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 調理実習室は早くも賑わっていた。

 そりゃそうか。早いうちに調理の準備を整えておけば、実際に練習しやすいもんな。

 俺たちも一画に腰を下ろし、調理実習の先生が適当に買ってきてくれた食材を並べて、ああでもない、こうでもないと議論を始めた。

 俺はといえば、あまり話には入っていかなかった。料理については門外漢だし、紅茶もパックにお湯をかけただけのインスタントしか作ったことがなかった。もっぱらレーエとばかり話し、対面に座る二宮鏡子の憂え気な顔を観察していた。

 二宮鏡子はやはり前髪が長く、表情は窺いづらい。ただ他の女子みたく元気いっぱいでないことだけは確かだ。ただ時折議論が白熱している方を興味ありげにちら、と見るだけで、すぐ俯いてしまう。たまに俺とも目が合うが、俺のことを恐れているのか、さっきよりもいっそう俯いてしまう。

 レーエは俺に二宮鏡子のことを一つも話さなかった。ただ運命というものについて繰り返し説いて、俺に従順になるように説得していた。従順になれってことは、あの二宮鏡子と今すぐ恋仲になれということを暗に言っているのだろうか。無理なのは分かりきっている。

 彼女は誰とも打ち解けようとしないし、俺と二宮鏡子にはまだ接点がない。向こうは俺の名前も知らないのかもしれない。俺は姿形もほとんど覚えてなかったくらいだから、向こうは誰だコイツ的な困惑に陥っていると容易に想像できる。

 少し申し訳なく思う。二宮鏡子について、だ。彼女は俺と何の接点もないのに、運命の恋人だと霊によって勝手に決められてしまっている。

 なぜ運命とやらは俺たちを自由にしてはくれないのだろう。人間には意思が必要ないと言っているのだろうか。

 人間には意思がある。

 俺はそれを信じている。

 人は好きな相手と結婚する権利を持っているし、好きな仕事に就く権利も持っている。

 誰かにとやかく言われることのない、自由に生き、自由に人生を謳歌する権利を所有しているんだ。

 だから俺は運命を拒否する。そんな人間の権利を無視する運命など、破壊されて然るべきなのだ。

 レーエは、ささやくように、自分に言った。

「あなたはやはり優しい。その年齢で、それだけ理解して人の気持ちを推し量ろうとしている人間がどれだけいるでしょうか? 世間ずれしていなければ、もっと立派な青年になっていたでしょうに……」

 よけいなお世話だ。あんたは敵側なんだ。俺を誉めるなどよしてくれ。

「いいえ。私はあなたの霊。あなたがどれだけ敵視しようと、私――つまり運命はあなたの味方です」

 少し感情がぐらつく。この「味方」という言葉には、魔力がある。

「感情が揺らぎましたね。人の決めた意志などそんなものです。すぐに移り変わり、敵と味方が入れ替わる。昨日の敵は今日の友、今日の恋人は明日の敵。つねに変化し続けており、不変のものなどあり得ない。頑固一徹という性質がありますね。あれは人間の力ではありません。運命が味方しているのです」

 やめろっ! 俺や、二宮鏡子を巻き込むな!

「それに、あなたはすこし勘違いをしています。運命はあなたが思っているようなものではありません。人の後に運命が作られたのではない。運命は人の前から在ったのです。運命が人の子を作ったと言っても過言ではありません。運命は人の母。母はどうして子供の言うことを無視したりするでしょうか? 自分の子の権利を忘れたりしますか? 忘れません。すべて母が子に与えたものですから、子がそれを手に持って見せびらかしたとしても、返すのは張り手ではなく、無限の微笑みであるということがわかりませんか?」

 俺は心の中の耳を塞いだ。それでもレーエの声は耳をすり抜けて入ってきた。

「あなたの言ったとおり、人には意思がありますし、意思を持つ権利もあります。でもそれを決定づけたのは誰ですか? 人間でないことだけは確かです。今あなたは人間に対して、自由に生きる権利を剥奪したり、勝手に追加することはできますか? よく考えてみてください」

 そう言って、レーエは消えていった。俺は汗だくだった。

 なんという壮大な考えだろう。ただ俺は圧倒されただけだ。

 考えてみる気にもなれない。ただ俺は、奴の考えを無視する権利も自分にはないと思う。

 そのとき、女子の甲高い声が響いた。

「康作も二宮さんも真面目に意見出してよ! 二人でぼーっとしちゃって! 自分たちだけ楽しようとか思ってる?」

 顔を上げると、さっきの女子だった。調理台ではもう湯気が上がっており、ピラフが出来ている。

 しまった。もうそんなところまで進んでいたのか。もうちょっと短く話を切り上げとけばよかったかな。

「へぇぇ。うまそうだな」

 女子の名前は鎌田美穂と言った。非常にたくさんの人間とあの事故後知り合ったので、俺はようやくこの時になって名前を思い出せた。気の強い、リーダーシップのある子だ。

「うまそうだ、じゃなくってさ。料理がちょっとうまくいかないから、意見をもっと多く取り入れたいんだけど。……おっかしーなー。あたし、まあ、そんなに料理上手な方じゃないんだけど、こんなはずは……」

