六

 

 あれから、僕はよく紀子さんのいるナポリの丘へ足を運ぶようになった。

紀子さんや、愛犬グーグーと一緒にいると、前日執筆がはかどらなくってくさくさしてた気持ちが和むんだよなぁ……。最初はただの挨拶だったんだが、二週間も経ったころには、僕らは会う日を決めてよくここに通うようになっていた。

 麗奈ちゃんの話も出た。あいかわらず家に閉じこもってばかりいるのだという。僕は少し彼女に興味があったが、まさかまたすぐ会えるとは思ってもみなかった。

会ったのだ。

 紀子さんにお茶を誘われたときだ。お家にいらっしゃって。と言うから、貧乏精神に満ちあふれている僕は、ええぜひとも、と快諾した。紀子さんの淹れるお茶といったら絶品だろうから。聞いたこともないようなアジアの秘境のお茶か、あるいは、懐かしい味の緑茶か……どちらにしろ、期待できることに変わりはない。言っておくが、僕はお茶についてならだいぶうるさく語れる。

 

紀子さんの家はナポリの丘の麓にあるらしい。さてどんな家か、と思ったら、意外と小さくてお洒落なお家だった。ベージュ色の整った外装は清潔感を感じさせる。グーグーを抱っこしながら彼女は玄関に入っていき、お湯で湿らせたタオルを持ってグーグーの体を拭く。僕は手持ちぶさただったので、それを手伝おうとした。けれど紀子さんが許しちゃくれなかった。どうしようかと思った矢先、麗奈ちゃんに会った。

「おばあちゃん!」

 甲高い声で叫ぶのが聞こえる。

 誰だ? と思って辺りに人影を探すと、やがて見つけた。廊下の奥の曲がり角、おそらく――洗面所と思われるところから、彼女は顔の半分だけ出していた。

 なんだあいつか、と納得した矢先、

「ちょっと来て!」

と言うので、紀子おばあちゃんはとことこと廊下を歩いていった。そこで何やらコソコソと内緒話を始めている。僕はグーグーの相手をしながら、向こうで麗奈ちゃんが一方的に話し、紀子さんがそれをなだめているのを聞いていた。

 どうやら僕は、麗奈ちゃんにここから出て行ってもらいたいと思われているらしいな。それくらいわかるさ。だが、決してそんな狙いを尊重したりなどするものか。出て行かせるなら自分でやってみせろ。なあ、グーグー? グーグーは瞬きすらせずに、一心に僕を見つめている。しばし黙って見つめ合う僕ら。なんだか妙にこいつのことが可愛くなった。

「向島君?」

 紀子さんに呼ばれて、「はい」と返事をする。

「こっちにいい場所があるの。ついてきて」

「は、はあ」

 すると玄関から外に連れ出される。また強い陽射しを浴びることになる。

 紀子さんは僕を小さいお庭へと案内し、そこにあるパラソルつきの木製テーブルに腰をつかせた。

「ちょっと待っていてくださいね。今お茶を淹れてくるから」

「あ、はい」

 手伝いましょうか、と口から出かけたが、僕は引っ込めてしまった。……追い出されたのだ、ようは。なんだ、そんなに僕がおまえの家に来たのが問題だったか? どうせ寝ているから会えないだろうって思ったんだよ。

 僕はお庭の様子を眺めた。真夏の太陽が木に遠ざけられて、弱い光が僕の頬を照らす。さわさわ、と風に葉が踊らされ、影がゆらゆらと揺れる。

 しばらく経つと紀子さんが冷えた麦茶を持ってきてくれた。

「おお、すみません」

「暑いから、今日はこれにしましょう。麗奈ちゃんも、もうすぐ来るって」

「え。この暑いのに、ですか?」

 意外だった。

「今日は元気なのよ」

 ほほほ、と品良く笑う。

「といいますが、こんな暑い中じゃ、ぶっ倒れますよ。普通の人でも」

「あら」と口に手を当て、「そうねえ……今日はどこか繁華街にでも行きたいと思ってたけど」

「これからですか?」

「ええ」

「麗奈ちゃんは、そんなに体調がよろしいんですか?」

「いたって元気よ。でもまだ私の方がずっと元気ね」

 ふふん、と得意そうに笑う彼女は、とても七十台には見えない。

「向島君は、小説の調子はどう?」

「え? ええ、まあ。はい。一応詰めていたのがこの前書き上がりまして、賞に出す前に誰かに見てもらおうかと迷っているところで……」

「あら」と彼女は口に手を当てて笑った。

「じゃあ私に読ませてくださいな。私、小説って大好きなんですよ。今だってときどき読むくらいなんですから」

「へえ」

 すごいおばあさんだなぁ。実家の祖母に言ってやりたい。

「そんなら、今度、ワープロで打ち込んでプリントアウトしてきますから、そうしたら読んでいただけますか」

「いいわ! ううーん、楽しみだわ、向島君の書いた小説! 私ってねえ、若いころは文学少女だったんですよ。そりゃもう、読みに読みぬいたものよ」

「どういったものを読まれたんです?」

 紀子さんの若いころを想像してみる。セーラー服姿の、麗奈ちゃんにそっくりな……うわぁ。

「例えば、森鴎外の『青年』、武者小路実篤の『友情』ね。好きだったわ。それに江戸川乱歩のも読み抜いたものよ」

なるほど、『友情』なら僕も読んだことがある。あれは女子受けするかもしれないな。

「あとは好きだったのがモンゴメリの『赤毛のアン』ね。そのとき全巻セットはあんまりなくって、最初の『赤毛のアン』だけを読んだんだけど、とってもよかったの。あとは『十五少年漂流記』とか、オースティンの『自負と偏見』とかねえ!」

