10

 海に着いたとき、軽い揺さぶりによって起こされた。俺は起きたとき、近くに神崎さんの気配を感じたが、レーエだった。

「レーエ。悪い」

 レーエは、いいえ。と微笑んだ。

 海に着いたことをそこで初めて知った。車内を見回すと、人はもう誰もいなかった。ひどいな、みんな。俺を置き去りにするなんて。レーエにどんな様子だったか尋ねようと思って、彼女の方を振り向くと、予想に反してぶつかった体があった。やたら近くに顔があって、その顔はびっくりしていた。そしてレーエが絶対しないような慌てた表情を浮かべ、顔を赤くして飛び退いた。

「あわわっ」

 口を開いて向かいのドアまで逃げたのは、よく見たら二宮鏡子だった。

 いったいどういうことだろう。と、頭を整理したらすぐに物事の事実がはっきりと掴めた。そうか、俺寝ぼけてたんだ。起こしたのはレーエじゃなかったのか。

「き、――き、――木田君! いきなりなにを!」

「す、すまん! ちょっと寝ぼけてただけなんだ! 許してくれ。な? ジュースおごるからさ」

 二宮鏡子はまだびっくりしていたようだったが、俺が反対側から外に出て、海に感激した声を上げていると、また俺と反対側のドアからのそのそと這って出てきた。

「気持ちいいな! あっちー!」

「皆さん、もう行かれたようです。海、綺麗ですね……」

「起こしてもらって悪いな。みんなひどいよな。黙って行っちまうなんてよ」

「きっと気持ちよさそうに寝てたから、そっとしておいてくれたんだと思います……実は、私もさっきまで寝込んでしまって」

「え、あんたも?」

 二宮鏡子と目を見合わすと、おかしくなって笑ってしまった。二宮鏡子は帽子を被って、飛んでいきそうに風が強いのをくっと我慢した。

 風は少し強いようだが、天気はよくて、空は真っ青だった。宮殿のような雲がのっそりと宙に浮かんでいて、真夏の空に彩りを与えていた。

 しばらくすると、神崎さんの叔父さんが車に戻ってきて、目覚めたか? と気のいい挨拶をしてくれた。思えば、この人と挨拶するのも初めてだった気がした俺は、しどろもどろになりながらも運転のお礼と、今日一日の付き添いに感謝する旨を告げた。彼は驚いて、今時そんなことを言う若者がいるとは知らなかった。と大いに笑い、美琴も見習ってほしいとぼやいた。家では大変なわがまま娘らしいとか。他人を見下す傾向が強く、はやく日本から帰りたがっている、とか、そんなことを色々聞いた。大人の愚痴も半分混ざっていたが、俺はよくある家庭の事情だろうとあまり顧みなかった。神崎さんは神崎さんで、俺の目指す姿には何の障害もなかったからだ。彼女の本来の姿なら、確かに日本は野暮ったすぎるし、狭くて居心地も悪いかもしれない。でも自分は、この時には物事の何もわかっていなかったし、後日こう思ったことを俺は深く恥じ入ることになった。

 俺は先に海ではしゃいでいる男子二名をよそに、とっとと義時と水着に着替えてしまい、パラソルやシートの用意までした。俺たちが飲み物を買ってきてやったその間に、他の連中はあらかた着替え終えていて、みんなその飲み物を飲んだ。それからめいめい、海へ飛び込んで行った。

 神崎さんの水着姿はやはり見事だった。モデルほど完璧に引き締まってはいないものの、体つきはどこか日本人離れしているように感じられた。生まれつきの気品なのだろうか、肌のきめ細やかさから、動作、手つき、ポーズ、水着のセンスまで、日本人と何か違うぞ、というところが多く見受けられた。彼女はどんなに男性の心を魅了してもまだ足りないように思えた。自分もその虜になってしまうことが、あまりにも光栄で、天も、砂も、潮のさざめきすらも、彼女にうっとりと目を輝かせ、彼女の一挙一動をくまなく見て取り、祝福を送っているようだった。

 俺はあんなふうな人を見たのは初めてだったので、すぐに夢中になってしまった。だけど、夢はじきに止んだ。彼女が海へ行ってしまったからで、すぐに彼女と相手となるべきらしいイケメン男子がその後に続いて、なんだか滑稽な役を演じ始めたからだった。それを見て心底楽しそうに微笑みながら、目ではもちろん相手を軽蔑していそうな彼女をかいま見てしまったからだった。確かに相手は神崎さんの相手としては不十分だし、話もつまらなさそうだった。だけど、やつが駄目なら俺も駄目だろうし、あんなふうに、彼女から軽蔑の視線で見られて、平気でいることなんて出来ないし、それにさえ、気付かずにあんなに滑稽な振る舞いを演じ続けることは、人間として死んでもやりたくはないほど恥を感じるのだった。それでも彼女は軽蔑しながらの立ち振る舞いでさえ美しかった。だけど、その瞬間から、俺はあの人に届かない、届くことのない境地に彼女はいて、俺はその美しさをまるで額縁に入れて楽しむように楽しむしか他に彼女との付き合い方がないのだと思った。

