〜 クロの冒険 〜 

  

 

 

 クロウは風の頬を撫でる感じで目を覚まし、辺りの様子をうかがった。

(ここは、どこかしら)

 多くの人の喧騒。靴のカツ、カツという音。灰色の薄く濁った空気。

(ここは、駅?)

 天井には星と月の運行が絵画で記されている。

 下に目を落とすと、大勢の人が荷物を持って歩いている。

 空中に舞っているのは雪のようにも、スターダストのようにも見えた。

 クロウは、どうやら駅(のような所)のベンチに寝ていたらしかった。

(どうして私はこんなところに?)

 クロウは断片的にしか記憶を持っていなかった。

 優しい両親。幸福な日々。窓辺でうたた寝した記憶。

 そして、それが無残にも引きちぎられていく黒い記憶。

 ただどうしてもはっきりしなかったのが、自分がどうやってここに来たのかということだ。

 見覚えはない。

 とにかく立ってみようと思った。

「わっ、と、と」

 バランスを取るのが難しい。足がしびれてしまっている。まだ足が寝ているのかもしれない。

 ようやく落ち着くと、彼女はどうやら騒がしい方へ、近付いていった。

「はいはい! もうすぐ締め切りだよ! 乗車券を持っている人は出して!」

 豚のようにでっぷりと太った、愛嬌のある駅員だった。

 クロウは彼に話しかけた。

「あの、すみません」

「あぁん? どしたい?」

「乗車したいのですが、どうしたらよいのでしょう」

「乗車したいんなら乗車券出してくれないと、嬢ちゃん!」

「え……?」

 クロウは自身が着ている黒のスーツのポケットをまさぐってみた。見つからない。第一クロウはこんな服には見覚えがない。内ポケットにもない。

 念のためハットの裏側も覗いてみたが、同じようになかった。

「あの、ないんですが」

「なけりゃあ乗せてやることはできないね」豚のような駅員は溜息を吐いた。

「あの、どうすれば乗車券を……」

「乗車券がないやつは取りあえずあっちに行ってな! 乗りたい客が多くってこっちはでんやわんやだよ、まったく」豚はシッ、シッ、と手を動かした。そして声を再び張り上げる。「はいはいはーい! 十九時三十七分発、(ぬま)(はし)もうすぐ発車ですよー! 列車は止まりませんので先に私に乗車券を見せてくださーい!」

 クロウは喧騒の中からはじき出されてしまった。

 後の彼女の眼には、乗車口に群がるたくさんの人の影と、他の空虚な空洞のような駅舎が映っていた。薄い煙のようなものが舞っている。

 クロウは困ってしまった。ここに辿り着いた経緯はわからないが、クロウは何だか列車に乗らなければいけない気がしたのである。それは、なぜ自分がこんなところにいるのかという疑問への答えになるはずだったし、理由はわからないが駅にいたなら列車に乗らなくてはならないはずだとも思ったからである。

 あるいは自分は列車に乗ってここまで来たのだろうか。

 あるいは誰かを待っているのか。

 前者でないことは確実だ。ならば自分は駅なんかで眠るはずがないし、待ち人があるにしてもその待ち人が思い当らなかった。

 そして何より、クロウ自身が「列車に乗らなければ」という思いを強く抱いている。

 クロウは再び歩き出した。

 乗車する人々の影に話しかけていく。

「あの、すみません。乗車券は余ってありませんでしょうか?」

「余分な回数券などあったら、私に一枚譲っていただけませんか。お礼はついていって必ずします」

「どこまでの乗車券でもいいのです。どうか、恵んでください」

 だが、人々の影はそんな彼女に見向きもしなかった。

 まるで、人々と彼女の間に何か見えない壁でもあるかのように。

 困り果てていたところへ、ふと一人の男性から声をかけられる。

「もし、そこのお譲さん」

「はい」

「一枚なら余っていますが、譲ってあげましょうか?」

 その男は亜麻色の髪をした、身なりの良い人であった。ゆったりとしたシャツにネクタイを締め、犬を一匹傍らに連れている。

「この連れの分が一枚必要かなと思ったんですけど、どうやら要らないようです。一枚余っちまいましてね。よかったらいかがです?」

「ありがとうございます。このお礼は必ずいたします」クロウはその乗車券を受け取った。

 男は破顔する。

「はははは。いいんですよ。お礼なんて。でもその代わり、ひとつお願いがあるんですがね」

「何でしょう?」

 クロウは尋ねた。

「僕と降りるとこまで一緒に行きましょう。旅には道連れが欲しいもんだ」

「それは……。ええ、そんなことでしたら、是非、こちらこそよろしくお願いします」

「そんなら決まった。僕の名前はプラトーン。こいつの名前はソクラテス。ほらっ、ソクラテス、挨拶するんだ」

 ワォン! と元気な声が駅舎に響いた。

「きみの名前は?」

「私は、」

 クロウは戸惑うようにした。

 名前に一瞬違和感を覚えたからである。

「私は……クロウ。クロウです」

「クロウ、か。よろしく頼むよ。荷物はいいのかい?」

 プラトーンは彼女の足元と手元を見た。

「ええ。ありません」

「そうか。実は僕もなんだ」

 プラトーンはソクラテスを抱え上げた。

「持って行くのはこの服と、あと、こいつの首輪くらいだね」

 行こう、とプラトーンはクロウと乗車口に近付いていく。

 先ほどの豚のような駅員に乗車券を渡して、二人と一匹は列車に乗り込んでいった。……

 

 

 

 沼の端

 

 クロウはプラトーンに問われた。

「きみは一体どこまで行くの?」

 クロウは首を横に振った。

「わかりません。行き先も、やって来た所も、わからないのですから」

「そいつは駄目だな」

 プラトーンはシートの隣の肘掛けに頬杖をつきながら説教するように言った。「自分が何者か、わからないのではどこへ行っても同じことだ。君は危険だし、その足は君に苦痛しか感じさせないだろう」

