『Fragile』

 目的のない旅は楽しい。

 どこか逃避に似ているからだ。

 

 僕はバスに乗ることにした。

 電車にはもう飽き飽きしていたし、バスでは、もっとよくここの住んでいる人の空気に触れられると思ったからだ。

 バスはちょうど来ていたものに乗り込んだ。僕が最後の乗客で、ちょうど背後で扉が閉まった。

 整理券が出るということは乗った分だけお金を払うシステムだということか。

 僕はとりあえず新しい住居を見てみようと思い、運行表を見上げた。そうしているうちに「発車します」というアナウンスがかかり、バスが動き出すから、僕は慌てて座席にしがみ付く。

 乗っている人は、少ないようだ。

 そりゃそうか。平日の真っ昼間だもんな。

 お年寄りの女性が二人、男性が一人、若くもなく年寄りでもない女性が一人、あとが僕という有り様だった。

 さっき一瞬見えたけど、新しい住居の近くのバス停は、このバスで行けるらしい。……だいぶ遠いな。電車はそもそも近くを走ってないらしい。一本分乗り換えをケチッた結果がコレだ、と思いながら、結果としてまたバスに乗る羽目になったんだからどちらも一緒だろうと思い直す。

 僕は溜息をついて窓の外を見つめた。冬の乾燥した晴れだ。清々しい青空だが、どこか白々としている。二月の空というのにそんなイメージを持つのは僕だけだろうか。

 ガタガタとゆるゆる揺れる振動が心地良い。バスの中に会話はない。寂しい氷のような世界だ。

 僕は頬杖を突いて窓の外を見つめた。時刻は一時五十三分。有り金三千二百円。

 僕はやって来た。

 海の見える街に、やって来たのだ。

 

 旅がしてみたい、と思うようになったのはいつ頃からだろう。

 小説を書くようになって、一年半ぐらいしてからだ、きっと。

 僕はそのころ大学生で……世の中の何もかもが、いやになっていたころだ。

 でも世の中の何もかも、などという大層な言葉は、僕のような一般人からすればただその場限りの言葉で、世の中の何もかも、と言えるぐらい世の中を見てきたわけじゃないし、僕たちは何が何でも生きる希望を前途に用意されていた時代だったのだ。

 旅をしたいと思ったのは、正確には違うかもしれない。旅とは、二種類あって、旅行先に行って、次の日に戻ってくるものと、もう戻ってこないものがあるが、僕が選択したのは後者で、どこか別の地で生活してみたいという欲求が起こったのだ。

 理由は見つからなかった。

 それは僕ぐらいの草食系一般男子からすれば共通の感情だったかもしれないし、ただ自己研磨のための修行の一環とも言えるのかもしれない。

 ただ、同情を惹くようなことを承知の上で言うが、僕を揺り動かしたきっかけの感情というものがあった。

 それは、ここから消えてしまいたいという感情だった。

 

 

僕は新しい住居の外観を見た。

一度、不動産屋さんと一緒にここまで来たことがあるが、その時見た印象と今日の印象とは(はなは)だしく違っている。

 うまく言葉に言い表せないが、例えばホテルの一室を見せられた気分と、今日からここがあなたの部屋です、とその一室を見せられた違いくらい違うと思う。

 赤い外壁。真っ赤というわけでもない、ワインレッドだ。落ち着いている。ただ単にくすんでいるだけかもしれないが。

 このアパートは近年新しく改装されたらしい。築年数自体は長くて、もう四十年も経っているんだとか。

 ワインレッドの外壁は美しいと言えるかもしれないが、周りが畑や林じゃただのお化け屋敷としか見えないかもしれない。

 この意外なほど住み心地の良さそうなアパートは、意外なほど格安だった。それほど狭くないキッチンとベッドルームがついて家賃三万円。僕はすぐそこを新しい拠点に選んだのだった。引っ越し業者はまだやって来ていない。僕は重たい旅行鞄をそこに置いて、軽いショルダーバッグだけを肩から提げ、また外に出た。

 空は何ものも混じってないみたいに透き通っている。吹き抜ける風は冷たくて、肌が少し痛いくらいだったけど、いやな感じは少しもしなくて、ちょうど(かぐわ)しいかすかな潮気が僕の鼻を爽快にした。

 新しい街の名前は()(づき)町という。海に面した街であり、その背面には結構高い山がある。山の名前はほったけ山。

 僕がこの街の存在を知ったのは、かつてここに旅行のついでに立ち寄ったときだった。宿をチェックアウトしてから気ままにバスに揺れていたら、青い海と、それにだんだん坂に続いている白い家並みが見えたのだった。

