導くもの――導かれるものの再定義・終わり

  

 俺たちが再会したのは一年ぶりだったわけだが、俺にはもう何年も会ってないような感じがした。

 それほど懐かしく、まだ人生に希望や夢想を抱いている、ひどく子供だった時分の思い出がありありと鮮明に蘇ってき、俺は、とてもなごやかな優しさが心の内にやって来るのが感じられた。

 俺は、全てを思い出したのだ。ようやく会えた。ずっと忘れていたのは、なんでだったんだろう。でももう会えなくなることはない。ずっとこれからは、一緒だ。

「どうしましたか?」

「どうしたか、じゃないよ……俺は、嬉しいんだよ……また、君に会えて」

 レーエはやれやれといって溜息をついたが、急に優しく微笑んで、俺を抱き締めてくれた。

「ずっと……一人で頑張っていましたね。つらかったですか?」

「つらかったなんてもんじゃないよ……俺がこの間どれだけ惨めだったかなんて言葉に言い表せないよ。君は見てないからわからないんだろうけどさ……とにかく、つらかったんだよ」

「私はずっと見ていましたよ」

「え、ほんと?」

「ええ」

 俺は、だったらすぐ声を掛けてくればいいのに。と思った。次いで、あんな泣き顔やこんな惨めな顔を見られたのが非常に恥ずかしく思った。

「私は、言ったはずですよ。……ずっと、あなたのそばにいると。あなたの一番の理解者だし、あなたの仲間であり、味方ですと。私が間違ったことを言ったことはありましたか?」

「いいや……いいや……」

 レーエが間違ったことを言ったことはかつてなかった。いつでもそばにいたということは、俺が、レーエの存在を見えていなかったということか……?

「まさしくその通りです。見る目があるものは見、聞く耳があるものは聞け、とよく言います。これは、見る目がある人は見える、ということです。見ようとしなければ見えない……自分で自分に覆いをかけてしまっては、何も見ることができないのです……」

 俺は、自分でレーエとの間に壁を作ってしまったということなのか……。レーエを失ったんじゃなく、俺が、レーエを、自分で見えなくしてしまったんだ。

「ですが、よかったではないですか。もう一度、私と話すことができるようになって。それまでのことは一時忘れてしまいましょう」

「そうだよ! 俺、君に言わなきゃいけないことがあったんだ! 俺は……俺は、本当に、君にひどいことを言っちまったんだ……あのときは気がひどく動転していて、俺は……あの、その……」

「言わないで。今はもういいのです。空が綺麗ですね。そろそろ夕方ですよ。もう、家に帰りませんか?」

 俺は、心の底からレーエに謝罪した。俺のような、無知の罪人を、レーエに許してもらえるなら、何だってやりたい気持ちだった。

「もう言わないで。言わなくても、十分にもうわかっています。でもそのおかげで、あなたは運命に従う理解を手に入れられたのですから、私はむしろ喜んでいるのですよ」

「嘘はダメだろ。レーエ」

「いいえ。嘘ではないですよ。私はあなたの無条件の味方。条件なんてないんですよ。いつだって味方だし、あなたのことを悲しんで嫌いになったりは絶対にないのですよ。私を見ていられる限り、それは、永久です」

「永久、運命か……」

 俺は立ち上がって、鞄を取った。夕陽が傾いて、空は黄金の色に染まっている。ぼんやり世界全体が眠たくおぼろげになって、優しい風が吹く。

「帰ろうよ、レーエ」

「はい。帰りましょう。キダ」

 俺たちは、家路についた。

「そうだ。俺たち、もう一度旅行に行かないか?」

 俺は、レーエに向かって、提案した。

「君に見せたいところがたくさんあるんだ。東京の丸ノ内とか、名古屋とか、京都の神社とか、四国の森とかさ!」

 レーエともう一度旅なんてできたらどれだけ楽しいだろうと俺は思った。とにかく驚きを共感してもらいたかったのだ。世界はこんなにも美しいということを俺は今まで知らなかったのだ。

 レーエは、首を縦には振らなかった。

「いけませんよ、そんな旅には。私はもうあなたと同じ旅をしたのです。思い出でしたら後で語り合いましょう。……今は、あなたを待っている人がいるはずです。彼女を待たせてはいけません」