 そこからだった。神崎さんと俺との間に壁が出来たように感じたのは。望んでいたものが、望んでいたはずのものでないとわかったとき、人間はこれだけ落胆もし、また同時に、どこかほっとした気分になるのだとわかった。

 俺は夏の海の煌めきを眺めていただけだった。その隣に二宮鏡子らしき人物が現われたのも簡単には気付かなかった。

「お待たせしました」

「え……? あ、あれ? おまえ水着は?」

 二宮鏡子は体育の授業などでよく使うケープのようなバスタオルに身を包み、照る照る坊主のような格好で俺の隣に座った。

 彼女は頬を染めた。

「なんだか恥ずかしいので……」

「あのなぁ、それで泳ぐ気か?」

「そっ、そんなわけありません!」

「じゃあ、どうするの?」

「こ、心が決まるまで、このままでいます」

 この女ときたら……。

 まあ、好きにさせよう。

 俺は立ち上がって、海へ歩いていった。義時が神崎さんに近付きがたそうにしていたので、誘って、本気で泳ぎに出かけた。

「待て! もうちょっと待ってくれ! 今タイミングを探してるんだ!」

「んなの千年待ったって出てこねーって。あの神崎さんだぜ? 予約なんて数万件埋まってんの」

「諦めろというのか?」

 俺は、立ち泳ぎしながら、いつかそれがレーエに対して自分が言ったことだったと思って、呆然となってしまった。

 義時は不思議そうに俺の顔を見た。

「コウ? 大丈夫か、おまえ?」

「いっ、いや! 全然大丈夫だって! まぁ――あれじゃねぇ? 今はあいつらが神崎さんと一緒にいるから、あいつらが振られた後でいんじゃね?」

 俺はすっ、と顔を出しながら流れに沿うように泳いでいった。

「おまえ、振られると分かるのか? あいつらが」

「振られる」

 なぁ? とレーエに心で尋ねた。

「まぁ……」

 と憐れむような声が響いてきた。

「それならいいが……何だか、流行を知ったような奴らではあるし、俺の美琴が陥落させられないかと心配なのだが」

「おまえ、気持ち悪いぞ。父親じゃないんだし」

「おまえにだけだ。こう言うのは」

「わかったよ。誰にも言わねぇから」

 だいぶ遠くまで来た。もうほとんど人の声は判別できない。俺たちは遠くから海岸を見て、砂浜と岩石が続いているのに気が付いた。ぐるっ、と回って、俺たちは岩場に沿って泳いで行った。すると洞窟のようなところがあり、俺たちは誰もいないことを確認して大はしゃぎした。こんな秘境があるなんて! 俺たちはまるでこの洞窟に置き去りにされた遭難者のように振る舞うごっこ遊びをして楽しんだ。が、すぐに飽きてしまい、海に住む虫や、蟹をひっつかんで弄ぶのにも疲れ、だんだん虚しくなっていってしまった。

「コウよ。そろそろ戻ろうかと思うのだが」

「ああ、そうしろよ」

「コウはいいのか?」

「なにが」

「美琴……のことだ。あんなに熱烈に恋を語っていたじゃないか」

「うん……」

「俺たちは、確かに勝負をしていたじゃないか。どっちが勝っても負けても、恨みっこは無しだ。と。だがこれでは、勝負にならん。後くされが残るだけだぞ。まだほとんど何もお前はしてないじゃないか」

「ほっといてくれよ」と言うのが、俺の精一杯だった。

 義時は岩石に座って、俺の方をじっと見た。

「何があった?」

 康作、と呼ぶのが聞こえた。康作、と真顔で言うときは、大事な話をするときだけだ。

「いいや……何ていうのかな、俺はよくわからなくなっちゃったんだ」

「よくわからなくなった?」

「ああ」

「そのような言い方では、俺もよくわからないな」

「ごめん。俺も、よくわかっていないんだ。ただ……今まで以上に、神崎さんを好きになったのは確かだけど、何ていうのかな……特別、になっちゃったんだ。特別っていうのは……特別の人とか、そういうJポップの歌詞に出てくるようなものじゃなくて、俺の手が届かない場所にいる、俺とは関わりのない人っていう意味っていうか……ただもう俺は神崎さんとは恋愛をしないんだな。っていう予感が、俺の胸に頑として在るんだよ。それが、俺、初めてわかってさ。彼女を見ているうちに、恋愛ってこういうものじゃねーってわかったんだよ。俺は、神崎さんには向いてない。それがようやくわかったんだよ。お前は違うかもしれないけどさ」

 義時は目を閉じて俺の言い分をじっと聞いていた。

 レーエもすぐそばに居たが、何も言わなかった。

「そうか……。意外だったな。おまえがそんなセンチメンタルなことを考えるとは」

「俺はいやでも人より多くのことを考えちゃうんだよ。親を失くしているからかな」

「いや、すまない。失言だった」

 義時は素直に謝った。

「お前はそれでいいかもしれない。いちおう、親友だからな、止めておくが、本当に、それでいいのか?」

「まだもうちょっと待ってみようとは思うけど、なんか前とは全然気持ちが変わっちゃってるんだよな」

「そうか……」

 義時はじっと目を閉じていた。

「帰ろう。もう飯の時間だ」

「おう」と言って、俺も付いていった。海で泳いでいるとき、あいつは何か言いかけて、でも止めてしまった。クロールをやり出して、一気に浜にまで行ってしまった。俺はあいつの眼に何かの決意が宿ったのを見た。それは俺がまだ持っていなくて、きっとあいつみたいなやつしか持てないものだと思った。

