十四

 

 僕は旅に出ることにした。

 今度は東北の方へ行ってみることにした。バイトの休みをもらい、夜行バスのチケットをネットで予約する。

 麗奈ちゃんたちには何も言っていない。言わずに行っても問題ない日数だから。でも心配しないように、自宅のドアに「二、三日旅行に行ってきます」と貼り紙を貼っておいた。

 リュックサックに衣類を詰め、執筆用具一式も同様にした。そして読書用の本を二冊――文庫本の『椿姫』と夏目漱石の『門』を――入れた。

 駅前のさびれたラーメン屋で安いラーメンを食べながら時間を潰し、バスの到着時刻を待った。ちょうど、終電が終わりそうなころにバスがやって来るのだった。電車の中から吐き出されたサラリーマンやフリーターの列が、川のように、住宅街の方へ寂しく流れていった。

 僕はバス停に出て、『椿姫』を読みながら待つことにした。手が冷えてかじかんでいるが、バス停の上にある街灯で明るすぎるくらいの明かりをもらっていたので読書は楽しかった。

『椿姫』はデュマ・フィスが一八四八年に発表した恋愛文学だ。彼はこれを戯曲化もし、大成功を収めている。『椿姫』というオペラは、ちょっと有名だと思う。

 舞台はフランスのパリ。青年紳士アルマン・デュヴァルが高級娼婦マルグリット・ゴーティエに恋い焦がれ、純愛を繰り広げる。

 娼婦というのはご存じかもしれないが売春をする女性のことだ。しかし高級娼婦となるとその下賤なイメージとはかけ離れる。淫靡というより、艶美だ。華やかな社交界の裏の中心人物のような感じだ。特にマルグリット・ゴーティエはまるで貴族のような豪奢な生活をし、純粋で、酸いも甘いも経験し尽くしてはいるが、読書好きで、愛敬もよく、落ち着いていてとても素敵な女性だ。それでいて自分自身と世の中に絶望しているのだ。アルマン・デュヴァルはこの美しい女性に一目惚れをし、性格もよくわかるとますます恋い焦がれるが、小説を読めばその気持ちもよくわかるというものだ。

 僕は、前にも一度この小説を読んだことがあるが、当時は世の中にこんなに美しい恋愛はあるのだろうかと率直に思ったものだ。

感動したのだ。こんなに想いが純粋で、愛し、愛されることが懸命で、他の欲得など一切なく、ただただ己の愛する人のために身命を尽くし続ける素朴な恋愛が他にあるだろうか、と僕はただただそれだけを思った。

 打ちひしがれたと言ってもいい。世の中は誰も彼もが、欲望を顕わにしている、と思った。この中にいる者たちはどうしてこんなに欲が少なく、愛おしいという心に純粋で、痛々しいくらい不幸なのだろうと思った。確かに小説は小説に過ぎない。作者が理想の世界を描いたのが小説だという見方もできるだろう。でも、大事なことが一つある。

それは、このような理想の世界を望んでいる人間がいるということだ。そうしてそれに共感して理想を共有する人間が世の中にいるということだ。ある人間は罪を自覚し、利己的な自身を反省し、愛とは何かを知る。現実という悪魔に徐々に馴らされていった自分をいましめるのだ。お前はもっとやれるはずだった、どこで間違えたのか、へりくだって理想を実現するのが、今みたいに現実の仮面をかぶって偉そうにふんぞり返っているよりずっといいぞ、と自分に言い聞かすのだ。まさにその時の僕がそうだった。

 理想とは美しい。誰もが一度は理想のとおり生きられないかと苦悩するものだ。僕はできることなら苦悩する人間でありたかった。

 バスがやって来て、僕はチケットを見せ、乗車する。中はカーテンがびっしりと閉じられていた。

 僕は指定された中ほどの左奥の席に腰を下ろした。隣に荷物を置く。窓際だった。

 今晩僕はこれで東京まで戻る。実に、一年ぶりの帰郷だ。数えてみるとたいした時間が経っていないことに驚く。僕はもう三年くらい東京に帰っていない気がしたのだ。

 僕のほかにも若い人が数人乗ってきた。夜行バスの乗客は若者だと決まっている。なぜって、おそろしいストレスと疲労感を強いられるからだ。

 僕は発車するまで『椿姫』の続きを読んでいた。美しい文章だ。僕は外国人作家の文章に惚れ惚れするし、他の日本人作家より美しい文体であると思う。洗練されていて、気品が漂っていると思う。たとえばこの前『カーミラ』を読んだが、そこの一人称の文体は輝くダイヤモンドのように眩い、素晴らしい文体だった。僕はそういったものに心惹かれた。

 今日は月がよく出ている。冷え冷えとした月だ。まるで霊気が月から朧となって降り注いでいるような感じだ。大地は冷え込み、寂しい底を作っている。バスが動き出す。初めはロータリーをゆっくりと周り、それから国道に出て、あとは長い一本道を走るのみとなった。

 バスが走り出してしばらくしてから、運転手の無機質なマイク音が聞こえた。『ええ、このたびは、○○観光バスをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。このバスは、予定通り進めば、翌日七時三十分、翌日の七時三十分には東京駅に到着いたします。途中渋滞などに遭遇しました場合は、到着時刻に多少遅れが生じる恐れもございますのでご了承くださいませ。お客様にお願い申し上げます。夜間はおやすみになっているお客様もいらっしゃいますので、どうか携帯電話の電源はお切りいただくかマナーモードにご設定くださいますよう、よろしくお願いいたします。またデジタルプレイヤーや、会話のかすかな音量でも、他のお客様にご迷惑になる場合がございますので、走行中はご遠慮いただきますようお願い申し上げます。二時間事にパーキングエリアで休憩を挟みます。マイクでお知らせはいたしません。到着になりましたらどうぞご自由にご休憩ください。休憩時間は十五分といたします。その前にはどうかバスにお戻りください。それでは、安全運転を努めさせていただきます。どうぞ楽しい夜の旅をお楽しみください』ブッ、とマイクが切られた。

 僕は頬杖を突いて夜の闇を見つめていた。カーテンの隙間にもぐり込んで、そこから外の流れる景色を見つめていた。

 明るい夜だった。それでも、流れていく景色はたいして見るべきものでもないつまらない街の深夜の風景だった。暗くくすんだ、希望のない街並みであり、終末感が漂っているように思われた。

 少し視線をずらすと、自分の顔が窓に映っていた。たいして面白くもない顔だった。退屈げで、冷徹そうだった。

「目的のない旅は、」と呟く。

 目撃のない旅は楽しい。

 どこか、逃避に似ているからだ。

 

 これは確か、映画『イントゥ・ザ・ワイルド』のセリフだったはずだ。このセリフは確かもっと別の作品からの引用だったはずだが、そこまでは覚えていなかった。ただ『イントゥ・ザ・ワイルド』のこのセリフが出るシーンだけ覚えている。

 僕は逃避したいんだろうか。そうかもしれない。僕はときどき、その土地から狂おしいほどに離れたい気持ちに駆られる。

 母はいつか、こんなことを言っていたような気がする。

「私は、あなたみたいに、一つの場所に留まらない生活は、きっと無理だわ」

 きっとそうなのだろう。母は今まで生地をほとんど離れたことがなかった。五十歳を越える今まで、だ。

 僕はこれまで生地を合わせて合計四つの都県に住んだことがある。

 転々とする生活がもう染み付いてしまっているのだ。

 それは、逃避したいという気持ちからくる行為なのだろうか。

 たとえば、こんなことを考えたことがある。

 ある友人とうまくいかなくなったとする。そうして絶交を言い渡した。友人は僕のことを酷いやつだと言いふらす。その地での僕の評判は地の底に落ちる。それでも、その土地から逃げ出してしまえば、僕は新しくやり直せるんじゃないか……と。

