1

「ああ、困った! 困った!」
 男が行ったり来たりしている。
「困ったなあ! ああ、困った! どうしよう! どうしようかな……どうやって疑いを晴らせば……」
 ひょっこり女が廊下から顔を出した。
「何を悩んでおいでですか? 先輩」
「タマゴ!」
 タマゴと呼ばれた女はひょこひょこと部屋に入ってきた。
 背の小さい、髪が黒く、美しい少女であった。
「タマゴですか? 私はタマゴと呼ばれるのを先輩にしか許しておりませんが……できれば、本名をきちんと言っていただきたく思います」
「タマゴ! 女ってのは、いやなものだよな!」
「はあ」
 何とも分かりかねる様子だった。
 男のほうはまたも部屋を行ったり来たりしている。
 何度も一人でぶつぶつと愚痴を言い、頭を抱えてうなっている。
「もうだめだ! 俺は破滅したんだ!」
「訳を」
「は?」
「訳を、お話しください。先輩」
「ふむ」
 そうされるのを待っていたかのように、先輩と呼ばれる男はしたり顔で微笑んだ。
「嬉しいな、タマゴ。実は、俺はおまえに助けを求めていたのだ!」
 先輩と呼ばれた男は中村集輔(なかむら しゅうすけ)といった。
 背は一七○センチほど。中肉中背。しかしどこか穏やかな顔立ちをしていて、男性的というより、どこか中性的な形姿だ。
 タマゴは、先輩の中村集輔から助けを必要とされていると聞くと、手を合わせ、胸元にぎゅっと当てた。
「何でもおっしゃってくださいませ」
「俺は大学にあるガールフレンドがいる」
「ガール」
「そいつ……いや、その方とは大変仲のよい付き合いをさせてもらっている。ここまではいいか?」
「はい。先輩」
「だが、ちょっと面白くない方向になってきた」
「はい」
「俺たちがここに一緒に住んでいることがばれてしまったのだ」
「は」
 タマゴは目をしぱしぱさせた。
「俺たちが、まるで恋人のようじゃないかと疑いをかけられているのだ!」
「わたくしたちは、ただの先輩と後輩という仲にしか過ぎません!」
「全くそのとおりというやつで、どうにか俺は彼女に説明しなきゃならん。彼女ときたら……ああ、説明のしようがない。思い出すだけでも心が凍り付くよ。あの剣幕といったらな!」
「先輩」
「何だ」
「お力になりたく思います。わたくし」
「そうか! 助かる! さすがタマゴだよ!」
 中村はタマゴの手を取って喜んだ。
「俺たちがただの先輩後輩、いや、尊敬し合える友人だということを証明するにはお前の力が是非とも必要なのだ。ああ……だがまあ、釈明するのも大変だ……事実一緒に住んでるわけだからなあ」
「わたくし、直にそのがーるふれんどさんに談判してきます」
「早まるな馬鹿!」
「はっ」
「おおすまん! 馬鹿じゃないよな、タマゴは! 俺の大事な友達だ! ああ……いつかばれるとは思っていたのだが……ま、そうだな。早々にばれてくれてよかったかもしれん」
「説明してはいけないのでしょうか?」
「説明? 何のだ」
「先輩とわたくしの両親のことでございます」
「無理だ。放っておけ!」
「しかし。……どうしたらいいでしょうか」
「ふむ」
「わたくし、こんなに先輩のことを敬愛申し上げているのに、何にも力になれないとは!」
「何でもしてくれるのだな」
「はい! 何でもさせてください!」
「ありがとうタマ!」
 抱き合う。
 しかし、とくにお互いにとって意味のある行為とはいえない。
「では、さっそく力になってくれないか」
「何を致しましょう」
「何をか! うむむ……ま、待ってくれ」
 中村は腕を組んでまた部屋を行ったり来たりする。
 何かが閃いたように目を大きく開ける。
「閃いたぞ! これで俺たちの誤解を解くことができる!」
「直談判ですか!」
「考えが浅いな。タマゴ。おまえが俺のジュンちゃんにどう頑張って説明しても、ジュンちゃんは一向に信じてはくれんぞ」
「ジュンちゃん……」
「おっと。すまん。城口さんだ」
「はい。……あの、お言葉ですが」
「ん?」
「どうして……でしょうか。わたくし頑張ります! ジュンちゃんさんは信じてくれるはずです!」
「物事ってのはそう単純にいかないんだよ!」
 ソファーに身を投げる。
 不安げに見るタマゴ。中村は溜息をつく。
「まだお前には早いかもしれんが……たとえば俺が犬が嫌いだとしようか」
「はい」
「犬が嫌いなんです! と言って、お前はそれで信じるというのか?」
「はい」
「甘いな! お前は直前に俺がとても甘い抱擁をその畜生と交わしていたのを見ていたらどうする?」
「ああ、わたくし、どうしましょう! 信じたいけど信じられません!」
「尻尾振って俺にじゃれついて、それを俺がまんざらでもないような顔で見ていたらどうする?」
「わたくし、先輩のことを信じることができません!」
「万事そうなのだよ。言葉とは何てはかないものなのか。まあ見ているがいい。明日また連絡を入れよう。大学で指定の場所へ来てくれ。そこに城口さんや、他の女子たちも集まらせておく。はあ……」また中村は溜息をつく。「なんせ、俺に実は愛人がいましたなんて状況になるんだからなぁ……どこから嗅ぎつけたんだか……まっ、放っておくのが俺の流儀だが、今度は今度、実に嫉妬心に溢れた彼女を気に入っちまったもんだ。俺は毎日メールをしてやらねばならんし……ま、可愛いから悪くないんだが、愛人がいましたなんて他の女子たちに言いふらしたのがやはり俺を困らせたな……最低なやつだと思われるのは勘弁してほしいし、いつまでもその調子だと今後一切俺に女が寄りつかなくなるぞ! そうなったらどうなる! 俺の青春!」
 