「どれもいい作品ですねえ」

 すばらしいおばあさんだなあ、と僕は思った。

 僕らがそういった文学の話題で盛り上がっていると、麗奈ちゃんが家の中から出てきた。出てくるなり、「暑いですね、今日は。うんざりするくらい」と妙なことを言って僕を睨みながら団扇を扇いでいる。いや、なるほど、身だしなみを整えたかったわけか。

「おばあちゃん、中に入りましょうよ。もういいから」

「あら。……ごめんなさいね、向島君。それじゃあ、中の涼しいところに行きましょうっか」

「はい」

 やっぱり女の子の支度というものがあったんだなあ。さっきの洗面所は、もしかしたら脱衣所であったかもしれない。……そう考えると、少し顔が赤くなる。とともに、僕が女の子だったらさぞかしぞっとするだろうと思った。

 今度はひんやりと冷風のきく室内に案内され、そこでもう一杯お茶をもらった。麦茶は心地良い香りがした。僕も落ち着いたし、麗奈ちゃんも多少落ち着いたようだった。

「それでね、向島君が、今度私に小説を見せてくれることになったのよ」

「へえ」

 興味深そうに目を丸くしている。なんだか照れくさかった。

「私も読ませていただいてもいいですか? 向島さんの小説」

「構わないけど。そんな、人にお見せできる小説でもなんでもないんだが」

「へえ、謙虚ですね」

「そんなわけじゃないんだ」

 自慢じゃないが、僕は今までたったの一度も第一次選考を通ったことがない。

「でも読んでくれるとなると、……やっぱり、嬉しいよ。どきどきしているけどね」

「やだ。私たち素人よ」

 そういって微笑んだ。そうだ、別に麗奈ちゃんたちが選考委員じゃないのに。いちいち固くなっている自分がなんだかおかしかった。

「そっちの調子はどう?」

「私? ですか?」

 彼女はぽかんとしている。

 ああ、「何の」調子か、ということだろう。

「勉強の方なんだが」

 そう言うなりなんなり、彼女は机に突っ伏してしまった。「はあ」とこれ見よがしに溜息をつく。

「ど、どうしたの?」

「んんー……別に……そっちの方ね、って思ってさ……」

 なにか悪いことでも言ったのかもしれない。

「ああ、あったっけねぇ……って、自分でもすこし驚いちゃったの」

 すこし?

「いや、今受験生でしょ?」

「受験なんてどうしたらいいのよ、って感じ……。だって、もう二十歳っていったら大学生じゃないですか。いいなあ……大学って、いったら遊んでばっかりなんだろうなぁ……」

 ム。それは少し違うと思う。

「大学って、まるっきりそういうところでもないと思うぞ? 人によりけりというか……それに、まだ二十歳じゃたいしたことないって。そんな人たちたくさん見てきたもの、僕は」

「でも向島さんは二十三歳じゃないですか」

「そうだけど」

「もちろん、卒業してるでしょ?」

「もちろん」

「やっぱり」

 現役じゃん、と、まるで軽蔑したような目。なんで軽蔑されなきゃいかんのかわからんが。

「ねえ……大学って、どんなところ?」

「へ? う、うーん……そうだなあ、」

 思い浮かべてみて、はっとする。

 思い浮かぶのは僕がいつも一人でいるところ……そういえば僕ってまともな学校生活送ってこなかったんだった。

「うーん……僕の学校生活は、あまり参考にならないと思うなぁ……それでもいいなら、話すけど」

「どんな?」

 興味深そうな目で聞いてくる。心なしか、紀子さんの目も輝いているように見える。

 そんなふうに見つめられても……。

 僕はよく一人でいた。

 そりゃ、友人はいるにはいたが。法学の研究会というのもあったし、公務員になるための勉強会もあったから、そんな中で、誰とも会話をせずに生きてきたわけじゃない。

 友人の家に遊びに行った。そして鍋を囲ったこともあったっけ。

 でもそんな中でも、僕は誰とも仲良くできはしなかったと思う。

 みんなの考えが、よくわからなくて、掴めなくて、距離をうまく測ることができなかったんだと思う。みんなが僕に対して抱いている思い、それをなんとなく察知したとき、僕は心底みんなを軽蔑してしまって、そこから去り、もう二度と彼らの前に現れないようになった。

 サークルに入ってみたりもした。

 そこでもただなんとなくみんなとそりが合わなくって、そのころ小説というものに熱中しだしていたのもあり、サークルに行かなくなった。それからの学生生活というものは、ただ学校と自宅の往復、それか、あるいは授業をさぼって、こっそり読書しに行くカフェへ、東京の公園へ、図書館へ、そのどれかに尽きた。

 僕がそういった良くない生活を送っていたのは、大学生活の後半の丸二年間だった。丸二年は、今日は学校サボるか、サボらないか、そればっかり考えて、授業にもたいして身が入らなかったと思う。