 車窓からはぼんやりと暗い夜の景色しか見えない。

 クロウは無言で目を下げた。

「何も覚えていることはないのかい?」

「いいえ」

 クロウは力なく言った。

「あります。幼い頃の私。大好きだった場所。陽の光。そしてお母さん、お父さん」

「お母さん、お父さん? なにそれ?」

「あ……」

 クロウは狼狽した。自分のような境遇じゃない者もいたのだ。それに「お母さん、お父さん」という言葉はひどく改まった言い回しだ。

「パパ、ママ、と、その頃の私は呼んでいた気がします。いえ、実を言うと今も……」

「人なんだね?」

「そうです」

 クロウははっきり頷いた。

 プラトーンも得心したらしく、うんうんと頷いている。

「もうちょっと詳しく教えてくれないかな」

「ええっと……」

 クロウは必死に思い出そうとした。

 プラトーンと話していると、だんだん自分が何者だったか、思い出してくる。

 そうだ。

「優しくしてくれて……守ってくれて……遊んでくれて……えっと、他には」

「ひょっとして、ご飯をくれる人?」

「ええ、ええ。そうです。ご飯をくれる人のことです」

「なぁるほど」

 ご飯をくれる人のことか、とプラトーンは得心顔だ。クロウもそれでようやく伝え切れたのかと安堵する。

 それと同時に、プラトーンの孤独で不安だった境遇が忍ばれて、胸が締め付けられた。

 パパもママもいない生活とはどういうものだろう。それを想像する資格も、クロウにはない気がした。

「パパとママはどこへ行ったの?」

「それが……わかりません。そこは記憶がないのです。ですが……パパとママのことを思い出そうとすると、何だか悲しくなってくる気がするのです」

「それは、どうしてだろうね?」

「わかりません。別れたときに、何かあったのかもしれません。何か、すまない気持ちが、ひどいことをし、ひどいことをされたような気持ちが、胸の中にあるのです」

「喧嘩でもした?」

「思い出せません。でもあるいは、そうかもしれません。どっちにしろ、もう詳しくは思い出せないのです」

「うーん……」

 プラトーンは腕を組んだ。足元でソクラテスがバウッ、バウッ、と吠えた。クロウは手を伸ばして背中を撫でる。

「一つ、考えたことがあるんだけど、言っていいかな?」

「どうぞ」

「君は、そのパパとママの所に帰ったほうがいいんじゃないかな?」

 クロウは頷いた。

「私も実はそう思っていました」

「だから、こうするといいんだよ。君は、記憶をたよりにパパとママを探す。どこから来たのかわからないんだから、とにかく気が引かれた所には全部降りてみるんだ。そこで、気の赴くままに歩き回ってみればいい。ほら、これで君は『パパとママを探す少女』になった。ハハハハ、少女、というのはちょっと失礼かな。でも語呂がいいんだよ。女性、というのは何だかパッ、としないし、妙齢の女性というとちょっとしつこい。ねぇ君はどれが好き?」

「……私にはわかりません」

 クロウは目をぱちぱちさせた。

「プラトーンさんのお好きなものをお選び下さい」

「そいつは困る。これは君にとって大切なものだからね。自己の存在を肯定するために重要なイメージだ。クロウが選ばなくてはいけないのだよ。それとももっといいのが思い浮かんだ?」

「えっと……それでは、」

 クロウはおずおずと言った。

「父と母を探す、クロウ……で」

「そうかい? ならそれでいい」

「パパとママ、というのは恥ずかしいのです」

「そう? 何だかよくわからないけど、それはきっとクロウにとって親しみの証のようなものなんだね。でもそれで結構。べつに決まりがあるわけじゃないが、自分のすべきことが明確でないならば、存在はひどく不安定になるからね」

「プラトーンさん……すごいですね。私は生来怠け者でいつも窓の傍でお昼寝ばっかりしていた気がします」

「ぼくも昔からこうだったわけじゃないがね。ある先輩から、教わったのさ」

「その先輩は?」

「さぁ……見かけなくなっちまったよ。きっと年も年だったから、死んじまったのかもしれない。でもぼくにとっては恩人だったんだ。生き方を教えてくれて、いつも世話してくれた」

「それでは、その方がプラトーンさんにとってお父さんとお母さんだったのですね」

「そうなるのかな。とにかくぼくにとって大切なものだったんだ」

 列車はガタゴトと絶え間なく夜の海を切り裂いていく。

 

 クロウとプラトーン、ソクラテスを乗せた列車は走り続けた。そして、やがて停まった。

「ここは?」

(ぬま)(はし)さ。ぼくはここで降りるよ。ぼくの用事はここにあったのさ。どうだい、綺麗なところだろう」

「わあ」

 クロウは窓から顔を出して見渡した。一面水面(みなも)であった。薄い青の一面。

 ところどころに水連があるが、それも多くない。水面は非常に高く、列車の足元まで来ている。

「君も降りるだろう? どうせ終点だ」

「あ。そうですね。……いつの間に降り過ごしちゃったんでしょうか」

 クロウは運行表を眺めた。

「この列車は乗客が降りたいところでしか停まってくれないよ。この終点以外はね」彼は笑いながら言った。「だから行き先のない旅なら、よく外の景色を見ておくんだ。降りたい場所を見つけたら、そう強く思うんだ。列車は停まるよ。一番近い駅で」

