五

 

 僕はあてもなく自転車に乗ってみることにした。

 野が見える。花々が咲いている公園だ。川が街の中に流れている。陽射しが木の葉に陰影を作り、そこの風景をまるで絵画のように装飾する。

日中(ひなか)公園」という公園を縦に突っ切ると、広い道の通った住宅街へ出た。みなオシャレな家だった。

決して裕福そうには見えないが、張り出し窓の下には植木鉢があり、色取り取りの花が咲いている。その隣に子供が使う三輪車が停めてある。バットの転がっている家もあった。

駅の方へ行くと、踏み切りのところに大きい犬が人々の間を縫って割り込んでいた。よくできた犬だなあ。と、思ったら首輪をしていなかった。こいつは野良らしい。野良がサラリーマンや主婦に混じって踏み切りを待つところなのだ、ここは。

 駅前ロータリーに着いてもまだ蝉の鳴き声はよく聞こえる。ロータリーをぐるっと回って、今度は反対側へと入って行く。陽射しが強すぎるので、途中のコンビニでミネラルウォーターを買った。コンビニには立ち読みしている高校生がいた。

サワサワと風の揺れる音がする。青空に積もった雪のような雲が描かれている。僕は自転車を転がした。シャリーン……とギアの回る音がする。汗が額から滴り落ちて顎に到達する。なんて暑さだ。僕は腕時計を外して鞄の中に入れる。ベルトが革製なので、痛まないようにだ。

そこから密集し合っている住宅街があった。そこは長い長い坂道だ。うねうねと上下に坂ができて、まるで蛇の背中を走ってるみたいだ。

板塀を巡らしたちょっと古めのお屋敷が見える。そこを過ぎると「青山菓子」とレトロな看板を提げた駄菓子屋が見えてくる。通りに面した椅子で子供たちが遊んでいる。今流行りの携帯ゲームだ。僕のころは家の中でするものだったがなあ……ゲーム。

そこを過ぎると交差点に入った。そこでやっと地名が判明する。五六町二丁目。……何だかよくわからん地名だった。ゴロク町、と読むらしい。

 この辺りになってくると林や畑が多くなってくる。農家のような大きなお屋敷があちこちに点在している。どうやらここはあの海岸とは逆の方角らしいな。潮気がうすれている。

 僕は畑のあぜ道と平行線をなしたコンクリート道路を真ん中に通っていった。車なんか一つも通っていない。畑の反対側には何もない原っぱがある。雑草が生い茂っている。

 その先をずっと行くと、森に繋がる。

 木々の暗いトンネルを、涼気を感じながら通り抜けて行くと、突如にして、白い建物に出くわした。

 建物の壁には緑の蔓草がまとわりついている。

 公民館かな? と思ったら、なんとそこは図書館だった。やった図書館! クーラー! 

図書館の名は、北村図書館、というらしい。

 自転車を停めて扉を開けて入って行くと、涼しい冷気に当たった。静かだ。ページのめくる音しか聞こえない。

 図書館内は長い廊下と、書庫、第一閲覧室、第二閲覧室に分かれていて、今いるのは廊下だった。

 左手にガラス窓がある。ガラスからは中庭のよく手入れされている植物が見える。日光が真上から当たって、とても美しい。

 僕は自販機でジュースを買って、それを椅子に座りながら飲んだ。……汗だくで閲覧室に入っていくのは何か気が引けたからな……。

 僕は中庭を眺めながら、ふと思いついて、鞄の中から本を取り出した。汗がひくまで本でも読むことにしよう。

 今読んでいるのはゾラの『居酒屋』という小説だった。エミール・ゾラはフランスの写実主義の大家だ。ゾラの本はこれが初めてだったけど、なかなか面白い。

 主人公のジェルヴェーズという女性が、ランチエというろくでなしの夫と別れて(浮気が原因だ)、そして新しく彼女のことが好きだったクーポーという職人と結婚する。けどこのクーポーも飲んだくれで、最初こそはジェルヴェーズのために真面目に働いていたものの、仕事中に高所から落下して以来、怠けるのに味をしめて、怠惰な生活を送る。彼女はそんなクーポーのことも愛したが、無情に消えていく金銭のせいで、じょじょにクーポーとの関係も冷めていく。

