(四) 裁判の街

 

 クロウは眠ってしまって、起きたのは夕刻だった。どこへ行くのかもわからない列車の中、正面にある座席にソクラテスが座り、今まで寝ていたのかクロウが「うぅん……」と声を上げると首をもたげるのがクロウの薄目の奥で見えた。

「眠って、しまった……」

 ソクラテスがきょろきょろと首を動かして、くぁ〜、と欠伸(あくび)をする。

「ふふ。私も、してしまいそうです、あくび。ふわぁ〜あ……」

 クロウは背筋を伸ばす。こんな時クロウは思い出す。昔の暮らしのこと。ぎゅうっ、と背筋を伸ばすのは好きだった。体がしゃんとする。でもたいてい、怠け者のクロウは枕が恋しくなるのだけれど。

「わぁ……綺麗ですね」

 車窓から、徐々に沈んでいく夕陽が見える。雲が明るく照らされ、ピンク色に輝いている。

「ははは……」

 でも、クロウは、

「なんで……忘れられないんでしょうね……」

 だんだんその景色も興味が薄れていくのを感じた。

 考えれば考えるほど、わからなくなってくる。

 忘れようと心掛ければ、それだけ記憶が染み付くものだ。

 洗っても落ちないほどに。

「プラトーン……元気かな」

 ソクラテスはその円い瞳でただこちらをじっと見つめている。

「あ、あはは……彼がいてくれたら、なんて思っちゃいました、私」

 クロウは頬を手でこすってみる。何だか寝ぼけているのかしら、と思った。

「ソクラテス……あなたがいてくれるのに。ねぇ? あなたはなぜついてきてくれたんですか?」

 ソクラテスは、答えない。

 ただ眼が、落ち込むんじゃない、ただ前だけ前を見ろ、と語りかけてくるようだった。

「ソクラテス……」

「ワンッ」

 馬鹿者め、と叱咤されているかのようだ。

 クロウはそのとき嫌な夢を思い出した。自分が木の車に乗せられていて、その車は動き出す。止まらなくなって、飛び出そうにも動くことはできず、やがて湖の中に落っこちてしまうという夢だ。クロウはハットを取って、腕で持ちながら、外の景色を見た。

「次の駅に行ったら、何しましょう……」

 彼女はパパとママのことを忘れかけていることに気が付いた。はっ、とした。そしてそんな自分がひどく悲しかった。

 そこは、初めて辿り着いた駅と、少し似ていた。あの、煉瓦造り。

 舞っている煙。埃くさい空気。

 そしてどこか色褪せた景色。

「なんだか、初めに来たとこみたいですね……。そういえば、どうして私はあんなところにいたんでしょうか……」

 ふとよみがえる、あのときの記憶。

 この旅は、全てあそこから始まったのだ。

 硬いベンチの上から。

 薄い瞼を開けば、そこは駅だったのだ。それ以前のことはわからない。

「とりあえず、行ってみましょう」

 クロウは切付を持って、駅構内をコツコツと歩いて行った。駅は全体的に暗い印象がある。人間の生気がなく、泥や汚いものが留まっている様子だ。天井が低くて、それもいっそう暗さを表しているのかもしれない。今までの「沼の端」や「機会の庭」は無人だったが、ここには人の数が多い。荷物を持ってこれから出かけていく人がところどころに見受けられる。

 クロウは、手の中で切付を(もてあそ)びながら、駅の中を歩いて行った。

「いませんねぇ……駅員さん」

 そもそも、これほど広大な駅を見たことがない。クロウはもう自分がどっちから歩いてきたのかわからないくらいだった。

 ようやくのことで駅員さんんを見つけ、クロウは切付を見せる。彼はぎょろりとこちらを睨み付け、向こうへ行ってしまった。

「どうしたんでしょう……」

 今の意味がわからず、呆然とする。

「とにかく、出てもいいんでしょうか」

 ソクラテスは恐いもの知らずで先に行ってしまった。

「あ。待ってください」

 仕方なく走る。

 改札を出ても、入り口はまだ見えてこなかった。なんて広い講内だ。クロウは知らず溜息をつく。

 ソクラテスがどんどん先へ走っていく。まるで出口の光はこっちだ、と知っているかのようだった。

「ちょっと! 待ってください!」

 人通りが多いのでクロウは避けて行くしかない。ああ、ソクラテスのように足下を駆け抜けて行きたい。

 広い講内を出て、光の中へ出ると、強い陽射しと冷たい風がクロウの頬に当たった。

 しばらく目をしぱしぱさせていると、しだいに目が見えるようになってきた。晴れやかな青空。同じ型の白と茶の家。それが隙間なく立ち並び、およそ円形と見える広場を作り上げている。