 俺は愕然として、しょげ込んだ。

 二宮鏡子が待っていることを急に思い出したからだった。彼女が断然俺のことを心配していないはずはない――。ちょうど俺がレーエのことを求めてやまなかったように。俺は仕方なく、レーエを連れて、家に帰ることにした。

 黄金色の空が、じょじょに赤い色に染められていくのを、俺とレーエは川べりを歩きながら、見つめていた。俺は木田康作として生を受けてから、一番充実した時間を過ごしたような気がする――レーエとの会話は新たな実感を俺に抱かせた。ずっと解れなかった糸は、今、解きほぐされた。かつてなかった満足感が俺の心にやって来た。レーエは、俺の全ての悩みを知っていた。そして、全ての問いかけに答えてくれた。その中で、俺にまったく新奇に聞こえるものはなく、全てがしっかりしていて、全てがわかりやすかった。俺は、物事の根幹の仕組みが、急にはっきりとした形になって俺にやって来て、微笑みかけてくれたのを実感した。俺はその全てを受け取れるわけじゃなかったが、もちろん、手からこぼれ落ちてしまったものもある、でも、新しく、納得のいく形で、俺に表されたものを、手に取って眺めるのは、楽しかった。レーエは言った。

「運命は人を幸せにするもの。運命は人を良いほうに、良いほうに導きますし、人は、その過程で、参ってしまって、運命から外れていくだけで、参ってしまわなかった人は、運命がその試練を与えてくださったことを、後々感謝するのです。運命に従うこと、それ自体が人を幸せにすることもあります。運命は、人がなにを望んでいるのかよくわかっているのです。どれが人として正しい答えで、どれが間違っている答えか、彼だけが知っているのです。人間自らが考え出した答えほど、不完全なものはありませんよ。私にとって、霊の言葉は絶対でした。私も霊がいたのですよ。前も話しましたね」

「ああ。そうだったね」俺は穏やかな気持ちになっていた。全てがゆっくりとだが、はっきりとした形になって見えるようになってきた。そう感じた。

「私にとっての霊は、恋人であり、父であり、友であり、兄妹でした。霊は運命を語り、私に進むべき道を示してくれたのです。私はもちろん最初いぶかしく思いました。姿の見えない彼が私の想像の産物ではない証拠はなかったのですから」

 レーエは、霊について、少し詳しく教えてくれた。

 レーエのようにイメージを明確に伴って現われてくるケースは本当に少ないのだという。異常に相性がいいか、異常に相性が悪いか、どちらかのケースだという。

「ですけれど、霊は私の味方であり続けてくれました。家族のいない日は慰めてくれましたし、歌を教えてくれました。泣いたときはつねに話を聞いてくれました。お願いは、いいお願いのときは叶えてくれ、悪いお願いのときは叱りました。だんだんと、私は彼の存在を知り、彼の言う『運命』というものに心が惹かれていったのです」

 レーエは初めて俺に煙に巻くような言い方をやめ、親身に接してくれるようになったと思う。俺の味方だ味方だと言っていながら、どこか冷たい態度を取っていたかのように見えたのは、俺が常にレーエを否定するような姿勢だったからだろう。こうして受け入れ、全てを肯定して彼女の言う「運命」に身を委ねたら、なんて気持ちよくなることだろう。俺は、レーエが俺のことをずっと愛してくれていたことを知った。感じた。思い出した。そうして俺は何をしていたかというと――、良いように利用して、うるさくなったら捨てて、挙げ句の果てには全否定した。俺も、レーエのことを受け入れてやる必要があったわけだ。必要、じゃないだろう。俺はレーエをずっと愛したかった。でも愛し方を知らなかっただけで、愛する気持ちは心の底に隠れて見えなかっただけだと思う。いや、俺自身のプライドとか、自我が、レーエのいう「運命」に舵を受け渡すことを拒み、その気持ちを隠してしまったのだと思う。俺もレーエのことを愛したい――ずっと好きだったのに、好きになれなかった。邪魔者をすべて取っ払った俺は、新たな気持ちに満ちあふれるようになったのを覚えた。それは、「見る目を持つようになった」、永久につづく幸福感を得られるようになった、のだと思う。俺は、見るべきものを見ていなかった。たとえ、大金がここにあったとしても、かわいい奥さんがいたとしても、メジャーリーグのスーパースターであったとしても、幸せとはあまり関係がない。重要なのは、何が、どうが、じゃなくて、もっと身近にあるもの。俺がどういう気持ちで世界を見ているか、なんだと思う。俺は、夕焼けを眺めている。雲が紅く太陽に照らされて、温かく、海のように、優しげに漂っている。俺は、誰よりも、愛されたがっていたのかもしれない。愛されれば、特別になれるのかなって。不思議だったけど、そう、そういうもんなんだって、そう思ったんだ。だけどそんなもん本当は必要なくて、自分がどうあるべきか、人の評判は大事じゃない、俺が幸せかどうかにはこれっぽっちも関わりがないことを認めていいのだ。