 どうもこれをそっくりそのまま伝えるのは憚られると思ったので、それとなく、孤独で、人付き合いが下手だったので、よく読書して過ごした、ということを伝えた。

「へえ……学生にも色々あるんだねえ」

「その子の個性が出ると思うよ。高校と違って細かい規律がないからね」

「今の学生って本当に色んな人がいるのねえ」

 と、紀子さんも手に口を当てている。

 きっとあなたの世代も、似たような感じだったと思いますが。と、口には出さなかったが、僕は心の中で思った。

「はあ〜あ……でも勉強やだよぉ〜……」

「就職するという手もあるよ。ま、決めるのはきみだけど」

 そこで紀子さんは言う。

「あら、麗奈ちゃんはお仕事なんか無理だわ。だって冬には倒れちゃいますもの」

「あ。……そうでしたね。すみません」

 そうだった。すっかり忘れていたが、麗奈ちゃんはいつも冬に具合を悪くするんだった。

 でも……それならこの先、どうするつもりなんだろう。

 それとなく尋ねてみる。

「では、やはり大学へ?」

「この子のパパとママは、そう言っているわ」

「あの人たちの話はしないでよ!」

 突然麗奈ちゃんは怒鳴った。紀子さんに向けられてのものだった。

「別に関係ないでしょう! あの人たちは!」

「でも……」

 う、う〜ん。

 聞いちゃいけないことっぽいな……こりゃ。

 こんなろくな生活してない腐れ大学生上がりなんぞが。

「う〜ん、そうだわ!」

 さも嬉しそうに――あれはなにやら閃き事があった顔だろう――紀子さんは、手を叩いて僕を見た。

「ねえ、向島君、あなた勉強教えるのはお上手?」

「はい? いや、まあ……そこそこは」

 これでも昔、家庭教師のアルバイトをやったことがあったものだ。

「じゃあ、向島君に麗奈ちゃんの家庭教師をやってもらうってどうかしら!」

「ええ〜っ!」

 僕が、何か言う前に、麗奈ちゃんがひどく嫌そうな声を上げる。

 これは何だか雲行きが悪いぞ……。

「なにを迷惑なこと言ってるのおばあちゃん! 向島さんだって忙しいんだよ!」

 本気で言ってるのか? こいつは。

「それに、私は家庭教師なんかいらないんだから! 一人で勉強なんて、やろうと思えばいつだってできるわよ!」

「それはお医者様と相談してからだけど……麗奈ちゃん、本当にこれから一人でやっていくのは、大変だと思うの。私はもう勉強のことなんてわからないし……年齢が近い向島君を家庭教師につけるのは、とってもいいことだと思うの」

「だからってねえ……っ」

 僕は口を開かない。

「それに、もう一度チャレンジしてみるべきだと思うの。……わかっているわ。麗奈ちゃんはやればできるって。おばあちゃんは信じてるから」

「だったら、」

 麗奈ちゃんは僕を指差す。

「家庭教師なんて、いらないでしょう!」

 ずいぶん失礼な物言いだな。気に食わんが、まあ当たっている。

 やればやるだけ勉強はできる。自分はできる、と言い切って、本気で頑張るなら、家庭教師はいらない。

 家庭教師は、自分で勉強ができない赤ん坊みたいなやつにこそ必要なんだ。そういうところに需要がある。僕は家庭教師のバイトをやってみてそれがわかった。

 だからまあ、この場には僕は必要ないだろうと一人で高をくくっていたのだが、

「いいえ、いります」

 と、紀子おばあちゃんは頑として首を縦に振らない。

「おばあちゃん……」

「ね、向島君。週に一回ぐらいでどうかしら? バイト代は少しぐらいしか出せないけど、代わりにご飯をご馳走してあげるわ。どうにか麗奈ちゃんの卒業と進学を、――進学は無理でも、卒業くらいはさせてあげてほしいの。どうかしら?」

「もちろん、僕に異存はありません」

 週に一回まともな飯が食えるならそれくらいやってやろう。というのが、僕の気持ちだった。

「よかった。じゃあそれで決まりね」

「ちょっと、二人とも!」

 完全に話から取り残されている本人は、僕ら二人の間を引き離すように割り込んできた。

「どうして人の話を聞かないの! 私にはいらないって!」

「麗奈ちゃん」

 紀子さんが困った顔をしていたので、僕はとっさに助け船を出した。

 いろいろよく考えたあげく、彼女の肩を持つのがベストだと判断した。

「一方的にしゃべるんじゃなく、よく紀子さんの話を聞くんだ」

「へえ? 話を聞いてないのはそっちじゃないの!」

「まあ落ち着いて」

 紀子さんは、悲しげな顔をしている。

 思うに、紀子さんはどうしても彼女を卒業させてあげたいのだろう。

 学校は、指定の重病と判断されたら、ある程度の欠席なら容認されるはずだ。

 けれどどこまでも特別扱いは効かないのが現実の事情というもの。

 頑張っている生徒たちに、申し訳が立たないからだ。

 僕はきっと、そんなところで、この問題が難しくなっているのだろうと思った。それなら紀子さんの気持ちも理解できる。

 どうしても。

 この五文字は、ときおり、人の意地となって、それらしい理屈や筋道など度外視してしまう。けれど僕は、老人の、しかも孫に対するこの「どうしても」には、案外心を動かされるものだと知った。

「麗奈ちゃんが一人で勉強できて、それで学校を卒業し、受験にまで成功したら、たしかに僕はいらないだろう」

 それはもっとものことである、と麗奈ちゃんは頷く。

「ただ、よく考えてくれ。僕らは準備するじゃないか。地震のときに、いざってときに役に立つように、非常食を用意するし、動きやすいジャージも用意する。僕は、これがきっと用意なんだと思うね。まさか君は震災のときにキャミソールとミニスカートとサンダルで逃走するとは思わないだろう? 水さえ持たないで? ……とにかく、僕はいつでもオーケーだということだよ。君がどうしても嫌ならやめるけどね」