ジェルヴェーズは元々清純で優しい気性だったが、仕事がうまくいかなくなって、信用もがた落ちして、生活環境の悪さもあり、じょじょにしまりが悪くなっていく。そこに元旦那のランチエが現れて、彼女一家の零落はいよいよ拍車がかかる。ランチエは小綺麗なやつに生まれ変わっていたが、卑怯であることに変わりはなく、ジェルヴェーズに金を使い果たさせるきっかけの一つとなる。

 もう家庭はおしまいだ。ジェルヴェーズはとうとう酒の味を覚え、自暴自棄の道に足を踏み入れる。娘も家出し、娼婦になったとの噂も聞こえ、ついに自分も身を売らねばならないかと考え始め、夫にもう会いたくなかったのもあって、パリの宵へと出て行く。しかし――、

 僕はパタン、と本を閉じた。汗はすっかり引いていた。飲み干した缶ジュースをポイとゴミ箱に入れ、僕は出て行く。結局閲覧室には入らなかった。

 外に出るまたうだるような暑さが僕を待っていた。顔をしかめながら自転車の鍵をぱちんと外し、シートに跨りUターンした。

 図書館を出ると、さっき来た道とは逆の方へ向かっていった。しばらく緑のトンネルが続き、蝉の大合唱で耳が痛くなるほどだった。その先のT字路を右に進むと、木のカーテンが途切れて民家が出る。農家だ。このへんは農家しかないのだろうか。今はみんなお昼休憩でもしているのか、どこにも人の姿は見えない。

 蝉の声が降る中、無人の道を進んでいくと、ふとこのまま知らない世界に行ってしまうんじゃないだろうかという不安が持ち上がった。ここはもう別世界で、人が一人もいないのは、僕がもう神隠しにあってるからじゃないか、と。

 僕は自転車を転がして行った。

 横風が吹く。ぬるい風だ。足がすくわれそうになる。風が吹いている間は蝉の声もやんで、静かになった。

 ふと、目の前の生垣がある家から、三人の小さな子供が飛び出してきた。

「待ってよー」

「へへっ」

 小さな子供が少し背の大きい子供二人にからかわれている。

「返してってば」

「やーだよー」

「もう、返して」

 子供二人の方が握っているのは電車の模型だった。きっとおもちゃを奪われたんだろう。

「ほいパス」

「ほい!」

「あぁーん!」

 見ちゃいられない。なにやってんだあいつら。

 いじめてる二人を不快に思いながら、通り過ぎようとしたときだった。

「いいだろ。別に。おまえいっぱい持ってんだから一個ぐらい」

「やめてよ。やめてよ」

「えー。けちっ!」

「やめてやめて」

 その気弱な男の子は必死に追いかけた。と、そのとき、道路の向こうから、一台の車がやってきて、少年たちに近付いていった。

 危ない! そう叫ぼうとしたときだった。

「あ」

 車に気付いた一方が、慌てて体を曲げて生垣の方へ戻ろうとした。そのとき、ふと手から離れてしまったんだろう、電車のおもちゃはコンクリートの地面に投げ出された。

 そこを車の片輪が、無情にも、踏みつぶしていった。

 異物を踏みつぶしたことにびっくりしたドライバーだったが、少しスピードを下げてのろのろと運転しながら後ろを振り返ったりなどした挙げ句、やっぱり関わり合いになるのは御免被ると急にスピードを上げて、去って行ってしまった。

「やべっ」

 二人の男の子はそう言い捨てて、うなだれておもちゃの残骸を見つめている男の子から、離れていった。

 僕は声をかけようかかけまいか迷った。かわいそうに。でも見ず知らずの僕がなんて声をかければいいのかわからない。

 と思ったそのときだった。彼はしゃくり上げるのだった。慌てて僕は、その男の子に近付いていって、頭の上に手を置いた。

「大丈夫?」

「……え?」

 泣くところだったのに知らない人から声をかけられて、彼は呆然としていた。

「これ……壊れちゃったね。でも直せるかもしれないよ。だから泣かないで」

「え? え……だれ?」

夏生(なつお)っていうんだ、僕は

「なつ?」

「夏生だ。いいかい、泣いちゃだめだよ。君は危ないところだったんだから。車に轢かれるところだった。それをこの電車がかばってくれたって思わなきゃ。ほんとうに、危ないところだった」