 次の日。
 食堂にやって来たタマゴ。
 奥にカフェがあり、そこに十二時に来てくれと言われたので。
 食堂に入ると、連絡を取り合っていた中村が走って来る。
「よし。やって来たな。腹へってるか?」
「はい」
「よしよし。まずは一仕事終わらせてしまおう。何かご馳走してやるからな」
「いえ、大丈夫です。わたくしは一体何をすればよろしいでしょうか」
「状況を説明しよう。すぐそこの奥にみんなが集まっている。今からそこにお前を連れて行く」
 タマゴはぶるぶる震え出した。
「わたくし、緊張してきました」
「怯えるな! 怯える必要なんてないんだぜ! おっ……えらい、化粧してきたんだな」
「はい……いつもより念入りに」
「まあ難しいことは要求せん」
「というと?」
「ただ『はい』と言っていればいい」
「はい?」
「俺の仲間たちが色々質問するだろうから、それに『はい』とだけ言えばいいのだ」
「何だ。とっても簡単そうですね」
「だろう?」
「でも、たったそれだけで大丈夫でしょうか?」
「何がだ?」
「あの……説得は無理だということが分かっているのですが、わたくし、いざというときのために、談判書を書いてきて、いつでも読み上げられるよう練習してきました。しかし緊張でどうにかなってしまいそうです。胸がどきどきしてきました!」
「いいんだよ! 俺の言うとおりにしていれば何も問題はない!」
「ですけど!」
「先輩に全部任せておきなさい!」
「はあ……」
 タマゴは不安げに手を合わせた。自然、それは祈るような格好になる。
 はい、と言うだけで解決するなんて一体どういうことか?
「みんな! 待たせたな。紹介する。こちら向井たま子さんだ」
 タマゴは慌ててお辞儀する。
「我々はある事情から一緒の家に住んでいる」
 ざわざわ。
「他に同居人はいない。大家さんがたまに様子を見に来てくれるが、本当にたまにだ。後は一人一人別の部屋に住んでいると思ってもらって結構! さて、質問は?」
 席に座っていた女子の一同がめいめい立ち上がる。その中心にいた女子がいちばんきつく睨んでいる。どうやらこの人がジュンちゃんかとタマゴは思った。
「たま子さん、あなた、一緒に住んでるって本当?」
「はい」
 隣にいる女子からも声が飛ぶ。
「お料理得意って本当?」
「はい」
「彼に作ってあげてるの?」
「はい」
「ねえ、あなたエッチなビデオ好きって本当?」
「はい」
「コレクションしてるとか?」
「はい」
「ええ!」
「なんでそんなはっきりと!」
「こ……これは、実はわたしも信じてないんだけど……え、SMプレイが好みとか?」
「はい」
「何でそんな堂々と!」
「きゃあ! 恥ずかしい!」
「妙な道具のコレクションが部屋の棚にかざってあるらしいね……」
「はい」
「間髪いれず!」
「一日に五回はお仕事するって本当?」
 タマゴは首を傾げたが、わきを中村に突かれ(はいって言え)と言われる。
「はい」
「……信じたくない。こんな子が!」
「事実なのかしら」
「はい」
「あぁもう! ちょっと躊躇う仕草を見せなさい!」
「はい」
「……いい? これも聞いたんだけど……たまに部屋に小さな男の子連れ込むって本当?」
「はい」
「何てことしているの!」
「SMにショタコンだなんて!」
「拾った髪の毛のコレクションまでしてるらしいけど?」
「?」
 またタマゴは首を傾げる。
 中村はすかさず耳打ちした。(大好きです。と言え)
「大好きです」
「何てこと! ここに大変な人がいるわ!」
「どうやって保管しているのかしら」
「それは、こう……ピンセットで?」
「ねぇ……もうこれで最後にしたいんだけど……あなた。風呂上がりはまっぱで部屋を歩いてるって本当なの?」
「はい」
「変態よぉ――っ!」
「そんな、こんな子が露出狂だなんて!」
「ごめんシュウ君! あなたを疑って! あなたは浮気なんかしてないのねっ! こんな最低なわたしを許してぇぇ!」
「いやあ、なにを言ってるんだい」
 中村は満面の笑みだ。「君の言ったことなんて、全然へっちゃらだよ。むしろ勘違いさせてすまなかった。聞いてのとおり、僕とたま子さんには何にもそういう関係のものは無いんだから」
「こんな人と一緒に住んでるなんて……大変ね」
「そうかな? まあ、話題には事欠かないよね」
 中村はすぐにまた耳打ちした。(もう行っていいぞ。また連絡する)
 タマゴは慌ててお辞儀して、食堂を出て行った。
「絶対わたし、シュウくんとあの子は何でもないって、もう疑わない! だって――」
 
 夜。
 一階。中村の部屋。広々としたソファーに腰かける中村に、タマゴが寄る。
「お茶です」
「おお、サンキュ」
「あの……先輩」
「ああ?」
「このような無礼なことを尋ねる許可を与えてください……」
「ああ。いいぞ、べつに。何だ?」
「この前の、わたくしと先輩の狂言がありましたが……」
「ああ」
「あれは、一体全体どうして皆さん驚かれていたのでしょうか」
「ああ? おまえ、わからなかったのか?」
「いいえ……何となく……失礼ですが、馬鹿にされているように感じたのですが、ほとんどのことは意味が分かりませんでした」
「意味が分からなくて幸せだったよ……」
「わたくし、あれでどうして、わたくしと先輩が恋愛関係にないということが信じてもらえたのか合点がいきません」
「世の中の女子ってのはな、あれだけ分かれば男の浮気を信じなくなるものさ」
「わたくし……まだまだ勉強不足なんですね」
「まっ、心配するな! あのあと、おまえが言ったことは全部嘘だったと言っておいた。俺のために一肌脱いでくれたんだ。って言ったら、みんな、『なんていい子なんだろう!』って涙ぐんでいたよ。おまえの名誉は回復しといたから」
「嘘、だったのですか?」
「おまえ、そりゃあ嘘だろ!」
「嘘はよくないと思うのですが……」
「だって、おまえ、髪の毛集めてないだろ?」
「髪の毛を集めるという行為は、黒魔術に関連のあるものだと西洋民俗学で習いました」
「よせ! おまえの考えていることがじょじょに分かりかけてきた!」
「わたくし、こう言ってはなんですが、嘘をつくという行為はよくないと思います。わたくし、嘘も頑張ればいつか本当になる、という素晴らしい格言をどこかで聞いたことがあります。それで、わたくしの名誉を回復した方が何倍も有意義です」
「よせ! おまえは意味を分かっちゃいないんだ!」
「意味なら……そうですね、今度情報処理の授業でパソコンを使うので、その時にこっそりインターネットで調べましょう」
「やめろ! 取り返しのつかないことになる!」
「なぜでしょうか?」
「なぜって! わかるだろ!」
「わかりません……なぜ、そのような、学問の志にもとるようなことをおっしゃられるのか理解ができませんが、先輩のことですから、きっとわたくしより深い思惑を抱いているのだと信じます。よって、今回はわたくし、先輩の言うとおりにしようと思います」
「よし……そうか」
 中村は溜息をついた。「そうか……いや、タマゴはいい子だ。さすがタマゴだな」
「しかしSMというのは一体何のことか大変興味が湧いてきます」
「学問を頑張るように!」
 


 
 2
 
「向井さん!」
 学生ホールで見知らぬ男に話しかけられたタマゴ。タマゴはじっと彼のことを見つめて、不思議そうにしている。
「突然呼び止めてごめん! 実は、聞いてほしいことがあるんだけど……」
「はい」
「実は、君にいろいろな噂があって……」
 男は顔を赤くして、眼鏡のフレームを直した。「ああ! 何て言ったらいいのかわからないよ! こんなことを言う男を馬鹿なやつだと思ってほしくない! ああどうしよう! 伝えたい。この胸の内のパトスを!」
「どうぞ遠慮なくおっしゃってください」
「実は、」
 男は耳打ちした。
「向井さんが、実はSM好きだと聞いて……僕、胸がこんなにどきどきしてしまってるんだ。ほら、触ってみて! もう、君のことがずっと知りたくってたまらない! どうか僕と友達になってください!」
 
