3

 

 学校では一躍有名人になった。

 地域の新聞に取り上げられたほど有名になった。トラックに衝突されながらも奇跡的に無事だった男子校生――木田康作(十五)。でも、無事だったなら無事だったでいいので、あまり話題にならず、どちらかというと、居眠り運転を行った運転手たちの労働実態にメスを入れる記事に移っていった。俺は今では擦り傷も癒え、以前となんら変わることなく学校に登校していた。

 地元の新聞にはこんな扱いだが、学校での知名度はなかなかだった。新手の超能力者、とも言われたり、万力の豪腕、とも言われたりした。それはやがて友達たちからのからかいの代名詞になったが、俺はそこで多くの女友達を得ることもできた。事故のことを思い出すといやな気持ちになったが、俺はもうそれをつとめて忘れることにした。病院には検査に来いと催促されたが、俺は決して行かなかった。

 そんなある日。だんだんと俺の話題も下火になってきたころだった。

 神崎美琴と一緒に帰るチャンスを得た!

 これはさすがというべきで、ちょうど委員会で彼女の下校が遅くなった折、一人で帰ると思わしきところを、俺たちが誘ったのだった。

 気のいい彼女は喜んで俺たちと一緒に帰ることに同意してくれた。

 驚くべきことに、俺の仲間は皆話上手だった。いつの間に鍛えたのか、男同士でのやり取りに出てくる卑猥なセリフなどは一度も出てくるのでもなく、かつお洒落な話題でまとまっている。がっつくのでもなく、あくまで冷静で、ただ彼女とのやり取りを楽しんでいる、といったふうな「さわやかさ」までアピールしている。

 面食らって俺は何一つ、彼女と話せやしなかった。

 ところがいつもの分かれ道で、彼女の帰宅方向が俺と一緒になるということがわかり、俺は歓喜した。やつらは歯がみするはずだ。

 とは言うものの、いったい何を話せばいいのやら、たいして分からずに歩き出してしまったので、俺は悲しくなるやら、絶望的な気持ちになるやらで、惨憺とした心持ちだった。

「木田くんって、」

「え? あ、お、おう。なに?」

「やだ。そんなに驚かないでよ。木田くんってどんな人なのかなーって。ほら、さっきはあんまりお話できなかったしね」

「あ、俺? そ、そそ、そうだなあ……俺はいったいどういう人間か……」

 あなたはとても心優しく、また想像力豊かで、正義感の強い人よ。

 妙な声がどこからか聞こえた。

 最初は美琴ちゃんが言っているもんだと思ったが、声が明らかに違った。美琴ちゃんは不思議そうにこちらを見つめている。

 俺は首を振った。

 おかしな奴だなんて思われないようにしないと。

「そうだな。木田康作、十五歳。得意なのはスポーツ全般で、あとは理系の科目が大得意だ。暗算や科学のことなら俺に任せとけってことだな」

「木田くんって、」

 美琴ちゃんは俺の話にあんまり興味が持てなかったのか、さっきみたいに話を切り出した。

「お友達、とっても面白いよね」

「え、そ、そう?」

「うん。よかったら、いつもどんな話をしているのか聞きたいなぁ」

 こいつはいかがしたものか、と思った。奴らの話をして俺以外の奴の株を上げちまっても困るし、かといって美琴ちゃんは自分の話の腰を折られるのも絶対好きじゃないタイプだろう……。

 俺は、当たり障りのない話をした。

 だけど彼女は笑ってくれた。それから彼女の前住んでいた場所の話になり(なんとベルギーだったそうだ……)俺も楽しく話ができた。彼女の好きなものは映画で、特にアメリカ風の恋愛映画が好きらしかった。

 よし、好印象を持ってもらったぞ。俺はご機嫌になったついでに有頂天になり、彼女とこのまま無難に付き合っていって、やがてはお互いに尊敬し合う仲から、恋人になっていく様を想像していくと、なんだかそれが実現可能な、なんでもない未来予測のような気がしてきた。

 彼女は実際とてもよく笑ってくれるし、俺のことも気に入ってくれているみたいだから、俺は、彼女が俺のことを好きとまではいかないまでも、なかなか面白いやつと認定してくれていることをみるみる実感した。

 こちらが歩み寄れば、向こうもそうしてくれる。俺は期待大の気持ちを抑えつけることができず、彼女をすぐそこの喫茶店に誘おうとした――そのときだ。

「やめなさい」

 え?

