11

 空虚な日々だった。何も得るものがなく、何も生み出すことがなかった。怠惰な暮らしをして、それでいてただ、日にちを潰していくことだけが生きがいのように無為に過ごしていた。とは言うものの、あのころの俺はそれすらにも気が付いていなかった。

 何か重大なものを失ったと同時に、何かじれったい鎖から解放されたような解放感を覚え、俺は何でもやってみたい欲求に駆られていた。

 ひとまずは二宮鏡子と付き合ってみることだった。これは、最初は楽しかった。本当に何から何まで楽しく思え、目に映るもの全てが、美しく思えた。彼女がいるだけで、世の中全部が許せるような気がした。それからは勉学だった。彼女がいる間は女の子の背中を追っかけることはしないで済んだので、俺は余った時間を自己錬磨に当てた。難しい計算を解けると、手強い中ボスをゲームの中で倒した感じになって、気分がよかった。テストでいい点取るのも、自分の力の証明になる気がして、とっても気持ちがよかった。俺はもっともっと難しい知識を手に入れたく、図書館に行って誰も読まなさそうな難しい本を読んだ。それですっかり文学や哲学のことも詳しくなった。と言ったって、かろうじて高校生の間では比較的に、だったが……。

 でも時折、「本当の満足」というものを考えざるを得なくなるようなセンチメンタルな気分におちいることがあった。

 夏目漱石や太宰治はいったいどういう考えをこれに関して持っていたんだろう。俺は、難しい本を読破したところで、肝心のそれが掴み取れなかった。

 それは、ただ読んでいるだけで、理解していなかったからだ。と、今なら言える。でもとにかく俺は、その「答え」を探したかった。なぜだろうか? 俺はその「答えを探すこと」自体が、なぜかおそろしい気がして、そういうセンチメンタルで孤独な気分になると、決まって二宮鏡子に連絡した。ただ「好き」だと言い合うだけで、心が落ち着いた。それは何ら意味はこもってなく(彼女はどうだったか知らないが……多分本当の愛情というものを彼女はすでに知っていた)、少なくとも俺にとっては、心を落ち着ける呪文のようなものだった。そうして俺はそういうことを考えること、つまり、自分に向き合うことを、二宮鏡子を盾にしていつも逃げていた。そこに「答え」があったというのに。自分自身に向き合うことに、「答え」も「強さ」も「正しさ」もあったのに。

 でも俺はそうする度に、暗示される自分の罪と向かい合わなくてはならなかった。だから俺は非常に恐れていた。自分を苦しめているのは「自分」だと、そのころはわかっていなかった。自分で自分を苦しめて、自分で自分を傷付け、自分で自分を哀れみ、人はそうやって堕落していく。まさに当時の俺はそんな感じだった。そうして二宮鏡子という彼女と、勉学における恍惚感に身を任せ、見るべきものから目を背けるという大間違いを犯していた。そのおかげで俺は、端から見れば、たいそう幸せな高校生活を送れているように思われただろうか、実質は惨めなものだった。

 でも、結局は、誤魔化すことも限界になった。二宮鏡子がいても、――「本当の満足感」という、心の奥底にあるもの、それが、なんなのか、まだわからずにいるが……それはちょうど喉に引っかかった魚の小骨のようなものだったかもしれない――俺は孤独になった気分で、何かが欠乏している、という気持ちをぬぐい取ることができなくなった。それは、「本当の満足」と関連しているものと思えた。俺は、結局、自分で手に入れた、二宮鏡子という優しく、気立てが良く、また素直で、それでいて美しい彼女と、知識や先生からの評価、バイトで買ったブランドの服や財布、そうしたもろもろの物から来る男子生徒からの羨望の眼差し、これらのものを所有しているにしても、結局はこの様だ、つまり、やはり孤独で、不満足な結果になったのだといやいや認めるしかできなくなった。もちろん楽しいことは山ほどあった。中でも二宮鏡子のことは一番だった。休みの日は待ち遠しかった。喧嘩なんてほとんどしたことがなく、俺たちは世界で一番お似合いなカップルだとどれだけ謙遜してもそう思った。だけど、それは、俺が思うに、満足には繋がらない、この心の隙間を埋めるにはまだ足りない、そしてそれを埋めるには、たとえ億万長者になったところで、そしてたとえ二宮鏡子と結婚して子供が産まれたところでも、まだ足りないのだと、そう直感してもたいした間違いではない、ということなのだ。