 レーエは続けた。

「人は、自分から何かを掴んでいったり、人生の意味を金や名誉に求めたりします。それも時には重要な引き金になったりしますし、人を幸せにする原動力になったりします。だけど、私は、運命に対して逆らわないことが一番の幸せの方法だと思っています。運命が決めたことを覆さない。それに従って、それ以上物質的に幸福になろうとしたり、ルールを破って駆け落ちしたり……自分の選択を押し通さない、いつも従順で、今あるもので満足し、そして最も簡単な方法で幸せを得る。運命に対する愛情があなたの幸福を決めるのです」

 俺は、全てのレーエの言うことを理解できたわけじゃなかった。でもレーエの言うことに一つも間違いはなく、俺がまだ学び足りないせいで、正しく理解できないものが多いんだと俺はもうすでにわかっていた。きっと、人の幸せというのは、運命に従ったほうが、従わないよりは、ずっと手に入れやすいんだ。俺は、駆け落ちというものが、必ずしもうまくいくとは限らず、意外とリスキーなことであるという現実の常識を知っている。ロマンティックなものであるが。もちろん運命がそれを指示したのか、そうでないかで結果が変わってくるのだと思うが。俺たちは、運命が人を幸せにするものだという前提で話してしまっているが、間違いというほどでもないと思う。というより、そう思ってしまった方が物事がうまく運ぶのだ。運命が人を陥れる道理はないのだから。だとしたら、人は、幸せを「作る」ためにあくせく苦しい思いをするのではなく、人として、自分がどういう人間であるのか知るほうがいい、ということだ。運命を知ることとは、自分を知ることなんじゃないのだろうか。俺は、つくづくそう思う。自分がどういう人間なのか、どう動いていけばいいのか、レーエは全部教えてくれる。何が好きで、何をどうするべきで、何が似合い、何が似合わないのか、そして、そうあるべき行いに身を置いているときはとても自然な幸福感を味わうことができる。今わかるのは、人は、自分がどうあるべきかがわかり、そして、その上で、たとえば不利益を被ったとしても、納得できる強さがあるものだということだ。

 夕焼けがじょじょに強く、温かくなってきた。川の反対からは茂った桜の木から、蝉の鳴き声が響いてくる。みぃん、みん、みん。さらさら砂を転がすようなヒグラシの鳴き声も。俺はその先にある東京をかいま見たように感じた。建物が無秩序に集まるあの大都会へ、俺の視線は飛んでいった。そこには何でもある。色んな欲望が満たされるし、大勢の多種多様な人間がいるに違いない。