「なにはともあれ、不思議なことですね」

「さてね」きょとんとしているクロウに、プラトーンは煙に巻くように笑った。そして、立ち上がる。

「ぼくらも降りなきゃ。荷物を降ろして、ソクラテス。よかったらよく見ていけばいいよ。きみも」

 クロウは「はい」と言った。

「ぼくの用事のあるところへ来るかい?」

 クロウは迷った後「はい。どこに行けばいいのかわからないので」と言った。

「そいつは駄目だな」とプラトーンは苦笑しながらまた同じことを言った。

「君の行きたい場所を探すんだ。そして思ったらすぐ行動。そんな君のことを迷惑がるやつなんていないさ。いたとしても気にしないほうがいい」

「それは……何故でしょうか?」

「何故かって? ははは……それも君で見つけなくてはならないのさ。それがぼくのパパとママの教えだ」

 ずいぶんと変てこなことを教えるパパとママだなぁ、とクロウは思ったが、何も言わなかった。

 プラトーン、ソクラテスと共に列車から降りると、駅のプラットフォームは水面スレスレに浮かんでいた。ちょっとでも水嵩が増えたらすぐに水びたしになってしまうだろう。

 彼女らの前には数艘の舟が並んでおり、そこに水夫が一人ずつ乗っていた。

 異様に水を怖がるクロウに、プラトーンは笑いながら手を引いてやった。

「意外だな。きみがそんなに取り乱すとは」

「だって、まさかこんなところを通っていくなんて思いませんでしたもの」

「震えているよ。きみは怖がりだねえ」

 おそるおそるクロウは船に乗り込む。

「だって、こんなに水がたくさんあるところは初めてです」

「ははは。怖いならぼくに捕まっていればいい。でもじきに慣れるよ」

 クロウはプラトーンにしがみ付いた。震えてはいたが、その顔委はやがて好奇心に満たされ、まじまじと水面を見つめるようになった。

 水の奥には、やや見えにくいが魚がいる。ヒラヒラとヒレを使って泳いでいく姿を彼女は目で追う。そして、さらに奇妙に思ったのは、水の中のはるか下、なかなか見えにくいのだが、クロウは見た、水の下に建物や階段があるのを。クロウはすごく奇妙だと思った。

「きみはお嬢さまみたいだね」

 プラトーンの小言も彼女は聞こえない振りをして、水面から上へと目を上げた。水面から上にはいくつかの島ができており、そこには綺麗に色をつけた森がある。

 木の根元には白い花と青い花。お互い戯れるようにくっつきあって咲いていた。

 太陽はちょうど上がったばかり。朝の光に輝いて水面はキラキラと金に輝く。

 風が吹いてさざ波が立つと、そこに反射していた陽光が揺れて、いっそう綺麗になる。

「きみは沼や湖を見たことがないのかい」

「ええ。一度も……」

「本当かい」

 プラトーンは大げさなほどびっくりした。その後で、また笑う。

「ま、実はぼくもある年齢まで見たことなかったけどさ」

「……」

「きみは、本当にお嬢さまだね」

 クロウはそこで初めて顔を上げ、プラトーンを見つめた。彼の顔は間近(まぢか)に迫っていて、彼女はちょっとドキリとした。

 顔を近付けてくる彼に彼女はまたドキリとして目を(つむ)ってしまうが、

「えい」

 と、頬を突っつかれて、大いにびっくりして、危うく水に落ちるところだった。

「私、泳げないんですよ」

「そういう記憶はあるんだから不思議だ」

 陸に上がってから、クロウは頬を膨らませた。プラトーンは笑って漢書所をひやかしたので、彼女の頬はいよいよ風船のように膨らむ。

 対岸に着くと、意外なほど地面はしっかりしていた。木々は紅葉し、地面には花が咲いている。鳥たちは群れをなして枝にとり付き、高い声で歌う。

 プラトーンは歩く道中、こんな話をした。

「ここは不思議なところなんだ。別に冗談言ってるわけじゃないよ。今ぼくは真面目にきみに話しているんだ」

 そう言うが、彼の顔には淡い笑みが浮かんだままだった。

「きみは耳にタコができた話かもしれないけどね、こういう不思議なところに居るときほどね、きみはきみ自身を頼りにしなくちゃならない。こういう場所にいるからこそだ」

 彼女は、さっき舟で水を怖がったことを怒っているのですか、と聞いた。しかし彼は笑ってちがうと言った。

「あれはすごくよかったよ。とてもきみらしかった。大事なのは、自分の力だけを使って切り抜けることじゃないんだよ。ただ、きみがきみ自身として選択することを守り通さなきゃいけないってことなんだ。ぼくに頼る決断をきみがしたのなら、それはそれで良いことなんだ。ただそれが君自身の決意に基づいているかどうかさ」

「私」とクロウは言った。「わかりません。そんなこと考えていませんでした。ただ、とっさに」クロウは下を歩くソクラテスの背中に向かって言った。「ね。あなたもそうよね。怖かったらすぐプラトーンさんに飛び付くはずだわ」

 プラトーンは穏やかに「それでいい。それでいいんだよ」と言う。そして何事かと上を向いたソクラテスに笑顔を向け、そして前を見据え、誇らしげな顔で言った。「ちなみにここでは犬が一番偉い」

「え?」

 クロウはびっくりした。

「じきにわかるさ。ここの仕組みが、さぁ、見えたよ。ぼくの知り合いが住む家だ。ちょいと一言挨拶してくるから、きみは近くにいな」

「私も」とクロウは言おうとした。

 しかしプラトーンは笑って手を振る。

「なに、すぐ済ませてくるよ。それほど大事な挨拶ではないんだ。それよりもきみに是非案内したいところがあってね。そこに行こうよ」

 そう言われるとクロウも断るわけにはいかず、「わかりました」と言った。それから、思い出したように、付け加えた。「でも是非あとからでも行かせてくださいね」

 彼は、「グッドだ」と言った。

 