 俺は、つまるところ、辛かった。

 学校は楽しいし、好きな彼女もいるし、成績がいいから先生受けもいい。輝かしい未来と誇りある現在。それが両手の中にある。なのに、理由のない孤独感があった。やりきれない辛さがあった。それがなんなのか、わからずにいた俺は、やがて快楽や勤勉など誤魔化せなくなったとき、二宮鏡子に打ち明けた。

「別れよう」と。

 二宮鏡子はたいそう泣いてしまった。泣かせてしまったことを悔やみながら、また、自分もどういうわけかものすごく悲しくて、一緒に泣いてしまった。

「別れる意味がわからない」と言った。

 俺だってそうだった。なぜ、こんな形のない苦しみが続くのか理解できなかったし、こんなことを自分から切り出すのははなはだ嫌なことであった。

 俺は泣いている彼女に向かって言った。

「自分だって嫌だよ。どうせなら、ずっとこのままでいたいと思う。でも、君にわかるかな、俺は、……なんだか苦しいんだ。人にこんなことわかるわけないと思うから、君だけにしか言わないんだけど、俺、幸せだと思うんだ、君みたいな可愛い彼女がいて、勉強もできてさ、父さんと妹はいなくなっちまったけど、母さんはまだいるし、学校の先生も俺に一目置いてるし、母さんとはかなり仲がいい、マザコンとかとは違うけどさ、その、さ、普通に仲がいいんだ」

 二宮鏡子は普通に頷いてくれた。このへんは理解してくれる。だてに一年いっしょに居たわけじゃない。

「でも俺……ときどき、自分じゃわけのわからない不安に取り憑かれることがあるんだ。こんなこと言ったってわけわからないよな。……難しいんだ。かなり難しい。自分でも正確に言えるかどうかわからない。けど、聞いてくれるかな?」

 また二宮鏡子は頷いた。まるで親の言うことを聞く子供みたいに。

「ありがとう」

 こんなに熱心に話したのは、一年以上無かったかもしれない。つまり、付き合ってから一度もなかったことだ。俺は、二宮鏡子とはなるべく真剣な話は避けていた。避けようと思っていたのは俺だ。ただなんとなく生きて、逃げられるもんならずっと逃げていたかったからだ。

「俺……今、不安があるんだ。君についてじゃない。最高の人だと思うし、進路のことでもない。俺は何か、まだ完全じゃないんだ。完全って……何だろな。俺もよくわからないんだ。でもこの言葉がしっくり来る気がする……俺は、何か足りないものがあると思うんだ。それは自分のことかもしれないし、将来のことかもしれない。現在のことかもしれない。でも少なくとも君のことじゃない。足りないものは何だかわからない。でも、時々こうしててやりきれなくなるときがあるんだよ。幸せの要素がこんなにいっぱい詰まってるのにさ」

「わからない気もしますし、わかる気もします」

「気付いてた?」

「気付いていました……でも、気付きたくなかったというか……あえて知らない振りをしてました……コウ君がいなくなっちゃうような気がして……だって、そういうときのコウ君、すごく大人っぽい、さびしい顔をしているんだもの。私だってわかるよ、それは。人って周りの物じゃ幸せにならないの。自分から幸せにならなきゃ、周りの物はいつだって刃向かってくるだけだもの」

 俺は目が覚めた気がした。

「すごいな。鏡子ちゃん。そんなこと考えていたの?」

「高校生だって馬鹿にしてる?」

 二宮鏡子は涙を流しながら笑うという、俺にとって胸の痛くなる笑い方をした。でもそういうユーモアのある皮肉は、聡明な彼女のごく自然体の言い方だった。

「コウ君のほうがずっと大人っぽいよ……大学生みたく見えるから。私が言いたいこと、わかるでしょ?」

「ああ、よくわかるよ」

 俺は初めて、自分の気持ちに向き合うという、つまり、笑ってやり過ごさない、物事をきちんと受け止めて、真面目に検討するということをやった。

 自分から幸せになる――ということが、いったいどういうことだか、まだわからないが、俺は、どれだけ外見の幸せの要素が揃っていても、幸せにはならないという謎の答えを彼女から教わった気がする。

