5 

 俺の登校は憂鬱な一時から始まった。

 やはり夢ではなかったのだ。目が覚めれば消滅する夢とは違い、レーエの存在は毎日連続する現実の現象だった。

 母さんに起こされた時にはもう遅刻寸前だった。一度起こしたらしいが、どうやら二度寝してしまったらしい。

 母さんの小言から一日は始まった。俺はそんなこと聞いていられなかったが、次にはレーエの説教が始まった。

「まったくあなたの怠惰には呆れます」

 うるさいな。おまえが長く話し込んだからいけないんだろ。

「私はいつでも話をやめるからと言いました。止めなかったあなたの責任です」

 いいから黙ってろ! 今顔を洗う!

「康作! いい加減にしなさいよ! いつまでゆっくりしているつもりなの!」

「母さんが途中で起こしてくれないのが悪いんじゃんか!」

 俺は、レーエに耳元で怒鳴られた。そんなふうに聞こえた。

「この大馬鹿! あなたが起きないのがいけないのに、母親のせいにするとは何事です! 甘ったれの極みです! 親のせいにするのはあなたの存在を侮辱することと一緒です。今すぐ謝罪しなさい」

 ちっ……いちいちうるさいなぁ。

 ちょっと黙ってろよ、今髪を整えるんだから。

「髪なんか後にしなさい! 今すぐやるんです!」

 ええー……かったるいな。

「はやくっ!」

 やたらとレーエが急き立てるので、俺は髪に寝ぐせがついたまま(本当はこんなことしている時間なんかないのに……)母さんのいるキッチンに行った。

「あのさ、母さん」

「えっ? なに!」

 母さんは俺に腹を立てていた。

 なんて、言えばいいんだろう。

 私の言うとおりにしなさい、というレーエの助言があった。

 俺の口はそれをなぞった。レーエの言葉には不思議とまとまりがあり、人を誘うような誇らしげな調子があった。

「母さん。さっきはごめん。ちょっと慌ててたから、あんなことを言っちゃった」

「はあ?」

 母さんは、理解できないといったふうに眉を上下させた。

「いつもご飯作ってくれてありがとう。次はちゃんと一人で起きるよ。俺もちょっとは母さんの手伝いをしたいからさ」

「そんなこと言ってないでさっさと支度して! 私にも仕事があるの!」

「ごめん。すぐやるよ。だけどさっきのはごめん! 全部俺が悪かったんだ!」

 俺は洗面台に戻った。

 心の中でレーエに文句を言いながら。

 どうしてあんなこっぱずかしいこと言わせんだよ! 母さん怒ってたじゃないか!

 レーエは、

「よく考えてください。先に悪いことをしたのはどっちですか? もしあなたが、あなたの方から先に悪いことをしたと少しでも思うなら、恥ずかしいことでも我慢して耐えねばなりません。そしてできることなら、恥ずかしいと思わないことです。ほら、最初のきっかけさえ掴んでしまえば――あとはこのとおり」

 え?

 俺は髪を整えた後、ダイニングに向かい、食事の席についた。

 テーブルには、俺のためにわざわざ温め直してくれた朝食がほんのりと湯気を立てて用意されていた。

「はい、お弁当」

 さっきよりも幾分声が柔らかくなった母さんが、朝食の隣に弁当箱を置いてくれた。

 俺は母さんの顔を見て驚いた。

 俺が遅刻しそうになった時にはたいてい不機嫌だった母さんが、今ではほんの少し微笑んでいるのだ。――自分の息子に若干呆れているようでもあるが。

「まったくあんたは……もう寝坊しちゃ駄目よ?」

「あ、ああ……うん。いただきます!」

「お茶いる?」

 俺は食べながら怒鳴った。

「いらないって! 母さんももう時間ないんでしょ!」

「ちょっとぐらい遅れたって平気よ。雑務を色々飛ばしちゃえばいいんだもの。あんたもお茶ぐらい飲みなさい。少し遅れたって一日くらい平気でしょ?」

「ええー……」

 せっかく急いで支度したのにな……。

 母さんは有無を言わさずお茶を持ってきた。丁度いい温かさのお茶だった。食後に飲んでいる間、母さんは俺の顔をじろじろ見てきた。

「なに?」

 と言うと、

「ううん」

 と、久し振りに母さんは明るい顔になって、俺の手とか顔とかをじっと見つめて、微笑んだ。びっくりしてしまった。父さんと初子が死んで以来、ずっと母さんは悲しげな表情を隠すことなく、今みたいな楽しげな表情は一度も出すことがなかったからだった。

