を逸らしていたのを、やつに戻した。

「ん?」

「あの……あのときは、どうもありがとうございました」

「あのとき?」

「あの、美穂ちゃんといざこざがあったときに、助けてくれたことが……です」

「ああ」

 あれはもう一ヶ月も前のことになる。もうこいつと美穂はとっくに仲直りして、今は親友みたくなってしまっている。

「美穂ちゃんがいたので、ずっと言えなかったんですけど……あの、本当にありがとうございました」

 俺はあえて前を向いていた。夕陽が、目に染みこんで見えなくなってしまうくらいがちょうどいい。

 こいつの顔を見ていたら……なんだか自分がわからなくなってしまう気がした。

 不思議とこいつの姿形は俺と合致するような感じがするのだ。こいつの前では俺は別人物になるような気がして、いてもたってもいられなくなる。慌てて逃げたい気持ちに駆られるのだ。でも誘われるような気もする。二人でこのように夕陽の注ぐ中をぼんやりずっと歩いていたいという気にもなるし、それはなぜだ、という気もする。こいつのことは俺はほとんど知らない。どんな性格なのか、何が好きなのか、過去にどんなことがあったのか……ただ「知らない」ということは何の障害にもならない、ただこういう人を俺は探していたんじゃないかという、そういう気もする。でも理性が俺を引き留める。なぜ? 二宮鏡子は一目惚れってわけじゃない。長く付き合って心を打ち解け合ったわけでもない。「どこ、ここが好き」という気もない。でもその空気とか、佇まい、存在に惹かれていく。こんなことがあるんだ。片割れをようやく見つけたという気がする。でもそんなことは恥ずかしくて、言えないし、死んでも表に出すもんかと思っていた。

「ああ。別に、気にすんな」

 俺は色々な想いをまとめて、噛み合わせて、そう言った。

 二宮鏡子は微笑んで、また少し声音を変えて話し始めた。

「美穂ちゃんはすっごくいい子で……私にいつも色々打ち明けてくれます。美穂ちゃんと友達になれてすごくよかった。私、あのとき、悲しくて、つらくって、泣いちゃいそうでした。だけど木田君が来てくれて泣かないですみました。泣いちゃったら、また今みたくはならなかっただろうから……」

 俺ははっとした。レーエが俺にあの時間に南校舎へ行けと行ったのは、そういうことまで計算に入れていたせいかもしれなかったからだ。

 単なる思いこみかもしれない。でも……

「そっか。そりゃよかったよ」

「はい。あの……私、こんな姿で、よく誤解されるんですけど、本当は――いえ、そう誤解されることを望んではいるのですが――昔は友達たくさんいたんです。中学校の頃は、もうたくさん……。でも……ですけれど……わかってもらえれば嬉しいですが、私、全然それで嬉しくなんかなかったんです。いっつもそれで大変で……疲れて、たいして知り合って間もない人も、私のことをたくさん知っている、というのが……すごくつらく、いやで……何だかわけがわからなくなってしまったんです。それで学校に行けなくなる時期がありました」

 意外、には、思わなかった。二宮鏡子の過去としては、いささか似合わなさそうであるが、俺はたいして驚きはしなかった。というより、俺に対してこんなことを打ち明けてくることの方が驚いてしまった。

「うん。それで?」

 二宮鏡子は続けた。

「全部自身で招いたことだって、しばらくしてから気が付いたんです。くだらない、中学生女子の見栄ですよ。友達がたくさんいたほうが位が上だということをその頃の私は信じて疑いませんでした。気が付いたら、重荷でしかなくて、想像以上に重い荷物になっていました。だから私は……高校は、慎重に行ったんです。前私のことを知っていた人は、気まずくて声を掛けてこないし、雰囲気の変わった私を前の私だと思ってないみたいで、楽といえば楽でした。私は……本当に仲の良い友達が数人だけ、欲しかったんです……。だから、髪型も、なるべく人を寄せ付けないようにして、スカートの丈も、真面目っぽく変えました。アクセサリーも付けるの止めました。携帯の代わりに本を持つようにして、たくさん読みました。最初は難しくて全然楽しくなかったんですけど……でもだんだん楽しくなってきて、時には誰にも話しかけられなくて、大変なこともあるし、寂しいですが、前よりはずっと世界が変わったように見えて、それで……なんていうか、幸せです」