 タマゴと中村の家。
 中村は雑誌を読んでいる。ソファーに座って足を組みながら。
 そわそわとタマゴはあちらからこちらに行ったり来たりしている。
「ああ、どうしよう。どうしよう」
「どうしたのだ? タマゴ」
「わたくしの悩み……いえ、非常にお恥ずかしいのですが……先輩にこのことを打ち明けてもよいのでしょうか?」
「お前には借りがあるからな」
 お茶を飲む。
「まあ、何でも聞いてやるぞ」
「お恥ずかしいのですが……」
「何でも言え」
「は、はい」
 胸に両手を置いて、おずおずと。
「わたくしに、男の子の友達ができそうなのです」
「へえ……」
 中村は何でもないといった顔つき。
「よかったじゃないか。異性の友達と過ごす時間はこの世で最も充実した時間だ。大事にしろよ」
「あっ……あの、ご存知かもしれませんが、わたくし、六年間、女子校に通い続けていました」
「知ってるよ。去年に俺たちは再会したんだもんな。おまえと来たら、ずいぶんよそよそしくなっちまって」
「先輩のことは、お慕い申し上げているのですが……ええ、いえ、そんなことは構わないでくださいまし。ええとですね、わたくし、同学年の男の子と友達になるのは初めてなのです」
「ふうん」
「わたくし、とても嬉しい気持ちがしました。とても嬉しいのです。それで……困ったことになりまして」
「どんな?」
「わたくし、先日先輩と狂言を演じましたね?」
「おまえが俺に一肌脱いでくれたやつだな」
「あれの噂がまだ残っているようで……」
「おいちょっとまさか、」
「わたくしが、SMというマニアだと、先方は誤解しているようなのです」
 中村は手で顔を覆った。
「なぜ……それで友達になろうというんだ?」
「共通の趣味が得られたからでしょう」
「共通の趣味と呼べる範疇かそれは?」
「わたくし、できるだけその友人の期待に応えたいのです」
「ぶっ」
 お茶を吐き出しそうになる。
「おまえ! まさかそいつと仲良くなりたいだなんて言うんじゃないだろうな!」
「はい。わたくし、初めての同年齢の異性の友人は大切にしたいと思います」
「やめておけ! と言いたいところだが……おまえはなぜそう思うんだ?」
「だって……とても勇気のいることだと思います。知り合いになったこともない異性に声をかけるのは……わたくしだったらできません」
 普通はしないだろ。SMから発展する友情関係を誰も理解はしない。と中村は思った。
「わたくし、SMという言葉の意味をあれから調べてみました」
「おまえ、やったのか!」
「はい。インターネットカフェで……その時にはあまりよく理解ができませんでした……しかし、勉強不足で理解が及ばないわたくしではございますけれども、それを真摯に愛好してらっしゃる方がこの世に大勢いるということは、少なからず、私の頭でも理解することができました。ちょうど、映画の恋愛物語を愛好する人びとが大勢この世にいるように」
「SMと映画の恋愛ものを並べて考える人間を俺は初めて見たよ」
「わたくし、彼の期待を裏切りたくないのです」
「ふん。おまえ、それは怖いからか?」
「怖い?」
「友達に嫌われたくないから、そうするのかねと言ってるんだ」
「はい……その通りです」
「何てことだ! 俺は友人を失おうというのか!」
「何故そうなるのです? 後……こちらもまた困ったことなのですが、やはり先輩の時と同様、わたくしも先輩と一緒に住んでいる噂が広まっておりまして、彼も先輩のことを誤解して、ちょくちょく聞いてきました」
「なんて野郎だ! 順番をいちいち間違えてやがる! 先に来るものを後にし、後に来るべきものを一番初めに持ってくるとは、えらい大先生だな!」
「先輩。助けてください」
「あ? 何だって?」
「わたくしの友情のために一肌脱いでいただけませんか? わたくし……僭越なお願いというのはこの胸に痛いほどよくわかっております。しかし……この胸の高鳴り……わたくし、無駄にしたくありません」
「一体何をしようっていうんだ?」
「わたくし、考えがあります」
「聞かなくて済ますことは無理そうだな」
「ええと、まず先輩に彼の前で裸になっていただきます」
「断る!」
「次に、わたくしが、……ええと、さる場所で購入して参りました、こちらの鞭で先輩を優しく、しかし彼に満足していただけるように叩かせていただきます」
「いやだ!」
「先輩……お願いです……生涯で記念すべき日になるかどうか、先輩のお心にかかっているのです」
「そんな日に俺はお前に鞭で打たれろ、というわけか?」
「わたくし、こんなことが楽しいかどうかわかりませんが、彼のため、真剣になって頑張りたいのです」
「お前もいちいち順番を間違えてやがる!」
「しかし、わたくしもまさか先輩に人前で裸になれなどとは……少し言いすぎだったかもしれません。お下着姿で出ていただきたく思います」
「お下着姿もいやじゃ!」
「わたくし……変な疑いをかけられているのです……先輩ともう何回もこの鞭で遊んだとか、いろいろなことを試した、とか、先輩とはもう切っても切れない関係であるとか……しかし、この鞭で強く先輩を叩いているところを示せば、何もまさか、わたくしたちが愛し合っているとは、誰も思わないはずです」
「愛し合うか! さすがに、そうは思わないかもしれんがね! おまえ、それで友達であるに過ぎないと信じるよう言うつもりか?」
「悪いでしょうか?」
「悪いとかそういう問題じゃなくだな……友人とそういう遊びをする関係だと公言して人にどう受け取られるか考えた方がいいと思うぞ……」
「どのように受け取られるのでしょうか?」
「説明したくない!」
「先輩」
「んあ?」
「先輩」
「ちっ……」
「先輩」
「わかったよ! だから泣きそうな顔で迫ってくるな!」
「ありがとうございます。これでわたくしと先輩の疑いを晴らすと同時に、彼に、わたくしが友達に値する存在だと示せると思います」
「本気でやるんだな! ちくしょう、一体こいつには借りがあるからな……あれはあれで俺もひどいことをやったし……」
「実はわたくし、あれからこの鞭で練習しました。お庭にある木に向かいまして、一体どのようにやれば、先輩のお肌に優しいまま、強く打っているように見えるのか……演技力って、大事ですよね」「せめて、優しく打ってもらいたいもんだな」「わたくしにお任せください。しかし、この鞭も手に馴染んでまいりました」
「引き際を考えとくんだぜ!」
 
 翌日になり、タマゴは彼をキャンパスの裏にある茂みの中へ呼び出した。
「こんなところで会いたいなんて……なんだかドキドキするよな」
「こんにちは」
「あっ! 向井さん! ……と、誰?」
 首輪に紐をかけられ、引っ立てられるようにして来るのが、仮面を被った、二十代の男。
 パンツ一枚しか身に付けていない。
「このような場所に呼びつけてしまい、大変申し訳ありません。相方が、どうしてもここがいいと言うので」
「その人は?」
「この人こそ、わたくしと同住まいの先輩です」
「この人が! いつもこういう扱いを受けてるんだな! 素晴らしい! はやく僕もそこに代わりたいよ!」
「でも誤解しないでいただきたいのです。わたくしと彼は友人同士。お互い同じ屋根の下に住んでいるといえど、恋愛物語は起きた試しがございませんし、住んでいる理由は、わたくしたちのお互いの親族が仲良しであったためです」
「そんなことはどうでもいいよ! 疑ってごめん! 僕もうそんなこと信じてないから!」
「いえ、いいのです。わたくし、あなたにああ言っていただけて嬉しかった。ですから、見ていてください。実演してみせます」
 タマゴはその彼の前で鞭を振るった。
「あうっ!」
「えい!」
「いたい! きくぅ!」
「えいっ! えい!」
「いてててて! ぐはっ! あぁん! 気持ちいぃ――っ!」
「とんだ豚野郎ね……これが気持ちいいの?」
「はいぃ! あうっ! そこぉ!」
「黙りなさい! さぁ……わたくしの足を舐めなさい? ほら、はやく!」
 靴の下から、紐で繋がれた仮面の男が精一杯なめる。
「フフフ……そんなに真剣に? 馬鹿みたい。そんなに気持ちいいのかしら?」
「あうっ! 鞭を! 鞭をもっとください!」
「ええ、いいわ! さぁ、でっかいの食らいなさい!」
 ビシッ! バシッ! と、鞭がその裸の男の皮膚に食い込んだ。
 その光景を前にじっと佇んでいた彼は、感涙でむせび泣いていた。
「ああ! やっぱり僕の見込んだとおりの人だ! 彼女は僕の天使だ!」
「これで……わたくし、あなたのお友達になることができますでしょうか?」
「ああ! 今すぐにでも僕は君の愛のパトスを受けたい! そのしなやかな鞭で僕の心を何回もビートしてくれぇっ!」
「ちょっと待ったぁ――っ!」
 そのとき、茂みの奥からがやがやと飛び出してくる数名の人影があった。
 出てきた人間は、ちょうどあまり派手じゃない格好をした女子たちだった。
「タマちゃん! こんなゲス野郎の言いなりになっちゃだめだよ!」
「変態! タマちゃんに何てことさせるの!」
 すぐタマゴは女子たちに囲まれる。
「え? 皆さん、どうしたんですか?」
「離れてっ! この……ゲス野郎! あんたの趣味なんかタマちゃんは理解できないの! 女の子にそんな趣味ちらつかせて迫ってくるなんて犯罪だよ犯罪!」
「タマちゃん気にすることないよ! 今すぐ逃げて!」
「え? え?」
 男は取り押さえられ、タマと中村はすぐさま女子たちに連れられ、茂みの中から出て行った。
 