 だけど、そういうことじゃないんだ。

 人間の幸せってのは、もっと――。

「ここにあるもの、です」

 レーエは俺の肩をたたいた。俺は彼女の顔を見て、笑った。そうなのだ。

 うまくいえないけど、そうなんだ。

 成績とか、容姿とか、運動能力とか、そういうんじゃ人の幸せには代われないんだ。金も、知識も、あって悪いということはないけれども、でも、もっと大切なものがあるんだ。

「多くを所有しているのかどうか、人は外見やその人の肩書や成績だけではたいてい判断できません。お金を所有している人が、一見何も所有していない人に勝らない場合もあるのです。キダ、空を見なさい」俺は空を見た。「美しいでしょう? でも、他の大勢の人はあなたと違ったふうに見ているのです。例えば、それはただの絵の具の青のように過ぎなかったり、ひどいときは劇の縦割のようにしか見えない人もいます。でも、キダ。知りなさい。あなたのように、いや、あなた以上に空がどれほど美しいか知っている者もいるのです。さあ、いったいどれほど大量の絵の具が用いられて、あの美しさが再現できるのでしょうね? あの少し揺れるようでいて、大陸のようでありながら、ほとんど透き通って何も突き通すような厳しい青と赤と黄色の色合いを? 太陽がまるで川に大量の宝石を投げ込んだかのように見えるかの輝きの連なりは、なんて美しいんでしょうね? あの花を見てくれませんか、キダ? なんて美しい装いでしょうね? かの大女優でさえ、あの娘ほどには着飾っていませんよ。おおらかなあの鳥たちを見てください。あの羽ばたきの具合といったら――あれでオスは雄々しさを示すんですよ。素晴らしいじゃないですか。この世の中は、こんなにも美しく出来ているんです。明日はまた別の今日がやって来て、あなたを別の匂いで包み上げ、あなたを別の装いで別の場所へ行かせるでしょうし、あなたを別の思いで感傷的にも、喜びの大波で満たしもするでしょうよ。ほら、あの花の連なりを見て? 右から順に、あの花を花子、怜、三代、金子、としてみてはいかがでしょう? 素敵でしょうね? けたたましいお喋りが聞こえてくるようではありませんか? さあ、あの建物の連なりを見て? 沈んでいくようではありませんか? 暗く、陰気に、地の底へ――、人の重さに耐えかねて、黒くくすみ、滅びの時を一刻一刻待っているようではありませんか? なんて美しいんでしょうね、あの滅びゆく悲しさは? 悲哀の歌を捧げようと思います――ラ、ラ、ラ♪」俺は元気に笑い、はしゃぐレーエの動きを目で楽しんでいた。確かに、今では全ての物事がガラリと変わったように思える。空はこんなに美しいとは知らなかったし、人が建てたこの建築物群を非常にみすぼらしいとは今まで歩いていて気付かなかった。

 俺は新たな気持ちを抱いていた。全てレーエの言葉に共感できる気持ちを抱いていた。俺は、つまるところ、幸せになるきっかけを得られた、ということだ。俺は何物も失うことを恐れずに立ち向かう自信が芽生えてきた。俺はこれからやって来る危難にレーエと共に立ち向かえるだろう。これから先の、未来の出来事を彼女と一緒に楽しめるであろう。豊かな気持ち、豊富な感情、それこそが、幸せの大きな源泉だったのではないか。そうではないか。

 黄昏どきが近付いてくるころ、俺は自宅へ帰り着くことができた。もう俺の帰還を待ちわびているんだろう。家からは早くも明かりが洩れ、玄関のライトは煌々としている。俺はレーエの手を取って、「おかえり」と言おうとした。そう言いかけながら、俺の指の動きは止まってしまった。彼女がとても寂しそうな顔をしていたから。俺と目が合うと、彼女はパッと微笑んだ。それでもどこか寂しそうな感じは消えなかった。俺は手を止めてまじまじとレーエのことを見つめた。

「お別れです。キダ」

 お別れ?

 お別れって……何のことだ?

「もう、あなたは『運命』の軌道に完全に戻ることができましたし、自分で軌道修正することができるほど真理の理解も進みました。もう私は消えることにします」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」

 俺は叫んだ。

「いきなりそういうのってアリか? 俺、ようやくおまえのこと、思い出せたっていうのに……どうしていきなりいなくなっちゃうんだよ!」

「私は、あなたのことを一年以上にかけて見守ってきました……その間、あなたはあなたなりに頑張って来ましたね。特に後半のあなたはとても頑張りました。苦悩が長かっただけ、得るものも大きいものです。私は、消えなくてはなりません。あなたばかりではない、他に多くの危ない人達がいますから……」

 俺たちは、元からこういう運命になっていたのだろうか? 分かり合えたとたん、別れる運命になっていたのだろうか、だったら何で頑張る必要があっただろうか。

 いや。

 いや、違うんだ。これが、運命なんだ。これが決まっていたことなんだ。俺はこれを受け入れるだけの強さを持っている……それが今ならわかる。今レーエと別れることのほうが正解なんだ。駄々をこねたって……レーエだって絶対悲しいんだ……そんなこと、わかりきっていることじゃないか、俺がレーエを困らせることで、不利益を受けるのは結局俺なんだ……。

「そんなに思い詰める必要もないですよ。私はあなたと一時繋がっていました。私の残滓をここに置いていきます。以後、私のことはいっそう見えにくくなりますし、聞きにくくなることでしょう。でも心配ありません。あなたに真実を見る目と、真実を聞き分ける耳があるのなら、私の残滓があなたを永久にサポートし続けることでしょう」