 クロウは数分して戻ってきたプラトーンに、森の方へと連れられていった。

 紅葉の森林を開いて進んで行くと、やがてその奥に開けた牧場のようなところがあった。

 牧場といっても小屋はなく、めいめいの動物が放されているだけだった。いるのは豚、山羊、馬、そして犬、猫、そして人間の子ども。

「さきほどの話の続きだがね」とプラトーンは言った。「ここの世界は不思議だといったろう。ここではそれぞれの心の()(よう)に応じて姿が変わるんだ。どうだい、不思議だろう」

「それって、どういうことですか?」

 とクロウが驚いて尋ねると、プラトーンは微笑んだ。

「あそこに猿がいるのが見えるかい?」

「あぁ、はい」

 木の上に顔の赤い猿がいる。

「彼はけちんぼでね。自分の身内には優しいけど、外には厳しくってすぐ怒り出すから、ああいった猿になったのさ」

「姿が、変わってしまうのですか?」

 クロウは驚いて尋ねた。

「そうだね。心の有り様に応じてその有り様に相応しい生物へと変じるのさ。元は人間だったものも、心が清らかならば、清らかな生き物になるし、心が荒れていればそれ相応に。例えば学者なんかは、よく虫になることが多い」

「虫……」

 クロウは慌てて足元を確認する。

「もしかして今来るときに踏んづけてしまったものに、元は人間だった方が!」

「踏んづけたのかい?」

 プラトーンは大笑した。

「い、いえ」クロウは慌てて否定。「もしかしたら、というだけです。それほど注意しないで歩いて来たものですから。あの私……よく、知らずに虫を踏んでしまうことが多くって、足の下でぴぃぴぃもがいている様を見ると、なんともかわいそうで、私、自分を恨みながら土に埋めてあげたりしてました」

「きみは面白いな」

 プラトーンは笑っていた。

「ぼくなんかはよく虫を捕まえて遊んでたりしていたけどね。でも心配しなくていいんだよ。彼らはそれくらいじゃ死んだりしない。そりゃ痛みくらい多少感じるかもしれないが、ここにいる限りはそのくらいじゃ死なないからね」

「そうなんですか?」とクロウ。

「うん。でもなるべく足元に注意して歩くに越したことはないね」

「はい」

 それからプラトーンとクロウはその牧場の中へ入っていった。

 森が四方から迫っており、牧場もそれほど大きくもないから、森の中の小さな広場のようにも見える。

「あの、だからもしかして、ソクラテスは?」

「気が付いたかい。そうさ。犬はここで一番偉い。つまり、心の有り様が一番清くて健やかな存在が変じるのが、この犬というやつなんだ。ま、それでもソクラテスは別格だけどね」

 ソクラテスは足を上げて耳の裏をかいていた。

 クロウは目を牧場に戻すと、豚の群れが目に付いた。ぶうぶう鼻を鳴らしながら一羽の(はと)を追っかけている。鳩は羽を広げて逃げるまでもなく、ちょん、ちょん、と飛び跳ねながら、豚の群れをからかっているように見えた。

「ちなみに、動物の序列を教えると、一番が犬、その次に人間の子供、そして猫。猫と人間の子どもは同列だ。次に人間の大人。その次は……色々ごっちゃになってぼくもよく覚えてないよ。でも、彼らにはあまり序列とか関係なさそうだね」

「人間の大人より子供の方が偉いんですか?」

「もちろんさ」

 プラトーンは簡単に言うので、クロウは考え込んでしまった。

「私の知っている場所では、順序が逆だったように思いましたけど……」

「往々にして、順序が逆になることはあるのさ。でも覚えておいたほうがいい。人間の大人よりも子供のほうが、人間の子供よりも犬のほうが、より多くのことを知っている」

「そうなのですか」

「信じる人はあまりいない。きみも、信じるかどうかはきみ自身で決めるんだ。徐々にゆっくりでもいい。決められたことに責任を持つためにね」

「決められたことに、責任を……」

「そうさ」

 プラトーンは笑った。

「それは難しい。難しいからこそ誰も自分で自分のことを決めたがらない。でもそれを簡単にこなしてしまえるのが、ソクラテスであり、あそこで駆け回っている子どもたちなんだよ」

 クロウは牧場の奥の方を見た。

 子供が数人笑顔で遊んでいる。周りには羊、猫、馬がいる。

 それからクロウはン源であるプラトーンを見た。彼は「ん?」とこちらを見て、微笑んだ。

「すこし怖くなったかい? ここにいるのが」

「いいえ。あまり……」

「そうかい? それならいいが。見てごらん。どんな心の荒れたやつだって、動物になればかわいいよ」

「彼らに更生の機会は?」

「もちろんある。というより、それはいつでも訪れている。気付かないだけでね。こういう言葉を知っているかい? 『現在は永遠なり。永遠は現在と知れ』」

「何ですか?」

「知らないか。簡単に言うとこうさ。今を大切にしなさい。今について不忠実なる者は、永遠において不忠実なり。今について忠実なる者は、永遠において忠実なり」

「そうですか。では、それなら今も彼らにチャンスは与えられているということですね?」

「チャンスというのは無限にある」とプラトーンは言った。「彼らがそれを掘り起こして形にしないばかりだ」

 プラトーンとそこまで話したところへ、牧場の管理者であるのか、太った背の低い男がやって来た。

 彼は微笑んで手を振った。

「やあやあプラトーンさん。こっちに来ていたんだね」

「やあレスコー主人。紹介しよう、こちらはクロウだ。こちらは……」

「どうも」

 とクロウが頭を下げると、プラトーンは彼と何やら楽しげに話を始めた。レスコーと呼ばれた壮年の男も、クロウのことは放っておいたので、クロウは仕方なく牧場の中を歩き出した。

 足元に気を付けながら。

(やっぱり屋根はないのね)