 義時は陸に上がると、一番堂々として見えた。図体が一番でかく、佇まいも凛々しかった。それだけじゃなく、どこかしら男らしい屈強さというか、落ち着きというか、勇気を湛えたところがあった。それに気付いたのは俺と女子数名だけだった。明らかに義時を見る眼が変わっていたが、神崎さんと二宮鏡子はあまり顔を見ないようにしていたようだった。

 昼はイケメン二人と食った。午後は何をする、という話をした。俺たちはもうほとんど打ち解け合っていた。やられたよ、と一人が少年っぽく苦笑して、神崎さんのことをちら、と見たとき、俺はこいつのことが好きになった。それで、負けた者同士、いかに神崎さんが妙な性格をしているか散々語り合ったものだった。ターゲットは神崎さんから鎌田美穂やもう一人の女子に向けられることになった。二宮鏡子に関しては誰も話したがらなかった。俺と義時が洞窟に探検に行っている間、二宮鏡子が誰かと話したのか、一人で何をしていたのかは、知らない。

 午後はビーチバレーをやった。美穂と、佳保という女の子と、俺たち男三人組とだった。女子と男子の混合チームで、たまにメンバーを入れ替える。女の子たちと話をするのは楽しかった。本気で勝負にかかる美穂――焼そば代が懸かっていたからだ――と、俺たち三人はげらげら笑いながらおおいに遊んだ。途中で休憩を挟んで、浮き輪を使って波に揺られるのも気持ちよかった。

 そのうちそれぞれお相手を見つけたらしく――といって、美穂はそういうのは相手にしなかったが――ビーチバレーはお開きになった。俺は疲れてパラソルのところまで帰り、日焼けするのに余念がない美穂と笑い合いながら、クーラーボックスの冷えたコーラを飲んだ。

 シートに横になっていると、人が歩いてくる気配があった。起き上がってみると、二宮鏡子だった。手にはソフトクリームが握られている。照る照る坊主のスタイルは今も変わりがない。

「なぁ」

 二宮鏡子は俺の隣に腰かけて、海を遠い目で見つめながら、ぺろぺろとクリームを舐めていた。

「ずっとなんか食っていたわけ?」

 二宮鏡子は俺を睨み、言葉の代わりにぺちっ、と腕にしっぺを食らわした。俺は仕返しに奴の頬をつねった。

 また仕返しがあった。頬を思いっきりつねられた。

「ずっとじゃないです。ソフトクリームは三種のうち一種はここに来てから食べ、二種目を今楽しんでいます」

「おー、いてて……。ねぇあんた、意外と力あるね」

「余計なこと言わないでください」顔が赤くなった。「木田君が変なこと言うからです」

「悪かったよ。ちょっとくれない?」

「いいですよ」

 ちょっとだけソフトクリームを舐めさせてもらった。気持ちのいい味がした。二宮鏡子が舐めていたものだと思って変な感じがしたが、俺は気取って平静を保った。

「おいしいな」

「そりゃあ、夏ですからね」

「うん」

 静かな時間が流れた。

 俺はシートに横になった。パラソルの縁から見える空は雲がまるで大きな大陸のようにでかでかと浮かんでいた。そうしてそれが川の流れに乗るようにのっそりと移動していく様を見つめた。潮騒がひじょうに豊かに響いてきた。俺は少しの間だけ目を閉じた。耳だけで世界を感じる。そうすると何だか、自分の気持ちというものがだんだんよくわかってくる。

 本当はわかっているのだ。運命とか、そういうのはまやかしなんだって、俺自身が考えたわけじゃないってこと。どこかの漫画とかドラマとかでやっていたのをそのまま俺の主義主張にすり替えただけなんだ。俺以外の人間もみんな同じ考えを持っている。それを知っているから、俺は自分で考えて行動することを自然的に避けていたんだ。運命は人を縛る。だから、打破されなきゃならないって、別にたいした考えでもないのではないか。それは、俺は今まで正しい考えだと理由もなく――でも本当に理由もなくなのか? どうもそれだけじゃない気がする――そういうふうに考えていたわけだが、だからといって、別に他に正しい考えも浮かんでいたわけではないのだ。つまり、運命を打破したところで、俺たちは別にやりたいことなどなく、やりたいことがあったとして、それをうまくやり通すにはそいつの才能であったり、何かの知識であったり、誰にもない特別なものが必要になってくる。そうすると、必ず泣きを見るやつが出てくる。――そのような考えが果たして正しいのだろうか? 俺にはわからない……。まだ、わからない……。永久に出ない答えかもしれない。でも結局、運命があろうがなかろうが、人間は時に幸福だし、時には不幸で、そしてそれは何も変わらず、運命に縛られてないとなったところで、そんなものは俺たちのちっぽけな自尊心を満たすものでしかなくて、そんなものはたいして価値もなく、今こいつの食ってるソフトクリーム以上に腹を満たすものでもないということだ……。

 理屈はそうだ。

 理屈なら、わかる。

 でも何故、何故……?