 夏は暑いのかもしれない。だから白い外壁が多いのかも。と思いながら、僕はまるでそれをひとつの絵画のように感じていた。

 緑と白と、そして青。

 そこにたくさんの陰影がついて姿は千変万化する。

 それほどまでに美しいのに、そこがまるで旅雑誌の片隅にも載らないほど無名な土地であり、リゾート地のリの字もないほど閑静であるのが僕にはすごく不思議に映り、それが奇妙な魅力でぼくの心を捕らえたのだった。

 そうそれは――、イタリアの海岸都市に似ている。旅雑誌やテレビでしか見たことのない、ナポリの都。本物はもっと違うんだろう。もっと目を剥くほどヨーロッパの匂いがするところだと思う。僕がその白い家並みに感じたのは、日本に標準化された、夢のナポリの都市だったのだ。

 そのころは夏だったから、生い茂る緑が美しかった。

 僕が選んだのは冬だ。前に借りていたマンションの契約のせいで、ここまで長引いたのだ。

 もちろん僕の選んだ新住居は、そんなナポリの海岸線にあるのではなく(あれはきっと高級住宅街だろう)陸の奥の、畑とか林とかに囲まれている辺鄙な所だ。

 駅まで行くには、バスに揺られていかなければならない。約三十分。かかるお金は……さっき乗ったバス代から逆算して、五百三十円。

 なるべく乗らないほうが吉だ。

 自転車はいい。世界が広がる。

 僕は徒歩で先ほどから住居の周りを回っているのだが、どこまで行っても畑、田んぼ、林だ。

 歩く方向を間違えたのだろうか。商店があるほうはどっちだ。

 そんなこんなで、商店街にあるスーパーに入れたのは約一時間後だった。

 疲れた……。

 不動産屋さんに、アパートの近くに、徒歩五分圏内にスーパーがありますよ、と言われて納得、たしかにスーパーとそれに沿う道路は近くにあった。ただ僕のアパートがよほど入り組んでいるところにあるのだ。帰り道は大丈夫だろうか。

 スーパーの他には靴屋、ファミリーレストラン、ホームセンター、コンビニ、喫茶店、それぞれ一通り揃っている。都会のように八百屋や魚屋、豆腐屋などが無いのはここでも同じなようだ。

 郵便局は遠い。病院はもっと遠い。だが自転車があれば通えない距離ではない。

 僕は一通り主要な地理を把握してから、家に帰り、弁当を食べてから、ダンテの『神曲・地獄編』を読んで、小説を書き、寝た。

 

 翌日、雨が降っていた。その中引っ越し業者がやって来る。

 僕が持っているのは簡素な家具でしかない。布団、机、炊飯器、レンジ、冷蔵庫、鍋やフライパンなどの調理器具、食器、本棚、以上だ。あとは必要なものがあったらおいおい足していく。

 引っ越し業者が礼を言って帰ると、僕は傘を差してスーパーに買い物に行った。和菓子コーナーに行って、三箱包んでもらう。それを持って、大家さん、隣、上の人に挨拶にいった。僕の部屋は一階の端なので三箱で済んだのだ。

 三回のおしゃべりや愛想のやり取りをした後、僕は疲れて大の字に寝転んだ。

 窓から薄陽が射している。

 雨が止んだようだ。

 僕は窓を開けて深く息を吸った。

 吐くと、疲れが少し抜けた気がした。

 美しいもの。

 それを僕は探している。

 小説のため。

 小説家になるため。

 いや、そんな枠に収まるもんじゃない、きっと僕の人間的な成長にも、ひいては、その僕の精神的産物を受け取る読者にも関係があることなんだ。

 美しい。

 この、誰の手にも()れられていない、あるいは、貴重な自然とも重大なレッテルを貼られていない、近隣の住民にささやかに大切にされる、小さな幸福を得た森林。そのささやかな幸福の映しが、僕の心を癒す。

 表現されるものといえば、そういったものでなければならない。

 過度の装飾は興を削ぐ。

 かすかなる幸せよ、永遠なれ。

  

 

 二

 