 麗奈ちゃんはじっくり反論を組み立てているかのように、口を曲げている。悔しそうに、目線を横に向ける。

「……考えてみます、けど」

 僕は言った。

「よかった。取りあえず準備だけはしとくから、決まったら声をかけてほしい」

「向島さんはやる気なんですか?」

 悔しそうに、引き留めるように麗奈ちゃんが声を漏らす。

 僕は一度咳払いしてから、

「どちらでもいいよ。ただ、教えるなら、僕は麗奈ちゃんに教えたいことがあった」

「……それって?」

 僕は苦笑い。

「あとで教えるよ。実際に授業にはいることがもしあったら」

「ぶう」

 下唇を突き出す。

 僕は苦笑いで、手を振った。

「楽しみではあるけどね」

「もう。なにが楽しみなんですか……せっかくの夏休みにかったるい勉強……はあ……私って受験向いてない」

「きっとどんな学生もそう思うんじゃないかな」

 茶の会も刻が過ぎ、お開きになったのは夕方ごろだった。

 紀子さんとは文学の話で盛り上がり、二人とは最近の学生の話で盛り上がった。二人の間で会話が熱中している間は、僕はのんびりとお茶の落ち着きを愉しんだ。

 

 

 七

 

 僕は小説を書き上げた。

 どうも、この日課だけは終わりそうもないな。

 小説は、僕にとって、楽しさとか、苦しさとかには関連のない、別個の特異な存在として心のある位置を占めている。

 もちろん中途半端にやっているわけじゃない。力を抜きすぎるとふやけるし、力を込めすぎると固くなる。経験でそういうことを勉強しているのだ。

 小説とは浜辺の砂の城だ。

「芸術」と呼ばれるまやかしに心を奪われすぎれば、頭が変になるし、かといって一切技術を無視した作家ははげてものを創り出す。まことに力の加減が難しい。どこまでかたくなであればいいのか。

 たまにプロでも驚くくらい下手くそなのに出くわすときがあるものだ。けれど僕はそれを早合点して非難するのを避けるようになってきた。それはプロの作品なのだから、どこかに突出している部分があるはずだ。だからそれを必死に研究するようになってきた。どこに自分との違いがあるのか。本当にそれは自分が思ったとおりの作品なのか、あるいは、そうではないのか。

 反対に、素直にいい作品だと喜べる場合は、いったいが、そうでない作品とそうである作品を分けているのか、それを探るべきだ。なぜなら、そこに僕の得意な部分があるということだから。察知できるということは僕の強みになるということだ。

 僕は小説を書く上で、流行などにはかなり関心がないほうだと思う。いいものはどれだけ時間が経ってもいいと思うのが基本的なスタンスだし、だいいち、流行に乗れる才能がないのだ。独創的なものを生み出す才能もないし。ただ質の高いと思うストーリーを目指すだけで。

 時々それが何なのか、今まで積み上げたものが、綺麗さっぱり消え去ってわからなくなってしまうと思うことがある。そういうときはよく散歩に行く。時々何の関係もないことをやってみる。ただうなだれてみる。

 そうすると新たなことが分かってくる。ただの思いこみにしか過ぎないこともしばしばだ。けれどそういうときは笑ってしまう。思いこみに過ぎなかったと気付けたことが単純に嬉しいのだ。寄り道をしたが、また前の道に戻ってきたとき、僕はその道の有り様を――平地なのか、丘陵なのか、荒れ地なのか、砂漠なのか――見分けることができる。ならば次はどんな準備をすればいいのか、少しだけ分かるようになってくる。

 新たなことが分かればそれを試してみる。試してみて、成功するか失敗するか観察する。たいていは初め、成功したかと思う。陽気になる。あとから見直してみて、やっぱり失敗だったと思うこともあれば、きちんと成功していたと思うこともある。成功していたと思えたとき、僕はそこで初めて成長したと実感することができる。

 この繰り返しだ、僕の日々はすべて。

 ただ逃げないだけの努力

 僕の努力は、ただその一言に尽きる。

 ただ、逃げることはしない。でもそれだけしかしない。

 前に進んで壁をよじ登り、あるいは壁を破壊し、敵を倒す。そんなに攻撃的なわけじゃない。

 ただ歩いているのだ。

 鈍牛のように。ただゆっくりと。

 誰彼に影響されることなく。

 ただやり通す。

 それだけしか、できない。

 昔から僕は空想の虜だった。親戚のおじさんたちが遊びに来て、両親がなんだか自分にわからない話をしていると暇になるから、そういうときはよく縁側に出て、足をぶらぶらさせながら、蚊取り線香のしなびた香りをかぎながら、僕はトロイア戦争の一兵卒になったり、アキレウスになったりした。あるときはアガメムノンで、あるときはオデュッセウスだった。それかあるいは、オデュッセウスがトロイア側にいたらどうだろうとか、アキレウスが死後神になって天下を放浪したらどうだろうとか、役を勝手に決めて、好きにストーリーを作ってみたりもした。空想するのは楽しく、終わりがなかった。一つの話が終わればまた新しくキャラクターを選んで戦わせたり、恋をさせたり、自由だった。

 想像の世界はスター・ウォーズよりも自由で、ロード・オブ・ザ・リングよりも広大だった。

 想像することにかけては誰にも勝てる自信があった僕が、まさか小説家になろうと今努力しているとは、数年前にしても、思いがけないことであった。

 十九のときに小説の楽しみに目覚め、そこから一気にのめり込み始め、その半年後にはもう小説を書き始めていた。

 ただ最初は楽しいからやっていた。書いてネットにアップロードして、読者から一言「おもしろかった(^_^)」と言われれば気分が舞い上がった。今度はこうしてやろう、ああしてやろう、という思いで次回作を書き、読者がその通りに喜んでくれるのが僕はただ嬉しかった。