「俺は……あんたと別れることになるが、忘れ形見を残していってくれるってことなのか?」

「そうです」

 そうすると、体がふんわりと温かい空気に包まれた気がした。俺の中に優しい誰かが息づいているのが聞こえ、感じ、話しかけてくるのをはっきりと聞いた。

 それは、レーエの声だった。もう一人の、若干幼い声。それはこう言った。「私が、あなたの霊としてこれからもあなたの力になっていくことでしょう。私は運命であり、私の言葉は運命の言葉です。私のことを忘れず、愛し続け、あなたが迷いや欲望をもってその目を覆ってしまうことがなければ、私の姿を見ることができるでしょうし、言葉はもっとたくさん聞き取ることができるでしょう。そして、あなたが死んだとき、あなたのそばに私がいたのなら、あなたは永遠の命を獲得し、私とあなたは霊となって、天へ運ばれてゆくのです」

「聞こえましたか?」

 俺の目の前にいるレーエが微笑みかけた。

 俺は、頷いた。

「霊になるって? あんたみたいに? 俺が? この俺が」

「そのとおりです」

 途方もないことだった。死ぬったって、それはずっと先かもしれないし、あるいはもう少し先なだけかもしれない。そいつはわからないが……レーエと俺が同じ存在になるなんて想像もつかなかった。

 でも、嬉しかった。死んじまった後、またレーエと再会できる可能性があるだなんて。しかも今度は永遠だ。俺は、今までの殻を脱ぎ捨てて、ずっと忠実であり続けることだろう。運命に対して。運命とは、俺の友人のことであり、俺のことを導いてくれるものだ。

 俺を不幸にするのは、俺自身だ。そして、幸福にするのも俺自身だ。金とか、名誉とか、権力ってのは、それを彩る飾りでしかない。俺たちってのは、それがわかると、わからないとでは、人生のつらさがだいぶ違う。どこかに自分の求めるものを求めて彷徨っている人間は数多くいる。自分で傷付けて、自分で哀れんで、自分で自分を欺いて、そうして、たえず苦しんでいる姿をこの世界では多く見かけることができる。かつては、俺もその内の一人だったのだから。でも、今は違う。見る目を持って、聞く耳を持っていれば、運命に出会うことができる。運命は俺たちを時には叱咤しながら、そして時には慰めながら、温かく見守りながら、俺たちを導いてくれる。それはどこにって? ほんとうのしあわせが、どこにあるかって、それを教えてくれるんだ。じょじょに、ね。ときどき俺たちをつまづかせながら、失敗と反逆を隣で見て笑いながら、つまづいたときは手を貸してやって、こちらが反省したときには姉のような顔になって、頭を撫でてやりながら、また明日がんばろうって。

 俺は、レーエにはその日を境に会えなくなった。だけど、その存在自体が消えてしまったわけではなかった。レーエが「残滓」と呼んでいたレーエの影のような霊が俺の体に憑依しているような感じで、そいつがいろいろと指示を出してくれた。もちろん、レーエの影がまったく見えなくなってしまったこともあった。レーエの影の存在はひどく朧気で、レーエの実体があった頃よりもその存在はとても儚かった。そのせいで俺はそいつのことを一生懸命可愛がってやらなければならなかった。もちろん役割はレーエとほとんど同じだから、言うことやなすことは威厳に満ちているが、愛情に飢えているのは俺たち以上だった。そのために俺はことあるごとにそいつに話しかけてやらねばならなかったのだが、朝早く起きて「おはよう」と言う時は、相手もおはようと言う、そんな簡単なやり取りに俺はだんだん愛情と救いを感じるようになってきた。とても自然に。俺が仕事で失敗して上司の悪口を言っているときにたしなめてくれたり、母さんが病気になったときに不安がる俺を根気強く慰めてくれたりしたとき、俺はどれだけこいつを大事に思ったかしれない。

