十

 

 僕はまた赤色の夕焼けの中を歩いている。

 徐々に色褪せていく、商店街の並木道。

 涼しくなった子供の声。風が冷える小道。乾いた音を立てる車のタイヤ。りん、りん、という鈴の音。真っ赤な太陽。

 ひぐらしの声も聞かなくなった。

 そろそろ衣替えをしないと肌寒いかもしれない。

 僕は再び一本の小説を書き上げた。そして賞に投稿した。それと入れ違いになって、前に投稿した作品が入選に与れなかったのを雑誌のページで知った。

 知らず知らずのうちに、脱力していく自分。

 頭には嵩んでいく原稿用紙の山が見える。

 まるで果てのない山に登っているような気分だった。

 部屋に戻り、ぱちんと電気を点ける。机には原稿の山。窓からは西日が洩れる。

 僕はほとんど機械的に机に向かう。

 小説を書く気がまったく起きなくて、知らず知らずのうちに、原稿用紙の裏に、ある詩を書いた。

 

 あてはなき

 旅に青空

 どこへゆく

 鳥のみが知っている

 果ての山川を

 

 僕はそれを置いて、額を押さえて沈黙した。

 ずっと、長い間そのままじっとしていた。

 それから僕は(すっかり暗くなったので)デスクライトをつけ、原稿用紙に文字を書き入れ始めた。

 愛していた女が、病気に罹ってしまって死んでしまった後の、とある男の話だ。

 彼は一昔前にほんのちょっとだけ彼女と恋人であったが、不運な別れに遭い、それから二十年、会わなかった。

 しかしふとある街で、偶然にも再会するのだ。

 男の生活も決して良いものではなかったが、その彼女の生活よりはましだった。彼女は結婚して二人の子供を産んだが、離婚していた。今は次女のみと二人で暮らし、長女のほうは旦那に引き取られたが、行方は知れなくなっている。

 彼女は娘を育てるためにおぞましい仕事に心身を削り果て、もう以前の彼女のような、輝くような天使の面影はなかった。

 暗く濁った、ぎらぎらとした光が彼女の目に宿り、物憂げに毎日どこか遠いところを見ていた。

 そこで、男と再会するのだ。

 ちょっとばかり付き合ったことのある昔の男。彼女はそこに何を思い出すのか。愛らしい表情か、輝かしい青春か、それとも何もないのか。

 男はやがて、彼女のことをずっと愛していたことに気が付くのだ。他のどんな女さえ、彼女のようには愛せなかったと。……

 二人の間には、清冽な友情の川が流れている。決して「愛情」に移り変わらぬ川。青々として美しいが、それが入り日のような黄金色には決して変わることがない。彼はそれを飛び越えることができないし、飛び越えるつもりもなかった。

 彼女の心をじょじょに癒していくことに成功していく彼だったが、病はそんなものお構いなしだった。いくぶん心が晴れたことにより勢力を強大にし、ついに彼女を蝕み尽くしたのだった。

 彼女は死ぬ。

 そのとき、男はどうなる?

 そこから先はまだ書いていない。

 だが、男には彼女に手紙を書かせようと思っている。死後の彼女に思いを打ち明ける手紙だ。それを墓前に添える。なんの慰みにもならないエゴイズムだ。けど人間はそんなエゴイズムに翻弄されるべきなのだ。でないと人間ではないのだ。

 ところが数日後、墓の前に来るとその手紙は無くなっている。どこかの犬がもっていったのかと、そう思っていたら、彼女の娘が翌日彼のところにやってきて、こう言うのだ。

「一緒に暮らしてほしい」

 彼女は、身寄りがなかった。

 実の姉は行方が知れなくなっているし、親戚が親切に助けに来てくれるほどご立派な世間体でもなかった。男は迷った。一度は施設に預けようかと思ったほどだ。とりあえず家に置いて、仕事に出かけていった。

 しかし男は仕事に行くのではなかった。そのままの足で遠い地方都市行きの列車に乗った。なにもかも色褪せて見えていた。彼女の死によって意気消沈した彼はなにも確かな映像を持つことができなかった。ただ現実から逃げ出したかったのだ。

 その後、家に帰ると、なんと娘がまだ家の中で待っていた。

 ソファーに横になり、青ざめながら寝ている彼女の姿を見て、彼はただなにも考えずに涙を流し、困惑し、手のひらを合わせた。

温かい食事とミルクをすぐに用意してやった。

食事を済ませると入浴をさせ、柔らかいタオルでその身を包んでやった。

 服を着替えさせ、その頭を撫でながら、彼は微笑んだ。

「今日からここに荷物を移してくれ」

 彼は言う。

「汚い家ですまないね。あとで掃除しよう」

 彼女はみるみる嬉しそうに笑顔になった。

「すぐに持ってきます」

 彼女が出て行った後、彼は、あの手紙の在りかをもう一度推理してみた。

 しかし答えはでない。

 カーテンを開き、庭を走って出て行く彼女を微笑みながら見送るのだ。

 ……こんな感じだ。

 実際どのように書いていくかはその時に決めるとしよう。事前の構想というものはそういうものだ。

 僕は牛乳を飲み、携帯をいじってネットニュースを読んだ。

 外は闇だ。

 黒く染まった岩みたいに。

 十一

 

 僕は窓辺で小説を読むのが好きだ。

 フランス・パリの華やぐ社交界や、ギリシアの詩、甘い誘惑、恋愛、狂気。

 あるいは幻想世界でのドラゴンとの戦いや騎士アルフレドの功名。伝説の剣をめぐる冒険や、悪の魔法使いオズバルドの策略。

 あるいは……夢と心の話。幻想的で暗示的。ひどく不明確だが心に広がるお話。抽象的で、教訓的。

精神は真理の詩を歌い、具現化した抽象を絵筆で描き上げる。そこには無限の真理がある。

 想像は無限だった。想像は夢であり、夢は無限である。

 夢は人に希望を与え、明朗にする。

 僕は夢を見ている。

 現実は確かに僕の依って立つところであり、疎かにはできない。だが現実は人を悲しくさせるもので、現実に生きる人間には清涼剤として夢がなければならないのだ。

夢が人を豊かにするのだから。

 とあるとき、僕は書店で旅雑誌を読んだ。世界旅行の雑誌で、僕はそこにアジアやアフリカ、ヨーロッパや南アメリカのそれぞれの国の人々の文化や風景を眼で見て感じることができた。それにはまだ実感が薄く、手触りも柔らかかったり、固かったり、ざらざらしていたり、すべすべしていたりと様々だ。全ては想像に過ぎず、いつかは現実のものにしてみたいという夢があった。

 その土地へ行き、住んでみたい。この穂月町でそうしているように。

叶うのであれば、努力はするし、現実的な見通しも立てよう。

 いつか。

 それが僕の夢だ。

 

 十二

 

 アルバイトを辞めていく人が増えていた。もちろんファミレスの方だ。

 この前入ってきたばかりだった広沢君と島さんが、急遽辞めた。二人でどこか遠くへ行くらしい。駆け落ちってやつだ。止めるほどの義理もできないくらい、素早い転身だった。

「まったくお店に迷惑なんだけどねえ」

 閉店後にそうぼやいている鏡子さんがいた。

 それから、主婦さんも一人辞めていった。こちらは旦那さんの転勤が理由らしい。長らくお店を助けてくれた人であるだけに、鏡子さんもショックが大きかったようだ。

 休憩時やお客さんが少ないときなどはよく僕に話しかけてくる。

「あんたは辞めないんだね」

「辞める理由がないですから」

「向島君はさー」と、彼女は続ける。「彼女とか作らないんだ?」

「僕あんまりモテないんで」

「へえ。モテようと思ったことは?」

「なくはないですが。面倒で」

「もったいないねぇー」

 広沢君への愚痴ついでに、こうやって僕に説教することがよくあった。

「人生の半分くらい損してるよ、それじゃあ。子供なんだから恋愛の一つや二つしときなって」

「まあそう料理を作るみたいに恋愛はできないでしょう」

「まあ」

 そう言うと鏡子さんは黙ってしまう。

「料理だって難しいけど……」彼女はむきになる。すこしだけ。「知らないやつは卵をレンジで温めて爆発させたりするからねえ」

「どういうことですか?」

 僕はなるたけ興味なさそうに尋ねる。

「料理も恋愛も似てるってこと」

「いえ、よくわかりません」

「知らない間は恐ろしいものに見えるってこと。そりゃあ卵が爆発でもした日にゃあ」

「卵料理はトラウマになるでしょう。でも……」

 僕の手は止まる。でも……、

「だれかいい人探してみたら?」

 返す言葉が浮かんでこない。

 僕のもっとも苦手なことが恋愛だからだ。

「結構です。よくわかりませんから」

「ったく。あっ、いらっしゃいませー」

 彼女は夜にいつもやってくる常連さんの相手をしに行く。問答から解放された僕はほっとした。

 バイト帰りに、あんなことばかり言われてしまってので、それらのことばかり考える。

 僕は海へと寄った。

 真夜中の海岸は、月が反射されて、寂しげな色に染まる砂漠のようだった。

 平べったく大地に敷かれていて、その上を砂でもまぶしたような、そんな色合いだった。潮の匂いが強く、その刺激臭が僕の心を不思議と落ち着かせた。

 今まで一度か二度恋愛をしたことがあった。

 人を好きになったこともあった。人に好かれたこともあった。

 でも告白することはなかった。僕は人生において今まで誰にも「好きです」と伝えたことはなかった。一度も。

 その度に思った。みんなはどうやってその狭い門に入っているのだろうと。

 友達になる方法しかよくわからなくて、僕はその広い森で右往左往しているばかり。

 狭い門から入って、その奥の甘い月日に身を委ねることが正しいのか悪いのかわからない。あまりたくさんの人に開かれる門ではないし。

 でもどうして、人というのは人生にいくつか門に入るのだろう。

 不思議だった。

 どうしてもわからなかった。

 人を好きになるということが、それが誰かに許されるということが、友達以上の付き合いになるというものが、よくわからなかった。

 人に近付いていけば、傷つけ合うだけではないのか。

 そこに本当の喜びはあるのか。本当の安らぎはあるのだろうか。

 本当の門に入るにはどうしたらいいのか。

 それは僕にとってはこうして手に触れられない星々と同じようなもので、その輝きはここからでもわかるけど、実際その距離は何万光年っていうぐらいずっと離れているものなんだ。