 本気でプロを目指すようになってからだろうか、小説がいつの間にかただ僕を苦しめるものになっていることに気が付いたのは。

 本気でいい作品を書こうとすると、読者からの感想は減り、応援も減った。僕はどんどん人付き合いを減らしていって、ファッションに気を遣うこともなくなったし、テレビにもあまり興味を示さなくなった。自分の直感にはとても従順で、他のものにはまったく見向きもしなくなった。

 僕は、サラサラとした手触りの原稿用紙を撫でる。

 黒いインク字がまだ少しにじんでいる。多くのメモが書き入れられた余白。書き直しの跡。

 ――でも、僕は歩き続けることをやめなかった。

 がむしゃらに走ることはやめた。

 でも立ち止まることはしなかった。

 自分にはもうこれしかないのだ、という強い思いが、僕を否が応にも小説を向き合わせた。

 僕は今日一本小説を書き上げた。

 これから推敲して紀子さんたちに見せようと思う。

 外は闇だ。

 僕は一人だ。

 ただ逃げないという思いだけが、僕をこんなとこまで運んできたのだった。

 

 八 

 

 独りで生きていくのはなにかと大変だ。

 その大変さに立ち向かえるほどの強さを、僕は麗奈ちゃんに教えようと思った。勉学を通して。

 そもそも勉学とは何なのか? 人間の望む結果によってその解はコロコロと変わるが、僕は「力」をつけるためだと思う。

 つまり勉学はただの過程なのだ。力をつけるための。

 だから学問に一種偏執的な情熱を注ぐ者は間違っているといわなければならない。ただの過程でしかないのに。重要なのはその「力」を使って「行動」をすることだ。行動こそ人間の勉学の終結だ。

 僕は麗奈ちゃんを実際に教える段になって、よく紀子さんと麗奈ちゃんと話し合った。

 つまり各人どうしたいのか、紀子さんは麗奈ちゃんにどうなってほしいのか、麗奈ちゃんは麗奈ちゃんでどうなりたいのか、そして僕はどういうことを教えたいのか、納得のいくまで話し合った。

 紀子さんはやはりある程度まで麗奈ちゃんの意思をそのままにしてあげたい気持ちはあるようだが、――特殊な事情があるせいかもしれない――祖母にしては少々厳しいぐらいに麗奈ちゃんの自由を制限するのだった。まるで自分が親代わりだと言わんばかりに。つまり大学へ行かせたいということだった。

 麗奈ちゃんは何処吹く風、もうすんなり病気のことは受け入れてしまったのだろう、一応高校は卒業しておきたいと言ってくれたが、しかし本音を言えば大学なんてどうでもいいし、資格なんかいらない、仕事なんか絶対だめなのだし、ただ将来金持ちの優しい旦那さんと結婚して、ずっと養ってもらえばいいとかなんとか、滅茶苦茶を言っている。

 僕はその間を取り持ち、よし、それじゃあとりあえず高校は卒業してもらいましょう、その後はおいおい決めましょうと決定を先送りにして、麗奈ちゃんの心変わりを待つことにした。勉学に目覚めれば頭もしゃんとしてくるだろう。

 さらに僕は、君に将来独りでやっていけるように教えたい、と麗奈ちゃんに言った。

麗奈ちゃんは何だか難しそうな顔をしている。

 正直に言わせてもらえるなら、憚りながらも、この子は「阿呆」だと言いたい。あほで、あほで、仕方ない。高校生でもしっかり現実を見すえている人間がいるっていうのに、夢見がちにも程があるし、しかもその夢があほくさい。

 だが、その気持ちを推し量ってみると、可哀想な気もする。自分への失望、未来への絶望、希望を持てず、自尊心をずたずたに引き裂かれ、自暴自棄になっている状態。

麗奈ちゃんの心は深く傷ついている。ありもしない安逸を待ち望む気持ちもわからなくはない。だから僕は彼女を一切口で非難しなかった。

「独りで生きていける力って言いましたけど、向島さん」

「はい。どうかしましたか」

 僕も厳然と先生口調を取る。

「私、どうせ病気なんですから、いやでも人の世話を受けることになると思うんですけど」

「ん、まあ」

 わかってないな。

 僕は指で机を、コン、コン、と叩いた。

「そんなに難しい事じゃないですから、取りあえずやってみましょう」

「はあ」

 向こうは呆れている。

 独りで生きていくのに必要なものは、とにかく「そうする」という意思だ。

それさえあればなんとかやっていける。けれどそれを持つのが難しいのだ。問題に直面していないならなおさら。

 でも、僕は絶対に、この子にはそれが必要になると踏んでいた。

「さて、それじゃあ授業を始めましょうか」

 長いブランクがあったから、またこうして先生役をやることが新鮮だった。

 この、物を頭で整理して伝える感覚。

いつもとは違う、筆ではなく口を使ってという仕方で。

 少しずつ、頭の中が覚醒していく。

「そこはそうではありません。この公式を使うのは間違っています。いいですか、よく見ていてください。ここのχがこうすると、αとイコールになります。このとき、χ=n=αとなるから?」

