5月13日

【今日も一人散策をしました】

こんばんは。どむとむです。

今日は荒川町屋から歩いて、谷中霊園まで行きました。

まずは京成線沿いに日暮里まで行こうと思い、高架線沿いの道をぶらぶらと歩く。

すごくいい体験でした。都会って、すこし繁華街を離れると、あんなにも静かになるもんなんですね。

さわさわと、風に葉が揺らいでいる音が、ぼくの耳に届く一番大きな音でした。

木陰がいい感じに道端に映って、レンガ調の古い家を見上げたとき、ぼくは、なんか小説的な世界に迷い込んでしまったのかと、錯覚しました。まるでジブリ作品の『耳をすませば』でした。

それからやや歩くと、子どもたちの駆ける声が聞こえてきます。

そこは小学校でした。西日暮里第なんたら小学校。数字がいくつだったかは忘れてしまいました。

本当にとてもいい経験でした。これは小説を書くための、いい滋養になりました。子どもたちと、それを連れて歩く、ボランティアのおじいさんたちは、とても楽しそうでした。下校途中に、歌を歌って、歩きながら、おじいさんは手で指揮を執っていました。

ぼくはずんずんと日暮里方面へ歩き、いろいろな道(たとえば、都電の線路を横切ったり、あるいはそのフェンス沿いの道を歩いたり、やや薄暗い、静かなトンネルの中を歩いたり、長い階段を登ったり)を進んでゆくと、やがて、西日暮里駅上の、谷中のとあるお寺につきました。

そこで下の路線を見下ろした景色は、素晴らしかったです。

坂のようになっているところに、タンポポなどの花が咲いているんですよね。風に乗ってそよそよと揺れていて、綺麗でした。

そこからさらに歩いて、日暮里駅方面へ。

たどり着くと、でかいタワーが建っていてびっくりしました。まるで、空に浮かんだ箱みたい。圧巻でした。

それから谷中霊園へ。

どこを行っても、墓、墓、墓。正直広すぎるよ(笑) さすが谷中霊園。壮大でした。

ここでも、ふとあることに気がつきます。

それは、やはり一番うるさい物音というのが、風に揺れる葉っぱの音だということです。

それ以外はなにも聞こえないのです。時折、カラスの鳴く声がするくらい。

ここは本当に都心なのかと疑いました。お墓の前の、ちょっとした塀に座って休むと、いい気持ちになりました。

さらにそこから歩く。

ぼくは、そろそろ疲れたので、「パティシエ イナムラショウゾウ」に行きたいと思っていました。

そのために上野桜木町方面に出ようと思ったのですが、……迷ったw

欲をいって、徳川慶喜様のお墓を一目見ようと思ったのが間違いでした。

どこ、ここ? 状態。

周り、全部墓。墓。墓。あとは森。道しるべはカラス。

二十分くらい歩いて、ようやく言問通り方面の、あの桜並木へと脱出できます。そこから言問通りをぐんぐん歩いていって、ようやくパティシエ・イナムラショウゾウに到着。

そこで520円の上野の山モンブランを買って食べたんですが(たけぇ)、もう、「ウマ――――――ッ!?」と、衝撃が走りました。びりびり電撃が走りました。それくらいびっくりしました。めちゃくちゃうまかったです。また今度も行きたい。

あそこの店の前のベンチに座って食べると、いいんですよ〜……あそこもちっちゃいけど桜並木があって、本当に綺麗なので、東京荒川区、台東区あたりに住んでいる人は、絶対お勧めです。

それから寛永寺に行って、そこの近くの幼稚園で遊んでいる子どもたちを見ていい気分になると(お寺の前に幼稚園って、すごかった。でも幼稚園の前がめちゃくちゃ広い広場と、あとはすごく古くて大きい樹木があったので、すごくいい環境だと思った)、それからまた谷中霊園へと引き返し、日暮里駅方面へと帰りました。

