2

 初めに、人間がいた。

 何もかもが、まずは人間からだった。人間から、精神が生まれ、その後に、世界は秩序を生み出したのだった。

 記録されることが、世界の始まりだった。

 そういうふうにして世界は生まれた。

 これは歴史哲学の一つの考え方。

 だけど私はそれで間違いないと思っている。なぜなら、「ここ」には人間しかいないから。

「レーエ。訪ね人ですよ」

「お役所の方かしら?」

 そうみたい、と私の同居人は言う。彼女は消失する。何かが霧散するように。そうして全く別の場所に現れたりする。彼女は無関心そうにお茶を飲んでいる。

 私はドアへ向かった。ドアを開けると、髭を生やした男の人が立っていた。

「ああ、クラスコー」

「レーエ殿。時間です。お迎えにあがりました」

「別に必要ないのに」

「役人の仕事の数少ない一つですからな」

「まあ、足を借りましょう、クラスコー。歩くのは退屈だから」

「どうぞこちらへ」

 分厚い手をじかに触れる。彼は私を車に引入れる。白い車。それでいい。白いものは白くなる。それは当然のこと。

 同居人のラーラに手を振る。彼女はうっすらと笑い、ウインクした。

 ゆっくりと車は走っていく。雲の岩がすれすれに横切る。黄金色の太陽は熱を持たず、まるで私の羽衣のように手触りがよく、私を包むので、私はうとうととし始めた。

「少しは運動されたほうがよろしかろう。顔色がよくありません」

「別にもう肉を持ってはいないのに」

「心の持ちようでしょう。晴れやかな気分になれますよ」

「本当? クラスコー」

 ええ、本当です。感じのいい初老の男は運転席からそう言った。

 私は霊だ。

 霊、という存在を人間に説明することは難しい。

 大昔には、それを実際に説明しようとした人間もいた。その後その人間自身も霊になって、今ではこちらでのんびり過ごしている。

 霊は人間の格好をしている。

 考えることも人間に似ている。

 人間から生まれたとは、考えていない。もちろん私にも母さんや父さんはいた。どんな両親だったか、今でも覚えている。だけど、この「霊」というやつは――つまり「私」自身は――人間から作られたのではない。人間から作られたのは肉。霊は、人間が作るのではなく、もっと大昔から、どこかにある。

「着きましたよ」

 クラスコーも霊である。

 彼と手が触れ合うと、かすかに光が弾ける。そうして魂が共鳴する。かすかな快い音を立てる。私たちは意思疎通に魂の触れ合いを使っている。言葉というのは、ただのお飾りに過ぎない。魂と魂が触れ合えば、たいていのいさかいは解決される。霊たちは、許し合うものだ。ここには限度というものはないが、争いもない。

「ニブル殿はお怒りかしら?」

「ええ。かなり」

 目で見つめ合い、くすりと笑い合う。

 ここでは決して憎しみ合いや、果たし合いというものがない。それゆえに、霊たちはお互いを尊敬し、大事にし合っている。でもたまに、課業をほったらかしにしたりすると、お叱りを受けることもある。

「好きな時に出向いていいはずだったのに」

「あなたの腕が確かだからですよ。さっ、お急ぎください。私はレーエ殿を大至急連れてくるように仰せつかっているのですから」

 そのわりには、のんびりとした行程だったので、きっと怒っているニブル殿をみんなで楽しんでいるのだろう。

 私は重いドアを開いて、役所へ入っていった。

 役所だけは、私たちよりちょっぴり忙しい。

 働き霊たちが、あちこちを行ったり来たりしている。

 知人に挨拶しながら、私はゆっくりと中央の階段を登っていく。呼ばれているのは、ここの地区で最も尊敬を集めている区長さんだ。だがあくまでもゆっくりと、彼が好きなので、あくまでも急がずに、登っていく。

 最上階に達すると、勝手にドアが開く。

「とってもとっても遅かったね。レーエちゃん。私なんぞは待ちくたびれて、苦しすぎて呼吸が苦しくなったから街のお医者さんに来てもらったところだよ。ああ、苦しい。……で? 街のお医者さんの方が君よりも来るのが早いということについて何か抗弁することがあるかね?」

「何もございません、ニブル殿。ただ自らの怠惰を恥じるばかりでございます」

「おや、そうかね」

 素直になれば簡単に彼の険しさは無くなる。

 ここには、気難しい人間がいても、人を許さない人間はいない。

「レーエちゃんの怠惰にも慣れっこだったのに私と来たら……ああ、悪かった。お医者さんの件はもう大丈夫だ。ただ気疲れだろうって、二人でお喋りしてその後帰られたよ」

「それはなにより。で、どうなさいましたか?」

 ニブル殿は顎髭を撫でる。

 その仕草がちょっと可愛らしい。

「ちょっと下に降りてもらいたい」

 はあ。構いませんが。と、私は言う。

 下、というのは人間たちのいる世界のことだ。

「下級の調律師では追っ付かなくなってきてるもんでねぇ……しばらく君に頼みたい」

「まあ、構いません。遅れたお詫びも兼ねまして、早速出向きたいと思います」

「うん。お願いしたい」

 にこっ、と微笑む。

 彼は肉をそなえている間、屈強な軍人だったらしいが、今では家族ともども非常にのんびりした性格になっている。

 で、とニブル殿は言う。

「取り憑いてもらいたい相手なんだが……ここの、日本という国の、キダ・コウサクっていう人間なんだ。男の子だよ。よかったね」

 霊には性というものがない。ただし、生前の性にともなって、女性だった者は女性らしく、男性だった者は男性らしくなるのが通常だ。容姿も、かつて一番生命力に溢れていた頃に変わることが多い。