 俺は首を廻した。

 今いったい誰が?

「やめておいた方が絶対にいいです。ここは、素直に彼女を帰してあげなさい」

 俺は、謎の声に言われるがままに、やや不自然でありながらも、彼女に今日の別れを告げてしまった。

 今、俺はなにをやった?

 彼女を帰しちゃだめじゃないか! せっかく二人で一緒の時間を過ごせるところだったのに!

「あなたは神崎美琴を誘わないで正解でしたよ。誘っていたら、彼女から低評価を受けるだけでなく、あなたの自尊心も傷つけられていたでしょうから」

 わけがわからなかった。

 俺は、おそるおそる、内から響いてくる声に耳を傾けた。

 何も聞こえない、今は。

 試しに心で呼びかけてみる。

 おい。

「なんですか?」

「うわっ!」

 なんだ、なんだ。声には出してないはずなのに。俺の心の中を覗きやがったのは一体誰だ?

 俺は、すぐさま自宅へ駆け戻った。自分の部屋のドアを開けて、椅子やらテーブルやらをバリケードとしてドアを押さえるようにして置いた。

 夕刻の今、部屋は静寂に包まれている。半分だけ開かれたカーテンからは、温かげな西日が差し込んでいる。その西日に照らされて、部屋の中を舞う粒状の埃が目に付いた。

 俺はベッドに腰かけて、目をきつく閉じた。

 よし。ここには俺以外誰もいない。なんの物音もしない。遠くで子供たちの笑い声がする。……だがそれも、ずっと遠くだ。

 もう一度、確かめよう。

 なあ、あんた。

「なんですか?」

 俺は目を見開いた。

 立ち上がって、部屋を見回す。バリケードを荒々しくどかして、部屋の外を見る。

 誰もいない?

 誰かがふざけてやっているわけではなさそうだ。

 溜息をつく。

「はぁ……俺、なんか疲れてんのかな」

「あなたは元気です」

「うわっ?」

 俺はびっくりして腰が抜けそうになった。廊下から戻ってくると、部屋の中に人影があった。

 それは張り出し窓のところにふんわりと漂うように座っていた。西日が逆光になって、姿がよく見えない。だけど俺には女の姿をしているように思えた。髪が長く、お尻のあたりにまで達している。

 服はどこかの民族衣装のようでもあり、ブランドの奇抜な服のようにも思えた。

 声は直接自分の胸の中に響いてくるようでもあり、向こうから伝わってくるようでもあった。

「ついに、見えたようですね?」

「お、おい……あんた……何者だ?」

「私は、」

 するすると、女は浮かんでいるみたいに、窓の枠から降り、こちらに近寄ってきた。

 自分のすぐ近くまで近付いてきたときに、俺は不覚にも叫び声を上げてしまった。

 透けている。か、体が透けている。女の肌は雲のように白く、薄く、その後ろの窓のカーテンまではっきりと見ることができた。

 女は俺をじろじろ見ると、少し離れた。

「そんなに嫌がるなんて……あなたって、」

「な、なんなんだ、あんた! 幽霊か、お化けか、妖怪か!」

「あなたって本当に臆病ですね。馬鹿な子ね。いいからまずは黙りなさい。あなたのその情けない声が、どれだけあなたの家の周りに迷惑を与えるか、少しは考えてみたらどうかしら? 少なくとも、私が見えたのだから、あなたはそんな下手な芝居など打たなくても、私をすっかり信じてしまっていることはもう疑いようがありませんよ」