 夜。中村とタマゴの家。
 一階。風呂上がりの中村がバスローブを着て、背中を気にしながらお茶を飲んでいる。
「お傷はまだ痛みますか?」
「まあな……おまえ、だが、なかなかの演技だったぞ」
「台詞も、練習した甲斐がありました」
「まあな。俺は演劇にはうるさいんだ。俺の方も白熱していただろう?」
「はい。これで彼もわたくしとの友情を深める決意をしてくれた……わたくしそう思ったのですが」
「あいつも災難だったな。ま、当然の報いではあるがな」
「どうしてでしょう?」
「この世にはな、自制ってもんが必要なのさ」
「自制?」
「趣味をこよなく愛するのはいいがね……それを前面に出してしまったら、異性との付き合いはやってけん。あいつは順番を間違えたのさ。俺だったら最後まであんな性癖は隠しておくがね」
「……わたくし、納得できません。せっかくわたくしに興味を抱いてくれた男性がおりましたのに……」
「俺もさんざんな目に遭ったぜ!」
「お茶をお入れします」
「おう。……だがまあ、お前もしんどい目に遭ったな。あんな誤解をされるだなんて、もとはといえば俺のせいか。すまなかったな」
「あ、いえ、わたくしは平気です」
「まさか、いや……聞きたくはないんだが、鞭で叩くのが楽しかった、なんて言う気はないよな?」
 お茶を取りこぼす。
「あっ、あつぅ!」
「す、すみません! ああ……バスローブがびしょびしょに……洗濯カゴに入れてまいります!」
「ちょっと待て! まあ……いい。そのままにしておけ」
「ですが」
「で、なぜそんなに震えているんだ?」
「あ、これは……」
 手が震えているのを隠すように背中へ回す。
「胸がドキドキいたします……不思議な気持ちです。あの鞭を持って、眺めていると……まるでわたくしの心がこもっているかのような、わたくしの思いが殿方の皮膚に弾けて伝えられるこのことがとても胸を高揚させ――」
「それ以上は言ってくれるなよ! 頼む!」
 


 
 3
 
 バイトを始める。
 と、タマゴが言ったのは一週間前だった。
 日頃奨学金で食べているが、もう少し蓄えが欲しいので。と、いうことだった。
「先輩。今日は、バイト先の同僚の方とお食事する予定ですので、食事はすみませんがお一人でお願いします」
「おう。……男でもできたのか?」
「はい」
 いやに真剣な顔をして出て行くタマゴだった。
 それからまた一週間くらいした後だった。
 食事に出て行く回数は増えていた。休みの日は必ずどこかに出かけて行く。そのおかげで、
「俺はなんだか散々な食生活を送っているように思えるぞ!」
「ただいま戻りました」
「おう! タマゴ! ……ちょっと、そこに座りなさい」
「お話があります」
 言われるまでもなく、中村の対面に腰かける。
「お話? 話はこっちにもだな……」
「先輩にどうしても打ち明けたいことがございます」
「お、おう。……まあ、そっちから言えよ」
「はい。先輩、わたくし、バイト先の同僚の方からお付き合いを申し込まれました」
「おお。よかったじゃないか。お前も人並みにモテるようになってくれて嬉しいよ。だがな、そう何度も外出しては――」
「そこで、わたくし、挑戦してみたいことがあるのです」
「挑戦?」
「はい。わたくし、実は、他にも二名ほどから、お付き合いを申し込まれています……」
「なんだと!」
「お、怒りますか!」
「やったじゃないか! おまえも隅におけんなぁ! わははは! で、誰がおまえのお気に入りなんだ?」
「それなんですけど」
「うん」
「実は……わたくし、先輩のことをかねがね尊敬申し上げてまいりました」
「お、おう」
「わたくし、先輩のようになりたいのです」
「ふん」
「わたくし、先輩のように、大人の女として、社交界に羽ばたきたく存じます!」
「待て待て。一体何の話だ?」
「三人同時にお付き合いさせていただくという話です」
 ソファーからずり落ちる。
「三人! 同時に! おまえ、それは三股かけるということか?」
「三股というのでしょうか? わたくし、先輩のそのようなお姿をいつも見てまいりましたので」
「待て待て待てっ! 俺とお前を一緒にするな!」
「違いますか?」
「違う! ……あ〜、えっと、確かに俺はガールフレンドがたくさんいるがなぁ! 本気で付き合った子はきちんとそれ相応に、大切にしてきたつもりだ」
「その他の子は?」
「それ相応にだな……」
「なぜ目を逸らすのですか!」
「う、うるさいな! ちゃんとこういうのにはルールってもんがあって、こう……なんつーか、言葉で説明できねぇんだよ! とにかくおまえにゃまだ早いぜ!」
「どうしてですか! わたくし、いつも先輩のように大人の色気を持った女になりたいと思ってまいりました! 挑戦することにお許しとご助言をお与えください!」
「やめておけ、ってのが一番の助言だな!」
「ああ……そんな、」
「だいいちおまえがただじゃすまんぞ。バレることを考えないのか?」
「本当のことを言いさえしなければ……」
「それは、お前が嫌っていた、嘘を言うことになるんじゃないのか?」
「目的のためには手段を選んでおれません」
「言いやがったな、ついに!」
「わたくし、ここはどうしても引き下がれません。先輩のお姿にただ憧れを抱き、自分も無能力ながら少しでもそのお姿に近付きたいと真摯に願うのが今のわたくしです。どうしてそれがいけないのか理解できません」
「ふむ……そこまで真剣に思ってるのなら悪い気はしないけどさ……」
「お許しいただけましたっ!」
「待てコラ! 俺はどうなっても知らんぞ! 失敗するだけだぞおまえなんかじゃ! おーいっ! ああ……行っちまった。だめだな、ありゃ。暴力振るうゲス野郎じゃなきゃいいが……あれでも可愛い顔してるやつだからなあ。俺が中に立つなんてことは死んでも御免だぞ。あいつがうまく立ち回ってくれればいいが……」
 
 一ヶ月後。
 中村の部屋。中村はソファーに寝そべって本を読んでいる。傍らにはコーヒー。中村一人で物音はしない。
 そこに、戸を開けて入ってくる影がある。
 とぼとぼと入ってきて、中村の前に倒れ伏す。
「あ? お、おいおい。どうしたタマ。なぜそんな死んだような目つきをしてやがるんだ」
「先輩……バイト、やめちゃいました……」
「おいおい……」
 中村は座り直して、足元でこちらを見上げるタマゴに相対した。
「またえらく早かったな……理由は?」
「……」
 タマゴは答えない。
 中村は溜息をついた。
「おおかた、三股がバレたってとこだろう」
 タマゴは手で顔を覆って泣き出した。
「おおう。……ったく、まあ、そんなもんかな。タマゴ、飯食うか?」
 タマゴは首を横に振る。
「俺は飯食いたいから作るぞ。そこに座ってろ。今日は俺が作るよ」
 中村がエプロンをつけてキッチンへ向かう。
 タマゴは涙を拭いて、ソファーに座ってうつむいている。
 中村がしばらく料理を作り、二人分の皿を持って戻って来た。
 湯気が出ているピラフだった。
「食え。腹減って来ただろ。現物見ると」
「いいえ……お腹、空きません」
「なにがあったんだ」
「あの……言えません」
「そうか。だがまあ食べるんだ。少しずつでいいぜ」
 中村はガツガツと食べ出した。途中でテレビをつけて、バラエティ番組を見る。タマゴもスプーンを持って、少しずつ食べる。
「あの……先輩」
「ん?」
「あの……言っていいですか?」
「どうぞ?」
「ひどいこと……言われました。クズとか、最低女だとか、死んじゃえ、とか……人間のゴミだとも」
「そりゃあ、恐らく、その男のことが好きな女がいやがったな?」
「はい」
「ああ……まあ、よくあることだよ。気にするよな。まあ」
「わたくし、間違っていたんですね」
「そうとも限らんぞ。一体どうしてそう思うのだ?」
「だって……よく、わかりません……」
「まだおまえは混乱しているのだ。戸惑いがあるうちにある考えで固めてしまうのはよくない。頭を休めるのだ。ほら、考えるのはよして、飯を食え」
 スプーンを指されるが、タマゴの手は動かない。
「わたくし……ひどいやつなんでしょうか」
「そいつは人の評価だ」
「だって、わたくし、ひどいことをこの他にもさんざん言われました。男の人もとても怒っていて、せっかく渡したプレゼントもビリビリに破かれましたし、つばも吐かれました。わたくし……本当に自分がゴミのように思えます……」
 中村は黙って飯を食っている。
「わたくし……わたくし……最低ですね……」
 涙を流しているのを中村はじっと見ている。
「よくわかったのなら、飯を食うことだ」
 皿をスプーンで叩くと、ようやく泣きじゃくりながらタマゴは前よりもたくさん食べ始めた。
 やがて、
「あの、先輩はわたくしのことお叱りにならないのですか?」
 と聞いてくる。
 中村は
「ああ? おまえは、それで十分報いを受けたじゃないか? 俺は、いちいち間違いを犯したやつを見たら、何か一言自分の考えを言ってやらなくちゃならんとかいう結構な連中とは違うんだ」
「先輩」
「俺は、おまえのことをよく知っている。おまえはいいやつだし、純粋なやつだ。だからさっきから言っている。食べて、寝て、頭を休めることだ。慰めてほしいとか思うなよ。友達は慰めなどいらんのだ。放っておけば勝手に立ち直ってくるやつでないとな。俺は慰めるのは女相手でベッドの中だけと決めているのだ。まあ、だから、おまえも早く立ち直っていつものごとく元気になればいい」
「ありがとうございます……」