 俺は結局、運命論者だということを、誰にも話していない。二宮鏡子にもだ。話したってどうにかなるもんじゃないし、話すときと相手は、やがて来る。と、レーエの影が言っているし。それは誰になるかわからない。けど、二宮鏡子だろうとそこいらの夢見がちな子供だろうと、それで慰められるのは俺じゃないか、という気がする。もしかしたら、俺が慰められるんじゃなく、人をその言葉で慰められるようになるまで、レーエは待たせているのかもしれない。レーエは、人を幸せにすることができなければ、人をどうにかするように思うのはやめた方がいいという重大な秘密を教えてくれた。俺はただ、人に親切にし、人の痛みを分かちあってやり、警句を吐くことはめったになかった。ただ、自分でもこの人を助けられると完全に思ったときだけ、口で言ったり、手紙で文章にしたりして、レーエに許可をもらいながらやっている。とにかく、レーエの影がついてから、はっきりと分かったことが、人間はいつだって間違うものだ、ということだ。間違いがないのはレーエの言葉のみであり、偉い人間が偉い顔でどんな警句を発したところで、その確かさはレーエ以上ではないのだ。俺は、間違いを許せるようになった。確実なことなんて、この世には一つもない。それぞれ、犬猫や霊の助けを得ながら、自分は人間だという思いに救われて、なんとかやっている。俺たちは運命に縛られてはいない。運命と友達になるか、運命をひどい目に遭わせて、自分で自分を縛ってしまうかのどちらかだ。運命は泣き虫で赤ん坊みたいだ。自分を可愛がってくれる人間には絶対の信頼を寄せるし、自分を好きにならない人間はとことん痛めつける。でも、これほど純情な存在もまたないと思う。

 そうだ、神崎さんのことなんだが。驚くべきことに、神崎さんはこの前結婚した。結婚。あの夏以来、一番彼女に似合わない言葉だと思っていた。彼女は孤高で誰の手にも落ちないと思っていたのだが、ついに手に入れた男がいた。俺の……親友の、才賀義時だ。

 あの大男がどうやって神崎さんと仲良くなったのか、俺にはわからない。でも、神崎さんの顔を見ていると、どこか神様に似ている、無限の幸福感を見て取ることができる。実は、義時からは、一度神崎さんと別れたという話を聞いたことがあった。その時まで、俺は神崎さんとこいつが付き合っているだなんて夢にも思わなかったわけだが(俺は俺自身のことで手一杯だった)、神崎さんはヨーロッパに一旦戻ることになっていたから、それに関連してのことだろうと思っていた。だから日本に戻ってきてこうなるとは非常に驚きだった。後から聞いたところによると、神崎さんはずっと義時のことを想っていたのだという。一度別れた理由についても、無理に関係を維持しようとして関係がかえって壊れるより、一度関係をリセットしてしまった方が二人の気持ち的に楽だったからだということだ。なにはともあれ、かつて好きだった子がこうなるのはなんとも寂しいものである。

 俺は俺で、その後も頑張っている。勝負に負けたり、仕事で失敗したりしながら、二宮鏡子と仲良くやっている。それで十分なのだと思う。しあわせというのは、どこにでもあった。あれから俺は非常に二宮鏡子と仲良くなった。俺から告白し直したのだ。何にでも許せる気持ちになり、空虚な不満感は消え去った。それは何かを求める気持ちであり、探しても見つからないところを延々と探し続けるからこそ生まれる得体の知れない疲労感のことなのだ。落ち着いて、見る目を持ち合わせれば、状況は何も変化しなくたって、しあわせになれるのだ。おそろしい苦悩が付きまとうが、その嵐を抜けきってしまえば、後は綺麗な優しい蒼い空が待っている。二宮鏡子とはうまくいっている。俺はどうやら不健全で不完全な人間だったようだ。でもそれをどうにか変えていく二人の優しくて生き生きとした日々ほど、うれしい、幸福な日々を、俺はまだ知らない。レーエの昔もこんなふうだったのかな。幸福な日々は続いていく。なぜなら、幸福な日々はレーエが作り出してくれるからだ。俺は、――いや私は、これからも、じょじょにだが、歳を取って、また白髪も増えるだろうが、誰よりも、幸福であって、またテーブルで食事を取るように、また書斎で本を読むように、残された青春時代を見て楽しむことを、堂々と楽しむことだろう。これからの輝くべき未来を、そしてレーエとやがて再会する時を、かつての少年時代と同じように純粋な期待感をもって待ち望んでいることに本当の、尽きることのない幸福感、静かな幸福感をもって、私は目を閉じるのだ。目を閉じるのだ。

 

 

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