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俺は、美穂があれから機嫌を直していたようにも見えたから、あまり深くは考えていなかったのだが、レーエが、
「あなたは昼休み残り十分前で、南校舎の一階の理科室付近を歩かねばなりませんよ」と言ったときに、不思議にも美穂との繋がりを感じてしまった。どうしてだ、と尋ねても、レーエは運命を元に戻すためだ、としか言わない。俺はそこで待ち受けているものに、若干好奇心を寄せられたので、行ってみることにした。
南校舎の一階。そこは教室からもっとも離れたところで、様々な文化系の部活の部室に使われていたりする。理科室の近くというと、裏山の林が間近に迫っているところで、結構怖かったりする。
用もないのに来ることはないのだが、レーエが言うなら何かしら意味を持つ。俺はもうそれがわかっている。
誰かの声がかすかに聞こえた。言い争っているようにも聞こえる。喧嘩なら関わりたくなかったが、レーエがどうしても進めというので、仕方なく進んだ。
理科室の扉のところまで進んでくると、いやな声がした。美穂の声だった。
「何とか言いなさいよ、ねえ!」
誰に向かって言っているんだろう。美穂と見知らぬ誰かは外にいるようだ。俺はそっと廊下の窓を開けて、様子を窺った。ここからは姿が見えないが、おそらく美穂と相手の二人が角の奥にいるだろう。
「あんたが最初っから口出しとけば、あたしはなにも考えずあんたを立てたわよ! それぐらいわかんない? あんたが黙ってるから、私は仕方なく、料理なんて自信なかったけど、頑張ったんだよ! それが、何、あれ? 初めは黙ってて、いいときになってしゃしゃり出てきてさ! あんた、正直言って、あたしのこと嫌いでしょ?」
なんだ、これは。
確実に美穂の声。気のよさそうだったあいつが、まるでいじめっこみたく声を荒げて相手を責めている。
俺は、さらに耳をすました。
「いえ、そんな……」
「じゃあ何であんなことしたの? ……へぇーっ、それがあんたの戦術ってわけ? 人のこと踏み台にして、かっこよく現われて人のこと馬鹿にして、みんなの人気をかっさらうっていう? とんだ真面目子ちゃんだわ、あんた!」
「そんなことない!」
声の主がわかった。二宮鏡子だ。
やっぱりさっきの件、美穂のやつまだ根に持っていやがったんだ。
俺はこっそりと窓枠に足をかけた。音を立てないように着地する。だんだんと声のするほうへ近付いて行った。
「じゃあ何で最初からあんたが仕切らなかったんだよ! 料理うまいくせに! あんたがいたから……あたしが最低な恥かいちまったじゃねぇかよ! どうすんだよ、残り三年間! ねぇあんた責任取ってくれんの!」
「ちょっと待った」
俺は角から飛び出した。
こちら側にいた二宮鏡子の前へ出て、壁に左手を付け、通せんぼする形を取る。
美穂は驚愕の眼差しで俺を見ている。それから、後悔した顔になったが、眼をつり上げて食ってかかってきた。
「康作。今大事な話してんの。関係ない男子は出て来ないで」
「関係ない話じゃないと思うぞ。同じ班の二人が争ってんだ。止めるのが当たり前じゃないか」
「あんたにはどうせわからない話だから」
「そうか? 話は大体聞こえたぞ。お前の声でかいからな。充分廊下でも聞こえた」
「だったらあんたに関係ないってわかるでしょ!」
すごい剣幕だった。正直びびってしまうほどだ。でも俺は、後ろに人を抱えていることを忘れなかった。
「関係ないっていう言い方やめろよ。それ、ひどくださいぞ」
「別にひどくださくったっていい。あたしは今めちゃくちゃその子にムカついてんの。暗そうな振りしてさあ、人がせっかく善意で話しかけてやってんのに、大事なところで裏切るんだもん」
「二宮さんがいつあんたを裏切った」
「だからどきなさいよ! 今そいつを分からしてやるから!」
「どかない」