「その先は、今は言わないで」

 ふとレーエの声が聞こえた。

「今決断をしない勇気、というものがあります。何もかも決めつけないでください」

 あんたが教えてくれよ。運命っていうのは、つまり……

「もうやめて。それ以上は言わないで。わかっています。あなたの聞きたいことは。あなたの考えていることも私にはわかるのですから。でも……」

 教えて欲しいんだ。もし、俺の考えていることが正しいなら……

「木田君」

 目が覚めた。

 二宮鏡子が俺の顔をのぞき込んでいる。

「また、その答えはいつか……あなたがもっと大人になったときに……今は前を向いて。歩いて行って。後ろを振り返らないで」

 俺は、よほどしかめっ面をしていたらしい、二宮鏡子が驚いた顔をしている。

「どんな夢を見ていたんですか」

「ん……」

「なにか悲しいことでもあったんですか」

「悲しいこと?」

 二宮鏡子は心配そうに、目のあたりを指した。「ここ。涙の跡が」

「えっ」と、俺はまごついてしまった。慌てて触ると渇いた涙の跡があった。俺はばつが悪くなってしまって、苦笑いを浮かべた。

「はは……ちょっと、昔のことを思い出しちゃってさ」

「昔のこと?」

「うん……俺、父さんと妹を事故でなくしてるんだ」

 二宮鏡子の顔に驚きが走った。気の毒そうに目を伏せる。

「そ、そうだったんですか……」

「うん。ちょっと、夢見てさ」

「昔のことを?」

「そう。昔のこと」

「もう、平気なんですか?」

 言ってから、失言した、と後悔するような様子が彼女の顔に現われた。

「ううん。平気じゃない……と、思う。まだ去年のことだし。……ははっ、夢見て泣いちまってるくらいじゃさ、俺も情けないったらありゃしねー……」

 本当は夢じゃなかったが、俺は夢だということにしておいた。

「そんなことないと思います。みんなそうですよ。きっと」

「あんたは?」

「え?」

「誰か……家族とか、友達とか、なくしちゃったことはあるか……?」

「いいえ……でも、」

 二宮鏡子は言いよどんだ。

「近い感じのことは……あったと思います。小さいころ、仲の良い友達がいたんですけど……ある時、喧嘩してしまって、しばらく会わなかったことがあるんです。でもそれからすぐ、その子の家族が商売に失敗して、遠くに引っ越すことになって……あっという間に、行方がわからなくなってしまったことがありました。手紙を出そうにも、その子の住所は何度も変更されてるらしくって……とても仲の良い子だったんですけど……もう、それっきり、謝ることは叶いません。私はずっと、あの子と仲直りしなかったことを後悔しています。だから、その時に、私の友達はなくなったんだと思います」

「なるほどね」

 俺は再びシートに横になった。潮騒がお互いを穏やかに包み込む。もう、何も伝えられなくなってしまったこと。死んだと行方不明になったじゃ事実も違うかもしれないが、その際俺はどうだってよかった。人から同情されるのは疲れていたし、同情を疎ましく思うのにはもっと疲れていた。だけど、二宮鏡子に対してだけは、何だか怒る気にも、蔑む気にもなれなかった。むしろ俺は心地良くさえあった。自分と似た気持ちを持つ同年代の友人を持つことは、何だか妙に解放感があるというか……今まで背負っていた荷を、ようやく少し下ろせたような気がしたのだ。

 俺は、また眠ってしまいそうになった。涼しい風が吹いている。どうしてなんだろう、とても穏やかな気分だ。何が、俺を休らわせてくれるんだ。今は難しいことを何も考えず、ただのんびりとこの安らぎに身を任せてみたい気がするんだ。俺はだんだんと、眠って行ってしまった。

 夢を見た。

 初子と、父さんと、母さんで、海に来ている夢だった。あの頃は、まだ俺も初子もちっちゃかった……父さんは優しくて、頼もしかった。母さんはびっくりするくらい綺麗で、凛々しくて、父さんとぴったりお似合いだった。俺は紺の水着を履いて、波に乗って遠い国へ行った。父さんたちも船に乗ってやって来て、俺たちはそこで幸せに、(まいにちがにちようび)……ずっとしあわせに、暮らすんだ。魚ならいくらだって食べることができたし、木の実も美味しかった。俺たちは自由に海を泳いで、なんにちも、なんにちも……(ぼくたちのいえ)で遊ぶんだ。でも途中で父さんと初子だけが行ってしまう。父さんは仕事とかで、初子は仲直りしたい友達がいるとか……俺と母さんだけが残されて、急に、つらく、周りに見える真っ青な空と海すらも、色褪せて、俺たちはそこにいる意味すらわからなくなって……帰るべき場所もわからず、二人でひっそりと暮らしていくのだ。俺は強くなった。強くなれば、父さんと初子が戻ってきてくれると思った。やがて戻ってきた。父さんと初子……笑ってた。ごめんごめん、って。仕事が長引いたんだ。俺たちはそこから帰っていった。今度は帰り方がわかった。俺たちが元の場所に帰ると、時はさほど経っていなかった。(にちようび)はまだ続いている。でも現実じゃどんどん日が過ぎて行って……すぐ学校に行く日がやって来る。そのうちレーエに会って、また楽しい日々が、ずっと続いていく……。