 広場には人だかり。真ん中にある一点だけを残して、人々がぐるっと円形に並んでいる。

 それは何かの見物をしているように見える。

 クロウは駅の出口から、その真ん中に立った人物のことをじっと見つめていた。それは隣に立った人物を指して、何か大声で叫んでいる。取り囲んでいる人々が、「おう!」とか「そうだ!」とか合いの手を入れている。

 クロウは一体どんな面白い芸をやっているだろうと思ったが、すぐ違うと思った。あれは本当に取り囲んでいるのだ。包囲しているのだ。

 クロウは駆けて行った。

 駅の出口から階段を降りて、石畳を踏んで走る。近づいていくと、ようやく声が大きくなっていく。

「さぁこの者の証拠品はどうだ! もう十分完璧だと思うぞ! それでは国民の皆さまに尋ねる。この男は有罪か、無罪か! 有罪だと思う人は手を上げて!」

 クロウの近くにいる人たちほぼ全員が手を上げた。

「はい、無罪だと思う人!」

 今度はほとんどの人の手が挙がらなかった。なんだ、何が起きてるんだ、と辺りをきょろきょろ探っても答えは見つからない。

「決定的だな! はい、それじゃこの男は有罪決定ぇー。次は、どんな刑にするかだが、これも決定権は皆さんにある。はい、じゃ死刑からー」

 手はやや挙がる。クロウは自分も挙げなきゃいけない気がしてきたが、まさか挙げるわけにもいかなかった。

 死刑というのは、殺されてしまうことだからだ。

「じゃ、終身刑」

 今度は多くの人の手が挙がった。

「な、なんでしょう。ここは……」

 変な町だ、と思った。

 周りにいる人々の話し声が聞こえてきた。

「ひどいわね。本当に死刑にでもなっちゃえばいいんだわ」

「ほんとにね。犯罪者の顔なんて見たくもないわ。おお神よ、彼をお許しなさいませんよう……」

「あいつはいい奴だったんだがなあ。別にどこも悪くない。でも犯罪しちまったんじゃなぁ……。わしの眼が間違っておったってことか……」

「さっ、これでキレイサッパリ。きちんと彼には罪を償ってもらわなきゃね」

 真ん中の男がまた叫んだ。

「はいィ、決まった決まった! この男は終身刑! 終身刑! お集まりの皆さま、ご協力ありがとうございました! さぁ、こいつを連れて行け!」

 縄でくくられた男が、(うな)垂れながら引っ張られていく。クロウは周りの人たちに聞いた。

「あの。これは、一体何ですか?」

「ん。ああ、旅人さん? これはね、見たことない? 裁判だよ、裁判」

「裁判?」

「裁判を見たことがないなんてよほどのド田舎から来たんだねぇ。それも相当の未開地から」

 彼は笑った。クロウは変だと思いながらも恥ずかしくなって顔を赤くした。

「あいつは人を殺したんだよ。こんな細っ切れのパンを盗むためにね」

 男は指で丸く隙間をつくって「こんなもんだ」と言った。

「あいつがやったのは確実だ。だって証拠品が挙がってるからね」

「証拠品?」

 ついオウム返しに聞いてしまった。クロウはちょうどさっき連れて行かれた人が、本当に人を殺したのか信じられなかったのである。

「証拠品ってのはあいつの犯罪を証明できる物のことさ。今回はあれだね、缶詰の切れ端」

「缶詰?」

「こう、ナイフみたいに尖らせてさ、それで相手の心臓をこう、ぶっ刺したんだよ。その後すぐ首も切られた」

「恐ろしい……ですね」

 クロウは本当にそんなことが行われるのか、と思った。

「おっと。すまないすまない。ご婦人にはちょっと刺激が強すぎたかもね。とにかくそれでさ、裁判を行ってるわけだよ。つまりさ、そいつが本当に犯人なのか、そして本当に犯人だったらどんな刑を当てるのか、みんなで決めるんだよ」

「それが……」

 今の集会だったんですね、と言う前に彼はこう言った。

「本当にね、馬鹿なやつだよ。たったあれだけのパンのために尊い命を犠牲にしやがって。まったく人の血など流れていないように見える。恐ろしいよ」

「あの……」

「ああ、ああ。心配しなくても平気だよ。お嬢さん。終身刑になったからね、奴は」

「終身刑?」

「もう二度と刑務所から出てこれない、ってやつだよ。真に恐ろしい刑務さ。……ま、これで殺された方の家族も満足するだろう。もう二度と会いたくないだろうからね」

 