 やっぱり足りないものというのは、自分自身に合ったのだ。

「やっぱり俺、探さなくちゃならない。何か足らないもの――それが何なのか――それを見つけてこなくちゃ、俺は、君の前に立っていられない。不満足な気持ちで君と付き合って、君を傷付けたくないんだ」

「傷付いてなんかいませんよ。だから、別れると言うのはやめてください」

「そいつは――……もうちょい検討したいな。俺は白状すれば、君のことを……その……利用していたんだと思う。俺は……ちょうど一年前くらいからだったかな。君と付き合うことになったちょっと前、何か大事なものを失くしたんだ……。それ以来、俺は何だかわけがわからなくなって、寂しさでやりきれなくなった。だから君のことを利用していたんだと思う。もちろん……ここに来て後悔しているとか、そういう……馬鹿みたいなことを言うつもりはないよ……でも、君に申し訳なかったんだ……俺は多分、君と同じように君に尽くしはしてこなかったと思う。君のことが嫌いなわけはないよ……むしろ、君のことを大事に大事に思っているんだよ……でもだからこそ、俺は、自分に足りないものを物で誤魔化そうとしたときに、君を同時に利用したことを恥ずかしく思っているんだよ……俺の言っていること、わかるかな?」

「はい。多分……正しく理解できたと思います」

 彼女はもう泣いていなかった。もちろん目は腫れて、まだ赤かったが……だけどいつものような落ち着いた眼差しを取り戻していた。

「私も……甘えていたかもしれません。あなたに。でも決して好きじゃなかったことなんてないですよ。利用していたというのは、心の支えにしていた、ということですよね?」

 俺は頷いた。もっと良い言葉に翻訳してもらったという感じだった。もっとも、その言葉を思いついていても、甘ったれくさくて俺からは言わなかっただろうが。

 とにかく俺は、うまい解決策を見つけ出せそうだと思った。

「あの……私たち、別れる必要はないんじゃないでしょうか。だって、どちらとも好きでいるんですもん」

 確かにそれはそうだった。むきになる必要はなかった。

「ただ……距離を取ればいいんだと思います」

 俺はそれに賛成した。とにかく、俺は答えを見つけたかった。そのためには、まず色々考えなくちゃならなかった。

「私が一緒にいることで、コウ君の考えることに役に立てないなら、私、距離を取るのも我慢します……」

「今までみたいに一緒にいられはしないと思う。俺は、情けないやつで、君に甘えていたんだと思う。それが今はっきりとわかったよ。……出直したいんだ。必ず、帰ってくるから」

「約束です」

 俺と彼女は指切りを交わした。

 ファミレスを出て、「送ってくよ」彼女の家まで送っていった。また今度のデートの約束は、結局、俺からすることにした。俺のメールが行くまでは、彼女は我慢することになる。

 彼女の家の玄関の扉が閉じられると、俺はスケジュールを確認した。明日から夏休み……。

 俺は旅の計画を立てた。彼女を連れて行くわけじゃない、一人で旅をしたかった。

 自分探し、という言葉は好きじゃなかったが、俺は実質、そういう旅をしなければならないと思った。ここじゃあんまりに俺を知っている人が多いから……。どこか遠くへ行こう。どこか知らない土地へ行こう。自分を捜しに出かけるんだ。なくした物を探しに、ここじゃない、どこかへ。

 幸いに、バイトで稼いだお金はあった。最近辞めたのもおあつらえ向きだった。俺は帰宅してから荷物をまとめた。

 自慢のアイポッドと、着替え数着、そして住所と母さんの電話番号をメモした紙だった。これなら俺でもホテルに泊まることができるはずだ。明日、俺はでかい駅に行って、新幹線に乗る。まずは東京へ行くんだ。ずっと行ってみたかった東京へ。