 そうやってリセットをくり返していけば、何回でも間違えることができるんじゃないかと。

 もう僕はそんな考えを間違いだと判断することができるようになったが、最初の引っ越しの際は本気でそんなことを考えていた。

 ただ、旅は確かに逃避に似ていると思う。

 それはうまくいかなくなった交友のせいではない。指名手配犯に挙げられたわけでもない。ただ漠然とした不満。行き詰まり感のあるゆえに、そこから離れたく思うのだ。それは理由のない寂しさで、おそろしい空虚感だった。

 一生その土地で生きていくということは、「土地」というやつと一生かけて仲良くやっていくということで、僕はそれを考えた瞬間、ぞっとした、言いようのない絶望感に囚われるのだった。

 冗談じゃなかった。そんな生活にこそ僕は絶対に堪えられないと思った。

 旅をしなければならない、旅をしなければならない、と誰かがこの心の奥で訴えるのだ。

 旅こそ我が命、なんて、そんな誇らしいことを考えるゆとりはなかった。

 ただ逃げていくだけだ。引き立てられるように。

 ただ、逃げるっていうのは結構面白い。だからやっているのかもしれない。それだけだといえば、それだけだった。

 僕はいつしか眠りに就いた。

 

 次に目が覚めると、バスは止まっていた。パーキングエリアに到着していて、外から冷たい空気が漂っている。僕は起き出した。凝り固まった体を動かして、血をめぐらせる。頭はすぐ働いた。今何時なのだろう? と考えて腕時計を見た。

 四時二分。

 すると、もう一度のパーキングは寝過ごしてしまったわけか。僕はコートを羽織った。降り立つことにした。

「すみません」外で煙草をふかしている運転手さんに尋ねる。

「あと休憩時間は何分ですか?」

「今着いたばかりだよ」

「ありがとう」と僕は礼を言い、そのままトイレに向かった。

 用を足すと、そのまま明かりに誘われるようにふらふらと食堂へ向かった。中は静かだが奇妙な活気に包まれていて、僕のようにこの深夜の時間にふと迷い込んだ哀れな人間を、腹を満たすもので歓迎しているのだった。僕はふらふらとしながら券売機でうどんを買った。おじいさんにうどんを作ってもらい、そのまま寂しくうどんを啜った。

 旅の味というのは、こんなものである。淋しさは砂糖のようなもので、それは舌に甘く感じる。口の中に広がる孤独感は、甘党の自分には程よく合っていた。

 とはいうものの、僕は完全に、天涯孤独というわけではなかった。

 なぜというと、僕は東京で友人と会う約束をしていたからだった。

 もう連絡は取り終えている。それは大学時代の友人であり、今はデザインの勉強をしている飯島夏子さんだ。

 名前が自分と奇妙に似ている彼女とは、サークルの合宿先で知り合った。塩沢のホテルのロビーで語りかけてきたのが彼女だった。内気な僕に語りかけてくる彼女は、誰か話し相手を捜していたようだった。

「何しているんですか?」

 と声をかけられた。

「いえ。別になにも」

「楽しいですか?」

「ええ」

 と僕は答えた。とくに何かしていたわけでもない。ただ考え事をしていた。

コーヒーをただ飲んでいるだけだった。とっさに僕は恥ずかしい返答をしてしまったと内心赤面した。

 彼女は目を丸くしている。

 そうして笑う。

「変なの。何もしてないじゃないですか」

「コーヒーを飲んでいます。あなたは?」

「私? 私はあまり楽しくないので、楽しそうな人を探しています」

「実は、」

 と僕は言った。

「あまり楽しくないのは僕もなんです。こうして、だらだらとコーヒーを飲んでいること、勉強も練習も何もしないでただがつがつと飯を食った後の気の抜けたコーヒー……ちょっと僕に合いそうもないと、今ここで気付いて絶望したところなんです」

「あら。別にそこまでじゃないけど」彼女は微笑んだ。

「それなら、私とちょっとお喋りしませんか? 愚痴っちゃいましょうよ、お互いに。つまらないこと、あることないこと」

「それはいいですね」愚痴を言い合うなんて建設的じゃなかったが、ストレス発散にはいい気がした。疲れていた僕は満面の笑みで賛同の意を表した。「あることないこと、愚痴を言ってしまうのはとてもいい案ですね」

 彼女は僕の賛同に満足を示したようだった。僕をソファーから立たせると、一旦ホテルの外に出てから、中庭を横切って、小さな建物へと入った。そこは小さなサロンだった。自動販売機があり、談話用のセンスのいいソファーがあったが、人気はなく、暗かった。きっとここは旧館なのだろう。新館のまばゆいばかりの不健康な、落ち着きのない明かりはなく、しんしんとした、落ち着いた、雪の中にある空洞のような、そんな心を和ませる雰囲気があった。僕はそういう空気が好きで、そして彼女も僕の好みと同じものを持っていたようだった。

 その日の合宿は他大学サークルとの交流会が開かれていたのだ。僕が所属していた軽音サークルはむさ苦しい男ばかりで、女子など数名しかいなかったので、他大学(そこは女子大だった)の美術サークルとの交流会は本当に楽しみにしていた。僕も楽しみにしていたのだったが、いざ交流会が始まると、お互いを出し抜くために、用意周到に気を張り巡らせている、まるで合コンのようなお互いの男女に、ここは僕の居場所じゃないと、奇妙な感じを抱いて、さっぱり意気消沈してしまった。お互いを監視し合うように、へらへらとどぎつく笑い合う人間に不信感と不快感を抱いた僕は、さっさと交流会が終わってくれることを祈って、ギターをほっぽりだして(スタジオは美術サークルの女子たちで埋まってしまって練習ができなかったからだった。部屋も同様で、ギターなど弾いているものなら、女子がやって来るし、そうしてはにかんでいると、遠巻きにされ、頭のおかしい人間だと思われていそうな空気に、自己嫌悪でいやになり、ただ何もできずにロビーでコーヒーを啜っていたという有り様だった)、ただぼんやりとしていたのだった。だから飯島夏子さんが話しかけてきたとき、僕はちょっぴりどきっとした。だけれど、彼女には変に人に媚びるような感じはなかったし、それに彼女も僕と同様にこの奇妙な交流会に気疲れを抱いているような気配があったので、僕の体のどっかに埋まっているセンサーで、彼女を自分の同類だと判断したのだった。

 彼女は薄い化粧で、少しもいやな感じはしなく、そしてそれでも美しかった。睫毛は長く、顔も細くて眼が凛々しかった。でも他の女子たちにあるような、愛敬のある微笑みはあまりなく、輝いているかといえばそうではなかった。どちらかといえば、彼女は六本木のお洒落なバーよりも、荒川や浅草の、人間くさい、煙草と焼肉の煙でもうもうとしている居酒屋でお酒を飲み合うほうが似合っていると思った。