 僕はうっすらと思った。やりにくい……こうしてなんの反応もない男の子に向かって一人でしゃべるつらさといったらない。

「ふむ。直りそうだな」

「……直るの?」

「大丈夫。直る」

 直るかなあ。ほんとかなあ、と思った。

「ボンドとかあれば、どうかな」

「ボンド?」

「のりの、強いやつだと思ってくれればそれでいい。うちにあればいいんだけど、どう?」

「あ、うん。多分。……お父さんが使うから」

彼は自分の家の生垣の間を通って、玄関に案内してくれた。僕は破片を拾い集めてから、急いで彼についていった。

「家の人はいないのかい?」

「おばあちゃんならいるよ」

「そうか。へぇぇ……大きな家だなあ」

生垣のある時点から想像していたが、とても大きな農家だった。一階建てだったが、奥行きがあり、縁側の間口も広かった。僕はそこに腰をかけて、彼にボンドを探して持ってきてくれと頼んだ。

彼は奥に消えて行った。しっかし無防備な家だなあ。思いっきり窓を開け放してあるが。

「おばあちゃん、畑いじりに行ったみたい」

「そうか。じゃあ一人なんだな」

 僕は早速おもちゃ修理に取りかかった。まじまじと眺めてわかったが、これはかなり精巧な作りになっている。高級な模型だと思う。彩色が素晴らしい。僕は一つずつ直していった。

 その間彼はじっと隣で見ていた。蝉の合唱はまた勢いを取り戻していた。もわっ、とむせ返るような空気の中で、僕は少年の世話を焼いていた。どうしてだろう。

 さっきのやり取りだったら、この子にも多少非があったようにも感じられる。おもちゃの奪い合いだから、見せびらかす心が多少あったのかもしれない。すべては想像にすぎないが。でもあんまり的外れでもないだろう。

 だからだろうか、逆にかばってやりたくなったのかもしれない。僕は作業の腕に誇りはないが、そういった悪徳も、誰かが笑って許してやらねばならないという、経験則を持つことに、ある誇りを持っていた。

「できたよ」

「え、ほんと?」

「ほら。見なよ。くっついてる」

「え? かして」

 少年に模型を渡すと、彼はまじまじと眺めた。床につけて、縦に動かしてみる。すると動く。

 けど、ある程度までは、だった。

 車輪が一回りするころには、ガッ、となにか歯止めがかかったように回らなくなってしまう。彼は「あ」と悲しそうな目をした。

「……ごめん」

 僕は少年のかわいそうな顔を見て謝った。

「ちゃんと最後まで直すことができなかった。ごめん」

僕は恥じ入った。

はあ……介入したんだから最後まで直せよ。

役に立てなくて申し訳ないな……。

「それ、もう動けないけど、受け取ってくれるかな」

 男の子は黙っていた。

 すると、顔を上げた。

 こくん、と頷く。

「そうか。ありがとな……」

 僕はその少年と別れ、また自転車に乗って出かけた。

 修理に意外と時間がかかってしまった。もう四時だった。空は徐々に色褪せていき、森も少しずつ寂しげな色を見せ始めた。

 これが五時になると、いっせいにひぐらしが鳴き始める。このあたりは森だらけだから、さぞかし豪勢だろう。

 僕は自転車を転がし、自分も昔あの少年のようなエピソードがあったかなとぼんやり思い出していた。

 あのときは父が直してくれた。

 ボンドでよく直してくれた。

 でも僕はいつも泣いてしまって……わがままだったから、完璧に直せない父を責めるくせに、直ったおもちゃはいつも打っちゃってた。

 あの少年は僕に似ていた。

 いつもびくびくしているくせに、自尊心は高く、おもちゃをよく見せびらかす。けれどわがままなところは僕の方に軍配が上がるだろう。

 空が、徐々に暮れていく。

 あの夏もちょうどこんな暑い夏だった。

 僕はこんな田舎に住んでいた。

 ふともう一度あの少年に会いたくなって、元来た道を戻ってみた。しかしあの少年の家につながる道は、もう二度と見出せなかった。

 