 新しい生活に慣れるのには時間がかかる。

 家具の配置も頻繁に変えたし、寝る場所もよく変える。

 ゴミ出しの方法や、細かい条例の違いなんかも覚えるのに時間がかかる、

 そんな気の休まらない生活を続けていると、外はもう桜の季節になった。

 桜の並木が商店街から少し逸れていく道にある。

 そこは、あの、日本ナポリがある方だ。

 そういえば、と思った。

 あの海岸線には、引っ越してきてから、まだ一度しか行ってない。ひとまず当初の満足を得ると、後は生活の雑事や執筆の忙しさに追いやられてしまったのだ。

 僕は、買い物に行こうとしていた自転車を止め、そちらへとタイヤを向けた。

 その桜のトンネルの前まで来ると、僕の後ろからふと強い風が舞った。

 僕は風に揺れるざわざわとした桜の花をぼんやりと見ていた。

 何となく、僕は、自転車から降りて、その桜並木をよく見ながら行きたいと思うようになった。自転車から降りれば、ますます不思議だ。まるでトンネルだ。覆い被さってくる桜の梢たちが、抜け目なく僕を見ているような。

 僕はしばらくとぼとぼと桜並木を自転車を押して歩いていた。

 綺麗だ。

 昔レオナルド・ダ・ヴィンチが、火の燃える様を何時間見ても、壁の染みなどを注意深く観察しても飽きないと本で読んだことがあったが、まったくそうだなあ、と僕は思った。もちろん彼は科学的な根拠を持ってその自然的な作用を楽しんでいたのだろうけれど。僕の場合はただその桜の花の形が一枚一枚違ったり、風の揺れ方で一瞬で形が変わり、陰影のつき方が変わったり、それを桜の花一枚から桜の生一本の視点に戻してみると、まるで一つの印象派の美術品のように生き生きとした陰影の移り変わり、生気の(ほとばし)りを感じるから不思議だと思う。

 このまま数十分と眺めていたい気もしたが、僕は少々迷った挙げ句、海岸のほうへ出てみることにした。

 そこは、一ヶ月半前に来たころと様変わりしていた。

 いや、形は変わっていないのだが、様子が変わったというか、冬の海から春の海になったのだ。冷たく冬眠中だった海も、ようやく眼を覚ましてきたような(おもむき)がある。波は穏やかでカモメが舞っている。日光を受けて輝き、波がそれを穏やかに反射している。

 かすかな潮騒と、潮風。右に目を向ければ漁業船の集まり。左にはあの白い高級住宅街があった。

 ここの近くに国道が走っている。そこを真っ直ぐ行けば都会へと出られる。

 僕は自転車に乗って白い家々の方へ長い坂道を登っていった。

 すこし、疲れるな……。

 息を切らせながら高い所まで出ると、そこから海が一面に見渡せた。もともとここは山だったそうで、頂上付近まで登ると非常に見晴らしがいい。近くの島まで見えるほどだ。彼方には漁業船らしきものも見える。

 春の海だ。

 前に来たときは、来たぞ、という気持ちばっかりだったが、今回はそれにも増して、ここの住人になった、という嬉しさがあった。美しい場所の一部になる、それはどんなに嬉しいことであろうか。