 俺はこんど、はっきりと肌に涙が伝っているのを感じた。遠くの空が、赤かった。時間は巻き戻されたりしない。進んでいく。もう夕方になっていた。目が覚めると俺は、タオルで顔を拭いた。いつになったら、俺は涙を流さずに家族の夢が見られるようになるんだろう。心の整理なんざつくわけがない。いつになったら……って、これは、いつになっても、続いていくような気がした。

 波の来る音、引く音。俺はようやく海に来ていたのを思い出した。せっかくの海が、台無しだ。

 まさかみんなもう帰ったんじゃないだろうな。俺は辺りを振り返って、ほっとした。

 二宮鏡子がいる。はっ、寝てやんの……。

 こいつ、俺の隣でよく眠れるよな……何かされたりとか、思わねぇのかな。引っ込み思案っぽいけど、その辺は、恥ずかしくねぇのかな……。

 俺は夕焼けを眺めた。

 そうだ。

 起こそう。

「おい、起きろって。寝ぼすけ」

 ゆすると、ぱちぱちと目を瞬かせ、「う〜ん」と体を起こした。

「にゃんですか」

「起きたか?」

「はあ……あっ、すみません、私ったら寝てしまって。ずっと起きているつもりだったんですけど……」

 二宮鏡子は正気に返り、俺の顔を見ると、眉根を寄せた。

「木田君……目に隈ができてますよ」

「うん、そうか?」

「はい。……あの、こんなこと言うのは出しゃばりだと思うんですけど、いつか、泣かなくて済む日が来ると思います。忘れる、とかじゃなくて、静かに受け入れられる日が来るんです……私が、そうだったので……」

 俺とこいつは今、似た痛みを共有しているのだと思った。そう思うと、胸が久し振りに高鳴るのを感じた。

「友達、のこと?」

「はい。今でももちろん忘れられませんけど……そういうのとは違って、受け入れられる、っていうか……ああ、私ってば、何を言いたいんだろう……だからその、もう、なるべく、泣かないでください」

「やれっつってできるかよ」

 俺は笑った。涙は確かにもう流しすぎた。泣かないなんて豪語していたわけだが、母さんには、とっくの昔に見破られていたかもしれない。でも、こうして友人のこいつに教えられるのは心地良くもあり、ああ、こうして、父さんと初子の死をまだ受け入れられない弱い自分を受け入れるというのは、こんなに満足するもんなんだ、と、俺は二宮鏡子を見て思った。

 さて

「さて、ちょっと顔洗いがてら、一泳ぎしてくるわ」

 振り返る。

 二宮鏡子はまだ照る照る坊主のまま、シートに座って、きょとんとしている。

「あのさ、一緒に泳がない?」

「え」

 俺は辺りを見回した。

 数少なかった海水浴客も、じょじょに引き揚げ始めている。俺は二宮鏡子を見て笑った。

「なんかしんみりしちまったしさ。それに、あんたまだ一度も泳いでないだろ?」

「え、えーっと……」

「このまま何の思い出もなく帰るのもしゃくじゃないか? 人も少なくなってきたし、他のやつらも売店にでも行っちまってるかな? というわけだからさ……一緒に泳がない?」

 二宮鏡子をこのようにナンパするなど今まで思ってもみなかった。数ヶ月前まで、こいつは、俺にとってただの根暗女であり、田舎くさく、センスのない鈍重女だった。

 それがいかに、間違っていたのかが今ならわかる。そうしてそのタオルの下を見たいと思う。ああ、俺たちは、友達じゃなかったか? なんでこんなにドキドキしてるんだろう……。

 ふと、レーエの笑い声が聞こえた。聞かなかったことにした。

「そ、そうですね……確かに……」

「だろ? だからさ……一緒に泳ごうぜ」

「……わかりました」

 そう言うと、二宮鏡子は立ち上がった。

 タオルのホックを外して、中から美しい肢体とそれを包む水着が顕われる。清楚な花のようなピンク色の水着に、彼女の艶やかな黒髪がぴったりはまっていた。細すぎない手足が太陽の温かな光を浴びて、また急に輝きを取り戻し、生き返ったように、またはつらつと動き出すのを俺はじっと見つめていた。不思議な全体的な美しさを俺は目の当たりにしていた。神崎さんとは違う、即物的なものじゃない、外の輝きの中に秘められた、輝きの源泉、それは精神であり、内奥の山々、そして世界、故郷の香り、そしてそれは、俺を言い表しようのない郷愁と甘美の恍惚で包み込んだ。――言い表しうるのはたったこれだけだ。でも、これでも十分にはまだ足りない。どうやってもこの驚きと感動は伝えられそうにない。俺は、悔しいと思うほど、レーエの言葉が全て真実だったことを、実感しているのだ。

「ど、どうですか……」

「ああ、すごくキレイだよ」

「なんていうか……すごく恥ずかしいです……」

 俺はなんだか非常に勿体ない気がした。

 いや、何故?