 牧場の中を探し回ってみたが、どこにも屋根はなかった。

(雨が降ったらどうするのかしら)

 近くに森はあるが、今も冬枯れしつつある。葉が落ちたらどうするのだろう。プラトーンの知り合いの家のようなところに、引き取ってもらうのだろうか。それとも、ずぶ濡れになってじっと雨が止むのを待ち続けるのだろうか。

 牧場に柵はない。逃げ出そうと思えば逃げ出せるだろう。どんな時でも。それを実行するチャンスは永遠に目の前に開けている。なのにまだここにいる意味……。

 ソクラテスはそれを知っているからどこへでも行く勇気があるのだろうか。

 クロウはとあることを考えた。

 それは思ってはならないことかもしれなかった。

 でも現在に忠実なれとプラトーンは言った。クロウはその考えを強く思った。

「プラトーン」

「おや。クロウ。どこに行ってたんだい? レスコーさんが君と話をしたいって言うころには君はいないんだもの」

 クロウはプラトーンとレスコーに近付いた。

「プラトーン。この牧場についてお願いがあるときは、この方にすればいいですか?」

「おや。なんだい。クロウさん。私に何か用か?」

 レスコーがこちらに振り返る。

 クロウは少し迷いながら言った。

「あの、ここで、雨が降ったときはどうしているのでしょうか?」

「んん。みんな勝手に森の中へ避難しているよ。ここの空気は乾いているからね。多少濡れてもへっちゃらなんだよ」

「でも、冬になったら? 私の記憶では、冬になれば葉も落ち、枝が剥き出しになります。そうしたら? みなさんはどこに避難するのでしょうか?」

 レスコー主人は苦い困った顔をした。

「そうなると……濡れるしかないね。どこへも行けないから」

「そうですか」

 クロウは豚や馬、羊たちを見るのだ。

 クロウが何を思っているか悟って心配になったのか、レスコー主人は諭すように言った。

「これは試練なんだよ。雨に打たれて辛い思いをすれば、みんなそれを深く思う。時には何らかの罰だと思えば幸せなんだよ。自分の有り方に疑問を感じるようになるからね。私も昔はその口だったから、わかるんだよ。そうだよ、冬の雨や雪は厳しい。でもそれは試練なんだ。あるべき姿に手を加えちゃいけないんだよ」

 クロウは思った。

 それは確かに正しいことである。

 しかし、クロウは果敢に意志を実行に移した。

「お願いします。あの子たちのために、木の屋根を作らせてください」

「駄目だ駄目だ」

 やっぱりそうであったか、と顔をしかめ、レスコー主人は声を高くする。

「屋根なんか作って何になる。連中は楽をすることを覚える。辛さに打ち勝っていかなければならないのに。いいかい、ここはこういう場所なんだよ。クロウさんが昔どういう場所にいたのか知らないが、勝手な考えで押し通さないで欲しいもんだね」

「でも人間は、雨が降ったら屋根のあるところへ行きます。猫だってそうです。雨を試練だと考える生き物はいません」

「じゃあ恵みだっていうのかい? 馬鹿馬鹿しい! 私はそういうふうに打ち勝ってきたんだ! そしてここの()(よう)を愛しておるのだ。邪魔しないでもらおうか!」

「……」

 クロウは悲しんで顔を伏せた。

「しかし、……」

「詭弁はウンザリだ! おいプラトーンさん、この人を連れ帰ってくれ! ここの牧場の秩序を壊そうとしている!」

 プラトーンは同様に悲しそうな顔をして、クロウの肩に手を置いた。

「今は帰ろう。クロウ」

「はい。でも、また来ます」

「そりゃ歓迎するよ! カラスにでもなっていればね、あなたが!」

 プラトーンは何も言わないでクロウの肩を引いて行った。

 クロウは動物たちのつぶらな、何か訴えかける眼差しを心配して眺めながら、ゆるゆると去っていった。

 クロウはハットを目深に被り、声を殺して泣いた。

 空までもが彼女の心に呼応するかのように、暗く濁ってきた。

「これはまた一雨来るかもしれないぞ」

 と言って、プラトーンはクロウの肩を叩いた。

「やぁよしなさい。流さなければならない涙があるなら泣いてもいいが、泣くのが辛い涙なら止めるんだ。きみにはできるはずだ」

 クロウは嗚咽を発して、顔を覆った。そして手の、細くて白い人形のような甲で、目の涙を(ぬぐ)った。

 そして赤く潤んだ目で、今ちょうど降り出した雨を眺めた。

「やぁ降り出した。よしクロウ。ぼくの知り合いの家まで走ろう。濡れるのは大変だ」

「でも私……」

「とにかく濡れるのはよすんだ。心まで濡れると心が風邪をひくぜ。心の風の看病をするのはゴメンだな」

 さぁ行くぞ、ソクラテス、とプラトーンとソクラテスは並んで駆け出す。プラトーンはクロウの肩を抱えて。

 雨の降る中を家まで走り抜けて、軒下にクロウを離すと、彼はクロウの帽子を取ってやって、濡れた髪の水滴を払いながら、こんなことを言った。

「動物の姿が変わる時間というのが、日付が変わる瞬間なんだ。まぁ、また明日いっちょ行ってみようよ」

「……プラトーン」

「お、なんだい」

 彼女はかすれた声で言った。

「あなたは私のやっていることを(とが)めますか」

「咎めないさ。世の中はそう狭いもんじゃない」

「そうですか」

「ただね、クロウ」彼は真剣なまなざしになって言った。

「泣くのはもうよすんだ。彼らのために流してやる分の涙はもう流したろう? 泣くために泣くような涙は、君自身に毒になるぜ」

「なぜ……」

「答えを示すのは難しい。だが君にはもっとやるべきことがあるはずだ。彼らのためにね」

「……それは」

「祈るんだ。彼らのために」

「祈るって、誰に?」

「さあてね。どこかで見ていてくれる誰かにさ。きみのことも、ぼくのことも、彼らのことも」

「そんな人がいるんですか?」

「きっといるさ。ぼくらは常に誰かに見られているんだよ。だから悪いことはできない。その人に向かって祈るんだ。祈ることは誰にだってできる最初のことで最も確実なことだ」