 女の霊の声は、半ば怒ったように、半ば嘲笑うかのように、ゆっくりと、大地から響くように非常に低く響いた。

「あなたの運命を正しく整えにやって来ました。レーエ、です」

「運命……?」

 俺はまだこいつの言っていることはよく理解できなかったが、どうやら俺を傷つける意図は持ってないように思えた。

「レーエ、ね。俺は夢でも見てんのかな」

 レーエと名乗るこの奇怪な人物は、なるほど、夢にしちゃわかりやすい美人だった。

「夢であるかどうかは、頬を抓ってみればわかります」

「うん……あ、いてっ」

 頬を引っ張って痛がる俺を、レーエは哀れみの目で見つめている。

「おわかり? キダ」

「いてて……ってことは、これ現実? 嘘だ! そんなアホな!」

「阿呆はあなた」

 レーエはつかつかと部屋の中を歩き回った。

「夢だろうが現実だろうが、あなたはこの目の前にいる私を受け入れざるを得ないはず。……いえ、あなたはもうとっくに受け入れている。私とこう対面しているのだから。ただそうして面倒な芝居を続けるのは、あなたが暮らしているちゃちな現実を捨て去るわずかな勇気が持てないから」

 レーエは今まで俺が誰の目にも見つけたことがないような、強い意志の輝きを放つ眼差しをしていた。

「ああ、別にわかってるよ……」

「そう。だったら、そのようなおかしな通俗観念はこの際完全に捨てきってしまいなさい」

「ねえ、君はなぜそんなに怒っているの?」

 レーエは眉間の皺を解いて、ぱっと笑顔になった。

「怒ってなんかいませんよ。ただあなたを少し諫めただけ」

「本当かなあ……?」

「本当です」

 でも、まあ、確かにレーエの言ったとおりだった。

 俺はこういったファンタジーが大好きだし、それは、ファンタジー系の漫画やゲームに熱中しているところを見れば明らかなのだ。

 だけど、世の通俗観念って言葉は辛辣だが、この凄まじく科学が発展した世の中では、まず物理的現実性が権勢を強めているのだ。神秘の時代は終わって、科学の時代がやって来ているのだ。だから、自然俺もそんなふうに当たり前となった考えを持っていた。だけどどこかでファンタジーを求めていた。

 それは……矛盾ってやつなんだ。

 でもどっちが間違っている?

 神秘性を許さない現代社会? それとも現に現代社会に染まっておきながら、無意識に、アンチテーゼとも取れるファンタジーに入り浸っていた俺? 

 答えるのは馬鹿らしいし、そんなものは今重要でもなんでもないと思った。

 重要なのは……

「少し、軽率だったかもしれませんね。あなたを阿呆呼ばわり。あなたは実際頭脳明晰だし、人にはない良い気質を持っています。ただ、あまりにも臆病。その弱点のせいで、通常のあなたの良さの四十パーセントしか表に現れておりません」

「もしかして……君、俺の考えていたこと全部お見通し?」

 はい、とレーエは簡単なことのようにうなずく。

 俺は、猛烈に恥ずかしくなった。

「え、なに? ってことは、神崎さんが好きなことも、俺があんたを美人だなと思ったことも全部知ってんの!」

 一方のレーエは、涼しげな顔だった。

「はい。とはいうものの、今あなたが口で言ってしまったのだから、これじゃ証拠になりませんね。キダ、頭でなにか秘密のことを思ってちょうだい」

「どんなことでも?」

「そう」

 レーエは何でもなくそう言った。

 俺は、なるべくエロくない方向の物事を考えていこうとした。すると、レーエはおもむろにベッドの下を指差した。

「そこです。そこにあります」

 何が、というのではない、俺は、なくしたあのゲームソフトがどこに行ったかを思い浮かべただけだ。

 試しにベッドの下に手を入れてみた。

 すると、硬質な何かに当たった。つかんで、ひっぱってみると、それは確かに一ヶ月前になくしてしまったゲームソフトだった。

 俺は、すぐにレーエのことを信じることにした。こいつは、すごいやつが俺のところに来たもんだぞ。

 レーエはほほえんだ。それがとても優しいほほえみだったから、俺は神崎さんよりもどきどきしてしまったほどだ。

 もちろん本人に伝わると恥ずかしいから、精一杯今のが伝わらないようにもがいたが、無駄だったようだ。俺がどぎまぎして慌てるのも束の間、レーエはますます嬉しそうになって、俺のことを抱き締めた。