途中、ものすごく静かで見晴らしのいいスポットを見つけて、すこしそこで東京の街を眺める。

すこしすると後ろから、むく犬を連れた老年の大工さんがやってきて、大きいカメラを持って、ぼくの隣に立ちました。

七月いっぱいで無くなってしまう、京成スカイライナーの、旧車両を写真に納めに来たそうです。

ぼくたちはすこし話しました。

彼は、ぼくが小説家を目指していることを知ると、すこし自分の知っている知識について話してくれました。

ぼくはそのおじいさんが好きになりました。なんだか気分のいい人でした。

彼とその犬と別れて、ぼくは日暮里駅方面に向かいました。

日暮里駅前の、広場にたどり着いて、そこにドトールカフェがあったので、そこですこし休憩。

本屋に寄ろうかと思ったけど、近くに本屋が見あたらなかったので、そのまま京成線に乗って帰りましたとさ……。

とてもいい経験だったと思います。「頭、スカッとすんだろ?」とぼくに言って気やすく笑う大工さんは気分がいい人だったし、「そうだね」と笑い返すぼくも、なんだか本当に、小説家を目指して、いい結果に終われるのだろうと、予感することができました。

谷中はやっぱり谷中でした。

センスのいい街で、食べ物はおいしいし、猫はいるし、静かだし、森はたくさんあるし。

でも、ぼくはやっぱり、自身は荒川の住人だと、再認識するに至りました。

やっぱり荒川は捨てられない。ぼくの心は荒川にある、と考えました。

荒川いいよ。本当になにもないのどかな街だけど、ここがぼくの知っている、日本の本当の街、って感じ。他はどこか、ぼくの心から離れている感じがする。

そんなことを思った、休日のある午後でした。

それでは。また。


 

5月12日

【夜が明ける……】

本を読んで、小説を書いてたら、自然とこんな時間になるってもんさ……バイト帰ってくるのが十二時だからね。

ただいま、空がかなり明るくなってきています。明日休みです。明日はゆっくり、東京を旅でもしようかと思ったんですが(小説次回作なら書き終えた。あとは簡単な推敲だけ)、今日寝るのがこんな時間じゃ、明日は起きるのが昼頃になりそう。わーん。

うーん。

はっ。

zzzzz.....

はっ。

という、この危険なパターンが多いんですよ。パソコンの前で。危ういですよねー。

面白くも何ともない雑記でしたが、これにて就寝。寝ます。

その前に明日用のご飯焚いて、お風呂入らなきゃー^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ぐわー 

追記

拍手が二人の方から来てましたー。さんきゅっ!


5月11日

【新しい境地が開けそう】

いま書いている新しいオリジナルSSで、また一つ壁を超えたかもしれません。

嬉しいですよね。こういうの。自分が成長してるって実感するのは。

まだまだぼくは上手になれるし、きっと、人生の成長過程を、百のレベルに区切ったとしたら、まだぼくは、レベル九くらいにしかなってないと思うので。まだまだ先は長いよー……

 

小説を書くのが苦しくなるくらい、小説に溺れていたい。

いやっていうほど、小説人間になりたい。

あいつはキチガイだって言われても、もしそれが小説のためだったら、ぼくはだいぶ気楽かもしれない……。

はーあ。はやく明日にならないかなぁー。

 

あっ、そういえば、今日はたくさん拍手が来てましたよ。なんで? どうして?

みーんな、じっくり見させていただきました。ありがとう! とっても嬉しいです! またよければ遊びに来てください! 


5月10日

【寝よう】

はやく寝てしまおうと思います。明日は学校だー♪

はぁぁ……(落ち込み

なんだかもやもやです。このもやもやを解き放って、新たなる自己となるためには、私は小説を書かなければなりません。小説を書きまくらなければなりません。おおっし、書くぞー!

でもそのために体力つけるために寝るっ!

ばいばいきーん!