 4
 
「ああ、困った……困った……」
 中村の部屋。夜。中村は部屋を行ったり来たりしている。
「どうかなさいましたか? 先輩」
「困った……どうすれば……ん? ああ、タマ。聞いてくれるか?」
「わたくしにできることならお力になります」
「うん。じつは、劇作を任されてしまってな……今度の劇の脚本を作ることになってしまったのだ。恋愛劇で、かなりの純愛ものだという指令だ……どうも俺は、よくあるお涙ちょうだい劇しか浮かんでこない。俺のプライドにかけて、ありふれたものは書きたくないのだ。だが……う〜む、どうもだめだ!」
「わたくしの頭の中にあるものを言ってもよろしいでしょうか?」
「ん? おお、いいぞ。何だってアイディアが欲しいところだからな。俺は刺激を受ければ一気に話ができあがるかもしれんしな」
 タマゴはつかえながらも話を伝えてみた。
「なに? なんだ、それは!」
 中村はみるみる興奮していく。
「すごいじゃないか! おお、なんて悲しい話なんだ! 泣けてくるぜ! ああ……まるで現代版ロミオとジュリエットだ! くぅ! いけるぜこれは!」
「ほんとうですか?」
「タマゴ、おまえってやつは天才だよ! 劇作の天才だ!」
「お褒めにならないでください」
 まんざらでもなさそうにしている。
 中村は一気に物語を書き上げ、大学に持っていった。
 それは少し手直しされ、すぐに脚本としてみんなに配られた。一ヶ月間の稽古のすえ、上映され、大変な反響を呼んだ。大・感動恋愛物語、として評判になり、毎週の上映日には他大学の学生も見に来るほどだった。
 脚本家・中村は鼻が高く、ちやほやされているのでいい気になっていた。
 そんなある日。
 大学のキャンパスを中村が歩いていると、
「ちょっと止まれ」
「あ?」
「おまえ、中村か?」
「そうだけど、」
「やっぱおまえが中村か! 来い、おまえら!」
 ぞろぞろと学生がやって来る。
 みんな中村を睨みつけている。
「一体なんだ。これは!」
「こっちが聞きたいね。おたく、一体盗作なんてして、何がしたいんだね?」
「盗作?」
「すっとぼけてやがるぜ!」
「あれはまんまうちが手がけた演劇なんだよ! おたくが書いたと嘘言ってる演劇は、うちがもうとっくの前に上映してんだ!」
「何を馬鹿なこと言ってるんだ? あれは、俺が全て創作したんだぞ?」
「つべこべ言わんで黙って罪を認めろ! おまえは、うちの作品を――」
「まあ待て待て! 俺の言い分を聞いてもらいたい! はっきり言うぜ? あれは俺の創作だ。間違いなくな」
「あれが実話を元にしてるって聞いてるか?」
「ああ? 何だって?」
「俺が、ある友人の悲しい恋の顛末を聞いて作ったのだ。俺が友人から実際に聞いた話だから間違いない。俺はその友人が恋しているところも見たしな」
 中村は笑い出す。
「こいつはけっさくだ! あんたら、騙されてるぜ!」
「なんだと!」
「そいつが俺の上映した作品を見たに違いないぜ。それであまりに感動して、自分が登場キャラクターの一人になったと勘違いしたんだ」
「こいつ……よくもまあぬけぬけと」
「最低なやつだ!」
「まあ待て。おまえたち。おまえがそうふざけた寝言吐くのは構わんがな、そうは問屋が卸さないぜ。あれの話を作ったのは十月だ。おたくは十二月に上映した。時期に無理があるんじゃねぇのかい? ぶわっははははは!」
「はははは!」
 中村が地団駄を踏む。
「頭に来るぜ。そちらさんは、一体何を根拠にこうふざけた言いがかりを付けやがるんだ?」
「あ? 何だと?」
「作品が酷似しているからじゃねぇか! 登場人物から場面展開まで全部うちのだ! あんたはさっさと認めといた方が後々つらくねぇぜ! わははは!」
「だが、俺が盗作したという証拠にはならんだろう」
 中村は落ち着いて言った。
 場が静まりかえる。
「こいつ、一体何言ってんだ?」
「俺は間違いなく創作したぜ。そのときのことをきっかり覚えてるからな」
「ほお? どうやってやったんだ? まさかおまえも同じ恋愛体験したっていうのか? だったら聞いてみたいもんだが」
 中村は困った様子を見せた。
 心の中で「あれはタマゴが言ったままを書いただけだしなあ!」と思う。
「まあ、とにかくだ。ただ作品が似ていただけじゃねぇか。あんたらは十月、そして俺が十二月。実は、作品の着想を得てから、脚本にするまで期間があったんだ。それで遅くなっただけで、俺は間違いなくあれを創作した!」
 心の中で「だって俺はタマゴが創作したのを見ている!」と思って元気が出て来た。
「何だと! へらず口たたきやがって! 嘘に決まってるじゃねぇか? 迷惑してんだよ、こっちは!」
「迷惑してるのはこっちだ。俺の上映作品がすげぇ人気だからって……」
 そのとき、通りかかったタマゴは、怖い顔をした人間が多数中村に向かっているのを見て、慌てて茂みに隠れた。
「盗作した奴が何言ってんだ!」
「何言ってんだ、はこっちのセリフだ。時期がズレただけじゃねぇか。それで俺の上映が早かったら、俺がおたくらに盗作だと言う権利ができると思うぜ。それに、たまたま同じ作品を書き上げちまう可能性を考えねぇのかい?」
「う、嘘だ! でたらめだ!」
「卑怯だ! こいつ!」
「何とでも言え。こっちは迷惑してるんだ」
「ここにうちらの脚本がある! 見ろ! 全く同じだから!」
「それが何の証拠になるんだ? 俺の作品を見て、あんたらが勝手に作り上げたものだろ?」
「こっ……こいつ! なんて野郎だ!」
「最低なやつだな」
「こんなやつがうちの作品の人気をかっさらっていくのが腹立たしくてしょうがない」
「それが何だ? 悔しかったら俺ぐらい立派な物を書いてから言いやがれ、だぁ――はっはっは!」
「おい行くぞ!」
「俺ら、何も悪くねぇのに、何であいつだけが……マジ不幸だよ! くそーっ!」
「……ようやく行きやがったか。まったく」
 そのころに、こそこそタマゴが茂みから出てくる。
「先輩」
「おう、タマゴか」
「今の人たちは……盗作とか、言ってましたけど」
「ああ。おまえが考えてくれた作品が人から盗んだものだとかいちゃもん付けて来やがったんだ。頭に来るよ。俺はおまえの頑張りが台無しにされた気がしたんだ。でも、大丈夫だ。きっちり言い返しておいたぜ」
「はい……」
「ん? どうした? 元気がねぇな」
 タマゴはもじもじとしだした。
「いえ。何でも」
「何か、言いたいことでもあるんじゃねぇのか?」
「はい……では、勇気を出して言いますが」
「うん」
「実は……本当に、盗作というものかもしれません」
「え?」
 中村は目が点になった。
「わたくし、前に友人と他大学に劇を見に行きました。それで、その恋愛物語に大変感動させられたので、ずっと覚えておりました。それでそのまま先輩にお伝えしたら、たいそう喜んでおられたので、そのまま……。あの、これって盗作だったんじゃないでしょうか?」
「何だトォォォ――――ッ!」
「ひゃ! わたくし……やはり大変なことを! 申し訳ありません、先輩」
 中村は倒れ伏した。
「は、はは……」
「先輩。盗作だとは知らなかったんです。あまりにも美しい作品でしたから」
「いや……いいんだ。ただあまりの事の滑稽さにぶったまげただけだ」
「でも、大変良いお話でしたね」
「タマゴ」
「はい」
「お茶……飲みに行こう。そこでこの件をどうするか考えるのだ」
「はい」