「いい人か」

 たとえいい人がいたとして、それが自分と恋愛してくれる人になりうるだろうか?

 僕は自信がないんだ。僕がその人のお相手になる自信が。

「やるしかないよな」

 僕にはやることがある。

 それをするだけで精一杯。

 そうやって人生を満喫する時間も余裕も、僕には、――少なくとも今の僕には――ないように思われた。

 決められた道を歩いているわけではなくて、自分で道を探しているのだから。

 その他にいったい何ができるだろうか?

 自分のことで精一杯なのに、誰かに幸福を与えてやれることなどできるのだろうか?

 僕は月に向かって手を差し伸べ、その月光を取った。

 握りしめ、僕の胸のところへと持ってくる。

 そして目を閉じた。

 呼吸は僕にしか聞こえない。

 周りには誰も……、

「よし」

 目を開けて、息を吐き出し、大股で自宅へ帰っていった。

 やるのだ。やるべきことを。

 ただそれだけしかできない。

 

 

 

 十三

 

 麗奈ちゃんとの授業はよく進んでいる。

もともと彼女は秀才なので、ほとんど僕の援助などいらないくらいだ。勉強の基礎は身に付けさせるのにもっとも大変だが、それがすでに身に付いているなら家庭教師のすることなどほとんどないのだ。

「成績トップ」という話はまんざら嘘でもないどころか、ほぼ確信に近くなっていた……。

「学校の様子はどう?」

「べつに。たいしたことしてないですよ。普通に学校に行って、普通に授業を受けて、帰ってくるだけです」

「発作は起きる?」

「たまに起きるけど、……なんとか、やっています」

「ぜんそくみたいになるんだってね」

「ぜんそくとはまた違うんですけどね、でも咳が止まらなくなることはあります。そういうときは先生に見てもらうことになっています。保健室に行けば、呼吸補助器があるんです」

 そう言って彼女は笑う。ぼくは別の質問もした。

「友達とは仲良くやっているの?」

 そうすると彼女は大げさとも言えるぐらいゆっくりと溜息をつくのだった。

「うーん……そりゃあ、ちょっとは。でも私の夏休みの様子をよくご覧になったじゃないですか」

「そうだね。僕が見たのは君が一人で家にいて、なんだかぐうたらしているところぐらいだった」

 彼女は面白くなさそうな顔をする。

「頭に来ますけど、ご想像の通りでいいと思います。確かに私はぐうたら人間です。いいでしょう。でもたまには出かけたりもしますよ」

「友人と?」

「いいえ……一人で、ですけど」

 そうなると彼女には学校外で一緒に行動する行動する友達がいないということになるが、彼女にとってそれは難しい問題であるはずなので、僕はもっとよく考えてからこのことに言及しようと思った。

「じゃあ学校生活においてはそんなに問題はないんだね?」

「問題?」

 そこに彼女はちょっと不機嫌そうに目をつり上げた。

「それって、どういう意味ですか?」

「いや、べつにたいした意味では」

 しまった、失言したか。

「問題というならいくらでもありますけど。私、ここで向島さんに愚痴ってもいいんでしょうか。もう、三日三晩では語り尽くせないほどの愚痴があるんです」

「そ、そうなのか」

 冷や汗をかく。

 困ったな……こういうときにただ相槌を打つことぐらいしかできない自分が情けない。彼女の激し方が唐突だったので、僕としても差し手を考える暇がなかった。

「そいつは是非聞かせてほしいね。もちろん君の望むとおりに」

「それには及びません。だって向島先生にはご迷惑をかけたくありませんもの」

 ふぅん……。

 それ以降、その日はほとんど口を利いてくれない麗奈ちゃんであった……。

 五日の後、僕はもう一度家庭教師として麗奈ちゃん宅を訪問した。

 本来なら土日のどちらかに授業をするはずだったのだが、麗奈ちゃんが大学病院に診察に行かなければならないため、急遽平日に予定を入れることとなった。

 学校が終わったころ、つまり夕方の六時に訪問した。

「はい」

 インターホンを押して、しばらく経つとそのようなくぐもった声が聞こえる。「こんばんは」と返すと、

「ああ、先生」と返ってくる。

もう「先生」も決まった呼称の一つになっている。

「ちょっと待っていてください」と言って、中から階段を降りる音が聞こえ、すぐに扉が開かれた。するとそこには制服姿の麗奈ちゃんが待っていた。

「お待たせしました。ようこそ、あがってください」

 そっけない言い方で、あまりに淡々と言う彼女だったが、僕が彼女の制服姿にこっちが目を丸くしていれば、彼女は一足遅れて自分が下手な格好をしていることに気付いたようだった……。目を逸らし、口を曲げる。

「制服、似合うね」

 下手な格好かどうかは元より、僕はただ率直な感想を述べた。しかし後々それは失言だったとわかった。彼女は顔を赤くしたが、照れたわけではなかったからだった。

「そんなわけ、ないでしょう」

 そう絞るように言い返すと、彼女はどたばたと勢いよく階段を登っていってしまう。そのころになって僕は失言に気付く。彼女の後を追って階段を登っていくと、予想通りに「ちょっと外で待っていてください!」と部屋の中から怒鳴られた。

 言われたとおりに待っていると、やがて私服のチュニックに着替え、制服をクローゼットにしまい込んだ麗奈ちゃんが扉を開けてくれた。白のチュニックを着ていた。こうなると一息で大学生のようになるから不思議だった。

「平日って嫌ですね。学校が終わった後に着替えなきゃいけないのが面倒で」

 僕は部屋に入りながら尋ねた。

「今日は、発作は?」

「出ていません。出ていませんけど、気分が悪くって。保健室で午後はずっと寝ていました。それから早く帰ってきて、ずっとここでも。そういうわけだから、制服で……」

 僕はそれ以上彼女の言い訳めいた言葉を聞きたくなかったので、少々音を立てて机に勉強用具を出した。

「さて、それじゃあさっさと始めようっか」

 こいつは予期しない形で麗奈ちゃんをまた傷つけたようだった。彼女は自らの腕を掴んで憮然と立ったまま、机に向かおうとはしなかったからだ。

「どうしたの?」

 僕は無理矢理話を持っていこうとする。こうなってしまってはもうこれしか手がない。

「いえ」

 彼女もそれを察したらしく、目を伏せて机についた。

「よし。それじゃあ今日は英語だね。簡単な単語練習から、文章訳、そして長文読解っていうふうに移っていこう。必ず文章は声に出して読むんだよ。僕に続いて……」

 

 彼女は本当によくやっている。

 疲れて寝ていたという話は嘘ではないだろうに、それでも文句一つ言わず付き合ってくれる。

 彼女は休憩時間中に、ようやく笑ってくれた。

「成績、上がったんです」

 そう言って喜んでくれればこっちも大満足だった。

 ただ、そう言わせてしまう彼女の無私の気配をかすかに感じて、僕は淋しくなった。

「そうかい。そいつはよかったねえ」

「ええ」

 家庭教師は仕事上、必ず生徒本人の成績を上げなければならないが、その成功度合いも生徒本人に委ねられている部分が多い。仕事と割り切ってしまえば簡単だが、成績向上のためにとくに不必要な重圧を生徒に強いる。僕はそれを生徒に与えたくなくて、一方で成績向上を催促してくる親御さんと板挟みにされ、家庭教師を辞めた経緯があった。

「そうやって喜んでくれれば、とてもやりがいがあるね」

「だって先生の教え方、とても上手なんだもん」

 だからこうやって、努力の結果を喜び合える関係は、非常に稀なんだと思う。

 きちんとした仕事ではなくて、ただ個人同士の契約に過ぎないし、紀子さんからはあまり期待はされていないけど、……でも彼女はしっかり頑張ろうとしているし、じょじょにその頑張りに手応えを感じ始め、考え方が変わってきているように思える。僕はその健闘を讃えたいと思う。素直に賞讃したいし、もっともっと彼女に付き合いたいと思う。彼女からは元気がもらえ、彼女の喜ぶ顔が見たいがために、僕は非常に熱心に授業に打ち込むようになった。