「あ、なるほど」

「はい、そうですね。ある程度まで慣れてきたらこっちの応用に移りましょう。ここまでくればこの範囲はかなり楽です。次に進めますね」

 まだまだやり足りないな、と思ったところで、時間が来てしまった。

一時間半後に設定していたアラームがリリリリリと鳴り出す。彼女はちょっと安心したように時計を見た。

「しまったな」

 僕は頭をかく。

「時間意識してなかった……中途半端なところで終わっちゃった」

「つづき、やります?」

「いいや」

 僕は溜息をついた。

「ここから先は時間外だし。無理にやったって集中力は続かないさ」

 彼女は笑っていた。

「なんだか意外ですね。やっといつもの向島さんに戻ったって感じ」

「そんなに意外かい?」

「うん。すごく先生っぽくて。イメージ変わりました」

 彼女はペットボトルの口を開けて、オレンジジュースを飲んでいる。

「はぁ……つかれた」

「お疲れさん」

「先生もお疲れさま。お菓子食べる?」

「いただこう」

 僕も彼女も頭を使って疲弊したので、甘い物――チョコレート――を食べる。

「しかし君もなかなか頭がいいね。少なくとも学生のころの僕よりはね」

「見直しました?」

 彼女がにやりと口を曲げる。そんなわけないだろう。

「うん、見直したよ」

 僕は彼女の部屋の様子を眺めながら言った。

「すごく棒読みですね」

「そんなことないよ」

 気付くとはやるね。君も。

「はあ……どうしてバイトなんか引き受けたりしたんですか?」

「え、家庭教師のこと?」

「はい」

 彼女はちょっとつまらなさそうな顔で尋ねる。

「私のことなんかどうだっていいじゃないですか。それともご飯目当てですか?」

「半分正解。半分外れ」

「どういうことですか」

「ご飯は当たり。だけど君のことがどうでもいいわけではない」

「え」

 彼女は目を丸くしている。

 べつに妙な意味ではない。

「君があまりにも無鉄砲な未来設計をしているから、一度がつんと矯正してやらなきゃ、紀子さんが可哀想でねえ」

「へえ」

 見損なった、といった顔。

「それはご立派ですねえ」

「褒める必要はないよ」

「皮肉っているだけですから。あまり癇に障ること言わないでくれませんか」

「癇に障ることなどいつ誰が言った」

「はあ……」

 彼女は頬杖を突いてそっぽを向く。

「話になりませんねえ」

「そうだねえ」

「私のこと見てそんなこと言います!?

 顔を真っ赤にして怒り出す。

「いったいどういうつもりなんですか、向島さん! 私をどうしたいんですか!」

 すごい言葉だが、これは前々から言っていることだ。

「だから言ったじゃないか。君がひとりでもやっていけるようにするって」

「それが全然わからないからこうして聞いているんじゃないですか……」

 がっかり、と肩を下げる。僕用のお菓子を食べながら。

「つまり、こういうことだ」

 僕は腕を組みながら長者目線で語った。

「君はいつか必ずこの力が必要になる。つまり、物事を自分で考え、それを実行していく力だ」

「べつにできますよ。そんなもの」

「いいや、これは言うほど易しくはない」

「そうなの?」

 納得いかなさそうに、眉根を寄せて口を曲げている。

「そうだ。君の人生設計はあまりにも素晴らしくて泣けてくるほどだが、」

 僕は咳払いする。

「んん、君の人生設計はあまりにも素晴らしくて頭が痛くなるほどだが、」

「言い直さないで結構です!」

「まあ、こうなんだ。もしそんな夢の中にしかいないような紳士が現れたとして、それで万が一うまくいったとして、……」

「余計なこと言わないでくれませんか!」

「よし、それじゃあ仮に、うまくいったとしよう。それで君は奥様になるわけだが、子供はどうするの?」

「え?」

 あまり考えていなかったのか、目を丸くし、視線を宙に漂わせる。

「ええっと、そうですねえ……作ることになるのかな。多分」

「それじゃ養育費は、彼に支払ってもらうことになるんだね?」

「うん……まあ、そういうことになりますかね」

「それじゃあ子供の世話はどうする? 君はずっと家にいるわけだから、家事も含めて子供の世話をしなきゃいけない。少なくとも赤ん坊のうちはね。できるかい?」

「えっと……」

 彼女は眉を寄せた。じょじょにその顔に深刻な気配が漂ってくる。

「できないと思います……」

 ぼんやりとでも、理解できただろう。頭を下げて目を伏せる。

「子供、作るのやっぱやめましょうか」

「そうじゃなくって、」

 手を振って否定する。

「重要なのは君がそれで満足できるかってことだ」

「へ? どういうことですか?」

「わからないかな」

 僕は少し焦れながら言った。

「仮にだよ、もし仮に、全部うまくいって、君が金持ちの奥様になったとしよう。そうすれば全部ハッピーエンドだと思うかい?」

「え……違うんですか」

「僕は違うと思う」

 シャーペンを使って、ルーズリーフに図を書き込んでいく。

「まずはこうなる。君は金を得る。夫を得て、平和と幸福を得る」

「はあ」

「働かないって言ったね? なら君はベッドで朝遅く起きるだろう。子供でもいなけりゃね。朝遅く起きて……旦那さんはきっと仕事でいないだろう。朝食は一人で作ることになる。そして一人で食べる。簡単な家事をして、なにか好きなことをする。好きなことっていうのは、そのときの君の気分次第だろうけどねえ」