 ここで、何故二人っきりの世界などではなかったか? それならどれだけよかっただろうに。嫉妬心からじゃない、俺はここでその思いの丈をぶちまけることだってできただろうし、もっと彼女をテレもなく、賞讃することだってできただろう。

 人の目が気になる……ので、俺は、ぶっきらぼうに「準備運動な!」と言って背を向けて、体を動かし始めた。

 くさいやつだなあ、俺。キレイだよ、だってさ。

 恥ずかしいぜ……でも、カワイイのとは違うし、だって本当にそう思ったんだもんな。

 夕陽が波に照り返っている。こんなサンセットシーでこんな綺麗な子と一緒に泳げるなんてどれだけ幸せなんだ。

 レーエの声が聞こえた。

「私は、あなたがそんなにも二宮鏡子のことを想っているとは知りませんでしたよ」

 だろ? 自分でも驚いているくらいなんだ。

「それは一安心です。しかし、やり方を少し変えないといけませんね。これでは」

 へ?

「あなたの方から恋愛感情を持つのは予想外だった、と言わねばなりません」

 どういうことだ?

「あなたにはもう少し、頑張ってもらわなければなりません。運命に対して、ね」

 俺は、レーエがいったい何を言っているのか、わからなかった。

 少し、湿った気配がしてきた。

 準備運動をお互いに終えたらしく、俺と彼女はお互いに笑って、海へ入り込んだ。

 少しひんやりとした海水が体に染みたが、後はなんでもなかった。彼女の柔らかな手を引いて、どんどん沖の方へと連れていった。

 二宮鏡子はまだ少し恥ずかしがっていたようだったが、顔はだんだんと歓喜に満ちあふれ、神崎さんよりもずっと綺麗な声で笑うようになった。

 彼女は俺よりも泳ぎが上手だった。

 運動神経はいいかもしれない。

 子供を作ったらどうなるかな……などと恥ずかしいことを考えている自分がいた。彼女は背泳ぎしながら、じっと横目で俺のことを見ていた。ほんのり顔が赤くなっているのは、夕陽のせいだろうか? それとも……

「ん?」

 空気が変だ。

 どこかざわついている。

 赤い夕陽が消えていく。夕陽が消えるだけでこんなに空は暗くなるものなのか。いや、そんなはずはない。残光というものがあるし、それに、夕焼け後はこんなに禍々しくなるものではない。

 俺たちは顔を見合わせた。

 空を見上げると、重々しい雲がいつの間にか覆い被さっていた。

 雨がポツリ、ポツリ、と降ってきた。それだけならまだいい。なんら危険はない。

 ただ風が出てきた。そうすると波が一変して暴れ出す。

 俺はすぐに上がろうとした。

 二宮鏡子の手を掴もうとした。その時だ。

「あっ」

 彼女が流されてしまった!

 驚く間もないうちに、どんどん沖の方へ連れ去られていく。そうすると雨がまるでつぶてのように降ってきた。俺は一瞬呆然とした。そして、すぐに助けなきゃと思った。

「レーエ、頼む! 緊急事態だ! 助けろ!」

「落ち着いてください。これは夕立です。私が起こしたものですから、あなたは私の言うとおりに動けば必ず彼女を助けることができます」

「何だって?」

 自分で起こした? 何のために?

「さぁ始めますよ」

 俺は頭を切り換えた。

 そうだ、こんなこと考えてる場合じゃない。すぐ二宮鏡子を助けなきゃ。

 幸い、こいつなら最適なルートとやり方を提示してくれるはず。

「深呼吸して」

 俺はそのとおりにした。

「飛び込んで」

 波に入ると、猛烈に襲いかかってくる水圧があった。まるで、俺を二宮鏡子に近付けまいとしている悪魔がそこにいるようだった。

「受け流しますよ。そこから少し左にずれて」

 俺は言うとおりにした。すると、逆に引き寄せてくれる波に出会うことができた。こいつが二宮鏡子を引き攫っていると思うとしゃくだが、今はこいつの力を借りるしかない!

 潜ろうとしたところへ――

「ダメです! 潜っちゃいけません! 絶対に二宮鏡子を見失わないで!」

 そのとおり、潜ってみると、海中はひどかった。雨に打たれないで済むが、直接顔に圧力がかかるため、すぐ方向がわからなくなってしまうのだ。

「あいつは――……」

 いた。見つけた!

 顔を恐怖に硬直させて、真剣に泳いでいる。なのに、いっこうにその場所から動くことができないでいる。

 どんな気持ちのするものなんだ。泳げども泳げども、前に進まない気持ちっていうのは――……体は冷えるし、どんどん力は消耗していく……。力尽きれば、攫われる。その脅威に立ち向かっているのだ。俺はすぐにそちら側へ泳いでいった。

「二宮!」

「木田君?」

 俺たちの手が触れ合った。彼女は降りしきる乾いた匂いのする雨の中で、俺の姿が信じられないように、呆然と見つめていた。

 助けに来た。それを俺は目で語る。口で言っている暇はない。次から次へと波が襲いかかってくる。俺は手を引っ張って陸へ泳ぎながら、レーエの指示を待っていた。

 本当に全然進まないんだ……。いったいどうすりゃいい、レーエ。

「待ってください。夕立が止むまで。これはそんなにひどい事態じゃありません。もうあなたのしてやれることはほとんどありません」

 このままじゃ溺れちゃうじゃないか!