 そんな人だった。

「ガム、食べます?」

「いただきます」

 彼女はミントのガムを差し出した。刺激のある心地良い香りが口の中に吸い込まれていく。彼女はトランプを切り出した。

「私、七並べ好きなんですよね」

 彼女はトランプを並べ出す。

「七並べ、あまりやったことがありません」

「お話ししながらでも七並べはできるので、コミュニケーションにいいんですよ」

 彼女はそう言ってカードを並べ、切って半分を僕に渡す。僕はそれを手札とし、彼女と向かい合った。

「よければ、」と彼女は苦笑しながら言った。

「名前を教えてもらえません? それと、堅苦しい言葉遣いもやめにしません? いやなら続けますけど」

「いや、僕もそれでいいと思います。同い年なんだし」

「あらそう。私、飯島夏子っていうの」

「向島夏生です」

 そのとき、僕らは笑い合った。やっぱり、と僕は思った。

 彼女はおかしいことがあった時も、決して大声で張り裂けるようには笑わない人柄なのだ。僕はとても彼女に好感を持った。

「やだ。もしかして生き別れの兄妹?」

「そうかもしれません」

「ほら。敬語」

「癖みたいなものです。僕はこれでもかなりフランクに喋ってますよ」僕はカードを一つ並べた。ダイヤの6。

「ええ。でもなんか気取ったみたいでいやだなあ」

「じゃあやめるよ」彼女はハートの8を。

僕は笑いながら続けてカードを出した。

「馴れ馴れしくするのには慣れてないんだ」

「それは私も同感。でもちょっとずつ努力はしてるの。気に障ったらごめんね」

「まさか」

 僕は彼女と交互にカードを出していく。

「夏生くんって、呼ぶね」彼女はすこし恥ずかしそうに言った。

「夏生くんは楽器弾けるの?」

「そこそこは」

「どのくらい?」

「サークルの中の下みたいなもんだよ」

「もうちょっとわかりやすく」

「ビートルズみたいなポップロックは弾ける。でもスレイヤーみたいなヘビメタは弾けない」

「あ〜」

 彼女はうなずきながら手札を弄んだ。一つにまとめてそれを名刺みたいに手でいじったり、扇形にして首を扇いだりしていた。

「ライブとか、するの?」

「ライブが主な活動内容だよ」僕は笑う。

「へえ、すごいねえ!」

 一般の人によくされる反応と一緒だった。別に悪気はないようなので、悪い気分にはならない。

「そちらの活動内容は? 主にどんなことを?」

「私はね」と彼女はカードを吟味しながら、「コンピューター・グラフィックを描いてるの」

「コンピューター・グラフィック。CGか」

「そうそう」

「美術部ってそんなこともするんだね。ちょっと意外だったよ」

「そうかしら。私だって軽音サークルはトランペットとか木琴とかあってもいいと思うわ。カスタネットとかね」

「考えておくよ」僕は苦笑した。

「でもきっと難しいんだろうね?」

「そりゃあね。初心者には取っつきにくいんじゃないかしら。でも私だってギターは弾ける気はしないわ。ピアノなら多少弾けるけど」

「スケッチとかはしたりしないの?」

「もちろんするわ」

 彼女はカードを出した。僕もすぐにカードを出す。彼女が唸り始める。

「うん。もちろんスケッチはするわよ。というか、私、絵は全般的に好きだもの。ただCGが自分に一番合っているっていうだけで」

「へええ」

 僕は彼女のカードを吟味する顔をつぶさに見ていた。実際じっくり見た感じでは、それほど美しくはないかもしれない。でも付き合いやすい美しさであった。モデルみたいに彫りの深い女性が今目の前にいたら、僕はきっとフランクに接することはできなかったろう。

 彼女はそれから、CGの素晴らしさを朗々と語った。

 僕はそこで、趣味の本当の意味を知ったのかもしれない。

 それまで僕は、小説というものに出会ったことがなかった。

 いや、かつて読書感想文で課題図書として出された夏目漱石の『坊っちゃん』や太宰治の『走れメロス』『人間失格』などはいやいやながら読まされたことがあったが、まるで理解もしていなかったし、難しすぎる文章に嫌気が差して、かえって小説が嫌いになってしまったことがあった。

 それから僕は勉強だけに心を向けるようになり……趣味とは無縁だった、と言ってもいい。

 大学一年のときに教授に「おまえも何かサークルやってみたらどうだ」と言われ、考え直すことがなかったら、翌年の春、サークルの勧誘会に二年の異物として一年生に混じって行くことはなかっただろう。そこでこうして恥ずかしさに耐えながら、いくらか勇気を振り絞って音楽に触れてみることすらなかっただろう。

 でもギターは僕にとって、最大の興味物とは言えなかった。そりゃ友達とセッションするのは楽しいし、難しいフレーズが弾けたとき、あるいは、前よりもずっといい音が出せるようになったときは嬉しいけれど、そりゃ努力の嬉しさってやつで、自分に自信ができたある種の高揚感でしかなかった。音楽自体は、そりゃ好きだったが、ただ他よりも得意というだけで、決して心はときめかなかった。

 だがそれが彼女と出会ったことで変わったのだ。

 彼女はとても楽しそうに自分の話をする。それはまだ知り合って間もない男女の会話としては不適切だったかもしれない。でも友達としては、彼女はとても親近感を抱かせる会話をしたのだし、実質尊敬の念も生まれさせていた。

 僕はそれ以降、音楽に満足を抱けなくなった。

 そしてそれからすぐに、小説に出会った。

「夏生くんはどんな音楽を弾くの?」

 ふと彼女は僕に話題を振った。

 僕は彼女の話を聞きながらただただ驚嘆していたのだったが、急に自分に話が流れてき、慌てて考えを取り繕うのだった。

「そうだね。ビートルズとか、ミューズとか、オアシスとか、レッドホットチリペッパーズとかが好きかな」

「ビートルズしか知らないわ。私」彼女は瞳を輝かせながら、「ね、何か弾いてみてよ。ちょっと今から部屋に戻ってギター持ってきてよ」

「ええ? 別にいいけど。でも夏子さんもパソコン持ってきてくれたら嬉しいな。ぜひCGが見たいんだ」

「考えとく」

 僕は本当の気持ちだった。彼女のCGとやらが見てみたい気がした。

 僕ら軽音サークルはコピーバンドが中心で、オリジナルの曲を作ることはほとんどしていなかった。創作というやつとははっきり違っていたんだ。

 ひとりの人間がひとつの作品を作る。それが一体何なのか、僕は知りたかったのだ。

 ギターならいくらでも見せてやれると思った。僕が弾ける曲の全部を足したって、彼女の創作物の一つにも適いやしないのだから。ただ劣等感をいくらか和らげるために、僕は彼女のリクエストに極力応えてやった。

 彼女はパソコンを持ってきてくれた。そして僕はミニアンプを持ってきて、小さい音でビートルズの『インマイライフ』を弾いた。

「綺麗な音だね。それに、歌もいいし」

「ドラムとベースがあるとなおいいんだ」僕は簡単なフレーズを弾きながら、『インマイライフ』を歌った。その次は『ガール』『ヘイジュード』『ホワイルマイギタージェントリーウィープス』と続けて歌った。『アイウィル』『ラッキーラクーン』そして最後に『イエスタデイ』を歌った。彼女はもっと聴きたいとせがんだが、もう僕は疲れていた。ちょっと休憩させてくれと言って、自販機でミネラルウォーターを買った。その隙に彼女はCGを数点選んでスライドショーを作ってくれていた。

「今から見せるね」彼女はエンターキーを押した。

「ほら」

 真っ暗になった画面から、うっすらと浮かび上がってくる画像がある。

 美しい映像だった。

 どこの宇宙の果てだろうか。オレンジ色の惑星があり、うっすらと輪っかがそれを包むように流れている。星々は紺色の壁紙に数え切れないほど多く散逸し、どこか冷たい雰囲気を漂わせていた。