 俺は、言葉の魔法というやつに驚きながら、制服を着て、家を出た。

 太陽が眩しく照り付ける。四月ももう終わりだ。どんどんこれから暑くなってくる。

 俺は腕時計を見た。

 もう、間に合わないな、こりゃ。

 だる……遅刻決定か。母さんが笑ってくれたのはよかったが、遅刻が決定した朝に走っていくことの虚しさったらない。

 俺はレーエに言った。

 ほんとうにさっきの言い方でよかったのかよ。結局遅刻しちまってるじゃないか。母さんにうまく謝って、それで同時に遅刻しない良い言い方ってなかったのか?

「まったくあなたという人は……」

 ただ尋ねただけだっていうのに、くどくどとお説教が始まる。あぁ、聞いてらんね。

 レーエだって少しは悪かったじゃねぇか。途中で話端折ってくれたってよかったのにさ。

「う……」

 やった。あのレーエを黙らせた!

「しかたないですね……わかりました。私も少しよくなかったですし、遅刻しない秘密のルートを教えてあげましょう」

 えっ、マジで?

「はい。あなたはこのままいつもの通学路を行くと、三分八秒の差で遅刻します。あなたが理想的なペース配分で疾走したとしても、二分十七秒の差で遅刻です。ですがその代わり、私のいうルートを使えば一分半残して間に合わせることができます」

 教えてくれっ! そのルート!

「私の言うとおりにすること。そして、絶対に躊躇することなく、すぐそれを実行すること。この二点を必ず守ってください」

 レーエに教えられたルートというのは、非常に奇妙なものだった。

 まず商店街を歩く。ここは通学路にもなっているからたいして問題はないんだが、あるのはその途中でだった。

 商店と商店の間を通り抜けていく。これはもちろん商店の敷地内だ。奥はたいてい住居になっていて、おじいさんが新聞を読んでいるのも見えた。その隣にいる黒猫がじっと俺のことを見ていたが、ぎりぎりおじいさんに気付かれずに済んだ……。これは、不法侵入に当たるんじゃないのか? と、レーエに言ったら、今はやむなし、とのこと。二度とこのルートは使わないことを固く心に誓いながら、俺は奥の塀をよじ登った。すると、アパートの敷地へと出て、そのまま突っ切って道路へと出た。お次は向かいにある建設会社の事務所に通じる階段を登れと奴が言うので、さすがに俺も見つかったら面倒だろと口答えするのを禁じ得なかった。

 レーエはそれでもやれと言うので、俺はやった。音を立てないように歩くには時間が無さ過ぎたので、登るたびにカンカン音が鳴った。胸がどきどき言い始めてたが、奴はすぐに次の指令を出した。

「飛び越えてください」

 なんと、手すりを飛び越えろというのだ。

 階段の終点の手すりの向かいには、民家の屋根が広がっている。ここを進んでけってか! 

 俺はやむにやまれず、手すりを乗り越えた。レーエの言うタイミングでジャンプし、屋根に何とか乗り移ることができた。

 バランスを取るのが大変だ。それに、大変な罪を犯しているという意識が強い。

 さらに続ける。

「あなたから右手にある赤色の屋根に移ってください。そうすると屋根の右端に、ちょうどいいコンクリートの塀があります。そこに行って」

 俺は言われるとおりにした。もうこうなったら、一分一秒でも惜しい。はやくここから安全なところまで着かなきゃ。

 俺は赤い屋根の端から、幅広の塀に乗り移った。バランスを取るのがさらに難しかったが、レーエの言うとおりに下を見ずにガンガン進むと、すぐに塀を渡り終えることができた。

 次は民家の敷地内の柿の木に飛び移れとのことだった。これで怪我もし、挙げ句の果てに遅刻までしたらレーエに対しなんて文句を言ってやろうと考えながら、俺は知らない人の家の柿の木に飛び移った。