 この私も、若い時に運悪く死んでしまったため、若い女性という形を取っている。

 だが、霊には本来性の概念はない。

「楽しみですね。お似合いの相手であればいいんですけど」

「どこにでもいる普通の子だよ。本来なら問題なんかない子なんだけど、ちょっと前から不穏になっちゃってる。君の手でいっちょうやってもらいたい」

「構いませんけど。でも私はやると決めたら完璧にやりますよ」

「それは素晴らしい。とっても助かるよ!」

 私は区長室を辞した。

 携帯電話を出して、同居人に連絡を取る。

「しばらく留守にするから」

 眠そうな同居人は「あいよー」とだるそうに言って、電話を切る。

 私は目を閉じた。

 深く息を吸う。

 念じるのだ。

 下へ。……もっと下へ。

 まるで自分の立っている「場所」が、ずんずんと下へ沈んでいくように。

 周りの空気が上へ、上へ、と上がっていくのを感じる。そう感じるようにイメージするのだ。

 やがて風が突き抜けていく。下から上へと。

 自分は下りていく。上から、下へ。

 目を開けば、もう人間界だった。

 自分は空中を浮遊している。このように、「空気」という概念に宿って、自由に空を飛ぶこともできれば、木、柱、電線、家、車、などの概念に乗り移って高速で移動することもできる。

 私は、気配でキダ・コウサクの位置を探した。……すぐに見つけた。このように、特別な「縁」で結ばれた私たちは、すぐに相手の居場所を特定することができる。キダにすぐそれができるとは限らないが。

 だがまずい。

 なんてことだ。キダは今生命の危機に瀕している。

 あと数十秒後にキダが命を落とす可能性が私には見える。私は道を急いだ。

 キダは今住宅街を歩いている。あと十七秒後には交通事故に遭う。それは彼の「運命」ではない。

 キダは本来の「運命」から外れてしまっている。私はそれを正しに来た。彼と直接「通じる」ことによって。

 私はもはや遊んでいられないようだ。一刻もはやく彼の元へ飛んでいこうとする。

 だが、思うようにはならない。様々な概念が邪魔をする。正しい道を歪められた影響が出ている。

 残り十秒。

 このまま行けば確実に彼は死ぬ。歪められた彼の運命は、彼を不幸へと導くだろう。

 私は彼に追い付いた。後ろから抱きつくと、気持ちのよい温かな光が私の中に伝わってくる。

 ああ、この男の子は優しいのだ。温かい心の光でよくわかる。

 そのまま少し待つ。すると、彼に取り憑くことができるようになる。私の魂が彼に触れ合う。そうすると光ができる。彼のことがよくわかってくる。どんな人なのか、好きな物、嫌いな物。

 私は叫んだ。彼を死なせないために。

「止まって!」

 彼はぴたりと止まる。私への連絡橋はもう強引にこじ開けられたはずだ。

 矢継ぎ早に繰り返す。

「止まって! 止まりなさい! オーケー? じゃあ、そこからまず右足を一歩下げて、次は左足。次はもう一回右足をバック。そう。オーケー……」

「おい、あんた……」

「質問は後! さあ、そこから右を見なさい。何が起こっているのかわかるから……」

「右? え?」

 すぐ振り向いた。彼とは相性がいいかもしれない。

 今、彼の目には猛スピードで襲いかかってくるトラックが映っているはずだ。

 でも、問題ない。今の彼のこの位置なら、ほぼ無傷で済ませることができる。

 彼はまだ何が起こったのか理解できていないだろうが、彼にはまさに九死に一生ともいうべき私が舞い降りたのだ。運命の向きさえ正しいものに戻れば、彼の境遇ももっとよくなるだろう。

 私はそれを行いに来たのだ。私は運命調律師。運命の道から逸れ、あえぎ苦しんでいる者たちの道しるべ。

 彼のための霊となる。私は彼に助言をし、彼はそれに従い、じょじょに成長していき、幸福への扉が開かれてゆく。私はそれを助ける。なかなかやりがいのある仕事である。

 彼はトラックに吹っ飛ばされたが、すぐにけろっとした顔で起き上がった。膝をさすっているが、その程度なのだ。私はこうなることがわかっていた。であるにもかかわらず、大きな溜息をつかされた。

 3へつづく

 

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