 彼女はただの画像を作るのではなく、そこに穏やかな息吹をかけていた。それが僕にもなんとなくわかった。「これは彼女の画だ」と、はっきりとわかるような何かが、そこにあったのである。

 次は広大な山岳がやってきた。青い空に白い山並み。そうして麓には黄色い花が咲いている。近くに小川が流れている。

「これはね、カナダの風景を元にしたの」

 僕は返す言葉もなく、その景色の鮮やかさに胸を打たれていた。

 彼女の画はどこか繊細だった。荒々しくもあった。でもそれは、根底に横たわる繊細さからくる反動だった。そのような気がした。

 CGに関しては上手だとか、下手だとかよくわからない。だけれど彼女の情熱は伝わってきた。テレビやパソコンの多くのサイトで見た画像ともほんの少し違う。彼女の画は彼女の画だ。どこか柔らかで、温かく、未熟で、荒々しさもあり、でも、彼女の性質を、とても繊細で、優しく、奥深く、冷徹だが、不器用な、そんな性質を、そのまま顕わしているように見えた。

 彼女の画と彼女自身とはほとんど変わらなかった。そうしてそんなふうに直感できる自分の感性に、また驚いた。そのときだ。自分もこんなふうにやってみたい、と強く心に感じたのは。

 勉強があり、法があり、政治があり、哲学があり、数学があり……そんな既成のものにこちらから合わせていくのはもう飽き飽きとしていた。僕は新たに何かを生み出す力を持っている。そのはずだ。だからやってやろう。と信じた。

「とても綺麗だね」僕は深々と言った。「なんか感動したよ」

「やだ。全然下手くそだよ」

「下手くそなんかじゃないよ」僕は苦笑した。「ものすごい絵だよ。なんか夏子さんのことがとてもよくわかった気がする。絵自体から伝わってくるんだ。どういう人間かって」

「ええ、なんか恥ずかしいなあ」彼女は照れだした。「どんなふうに映ってるんだろ。全然意識したことなんかないや」

 僕は笑った。この言葉は以後、僕自身が彼女にしたのと同様な感想を知人からもらったとき(小説の感想だ)、僕が照れて口にした言葉だった。

 あのときの彼女は純粋だった。純粋に彼女は彼女の道を信じて、その道を愛し、その世界に自分を重ねていた。それがあの脅威的な絵を生み出し、一人の同道者を生み出したのだ。

 僕と彼女はやがてそこで簡単なキスをした。どちらからともなく、だ。だんだんといい雰囲気になっていったがゆえに、かもしれなかったが、僕は彼女が本気だったら、付き合ってもいいと思ったし、彼女のことはすごく尊敬していた。でもそのキスはそのキス以上の意味はなく、ただお互いの友情とお互いの人格を肯定し合う、それ以上の意味はなんらなかった。でもそれだけでも素晴らしくいい気持ちになった。

 彼女と夕方別れてからも、僕はギターを手にしながら、自分との対話を続けていた。自分になくて彼女にあるものは一体何なのだろうか、それを明確な形、明確な言葉にしたくて僕は僕自身と取っ組み合いをやった。結果は引き分けだった。少し自分のことがわかったが、とにかく今やることは、バンドメンバーのために曲を完成させることだという結論だった。でもそれ以降、僕は音楽を楽しむことはできなくなった。

 夏子さんとはそれ以降たまに会った。彼女とはたまに恋人らしいこともしたのだが、それが果たして恋人としてだったのか、今でもよくわからない。僕は彼女のことを好きだと感じていたが、ただ未来は、彼女とは一緒に歩くことはないという予感があった。彼女も僕も独立不羈の人間であり(僕はそれを目指しているのだが)、誰かのために自分を犠牲にしたり、誰かがいないと生きていない人間ではない(少なくとも今は)と思ったからだった。そうしてそれは外れてはいなかった。彼女は僕がいなくても生きていけただろうし、僕は彼女がいなくても生きていけただろう。だからそれは恋愛ではなかったのだ。ただの強い友情に過ぎなかった、と僕は思うようになった。でもそれでよかったのだ。僕は彼女を愛していた。それと同じ意味で、彼女も僕を愛していただろう。

 彼女は彼女の道を行き、僕は彼女とは別の道を行った。それからすぐに小説を見つけ、のめり込んでいった。サークルに出ることもなくなり、そうしてギターは埃を被り、学業からは離れていった。そうして彼女とは強い友情をますます強くしていった。

 僕は、一瞬だけ目を閉じた。そうして開く。

 あの頃とは少し変わった顔つきが、バスの窓に映っている。

 彼女はどれだけ変わっただろうか。きっと凛々しい目つきと、穏やかな口元と、不安げな彼女の可愛らしい素顔は変わらずにいるだろう。僕は時計を確認した。四時二十五分。

僕はもう一度眠りに就いた。

 

 僕は東京に格別長い間いたわけではないが、東京のあの暗い雰囲気を嫌いになったことはない。

 暗く、濁った空気だった。でもどこか心地いい。

 東京に着いたときは晴れだった。冷たい晴れだった。

 バスを降りて、東京駅のコインロッカーを借り、身軽になって丸ノ内口から出て行った。

 皇居方面に散歩に行った。今は早朝だった。サラリーマンはそれでも他の街よりは数多く歩き、仕事に出て行く。だんだん皇居のほうに近付いていくと、ジョギングしている人に出会う。ジョギングしている人はウォークマンをつけていた。またすぐ競技用の自転車に乗った人に出会った。おそろしく人の多い街だ。このような朝早くからこんなに人に出会うのだから、東京とは恐ろしい街であると田舎から出て来た人間は誰もが思うに違いない。実際僕も、懐かしさがなかったら、すっかり東京を敬遠していただろう、この経験で。

 皇居外苑はひっそりとしていた。犬の散歩をしている人がおり、チワワは僕を見ていた。高級そうな車が素早く通りすぎていった。僕はただただ歩いた。

 日比谷公園まで歩き、そこをまた通り過ぎた。有楽町まで歩いた。

 そこでネットカフェに行き、シャワーを借りて汗を流した。しばらくインターネットを楽しみながら、僕は懐かしく思っていた。この暗い、寂しげな感覚。東京でしか味わえない感覚だ。ここではある意味時が止まっている。これ以上の進展はなく、何もかもが最高値であるため、やりがいがわからない。生きがいが見つからない。息苦しく、心寂しく、そして薄暗い、居心地のいい街。それが東京だった。でも僕はそんな東京を懐かしく思った。

 僕はネットカフェを出た。それから僕はイタリアンカフェに行き、アイスコーヒーを一杯飲んだ。夏目漱石の『門』を読む。『門』は三部作の中でも一番好きだ。この主人公の夫婦の暮らしが、どことなく暗く、未来に希望がなく、ただただ現在を愛し、相手のことを愛し、それだけが希望で、未来などにはなんらの心配もしていない、明るい未来を描かず、ただ静かに、ひっそりと幸福を味わっている夫婦の情景が素晴らしかった。これは夏目漱石にしか書けない作品だった。ゆらり、のんびりとした、明治の知識人の悪くない暮らしがここに書かれてある。ただ『門』は、旅行先に持ってくる本じゃないと、ただそう思った。