 僕はそれから一時間ちょっとぶらぶら歩いた。近所の駄菓子屋でアイスを一個、買った。

 それを食べながら、僕は山の方へ、山の方へと歩いて行った。

 どんどん辺りに木が多くなり、それにつれて日が沈んでいった。道はいつしか舗装されていないものになり、木も手入れされていないものになった。

 なんでなんだろう。僕は山を目指していた。

 果てに何かがあると思ったからだろうか。何もないところに行きたいと思ったからだろうか。わからない。

 山から見下ろしたい。この街の風景を、辿り着けないかもしれないけど。僕はそう自分に言い聞かせていた。

 倒木があって、自転車を一度持ち上げて、それを越える。手は虫に刺されまくっている。ズボンも内側に汗がたまって気持ち悪い。

 ふと視界が開けた。

 僕の頬に爽やかな風が吹きつけた。

 空はもう(くれない)に染まっている。雲がたなびき、紅を反映している。

 僕は力尽きて、自転車を横に倒した。ガシャン、と音がする。そして、地面に腰を下ろして呼吸した。

「絶景だ」

 それは、ナポリの丘とは違う、和風な、穂月町の全景だった。

 そこには何でもない一つの街の日常風景があった。海岸に停まっている漁業船。夕陽を反映して波打つ水面。ひぐらしの涼やかな鳴き声。行き来する車。

「贅沢だなあ。……ほんと、ここは」

 自分はなんて贅沢なんだろうと思った。この街に住めることが。ここにこうして座っていることが。

 小説のこととは何の関係もない、ただの幸福を、僕は思った。

 僕はそこで、暗くなるまで過ごした。

 その間のことだ。なんと、後ろの茂みで物音がするから振り返ってみたら、さっきの少年がいた。

 もう、会えないかもしれないと思っていたのに。

 僕は口を開く。

「君は、……」

「……」

 彼は口を開かなかった。

 じっと僕のことを見ている。

「座ったら? ここ。絶景だよ」

 彼は近寄ってきて僕の隣に腰を下ろす。

「どう?」

「……ここよく来る」

「そっか」

 彼は言う。

「お兄ちゃん」

「ん?」

「さっきはありがとう」

 僕は笑った。

「たいしたことじゃないよ。わざわざお礼を言いに来てくれたのかい?」

「ううん。ほんとはここに来たかっただけ。でも……もし会えたら、きちんとお礼を言いなさい、っておばあちゃんが言ったから」

「そっか」

 僕は微笑んだ。

「ところで聞いてもいいかな」

「え?」

「どうして君は山に登ろうと思ったの?」

 彼は口を閉ざした。

 泣きそうな目をして、拳で一回それを拭った。

「お父さんに怒られるから……」

「怒られるって?」

「おもちゃ、壊しちゃって……大事にしていないって、ぶたれるから……」

「……」

 僕は、また少年がかわいそうになって、頭をなでてやった。

 どうやら不幸の度合いも向こうのほうが強いらしい。

「怖いパパだね。よくぶたれるの?」

「うん。……おばあちゃんがね、いつも言ってくれるの。僕のこと守ってくれるの」

 そうか。おばあちゃんっ子なのか。

「お父さんが帰ってくる前に、よくここに来るの。おばあちゃんは……いつも後で迎えに来てくれる」

 僕は彼の頭を撫でて、それから背中のほうを弱く叩いてやった。

「我慢しているんだね」

「……」

「我慢するのは偉い。偉いよ……」

「……」

 彼はうつむいてまた少ししゃくり上げた。

 息をひそめて、押し殺すように泣いている彼に、やっぱり許されることは必要だと、僕は思った。

 少年のことを僕はさっき少し悪く思っていたが、いやそんなことよりも、彼はずっと純粋で、無垢で、気弱は気弱だが、優しい穏やかな性格であって、彼はまずそこを褒められなければならない人であった。

 僕はポン、と肩を叩いて言った。

「こっそり大事なことを教えてあげる」

「……え?」

「難しいことだ。とても難しいことだけど、でも一番大切なことを、今教えてあげる。聞く気はあるかい?」

 そう言われると、多少でも興味が湧くのか、「うぅん」と興味なさそうな振りをしながらも、「教えて」と小声で言ってくる。

 僕は言った。

「これは、言っておくがとても難しい。次から壊してしまったおもちゃを自分で直すことだよ。完璧じゃなくてもいい、形が歪になっちゃってもいい。でも諦めないことが、とても重要だ。次もしおもちゃを壊したり、また壊されたりしたら、それがたとえ君のせいじゃなくっても、全部自分の手で直すんだ。……できるかい? 無理だろうな。僕は無理だと思う」

「ううん」

 彼は、侮辱されたと思ったらしく、

「できるもん」

 そう言って僕のことを睨み付けた。

「ほんとかな。だったらやってみなよ。君の手できちんと直すんだよ。そうしたら君は大人になる前にとても重要なことの一つを、学んだことになる」

「重要なこと?」

「そうだ」

 僕は彼の頭を撫でて、穂月町の風景を眺めた。

「君はもっと自信を持てるようになる」

 僕は立ち上がって、少年に別れを言った。

 つづく

  

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