5月9日

【お疲れさまです】

はぁー……。お疲れさまです、って自分に言ってあげたい気分。疲れたよー。

次回作、ガンガン書き上がっていってます。今日糸音さんと話して、70KB以上でも全然オッケーとの許可をもらえたので、ほぼ自由に書いてます。

やっぱり表現物って、自由に書いたほうが精度が良くなるから。自由に書けて嬉しいです。

いつか、本当に自由なものを書いてみたいと思います。

それは、同時に、真実だけを記した小説になるでしょう。

私は、真実だけしか、小説に書き表したくないと思うようになったのです。なったというか、なっています、今。

それは、創作物語でも、いいっちゃいいんだと思います。その中で記されているのは、ぼくらが現実世界で経験したことの投射だから。

でもいつか、真剣に戦うような小説を書きたい。

ぼく自身の本質をそのまま書き記すような、痛みや苦しさ、嬉しさ、喜び、不幸、幸せ、すべてを内包した、悲しみと希望の小説を書きたい。

それはたいしたことのない作品になるかもしれない。

でもそれで、ぼくはまた新しい境地へ進めると思うし、恥をかくのは、またその先へ進む一番の良薬だから。

ばいちゃ。

追伸

その前に真人×小毬を書くよー。もうちょっと待っててねー。


5月8日

【今日こそ早く寝る】

昨日は早く寝るなどと言っておきながら、なぜか就寝が朝の五時になるという大暴挙をしでかしてしまったので(なんでやねん)、今日は絶対に二時までには寝ようと思います。

おれ、この日記書き終わったら、朝七時の朝日が見られるように頑張るんだ……(頑張れば?

というわけで、簡単に日記書いちゃいます。

うーん……とくに、書くことはなにもないのですが(本紹介もまた今度にしましょう)。

今書いているオリジナル小説ですが、ちょっと、注文とは違ったものになってきている予感……

糸音さんにはだいたい容量が30KB(メモ帳で)っていってたのに、今気がついたら70KBになってた。オワタ。

しかもまだこれで半分だっていうね^^^^^^^^^^^^^^

物語的にまだ半分なんですよ^^^^^^^^^^^^^^^^^^すみません、なんていったらいいか……。

明日会ったときに、許してくれることを祈りつつ……今日は寝ます。

はー、べつに余計なこと書いているつもりはないのに物語が長くなるのはなんでかな。

すみません。戯れ言でした。ばいばい。


5月7日

【今日ははやく寝るぞー】

と思っても、ちょっと哲学熱が上がって来ちゃったので(詳しくは拍手レスページ参照)、すこしここでまた本を紹介しようと思います。

べつにぼくは哲学者なんかじゃないんですけどね。小説を書く上で哲学書もよく読むので。

アルトゥル・ショウペンハウアー / 自殺について(他四編)

ショウペンハウアーはドイツの哲学者です。1788年、ダンツィヒの富裕な商人の家に生まれました。

ショウペンハウアーの代表作といえば、『意思と表象としての世界』が有名ですよねー。ぼくはまだ無学ですので、そちらのほうに手をつけたことはありません。こちらの『自殺について(他四編)』から手をつけました。

ちなみに、私のリトバスSSの『悠久』では、来ヶ谷さんがこれを読んでます。

そのときは「自殺」をネタにした、滑稽なギャグシーンでしたが、べつにショウペンハウアーは自殺を奨励している人間ではありません。

といってもまた、自殺を絶対的に否認しているわけでもありません。ちょっと厭世的で、消極的な世界観ですが、彼から学ぶことの多かった「生死観」は確かに今の私の中にも流れています。

ショウペンハウアーは、ようするに(私は自分流にこう解釈していますが)、「死」を絶対的な終末と位置づけるのは止めなさい、と、こう言いたかったのだと思います。

もちろんそれは、彼流の哲学的な観点からみても、誤りだとして非難されます。

ここからちょっと難しい話になりますよ。(記憶があいまいなので、厳格にみると間違っているところがあるかもしれませんが、大筋はこうです)

彼はカント的な哲学用語でこう説明します。まず、この世界には現象と物自体という二つのものが存在します。現象というのは空間的、時間的に制約された物質的なもので(たとえば、机)、逆に物自体とは、それ自体なもの、つまり、机だったら机自体、人間だったらその自己、観念的で目に見えなく、また、ぼくらの認識範疇の外にある永遠的な存在です。

ぼくら人間にこの概念を当てはめると、現象がぼくらの「肉体」、物自体がぼくらの「自己」ってことになると思います。ここで考えてみてください。たとえば机は、時間的な制約を受けて仮にその身を摩滅させても、机自体は無傷ではありませんか? 「机」という、時間的、物質的、空間的範囲からのがれた、その概念そのものは、いつまでたっても消えることはないのではありませんか? 