 それから僕はコンビニに行ってパンと牛乳を買った。なるべく安く、なるべく量が多い、簡単な味の、たいしておいしくもないパンを買った。牛乳と合わせればそれなりに食べられる。有楽町は徐々に人が多くなってきて、平日も休みな学生やフリーターらしき若者が街に溢れてきた。

 僕は腰を上げた。山手線に乗り、そのまま日暮里まで行った。日暮里で降りて、しばらくぶらぶらしてから、上野桜木町、寛永寺近くのカフェに行った。

 ブレンドコーヒーを頼み、時計を見る。カフェの中にはショパンのピアノ曲が流れている。『舟歌』だ。時刻は十時三十分過ぎ。

 十一時ごろには彼女が来るはずだった。

 彼女はこの谷根千界隈(谷中、根津、千駄木の、昔ながらの古い界隈のこと)で仕事をしていた。古ぼけた小さな事務所が、これまた古ぼけた建物の二階にあるんだそうだ。たいして暇もない仕事らしいが、彼女は僕が来るというとわざわざ時間を作って来てくれるということになっていた。

 背後に谷中霊園を控えたこのコーヒー店は、静けさに包まれていた。桜の木は今、冬枯れていて、寂しさを感じさせる。でもこのコーヒー店は思い入れ深い。僕は昔、ここによく来たのだった。桜が舞うころや、葉桜になるころ、蝉がなくころ、そして葉が散っていくころ、そうして冬枯れたころ……僕はここに来た。とくにここを目当てに通ったわけじゃなかったが……谷根千界隈に来ると、なぜかいつもここへ立ち寄った。ここでいつも三百四十円のブレンドコーヒーを頼み、時にはお菓子もつけて、本を読んだ。ここで『指輪物語』の壮大さに触れ、『ジェイン・エア』の真心あふれる精神をなぞり、ヘルマン・ヘッセの『デーミアン』に驚かされたのだった。夏目漱石の『吾輩は猫である』も初めて読んだのはここだった。カフェにはめったに他のお客さんが来なかった。

 僕はふと窓の外を見た。

 彼女がやって来るのが見えた。

彼女は髪を茶色に染めて、ポニーテールにしていた。とても美しく化粧していたので、初めは誰だかわからなかった。そうして胸の中に高まるものを感じた。けれど僕は、それを燃え立たせることはなく、ただ取り出して手に持って眺め、微笑むだけだった。

「久し振り」

 かすかな恋愛をもって投げかけられた挨拶は、彼女の少女のような笑顔によって受け止められた。

 彼女の親友のような返事や、気の置かない動作に僕の男女としての奇妙な情念はじょじょに消えていった。そうして温かい、かすかな光を放つ、美しい友情に姿を戻していった。

「今だからいうけど」彼女は照れ臭そうにいった。「彼氏、作ったの」

「そうなんだ」僕は笑った。「おめでとう」

「うん」

「どんな人?」

「それがね、わがままなのよ」彼女はのろけだした。「頭がよくなくって、顔もそんなによくないの。女々しくってさ、いつもなんかわけわかんない妄想抱いていて、最初これはあかんわー……って思ったんだけどさ、でも時々かわいく思うこともあるのよ」

「タイプだった、ってわけ?」

「ぜんぜん。タイプってわけじゃないよ。でもなんかあの馬鹿で不作法な感じが好きなのよねえ」

「なるほど」

「私のタイプはジャニーズみたいな人だから」

 はははは、と僕らは冗談に笑い合った。それからじょじょに僕の話に移っていった。

「それから、どう? 新天地での暮らしは」

「上々。居心地はいいし、執筆もはかどっているよ」

 相変わらず評価はされなかったが。僕がそう言うと、彼女は苦笑した。

「そうなんだ。でもいつか評価されるときがくるって。夏生くんの小説、好きだもん。オリジナリティがあるっていうのかな。私ね、昔っから『小説はこんんなもんだ』って勝手なイメージ抱いていたんだけど、夏生くんのは全然そういうのとは違うの。面白くって、なんかいやらしくないの。どうしてだろうね?」

「さあね」

 彼女のブレンドが運ばれてくる。

「あまり頭使って書いてるわけじゃないからね。でも夏子さんのだって、オリジナリティはあると思うよ」

「ありがとさん。でもやっぱり散々文句言われっぱなしだけどね」彼女は照れ臭そうに笑って、コーヒーを飲んだ。

「これからどこへ行くの?」

「そうだね。東北の方へ行こうと思っている」

「東北?」彼女は眼を瞬かせた。「何しに?」

「何となく」

 僕は説明しようとした。

「心惹かれるんだよ」

「東北に何があるか知ってるの?」

「ちょっとは」

「あ、わかった」

 彼女はにやりと笑った。

「駅の広告を見てそう思ったんでしょう(その頃はJRの各駅に東北特集の広告がよく貼られていた)」

「そんなわけないでしょ。僕はそんなもの見たことないんだもん」

「え。じゃあ、なんで」

「言ったでしょ。なんとなくだって」

「はあ」

 彼女は溜息ついた。「夏生くんは夏生くんだねえ」

 僕は苦笑した。

「とりあえず行ってくるよ」

「東京にはゆっくりしないの?」

「するつもりはない。ま、この場ではゆっくりしたいけど」

「あら、ありがと」

「どういたしまして。仕事はいいの?」

「夕方からやるわ。同僚にそう言ってあるから」

「大変だ」僕がなんとなくそう言うと、

「大変も大変よ。才能の削り合いなんだから」

 僕は彼女の仕事の内容を聞くたびに、いつもいつも、今のうちにもっと勉強しておいたほうがいいと思うのだった。仕事を始めれば忙しくなる。忙しくなってくれば勉強する暇なんかない。そう思うと、少し不思議な感じで、軽いためらいのようなものを覚えるのだった。

「そっちでは、誰か恋人でもできた?」

 僕はあいまいな顔をした。

「できてないの?」彼女は眼を瞬かせた。

「作ってないんだ」

「あら、残念。じゃあ私、彼氏作ったなんて言わなけりゃよかったわね」

「別にいいんだ。それを聞いてちょっとほっとした、そういう自分がいるんだ」

 彼女は照れたように笑った。

「夏生くん、ほんとうに夏生くんなんだねえ。……それはずっと変わらないの?」

「そりゃどういう意味かな?」僕はすこし疑問に思って尋ねた。

「別に。そのままの意味だよ」

 彼女はそうやって少し寂しそうに笑うのだった。

「僕が、こうしてまだ一人でやっているのを見て、おかしいと思っているの?」

「いや、全然。そうそう人間っていい人に巡り会えるものじゃないと思うし、巡り会っても、うまくいかないことのほうがずっと多いと思う。だから夏生くんが今そうしているのは全然おかしなことじゃない。むしろ普通、ってこと」

 でも夏子さんは寂しそうな顔をやめない。なぜだろうと思った。

「じゃあ、失礼だけど、どうしてそんな顔をしているんだい?」

「これ? やだな。顔のことなんて聞いてくるんだから。油断ができないね。でも……そうね。夏生くん、それでいいって思っているふしがあるでしょう」

 僕は難しい顔をした。

「それでいい、って?」

「そのままでいい、今と変わらないままでいいって意味。がちがちに凝り固まってるの。一見柔軟なふうに見えるけど、心の殻はものすごく固い。こういうことを言って失礼にならなければいいけどね、」