「私たちは姉弟です。キダ」

「姉弟?」

「はい。私たちは姉弟なのですから、隠し事はしないでください。隠し事をすると、そのやましさまで伝わってきてしまいますから、私に対しては、あくまでも素直でいてください。奇妙なプライドなど捨てて。私たちは友であり、姉弟なのです。私には何でも打ち明けて。隠し事など、しないで。私との会話では全く素直になってください」

 俺はそれまで、久しく味わっていなかった感情に触れた。

 それは完全に信頼できる仲間というものであり、完璧に俺の味方で、俺の助言者で、俺のために動いて、叱ってくれる存在。

 俺はレーエの胸の中で体を休めた。

 いろいろなことが、自分の胸の内から顕れてきた。

 父さんのことがあった。初子のことがあった。俺は二人が死んでしまったとき、何よりも、俺が母さんを支えなきゃならないと強く思った。母さんの悲しみは俺の何倍も大きく見えたから。

 だから守ろうと思った。だから……葬式で涙は決して見せなかった。

 二人のことで涙した回数は非常に少なかった。一晩おおいに泣いたら、後はもう人前で泣かないと決めた。

 俺はあれから初めて涙を見せた。

 初子のこと。父さんのこと。俺は、たいへんな感情の量を心の奥底で堰き止めていたのだ。それが、今になって、決壊した。

 口では何か言ったかもしれない。でもレーエは何も言わなかった。今この溢れているどうしようもない感情をレーエも知っているはずなのに、レーエは何も言わない。

「おさまりましたか」

 だいぶ経った後、レーエはそう言った。

「うん」

 と俺は答えたが、気恥ずかしくなって、顔を背ける。

 そうそういきなりは、素直にいくことはできないみたいだ。

「私たちは、これからいつも一緒です」

「ねえ、レーエ」

「何です?」

「レーエはいくつなんだ?」

「いくつ……歳のことでしょうか。私たちに歳の概念はありません。月日は経ちますし、私たちもそれだけ経験を積みます。が、私たちは歳を数えるようなことはしません」

 少し難しい。

 ようするに、歳はわからないってことか。

「不思議だな。歳がわからないなんて」

「私たちのような存在に歳を尋ねることの方が不思議です。私はあなたがもっともイメージしやすい姿を取っています。あなたの心が私の顔形、声の質や細部の特徴を決めるのです。本当の私は、あなたの捉えられないところにいます……」

「なんだ、それ? すっげぇわかりにくい……」

 とは、言いながらも、俺は何となく理解していた。ただやはり、まだ科学的な考えが俺の邪魔をした。

 レーエは本来ここにはいない。いや、レーエの「本質」と呼べる存在は、ここにはいないと言ったほうがいいか。

 ここにいるのは「現象」であり、「表象」なのだ。

 人間は、自分の見たいものを見、聞きたいものを聞く、といった話を聞いたことがある。

 対面している彼女は、俺のもっとも望む姿を取っているのだ。というより俺は、そうしなきゃ彼女の存在を知覚できないと言ったほうが正しいか……。

 やはり難しい。俺にこんなことを体験する能力が備わっていたとは知らなかったが、問題は、レーエがいて俺がどうなるかということだ。

「大体はその通りです」

 うれしそうにほほえむ。

 あっ、そうか。こいつ心の中を見れるんだった……。

「こいつ呼ばわりですか。まあ、いいでしょう。しかしあなたの言うとおり、私は本来このような姿をしていません。私からすれば……あなたの目をとおして自分の姿を見ているのですが、ずいぶんとまあ、お上品な姿をイメージしているんですこと」