 クロウはどうやってすればいいのかわからないながらも、プラトーンが目を閉じて少し頭を下げ、手を合わせるようにしたのを見て真似をし、自分も同じようにした。

「口に出して言ってもいい、いやなら心で思うんだ」

 クロウは心で「どうか私達に良い未来が訪れますように」と思った。

 クロウが目を開けると、プラトーンもまた空に向かって祈りを捧げていた。

「これでよし」

「何て祈ったのですか?」

「うん? 秘密」

「ええ、ずるい」

「ははははは」

 プラトーンは笑う。

「元気が出ただろう」そうしてクロウの肩を叩いて家に入れた。「これで我々は一人ではない。どこかで見ている彼が、味方になってくれた」

「本当にいるんですか?」

 プラトーンは微笑む。

「本当にいると思えばいる。いないと思うならいない。それは自由だ。なぜなら、」

「私に関わることだから?」

 プラトーンは言った。

「グッド」

 

 

 

 

 朝になって、クロウは起きた。

 プラトーンの知り合いの家に泊めてもらっていたのだ。着換えてプラトーンを呼びに行くと、彼女は不思議に思ったのだ。

 この家は、プラトーン以外住んでいる気配がない。

 二階に上がると、一方のドアからソクラテスが飛び出してきた。クロウに嬉しそうにじゃれつくと、その部屋の中からプラトーンが出てきた。

「おはよう」と言われたのでクロウもそう返した。

 クロウは何故住んでいる知り合いが一人もいないのかと尋ねようと思ったが、迷っているうちに彼は朗らかに会話をし始めた。

「やあ。いい天気だ。一晩のうちで雨は上がったようだね。見てごらん、気持ちいいよ」

 彼は窓の外の青空を指差す。

「あの、プラトーン」

「お、何だい?」

 クロウは結局口にしないことにした。

「もう一度、レスコー主人のところへ行ってみます」

「おっ、そうかい。まあ慌てなくてもいいよ。お腹空いてるだろう? 簡単な食事なら作れるから是非食べていきなよ」

「……すみません。ありがとうございます」

 クロウとプラトーンは一階に降りて火を起こして食事をした。

「大事なことは、」

 とプラトーンがいう。

「前も言っていた通り、自分自身であることだ。そして自分の決定に責任を持つことだ」

「……それがルール、なんですね」

「その通り、グッドだ」

「グッド」

 クロウは笑ってプラトーンに返した。

 プラトーンと連れ立って牧場に向かう途中、プラトーンはこんなことを話した。

「人が動物に変わったり、動物が人に変わったり、忙しいだろうここは」

「ええ。ですが、皆さん気持ちよく過ごしている気がします」

「ぼくたちは誰かに見られているんだよ。だから心を引き締める。そうしないとぼくらは動物になってしまう。犬でも猫でもない、ね」

「プラトーンさんもそうなったことが?」

「そいつは秘密さ。だが誰にだって可能性はある。今にそれがわかると思うよ」

 プラトーンとクロウが牧場に着くと、どこにもレスコー主人の姿はなかった。

 おかしいなと思って二人で探してみたが、どこにも見つからない。

「レスコーさん!」

 と叫んでみたものの、はい、と返ってくる言葉もない。

 しかし、

「おや?」

 そう呼ばれてキィ、キィ、と鳴く一匹の猿がいた。木の上にいたらしく、真っ赤な顔をして地面に降りてきた。

 その猿の目元には涙が浮かんでいた。悲しそうに手を噛んでいる。

「おやおや、これは……」

「レスコーさん?」

 そう呼ぶと、その猿はウンウンと頷いて、木の上に登って行ってしまった。木の枝に隠れるようにして、そっちこちらを(うかが)う。

「クロウ。わかったかい?」

「いえ……あまりにも突然で……」

「説明すると、彼は猿になった。けちんぼだとああなるんだ。ま、よくあることだよ。レスコーさんはいい人だから、またすぐ元に戻るだろうけどね」

「……」

 クロウは木の上の彼を見つめた。

 彼は泣きながら、謝っているように見えた。

 そんな気がするので、クロウも、ハットを取って、頭を下げた。

「見てごらん。クロウ」

 プラトーンは言った。

「子どもたちが遊んでるぜ。他の動物たちも元気だな」

「そうですね……」

 クロウは生返事をした。元気なのはいいが、昨日の雨でだいぶ葉が落ちてしまっている。もうあと二回雨がきたらどうだろう。

「それで? どうするんだい、クロウ? 旅に戻るのかい? それが君のやるべきことだろう」

「はい。ですが……」

 プラトーンは優しく微笑んだ。

 クロウの答えを待っているようだった。

「ちょっと寄り道です。もう少し、ここでやりたいことがあるのです」

「ぼくは歓迎するよ。それで? 屋根を作るの?」

「はい」

 クロウは頷いた。

「これから木材があるところに行こうと思います。プラトーン、それはどこかわかりませんか」

「ああ、それなら知っている。なるほど、確かに屋根を作るなら木材がなければだめだ。よし、そこに行こう」

 クロウとプラトーンは牧場を出て、プラトーンの知り合いの家を通り過ぎ、大きな白い壁の、木材所に辿り着いた。

 店の人に声をかけると、中から人が出てきた。

「何だい?」

「木材を少し分けて頂けませんか?」

「構わないけど、何に使うんだ?」

クロウは簡単に事情を説明した。

「ふぅん。牧場の雨宿りの場所をねぇ」

「どうしたら譲って頂けるのでしょうか」

「そんなら姉ちゃん。ちょっとここの木工所で働きな。簡単な木工の仕方を教えてやるよ」

「それでは、大体何日働けばよろしいでしょう?」

「うーん。ま、お陽様が四回顔出すくらいは働きな。そうしたら頑丈なやつを作るの手伝ってやるよ」

 クロウは少ししてから、頷いた。

「わかりました」

 プラトーンは驚く。

「きみは本気だね」

「いいえ。まだレスコー主人ときちんと約束をしていません。どちらにしろ材料を用意していて損はないのですから、レスコー主人が戻るまでここで働くことにします。クロウです、よろしくお願いします」