 僕はその彼女の最後の言葉に、ちょっぴり救われた気がした。

 心の琴線に触れたのだろうか。なんだかとても彼女に怒ってやりたくなったからだ。

「いや、いいんだ。続けてほしい」

「じゃあ続けるけどね。夏生くんのその心の檻を、壊してやれる人っていうのは、いったいいつになったら現れるんだろうね? 誰もがみんな、自分自身に対して、そういう人が現れてくれることを望むものだけど、どっかで妥協するものなの。だって、寂しさに絶対耐えられないから。苦しくなって吐いちゃうくらいに。でも夏生くんはそのままなんだよね。そのままで、ずっと変わらないんだね。……」

「変わることがあるかもしれないよ。変わらない保証はないよ」

「ううん。きっと変わらないと思う。誰だってさ、耐えられないんだよ。そんな寂しさには。夏生くんは家族の人とも分かり合えてないでしょう。とんでもなく孤高なの」

 僕は彼女が親友でなければ、そこまで言わせるのを許さなかっただろう。

 つまりは、そういうことなのだ。

 誰とも分かり合えない。そんな寂しさが僕の胸の中にある。そしてそれでもいいと思っているふしがどこかにある。

「……こう聞くのを許してほしいんだが、」

「うん。なに?」

「僕が、さっき、ほっとしたと言って、少し怒ったのかい?」

 彼女はすぐには答えずに、ただ笑った。

 やがて彼女のコーヒーも運ばれてきた。彼女は一口飲む。

「少し……ね」

 彼女は照れ臭そうに笑う。

「夏生くんが心配、っていうだけじゃこの感情は割り切れないのかもしれない。夏生くん、今だから少し言わせてもらうけど、私ちょっぴり残念だったよ。何に残念だったかは言わないけれど」

 僕は何も言えなかった。

「だからそういう感情を全て取っ払って、なるべくフェアに言わせてもらうね。夏生くん、そのままで大丈夫?」

 僕は俯きがちになっていた顔を、再び上げるのだった。

 彼女の優しさが、その一言に感じられたからだった。

 僕の手を取って、優しく引き上げてくれたような気がしたから。

「残念、か。そいつはすまなかった。どこかでまだ僕は臆病なのかもしれないな」

「夏生くん」

「大丈夫だよ、夏子さん。今のところは。これは臆病だから言うんじゃないよ。まだ一人で頑張れるからなんだよ。自分の思うとおり、考えるとおりに、あともうちょっとだけでも、生きてみたいんだよ」

 そうして彼女は目を閉じた。

 ちょっとの間だけ、目を開いて、僕のことをじっと見つめる。

 僕の中に何を見ていたのだろうか。その瞳の色はゆらゆらと揺れて、様々な情念が宿り、溶け合っているように見えた。

「そう」

 目を閉じる。

「大丈夫なら……それでいいんだけどね」

 僕はコーヒーを飲んだ。妙な味がする。

 寂しい味がした。

 ああ、これが、やろうと決めたときの味なのだ。なにかに決別を告げるときの味なのだ。生易しい道を断ち切って、困難に進むときの味なのだ。

「そうやってさ、夏生くんみたいに生きれる人、きっとそういないよ。あんまりいないよ。臆病だっていうけれど、私、臆病だってあえて言わない。言う人もいるかもしれないよ。そりゃもちろん。でも頑張ってほしい人に、そうは言わないよ」

「夏子さん」

 落ち着いた眼差しをしている彼女に、ふと尋ねた。

「僕はばかなのかな」

「ばかじゃないよ」

「ちゃんと、やれてるかな」

「驚くくらい、ちゃんとやれてるよ」

「じゃあ、」

 どうして僕は、みんなと一緒にやれないのかな。

 その言葉は飲み込んだ。

 手を一緒に繋ぎたいと、狂おしく思われる時がある。

 抱き合ってキスをしたいと、そんな情念が抑えられなくなる時もある。

 一人でそっと、静かに涙を流しながら、みじめな思いをしたこともある。

 でもそれでも、自分で選択した結果なのだ。

 それを尊重してくれる人に、今初めて出会えた気がする。

 夏子さん。

 この人だったんじゃないか?

 でも、それを考えるのはやめておいた。

 続きを考えるには、僕はあまりにも馬鹿だと思ったし、守りたいものが多すぎる、臆病な人間であったから。

 夏子さんはきっと、あれから、変わったのだ。

 愛することに目覚め、至ったのだ。

 そうして幸福な、落ち着きのある、そして、日々変化のない、削られていく日々へ、没入することを覚悟したのだ。それも一つの覚悟だった。

 僕にはまだそんな覚悟を抱ける器はなかった。

 変化に富んだ、危険極まりない、あてのない、未来もわからぬ、孤独な日々へ没入していくこと。ただそればかりを、経験していくことを、今暫くは、願い、覚悟することだった。

 そうしてそれを祝福してくれる夏子さんを、僕もまた、祝福し返す準備ができていた。

 夏子さんのことは好きだ。

 だけど、ここで、お互いに別々の道へ、歩んでいくことを、祝福し合える、そこに、妙なためらいなどは、不必要で、お互いが好きな気持ちも、出さず、手に持って眺め、それを真摯な友情に変え、お互いに尊敬の念を抱き続けること。

 僕はそのような経験を胸に宿すことができて、とても幸せだったと思う。

 

 十五 

 

 東北旅行では、太宰治の『津軽』で紹介された土地を簡単に見て回った。そのような観光パンフレットがあったのだ。

 非常に冷たく、また静かで、蒼く、暗いところだった。夏に行くべきだと思った。幽玄とした、素晴らしい世界が待っていることだろう。

 僕は穂月町に帰ってきてすぐ、麗奈ちゃんのところへお見舞いに行った。お土産を届けに行くという名目で。麗奈ちゃんは発作でひどい状態だった。入院しなさいと両親から勧められているらしいが、従わないのだという。どうしても学校を卒業したいのだそうだ。今回ばかりは、僕も紀子さんも心配だった。無理がたたったんじゃないか、と僕らは話し合った。そうして止めることも、励ますこともできずに、ただ様子を見る、という手を取ることしかできなかった。