 山の頂上には小さい公園があるが、そこには一部小さな芝生がある。僕はそこに寝そべった。どうせ誰も見ていやしない。

 目の彼方には透き通った水色の空と白く薄い雲が広がっている。太陽は東寄りの中天近くにある。陽光が眩しい。でも気持ちがいい。

 僕は笑顔になって息を吸い吐き、吸い吐きを繰り返していた。

 これから僕はどこへ行くのだろうか。

 ふと不安になる。

 この至上の幸福が、本来僕が(あずか)れるものではないような気がして、不安定な自分の身の上と照らし合わせて、ふと不安な気持ちになった。

 次の小説はどこへ行くのだろうか……。

 僕は見当もつかない。純文学とファンタジー、寓話小説を並行させて書いているが、僕は気ままに書く意欲が湧いたものから取り組んでいるからだ。

 小説の善し悪しとは何なのだろうか……。

 答えの出ない問いに足を踏み入れようとした瞬間、ふと僕は人の足音を聞いた。

 ゆっくりと体を持ち上げると、ここからちょっと離れたところに身分のよさそうな老婦人が犬を連れて立っておられた。

 こちらを見ているのか、見ていないのか定かではない。ふと挨拶しようと思ったが、彼女は犬ばかり見ているようなので、そのチャンスを見失ってしまった。

 僕が手を中途半端に上げたまま、戸惑っていると、彼女は近付いて、僕に話しかけた。

「こんにちは」

「え? あ、ああ、こんにちは……」

 そしてそのまま彼女は犬を連れて行ってしまう。そのまましばらくすると、何故か戻ってきた。

 彼女は何だか妙にニコニコしていた。

「ねぇ、お隣いいかしら?」

「え……ええ。どうぞ」

 僕が腰をちょっとずらすと、彼女はちょこんとそこに座った。

 服が汚れるのを気にしないのか。でも僕は何となく、品のいい人だな、と思った。

 彼女のシーズーらしき犬が、僕の膝の上に載って顔をペロペロと舐めてきた。

「まあ」

「……」

 なんだこの犬。

 そう思って顔を掴むと、犬は鼻をフガフガいわせて、「ぶしゅん!」とくしゃみをした。

「うわっ!」

「あらあらまあまあ、ごめんなさいね」

「いいえ……」

 ごめんなさい、私の鼻水舐めてあげるね、とでも言うかのように犬は僕の顔を好き放題舐め回す。僕の顔はアイスか何かか?

「もう、グーグー、ってば。知らない人にいきなりそんなことしちゃ駄目じゃないの」

 ひどい目にあった、と顔を拭っていると、彼女はニコニコと笑って僕にハンカチを貸してくれた。僕は戸惑いながらもそれを受け取る。

「あなたお勤めの人?」

「いいえ、違います」

「あらら。ごめんなさい。それじゃ学生さん?」

「それも、違います」

 僕は自分の年齢と職業を語った。職業ってったって……無職なんだけど。

「あらあらまあまあ」

 しかし彼女は、仕事のことに関してたいした関心は寄越さなかった。

「あなた二十三なの? お若いわねぇ。もっと年が上だと思ったわ」

「よくそう言われます。その、顔が大人っぽいからとか」

「そうねえ」

 彼女はニコニコと笑った。

「あなたの姿はとっても大人っぽいわ。二十三じゃないみたいね」

 僕は頬を掻いた。

 自分ではそう意識していなかった。

「お一人なの?」

「そうですね」

「?」

 いくぶん僕が悲しげに言うので、彼女は不思議そうに目を丸くした。

 少し風が出てきた。風は僕の髪を揺らし草を波立たせる。

「あまりここへ来てから日が長くないんです。でもここの場所が好きで」

 彼女は笑う。

「そうね。引っ越してきたのね。それにしちゃセンスが良いわ。わざわざここを選ぶんですもの」

 僕は目を丸くした。

 そして苦笑した。

「ここの場所、お気に入りみたいですね」

「そうよ。いつもグーグーと来るの。でもいつもここには誰もいないのよ。こんなに海がまぁるく綺麗に見えるのに。たいがいの人はここを数度見ると飽きるのよ。ほら、ここって登ってくるのに大変でしょう」

「たしかに」

「でもその甲斐はあると思うのよ。ま、私は少数派かもしれないけどね」

 つん、とそっぽを向く。ふて腐れているように。なかなか可愛い。

 彼女はこちらを振り返って微笑んだ。

「あなた、どこに住んでいらしゃるの?」

 僕は答えた。自分の住んでいる町を教えると、彼女は「ああ、あそこの」と笑った。

「よくスーパーに買い物に行くわ」

「こおろぎ堂ですか?」

「そうよ。変な名前よねえ。私も引っ越してきたとき、家族とくすくす笑っちゃったわ」

 僕は驚いた。

「あなたも引っ越されてきたのですか?」

「そうよ。前はもっとすごい田舎にいたの。あなたは東京からいらしたの?」

「え、ええ……荒川から」

「あら。浅草に近いところね。私あの近辺大好きよ。若い頃はよく遊びに行ったのよ」

 犬がバウバウと吠えて彼女の服を引っ張った。

「あら……もう行きましょうって。ごめんなさいね、この子ったらせっかちで。本当はもっとお話ししたいから」

 僕は不思議な感じがした。

「構いませんけど。でも僕の話はそんなに面白くないと思いますよ」

「あら。きっと面白いはずよ」

 彼女は立ち上がって、お尻の草を払った。

「だって、あなたってほかの人とすこし違うもの」

 僕は呆然としながら、去って行く彼女の背を見ていた。

「じゃあ、またね」

 と手を振る彼女に、僕も、

「はい。また」

 と手を振り返した。

 僕は、彼女がとても綺麗な人だということに、後々になって、気が付いた。

 