「まあ……そうかなあ。私そんなぐうたらじゃないと思いたいけれど」

「君がどれだけ頑張って朝早く起きられるかは、僕自身は言い切れないから、君に任せておくとしよう。さて、そこでだ。ここに正常な関係はあるのかな?」

ぼくは線を引いて、旦那と妻を結びつける。

「調子を崩しているときはそういう生活も仕方ないとして……ここの間に愛の歓びはあるだろうか?」

「え、愛の歓びって、向島さん……」

「黙って聞くんだ」

 茶々を入れようとしているのでぴしゃりと言い放つ。

「いいかい。旦那さんはきっとこういう君に惚れ込んでいるくらいだから、家政婦でもなんでも雇って君の負担を軽くしようとしてくれるだろうね。休めるときは仕事を休んで看病に来てくれるかもしれない」

「そうなってほしいもんですね」

 暢気にうなずいている。暢気すぎるぞ、こいつは。

「ところがだ。これが一年、二年、三年と続いたとしよう。どういう気持ちが起こるか……僕は想像に難くないと思うんだが、どう?」

「へ?」

 麗奈ちゃんは、不思議そうに頭を傾けてから、にへら、と笑い、

「いやですねえ、向島さん」

 さも馬鹿にしたように目を眇めるのだった。

「二年後、三年後のことなんてわからないじゃないですか」

「そうかな?」

「え」

 僕は、旦那から妻のほうへ、矢印を引いた。

「旦那のほうは仮想の人物だから気持ちを推測することはやめておこう」

 しかし僕は次に、妻のところに×印を引き、離れたところに移動させた。

「でも、断言してもいい。必ずこの夫婦は破局する」

「え、なんでですか?」

 不思議そうに図を覗き込んでいる。

「私、納得いきませんよ。それじゃあまるで、私が、」

「だから、そうだよ。君が離婚を望むようになるんだ」

 彼女は言葉もなかったようだった。

 じっくりと僕の言葉を、耳の奥から、目の奥、頭の奥で噛み砕き、その味を確かめているようだった。きっと苦い味がしただろう。

「いえ、でも」

 否定したい気持ちもわかる。ぼくは

「なに?」と聞き返した

「それ、ひどすぎます。どうしてそんなことが言えるんですか?」

「これは人の心理を考えたときにすぐわかる、実に簡単な分析だよ」

 僕は図に点を打っていった。

「まあ僕は心理学の学者じゃない。物理的な脳の働きなんかもわからない、どちらかといえば社会学に近い分析になるかもしれない。夫婦間に芽生える気持ちっていうのはね、どちらかというと愛情よりも友情に似ているそうだよ。だからそれはどちらかに依存する形ではなく、お互い助け合う形でなければならないんだって。ちなみに、これも面白いけれどね、友情を大事にすればする人間ほど、結婚したとき夫婦円満に暮らせるそうだよ」

「っていうか、それが何の関係があるんですか?」

「わからないんなら、もっとじっくり説明しよう」

 僕はペンで「BAD」と書いた。そしてその下に三年後の彼女の気持ちを書いていった。

「まず君は夫婦生活に不満を感じるはずだ。でもなぜだかわからない。きっと今の君のままじゃどうして不満を感じるのか永久にわからないだろう。でも答えは一つだ。充実感がないんだ。すべて幸福な要素が揃っていると見えるのに、君は一切心が満たされないんだ。でもなぜだかわかるかい?」

「わかりません」

 彼女はむすっとしながら言った。

「でも説明するのはちょっと難しいんだ。きっと君は自分でそれに気付かなきゃいけないと思う。でも具体的な結果だけ言わせてもらうとね、君は旦那に申し訳なさを感じるようになるんだよ。けれどそれは不満感を隠したオブラートだ。たびたび君は夫の優しさに感謝しながらも、どこか得体の知れない不満感を抱くようになるはずだよ。何が不満なのかわからない、形の見えない不満にね」

「……」

 唇を突き出して、むっつりと下を見ている。

「言い過ぎたかもしれない」

 ぼくは一度謝りながら、

「でも許されるなら、もうちょっとだけ言わせてほしい。聞きたくないなら聞かないで」

「はい」

「君は旦那のために役立つことをするべきだ。何でもいい、仕事でも、家事でもいい、地域への貢献でもいい、それは誰のためでもない、君自身のために必要なことなんだ。だけど、これ以上は言わないことにするよ。すまなかった。もっとわかりやすい形で、長く、ゆっくりと教えていくから」

「……」

 彼女はちらと視線を上げてから、また下を向いた。

「勉強という形で?」

「もちろんそうだ」

 僕はペンを置いて、笑った。

「君は強い女の子になるんだよ。病気と一緒に暮らす、強い強い、そして美しい女性になるんだ」

 

 九

 

 夏は、もうすぐ終わりを告げようとしている。

 暦上ではもう秋だが、夏は最後の輝きを放とうと、めいっぱい存在を主張する。しかしことごとく力が弱まってきているのがわかる。蝉の声が減ったのもその一つだ。

 学校ではもう二学期が始まっている。麗奈ちゃんはどうするんだろう。きちんと学校に行けるのだろうか。

 僕は、自室の窓を開けて顔を出し、日差しを頬に受けた。まだ今日はちょっと暑い。アパートの近くにあるささやかな林はすこし幽かになった蝉の声を送っている。風が熱をもってゆらゆらと揺れている。太陽の熱も少しはうすれ、土やコンクリートも涼しげな顔を取り戻してきた。