 ずいぶん長い旅になりそうだった。

 本題は、俺がなくした物を探すことだった。

 それには、色々なことを考えなくちゃならない。幸せとは、何なんだろう。俺の渇望しているものとは? わからなくちゃならないものが多すぎるくらいなのに、俺はなにも知らない、年齢が低すぎるから、って、言い訳にしていた……人はこうやってダメな物分かりのよくない大人になっていくのかもしれないな。

 次の日俺は、東京にいた。新幹線に乗ったら、昼ごろにはもう着いてしまった。一人で東京に来たんだ……俺は東京駅から一歩出て、途方に暮れてしまった。道が広すぎて、どこを歩けばいいのかわからない。ショッピング施設なんだろうか、オフィスビルなんだかよくわからないところにスーツ姿の大人たちが出たり入ったりしている。ヨーロッパみたいな街だ。行ったり来たりするのは高そうな車ばかりで、俺のような田舎者が来るところではなかったかもしれないと本気で後悔しだした。俺は駅の中に戻って喫茶店に入った。そこでコーヒーを注文してから大急ぎで携帯をいじり、この近辺に本屋がないか確認した。丸善があったがとんでもない広さに俺は度肝を抜かれた。そこで観光雑誌を手に取り、ぱらぱらとめくり、この雑誌は買うしかないと結構高いのも我慢して購入した。俺はそいつをベンチに座ってむさぼり読みした。これで色々わかったことがある。東京駅というのは東京の中心にあって、中心は渋谷や新宿ではないということだ。渋谷は結構離れたところにあって、電車で二十分くらいかかる。

 暑いのもあって、俺はぐったりとしてしまった。はやくホテルに行きたい……と言っても、予約を入れたところはチェックインが十六時からになっている。今はまだ十二時。まだまだ時間はかかる。俺はもう一度喫茶店に戻って、今度はアイスティーを頼んで、シートにもたれ掛かりながら、眠ってしまった。

 東京に来て、いったいなにが考えられると思ったんだろう。俺はそのとき、動物になる夢を見た。動物になると言って、リスになるとか、猫になるとかと言わないのは、俺は色々な動物になることができたからだ。そして動物の様々な営みを体験することができた。俺は何を彼らについて知っていたんだろう。何も知らなかった。鳥がどのように啼くか、亀がどのような考えを持っているのか、犬がいつもどんな気持ちで主人の足元に休らうのか。彼らは死に、生まれ、を繰り返している。ひょんなうちに、俺たち人間もみんなと同じ、簡単に死に、簡単に産まれ、を繰り返しているのだと思うようになった。俺は目を覚まし、アイスティーを飲みながら色々なことを考えた。そうだ、人間は何故こんなにも数が多いんだろう。そうして、人間はこんなにも発展しているのに、人ひとりの幸せの形が分かっていなかったりする。鳥の幸せは簡単だ。幸せを感じていない鳥などいないのだ。幸せを感じていない動物などいなかった。人間を除いては。その違いは何なのだろう、と思った。俺はまだ考えが足りないのだと思って、無理に煎じつめるのはよそうと考えた。

 東京には二、三日いただけだった。適当に観光地を回って、それですぐ出てきた。東京って言ったって何も楽しくない、人が多いだけで、見るものは何もない。そんな気がした。

 それから俺は関西へ行った。京都のお寺や神社を巡って、それなりに楽しんだ。ただものすごい暑さで死にそうだった。京都の夏は異常に暑いということがわかった。それからどんどん西へ、西へ、と旅をしていった。その旅先の地で、色々観光するより、列車の旅のほうが印象的だった。俺は、途中から、新幹線をよして列車に切り替えた。新幹線は移動が速いが、ただそれだけだった。後は、俺は観光地よりも実際にそこに住む人の顔を見たかった。西へ行くたびに、だんだんと人の表情が豊かになっていくのは面白かった。俺は旅館のおかみさんと仲良くなり、色んな話をした。東京のことを話すと、おかみさんは一度東京の東京タワーに上ってみたいとぼやいていた。

 俺は、列車での旅がもっとも印象的だったと、さきほども言ったが、それは、歩いているよりも、ただ座って流れゆく景色を眺めているほうが心が落ち着いたからだ。落ち着いて考えれば、それだけ俺は答えに近付くことができた。