 バイトを始めることにした。

 以前からチャレンジを繰り返していたが、このたびようやくファミリーレストランのバイトとして雇ってもらえることに決定した。

 昼間はそこで働きながら、夜は読書と執筆を繰り返すという日がそれ以後続くようになる。

 僕は今、純文学小説を書いている。

 なかなか位置付けが難しいが、僕は、今までの過去の経験を主に取り扱って書いている。

 作家なら誰でも一度は思うことであろうが、自身の溜め込んできた経験や想い出を作品化してみたい。

 それによって、安らぎを得たいのだ。

 過去に犯した過ち。過去に受けた重圧。不幸。そして幸福などを俯瞰してみることによって、告白して、そこから縁を切るのだ。

 縁を切るというのはいささか語弊があるかもしれない。

 過去への慰め、新しい生活への希望、そういったものを得るために。

 過去への拘泥から免れるために、僕たちは過去のことを作品化するのだと思う。

 そうだ、これは、「懺悔(ざんげ)」に似ている。

 告白することによって罪から顔を離し、成長するのだ。

 

 

 三

 

 僕はペンを置いて嘆息した。

 もうすっかり暗くなってしまっている。日は延びたが、さすがに七時になると暗い。

 僕はキッチンに行って味噌汁とおかずを作りながら、過去の出来事を俯瞰した。

 僕は通常の、それほど幸福でもないただの一般的な子どもであったと思う。

 両親は五歳の頃に離婚した。僕は仲の悪い姉と、母方の実家に引き取られた。

 そこそこの良くない友達と出会い、良いことを覚え、悪いことを覚えていった。

 男ならば想うことの大体を想い、その大体を消化し、身に宿していった。

 そう、これは「不幸な」子どもの話ではない。

 ただどこにでもよくある、さして幸福でない、少年の話なのだ。

 僕は、自分が不幸であることを標榜するキャラクターを描く物語を深く軽蔑する。

 そういったキャラクターは全て正義の鉄槌で打ち倒されなければならない。ましてそんなおかしな人物が勝者の主役であってはならない。

 不幸を舐め合う人間関係は不幸しか呼ばない。不幸は慰め合うために存在するのではない。打ち倒してより幸福な人間になるために存在する。

 そこのところを勘違いしている作者の作品とは一緒にされたくない、と僕は小説を書きながら思う。

 料理が終わったから、食べる。

 僕は孤独だ。

 そう思うからこそ、僕はこのように孤独な職業を選んだのだし、小説という媒体を愛している。

 孤独であることを嫌だとは思わない。ただ人間との付き合いも悪いものだとは思っていない。

 人恋しくなることもある。

 でも、人の気持ちは僕にはどうにもできない。

 人恋しいときは、なるべく早くその気持ちを忘れてしまったほうが身のためだ。人との嬉しい付き合いは、忘れたころにやってくる。

 僕は親しい人間同士の付き合いというのを知らない。親友以上のものを、知らない。もしそれが、「家族」と呼ばれる性質のものだったら、僕はそれをはにかみながら何となく敬遠するだろう。

 だからだろうか、僕には、生涯の友と呼ばれる人間も、恋人と呼べる人間も、まだ誰一人とも、持ったことがない。

 

 僕は朝目が覚めて、布団の中から這い出た。

 しまった……。昨日電灯つけっぱなしで寝てしまったのか。うつらうつらとしながら小説を書いて、もう限界だ、と布団に横になったのが最後、力尽きて寝てしまったらしい。寝るつもりなどなかったから、僕は風呂にも入っていない。不気味に汗などもかいている。僕はとっとと風呂に入ることにした。

 天気はいいようだ。窓を開けると風が涼しい。

 そろそろ涼しい風もなくなってくるのかな。カレンダーを見るともう六月十六日。

 僕は髪を乾かしてから食事を作り、弁当を作って家を出た。

 ファミリーレストランでのバイトだ。レストランといっても大手チェーン店ではなく、四十九の大橋鏡子さんというぽっちゃりとした女性が個人で経営している店だ。アルバイトも僕含め六人しかいない。しかもその半数は主婦だ。

 こう思うと客なんてあまり来ないと思われるだろうが結構来る。鏡子さんの手腕が生きているのか、この不況な現代でも、家族連れのお客さんがニコニコ顔で来る。時には満席でお店に入れないお客さんも出てくるぐらいだ。