「うん。オレはボッシュだ。よろしく。じゃ、こっちに来てくれ。クロウ」

「はい」

 プラトーンは取り残されて、頭をかいた。

 どうも彼女の順応の速さはものすごい。

 こうまで飲み込みが速いなら、じきに自分の存在は要らなくなるだろうと思う。

 

 四日、五日ほどしてから、クロウはボッシュを連れて、あの牧場にやって来ていた。

 そこにはプラトーンと、元の姿に戻ったレスコー主人がいた。

「クロウさん……」

「レスコー主人」

「クロウさん、前は済まなかったよ。カラスになれ、なんてどうしてあんな酷いことを言えたんだろうね。わしはもうすっかり反省しておるよ」

「いいえ。元に戻れてよかった」

 レスコー主人は笑った。

「ところで、その、君はやっぱり屋根を作るのかい? その、雨宿りの場所を」

「お許しがいただけるなら」

「いちおうオレん所の木材も持ってきたぜ」

「そうかい。しかし、うーむ……」

 プラトーンは言った。

「クロウ。レスコー主人にもっとわかりやすく言うんだ。前はよくなかった。ちゃんと理を説いて話すんだぜ」

「はい」

 クロウは頷く。

 レスコー主人と彼女は目を合わせた。

「レスコー主人のおっしゃられることはもっともだと思います。でもその上で、私は彼らのために雨宿りの場所を作ってあげたいのです」

「それは?」

「なぜなら、痛みや苦しみから逃れるための努力ばかりが、彼らを成長させるのではないと思うからです」

 レスコー主人は(うつむ)いた。

「雨宿りの場所を作る。それが、彼らのためにそれほどためにならないものだとは思えません」

「わかった、わかった」

 レスコー主人は手を振った。

「君の言うとおりだ。事実そのとおりだ。何にもわからない。みんなが良くなる方法は。ただみんなが、それぞれ気をつけなければいけないのかもしれん。それでそこにおいて、雨宿りの場所を作ることは、ただ優しいってことなのかもしれんな」

 クロウは何も言わずに頷いた。

「作るがいいよ。しかし一個だけだぞ。あまり大きすぎると太陽の光がなくなってしまう」

「はい」

 クロウは上着を脱いで、ハットを取り、腕をまくり、木工に取りかかった。

 ボッシュ主人と二人がかりでの作業は、瞬く間に終わってしまった。

 それは木の近くに作られた、動物が身を寄せ合えば軽々入るほどの大きさの、小さく頑丈な雨除けだった。

 クロウは作業が終わると同時に、レスコー主人に呼び出された。

「この変化を、信じてみることにするよ。わしは否定して変わり、きみは肯定して変わらんかった。その、どこかで見ている者の決定を信じよう。ところで、ひとつお願いがあるんだけどいいかな?」

「はい?」

「きみは旅人だったろう? またね、ここに戻っておいでよ。きみが作ったあのささやかな道具がどんな作用を彼らに及ぼすか、ちゃんと見てほしいんだ。なに、失敗しても怒りゃしないよ。私もきみのことを信じたんだ。きみが来たとき、きみと一緒に受け入れてみせよう」