俺は頭の後ろに冷や汗をかいてきた。でも、踏ん張った。
「絶対にどくもんか」
奴はそれで埒が明かないと思ったのか、溜息を一つついて、少し表情を和らげた。
だが俺を睨んだままだ。
「じゃ、一から説明するけど、二宮さんはあたしに恥をかかせたの。別にさ、あたしも二宮さん嫌いじゃないし、最初から料理得意ですアピールしておけば何も言わなかったわよ。だって私自信なかったもん」
俺は、奴のことを睨み返した。
「ま、私もたまには家で作ったりするんだけどね? 本当はね、もっとあれより旨いものができたはずなんだけど、ちょっと緊張しちゃって、あちゃ、まずかったかな。見栄張んなきゃよかった。と思ったんだけど、周りにまともな奴もいなさそうだったしさ、あたしが頑張るしかなかったわけよ。それをこの子がさ! 私のことを嘲笑うみたいにすごい料理してくれちゃってさ、私馬鹿みたいだったじゃん! じゃあ何で最初からそうしなかったってのよ! 私頑張ったんだよ。うまくいかなくて、それでも始めちゃった以上やるしかなくて、そんな居たたまれない気持ちがあんたらにわかるっての? あんたが料理始めてからあたしがどんなに恥かいたかあんたらにわかるの! ねぇ教えてよ! 実習室出た後、周りのやつらがどんな目で私を見て、どんな目であんた――二宮鏡子ちゃんを見たか、あんたらにわかるのかをぉ! そんときのあたしの気持ちを、教えてよぉぉぉ! ねぇったら!」
俺は、何にも答えなかった。そんなこと、わかるはずもなかったからだ。
でも、それでいいのか?
わかるとか、わからないとかじゃなくって、それでこんなところに人連れてきて、感情ぶちまけることが、相談するんじゃない、敵意を持って相手をなじることが、本当に正しいことなのか?
だんだんと嗚咽を混じらせていく美穂の訴えに俺はかなり同情しながらも、そんなふうに思っていた。
「だから、教えてよ……」
美穂は顔を伏せた。その手の隙間から雫がぽろぽろと滴った。俺は、なんて声をかけたらいいのかわからなかった。
美穂は、多分悪いやつじゃないんだ。だけど、この時期、一年生の春に必死じゃないやつなんていないんだ。男の俺よりも女のこいつは、かなりやり方が違うはずだ。残り三年間、って言ったっけな……。こいつにとっては、それなりに大事なものだったはず。俺がどんだけくだらねぇって思っているものでも、こいつにとっちゃ……。
俺は、こいつにかける言葉を持たなかった。
泣いている。
とても悲しそうに、泣いている。悔しそうに。苦しそうに。
俺はそれをわかってやるだけの、性も、経験も、強さも、頭の良さも、持ってなかった。ただ暗算と物理と体育が得意な一男子学生だったから。
だけどそんなとき、俺の後ろから、おずおずと出てくる女がいた。
「二宮さん」
「木田君」
二宮鏡子は、悲しそうな顔で、いくらか美穂を憐れむような目で、俺の前まで歩いてきて、すっ、としゃがんだ。
美穂の顔を覗き込むでもない、何か言葉をかけるのでもない、ただ何もせず、そのまま美穂の泣き方をじっと聞いていた。
「木田君。どうもありがとう。もういいから……教室に戻って」
「戻ってって、二宮さん」
その時、二宮鏡子の輝く瞳が俺を見た。
俺は胸がドキンと脈打つのを、若干の苦痛と共に味わった。
こいつ……またこいつのことが、少しわかった。
レーエ。
「はい?」
呼ぶと、やつが出てくる。
俺は、戻ったほうがいいんだろうか?
「はい。もう授業が始まりますので」
こいつらは?
「一旦放っておいてあげるといいでしょう。あなたがいると、話が進みませんから」
そうか。……わかった。
「わかったよ」
俺はそう言うと、もう一度二宮鏡子の目を見た。彼女の瞳の中でかすかに輝く光があった。
それが何なのか、俺は、ずっと後になるまで知らなかった。
その後、俺は教室へ戻り、授業を欠席した二人を、具合が悪くなった美穂を二宮鏡子が保健室に連れて行った、と、こう説明した。