 だんだんわかってきたのは、答えなど、存在しないということだった。人の幸せの形など無数にあり、どれも、素晴らしいということだった。人のために生きている人たちの「幸せ」という言葉が一番しっくりと来た。でも俺の求める幸せの形はそのどれとも違っていた。外見や、生き方の話ではないのだ。そうして、答えは、それぞれの「幸せ」がそれぞれの形としてあるように、俺の中にしかなかったのだ。俺は自分と向き合う必要性というのをまざまざと感じさせられた。

 俺は、いったい何を、あのときなくしたのか。それを思い出せないのだ。ただ、とても大切なものを――それは俺を導いてくれる何かだった――なくしたのだった。指標のようなものだったのだろうか。とにかく俺は、俺なりに、この一年間生きてみた。そうして今ならわかる。自分のやりたいように、自分で行動し、自分で決めて、自分で責任を持つ、それが、いかに傷付きやすい、もろく、また、移ろいやすい、不安定な道なのかを。

 俺は、人間の選択というものをはなはだ信用しきれなくなっていた。

 それが決して正しい道を行くということは、ない。決して、ない。どこか不安定なのだ。どのみち、やがては壊れるのだ。人造の物がいつか消滅する運命にあるように。そして、そんなふうに粋がって見せた厚顔な人間の行き着く先は、ひどく惨めな場所だ。そのとき人は自分一人で生きているのではないと知る。人との間で生きるようになる。だから、「人間」というのかもしれない。

 でも俺は、それが本当の真実でないことを知っていた。人は結局のところ一人なのだ。独自の世界を構築するので、本当の意味では人との間では生きられない。本当の意味で生きるとは、人と付き合いながら、独自の世界を作っていくということで、これが「人間」の先の真実。人とくっついてばかりいるのが人間じゃない。人と付き合いながら、俺は俺でいる、俺はその中に色々な人の記憶を持っている、けれど、核は俺で、俺は俺の命令によって動いていく。俺は俺だ。俺以外の何者でもない。これが「真実」だ。

 真実の重みを知った俺は、しばらくの間頭痛が止まなかった。そういう時、俺はたいてい図書館に行っていた。ここなら静かだし、暑くもないから。

 俺はそれから九州の方へ行った。福岡で、ただなんとなく、旅はここで終わりのような気がした。もう見る物はない。見る物はまだあったかもしれないけど、俺の頭が、これ以上は受け入れられなかった。俺は、休息を必要としていた。

 それから名古屋にまで戻って、そこの旅館で2、3日ゆっくりした。

 俺はそこで、「運命」というものに考えが行き当たった。なぜ、そうなったのだろう。俺はちょうど自分がなくした物のことを考えていた。すると、ふっと「運命」の文字が目の前に出てきた。

「運命」とは、結局なんなのだ。一年生の時、生意気にもそんなことを真面目に考えていた気もするが、まったくわからなかった。

「運命」とは、人の一生を決めちまっているものだ。窮屈さを感じるのは人の本性だろう。

「自由」という言葉が持ち上がってきた。俺は、しかし、この言葉が持つ魔力にはだまされなかった。自由という言葉は、きっと、もっと重くて、日頃俺たちが使っている言葉とは本当の意味は違うんだ。「自由」と俺は口を開いた。「自由。……自由じゃない、俺たちは」俺は、そう思った。

 なにからか。それは、「自分」からだ。

 俺は、何かを失ってから――それは一年前くらいから――自由に振る舞ってきた。正確に言えば、そんな気がした。自分の鎖が断ち切られた、色々文句言う奴がいなくなった、だから自分で色々考えて、自分で正しいと思うことを思いっきりやっていった。

 最初は「自由」だと思っていた。でも、だんだん「自分に飼われている」という気が、してきた。それは止めどなかった。考える俺に、本当の自分が、飼われている。本当の自分は、そこで泣いていた。一人、うずくまって。……俺は、ようやく、もう一人の俺の姿に気が付き、勝手に振る舞うのをやめた気がする。その子は立ち上がって、俺を疑惑の眼差しで見た。まだ、信用されていないのだ。俺は「自由」の何たるかがまだ、わかっていない。俺はまだ、何も、わかっちゃいない。ソクラテスは「俺は何も知らないことを知っている」と言ったが、それがよくわかる気がした。

 旅はまだ続いた。帰りの旅だ。俺は、ようやく東京に戻ってきた。東京で一泊していくことにした。今度の東京は、前よりも勝手がわかっている感じだった。「自由」とは何なのか。自分で好き勝手やることじゃない。

 じゃあ「運命」とは? その答えが、全部の「答え」に繋がっている気がする……。

 運命とは何で存在する? 一体誰が作ったというんだ? 人間を管理するため……偉大な計画のため? 