 クロウは嬉しくなって、思わず顔を(ほころ)ばせて、言った。

「はい。必ず、また来ます」

「うん。またおいで」

 クロウは手を振ってレスコー主人や動物たちと別れた。道の途中でボッシュ主人と別れるとき、彼はこう言った。

「オレはあんたが偉いのは、全然自分のためじゃねぇってところだと思う。結構気に入ってるんだぜ。用事なくっても、また戻ってきたらオレんところ顔出しな。待っているよ」

 クロウは静かに、そして嬉しそうに微笑んだ。

「はい」

「そんじゃな。おーいプラトーン、この別嬪さん大事にしろよー」

 彼は機嫌よく笑って去って行った。

「彼は我々のことを邪推しているようだね」

 からかい口調で、プラトーンはクロウに話しかけてくる。クロウは少々恥ずかしくなり、不機嫌な顔をして誤魔化した。

 そうしてプラトーンは言った。

「君との別れも近いね」

「えっ」

 クロウは驚いた。

 でもプラトーンは続ける。

「君は旅を続けるんだろう? なら、こっちに来るんだ」

 プラトーンはクロウの腕を引いて、かつてクロウがこの街にやって来た駅とは反対方向に向かって歩き出した。

「プラトーン」

 たまらず呼びかけるが、

「恐がらなくていい。駅はもう一つある。これから先に行くなら、もう一つの駅に行かないといけない」

「そうではなくて、プラトーン、あなたは私と一緒に来ないのですか?」

 プラトーンは「なぜ?」と言って振り返った。

「ぼくは旅をする気なんてないよ。いいかい、覚えてる? 君の旅の目的を? 君は君のパパとママのところへ戻らないといけないんだろう? 記憶を頼りに」

「そ、それはそうですが」

 クロウは少し足を引きずるように歩いた。

 プラトーンは不審そうな顔をした。

「行きたくないの?」

「そういうわけではありません」

 クロウは足を止めた。プラトーンも止める。

「けれど……」

「けれど?」

「……」

 クロウは何て伝えればいいのかわからずに、戸惑った。

 困っているところへ、プラトーンはくすりと笑って、彼女の手を掴んだ。

「君は口下手なんだね。ぼくを口説こうとしているのかい?」

「……」

「けれどそれは駄目だ。クロウ、もしそうならどんなに嬉しいことか。だけどね、それは駄目なんだよ、クロウ。当初の目的を見失ってはいけない」

 クロウは黙っていた。

 プラトーンは森の中へずんずんと入っていった。ソクラテスがびったりついてきている。

「当初の目的を忘れることは良くないことだ。クロウ、ぼくは言ったね。自分の決めたことに責任を持つんだ、と。あれはそういうことなんだよ。君は今何が何でも列車に乗らなくてはならない」

「あなたと離れるのはいやです!」

 プラトーンは足を止めて振り返った。その顔には寂しげな微笑みが浮かんでいた。彼の目には、必死に何か言い訳を探しているクロウの顔が映っていた。

「あなたが一緒に来てくださらなければ、私は列車に乗りたくありません! それが叶わないならここに残ります!」

「クロウ……」

 彼はいっそう寂しそうにして、涙を流しそうにしていた。

「いいかい。よく聞くんだ」

 プラトーンは背を向けて一心に森の中を進んでいく。クロウを引っ張りながら。

「それは間違いなんだ。君が君自身との契約を書き換えるというなら、それはきっと正しく見えるかもしれない。でもそれは間違っているんだ。君は以前した君の発言を無かったことにはできないはずだ。その時の感情で前の決定を(くつがえ)して、新たな決定を授けるということは、変節というんだ。裏切りというんだ。卑怯というんだよ、クロウ。わかるかい? 自身に対して、裏切ったことになるんだよ。それは以後、ぼくはよくても、君をずっと苦しめることになるだろう。そんなことぼくができるわけないよ。クロウ。自分の感情をコントロールするんだぜ。それができないなら、いつか獣になる」

 プラトーンは彼女を引いていく内に、深い森林の中にある蔓草(つるくさ)が生い茂った駅舎に辿り着いた。

 そこは静かな森のオアシスだった。常緑樹の群れがあり、下には雑草が生えていた。その中心に列車の線路がまさに通っており、今まさに列車が停まっていた。

「ここから『石の橋』を通って『機械の庭』へと行くことができる。ほら切符。これを車掌さんに見せて」

 クロウはプラトーンから切符を一枚手渡された。彼はそれをポケットから出した。

 プラトーンはクロウを車掌さんのところへ連れて行き、切符を見せた。車掌さんはそれを受け取って二つにちぎり、半分をこちらに返そうとした。

 一瞬、「どちらに?」と窺うような目をしたので、プラトーンはクロウを指した。車掌は半分の切符をクロウに渡した。

 クロウはもうここに残るわけにはいかなくなった。けれどプラトーンはここから離れないという。彼女は彼がいないと心寂しかった。

「さようなら、クロウ」

「プラトーン……」

「おや、まだ出発まで少し時間があるね」

 彼は駅舎の時計を見て言った。

「少し話をするだけの時間はあるね」

「あの、プラトーン……」

「何だい?」

「一緒に来ていただけませんか?」

 彼はそれに答えず、ただ微笑みを浮かべるばかりだった。

「ところで、気付いていたかい? ぼくがあの牧場出身だってこと」

「ええ。何となく……」

「そうか」

「でもそうはっきり言われると、驚きます」

 プラトーンは笑った。

 そのとき、止まっていた列車のエンジンが、動き出す音がした。

 プラトーンはクロウの体を押して、列車に乗せる。

「実を言うとね、あの家も本当はぼくの家なんだ。あそこは知り合いの家じゃない。ぼくの家だったんだ。ここはぼくの街だった。……気付いていた?」

 彼は様子を窺うように上目遣いで尋ねた。

「はい。少し……」

「そうかい。だったら他の謎も大体解けることだろう。ぼくは、きみを待っていたんだよ」

「あなたは私を知っていたんですか!」

「おっと、」

 彼女が驚いて尋ねた矢先、ソクラテスが列車のクロウの足元に飛び込んだ。

 尻尾を振って、彼女を見上げている。

「ソクラテス、君も行くのかい?」

 ソクラテスはプラトーンを振り返って、何か言いたげに、じっと見つめている。

「……そうか。それが君の決定なんだな。わかったよ。彼女のことをよろしく頼むよ」

 任せておけ、と言わんばかりに、ソクラテスはバウッ、と吠えた。

 列車がいよいよ音を高く立てて、列車の準備が終わったことを告げる。

「最後に一つだけいいかな、クロウ?」

「はい。何ですか?」

「ぼくはあの牧場にいたとき、ある動物の姿と、この今の姿を代わり番こに成していたんだけど、君に、僕が前に何の動物だったかわかるかい?」

 クロウは少し悩んだ。けれど、ぽっ、と思い付いたものがあった。

 それはなんら確証がなかった。

 やがて、列車が少しずつ動き出す。

「猫、ですか?」

 叫んだクロウに、プラトーンは満面の笑みを浮かべた。

「さようなら、クロウ! また会う日まで!」

 遠ざかっていく。

「さようなら、ソクラテス! 彼女のことは頼んだぞ! しっかりやれよ!」

 ソクラテスは窓から顔を出して、「ワンッ!」と吠えた。クロウも窓から顔を出して、

「さようなら!」

 と言った。

 プラトーンの姿は、みるみると小さくなり、やがて木の葉っぱの陰に隠れて、見えなくなってしまった。

 

 

 続きます 

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