 彼女は料理人としても一流で、僕が是非このお店で働きたいと言って伝えた熱意も、彼女が作ってくれたオムライスが熱源となっている。

 僕がお店に裏から入っていくと、鏡子さんが朝からニコニコ顔で調理していた。

「おはよ、向島(こうじま)君」

「おはようございます」

「着替えてきたら掃除ねー」

「はい」

 バイトの朝は掃除から始まる。

 掃除をしないと何事も始まらない、というのは鏡子さんの言だ。確かに正しいと思う。

 それと鏡子さんは接客にとても厳しい。僕も東京でそれなりに接客に厳しいところで働いていたのだが、ここの比じゃなかった。

 彼女が言うには接客は気持ち、だそうなのだ。

 真剣にお客さんに向かわなければ、どんな綺麗な言葉遣いでも、どんな丁寧な姿勢でも、それは良くない接客だという。

 基本的な作法を教わった後、僕は掃除を教えられた。

 料理のこととなると全く門外漢なので、料理もやっぱりするんですか、と聞くと、彼女はちょうどいいじゃない、覚えるチャンスだよと気持ちよく笑った。そんな彼女にはとにかく料理センスがないと批判されっぱなしだ。

 彼女の他には一緒に主婦さんと働くことがある。こちらの主婦さんは鏡子さんの片腕で、料理の腕もずば抜けている。

 主婦の他には女子大生と女子高校生がそれぞれ一人ずついる。彼女たちとはあまり会わないが、会ってから、歳が近いせいかすごく仲良くなったのを覚えている。

 休憩時間に、鏡子さんに「ねぇ、詩を書いてよ」と言われたことがある。

「詩、ですか?」

「そう。向島君って詩は書かないの?」

 彼女ら全員には僕が小説家を目指していることを伝えてある。

「書いたことはあります。ですが、あまり上手くありませんよ」

「あのさー、私、リクエストしていい? とびきり上手くなくてもいいからさ」

「どうぞ」

 妙なことになったな、と思いながら僕はメモ用紙にペンをつけた。

「まずね、少年なの。歳は十七から二十一くらい」

「かなり詳細ですね」

 僕は笑った。

「くら〜い感じで、でも美形で。そうね、あと黒い服を着てて。リストカットとかしてる感じ? 友達はいなくて。あ、でも、親友は一人だけいることにして。彼は学校行ってない感じなのよ」

「ふむふむ……」

 僕はメモを取って、ふと思った疑問を口にした。

「この子って、不登校ですか?」

「そういうことにしてもいいわ。その辺は向島君の自由よ」

「はあい」

 僕はお茶を飲みながら言った。

「この子が主人公の詩を書けばいいんですね」

「そうでもいいわ。逆に第三者視点から書いてもいいわよ」

「なるほど」

 僕は想像を膨らませた。

 後日、僕は実際にそのイメージを頼りに詩を書いてみた。

 その男の子は引き籠もりで……現実に価値を見出せなくて、次第に、夢の中にだけ現われる親友に想いを募らせるようになる。

 そうして、夢と現実の見境が徐々に無くなっていき、そして、彼に会えない無明な時間自体を、排除するために、リストカットして自殺するというストーリーだ。

 決めゼリフは、永遠に目覚めなければ、君とずっと一緒に遊んでられるだろうか……だ。

 あまり錯乱した気持ちは描きたくなかった。徐々に現実と夢の区別がなくなってくる自分を、彼自身どこか遠くで見つめていて、それで諦めている。そんな理性的な絶望感を描きたかった。

 詩が上手でないので、読み手にかなり「読み」を要求するような仕上がりになってしまったが、緊張しながら鏡子さんに原稿用紙を渡したとき、反応は上々だった。

「これうち帰って読んでみるわ」

 そう言って仕事を終えた次の日。恐る恐る感想を聞いてみると、

「こんなのわたし書けないわよ」

 と言って笑っていた。どうやら詳しく聞くと、詩を書く勉強をしようと思っていたらしい。

「でも、いいよ。ずーん……と来る。わたしこういうの好きなんだよねー。救いがない、くら〜いの」

「鏡子さんは何か本は読まれるんですか?」

「ううん、全然」

 鏡子さんは笑った。

「何とか独学でやってみるわ。これ参考にして」

「作ったら見せてくださいね」

「わたし、きっと詩の(かたち)成してないの上げてくると思うよ」

 鏡子さんはそれ以来ぱたりと詩の話をしてこない。飽きてしまったのかもしれない。

 楽しみにしているのだが。

 僕の非常に残念なことの一つは、近くに文学を語れる人間がほとんどいないことだ。

 あるいは、それは、小説家にとって非常に幸福な環境かもしれないが。

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