彼は(僕の勘違いでなければ)こういう考えで、私たちの死後の状態を彼なりに説明したのです。つまり、ぼくらの「自己」は不滅であり、ただぼくらの「死」は、現象としての「死」である。物自体としての「終末」ではないし、そもそも「僕ら自身」という存在の終末はない。彼流に言わせると。

だから、死を絶対的な終末だと考えて、あたふたするのは止めにして、もっと穏やかに生きなさい、と、解くのがショウペンハウアー。たしか「他四編」に含まれる『我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて』という論文の中にこのことが書かれてあったと思います。

表題の『自殺について』は、じつは短いもので、ページ数もそんなにありません。

ただそこで書かれてあるのは、自殺を罪としているのは、唯一ユダヤ系の流れを汲んだ一神教の宗教のみで、これは実におかしいし、また根拠もない、という批判です。

「自殺」は一種の逃れであり、また、同時に自主的な「完結」でもあります。

この世の一番幸せでないことってなにかっていうと、自分の決まったやり方で死ねないこと、自分の好きな日に死ねないことだと彼は言ってるんですね(多分

自殺はそれだけで苦しいものだし、痛いものであるのに、そこにさらに追い討ちをかけるような、キリスト教やユダヤ教の僧侶たちの罵詈雑言は絶対におかしいし、私たちはいつも、自殺にした友について、その行為に対する罪責性を追求したくなるのではなく、一種の哀愁と、死を悼む気持ちに包まれる。それが本当だろうっ、って僧侶たちを叱っているんです。

べつに自殺を容認しているわけではなく、自殺は自殺として、もっと真っ正直な気持ちで受け止めなさいよ、と叱っているわけです。

ここからぼくの個人的な意見になりますが、べつに、ぼくは、百パーセントショウペンハウアーに賛成するわけではありません。

自殺はしないよりしたほうがマシ、という状況になるのは人間相当限られてくるし、それは、むしろ、そんなことを哲学的に考えられるほど悠長な状況ではなくなってると思うんですよね。

自殺の容認性っていうのは、そもそも、ひどく個人的な世界観において確立する考え方だと思うんです。

ぼくたちは人間であり、人間は社会的な動物です。

ショウペンハウアーの考え方は、ひどく個人的で、若干そんな社会的関係を嫌っている、というか、俗っぽいものを「良くないもの」と見なしている厭世的で消極的な見方があると思います。

それは間違いではないし、すくなくとも真理をたくさん含んでいるかと思うんですね。

でも、論理はそこからさらに発展させることができるし、ぼくにはうまく言えないけれど、ぼくたちの精神は、もともと、ほかの(やや不自然な)社会的規律、慣習、道徳、すなわち自然的にぼくたちの心から湧いてこないもの、良くないものをある程度受け入れられるようにできているんですね。

だから、真理を追究するに関しては自由だけど、「自殺」という概念については、まだ、やはり、個人的に考えすぎるべきではないと思うんです。

真っ正直な気持ちで自殺を受け止めるべきなら、ぼくたちは、「自殺」を恐ろしいものであると思うし、また、他者にすこし迷惑をかけるものだと思う。(死体の片づけとか、残っているものの処分とか、悲しみとかね)

でもまた、別の方向で、とても安らかな眠りをもたらしてくれる、「最終手段」とか、「母のやすらぎ」のように考えることもある。

ぼくたちの考えというのは、そんなに主義主張、または真理に凝り固まったものではなく、感情にやや左右されると思うんですね。

状況によっては、家族や痛みのことを考えるだけで、踏みとどまることができるかもしれないし、あるいは、それでも踏みとどまれないことがあるかもしれない。

ぼくの考え方はこうで、ショウペンハウアーのものとは、ちょっと「死に対する接近性」と呼べるようなものが、違うと思います。ぼくのイメージからすると(これも間違っているかもしれないけれど)、かれの「死に対する接近性」は、ぼくよりもちょっと近い。