 僕はバイトに行き、黙って作業をこなした。お客さんが来たときだけは考え事から解き放たれるが、それ以外はほぼ無言だった。

 新しく入ったアルバイトの男の子、広沢君と、女の子の島さんがいる。彼らはよく働く。それに仲もいいみたいだ。付き合っているのかもしれない。

 バイトが終わった後、僕は夜の穂月町の商店街を歩く。

 ふと目を閉じてみる。

 ああ、ここの街は静かだ。

 東京の喧噪の十分の一もない。その分どこか自然も表情豊かで、風も空気もくせが強い。

 虫の声がふと耳をよぎった。鈴を手に持ってゆっくりと、ゆっくりと転がすような声。

 それは僕の過去の記憶とリンクしていた。

 ふと過去の思い出が蘇る。

 いけない、と思いつつも、それは止められない心の衝動であった。

 あの時は、あの時で、楽しかったな……。

 僕は学生時代のころを思い出した。東京の荒川のマンションに居住していたころだ。

 よく休みの日になると、千代田線に乗って都心へ行き、神保町やお茶の水などの神田界隈へ行った。神保町ははじめ古書店街として知ったが、その後は付近に点在している老舗喫茶店をめぐるためによく足を運ぶようになった。

 あのころ僕はまだ青かった。正義心が強く、この世の中をどうにかしてやらなきゃと思い、学校で頑張った挙げ句、そんなものは望むべきではない、という現実を知らされ、思想と哲学の間にじょじょに埋没していく……そんな若い、自我の強い自分がいた。

 教授たちの自分勝手な理論や、不健全な子供じみた講義に嫌気が差し、僕はここで自分自身を修養する希望をほとんど捨てかけていた。そこで僕はだんだんと自分で本を選び、独学で教養を身に付けていくようになっていった。

 僕は、なにか自分を肯定してくれる材料を欲していたのかもしれない。

 夢を諦めるなら、それでいい。

 諦めないなら、それでいい。

 その考えを確かなものとして保証してくれる文章が欲しかったのだ。

 学校に抱いているこの不満な思いを、優しく諭してくれるにしろ、罰してくれるにしろ、賛同してくれるにしろ、なにか頭の良い人の、しっかりとした声が欲しかったのだ。だから僕はよく本を読んだ。読んで読んで読み抜いた。

 そのときに必要だったのが喫茶店で、僕を優しい音楽と落ち着いたセンスのいい空気で包んでくれる安息所が、僕には不可欠だった。古い、暗い喫茶店で飲む四百円のコーヒーが、僕にとってはすごく合った。それがないとどうも集中できなかった。昭和時代のレトロな雰囲気が僕を神聖な気分にさせたのだ。

 でも結局は何の答えも得られなかった。

 作者は口でいうほどじゃないが、筆で書く場合でも、あまり注意を払わない、より多く自分のセンスに頼みきっている、あまり信用してはいけない人間だというのが僕の中でもりもりと湧いてでてきた考えだった。

 それから僕は「小説」と距離を置いた。小説を読むにしても、作者を限定した。信頼できる作者……ヘルマン・ヘッセやジェイン・オースティン、トーマス・マンなどだ。学ぶことから思索することを覚え、自分で落ち着いた真剣な考えを手に入れ、それを小説にぶつけた。そんな日が長く続いた。

 とたんに僕は今の風景へと戻る。

 東京を離れた。離れたかった。

 東京は未来のない街だ。希望のない街だ。

 僕はその独特の「暗さ」が嫌いではなかったが、すこし飽きた。

 この地に立ってみて、すこしそれが懐かしい。

 そう考えると、やはり僕は東京を愛していたのではないかと思う。

 陰気ですこし古ぼけた、荒川の街。がやがやと人通りの多い北千住。夕焼けだんだん、猫の住処根津・千駄木。地方都市の田舎臭さと静けさがただよう亀有。古くて暗い、隠れ家のある神保町など。

 僕の心の何割かは、まだあの地に住んでいるし、いつだってそこに帰りたいと心の主人である僕に訴えかけている。

 でも僕は、ここへ来たかった。東京という街を後にして。

 夜行バスに乗った。暗く、不快な旅だった。新幹線のほうが倍高いが、どれだけよかったかしれない。

 けれどここに来てなにか変わっただろうか。

 変わったことは多くある。けれどそのどれもが、僕の望んでいたものであっただろうか。

 いや、望んでいたものなど一つも叶わなかったのだ。

 ベンチに座って、背もたれに背中を預けた。

 目を閉じて、すっと息を吐き出す。

 疲労が肩から背中にかけてびりびりと電流みたく流れていく。疲れが溜まっている。

 どうしようもなく自信がない。

 どうして、僕のことを知っている人たちが一人もいない、こんな遠くまで来てしまったのだろうか。

 それは、自分で望んだからだ。

 一人で頑張るんだ。僕は、東京でそう決めたはずだった。

 だのに、僕はいっこう前に進めている感じがしない。

 文章は拙く、構成はあべこべ。

 ステップアップへの道のりが長すぎて、サクセスロードなど夢のまた夢。

 逃げたい。

 逃げ出してしまいたい。

 けれど、逃げて……逃げて……そうしたら、

「どこへ行くんだ」

 ふとつぶやいた。

「行くところなんて、どこにもないじゃないか」

 逃げるところなんて、もうないんだ。

 それはいつか終わりにしなければならない。

 そうやって、僕は自分に言い聞かせることによって、もう一度心を奮い立たせるのであった。

「よし、やってやろう」

 立ち上がり、息を吸い込み、胸を叩く。

 息を吐く。

「もう一度」

 もう一度、もう一度。

 そう心の中で続けてとなえ、僕は家路を急いだ。

 つづく  

  

 

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