 僕はよく麗奈ちゃんに会いに行った。会いに行っても寝ていることが多かったが、あるとき、彼女は目を覚ましていた。

「……先生」

「やあ。起きたんだね。すこし気分が悪そうだね」

「すみません。よく来てくださるとは聞いていたんですが……寝てばかりでしたね」

「気にすることはない」

「旅行へ行ってたんですって?」

「そう。北の国へ行ってきた。ほら、お土産だよ」

 彼女はそれを怪訝そうに受け取った。

 ごほごほ、と咳をする。

「なんでわざわざ寒いのに北の国へ?」

「行ってみたかったんだ」

「先生、馬鹿でしょう」

「馬鹿だったが、面白かったよ」

 僕は笑った。ひどい寒さだったが、楽しかった。

「変な病気うつさないでくださいよ」

「それは心配ない。なんの病気にもなってないから。風邪すらひかなかった」

「へえ」

 馬鹿は風邪をなんとやらか、と思ったのか。

「ちょっとぐらい、僕の元気を君に分けてやれればいいんだが」

「大丈夫です。ちゃんともらってますよ。でもちゃんと帰ってきて安心しました」

「僕は心配される人だったわけか」

 僕は笑った。このへらず口の言い合いもひどく懐かしい気がした。

「先生、東京へは寄ったんですか?」

「まあね。新幹線に乗るためにね」

「向こうで誰か友達と会っていたんですか?」

 僕はちょいと言いよどんだが、

「ああ、まあね。昔の友達にちょっとだけ会ったよ」

「女の人?」

「まあ、そうだ」

 妙な沈黙があった。

 それから、ややしばらくして、彼女のひどい咳によって沈黙は中断された。

「苦しそうだな」

「いいえ」

 彼女は熱のある赤い顔で、じっと俯いていた。髪が汗で乱れていた。

「その人、先生の恋人?」

「だから違うって。ただの友達」

「ほんと?」

「前にも言ったじゃないか。彼女はいないって」

「そう」

 そうして沈黙があった。僕はお土産を取り出した。

「おまんじゅうだよ。二人とも好きだと思って」

「食べたいけど、今はきっと味がわからないわ」

 彼女はまた眠くなってきたようだった。

 僕は水を飲ませてやって、布団をかけ直してやった。

 その頃には彼女は安らかに眠りについた。ふとかすかな寝息が聞こえた。

 部屋を出て行って、僕は階下の紀子さんと話し合った。

 旅行のことや、学校のこと。

「じゃ、そんなに欠席日数はひどくないんですね?」

「ええ、そうねえ。この前先生がいらっしゃって、よく話し合ったんですけど、インフルエンザにかかったということにして、特別に出席を免除されることになったそうなんです。症状がインフルエンザに似てますしねえ」

「そいつはよかったですね」

 先生の方からそうやって認められるとは、結構評価されているということだ。頑張りが認められたんだ。そうでなきゃ、そんなふうには言われない。だってインフルエンザではないんだから。

 彼女のことを理解してくれる人もたくさんいるのだ。

「でも確か、一週間程度でしたね?」

「そうなんです。だから一週間だけ、お休みを特別に頂くことにして、その間にゆっくり体調を回復してちょうだい、ということなんです。もうきっともらえません」

「そいつはじっくり休まなければいけませんね」

 僕は、だけど、本当に彼女は一週間で起き上がることが可能なのだろうか、と考えた。

 インフルエンザみたいに一週間で治るものじゃない。体力が回復しなければ立ち上がることはできない。それが心配だった。

 一週間経ったらまた歩いて学校に行くことになるのだろうか? 

それを実行しきってしまう麗奈ちゃんが容易に思い浮かんだ。自分の苦しさなど度外視して。

 ふと、彼女を横から支えることはできないだろうか。と考えが浮かんだ。でもそれは、僕は、やめにしておいた。それ以上やると、また違った面倒が起こってくるだろう。

 彼女の部屋に行って、もう一度ノックをすると、返事はなかった。寝ているんだろう。そっとドアを開けると、彼女の寝息が聞こえた。

「ほんの少しずつですけど、よくなってきてはいるんですよ」

 紀子さんがドアを開けきって、一緒に入るように促した。

「でもこんなに疲れ切っているのは久し振りね。中学生以来かもしれないわね」

 僕は無言で椅子に腰かけた。紀子さんと二人で並んで座る。

「いつも、お見舞いに来てくれて助かるわ」

「いいえ。二、三日、留守にしてすみませんでした」

「いいんですよ。そう毎日来いなどと言えません。向島君は向島君なんだから、自然にやればいいの。来たいときに来ていただければ、もうそれだけで私たちは嬉しいんですから」

「その、なんというか、すみません」

「んん?」

 紀子さんは、全てわかっている、という調子で頷いた。

「彼女の苦しみがよくわかりました。今が一番つらいんだろうと、そう思いました。僕も昔は体が弱かったので、よく家で寝ていました。でもこのように月日が経って、丈夫な体になれば、そんなことも忘れてしまうんだとわかりました」

「そういうもんじゃないかしら。向島君は間違っていないわよ」

「そうでしょうか」

「麗奈ちゃんは、きっとそっちのほうが助かると思うわ」彼女は麗奈ちゃんに視線を落とした。「頑張りやさんだから。きっと、弱いところとかあまり見せたくないと思うの。だから、もし向島君に弱音を見せたら、それはきっとすごいこと……彼女にとって、一大事だと思うの」

「そうですか」

 だから、と紀子さんは続けた。

「そういうふうな自然の付き合いでいいの、向島君とこの子は。きっとあなたのこと、大好きだから」

「強いですね。麗奈ちゃんは」

「そうですね。……親から突き放された子ですけど、強い子に育ちました」

「大学受験するんですってね」

「そうなんですよ。きちんと寮もある学校でしてね。もう三年間も高校三年生をやっているから、きっと大丈夫だろうというんです。お金だけはこの子の両親から出てますので」

「……そうですか」

 彼女はそれを望んだのだろうか、と、僕は思った。

「麗奈ちゃんがそう望んだんですよ」

 彼女は読みとったかのようにそう言った。

「え?」

「大学へ行きたいって。それで、若い人たちと一緒になって、学んでいきたいって、言ったんです。あの子の両親に」

「それは……」

「大歓迎でしたねえ。家族全員。といっても、やるのは麗奈ちゃんですからね。こうして体をよくして、体調を整えて、それで勉強も大変だけど頑張って、普通の子と同じように、つらいことも経験しながら、大学へ行ってみようというわけなんです」