 二宮鏡子のことが、また一つわかった気がした。

 彼女は本当は以前人気者だった。昔はどうだったか知らないが、今は澄んだ声と目をしている。今のように微笑むと、男をドキッとさせる、爽やかで優しいところがかいま見える。そうしてそれは、たいそう美しかった。

 俺にはわからなかった。彼女の幸せというものが。厳密には。でも想像はできる。自分のペースでのんびりやれるっていうのはどれだけ気が楽なんだろう。でもそのために外見の華やかさを捨てたり、他人との社交を捨てたりする勇気は俺にはない。

 そもそも、世界は待ってはくれない。

 俺ははやく大人になりたい。

 大人になって、もっと強くなりたい。

 自分で金稼げるようになって、母さんに楽をさせてやりたい。タバコ吸えるようになって、酒もガンガン飲めて、ビシッとスーツ決め込んで、美しい秘書かなんか連れて、世界のことをもっとよく知りたい。今を楽しんでばかりじゃだめだ、ということも俺はわかっている。わかってはいるが、それをじゃあどうすればいいのかわからない。やりたいことは多くある。でもどうすれば、俺は強くなれるのか。母さんを楽にさせてあげること。誰にも認められるようになって、金をバンバン一人で集められるようになるにはどうしたらいいのか。何が大切で、何が大切でないのか、俺にはまだわからない。

 だけど俺には、二宮鏡子なら、その答えを知っているような、そんな気がするのだ。悪いだろうか? 二宮鏡子なら、俺のこの矛盾が含まれているような考えを、わかってくれ、ただ頷いてくれるような気がするのだ。

 夕陽が眩しい。

 俺は、ただ、頷いただけだった。

 強くなるのに、他人に聞いてもらうことは、関係ない。

「そうか」

「意外……でした?」

「いや、あまり」

「そうですか。私、木田君と友達になれて、やっぱりとってもよかったと思っています。木田君は男らしいし、格好良いし、話をよく聞いてくれるし、素敵だと思います。いえ……その……友達として!」

 俺はあまり聞いていなかった。それよりも初子とか、父さんのことが、影みたいに俺の心に行き来していた。

「俺さ、」

 ふと口を突いて出た言葉があった。

「誰かに認めてもらえることは、それは良いことだと思うよ。自分がそれだけ強くなったって、そこでようやくわかるんだ」

 二宮鏡子の長い前髪から、綺麗な瞳がさぐるように覗いていた。

 俺は、しばらく経ってから、二宮鏡子の話をいささか否定するような言い方になってしまったことに気が付いた。

 でもそれでも、悪くはないかもしれない。二宮鏡子は二宮鏡子。俺は俺。別の道を歩んで行けば……。

「いけません!」

 レーエが突然頭の後ろから大声を言った。

 すぐ振り返る。

「あなたと二宮鏡子はやがて結ばれる運命です! あなたは彼女に話してみるべきですよ! そのことを! 大事なことなんです! あなたの今後にとって、彼女があなたにしてあげられることは、とっても重要なことなんです!」

 また運命とやらか。俺は首を横に振った。

 なんでこんなセンチメンタルな気分になっちまうんだろう。夕陽のせいかな。

「木田君」

 彼女は普段は見せない、少し色っぽさがある口の動かし方をして、俺の名を呼んだ。

「木田君は、『運命』って信じます?」

 なぜ、その言葉がここで出てくるんだろう。

「木田君と誰かが出会って、そこで恋に落ちる……それは果たして運命じゃないかって、そういう本はたくさんあるんですよ。それだけじゃなくって、それを打ち破る恋のお話もあるんですよ。否定的に書かれていたり、好意的に書かれていたり、様々です。人ってずいぶん勝手ですよね。ところで、木田君は『運命』を信じますか?」

「信じない」

 俺はきっぱりと言い切った。二宮鏡子の目を見て。

 まるでレーエに向かって言っている気分だった。

 二宮鏡子は微笑んで、「ですよね」と言った。私も信じていません。と、言うのだった。

 俺は二宮鏡子のことが、結構好きになっている自分に気が付いてきて、頭を振って元に戻さねばならなかった。俺は神崎さんの方が好きだ。神崎さんが好きだ。好きだ!