 クロウは人が少なくなった広場に佇んでいた。

「また不思議なところに来てしまいましたね……」

 クロウはプラトーンの言葉を思い出した。

(ここは不思議なところなんだ。そんなところにいる時こそ、自分が自分である必要がある)

 クロウは拳を作って自分の胸の所に持ってきた。

(そうだ、周囲の空気に流されちゃだめだ)

 クロウは、先ほどの裁判の時、自分もつられて挙手しそうになったのを恥ずかしく思った。

(彼は自分に何かしただろうか? いや、何もしてないはずだ)

 クロウは決然と顔を上げた。

「……パパとママを、探さなきゃ」

 でも今度の景色も、全く見覚えがない。

 けれど自分の記憶もあてにならない。ここに来たときのことを忘れているだけかもしれないから。

 クロウはソクラテスとその裁判の街をあてもなく歩いた。この街は、一見小綺麗に見えるが、その実空気が淀んでいたり、道の石畳の隙間に染料が染み付いていたりと、不審な汚らわしさがあった。

「ソクラテス。……今晩の宿を、決めましょうか」

 ソクラテスはふるふると首を横に振った。

 クロウはその気持ちもわかる気がした。

「……わかります。ここは何だか、疲れます。プラトーンとあなたの故郷の方が、何倍もいいと思いました。……それじゃ、ちょっとだけ、働けるところを探しましょうか。今日の食べ物と、次の駅への切付を買わなくては」

 クロウとソクラテスはまた街中を歩き回った。街は本当に広くて、迷路のようだった。人通りがすごく、息切れがしてくる。お腹が空いていたクロウは、一軒一軒、働かせてくれるお店を探して回った。

 案外お店はすぐ見つかった。小さいバーの給仕をすればよいのだと言う。クロウは顔も良かったし足も長いからきっとお客さんの人気が出るだろうと、店主は一日という短さを惜しんで雇ってくれた。ソクラテスは看板犬となった。

 クロウはそのバーで食事をもらい、夕方から晩まで働いた。そしてそのお金を持って、小さな宿に泊まりに行った。

 クロウは月を見ていた。まん丸い月。どこか冷気を感じさせる月だ。ソクラテスはクロウの膝の上でまどろんでいる。

 ちょっと前までは何もできなかった自分。それがこうして、一人でお金を得てパンとスープを手に入れられるようになったのは何故だろう。

 プラトーンやエルンスト、「機会の庭」の人たち、そしてここにいるソクラテスのおかげだった。

 まるでなかった「自己」というものが、芽生え、芯を強くしている。

 仮にそれが誰かの願いだったとして――プラトーンの出会いや、ソクラテスとの友情、エルンストたちとのやり取りが、誰かが用意した筋書きだったとしたら。この旅そのものが、クロウに何かさせたい誰かの目的だったとしたら――彼は、クロウに一体何をさせたいのだろう。

 クロウはただ、月に向かって、

「考えられる、というのはつらいこと。……」

 と呟いた。

 そしてソクラテスの頭を撫でながら、猫のようになりたいと、初めて思った。

 

 クロウは夜が明けてから、また街をぶらぶら歩いた。ここには何となく居たくなかったが、クロウの真新しく芽生えた心はもう一時(ひととき)ここに留まることを望んだのである。

 暗く冷たく、淀んだ空気。そのもっと奥の方へ、進んでいくのをクロウの心の一部は要求したのである。

 クロウはだんだん貧民街の方へ歩いていった。そうして改めて気が付いた。彼女はここ

で昨日の話を聞きたがっていたということに。

 それはどこから来たものだろう? やはりそれも運命だろうか――。それとも好奇心? それはきっと違う。クロウはやはりエルンストをこの前説得できなかったことを悔やんでいるのだ。