 体調の悪さのために、僕の授業を欠席したことがない彼女。そりゃ、これからもずっとそうだとは思わないし、未来は誰にもわからない。でも多少つらくても、それを押し隠して僕や勉強道具に向き合う姿勢は感じ取ることができる。それが彼女の誇りに徐々に変わってきているのも感じられる。

 だから、あの「制服」は彼女にとって僕の前では禁断のものだったのだ。

 隠しておかなければならない彼女の「弱さ」だったのだ。

 普通じゃないこと。

 それは一見、世の正論としては瑣末事かもしれない。

 だけど、それは彼女にとって「弱いこと」の象徴だったのだ。

 彼女のつらさは、同じ病気にかかって、同じ境遇で同じように重圧に耐えている者にしかわからない。でも結果は違う。結果は彼女を不当に鞭打つ。だからそれに屈服していない彼女は素晴らしい女性だと言わねばならない。

 けれど僕は何も言わない。

 彼女は「弱さ」を隠したがっていたからだ。普通ではないことを目の当たりにしながら、なおも普通であり続けようともの凄い努力を続けていたからだ。呆れるどころか、目が眩むほど美しいのだ。彼女の頑張りは、彼女だけのもの。自らの未来のために闘っている。けれどここまで頑張れる女性がいるだろうか? こんな幼い二十歳という年齢で?

 だから僕は、淋しさを感じたのだ。

 制服という「弱さ」をかいま見てしまったから、それを無かったことにはできない現実に、そして、それを認めてしまうことができないお互いの微妙な関係に、淋しさを感じたのだった。

 

 彼女はよくやっている。

 日を重ねるごとにますます頑張るようになったと言える。勉強に取り組む姿勢も輪を掛けて真剣になってきた。それは彼女の中で時間の移行とともにすくすくと育つ病魔の種子と戦っているかのように見えた。

 何もできない自分が、情けなかった。

 彼女が「頑張っているところを認めてください」と言えば、大手で拍手してやれるだろう。「すごいでしょう。褒めてください」と言えば頭をごしごしと撫でてやれるだろう。

 でも絶対に彼女はそんなことは言わない。

絶対に言わない。

 だから胸騒ぎがする。

 彼女のために何もしてやれない(実際は勉強を教えている。でもそれが彼女の何のためになっているだろう? 彼女は勉強を一人でできるのだ)ことが、自らの苛立ちに繋がる。ここにいるべきなのだろうか? と自分へ自問自答する。いや、いるべきだ。彼女は何のために頑張っているのだ。それは彼女自身のためだ。でもひょっとして……、

 僕のためではないか?

 でもそんなことの保証はない。なんら確かなことはない。

 ただの自惚れだ。

 でも彼女がこうまで熱心に修身してくれることを、ことごとく、何から何まで自分の成果に結びつけなきゃ、僕はとてもここに居られなかった。逃げ出したいという強い気持ちに毎度のごとく揺さぶられた。

 どうして彼女はここまで変わったのだろう。

 僕の前には何のヒントもない。

 ただ現実の彼女の姿を目の当たりにするだけだ。きちんと薬を飲み、医師の診察を受けながら、学校では保健室と教室を行き来し、他の子に移るといけないからと(実際そんな恐れはまったくないように思える)赤い顔にマスクを被せて登校するという彼女は、僕の目には、少なくとも力天使のように思えた。

 燃える天使だ。燃える情熱をその心に宿す、神聖な存在だった。

 何がここまで彼女を追い立てるのだろうか?

 そしてそれは彼女にとって苦痛ではないのだろうか?

 ほんとうは休みたい、ベッドに入ってぐっすりと休みたいと思っているのでは?

 でも僕はそう尋ねることは許されていない。ただじっと待って、彼女に勉強を教えるだけだ。

 そうして僕はだんだんと彼女に特別な感情を抱くようになった。

 恋情じゃない。今まで僕が認識していた恋情とははっきりと異なる、畏れと憐れみが入り混じった、神聖な友情のようなもの。

 彼女は、僕の授業中にも時折額を押さえて、気分が悪そうにする。そういうとき、僕は心配になって大丈夫? と声を掛けるが、彼女は「はい」と短く返したまま動かない。そうしてしばらく経ってからかりかりとペンを強く動かすのだった。僕は取りあえず休むことを当初進めた。でも「大丈夫ですから」と言うだけで絶対言うことを聞かないのだ。

 頭が朦朧としているだろうに。

 そんな砂嵐のような脳内の中で、混じり気のない、透き通った「集中」という水を搾り取るのは決して容易なことではないだろうに。彼女は授業が終わる間際(まぎわ)、よくそんな状態に陥りながらも、決して僕の助けは求めなかったし、授業内にベッドに休みに行くことも決してなかった。

 これは驚くべきことだ。

 水だけはよく飲むので、いつも机の脇に冷水の入ったペットボトルが置かれていた。彼女はそれで熱を冷ますようにぐいぐいと飲み下し、赤い顔を冷たい手で冷ましながら、涙を手の甲でぬぐって、泣き言一つ言わず、「あぁ……」とか「う〜ん……」とかいう感嘆詞で誤魔化して、僕の心配を受け付ける余地を一切なくすのだった。

 彼女は意地っ張りかもしれない。きっと自分のどこかに強い目的というものがあるのだろう。

 彼女は僕がいる内にベッドに倒れかかるのも好きじゃなかった。僕が次の授業の予定を紀子さんと話し合って、玄関を出るまで、彼女は気分が悪そうにしながらも、傍でずっと立っていた。授業の終わりとともにベッドに倒れることも時にはあったが、彼女は「疲れちゃったの。向島さんのせいだからね」と笑いながら、冗談を言うのだった。そしてその次には「また次の週に」と言うのだった。

 

 ある時ふと、彼女が相談を持ちかけてきたことがあった。

授業の合間の休憩中のことだった。さりげなく、彼女は語りかけてきた。

「先生って、普段女の子のこととか考えます?」

「はい? 何ですか、藪から棒に」

「普段のしゃべり方でいいよ」彼女はにやりと笑った。「私も先生って呼ばないから」

「うん。いや、う〜ん……もちろん考えるよ」

「本当ですか? なんだかいつもぼけっとしてるから、女の子のことなんか興味全然ないのかなって思って」

「失敬な。いつ僕がぼけっとしているっていうんだい」

「冗談ですよ」彼女はけらけらと笑った。「ただいつもどんなことを考えて家庭教師やっているんだろうなって思って」

 彼女は笑っていたが、問いかける眼だけは笑っていないように思えた。だからこの言葉の裏にある彼女の本意を僕は探ろうとした。いくつかキーポイントがある。僕はそれを表情に出さないで、笑いながら言った。

「麗奈ちゃんは女の子だからね。だからずっと女の子のこと考えてるな」

「むっ」彼女は当てが外れたと見え、むっとした。「そういうことじゃないんですけど」

「何がそういうことじゃないんだい?」

「別にもういいです。ところで先生、先生が私ぐらいだったころ……つまり二十歳です。二十歳のころ、家庭教師にちょうどなりたてだったってこの前言ってたじゃないですか」

「うん」

「ひょっとしたら、若い女の子と二人っきりで部屋に閉じこもって、あんなことやこんなことを……なんていうお気楽家庭教師漫画にもそうそうない馬鹿なストーリーを期待したりしていましたか?」

「なんて失礼なことを言うんだ、君は」

「いいから。教えてください」

「だから失礼だって言うんだ! そりゃ誰もが考えることなんだよ。男でそんなことを期待しないやつなんかいないって」

 そう言うと、彼女は当てが当たって、嬉しそうにした。でも少しだけ驚いているようだった

「あっ、そうなんですねえ! よかったあ……」そう言いながら、笑っていた。

 僕はこれで話もおしまいになるのかなと思っていたのだが、彼女は急に話題を変えてきた。

「あの、話急に変わってすみませんけど、先生が高校生のころのことを教えてください」

「先生」僕は彼女の口元を指差して、言った。「先生って言わないって約束」

「いいの。だって、呼びやすいんだもん。ほらほら、教えてくださいよ」

「しょうがないなあ……」彼女はなんだか焦っているように見えた。話をはぐらかされると思ったんだろうか。「で、どんなことを聞きたいんだい?」

「う〜ん……どんな青春を送っていたか」

「前にも語ったと思ったけど」僕は半ば苦笑いをする。「大学生のころも僕は独りだった。高校でもそうだったさ」

 すると彼女は憐れみの視線をこちらに向けてきた。

「先生……友達、いないんですね」

「哀れまないでくれないか。話が続けられなくなるから」

「ああ、ごめんなさい。馬鹿にすればいいですか?」

「うるさい。友達は少なかったさ。確かに」僕は視線を逸らしながら答えた。「でも、」視線を戻す。「青春ならあった。それが夢を目指すということなら、ね」

「どんな夢?」

 僕は頭をかいた。「国とか、人とか、自分以外のためになるということだよ。そのために必死に本を読んで勉強したんだ」

 彼女は笑わずにその話をじっと聞いていた。「勉強を?」

「そう。ただ一人で黙々と。――テストでいい点取るための勉強じゃないよ? 自分で本を選んで、自分の知識にするために本を読んでいた」

「わかってますよ。先生、テストでいい点取るための勉強ってきらいですもんね」

「そうだ」僕は強く言った。それは僕が彼女に口をすっぱくして言っていることだからだ。

「だから僕は、……こういうのも恥ずかしいが、勉強ばかりしていたな。それで、君が『青春』っていうのは、恋愛のことでいいのかい?」

 彼女は片手を振って否定した。

「いっ、いえいえ! 別にそういうわけじゃないんです。夢だって青春だし、友達だって青春です。ただ先生がどういうふうに高校生としてやっていたのかなって。それだけが気になって」