 確かによく見ると、ピラフはそんなに美味しくもなさそうに見えた。美穂の周りの連中も、難しげな顔で唸っている。なるほど。煮詰まってきているんだな。かといって、俺なんかに意見求められても。

「ちょっと、いいですか」

 その時俺は、ドキッと胸が高まった。

 颯爽と席を立ったのは、あの鈍くさい二宮鏡子だった。

 二宮鏡子は美穂からエプロンを借りて付けると、三角巾で髪を覆い、前髪をすこし可愛く分けた。

 綺麗な目をしていた。レーエと似ている眼差しだった。控えめだが、内に何か壮大な知識を持っている目だった。俺はそう直感した。

「私、ピラフなら作れます」

 そうして実演が始まった。落ち着いていて、手慣れた手つきだった。いい音を立ててフライパンが笑い、箸が踊った。驚きが消えないうちに、あっという間にピラフが出来てしまった。

 鏡子作はかなりの出来だった。美味しそうな香りがふわっと空気中に漂い、見事に完成された料理は皿の中で笑っているように見えた。作られた料理は小皿に配られみんなで試食した。やっぱり美味かった。

 美穂作のもやはり食ったが、美味しくはなかった。美穂のはなんだか焦って作っているように感じた。ところどころが雑で、大事な風味が失われていた。美穂は顔を真っ赤にして、すぐ皿を下げてしまった。

 俺はなんだか複雑な気がした。料理がうまい。それはいいことじゃないか。だけど、こうして二宮鏡子の良さを知っていくたびに、彼女の存在が大きくなりそうで、俺は不安だった。

 鏡子の目……綺麗だったな。睫毛が長くて、どこか悲しげで。

 おっと、いかん!

 神崎さんの目のほうがずっと魅力的じゃないか! 色っぽくて、高貴で、まるで芸能人だ! あんな顔のいい子に「大好き」なんて言われたらなぁ……。

 高級食材と豆腐だ。神崎さんと二宮鏡子は。比べるのもなんだか神崎さんに悪い気がした。

 もっぱら周りの連中は二宮鏡子の腕に歓喜した。ほとんどが専門外だったから、クジなんかで調理組を決めるべきじゃないという意見まで出始めていたからな。当然、二宮鏡子の周りは盛り上がりを見せる。なんか悔しかったが。

 だが、二宮鏡子は恥ずかしそうに小声で何か言って、また俯いてしまった。前髪が顔の半分を隠してしまうので、彼女を誉め讃えていた連中も黙ってしまい、埒が明かなくなった。再び指揮を執ったのは鎌田美穂で、うまく場をまとめ、こう言った。

「さすが二宮さん! 家庭的でいいね! 二宮さんみたいな人がいて助かったよ!」

 それで場は再び活気づいて来たのだったが、俺は鎌田美穂の言ったこの言葉が後になるまでずっと頭の中に残っていた。

「この際全部料理は彼女に任せちゃおっか! そうしたらみんな安全だし! お客さんもみんな喜ぶよ! って言っても彼女一人じゃ無理かぁ」

 俺は、考え事をしていた頭を上げた。言い方にやや棘があったからだ。

 二宮鏡子は、やや気後れがちに、こう言い返した。

「はい。無理です」

「そっかー。やっぱ無理だよねー。……あーあ、二宮さんが後何人もいればなぁ、あたしら全員楽できるのに。ねーみんな?」

 みんな笑った。

 やっぱり何かおかしかった。

 なぜ一番の腕を持つ二宮さんがこんなふうに言われなければならないのか、同じように笑っている連中すらも、わからなかっただろうと思う。

「でも二宮さんも忍者じゃない限りそんなの無理だし。二宮さんをコック長にして、みんなで教えを請おうよ。そうすりゃ何とかなるよ。あたしも、料理下手だってばれちまったし」

 えー。そんなことないよー。おいしかったよー。……と、取り巻きらしいのが美穂に声をかける。

 俺はだんだんと美穂を疑念の目で見始めた。

「さっそくさっきのピラフの件を聞こうかな。……なんでピラフみたいな簡単な料理で意見聞かなきゃいけないのかわからないんだけど。でもぶっちゃけて、二宮さんかなり料理上手いでしょ。よかったら他の料理にも通じる秘訣かなにか、あったら教えて欲しいんだけど」

 俺ははっきりと思った。美穂はさっきの件をまだ根に持ってる。

 二宮鏡子が公衆の前で発言するのが苦手だとわかった上で、こんな質問をしている。返事がないのを咎めて、じわじわと責めていく腹積もりだろう。

 同じように周りの人間も気付き始めているはずだ。なのに、誰も止めない。止めるほどには二宮鏡子と親しくないからだ。

 二宮鏡子ははっきりと言った。

「鎌田さんは、焦って料理を作っています」

 と、ただ一言だけ。

 この一言で美穂は黙ってしまった。予想外の反撃に言葉を失ってしまったんだと思う。

 7へつづく

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