「ほっといてくれよ!」

 なんてやっかいなやつ。頼りになるとは思ったが、こう周りから何度もぺらぺら喋られちゃ、たまったもんじゃないと思った。

「私は、常にあなたの傍にいます」

 それなら有難い。なくし物の発見に役立てるとするか、と素直に考えると、レーエは厳しい顔をした。

「キダ。私はあなたの願いを聞き入れます。でも時には、自分で探したほうがいいと判断した時には答えを知らない振りをします」

「えっ、なんでさ」

「私はあなたの運命を元の方向に戻すために来たと言ったでしょう。あなたが賢くならなければ、運命はあなたを殺してしまうでしょう」

 なんか、物騒な話だな……。

「運命? そういえばさっきもそんなことを口にしてたけど、いったいなんなんだ? それ」

「運命は未来が決まっているということ。あなたがどんな人間になり、またどんなことを世にもたらすかが書かれてある書物」

 レーエは、厳しい顔でそう言った。

「運命、か……」

 俺の嫌いなもののトップ3に入るものじゃないか。

 運命なんてなぁ。

「俺に運命ってやつに従えって言うの?」

「その通り」

「はんっ」

 俺は嘲った。

 くっだらねぇ。

「だいたい、何が運命なんだかは、俺に知る手段もないんだけど?」

「私がいます。私にさえ従えば、運命の正しい道筋に戻ることができます」

「俺が運命から外れて一体誰が困るっていうんだよ?」

 何だかムカッときていた。ようするに、レーエは自分の言うことに従えってことじゃないか。俺はこう言うのは何だが、自分の考えってのに少々自信がある。

 運命なんか知ったことか。俺は自分で道を切り開く。だからこそ人生は楽しいじゃんか。

 レーエはさっきの優しそうなほほえみからは想像もつかないような恐ろしい目をした。今まさに怒鳴られそうな、静かな、そして巨大な憤怒と軽蔑を含んだ目だった。

「この自惚れや。言うに事欠いて、私(運命)にそんな暴言を叩きますか。恥じなさい。私に従わなければあなたは今生きてなかったのですよ?」

「はい? 何だって?」

 レーエは今、なんと言ったのだ?

「俺が生きていなかったって、あんたは何でわかるのさ。勝手に話を自分の世界に持っていかないでくれる? 俺にはそんなことわからないんだからさ」

「トラックにぶつかる直前、あなたはどうしましたか?」

「どうしたって……妙な声が聞こえて……無意識に……」

 って、まさか。

「あのとおりにしなかったら?」

「あなたは死亡していました。あれは私の声だったのです。間一髪であなたの元へ来れましたから」

 そんな……マジか……。

 俺、あと数センチ場所が悪かったら、死んでたかもしれないのか……。

「あるいは、大怪我を負っていました。前に出過ぎてもいけないのはもちろんのこと、下がり過ぎてもいけませんでした。あなたは壁に激しく叩きつけられ、骨を折り、また最悪の場合頭に障害を残したでしょうから」

 ぞっ、とする……。胸の中がぐちゃぐちゃに絡まって、手足がどんどん冷えていく。四肢が自分のものでなくなったみたいに感じる。俺は頭を押さえた。なんてことだ、なんてことだ……。

「あなたは、運命を自分の手で切り開くと言いましたね? ではどうぞご自由にやってみてください。私の助言なしで、次の事故を回避してみてください。もし次に起こるなら、ですが。しかし人生には幾度も危難が訪れます。そのたびにあなたは自分で判断していってください。ちょうどトラックとの衝突が避けられないとわかった時に、どこに立って待ちかまえているのが一番安全か、探るように。運転手の状況、速度、重量、角度、周りの障害物、そしてその他の様々な条件を照らし合わせて、総合的に判断するがいいでしょう。失敗したらあなたの人生はそこで終わりです」

 不可能だ。

 不可能だ、そんなのは……。

 あの状況で、いったい何を判断しろって? 俺にはほとんど何もすることができなかった。ただ無意識に体が動いた。あまりにも強く声が響いたから。

 ちょうど、レーエの声とそっくりだった……。

「悪かったよ。レーエ」

「なら?」

「別に君のことを疑ってるわけじゃないんだ。ただ……運命がもう全ての俺の未来を決めちまってるんなら、人が頑張る理由はなくなっちまうんじゃないのか?」

「人の頑張る理由は様々です。なにも自分の手柄を見たいがためばかりではない……でもそれすらも、運命によって定められているその人の人生なのです」

 俺には、やはり難しいことだ。もう高校生が理解できる範囲を大きく超えていると思う。

「私に従いなさい。まずは簡単なことからでいいのです。そう、探し物があるときに私に尋ねたり、あるいは、身の振る舞い方について私に助言を頼んでください。私は常にあなたの傍にいますから、喜んで応えましょう」