「生意気なやつだったよ」僕は苦笑いした。

「今だってだいぶ生意気だし、甘ったれだけど」僕はコーヒーをスプーンでかき混ぜた。とくにその行為に意味はなかった。「あのころはもっと甘ったれだった」

「どんなふうに生意気だったの?」

 彼女は茶化さないで聞いてきた。

「そうだね。この学校は体制のこういうところがなってないとか、授業のこういうところがよくないとか、教育論を振りかざして、なにも悪くない先生に八つ当たりしたり、体育用具を壊したりしていた」

「ひぇぇ」彼女は弱った顔をした。「なんだか古い……」

「古いだろう」僕はにやりと笑った。「でもそのときは大まじめだったんだよ。どうしてこう日本の教育ってのは歪んでいるのか、教師は生徒をうまく導けないのか。でも……実際もっと突き詰めて考えていけば、生徒なんて大半は家庭の教育で性格を基礎づけられるんだし、国の教育の風潮なんて人一人が頑張ったってそう簡単に変えられるわけがないんだ。でも僕はそのとき受けた不当に見えた扱いに堪え切れなくって、常にそういう不満を抱えていた」

「難しい年頃だったんだねえ」彼女はなんだか畏まっていた。「でもすごい意外……そんな、不良みたいな人だったなんて」

「そうだ。僕はただの不良だった」

 僕はうなずいた。「そうやって先生にぶつかっていれば、なんだかかっこいい人に思えたんだ」しかし僕は首を横に振る。「でも間違いだった。何もかも間違いだった」

 僕は彼女の瞳を見すえた。

「学校は楽しい?」

 彼女はそう尋ねられたところで、簡単に首を縦には振らなかった。そうして冗談を言って煙に巻く機会も失われて……彼女は首を横に、静かに振り、それから涙を目に溜めた。

「ぜんぜん楽しくないの」

「そうか。どうしてだろうね」

「わからないの」

 彼女は嗚咽した。これが彼女の本当に聞きたいことであった。

「そうか。わからないのか。わからないのはそれでいいんだ。わかる人間なんていないんだから」

「そうじゃないの。そうじゃないの」と、彼女は首を横に振っていた。

「ちょっと僕にはわからないが、」そう言って僕は彼女の頭に手を置いた。「この男に話していいと思えるなら、話せるところだけ、話してごらん。聞いてあげてもいい」

「あのね、」と彼女は言った。「たとえ話でもいい?」

「全然」と僕は答えた。

「あのね、黒い羊がいるの」

 黒い羊。

「黒い羊はね、羊なの。羊以外の何者でもないの。でも羊の間に入ると、みんなその黒い羊のことを避けるの。羊は白い毛だから、黒いのは変だって言うの。みんな、みんな、そう言うのよ」

「そりゃ言うだろう」と、僕は言った。「言わないのはおかしい」

「うん。それはわかるよ。でもね、」

 彼女は目元の涙をぬぐって、僕の、彼女の頭を撫でる腕を見た。彼女はされるがままになっていた。

「黒い羊だって、羊なんだよ。みんなと何も変わらないの。ただ毛の色だけが違うというだけで。でも羊たちは口々に『変だ』『変だ』って言うのをやめない。メェーメェーずっと叫んでるの。そうやって黒い羊は追い立てられるのよ。私……もし大勢の羊の中にいたら、必ず黒い羊を助けるわ。だってそうしなきゃさ、黒い羊があまりにもかわいそうじゃないの。……」

「うん。そりゃあ、もっともな話だ」と、僕は言う。

「でも現実はそうじゃないんだね」

「うん」そう言うなり彼女はまた嗚咽を漏らした。彼女は黒い羊だったのだ。だから自分のことを「助けて」と言えないし、「助けるべきだ」と言って白い羊の間に立つこともできない。

 ただただ追い立てられていくのみだ。

「私、どうすればいいのかわからない。悪いのは黒い羊なの? それとも白い羊なの? どうすればいいのかわからない」

「どっちが悪いのかなんていうのは、できれば考えないでおくのがいい」僕は彼女の頭を撫でた。「答えなんてわかるわけがない」

「でもさ、でもさ……あんまりだよ」

「うん。あんまりだ」

 僕は彼女に従ってくり返した。その間、ゆっくりと彼女の頭をなで続けていた。

「あんまりだね。でもそうだとしてもどうしようもない。黒い羊はどうするんだい?」

「わからないわ」

 彼女は泣きやまなかった。次から次へと涙が出て来た。

「だって……黒い羊はわからないのよ。ぶん殴ってやりたいと思ったこともあったでしょうし、頭で突っついてやりたいと思ったこともあったでしょう。でもそうすると羊たちからは一斉に非難されるわ。何もしてないのに、何もしてないのに……って、そう言って黒い羊をまた、もっと凄い勢いで責め立てるのよ! 何もしてないわけはないでしょうに!」

「そうだね。何もしてないわけじゃない」

 僕は彼女に囁きかけるように言った。

「でもそんなことを気付くことのできる頭の良い羊はいるだろうか? そりゃ、いるかもしれない。中にはね。でもそいつはもの凄く頭のいいやつで、偉大な羊だ。全員にそれを求めるのはちょっと酷かも知れない」

 彼女がまた何か言おうとしたので、僕はそれを続けて言った。

「だから間違っていることを責めちゃいけないんだ。お互いにね。悪いのは全部の羊だ。攻撃的になる全ての羊だ。だからもし僕が黒い羊だったら、我慢するね。とにかく我慢する。そうして、ずっと、きっと僕たちは分かり合えるんじゃないかって、希望を抱き続けるかもしれないね。でも、それもきっと長くは持たないかもしれないね」

「先生は経験したことがないからそんなこと言うんだよ」

「確かに」僕は笑った。「経験はないよ。黒い羊になんかなったっていうね? 僕は白くはないが、グレーかもしれない。それはちょっと僕にはわからない。でもね、もしそうだったとしても、やっぱり否定はしないだろうね。信じ続けることを。諦めることはしたくないだろうね。もしかっとなって、悪態をついちゃったとしても、でも僕はそれを正しいとは思わないだろうね。きっと後で一人で後悔するんだよ」

「先生はさ、先生はさ、」彼女は嗚咽しながら言った。「お人好しだよ。そんな世の中甘くないよ」

「そうかな?」

「そうに決まってるもん。だって、そんないい人、いるってことを、期待したってどうせ叶わないんだもん。周りの人間なんて馬鹿ばっかりよ。きっと大人になったってあの馬鹿は治らないんだわ」

 そう言って泣き出すのだった。

 彼女はベッドに突っ伏して、泣くのだった。僕はその隣に座って、彼女の手を探して、ぎゅっと握った。そうしてもう片方の手で、その甲をゆっくり撫でてやった。

「まあそう悲観的にならないで」僕はつとめて明るい声で言った。「君の言うとおりかもしれない。世の中の大半の人間は馬鹿だよ。馬鹿で馬鹿で、もうどうしようもないくらい馬鹿だよ。でもさ、じゃあ僕たちはどうしたらいいんだい。仮にそうやって他の大勢を馬鹿にして、馬鹿にしまくって、そうして一人でベッドに突っ伏して泣いているぐらいなら、僕はもうちょっとよく考えるね」

「どうしたらいいのか、教えてよ!」

 彼女はくぐもった声でそう言った後、おずおずと顔をこちらに向けた。涙でくしゃくしゃになっていた。

 僕は泣いている人の顔が嫌いだ。眼をそむけたくなるが、そうはしなかった。そうして彼女の顔をずっと眺めていると、本当にかわいそうな気持ちが湧いてくるのだった。彼女の痛みが、たとえ彼女の半分くらいしかわからずとも、三分の一しか汲み取れずとも、僕の胸を打つには十分だったし、僕の心をどうしようもなく震わせるのだった。