 
 5

「俺もとうとう役者デビューだ! 長かったなあ。身内だけでもちょくちょく出てたんだが、これまで有名になるとは思わなかったしさ。俺もいい加減出ろと言われて、ようやく出ることにあいなったわけさ」
「さすが先輩です。わたくし、ぜひ見に行きたいと思います」
「おう。来い来い」
「先輩の美貌ですと、少々遅すぎたようにも思えます」
 タマゴの方が興奮している。
「わっははは! 照れるじゃないか!」
「どんなお役ですか?」
「まあ、準主役ってとこだな。だが俺はこれで済ますつもりはない。主役を食ってこそ準主役であり、俺の生き様ではないか? そしたら俺は次は主役をいやでも任されるに違いない」
「そのお気持ち、とても感服しております」
「うむ。早速練習に取りかかろう」
「お供いたします」
 中村とタマゴは庭に出た。
「自転車ですか?」
 中村は自転車を持ってきた。
「こうやって、自転車に乗って登場するのが俺の役なのだ。ここで初めて俺が全観衆に注目されるのだから、とびきりインパクトを持たせたいなあ!」
「何かお力になれることはないでしょうか?」
「おう。あるぜ。見ていてくれるだけでいいんだ。俺は緊張感をなくしたいからな。常に人目にあって、最高のパフォーマンスを出せるように訓練したいんだ」
「はい。では見ています」
 自転車に乗って中村は庭を突っ切る。また戻ってきて、キッ、と停まり、腕を上げてポーズを取る。
「素敵です!」
「ふん。まあ、こんなもの序の口さ。見てろ!」
 また中村は同じことを繰り返す。しかし今度は途中でウィリーをきかせて登場した。
「どうだ!」
「最高です先輩! これなら人気ナンバーワン間違いありません!」
「おだてるな。だがまあ、当然のことだ」
「今度はどんなことをなさるのですか?」
「ふん。俺の自転車芸のお披露目会といくか」
 シティバイクで様々な芸を見せつけ、タマゴがそのたびに熱烈な拍手を送る。
「ふう。自転車芸はこのくらいだな。どれが一番インパクトがあった?」
「わたくし、どれもこれも興奮してしまい、判定ができかねるほどです」
「ふん。まあいい。それも無理からぬことだ。俺のパフォーマンスとスタイルを見て惚れ込まない女などいないのだから。後で俺が一つ一つ吟味するとしよう。……で、見ているだけでお前は楽しかったか?」
「はい。わたくしは先輩のご尊顔を拝しているだけでとても幸福です」
「おだてるのもいい加減にするんだぞ。だが、まあ当然のことだな!」
 中村は感激したままのタマゴを連れて、家の中へ入っていった。
「俺の緊張感はもうほぐれた。次は別の練習に移る」
「はい先輩」
「タマゴ。お前にやってもらいたいのは、俺に登場人物になりきって話しかけることだ」
「はい?」
「俺は、俺の役になりきらねばならん。演技しているなどと気を付けているようでは素人と変わらないだろう。俺に登場人物の声や喋り方で語りかけるのだ。以後、家の中ではお前とこうして会話することにする」
「先輩のためでしたら、仕方ありませんが、わたくし自信がありません」
「ここに台本がある。まずは一番会話する回数の多いこの男の役でやってもらいたい」
「先輩。本気ですか?」
「本気も本気。やれないのか?」
「そんな失望を先輩に抱かせるわけにはまいりません。喜んでやらせていただきます」
 中村が指定したのは、中村がやる役の先輩、という役だった。
「ええ……えっと、おい、一(はじめ)!」
「何すか、先輩」
「恥ずかしいです……」
「おいおい。役者が恥ずかしがってたら劇にならんぞ!」
「すみません。あまり先輩にこういう口調で話すのは慣れていないもので」
「別に構わん。自分を解放しろ! 日頃の鬱憤をここで晴らしてもいいんだぞ」
「そんなまさか。わたくしが先輩に鬱憤を抱くなど。……えー、こほん。うらうら! 一(はじめ)! トレーニングじゃあああぁぁ――っ! ……どういう役なのですか? 先輩」
「そういう暑苦しい役なのだ」
「家庭でトレーニングはいかがなものかと存じます」
「別に台詞どおりにしなくていいんだよ。お前で好き勝手アレンジしてろ。……はい、先輩!」
「あああ、わたくしに先輩など言わないでください! 恐れ多いことです!」
「素に戻るんじゃない! 馬鹿!」
「お、おう。よし、今飯を作ってやるからまっちょれ!」
「先輩。料理なんてできたんすか?」
「料理も洗濯も裁縫もばっちこいじゃ!」
「えらく家庭的なんすね。先輩。得意料理を教えてください」
「ちゃ、ちゃんこ鍋です」
「ちゃんこ鍋? あとおまえ、口調、口調」
「ちゃんこ鍋が得意じゃ!」
「お相撲さんみたいですね」
「実は違うんじゃ!」
 タマゴはタマゴ焼きを作ってきた。
「タマゴ焼きじゃ!」
「おいタマゴ」
「え? はい」
「タマゴ焼きじゃん。これ」
「はい。いけませんか?」
「ちゃんこじゃないのかよ!」
「すいません。ちゃんこ鍋が好きそうな御仁かと思いましたので!」
「勝手に設定変えるなよ! まあ、面白かったからいいけどさ」
「はぁ……非常に疲れる稽古ですね」
「疲れてきたんなら役変えていいぞ?」
「え? そうですか……何にいたしましょう」
「じゃあ、これやって」
「これですか? えー……こほん。おかえりなさいませ。ご主人様。……家政婦ですか?」
「俺は金持ちという設定なんだよ」
「おうちの場面なんですね……わたくし、この役なら簡単にできそうです」
「じゃ、やってもらおうか」
「ご主人様。お風呂はいかがいたしますか?」
「先に入っていいぞ。まだ昼だし」
「も、申し訳ありません! わたくしもまだ入りません! ご主人様!」
「タマゴ。動揺しすぎだぞ。全然役に入れてないじゃないか」
「だ、だって、これ、難しすぎますぅ〜……」
 タマゴはソファーに突っ伏した。
 その傍らで楽しそうに食事を取っている中村がいた。
 
 劇が始まる二日前になった。
 中村が大怪我をした。
 自転車に乗って大技を決めようとしたのだが、坂道だったので、空中に身を放り投げられたのだった。
 タマゴが病院にお見舞いに行くと、劇団のメンバーがやって来ていた。
「困ったなぁ……ああ、困った」
「失礼します」
 タマゴが病室に入る。
「やあ。中村君のお友達?」
「は、はい」
「タマゴじゃないか。ちっ……体を起こせん」
 腕と足を一本ずつ骨折させていたので、中村は身動きが取れない。
「先輩。お見舞い品に果物を」
「皮剥いて食べさせてくれないか」
「かしこまりました」
「先輩? この子は後輩か?」
「そうだけど、どうした?」
「仲いいんだな?」
「ま、悪くはないと思うけど」
「大学の子なんだな? そうなんだな?」
「ああそうだよ!」
「なあ! そこの君!」
 果物を水道で洗っていたタマゴが振り向く。
「中村の代わりに出てくれないか!」
 