「うーん……」

 それならまあ、いいか。一応命を救ってくれたわけだし……ゲームソフトも見つけてくれた。

 占い師じみた大がかりなトリックかなんかっていう可能性も残ってるけどな。

 だけど、さして重要性もない簡単なことならレーエの力を借りて切り抜けるのもいいだろう。

「ん?」

 すこし、引っかかりを感じた。

「レーエ。君があのとき……そうだ、神崎さんを喫茶店に誘おうとしたとき、どうして『やめなさい』なんて言ったの?」

 レーエはすました顔で答える。

「彼女はあなたには向いていません。喫茶店に行ったとしてもあなたは恥ずかしい思いをしたでしょう」

 そんなバカな。

「俺と神崎さんが相性悪いって? そう、言いたいのか?」

「はい。神崎美琴はあなたのように感じやすく、また臆病で、物理面は乏しいですが精神的に豊かな青年を求めてはいませんし、あなたが求める理想の女性像も彼女には一致しません」

「そいつは嘘だな」

 俺は信じなかった。

「神崎さんが俺に魅力を感じないのはわかる。だが、俺が神崎さんを好きでないというのは全く違う!」

 レーエは溜息をつく。

「熱病にかかっているのですね、キダ。それは悪いことをしました。あなたを先走らせて、恥をかかせた方がもっとよくあなたの目を覚まさせることができたかもしれません」

「好きにほざいてりゃいいさ」

「キダ。まずは冷たい物を飲みましょう。少し喉が渇いたんじゃありませんか?」

「おっと、そうだな」

 気付いたら、もう空には紺色の夕闇が被さっていた。

 俺は、階段を降りて、階下へ行った。まだ母さんは会社から帰って来ていないようだ。

 冷蔵庫を開けると、ひんやりとした冷気が顔にかかる。冷たい果物ジュースのパックをコップに注いで飲んだ。

 そうすると、少し自分を振り返ることができるようになった。喉がもの凄く渇いていた俺は、むさぼるように飲んだ。だんだんと自分の振るまいが身勝手だったように思えた。自分はレーエに何を言った? ほざいてろ、と言ったのか? こんな綺麗な女性に? いやいやいや……綺麗な女性をイメージしているのは俺自身じゃないか。そうか、でも……神崎さんもレーエよりは可愛くないんだ。そうすると、俺はレーエの方が何倍もいい気がしてきた。

 でも……レーエは、俺のことを「友」とか「姉弟」って言っていたからなぁ……。

「そうですね」

 振り返ると、レーエがほほえんでいた。

「あなたは良いことに気が付きました。神崎美琴も、あなたの理想像ほどには美しくないのです。ですが、残念ですが、私と恋愛するわけにはいきませんよ。それこそあなたが死んでしまいますからね」

「びっくりしたな……急に出てくるんだから。まあ、わかってるよ。幽霊と恋なんかしたらあの世まで連れて行かれそうだからな」

「はい」うっとり、とした声で答えるのだ。「私は愛する人とこんな関係いやですからね。すぐにでもこちら側に来ていただかなくては」

「残念だけど、やめにするよ」

 俺は苦笑した。

「あのさ……さっきはごめんな。あんな暴言いっちゃって。霊だってそりゃ傷付くよな。俺たちと同じ心を持っているんだからさ……」

「そうですね。でも大丈夫です」

 レーエは満足した様子で言った。

「あなたの憤りも、悲しみも私はちゃんとわかっています。あなたが恋の熱でどうしようもなくなっていることも、私にはわかっています。ですから、そのお気持ちだけで十分です」