 僕は微笑みながら言った。

「良い顔をして笑ってやっていくってことだよ。馬鹿な人間は大勢いるけど、馬鹿にしていい人間は一人もいない。馬鹿にすると、どんな馬鹿な人間だって真っ赤になって怒るよ。それは誰だって一緒だよ。頭のいい人だって怒るよ。人の気持ちがずっとよくわかる優しい人ならなおさらそうだよ。だからね、麗奈ちゃん。時々こうやって、たとえ話でもいいから僕に打ち明けてくれないか。一人で仮面かぶって笑いながらやってくっていうのは結構つらいんだ。僕みたいに人を馬鹿にしまくってたら、そりゃあ不良になっちゃうよ。きっとつまらない高校生活になるよ。だから……少しずつでいい。今みたいに泣いてくれていいから。僕は全部聞くから。だから二つだけ約束してほしい。少しずつでいいが、僕に打ち明けることと、周りの白い羊たちに対してだって、馬鹿にされても怒らないで、良い顔をして親切にやっていくってことだ。その二つを守ってくれないか」

 彼女は涙に目を腫らして、真っ赤な顔でじっと僕のことを見ていた。口をわずかに動かして、何か言った気がする。でもそれはよく聞こえなかった。

「え、なんだって?」

「手、離してください!」

 彼女は小さく叫んで、僕の手を振りほどいてしまった。

 それから彼女は何も言わずにベッドに突っ伏していた。

 紀子さんが心配そうに様子を見に来るので、僕は立ち上がった。

「どうかしましたか?」

「いえ、なんでもないんです」僕は手を振って彼女に会いに行った。

 ドアを閉める。

「少し意見がぶつかってしまっただけで」

「お勉強のこと? それとも……」

 紀子さんが心配する。ここで暴露してしまってもよかったが、ここだと麗奈ちゃんの耳に届く。

 きっと本人がいない場所で、そんなことを話されるのを聞くのはいい気持ちじゃないだろう。

「たいしたことじゃありませんよ。きっと時間が経てば本人も理解してくれると思います」

「あら。じゃあそれならいいですけど。麗奈ちゃん。お菓子持ってきたけど?」

 紀子さんが麗奈ちゃんに問いかけるようにドア越しに話す。向こうからくぐもった声が返ってくる。「いらない」

「今日はこれでお暇しようと思います」

「なんだかごめんなさいね。ご迷惑をおかけしちゃったかしら」

 紀子さんは僕が彼女の家庭教師になったことを不安に思っているようだった。

 僕はそれを笑って否定する。「そんなことは全然ありませんよ。僕は彼女のような生徒を持てて幸せです」

「あらまあ。それならこちらとしても嬉しいけれど。麗奈ちゃん、下に置いておきますからねえ」

 ドアの向こうからの返事はない。紀子さんは手すりを使いながらゆっくりと階段を降りていく。

 僕もそれに従った。最後に麗奈ちゃんは何を言ったのか、僕には確証は持てなかったが、きっとこうだったかもしれない……。

「バレてたんだ」

 バレるさ。

もしそうだったとしたら、そう言ってやるつもりだった。

 外はもう薄暗い。

僕は黒いコートを羽織って、白い息を吐いた。

 鞄を斜交いに引っさげて、ポケットに手を突っこみながら家路を辿る。

 寒い。

雪でも降りそうな黒い夜空だった。

 十二月のある日のことだ。

 その日、麗奈ちゃんはとうとう僕の授業を休んだ。

気分が朦朧として、学校も午前中に早退したのだという。その日はちょうど平日の授業の日で、まあ、なんというか運が悪かった。麗奈ちゃんはどうあってもその時早退しないように努めただろうと想像がついた。だが今回の早退はそういうレベルの早退とはちょっと違うように思えた。先生に家まで車で連れてこられたっていう話だから。

 だけどその際、学校に大事な課題を置き忘れて来てしまったらしく、電話で僕に取りに行ってくれと頼んできた。

 ひどい風邪声だった。

「どうして僕が」と反論するのだったが、「学校の先生には悪いし」というのだ。

 きっと車でわざわざ運んでもらった手前、もう一度頼むのは気が引けるんだろう。それに重要な課題とはいえ、わざわざ先生がそれに気が付いて持ってきてくれることを期待していたらいつまで経っても課題ができない。明日は土曜の休日だから、来週までにやるには今日持ってこなければいけないんだそうだ。

「それで僕ってことかい」僕は苦笑いした。「暇なほうの先生ってわけだね」

 彼女は咳き込んだ。

「すみません。迷惑だったらいいんです……でもどうしたらいいのかわからなくて」

「どんな課題なんだい?」

「厳しい先生の数学課題」彼女は喉を詰まらせるように続けた。「提出期限少しでも過ぎると、単位やらないって脅かしてくるの」

「そいつは真面目な先生だな」

僕はそう言いながらも、仕方ない、と腹をくくった。

「わかったよ。どうせ暇だし、ちょっくら学校まで行ってくる。だけど僕なんかが学校に行って大丈夫なのかい? 部外者が、知り合いの女の子の課題を取りに来ましたなんて言って入れてくれるほど楽観的な世の中じゃないぜ」

 彼女は笑った。そんな気がした。どっちにしろ咳にて妨害されてしまったのだが、彼女は上機嫌に思えた。

「面白い」

 彼女は声を途切らせながら言う。

「お願いしていいですか。じゃあちょっと、知り合いのクラスメートにメールしておきます。頼むほどの仲じゃないから、校門の前で待っている男の人に渡してってことで……」

「じゃあ僕は校門で待ってればいいわけだ」

 僕はふと時計を見た。五時半になっていた。あたりはもう暗い。

「あの、先生」

 ふと彼女が声を改めて僕を呼ぶ。

「ん、何だい?」

「先生は私のお兄ちゃんってことにしておいてくださいね」

「え、そうしたほうがいいの?」

「ええ。兄妹ってほうが、後々楽なんです……」

 僕は訝しく思ったが、彼女を労るつもりで、了承した。彼女はもう限界のようだった。簡単な場所だけ聞いて、電話を切る。

 僕は帰り道をまた少し戻って、商店街から普段行かない方向へ向かっていった。

 刺すような風が吹いていた。もうめっきり寒くなった。季節の移り目は、ほんとうに短い。あっという間に衣替えを強要させ、今ではどれだけ厚着できるか考えなければならない時期だ。

 その日はちょうどその頃から雪が降り出した。こちらは関東と違ってさらさらとした粉雪だった。僕はコンビニに寄ってビニール傘を買った。それを広げて商店街に出ると、しんしんと傘に降りかかる雪の結晶がライトに照らされて見えた。それは粉々になったアイスキャンディーのようだった。美しく砕かれた結晶が、羽のように軽くなって、愛しさと優しさとともに枯れた冬の街を彩るのだ。雪が積もれば情景はぐっと変わる。僕は肩に降りかかる雪を手で払った。それはほんのり冷たく、清らかで悲しげだった。

 しばらく歩いていくと、麗奈ちゃんに教えられた目印のレストランが見えてくる。あのレストランの隣の細い道を行くと学校だそうだ。その先は街灯のない暗い住宅地となっていた。僕は横断歩道を渡った。痛々しい風が手に吹きつけて、僕は傘を掴んでいる手を交代させた。

 僕の知らない道だった。なのに、その情景は僕の古い記憶を呼び覚ました。学校に通っていた頃は、やはり僕もこのような田舎道を通っていった。毎日このような寂しい道を、温かい思い出や寂しい思い出で満たしていたのだ。その瞬間その道は僕のよく知っている道となり、知っている建物の建った風景となった。家々の生垣や煉瓦の壁、硬いコンクリートに、下水の流れる側溝。うすぼんやりとたたずむ畑の影や、淡く輝く家々の輝き。どうしてこんなに感傷的な気分になるのだろう。それはたまに人間として必要なことだからだ。と、僕は自分に言い添える。

 感傷は僕の心を水によって満たす。幸いながら、僕はそれをどうにかコントロールできる年齢になったようだ。感傷によって振り回されず、僕はその出所を発見し、ただそれを純粋に味わうことができるようになる。

 しばらく歩くと、左手にずいぶん高いコンクリートの壁があった。どうやらこれが学校らしい。この上に学校があるのだな、と思い、僕は隣の坂道を登っていった。それは長い長い坂道だった。どんどんと上へ登っていき、その度に右手に見える穂月町の一景は広がっていき、遠くなっていった。家々の隙間から見えるその箱庭のような穂月町の広い景観は、夜、寂しく帰宅するサラリーマンの巣として似合っているように見えた。ここには多くの人が暮らしている。でもやはり寂しさと悲しさがあった。なぜならここもやはり日本だからだ。日本は何もかもに満たされながら、とても長い間考えを変えることを放棄してきた。それがこの満たされない寂しさに繋がっているのだ。光はまばらで、とても多くの家屋が悲しみに沈んでいるように見えた。僕は長い長い坂道を歩いた。冷たくて赤くなった右手の甲に、温かい息を吐きかけた。両手はすり合い、また傘の柄とポケットに収まった。

 

 僕はようやく校門に辿り着いて、その暗い校舎を眺めた。正面に校舎がそびえていて、右手にグラウンド、左手に、少々小さいがテニスコートのようなものがあった。校舎には幾つか明かりのついている教室があった。しかし活気はなく沈んでいるように見えた。人影はない。もっとも明かりが強く、活気があるのはグラウンドの先の体育館だった。