 一体誰が作った? ……神様じゃないのか?

 馬鹿馬鹿しい。神様なんてゲームの中の世界のことだろ。現実にそんなのいるわけがない。でも、もし本当に、神様が、いたとして……そうか。神様は、一体何のために運命を、俺たちに作ったんだろう。

 一体何を管理する? 人類の発展?

 発展?

 ……。

 ……誰かを、思い出した気がした。

 昔、誰かに、そんなことを教わったような気がする。

 神様は何故、運命を作った?

 運命というものがもしあるのなら、運命は人類を作ったということにならないか? だって運命が全ての運行を知っているというのなら、運命は人が生まれるように物事を動かしたということになる。運命は神様が作ったというのなら、彼の意識を反映していないのはおかしいから、神様は人間を作ったということになる。

 ……?

 だめだ。これ以上は。

 俺の頭ではパンクする。俺の頭は人間以上のことを考えるようにはできていない。俺は、ここで限界なのだ。結局、何なのかわからなかった。運命は神様のようなものだ。俺は口ずさんだ。

 俺は東京駅から出る新幹線に乗り、窓辺に腰かけて、結局なにか得た物はあるのだろうかと思った。旅の期間は大体2週間くらいだったが、俺はたいして何も大きなことを掴んでないような気がした。ただ考えるだけ考えて、俺は闘った、逃げなかった、という気持ちのいいスッキリした思いがあった。

 俺は、逃げるのをやめた。今わからないのなら、わかるようになるまで待とう。そんな思いでいた。でも、何を失ったのか、それがわからない悲しさというか、残念な感じはあった。取り戻したかった。かけがえのないものを失った。そうして、それを失った寂しさにもじょじょに耐えられる強さを手に入れることが出来てきて、よく物が考えられるようにもなってきた。真実は、霊が持っている。俺は、そう口を開いた。それが何なのか、意味を解するまでいかず、俺はただ涙を流し、その失ったものに対する後悔と失うことのない愛情を持っていたことに気が付いた。今ならわかる、俺はただもう一度取り戻したいのだ。でも、もう二度と手に入れることができないということを、俺は理由もなく理解できている。それは不思議な感情だった。後悔と満足感が一緒にあった。俺は不思議な愉悦を抱いていた。ただそれでも寂しかった。ただそれでも泣くことはしなくなった。涙もすぐやむ。俺はその、なくした物がなんだったのか、少しわかった気がした。

 俺は、母さんに連絡を入れた。明日、帰るから。母さんは「うん。待ってる」と言った。母さんは何も言わない。俺に余計な口出しはしない。母さんもどっちかというと俺寄りの悩みやすいタイプだから、そういう息子が悩んでいるとき、どう接したらいいのか心得ているのだと思う。

 俺はちょっと近くの街によってビジネスホテルの一室を借りた。だいぶ旅慣れてきて、洗濯も、金の使い方も理想的になってきた。俺はベッドに潜って、枕元の明かりを一つ点けて、『アンナ・カレーニナ』を読んでいた。

 俺は幸福という言葉の意味をかなり履き違えていたのかもしれない。俺は今、つらくて、悲しくて、やりきれない思いをしている。自由、の先にあったものはこの三つだ。つらさ、悲しさ、やりきれなさ。それは俺が幸福になるための資質を持っていなかったからだと思う。真実の幸福を抱いている人は、外見じゃわからない。いや、わかる人にはわかるのだ。想像力があって、誰かを愛していて、自分を制することができて、人のために自分を犠牲にできる人。そんな人は幸せになるためには金も地位も権力も関係ない。そして人のために死ぬことが、幸せの絶頂だったりする。彼は、俺たちとは決定的に何かが違う。想像力とか、愛とか、身に付けるっつったって無駄なんだ。俺たちは、本当の幸福に一切近付けないと思う。俺は、突然、それを理解した。そうしてあたかも人生の敗北者のような惨めな気持ちで、ベッドの枕元の明かりを消した。