 プラトーンが言っていた言葉。「決められたことに責任を持つ」ということ。

 クロウはソクラテスと薄暗い、いやな臭いのする路地を歩いた。

 と、そのとき、クロウの足元に横たわっていたゴミが動き出した。いや、それは、ゴミだと思ったら人間だった。灰色の髪をした、灰色のボロを着た、じいさんだった。

 彼は頭を上げて、無言で彼女を見つめる。

 黒い瞳だった。

 クロウは、

「あの……お腹、空いてますか?」

 と言ってみた。

 男は首を振るでもなく、

「ああ」

 と言ったきりだった。

「ちょ、ちょっと待っていてください」

 クロウは慌てて駆け出し、大通りまで戻って、焼きたてのパンを二つ、買ってきてやった。そして今日宿で詰めてきた水も、水筒ごとあげた。

「これ……よかったら、どうぞ」

「金」

 とだけ、男は目もくれずに、言った。

 力無い弱々しい声だった。

「金は……あるか。あんた」

 クロウは何も言わず、ポケットに入っていた紙幣を一枚あげた。それはパンを十個買えるものだったのである。

「ありがてえ。これで酒がまた飲める」

 クロウは再びパンを差し出した。

 すると男は初めてそれに気が付いたように「おお」と驚きの声を上げ、顔に笑顔を浮かべた。

「食べますか?」

「これを……俺に?」

「ええ」

 男の汚くくすんだ手がパンに触れる。

「どうぞ食べてください」

「……ありがとう」

 と彼は感極まったように声を震わせながら言った。

「ありがとう。ありがとう」

 と彼は何度も繰り返して言った。

 クロウは考えた。

 汚い手も本当は綺麗かもしれない。彼が拝むようにして合わせた両手は、軽率かもしれないが、良い敬意が表されていると思ったからだ。

「私、もうそろそろ行きますから」

「ありがとう。ありがとう」

「いいえ。もうお礼なんてよしてください。そして……もっと強く生きてください。応援しています」

「ああ。ありがとうよ」とその男は目を潤ませながら言った。

 クロウはそこから立ち去った。わずかに残ったお金を持って。

 そしてできるだけ大通りを歩いた。もう倒れているかわいそうな者に会わないためだった。

 けれども、駅で切付を購入したら、金がいくらか余ったので、もう一度それを路地裏に配りに行った。

 そして、できるだけ話を聞いてあげた。

「ここの連中はひどい奴らさ。どれだけ働いても、一食分の給料ぐらいしか出さねぇ。それによ、おめぇ、機械って知ってるかい?」

 クロウは頷いた。「はい。知っています。黒くて大きいやつですよね」

「中には白いものもいるがね。さて、そいつだ、そいつが出てきたからおれたちの居場所がどこにも無くなっちまったんだよ。それというのも……機械を使えば生産性がアップするとかどうたらこうたら。はっ、あの資本家はこう言ってるのさ。人の命より、てめえの金が大事、とな」

 またとある浮浪者はクロウに言った。

「あんただけさ……。こんなことをしてくれるのは。ここは利己主義者の集まりだ。わしは……学者だったんだが、ほれ、信じられんだろう。本当じゃよ。ところがあの裁判のことで批判する論文を書いたら、国民の権利を侵害する逆賊とか称されて、次から出す論文も全く売れず、出版社もどこも受け付けてくれなんだ。大学でも居場所もなくなって……もう、こんなざまじゃ。クロウさん、と言ったっけか。あんたは正しいよ。そういうささやかな善意が人の心の毒を中和するんじゃ。胸張って行きなさい。おまえさんは正しい」

 さらにこう言う人もいた。

「この前殺したやつは、オレの友達だったんだ……。ほら、終身刑になったやつさ。まったく酷いもんさ。本当はあれは、違うんだ。あいつ、あの殺された方の男のせいで、仕事をクビになって、働けなくなったんだが、違うのさ。悪いのはあいつじゃない。この仕組みさ。悪いやつだけ生き延びて、良いやつは死んでいく。この人為的な流れさ。それと、人々に人の血が流れていないことさ。……なぁ、もういいだろ。あいつを許してやってくれ」

 クロウは切付以外の持てるものを全て与えて、そこを去っていった。

 街の中央の広場では、また誰かの裁判が始まっていた。やはり先ほどのような浮浪者だった。それともう一人、身なりのよい人も、裁判にかけられていた。その人に向かっての野次がもの凄かった。「裁判なんていらん。すぐ極刑にしろ!」「麻薬中毒者は、全員死刑だ!」などと声が聞こえた。真ん中で責められている身なりの良い人は、昨日まで周りで野次を浴びせている方だったろう。あるいは全く関係ないところから来たのか。どっちにしろ不幸なことだ。

 この街は軽薄だ、とクロウは思った。

 どうか少しでもよくなりますように、とクロウは目に見えない、どこかで見ている誰かに向かって祈った。

 

 

 つづく 

 

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