「その心配はありません。あなたは私の言うとおり二宮鏡子を救出しました。襲い来る波からはあなたが守ってあげなさい」

 ちくしょう、レーエの役立たず。浮き輪ぐらい持ってきてやればよかったかな……。

「よくやりました。浮き輪など必要ありません。波はあなたがたをもうそれ以上沖へ連れて行ってしまうことはないでしょうから」

 そんなこと保証できるもんか。

 あ……でも、こいつ確か、自分で起こした、って……。

「ほら」

 波は次から次へと襲いかかってきたが、俺にはかかっても、二宮鏡子の顔にかかることはもうなかった。というのも、二宮鏡子は泳ぎがうまく、こういう場合の対処の仕方をよく心得ているからだった。俺の顔は雨水と海水まみれになったが、彼女は雨水だけで済んだ。でもしょっちゅう俺の方を見て、「木田君、大丈夫?」と騒いでいた。

 いつ晴れるかわからないこの嵐に恐怖しているのは、俺もそうであれば、彼女もそうだった。だけどその分、繋いだこの手が、二人の生命線のように感じられた。体の他の部分は冷たくなっていたが、繋いだ手だけは、生命の源が二人分そこに在るように、熱かった。

 結局、俺たちは泳ぎを止めてしまった。諦めたからじゃない。どちらも助かると思ったからだ。陸の連中がボートを出して救援に来てくれた。レーエの言ったとおり、荒れ狂う波は、外見上そうであったとしても、俺たちをこれ以上沖に運び去ることはなかった。まるで誰かの願いでそうであったかのように。結局ボートは陸を離れるか離れないかのうちに雨は止み、風も止んで、俺たちは戻ることができた。まるで何事もなかったかのように海はまた穏やかさを取り戻し、また温かく俺たちに微笑んでくれた。ボートに乗った救助班は俺たちに浮き輪を渡しながらも、懸命に泳いで戻ろうとする、ぴったり寄り添った二人を、そのままにしてくれるという、ロマンティックな風景を、守ることに助力してくれた。俺たちは心の底まで水浸しになった気がしたが、サフラン色の夕べの海を、穏やかな波に包まれて泳ぐことに、よりいっそうのお互いの結び付きを感じていた。

 でも、最後までは楽しめなかった。

「これで、あなた方はよりいっそう結束を深めましたね」

 そんな、レーエの声が響いてきた。

 いつもは温かく聞こえる彼女の声が、この時だけはひどく冷酷に聞こえた。

 レーエ。

「何ですか」

 一つ尋ねるが、お前は俺と二宮鏡子をくっつけたいがために、あんな夕立を呼んだのか。

 レーエはすぐには答えなかった。

「まぁ、そうですね……」

 救助隊や、一緒に来ていた仲間たちからタオルをかけられ、心配させたことを叱られ、敢闘を称えられ、二宮鏡子を守ったことを鎌田美穂と神崎さんから絶賛された。

「あなたが来たから二宮鏡子は助かりました。あなたの力がまったく役に立たなくても、あなたがそばにいることで、確実に彼女に冷静さと力を与えたのです」

 そんなことを聞いてるんじゃない。

「……私が故意に二宮鏡子を危険な目に遭わしたと? あなたはそう思っているんですか? そんなことを信じるのですか?」

 おまえがそう言ったじゃないか。

「では、信じるのですね?」

 ああ、信じるよ。おまえはただの幽霊じゃない。なにがしかの力を持った精霊だ。未来予知をしたり、夕立を呼んだりすることぐらい、おまえならわけないんだろ。

「それなら話が早い。言い訳をするつもりはありません。私がやりました。あなたはこれで運命の本格的な軌道に戻ったわけですね」

 あのさ、レーエ。

「はい?」

 俺たちはさ、そんな「運命」なんてわけのわからないもんのために、死にそうな目に遭わされなきゃならないもんなのか?

「はあ……質問の意味がわかりませんが」

 いいから答えろよ。

「仕方ありませんね……まずあなたのその考えから正さなくてはなりません。『運命』はわけのわからないものではないし、死にそうな目にもあなた方は遭いませんでした。なぜなら……」

 助かるはずだった、ってんだろ? ふざけるな!

「おやおや……」

「運命」の戯れ言なんかのために、なんでわざわざ死ぬ思いしなきゃなんねぇんだよっ! そんなにおまえは俺たちの困る姿が面白いかよっ!

「でもあなた、あなたは希望通り、二宮鏡子と結束を深めることができたでしょう?」

 そんなもん要らねぇよっ! どこの街に、好きな子怖がらして良い目見ようっていう男がいるんだ?

「運命の方針に従った方が良いという考えに耳を貸す気は?」

 ない!

「それであなたはせっかく手に入れた幸福を手放してしまうとしても?」

 俺には必要などない!

 もう二度と俺に関わるな!