 落下するときの衝撃で何本かの枝が折れた。こんなことがバレたら大目玉を食らうだろうとドキドキしながら、俺は人がいないのを確認して飛び降りた。

 そこからは、もう学校はすぐだった。越さなきゃならない坂も全部すっ飛ばしてのショートカット。だが、もう二度とこの近道は使いたくない。

 俺は校舎に駆け込んだ。

 すると、奴の言ったとおり、ギリギリで遅刻にならずに済んだ。仲間たちからからかいの視線で見られる。

「頭に葉っぱ付いてるぜ」

「一体どこを歩いてきたんだ?」

 わけを話すと、仲間たちは俺のことをいっせいに強者を見るような目で見てきた。

「そんなところをよく選択してやり通してきたな」

「しかも、遅刻ぎりぎりになってから、ルートを考えたんだろ? 信じらんね〜」

 また例の事故の件に引き続いて、クラスで俺の話題が持ちきりになった。

 いったい、これが全てレーエの計算だったのかと思うと、気が気じゃなかった。

 なにはともあれ、だ。

 遅刻せずに済んだのだから、レーエにひとまず礼でも言っておこうかとレーエを呼びかけたとき、

「それはいいから、キダ」

 なんだよ。

「あの子、あの子」

 と、誰かを見るように言うので、俺は言われるがままに視線を向けた。

 教室の端に、一人で座って本を読んでいる女子がいる。……が、まさか、「あれ」なのかっ?

「彼女が二宮鏡子です」

 俺は大変なショックを味わった。

 いや、嘘だろ、あれが……俺の運命の相手?

「そうです」

 そんな……。

 俺って、そんなに魅力ないのか? あんな、みるからに地味そうで、チビで、本しか友達がいなさそうな暗い女とお似合いって……。

 運命なら仕方ないとかほんの少しでも考えた自分が愚かだった。あんな女と結婚するくらいなら、一生独身でいたほうがマシだ。

「あなたもなかなかの色眼鏡を持っていますね。あの子ほどあなたに相応しい才女はいないと思いますが」

「才女ぉ?」

 思わず声を上げてしまった。だってさ、才女だって。あんな見るからに鈍くさそうな女が。

「はっきり言っておきます」

 んだよ。

「あなたはそう思ったことを後悔する日が必ずやって来ます。これは絶対です。不変の事実です」

「んなアホな」

「……おい、どうした」

「あ。別になんでもねぇよ」 隣の席の友達が心配そうにこちらを見ていた。俺は手を振って、考え事に耽るように頭に手を当てた。

 すると、やがて担任がやってくる。一人一人点呼がされ、その中盤ぐらいに「二宮鏡子」の名が呼ばれる。

「はい」という返事があったが、声は綺麗だが緊張に固まっていて、意志は強そうだったがどこかかたくなで、俺には田舎くさそうな性格が鈍重な女子のイメージをまず保存した。

 性格はまあ、素朴でいい子かもしれない。だが俺には刺激が足りなさすぎた。

 知らない女子をここまで心の中で悪く思うのもなんだか悪い気がしたので、俺は二宮鏡子の良いところを何とか見つけようと、しだいに彼女を観察するようになった。

 まず、目に付くのは髪だ。墨汁のように黒く、光沢がある。そんなに長くはなく、肩にかかるかかからないか。だけど前髪が長い。目はかろうじてわかる程度。

 前髪が長いってことは、暗いって証拠だ。表情がわかりづらいから、社交には向かないだろう。

 背丈は俺より10センチは低そうだ。体つきは華奢で、みるからに弱そう。あれで性格がねじけてたら最悪だから、性格は良いんだろう。優しそうではある。あの本を支えるほっそりとした手は、明らかに粗暴とは無縁だ。

 品のいい女生徒。だが暗し。俺の奴への評価はワンランクアップした。だがそれだけだ。

 どうせレーエはくっつけたがりだから、「あなたは後悔することになります」とか「なんて理想が高いお馬鹿さんでしょう」とか腹立つようなことを言ってくるんだろうが、俺はそうしたら熱烈に神崎さんへの愛を物語ってやろうと待ちかまえていた。

 ……あれ? 反応がない。

 レーエの名を呼ぶ。

「どうしましたか?」

「俺のこと説得にかからないでいいの?」

「何がですか」

「ほら、あいつのこと」

 二宮鏡子。複雑な思いであいつのことを指差した。

「問題ありません。あなたは彼女と恋仲になることは運命で決まっていることです。今のところあなたを説得する意味は感じません」

 はあ……また「運命」かよ。もうたくさんだっつーの。

 絶対破ってやるからな。そんなの。運命なんて弱い奴のためのものだろ。

 俺は強い。

 強いんだ!