 それでいい。

 二宮鏡子のことなんて知るか。俺はこんなのんびり女には用がない。刺激が足りなさすぎるのだ。神崎さんのようなとびきりの美人が俺には相応しい。

 もっともっと、強くならなくっちゃあならないんだから――。

「あなたは気付いていないかもしれませんが、」

 レーエは後ろから咎めるような声を立てた。

「あなたは今二宮鏡子をひどく傷付けましたよ」

 突然あいつに対して申し訳ない気持ちが湧いてきた。だけど、俺はささくれた気分だったので、冷静になって、深く考えることはできなかった。

「あなたの心の言葉は彼女に届きましたよ。以心伝心という言葉があるのは知りませんか? あなたの否定的な態度がどれだけあの子の気持ちをこっぴどくやっつけたか、あなたにわかりますか?」

 わからないね。わかりたくもない。

 嘘だった。本当は全部わかっていた。ただ二宮鏡子の存在がいきなり大きくなってしまったので、どうそれを扱えばいいのかわからなかったのだ。

 本当はこのまま身を任せてもよかったかもしれない。気が楽だし、初子のことも、父さんのことも、喋ってしまいたい気持ちに駆られたのも事実だ。だけど俺はまだ人にこんなことを話せるほど、この事件を胸に受け入れられるようになったわけじゃないんだ。何も言わないでわかってくれるレーエくらいしか、本当の気持ちを交わせる人間がいないんだ。

 ただ、二宮鏡子のことが恐ろしかった。

 どんどん魅力的に思えてくる、あいつの存在自体が、俺は恐ろしかった。ああこれが運命なんだって、どこか納得してしまいかねない自分がいるのが腹立たしかった。あいつの良いところを語ってくれと誰かに頼まれでもしたら、俺はまずその容姿の良さを語るだろう。髪に隠れてはいるが、その素顔は人を惹き付けるものだ。大きな瞳。長い睫毛。すらりとした鼻。ピンクに染まる頬。知的な口元。実際俺は喜んで語りたいのだ。うずうずして自慢したいのだ。でもそれがいやだ。少しは落ち着けというものだ。人をそういうふうにイメージで判断しちゃいかん。でも俺はこの子と「痛み」を共有してみたい気持ちに強く駆られたことを本当に白状しなきゃならない。きっと分かってくれる。分かってくれるはず……。だけど、それを分かってくれなかったら? 俺は「孤独」になる。孤独になることを恐れているくせに、俺は二宮鏡子とも話さない、極力話さない。孤独でいようと思う。孤独であることはつらいが、まだ自分で選んだ道なら……それでもいい。

 とかく俺は、今みたいに、父さんや初子のことを思い出しちまうと、もう頭を正常に働かすことは困難になる。持病みたいなもんだ。自分が「まだ」子供であること。大人の力をまだ持っていないこと。悲しいこと。つらいこと。母さんを守ってやらなくちゃと決心したこと。でも今すぐそれはできないということ。俺はとにかくこんな気持ちにぐちゃぐちゃにがんじがらめにされて、いてもたってもいられない感情に襲われる。だから、二宮鏡子が悲しげな顔をしていること。その美しい眼差しが夕陽に照らされて、水鏡のようにふんわりと涙が表面を波打っていることには最後になるまでわからなかった。

 二宮鏡子が最後に微笑んで、じゃあ、また。と言い、俺がそれに答える前に見せた、そんな悲しげな、物憂げな表情のせいで、俺は別れの句がひどく不格好なものになってしまった。

 あいつが俺のことを好きでいるだなんて本当なんだろうか……。でも俺は、しばらくあいつを遠ざけたかった。今じゃどんどん心が揺らいで行ってしまうばかりだったから。でもどうして俺はあそこでもっと優しい言葉をかけてやれなかったんだろう、偽善的でもいい、あいつの涙を見るくらいだったら、たとえ軽蔑されてもよかった。くだらないメロドラマみたいなセリフを言って、あいつに嫌われればよかったと、そう後悔するのは避けられなかった。

 9へつづく

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