「もう、私と一緒に話す気もないというんですね?」

 そのとおりだよ! おまえの顔ももう見たくないんだからな!

「残念です……。でもあなたには誤解があります。結局のところ、私を否定したとして、あなたには何もましなものは残らない」

 それがおまえに何の関係があるっていうんだ?

「私にはそうは思えません……。私はいつだってあなたの味方。あなたの一番の理解者。そう思っていたはずなのに、あなたはそれを、嘘だとおっしゃるんですね?」

 とにかく俺は、殺人未遂者と、平気で友達でいることなどできない。

 それに俺は最初に言ったじゃないか。二宮鏡子と俺に関わるなって……。そんなもん……おまえが招いたことだろ。

「……」

 なに……黙ってんだよ。

「はい……そうですね。あなたは私のことをそういうように思うんですね。あなたの真実では、私はそうなのですね」

 あなたの真実とか、そういう哲学的な物言いで俺を煙に巻くのはやめろ。

「……」

 そもそもお前なんて本当に存在したのか?

 大体、幽霊なんてサイコな話、嘘くせえだろ。

 俺、頭どうかしてたんだよ。きっと。

 レーエなんて本当はいなかったんだ。

 運命? 馬鹿くせぇ。必要ないって、んなもん。

 俺は俺の好きなように生きるし、好きな人と付き合って好きなように死ぬんだ。

 てめえの指図なんか受けっかよ。殺人者!

 死ね!

 消えろ!

 俺は、おまえなんか必要ない!

 そうすると、ふっと体から力が抜け、俺はぐったりとした。

 慌てて俺を支えてくれた人がいた。二宮鏡子だった。

 その後気が付いたら、俺は帰りの車の中だった。

 それから、なぜだろう、体が妙に軽く、ずっと持っていた大事なものが、体や、心から、失われてしまった気がした。

 なぜ、高速道路の上に浮かぶ、月を見て、こんなに涙が溢れてくるのか、わからなかった。

 なにか、かけがえのないものを失ってしまった。けど、何も覚えていない。父さんや初子のことじゃない。母さんもまだ生きている。車内には誰一人減った者はいない。

 なのに、なのに……。

 なんだろう、この気持ち。

 俺は確かに、誰かを失った。

 一番大切だった人を、――それは一体誰だったか、思い出せないが――失った。

 そうしてそれは、俺のせいだった。そんなおそろしい陰のような不安と後悔が俺の胸に渦巻いていた。

「なあ」

 ふと、虚空に向かってこっそりと呼びかけた。

 何の返事もなかった。

 ただ朧気な月があるだけだ。

 何の変わった物音もない。

 急に、どうしようもない寂しさがふっと湧いてきた。

 それに、俺の心はあまりにも無防備だった。すぐにとてつもない寂しさが俺の心を闇のように包んだ。俺は子供のように泣いた。誰も俺のことを撫でてはくれないと、心底飢えた気持ちになった。

 ぎゅっ、と掴んでくれる手があった。見ると、二宮鏡子が薄暗がりの中、俺のほうをじっと見ていた。手を、温めるように、両手でぎゅっと握ってくれて、それを俺の目線の高さにまで持ってきた。

 二宮鏡子は微笑んでいた。出来のわるい弟を優しく包み込むおおらかな姉のような表情だった。それから俺の額を自分のに当て、こっそりと、「また思い出しちゃったんですか」と言った。

 ほかの人間は眠っている。神崎さんの叔父さんからは見えない位置で。

 二宮鏡子は一体何のことを話しているのか俺にはわからなかった。けれど、思い出せないから、悲しいんだ。思い出して、謝りたい。そればかりを考えているのに、二宮鏡子は「もう思い出さないでください……いつか、受け入れられるときが来ます。それまで、普通の、なるべく楽しいことを考えましょう」と言った。そうじゃない。そうじゃなかったけど、俺はその声の響き、調子が、ばかに懐かしくて、涙があふれて止まらなくなった。

「ごめん、ごめん……」

 俺は何で謝るのかもわからずに、二宮鏡子に向かってそう言った。二宮鏡子は何も言わないで、少し驚いた様子だったが、俺のことを抱き締めた。俺はあいつの肩を涙で濡らしてしまった。でも俺はただ、慰めてくれる人がいたので、安心しただけで、結局のところ、これから先、何をどうすればいいのか、全くわからなくなった。何が正しくて、何が正しくないのか、少年の俺には、まだ早すぎて、何のましな判断も下せなかった。

 俺は結局、声を押し殺しながら泣いて、子供みたいに、涙が引っ込むまで、情けなくも、二宮鏡子の胸を借りてしまった。この後俺たちは自然な流れで付き合うことになるのだが、二宮鏡子でさえも、あの人に似ていながら、何か欠けている、という気持ちを拭えなかった。そうして俺はそれから決して誉められるに値する彼氏を演じなかった。辛抱強く付き合ってくれた彼女に感謝と謝罪を込めて告白し直したのは、俺は一体何をこのとき失ったのか、気付けたその時以降になる。

 俺は今、なんら満足感を抱いてなかった。

 ただ不安ばかりがあった。

 でもこのときの気持ちも、原因も、それからしばらくは忘れることになる。

 11へつづく

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