 未来なんて自分の手で変えてやる!

 そうすると耳元でプックスクス、と笑う奴がいる。俺は奴とは交わりたくなかった。弱い奴は弱い奴のところへ行け! 俺は知らん。好きにやって普通に人生うまくいくはずだ。

「さあて。それはどうでしょうか」

 頭に来る奴だな、どーも。

 俺はレーエを頭から追い出すように振った。

 そうすると、点呼はもうすでに全員に行き渡っていて、先生の話が始まっていた。

「あー。もうみんな知ってるかと思うが、6月に文化祭があるぞー」

 文化祭?

 ああ、そういえば……この学校は一学期にやるんだった。秋は受験の準備で忙しいからだって……なんか大人の都合くさくていやだが、これも進学校に来ちまったんだから仕方ない。

 神崎さんと仲を深めるチャンスだ!

 よし、まずは一緒の作業班になれるように頑張ろう。やるものは何だっていいや。お化け屋敷でもたい焼き屋でも。

 出し物は喫茶店へとするする決まった。

 問題は班だ……おそらく調理組とそれ以外の組に分かれるだろう。

 俺、料理苦手なんだよな……ほとんどやったことなんてねぇし。やっぱり面倒だが内装係やホール係に回ったほうが得だろ。

 そんなことを考えていると、神崎さんがホール組に入ったのがわかった。ホールかぁ……ウェイトレス、ってことだよな。飢えた野獣共が息を飲むのがわかる。彼女がウェイトレスの制服を着て接客するところを見てみたい! 同じ理由で、ホール組が白熱するのは必至だ……なんとかして、ホール組に入り込むんだ……! え、クジ?

 

 俺は机に突っ伏した。なんてことだ……。

 調理組・木田康作。

 隣でレーエが嘲笑っている。

 くそっ、腹が立つ!

「ざまあ見ろ、と言うべきでしょうか?」

 うっさい、黙れ!

 しかもあの女、二宮鏡子が同じ班じゃねぇかよぉ〜。

 こんな全然面白くない文化祭なんか来る意義あんのか? ばっくれようかな……。

「こら、怠け者」

 と、こんなうるさいお目付役がいなきゃ、俺はもっと自由でいられたはずなんだが……。

「こんなところで悩んでいていいのですか? 神崎美琴と話してきては?」

 そうだっ! ぜひ一緒に文化祭を回ってもらうようお願いしなきゃな!

「う〜ん」

 俺が彼女の席に着くと、彼女は若干迷っていたが……

「お昼ぐらいなら、いいよ?」

 と言ってくれた! やった!

 ……だが、俺と同じことを考えていた奴は大勢いたらしく、いつの間にやら大所帯になってしまった。

 くっ……これじゃ、神崎さんとのデートとは言えないじゃないか! 野郎共が多すぎて、神崎さんがどこにいるのか探すのも手間取りそうだ……。

 ちくしょう。なんでこうもうまくいかないんだ。

「班が決まったなら、それぞれ作業始めろー。今日は三時間目までそれ進めていいからな。ここで色々決めておかないと、後に響くぞー」

 怠そうな担任の先生はそれで出て行った。

 よし。自由な時間が作れた。

 同じ班の奴らには勝手にメニューでも作らせておけ。俺はこの機会に神崎さんの方へ飛んでいこうとした――。

「調理メンバー。はやく調理実習室行くよー。はやくしないと席全部埋まっちゃうんだから」

 やたらと元気のいい声が響いた……くそ、あいつそういえば、初めのころ、俺たちと神崎さんの間に立ちはだかった奴じゃないか。

 俺は渋々ながら奴について行かざるを得なかった……。

 6へつづく

inserted by FC2 system