 そっか。俺は安心して笑った。

 俺は二階に上がりながら、少しずつ考えた。神崎さんのことが好きな気持ちは変わらない。現実の女性と恋愛するなら、やっぱり神崎さんだ。あの声ったら、めちゃくちゃ可愛いもんなぁ……大好きって、色っぽく囁かれてみてぇなぁ……。それにあの彫刻のような美しさ、みんな好きになるはずだよなぁ……俺だけのものにしてぇなぁ……。

 そんなことを考えていると、レーエが後ろから声をかけた。

「あなたにはもっと良い人がいますよ」

「え、マジで?」

「はい」

 誰なんだろう。

 神崎さんよりも良い人って。あれくらい美人で可愛くって、それで気立てのいい人かな?

 あ、でもだめだ。

「悪い、レーエ。俺はもう神崎さんで行くって決めたんだ。俺は一途であることを信条にしてるくらいだからな」

「たとえばそれがあなたの『運命の相手』だったとしても?」

 運命の相手? なんだ、それ。

「俺にも『運命の相手』がいるの?」

「はい。います」

 ふーむ……。

 運命と名の付くものは否定していきたい考えもあるにはあるんだが……その響きは悪くない感じがする。

 運命の相手か……一度巡り会ったらもう両想いにしかならないというやつか? 最初からそんな未来がわかってるなら嬉しいな。

 いいや、だめだ。

「でも駄目だ。俺が運命と名の付くものが嫌いなのは知ってるだろ? 男だったらそんなものの一つや二つ破れなくてどうする? 恋の力でんなもんぶっ壊してやるよ」

「恋の力で?」

「ああ。恋の力で」

 レーエはとたんに笑い出した。俺をあざけるような笑い方だったので、俺は猛烈に恥ずかしくなった。

「なにがおかしいんだよ!」

 レーエはおかしいのを抑えきれないと言った様子で、体をくねくね曲げた。

 おもっくそ腹立つな、こいつは。人が真剣にやってるのに、それを笑うなんて友達のすることか?

 俺は奴に背中を向ける。

「キダ。あなたは通俗本の読みすぎです」

「うるさいな。でも気持ちは本当なんだ。運命なんて知ったことか。俺が全部打ち砕く」

「なんとまあ、男らしい少年ですことね」

「俺を少年って言うな!」

「少年ですよ、あなたは」

 俺の目の前にレーエは出てきた。俺は反対方向に背を向ける。

「名まえだけでも知っておきませんか? その子の」

「誰だよ」

「運命の相手」

 俺は、髪をつかまれたように感じた。

 尋ねてみたい誘惑に駆られる。

 別に……知っておいても損はないだろ。

 どうせ、遠く離れたところにいる誰かなんだろう。

「ちなみに、あなたのクラスにいます」

「何だって?」

 びっくりした。俺と同じクラスにいるって!

「一体誰なんだ!」

「二宮鏡子、です」

 二宮鏡子? ……名前なら知っている。HRの時の点呼があったから。だけど顔が全然判然としない。まだ四月だからなぁ……。

「明日、学校に着いたら教えますよ」

「ちょっと待て」

 なんだか怖くなった……。

「どうしましたか」

「いや、やっぱりいいよ。知りたくない」

「何故ですか? いいえ……言わなくてもわかります。あなたは恐れているのです。その女の子に会って、あなたの気持ちが揺らいでしまうのを」

 俺は肯定した。

「悪いかよ」

「いいえ。別に悪くはありません。しかし情けなくはないですか? あなたは運命なんかぶっ壊す、と先ほど豪語したばかりではありませんでしたか? もう忘れましたか?」

「あーあーうるさいうるさい! わかったよ。明日教えてくれよ、頼むから!」

「了解しました」

 俺はこの世話焼きの幽霊とともに、退屈することなく、今日の一晩を明かしたのだった。

 あえて聞かないようにしたのだが、俺のその「運命の相手」とやらが、いったいどんな風貌で、どんな眼差しをしていて、どんな時に笑うかとか、聞きたいことは山とあった。けれど俺はなるべく聞かないようにしていた。

 4につづく

 

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