 僕は待った。どんな友達が来てくれるのかな。

 しかし一向に現れない。一人か、二人、生徒が帰っていく姿は見た。不審人物に思われてないか、最初は気にしたものだが、後はもうどうでもよくなっていった。

 僕は穂月町の町並みを眺めていた。ここは高所で、よく眺められる。

 穂月町は僕にどんなものを与えてくれただろう。ふとそんなことが頭によぎった。

 そうして僕は穂月町にどんなものを与えてやれたのだろう。……何もないかもしれない。作家というのは、不得手が多すぎるもので、実際になにかわかりやすいことをやれと言われても作家らしいことは何一つできない。人目につかないところで大勢の不特定な読者のために一編の作品を作り上げることしかできない隠者なんだ。……作家らしいことと言えば、たとえば、夏目漱石や森鴎外ぐらい有名になって、僕の死後、昔ここに向島夏生という先生が住んでましたと未来の郷土誌にちょこんと添えられるぐらいだろう、もしできるとしたならばだ。

 穂月町は悪い街じゃない。活気もあるし、それでいて落ち着きもある。瀟洒な景観や、空気の清らかさ、四季折々の目に見えないこの街に宿る情緒は僕を感動させた。

 そうか。

もう冬になるんだ。ここに来てから約一年が経とうとしている。

 それはとても長い年月だ。百年ある中の一年をここで過ごしたことになるんだから。たった百つ。僕はその百分の一の時間をこの穂月町の住民として過ごし、ここの空気を吸い、ここの人間と同化できるよう努力してきた。

 ふと今の姿を眺めてみて、僕は寂しくなった。寂しいという思いが湧いてくるのだ。それは例えば栓を閉めてもぽつぽつとシンクに落ちる水道の水のように。僕という水盤に少しずつ溜まっていくのだ。だけどそれは零れるまでなくなることは絶対にない。

 やめよう。そんなふうに考えるのは。

 僕は微笑む。今は今を愛そうではないか。僕は穂月町の住民であり、ここに住む人間なのだ。僕は傘をくるくると回転させた。

 この街を愛しているし、この街に住んでいることを誇りに思う。だけれど僕は旅人なのだ。旅をする人間なのだ。どうあっても消すことのできないそのような呪いじみた性格が、じょじょに僕自身を支配していくのを感じた。

 僕はコンクリートに降り積もった雪を足でなんとなくかき乱す。

 そのとき、携帯電話のバイブレーションが起動する。僕は反応して携帯電話を取り出す。

 麗奈ちゃんからだった。

「もしもし」

『あ、先生?』

「ああ」

『今、どちらですか?』

「君の学校だよ」

『ああー……』

「どうしたの?」

『えっと、すごく言いにくいんですけど……』

「どうしたんだよ。まさか友達がそのまま家まで届けてくれたって?」

『えっと……』

 彼女は言いよどんだ後、『そうなんです……』と残念そうに言った。

『ちょうど、入れ違いだったみたいで』

「えっ、マジで?」

 僕はぷっと笑ってしまった。

 滑稽だ。あまりに滑稽だ。

『ちょ、先生?』

 ハハハハハハハハ。

 僕は腹をよじって笑う。

 それは過ぎるくらいに。大げさに、気持ちよく。

「ああ……ごめんごめん。でもそれならよかったね。親切な友達じゃん」

 僕は踵を返して元来た道を戻った。

『本当にすみません……。あの子たち、先生が私の机にノートとか残ってたのを見つけたみたいで……それをちょうどあの子たちに届けるようにお願いしていたらしいんです。メールを打ったら、今から届けに行くとこだったって、メールが返ってきて……』

 なるほど。つまり、いい人たちだったわけだ。

 白い羊たちの中にも、そんな羊たちはいるわけだ。

 それはとても結構な事じゃないか。僕の無駄足程度じゃ代わりにもならないくらい喜ばしいことだった。

 だけど彼女があまりにも残念がっているので、ちょっとばかしからかってやりたくなった。

「じゃあ無駄足になったってわけかぁ……ちぇっ、なにかラーメンでも食って帰ろうかな」

『ごめんなさい!』

「はいはい。気にしないでいいよ。あとで一緒にラーメン食べに行こうぜ。おしいとこ知ってるんだ」

『あの……』

「ん?」

『本当に、謝りたいんです……私、馬鹿みたいじゃないですか。変なお願いしちゃいましたよね。あの後冷静になって考えてみたんです。こんな雪降る中に先生を学校に行かせて、友達まで使ってそれを届けさせて……休みでもなんでも学校には先生がいるわけだから、私が訳を話して自分で取りに行けばよかったんです……それに私……せっかくの友達も、信じてあげることができなくて……』

 まさか自分の家まで届けに来てくれるほど自分が想われているとは知らなかったのだろう。

 知り合い、とさっきまではその子たちを呼んでいた麗奈ちゃん。

 どんな話をしたのだろう。それはきっとよいことだったに違いない。

「まあそう落ち込まないで。よかったじゃないか、そんな友達が麗奈ちゃんにいて」

『はい……』

 これからは少しずつ仲を深めていくことだろう。

 だけれど今度は麗奈ちゃんの番だ。彼女から歩み寄っていかないと。

「それじゃ切るよ。お大事に」

『あっ、はい! ありがとうございました!』

 変な感じだな。麗奈ちゃんにここまで感謝されるとは。

 僕は笑って通話を切る。

「う〜っ、寒い!」

 僕はコートの襟を合わせた。手のひらに息を吐きかけて、それをこすり合わせながら坂道を駆け下りる。

 空はだんだん雲が晴れてきた。

 おぼろ月が空にぽつんと浮かんでいて、淡い輝きを街全体に投げかけていた。儚げな詩想が浮かんできて、僕は新しいストーリーの構想を入手した気になった。それはきっと美しくて切なげで、かわいらしいストーリー。

 山を下りる一歩一歩も楽しく、僕は木々の傍を通りながら麗奈ちゃんの姿のお姫様が楽しそうな一日を過ごすストーリーを考えたのだった。

「向島さんって昔彼女とかいたんです?」

 唐突に話が振られた。彼女はベッドに横になって、布団を被りながらこちらを見ていた。

 授業は休みだったが、僕はこの日お見舞いに来たのだった。彼女は午前中課題を済ませて、今は一人で休んでいるのだった。昼から三時まで休み、起き出したころにちょうど会えた。彼女は汗ばんだ首筋を艶めかしく、そっと出して、赤い顔でこちらを見ていた。

 少し体調が回復したらしい。でも今年の病気は毎年よりひどくて、それだけ彼女を苦しめているらしかった。不思議なことだったが、彼女はもう自分の病を僕に隠そうとはしなかった。ただ当たり前であることのように、病気を受け入れて、自然に振る舞っている。

 そんなところにこんな質問が来た。僕は飲みかけていたお茶を止め、ティーカップを受け皿に戻した。

「どうしてそんなこと聞くんだい?」僕は微笑みながら尋ねた。しかしそんな彼女の問いかけが可愛く思えた。可愛かった。

「いえ、とくにたいした意味があるわけでは」彼女はふと口を緩ませて答えた。「でも知りたいんです」

「いいよ。教えてあげる」僕は椅子を彼女のベッドに近付けて、前屈みになって、彼女に顔を近付けながら、秘密の話をするように言った。

「いないんだ。これ、誰にも内緒だぞ。つまり彼女いない歴=年齢ってわけだ」

「あはは。なるほど」

「秘密なんだぜ。男の秘密だ」

「どうしてそう秘密にしたがるんですか?」彼女は輝く瞳で見つめた。ふっと笑みを消して。

「秘密にしたがるもんさ」僕は答えた。「普通恋愛ごとっていうのはそう喧伝するものではないだろ?」

「なるほど。確かに」

 彼女は頷いた。横になったまま。

「でも先生が彼女いなかったことに劣等感を持っていると思ったから」

「そりゃあるよ。多少ね」僕は微笑んで言った。こうやって彼女と明け透けと話すことができるようになって嬉しかった。けれど僕は何から何まで話すつもりはなかった。話すことができるのに、話すつもりはなかった。そこに面白みがあった。

「とっても臆病だったし、今でもそうなんだ」

「向島さん、A型?」

「そうだけど」

「あは、やっぱり」

 彼女はにっこりとした。

「どういうこと?」

「A型ってプライド高くて臆病なんです。恋愛において」

「へええ。そうなんだ。確かに当たっているかもしれないな。そういう本はよく読むの?」

「ええ。たくさん読みますよ。小説なんかよりずっと」

「たまには読んでくれよ」僕は笑う。「小説家を目指す男の前でそう言うデリカシーは多少必要だね。たとえ嘘でもね」

「嘘、嫌いなんで」彼女は続けた。「でも向島さんって見た目からしても真面目そうですからね。真面目な男性は理想を高く持つので、相手にもそれを同様に求めやすいんです」

「君が読むのは血液型の本? それとも恋愛の本?」

「どっちもですよ。どっちもくっついたのがいっぱいあるんです」

「なるほどね」

「だから先生って、今まで恋愛したことがあるのかなあって」

 彼女は嘲笑うような顔になって僕を見つめた。それを僕は今までに見たことないくらい美しく感じた。やはりこんなとき、男は女よりもはるかに子供であることを自覚させられるのだ。女はずっと思慮深く、老練で、機知に長けているのだ。