 二週間後。
 病室。タマゴがお見舞いに来ている。
「先輩。リンゴです」
「おう。サンキュ」
「先輩。体のほうはいかがでしょうか?」
「悪くないな。しかし体調はあんまり良くないなあ。運動できねえし。それにあんまりにも退屈だからな」
「本を持ってまいりました」
「それよりもさ、おまえ、噂に聞くところによると、ひでぇ演技したんだって?」
「なぜそれを何度も繰り返しますか……」
「だっておまえの演技、みんなひどかった、大根役者だって言ってるぜ」
「わたくしは大根などではありません! 先輩、どうして怪我なんてしてしまったのですか! わたくしは、わたくしは……」
「あ〜あ、タマゴの演技見たかったなぁ……」
「もうその話は終わりにさせてください。あれは人生で最も恥ずべきことの一つとしてわたくしの記憶の中に記録されていることなのですから」
「先輩の俺には見るべき資格があると思うぜ。今度ビデオにして持ってきてくれるっていうから、一緒に見ようぜ」
「自殺したくなりますので、ずっと捕まえておいてくださいまし!」


 
 6
 
「暇だなぁ……」
「そうですね。お洗濯も、お掃除も終わってしまいましたし」
「怪我が治ってからというもの、はたとお誘いが来なくなったのは何故なのだ? ふん……人間ってのは、こうも薄情なものなのだな。すすんで俺を避けたがる。言葉ほど疑いやすいものはないよ。タマゴ」
「わたくしがおそばについておりますので」
「ありがとよ。今日はどこか出かけるか。せっかく晴れてるし、休みだしなあ」
「おともいたします」
 中村とタマゴは家を出た。
 道路に出て、中村はタマゴを呼び止める。
「待った。ちょっと銀行に行って金下ろしてくるからよ。そしたら映画とか、レストランにでも行こうぜ。お前はそこで待ってろよ」
「わたくしも行かせてください」
「そうか。じゃあ、行くぞ」
 銀行内に入っていった、その時だった。
「うらぁ――――っ! 全員動くなぁ――っ!」
「な、何だ?」
「そこの男! 後ろの女もだ! 床に這い付くばって手を頭の上に置け!」
「わっ!」
 男が拳銃を持っている。仮面を付けており、顔は窺い知れない。
 中村は慌てて体を伏せた。
「タマゴ。壁に隠れてろ」
「うらぁ――っ! さっさと金寄越しやがれ! 弾丸撃ち込まれてぇのかぁ!」
「せ、先輩! 大変です!」
「銀行強盗らしいな……なんてこった。あいつ、どこに向けて発砲するかわからんぞ。絶対に俺の前に来るなよ。そこでじっとしていろ!」
「何をなさるおつもりですか!」
「いいか、動くんじゃないぜ。顔も出すな。……ちっ、あいつがもっと油断すりゃあなあ。あんなやつ俺が一気に片付けてやるんだが」
「危険な真似はやめてください!」
「しっ! 行くぜ――」
 中村が顔を上げた瞬間だった。
 拳銃を振りかざす男に、後ろから襲いかかる影があった。
「どわぁ!」
 男は投げ飛ばされ、床に叩きつけられる。
 拳銃はタイル床を滑っていった。
「どうだ! 残念だったな……あんた、素人だな。びびり過ぎだぜ。俺は警察だ」
「けっ、警察!」
「顔を見せるんだな。おい! 誰かロープを持ってないか!」
 男が強盗を組み敷いた。手が背中で合わせられ、その上から体重をかけている。
「どうやら、助かったようだぞ。タマゴ」
「まだ危険だ! 誰か、ロープか何か、こいつの手を縛るものを持ってきてくれ!」
「あ、わたくし持ってます」
 タマゴはバッグから取り出した。
 前に使った鞭を。
「おまえ、まだ持ってたのかよ!」
「はい。記念に」
「俺の肌に食い込んだ鞭をか!」
「どうぞこれを使ってください」
 男に駆け寄る。
「ありがとう。どうだ、これでもうおまえもおしまいだな」
「くそーっ!」
「足も縛るものが欲しいな」
「あ、もう一本あります」
「まだ持ってんのかよ!」
 
 警察だという男は、犯人の両手両足をしばり、その後で拳銃から弾を全て抜いた。警察が駆け付けて、男が逮捕される。警察だと名乗ったそのヒーローは、今日たまたま非番だったのだという。
「君、よくあんなの持っていたね」
「は、はい……記念に」
「後であいつの件が片づいたら返そう。電話番号を教えてくれないか」
「は、はい」
 その様子を中村が後ろで見ている。
 もう行っていいと言われたので、二人は銀行を出る。
「格好いい方でしたね」
「ちっ。あいつ、かなりイケメンだったじゃないか」
「筋肉が美しい方でした」
「やはりおまえはああいうのが好みなのか?」
「先輩の前では申すことができません」
「ちっ。俺が後もう少しであの強盗を取り押さえることができたのに。そうしたら俺はあそこでヒーローになっていたぞ」
「お願いですから危険な真似はよしてください! わたくしはどうしたらいいのですか!」
「まあ、犯人が捕まって良かったけどさ。後もうちょっとで俺があの犯人を捕まえたことになったのになあって」
「先輩でしたら、あの鞭と一緒になって、わたくしと一緒に犯人を捕まえるのに一役買いました」
「ただ俺の皮膚の跡が付いていただけだろう! ったく、警官が市民の電話番号聞いていいのかよ」
「ご機嫌がよろしくないですね。先輩」
「別に!」
 中村は確かに不機嫌だった。彼は目の前で名誉がかっさらわれたことに腹を立てていた。
「もういいや。タマゴ、飯食いに行こうぜ」
「そうですね。胸がドキドキしていて、疲れたので、どこか落ち着けるところへ」
「おまえなあ、胸がドキドキとか、あのエロそうな警官に行ってみろよ。女に飢えてるやつだったらすぐ餌食にされるぜ」
「え? 犯行が目の前で行われたのでドキドキしていたのですが」
「さあ、行こうじゃないか!」
 
 中村は行き着けの店へやって来た。
 店内は異様に込んでいる。
 席がないところにも人だかりができており、何事かと二人は驚かされる。
「す、すいません。何名様ですか?」
 店員は二名だと知ると、奥へ駆け込んでいく。
「いま、空きました! ご案内します!」
 騒々しく案内される。
 中村は席につくと、人だかりができている方に目を向けた。
「何だ? テレビ局が来ているようだ」
「何か、取材されてるんですかね」
「あ、芸能人がきているぞ!」
「え!」
 二人は立ち上がって見ようとするが、やはり人だかりが邪魔してなかなか見れない。
「ちぇっ……疲れた。まさかここに来てテレビ局とはなあ。ここ好きな店だったのに」
「銀行強盗に続いてテレビの取材とは、忙しい日ですね」
「そうだな。……あ、あれは!」
「どうされました?」
 ある客がインタビューを受けている。ランダムで選ばれ、感想を聞かれているようだ。
「タ、タマゴ! 何にしようか!」
「え? 何故そんな大声で?」
「しっ! 俺たちもインタビューを受けるんだよ……いやー、ここ、何回も来てるんだよな! やっぱりここは、俺のお薦めのこれなんかどうだ?」
「先輩! 恥ずかしいのでやめてください!」
「何だと。何てことを言うんだ。おまえも俺に合わせて喜べよ。ここが注意の惹きどころだぞ!」
「先輩! わたくし、全然落ち着けません!」
「いいんだ! 後でもっといいとこ連れてってやる! ここは何としても――いやぁ〜、はっはっは! まだかな〜。俺たちもはやく料理食いたいなあ!」
「そ、そうですね! あはは!」
「ねえ君たち。ちょっと静かにしてくれない? 音入っちゃうんだよね」
 二人はうつむいた。
「な、な、何だと……」
「番組邪魔するんなら、ちょっとの間出ておいてくれないかな?」
「何だとおまえ!」
「先輩、出ましょう!」
 タマゴに引っ張られて、中村は店の外へ出た。
「またお待ちしてますー」
 二人は肩で息をしていた。
「はぁ……はぁ……こんな店、二度と来るもんか! ちくしょう!」
「先輩。出てよかったんですよ。あんなところ、落ち着いて食事できません」
「そうだな……おまえの言うとおりだ。俺はちょっとどうかしていたらしいぞ」
 タマゴは微笑んだ。
「よかった。先輩。わたくし、何だかお腹が空いてまいりました」
「ちょっと歩くが、俺の知ってる店へ連れて行ってやろう」
 