 俺は、暗がりの中で、自分の失ったものへの愛情を口にした。言葉にならない叫びだったと思う。泣いた。泣きまくった。名前がわからないので、ただ愛情を口にして、虚空に呼びかけるだけだった。まるで赤ん坊みたいに。苦しくて、悲しすぎて、惨めだった。翌朝、洗面所に向かうと自分がひどい浮浪者みたいな顔をしているのにやや驚いた。でも、元気にびっくりするのも虚しい気がした。なので、浮浪者みたいな、やや皮肉げな、気味の悪い笑みになってしまった。こんな顔を見たら鏡子は何て言うだろう。俺は、顔を洗って、目を覚ました。はっきりとした思考が戻って来る。不思議と充実感が湧いてきた。惨めだったが、俺は惨めであることに、愛情を覚えてきた。負け組でもいいじゃないか。幸せじゃなくたって、俺なりの真実を探し出せたんだ、幸せになる努力をすることはなんら悪くないじゃないか。元気を出そう。元気を出して、堂々と帰ろう。俺はもう、昔の俺じゃない。変わったんだ。色々なことを、前にもっと知らなくちゃならなかったことを、ずっと避け続けていたことを、知ったんだ。俺はどれだけ惨めになろうとも、そこの核の部分、枯れ果てた、表面の奥に、真っ青な泉のように清冽な輝きを誇る、自信、というものを得ることができた。それだけは笑顔で誇っていいものなんだ。

 俺は、ホテルをチェックアウトして、帰途につく前に、色々寄り道をした。デパートに行って、本を読んだり、お茶したりした。友達とたまにこっちの方に遊びに来たりするが、こうして一人でぶらぶらするのは初めてだった。天気はよく、空気も綺麗だった。夏にしては湿気が少なく、日差しもどこか穏やかで、群青色の空に浮かんでいる気球船のような雲を、おだやかに見られる日だった。駅前のデパート広場には小さな子を連れた母親たちが集まって何か話したり、鳥に餌をやったりしていた。俺はコンビニで買ったパンを食べて、牛乳でそれを流し込んだ。昼飯を食べ終わり、俺は帰途につく前に、近くの川に寄っていくことにした。川にたどり着くと、俺は急に開けた四方に感じがせいせいとした。広大な世界にほっぽり出されたような、そんな気がした。そこは広い河川敷があり、家々や電線は途切れていて、空が一面青々と広がっていた。俺はそこの草っ原に寝っ転がって、青い空を見上げた。太陽がまぶしかった。俺はとんでもなく広大な世界に一人ぽつんと取り残されたような気がした。実際周りに人は全然いなかった。人は、こうして時折日向ぼっこすることすら忘れ、あくせく移動し、骨折っている。俺は、真っ向から射してくる太陽、うるさい蝉の声、踊るような鳥の歌声に、自分が何者なのか、教えられているような気がした。急に何だか色々わかってきた。運命とは? 真実の幸福の形とは? そして――……俺がいつか失ったものとは?

 蒲公英が風に揺れている。俺はあくびをした。急にしたくなったのだ。目をこすり、頭の後ろで腕を合わせて、瞼を閉じた。ほんのりと口元が緩くなる。ああ、こういうことだったのだ。ああ、今、ようやく、理解した。穏やかな気持ちだ。風が心地いい。心の毒がすっかり洗われていくような、全てを許され、包まれていくような、子供に返ったような満足感、俺は何も失っちゃいなかった。それは、ここにあった。全ての答えが、ここにあったんだ。

「なあ?」

 返ってくる答えがあった。

 それは、俺が一番尊敬し、一番魅力を感じ、一番親しみを感じていた、あの鳥が啼くような、美しく、優しく、風に乗って舞うような、温かい声だった。

「はい。ようやく、気付いてくれましたね。キダ」

 終幕

inserted by FC2 system