「どうかな。僕は確かに女性にたいして臆病だったし理想も高かったかもしれないけど、でも恋心を抱いたことがないとは言わないよ」

「どんな恋?」彼女は瞳を輝かせる。

「それがね、君の言ったこととはちょっと違うかもしれない」

 彼女は怪訝そうにした。

「どういうこと?」

「僕は自分でも驚くくらい、理想は高くないと思ってるんだ。逆に素晴らしすぎる女性がいると気が引けるくらいさ。精神的に優位に立ちたがるってことじゃないかな、きっと。それか、あるいは、彫刻みたいな美しい女性より、愛敬があって、笑うとえくぼが出るくらいの素朴な顔が好きなのかもしれない。少なくとも僕が恋したのはみんなそういう人たちだった」

「先生って可愛い」彼女は嬉しそうに笑った。まるでその事実が大事なことであるかのように、笑顔を大切にした。

「可愛いかあ?」

「でもどうしてうまくいかなかったんです?」

「臆病だったからだよ。僕はあまりにも彼女らを神聖視しすぎちゃったんだね。がちがちに固くなっちゃって……それかあるいは、何かを失うのが怖かったのかな」

 ふと彼女は真剣な顔になって言った。

 頭を上げて、頬杖を突いた。

「それ、わかりますよ」彼女は真剣な口調でそう言った後、ふっと微笑んだ。「とてもよくわかります」

「そう言ってくれると嬉しい」僕は若干苦みを感じながら答えた。「だけれどただ一人、本当に恋した人がいたんだ」

「それは?」

「中学校の頃さ。懐かしいなあ。僕はまだ恋の味を知りたてだった。はやくどんなものか試したくて、うずうずしていた時期さ。僕はやっぱり臆病だったが、その人に対してはそんなものをかなぐり捨ててもいい気がした。なんていうか、止まらなかったんだな。神聖視するのも通り越して、本当に愛してしまったんだな。この人になら全部やってもいい。なんでも言うこと聞いてあげるし、なんでも彼女にしてやりたいと思った。そんな人がいた」

 僕は話の途中で、もうこの話はやめようと思った。話すべきではないと思ったからだ。ただそれは矛盾を生み出した。

 なぜなら僕は話したがっていたからだ。自然と口に上ったのがそうだった。あの忌まわしい記憶、悲しくて、やりきれない記憶、絶望と自己嫌悪にさいなまれた若くて汚れた記憶を僕はもう抱えきれなくて吐き出してしまいたかったのだ。

 もちろんそれは忘却の彼方にあった。でも彼方にあっただけで、消滅してしまったわけではなかったのだ。こうしてふと取り出してみれば、それは急速に広がる茨のように僕を拘束してしまうのだ。

「へええ……どんな人なんですか?」彼女は興味ありげに聞いた。

「どんな人、か。とにかくすごい人だったよ。なんでもできて、すっごく綺麗なんだ。教室の誰にも愛想はいいし、考え方がもの凄く大人だった。なのに全然嫌な感じはしないんだ。持っているものはすごくセンスがよくって、先生の受けがよかった。でもちょっと気を抜くところがあって、その気を抜いた時に見せる可愛さに男子は夢中になってしまったんだな。少なくとも僕だけじゃなくてクラスの男子はほとんど彼女に好意を持っていたと思うよ」

「そんなすごい人、いたんだ」彼女は眼を瞬かせていた。

「驚いたことに」僕は苦り切った顔で答えた。話すべきじゃない、話すべきじゃない、という声が内でこだましていた。

「僕もご多分に漏れず、彼女のことが好きになった。でもただそれだけじゃ他の女性となにも変わらないのさ。それが、あるとき、僕は彼女と二人で話す機会があった。ところが彼女は僕と二人っきりになるなり、ふっつりと何も話さなくなってしまった。なにも楽しそうじゃなく、僕のことなんて眼中にない感じだったんだ。……まだ話を聞きたい?」

「いや、聞きたいですよ」彼女は笑った。「それで、どうなったんです?」

「そうか。聞きたいか」僕は溜息をつく。「最後まで話すけど、後で文句言わないでくれよ」

「先生ののろけ話、たまには聞いてやります」

「そうか」

 僕は彼女のその一言に、なんだか救いを受けたような気持ちになった。そういったさり気ない優しさが、彼女と似ている気がした。

「それからなんだが、なんとか彼女と話すことに成功した。最初は世間話、普段よくやる先生への悪口や、学校への不満だったり、人気アーティストなんかのCDのことだ。彼女はふつふつと答えてくれた。でも何も楽しそうじゃないんだ。眼もこっちを見ていないし、どことなく心ここにあらずだった」

「先生嫌われてたんじゃない」彼女はおかしそうに茶化す。

「僕だってそう思ったさ。ああ、これはいつ『おまえなんか大嫌いだ』って言われてもおかしくないぞって思ったな。とにかく僕はドジを踏んだと思ったわけさ。でもそのとき、彼女がふと僕に言ったんだ」

 彼女のイメージが蘇ってくる。

 黒くて美しい長い髪。

 切れ長の落ち着いた眼差し。

 清楚な佇まい。

そうして何もかもに疲れたかのような長い溜息。

「どんなふうにやれば、そんなに楽しく話せるんですか」

「え?」

 麗奈ちゃんは瞬いた。

「……ってね。僕は驚いたよ。なぜなら彼女は涙を溜めていたからだ。でもしおらしくしていたのはその時だけだった。彼女はころっと笑顔になって、子犬のようにニコニコしだした。まるで初めて僕がそこにいたことに気付いたようにね。……ああ、覚えているよ。あの頃のやり取りは、もう十年近く経った今でも」

 麗奈ちゃんは先を促すように、布団を被りなおしてこっちを見た。

「彼女は実を言えば、とても内向的な人だったんだ。それを全部演技で隠し通していた。時折見せる気の抜けた表情までも計算だったなんて、聞いたときは度肝を抜かれたよ」

「実際女の子なんてそんなもんですよ」

「まあそうかもしれない」僕はあのときの彼女の表情をまざまざと思い出せる。

 初めはよく話す友達になった。彼女は、他の男子と同じように僕にとても愛想よくしてくれた。でもそんな時に、ちょっと悲しげな顔になることがあって、「どうしてそんなに楽しそうに話せるんですか」と同じ質問をした。その質問の意味を知れたのはだいぶ後になってからだった。

「彼女はぽつぽつと自分の悩みを話してくれるようになった。今考えればなんてことはない、青少年が抱きやすい悩みさ。自分の個性と周りとの協調性の間にコンプレックスを持っていたんだ。つまり、『考えなきゃやってけない人』だったわけだ。彼女は」

 麗奈ちゃんは何も言わなかった。

「僕はさ、」僕は顔をうつむけて言った。「ちょっとこの先からは本当のことを話せるかどうか自信がない。なにしろ十年前だし、僕の想像をちょっとばかし超えているものだったからさ。でもとにかく話したい。全部きちんと真実どおりに話せるかどうかわからない。順序があべこべになるかもしれない。でも、聞いてくれるかい?」

「ええ。どうぞ、言ってください」

「ありがとう」

 僕は話した。

 彼女がまずどんな人物だったか、どんな評価をクラスから受けていたかということから始め、僕に言ってくれた言葉の断片、そして徐々にそれを理解して受け入れていく自分、そのころだった、僕が彼女を愛するようになったのは。彼女がどうして自分を選んでくれたのかは定かではない。ただ急に「ふっと影がよぎった」のかもしれないし、たまたまその時に僕が近くにいただけかもしれない。

 彼女はだんだんと僕と一緒にいる時間が多くなった。友達の男子からは揶揄され、女子からは期待の眼差しで見られた。――もっとも、彼女は他の多くの男子とも仲が良かったから、その中の一人の男、という認識での眼差しだったのだろうが。

 でも僕はずっと彼女との関係は周りに否定し続けてきたし、実際そんな事実は僕らとの間にはなかった。ただ僕は彼女のことを愛していただけで、彼女もそんな僕にちょくちょく笑顔で応えてやっていただけだ。でも時折僕ら中学生には理解できないことを話したり、していたり(たまに一人で難しい本を読んだり、ここじゃないどこか遠くをじっと眺めていたり)していたので、彼女は僕のことを本当は必要としていなかったのかも知れない。

 彼女は、本当はとても孤独な人だった。

 誰にも立てないような断崖絶壁の上に立って、ただ一人、腕を組みながら、遠くの海洋を眺めているような人だった。でも彼女は他の人に優しくて、気の利いたジョークも飛ばすし、そして必要な時にはとても礼儀正しい人だった。気取った、変な感じは全然しなかったのだ。もちろん一部の男子や女子から謂われのない批判は受けたが、彼女はどこ吹く風で、そんな相手も懐柔する策を知っていた。彼女は僕たちの中に入っておかしな遊びを楽しんでいたし、今どきの話題にも花を咲かせていた。