 川に出た。
 向こう岸に行くためだ。まだ橋はずっと向こうにあるので、歩かねばならない。
 さっきから、ある考えが中村の頭をちらついて離れなかった。
 今日は何だかおかしい。
 俺の目の前を事件が通り過ぎて行きやがる。
 俺の名誉を獲得するチャンスが、何やら運命のような見えない壁で阻まれているようである。
 苛々したが、それは顔には出さないでいる。
 タマゴに気を悪くしているところを見せたくなかったからだ。
「先輩。綺麗ですね」
「ああ。悪くない景観だ」
「先輩。あれを見てください」
「あ?」
 タマゴが指を差した方向で、子供が水着になって泳いでいた。
「子供が泳いでやがるんだな。気持ちよさそうだなあ」
「先輩。あれはちょっと様子が変です。何だか人だかりができています」
「何だって?」
 よく見ると、泳いでいるようではなく、溺れかけているようだとわかったので、二人は走って現場まで行った。
「何だありゃ! 危ないじゃないか!」
「先輩! 助けましょう! 男の子が危ないです!」
「お、おう。……な、何だと、今日の俺の服はヒューゴ・ボスの三万もしたジャケットとスラックスじゃないか! こんな雨上がりの泥の川へ飛び込めというのか! うおおぉぉ――っ!」
「先輩、あれを見てください!」
 急に肩を掴まれる。
 指差された方を見ると、もう飛び込んだ男がいた。みるみるうちに、子供が溺れかけているところへ辿り着き、子供を保護した。
 対岸にいる人だかりから声援が上がった。
 岸まで無事に届けると、母親と思しき人が泣きながらお礼を言う。人々もその男の勇気を讃え、拍手を送っていた。
「……」
「先輩。よかったですね。命が助かって」
「ああ……いいんだが……いいんだが……」
 中村は地面に手をついた。
「い、いきなりどうされました?」
「タマゴよ! 俺をクズだと罵るなら今だぞ! うおぉぉ――――っ! またしても、またしても俺はヒーローになるチャンスを逸してしまったぁぁ――っ! またしても、俺は名誉を勝ち取るチャンスがあったのに、このくだらねぇ服のことなんか気にかけて、尊い命と比べちまったんだ! ああ、俺は最低最悪のクズ野郎さ! 俺の命などかき消えてしまえばいいんだ!」
「先輩、何もそこまで! お召し物が汚れることを誰もが嫌がります。先輩は悪い人じゃありません!」
「いいや、だめさ! 容易に立ち直れん……」
「わたくしだって、高い服を着ていたら、この泥水に浸かることを躊躇したかもしれません。ただあの人だって躊躇したんですよ。でも迷いを解くのが先輩より一瞬早かったんです」
「おまえはいいやつだな……いいやつだ。このようなことはもう真っ平だよ。何で今日はこんな怒濤のように俺の前を事件が通り過ぎて行くのだ」
「確かに、今日は何だか不思議な日ですね」
「劇の観衆のようだよ」
「先輩、あれを見てください!」
「あ? ん? 今度のあれは、何だ?」
「犬が流されてます!」
「何だとォォ――ッ!」
 川を見ると、先ほどの男の子が溺れかけていたところから少し下流になったところに、箱に入った小さな子犬が流されており、不安げな眼差しをこちらに送っていた。
 対岸には、早くも気付いた小さな女の子が精一杯声を張り上げている。
「先輩。あれを!」
「あ? おいおい……まずいじゃないか。何であんなところに急な段差が作られてあるんだ? あそこを滝のように落ちたら、あのガキ犬じゃ死んじまうじゃないか!」
「助けましょう、先輩」
「ちっ……あの女の子が飼い主のようだな。どうしてあんな状況になったのか、詳しく聞きたいが、どうも助けた後になりそうだ!」
「先輩!」
「もう俺は恐れはせんぞ。行くぞ、タマ!」
「はい!」
 中村とタマゴは川に飛び込み、急いで箱に入った子犬のところへ近付いて行った。
 川の流れは非常に強かったが、何とか踏みとどまって、対岸へと子犬を連れ帰ることができた。
「はぁ……はぁ……やったな。今度は尊い命を救ったぞ!」
「お召し物が泥だらけですね」
「気にするな! さあ! お嬢さん、君のわんちゃんだぞ!」
「わあ、ありがとう! お兄ちゃん、お姉ちゃん!」
「もう自分の犬だったら、こんな悪戯はしちゃだめだぜ。きちんと首輪と紐を付けて、安全に川岸を散歩するんだ。いいか? じゃあ、あばよ!」
「え? これ、わたしの犬じゃないよ」
「え?」
 二人は固まった。
「わたし、通りがかっただけだもん」
「え、だって、あんなに必死になって」
「だって、さっきあそこにいた人が、犬を川に落としたんだもん。わたし、慌てて助けを呼んだけど、みんな全然気付いてくれなくて……それから……」
「何だとォォ――――ッ!」
「わたし、もうさきちゃんのところへ行かなきゃ。お兄ちゃん、お姉ちゃん、ありがとう。はい、わんちゃんあげるね。捨て犬だったみたいなの。お母さん犬は飼っちゃだめって言うから、お兄ちゃんたちで飼ってあげてね。じゃあまたね」
 女の子は走って行ってしまった。
 二人は泥だらけになった服と、可愛いつぶらな瞳をこちらに向けてくる子犬とを見た。
「な、何てことだ……」
「先輩」
「何てことだちくしょぉぉ――――っ! なんなんだ、このやるせなさは! ……誰も見てくれない、たったちっぽけなガキとこの子犬だけ……で、手に入ったのはこの所有者も分からん畜生だけときた……」
「命が助かってよかったじゃないですか」
「まったくだ……ああ、まったくそうだが、俺はヒーローになりたかった……注目が欲しかったのに、このざまだ……一体誰がこの俺たちの犠牲と救出を見ていたっていうんだ?」
 犬はぺろぺろと中村の顔をなめだした。
「汚い子犬だぜ……」
「わんちゃん、先輩にお礼言ってるんですよ」
「ふっ……そのようだな。たいして嬉しくもないが」
「ねえ先輩、わたくしたち、これでよかったんですよ。命に重要性とかの違いはありません。注目されなくたっていいんですよ。注目されない分、こうやって、女の子に大事な犠牲と救出の精神を教えることができました。そして、この子ったら、先輩がまるでご主人様だと言わんばかりですよ」
「俺が間違っていたというのか……いや、いいんだ。そうさ。俺は間違っていた。あいつはあのガキを助けたことで報われていたのさ。俺は俺で、誰も見てくれず、たいしたお礼も言われないところで頑張ったおかげで、こんな子犬から尊敬を集めたわけだ……それも、かなり大げさな、な」
「先輩。この子、かわいいですね」
「飼いたいのか? ……はっくしゅん!」
「はい。ですが、先輩がここに捨てるというのなら、我慢させてください」
「いいんだよ。ちっ……俺のヒューゴ・ボスのジャケットとスラックスが目も当てられないことになってやがるぜ……おいガキ畜生が、この分の取り返しはしてもらうぞ。せいぜい俺とタマゴに奉仕するんだぞ! ……と、その前に、大家さんに聞かないとな。まあ、俺たちの他に住人はいないし、大丈夫だろうけど」
「楽しみですね! この子との生活!」
「ちゃんと世話するんだぞ! あと食費も払えってな! はっくしょん! おい、家に帰ろう。風邪をひいてしまう」
「当然です。はやいうちに帰りましょう」
「わんこ、持ってろよ」
「抱かせてください。……ふふ、かわいい」
「こんなやつを抱えちまって、災難なんだか、いいもらいもんなのか……」
「絶対この子、もう先輩を離れませんよ」
「俺と寝たがっている女みてぇな目つきしてやがるぜ」
「わたくしと一緒にお風呂入りましょうね。わんちゃん」
「ワン!」
「はっくしょい! ああ……なんて一日になったことか」
「わたくし、今日なんだか楽しかったです」
「滑稽な一日だったよ」 

  トップページ

inserted by FC2 system