「そうだったんですか」

 彼女は、強い人だった。

 僕は麗奈ちゃんに、もう一人の(彼女)を見た。

 強くて孤独な子。

 だけれども、麗奈ちゃんは一人ではなかった。

 一人で生きる強さをもう身に付けている。だけれども、彼女の周りには支えてくれる人がいた。

 だから自殺する必要もなかったし、孤独になる必要もなかった。

 わかってくれる人がそばにいて、こうして、温かく見守ってくれる環境がここにある。

 麗奈ちゃんは、もしかして、あの、僕が好きだった子の、もう一人の(彼女)なんじゃないか。

 もし、あの時不幸にならなくて済んで、こうして今の今まで生きてきたとしたら。

このような姿をもって、僕の前に現れたのではなかったろうか。

僕は寂しかった。

「あ、おばあちゃん……」

うっすらと目を開ける。

「先生も……」

「起こしちゃったね。もう僕今日は帰ります」

「あら。いいんですよ遠慮しなくて」

「体が休まらないでしょう。十分静養してください」

彼女は「ちょっと」と引き留めようとした。

「別に、いいのに。全然よくなってきたし。ちょうど話し相手が欲しかったから」

「いや、でも」

「居てあげてくださいな。確かに顔色もよさそうだし、麗奈ちゃん、何か食べる?」

「うん」

「じゃあ、おかゆを作ってあげますからねえ」

紀子さんは、部屋を出て行った。

麗奈ちゃんは笑っていた。

「きっと先生の分ももってくるよ」

僕は微笑んで、彼女のそばに腰かけた。

「大学受験するんだってな」

「やだ、おばあちゃんに聞いたの?」

「ああ」

彼女は顔を赤らめる。

「ただ、諦めたくなかっただけで」

「どこの大学へ?」

「えっと、大阪の……」

「そっか。すごいじゃないか」

「まだ決まったわけじゃないんだって」

叩かれた。

「ちょっと挑戦してみようと思っただけで。そんなにたいして難しいわけじゃないんですよ」

「君なら受かるよ」

彼女は喜んだ。

「そう? そうかな?」

「きっとね……努力し続ければ、ね」

「先生は? どうするの?」

「僕かい?」

「ええ」

僕は腕組みをした。

あんまり考えていなかったが、また、今までと同じような生活に戻るだろう。

「執筆を続けるよ。とっととアマチュアを通り越したいからね」

「プロになるんだ」

「ならなきゃいけない。必死だよ」

「なれれば、どうするの?」

「なれれば……」その先はあんまり考えてこなかった。「なった後に考えるさ」

「そう」彼女は、気のない返事をした。

それっきり彼女は黙ってしまった。

僕は彼女の部屋を見渡した。ふと本棚に見慣れない本がある。

「あ。あれ」

「え? ああ、夏目さんの本」

「読むのか。君も」

「えっと、実は……影響を受けて」

彼女は顔を赤らめた。

どうやら、僕のことを言っているらしい。

「すごい勧めてくれたじゃないですか」

「いつどこで僕が勧めたっていうんだよ」

「どこかで勧めたはずです」

「記憶にはない。夏目漱石なんて、難しい本を」

「でも読んでたじゃないですか」

僕は、はっとした。

そういえば僕は、彼女が問題を解いていて暇なときに、本を読んでいた時があった。

たしか、その中に、夏目漱石の『吾輩は猫である』があったはずだ。

「そうか。それで、」

「ものすごい人ですね。夏目さんって」

「まあね」

「ちょっとずつですけど、小説のこと、楽しいって思えるようになりました」

「携帯小説から始めるといいよ」

「もうだいぶ前から読んでます」

僕らは笑い合った。

「ちょっとばかし文学は苦手ですけど、あんまり面白そうに読んでいるので、頑張ってみようと思ったわけです」

「じゃあ、ちょっとずつ読んでいきなよ」

「ええ。ちょっとずつ」

僕は、窓を見た。

すると、ちょっとずつ、雪が降り出しているのが見えた。

「雪が降り出してきたな」

「えっ? ほんと?」

「うん」

「ここから見えないんですけど。先生、すみませんが手を貸してください。立ちますんで」

「ほら」

僕らは並んで立った。

薄く曇ったくもり空から、雪が、しんしんと降り注いでいく。彼女の体は細く、しなやかで、弱そうでありながら、すごく温かかった。

彼女は寄りかかってきた。目まいが起きたのかもしれない。

「大丈夫?」

僕は、彼女の頭を抱えた。

「はい」

「もう少し見ている?」

「はい」

「そうか」

「向島さん」

「なんだ」

「ありがとう」

「なんだ、いきなり」

「色んなこと教えてくれて」

「君が頑張ったからだよ」

「ううん」彼女は僕の肩に顔をうずめた。

「そんなことないよ。普通にやっただけだよ」

「そうじゃないよ。僕はよくやったと思う」

「そう?」

「ああ、うん」

「じゃあさ、」

「うん?」

「向島さんみたく、なれたかな……」

「自分みたいになる必要はないんだよ」

「優しい人に、」

僕は、はっとした。

彼女は僕の肩に寄りかかったまま、眠っていた。

僕は彼女の頭を抱いたまま、その、温かい体を直に感じていた。そうして頭を、髪を、ゆっくりと撫でてやった。彼女の体はベッドに運ばれ、そこで安らかに寝息を立て始めるのだった。

 

 

 

 僕は考え続けていた。

 最近、夢をよく見る。

 僕はどこかの柱によくもたれ掛かっている。

 体はくたくたになっている。

 じょじょにそこがどこだかわかるようになってくる。

 駅だ。

 駅の構内で自分は眠っていた。

 電光掲示板に、地震だか台風だかの影響で終日運転を見合わせているとのメッセージが出ている。

 不思議と、自分一人しかいない。

 駅講内には、ただ、僕一人だった。

 

 それか、あるいは、僕は真っ暗闇の列車内の中で、座席にもたれ掛かり、ぼんやりと窓の外を眺めている。

 列車は走る。走り続ける。

 大空を走っているようにも見える。

 外には月。星々や、海が見える。

 僕の他には誰も乗っていない。

 僕は、どこへ行くというのだろうか?

 

 麗奈ちゃんは、無事に学校を卒業することができた。

 その後、僕たちはよく手を繋いで穂月町を散歩した。

 どうやら僕は、彼女からちょっとばかし好意を持たれているらしい。でもそういうわけで、僕は、彼女の全部を知れたわけじゃなかったし、また、知ることもできなかったから、ただ、そうしているだけで、彼女とどうにかなることもなかったし、彼女もそうするつもりはあまりなかったように思えた。

 よく日向ぼっこをした。グーグーや紀子さんとも一緒に。ナポリの丘で。

 春が来て、麗奈ちゃんは大阪の寮へと移っていった。

 彼女は別れる際、僕のことをふとあの視線で見つめてきた。

 僕はその視線を返すかどうか迷った。だけれど、結局、彼女は何も言わずに、ただ笑って、列車へと乗って旅立っていった。

 僕は彼女から花をもらった。

 赤い、赤い、美しい花だ。植木鉢に入れて毎朝水をやることにした。

 夏になればいくつも咲いた。

 窓から入ってくる風に、いつも、ふわふわと揺れている。

 僕はこの花に、彼女の気持ちが全部詰まっているのだろうと思った。だから、大事にした。

 それから僕は、徐々にだけど、この街や、この海岸線や、この山から、とてもたくさんの、かけがえのない何かを受け取った気になり、お別れを、感謝の気持ちを込めて告げることにし、そうして、もうここへは二度と戻らない決意をしようと考えた。

 バイト先の鏡子さんにもお礼を込めて、そうした考えを話した。彼女は深くは聞かずに、ただ麗奈ちゃんのことだけを尋ねて、本当にそれでいいのかとだけ言った。僕は、簡単にはそれに答えられないと思った。だけれど、仕方ないのだ。何もかもが、正しい姿で現れてくる。そういった全ての物が正しいので、そんなのを人の手でどうにかかんとかするのは難しいのだ。と、そういうことを言って、なんとか説得した。

 彼女は苦笑しながら、じゃあ、いいよ。行きなよ。と、言った。

 僕は頷いて、彼女に感謝の気持ちを述べた。

 それから、町中を歩いて回った。

 ちょっとした顔見知りになっている人たちみんなに挨拶に回った。みんな、困った顔をするものだ。ただ、僕は、この街が嫌いになったせいではなくて、この街が大好きで、色々なものを受け取ったから、もうここにいることは出来ないということを話した。

 人の一生の中で、これはと思う人と出会い、大切な時間の中で、愛を定めて、その人と一緒になにかをし、子供なんか作って、幸せに生きることができる。ただそれだけで、人は一生の意味を知り、完全な人間というやつを知ることだろう。だけれど、人間は多くの生き様があった。僕は、僕自身、そうやって運もよく時間もよく望みが叶うことを否定しきるわけではないが、そうでないなら、なんて幸運なやつだろうと思うんだ。

 生きるだけ。ただそれだけなら誰にだってできる。重要なのは人であることで、みんな、それを目指して頑張っている。誰もそれを止めることなどは、できないし、するべきでもない。

 僕は、ある一つのやり方を信奉しているのだ。人として、向島夏生として、生きていく。幸運に生きることを望まんわけじゃない。ただ、自らの使命とか、宿命とか、正しいものの姿というやつを、人の文化とか慣習とかで、できうるかぎり、歪めてしまいたくないだけだ。

 どこからか潮の匂いがする。

 僕は列車の座席から外を眺めている。

 外には夜空一面に広がっている星々が見える。

 誰かのために、未来が用意されているのなら、人はそれを掴むべきだ。

 正しいものの姿のために。

 僕は、紀子さんにも挨拶をし、切付を手に、列車に乗り込んだ。

 外は嵐だった。ひどい風で列車は動かないだろう。だが、やがてそれもやむだろう。僕はそれを知っている。

 目を閉じて、僕は赤い花のことを思い出した。

 

 おわり

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