 そんな中で、

「僕はついに……彼女に告白しようとしたんだよ。もう友達はいやだったんだね。彼女と付き合いたかったんだ。本当に、告白しなきゃいけないって思うようになった。まったくそれは妙な感情だった。彼女の人当たりの良さは決して本当の彼女じゃなく、嘘だっていうのに、でも彼女のその嘘も、僕は好きになったんだよ。なんとか僕は努力に努力を重ねて、彼女と二人きりになる時間を多くした。そうして彼女のことをもっとよく知ろうと思ったわけさ。僕は実際彼女の考えを理解するためには幼かったし、かなりの労力を割いたと思うよ。彼女はそんなとき猫のように気まぐれで、今日はもう気分が変わったから話したくない、だとか、ファーストフードを食べに行こう、だとか話すんだ。せっかくの工作も台無しになることも多かった。でも彼女はたまに続きを話してくれたよ。それは今日気になったことを彼女独自のやり方で考えてみて、それをそのまま僕に伝えてくれるというものだった。僕はなんとか彼女の考え方を理解しようと努めていた」

「それでうまくいったの?」麗奈ちゃんはぽつりと言った。

「うまくいっていたんじゃないかな」僕は少し寂しくなった。どうしてあのまま時が過ぎなかったのか、僕がもう少し大人であればよかったんじゃないかと思うからだ。

「彼女は僕に少しずつ特別な興味を持ってくれるようになったし、そうしたら放課後……部活がない日は毎日彼女と過ごせるようになった」

「先生、部活やってたの」

「僕もそうだし、彼女もやっていたよ。だから会えるのは休みの日だけだった」

 そのころから僕らは特別な関係になっていったと思う。

 もちろん僕と同じ感情を彼女も持っていたと保証することはできない。

 いやむしろ、持っていなかった、と保証することはできるかもしれない。

「でも僕自身、躊躇してしまったんだ。今のままでいいのではないか、って思うようになったんだね。彼女は他の男の子とも大勢仲良くしているし、僕が愛していることを告げて、その身を制限してしまうんじゃないかって、そしてきっとそうしたら、彼女は苦しむんじゃないかって……そう思ったんだね。それだけじゃない、今の関係をとにかく維持していたかったんだ。みんなのアイドルの彼女と、そして彼女を追っかける男の一人……という関係をね。僕が告白することでどんな変化が生まれるのか、僕にはちょっと想像がつかなかった。だからぐずぐずしてしまったんだ。あの時は本当に情けなかったと思うよ。夢が叶う直前で尻込みしてしまったんだから」

「うん。でも、わかりますよ」彼女は慰めるように言った。「尻込みする気持ち、わかります。人間ってそういうものでしょう」

「そういってくれると嬉しい」

 僕は微笑んだ。

 そうして言葉を切った。

 彼女の思い出はまだ鮮烈に、この胸に刻まれていたのだ。

 あの時の表情ひとつひとつが、その時の情景とともに、写真のように鮮明に思い出される。

 彼女の嘘も本当も。

 ともに歩いた河川敷も。

 ともに休んだ木陰も。

 そうして僕を全然好きじゃなかったといえる確かな証拠も。

「今、彼女はどうなっているか、想像がつくかい?」

 僕は尋ねた。自分でも驚くくらい低い声だった。

 麗奈ちゃんは眼を瞬かせた。

「え? う、う〜ん……考えることは得意じゃないの。今は」

「ああ。そうだったね。熱、大丈夫かい? なんなら続きは今度にしようか?」

「だめ。今して」

 紙芝居の続きをねだる短気な子供のように、彼女は唇を突き出して、ねだってくるのだった。

 僕は苦笑した。

 話すべきなんだろうか。

 それが僕と彼女の関係にどう変化を添えるのか、ちょっと想像はつかなかった。

「亡くなったんだよ」

 麗奈ちゃんは瞬いた。意味がすぐには理解できなかったようだ。

「自殺、したんだ」

 彼女はぼんやりとした眼でその意味を理解するように必死に頭を働かせているに違いなかった。

「え? でも、なんで……」

「それは僕にはわからない。でも彼女はそれを実行した。そうしてこの世の人間じゃなくなった。中学二年の終わりだった。二月の冬だった」

 あのときの衝撃よりも、その後の脱力感と無気力、そうして僕をさいなむ自責の念のほうが、ずっと印象的だった。

 僕はそれから苦悩した。

 誰もが消えることのない傷を負っていた。

 誰もがその傷に懸命に戦っているように見えた。それが苦悩という形で消化されていくのだ。

 おのおのは、おのおののやり方で、戦い、消費し、そうして飲み込んでいった。心が強く、心の整理がうまい人間はなんとか乗り越えて、受験勉強に臨んでいった。

 誰も彼女のことを忘れることができなかった。

 そうして僕も、それから約二年間、ずっと苦しむことになった。

「彼女への恋心はそれからもしばらくは消えなかったね。だから彼女が死んだ後も、彼女が生きていた頃と同じくらい彼女のことを考えたよ。どうして死んでしまったのか、彼女に理由を訊いてみたかった。どんな苦悩があったのか、どうして僕に話してくれなかったのか。でも彼女は、よくよく事実に沿って考えてみれば、自殺を考える理由がなかったわけでもない。そんな理由は聞かされてないけど、でもそんな節はないわけじゃなかった。僕は彼女のことをよく見ていたし、なにか目に見えないものに苦悩しているのが見えたんだ。形のない束縛感、やろうとしてもやりきれない感じ、そう、例えば、芥川龍之介が遺書に書いた、『ただぼんやりとした不安』というものがあったかもしれない。でもそれだけで自殺するなんて……とうてい思えないから、なにか目に見えない、大きな苦痛というものがあったんじゃないかな。どちらにしても、僕の理解を大きく超えていることだった」

 僕は続けた。不要だったかもしれないが、人間は、人の死に巡り会った場合、必ずそれにけりをつけなければならないのだ。

 それは理由でも決意でもなんでもいい。そこから旅立つために、なにか決別の言葉が必要なのだ。

「僕に出来たのはね、苦悩することだけだったんだ。どうして僕は彼女が死ぬ前に想いを告げなかったんだろうか」僕は一度言葉を切った。「ってね。躊躇したことなんか一体何の役に立ったんだろう。彼女はそれを決して望んじゃいなかったんだ。現状を維持するなんて、僕の勝手な考えで、彼女はそれに満足できなかったから死んだ。僕はそう考えた。だって……さ、自殺するってどんな気持ちなんだろうね? きっと世界中に自分の仲間が一人もいなくなったみたいに、寂しい気持ちなんじゃないかな? そこで僕が、『あなたのことが好きです』と一言でも言えたら、結果はちょっとでも違ったんじゃないかな、って、そう思うんだ。彼女は自殺を取りやめることができたかもしれないし、もうちょっと自殺を待ってくれるかもしれなかった。結果はわからない。もちろんそうだ。でも言うと言わないとでは、結果は違ったものになる。僕はそう信じていた。だから自分のした選択が許せなかったんだな。どうしてあんなに臆病だったのか、自分でもよくわからないくらいに、自分は臆病だったんだ」

 もちろん僕だけに問題を限定してしまうのはよくない。

 僕の知っていたのは彼女のほんの一部だけで、その自殺の原因の百分の一すら理解していないのかもしれない。

 あるいは彼女は本当に僕の思っている通りの理由で自殺したのかもしれない。それはわからない。

 でも、僕になにかやれることはなかったのだろうか?

 彼女のためにしてやれることは、あったんじゃないか?

 どうして何もしてやれなかったんだ。

 一言、言ってやるだけでよかったのに。

「その子のこと……まだ好きなんですか?」

「ああ。好きだよ。まだ好きだな。でももう触れられなくなってしまったんだ。彼女は別の世界に行ってしまったからね。僕にできるのは、彼女のことを思い出して、罪を自覚することさ」

「それだけで、もう十分だと思います」

 その言葉を聞いたとき、ふと心の中が温かくなった。

 なにかこみ上げてくるものがあった。

「ありがとう。でももう休んだほうがいいよ。長く話を聞かせちゃってごめんね。続きはまた体が回復したら語ろう」

「ええ。でも、もう苦しむのはよしてください。一度きりでいいんですよ。一度だけでも、その子に対して詫びたんだったら、その子は許してくれているはずですよ」

「ありがとう」

 僕は鞄を持って、足早に彼女の部屋から出て来た。

 泣きそうな顔を見せないためだった。

「それじゃ」

 こみ上げてくるものを抑えきれない。

 本当なんだろうか。

 もう、いいんだろうか。

 もう、いいだなんて。

 僕はずっと忘れていたじゃないか。

 そんな、昔のこと。

 中学生のころの話なんていちいち思い出しやしない。

 果たして……そういうものなんだろうか。

 ちょっとずつ、忘れていくものなんだ。そうしてそれがきっと、罪の赦しなのだろう。

 彼女は別の世界で楽しくやっているだろうか。僕よりもずっと楽しい人物を見つけて愛しているのだろうか。

 でも伝えなければならなかった。

 僕は悩むだけで、今この言葉を口にするまで、彼女にこの言葉を告げたことはなかった。

「あなたのことを愛しています。さようなら」

 そうすると、肩の荷がすっと降りたような気がした。

 最終話へ

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