それが逆に、ぼくのこの前の理論からいわせると、真に「生きている」ということに繋がるかもしれないけど、どうなのかなー。やっぱりショウペンハウアーのほうが頭いいからな。そっちのほうが合ってるのかもしれない。

どっちにしろまだまだぼくは頭悪いし、勉強していかなければなりませんね。ばいきゅっ!


5月6日

【今日は休みだったのですが】

なんだか連日の睡眠不足がたたって、一日元気が出ませんでした。なので、一日自分の住んでる町にいました。ぶらぶら出歩くことはできませんでした。その分執筆はちょっと進みましたけどね。

でも頭痛い……。

ところで、映画の『ショーシャンクの空に』を見ました。

       

この上ないほど有名な映画ですが、じつは今まで見たことなかったんですよねー。でも、すごくいい映画でした。やっぱり今まで見なかったことを後悔しました。

なんだろう。ものすごい勉強になった作品。っていうのかな、心にしっかりと残った良作でした。

ぼくらのような物語作家って(全員じゃないと思うけど)、やっぱり物語を見るときは、ある程度「読みつつ」視るんですよね。

つまり、どういうことかというと、序盤である一種の展開が見えたら、そこから次の展開を予想するんです。

展開というものには、ある一種の「道」があります。なんでもいうでしょ。「茶道」でも「柔道」でも、「剣道」でも。たいていこれが正解、という展開の仕方というものがあるのです。

だからぼくも、ある程度読みつつ「この展開来たら、次はこうだろ」とか、

「ここまで展開引っ張ってきちゃったけど、次はどうするわけ?」とか思いながら映画を見ていたんですが、

ことごとく予想を裏切る展開で、たいして目立った動きもない淡々としたストーリーだったのに、すぐに引き込まれてしまいました。

ショーシャンクの空の感想を考えると、必ずぼくの頭の中に浮かんでくる言葉があります。

それは、「新鮮」だということです。

もう十五年くらい前の映画なのに、今でも新鮮な気持ちで視れるのです。なんだろう、これは。今現在突っ走ってる流行の作品のどれよりも、これが一番新しいし、生き生きしている。

どんなにぼくが次の展開を「読もう」としても読み切れない、まったくぼくが知らない観点から物語が作られている。なにか圧倒的なものを感じました。

ぼくもこのようなレベルの作品が作れるようになりたい……と、改めて感じました。自分はまだまだあと二十年、三十年くらいはチャレンジャーであれそうです。やっぱり物語というものは奥が深い。どこまでも道が続いていました。

さて、それ(物語自体)とは無関係なことなんですが、やはりモーガン・フリーマンの演技は最高でした。

かれ、本当に好きです。なんであんなに素晴らしい演技ができるんだろう……モーガン・フリーマン、ラブ。

すごい特技を持った人は好きです。かれの演技には熱意と誠意とお茶目があります。すばらしく洗練されている。

「すごい」とか、「素晴らしい」とか、「かなり」とかいう陳腐な褒め言葉しか出てこない平凡なぼくの頭を叩いてやりたい……痛い。

ショーシャンクの空、いつか必ず(部屋のスペースとお金に余裕ができたら)購入しようと思いました。今回のはレンタルだったんですよねー。

いつまでも取っておきたい作品でした。それでは、また。

あ、拍手二つ、本日は届いていました。ありがとうございます(^_^)


5月5日

【子どもの日】

でした。バイトが超忙しかった……みんな、ゴールデンウィークも終わりだから、遊び納め、なのかなぁ。と、しみじみ。疲れたことには疲れたけどね。

「Ende」が集結したので、いまは新しいお話を書いています。こちらはかなり重要なお話、なぜ重要なのかというと……じきに明らかになるでしょう。

でも、ほんとにうまくいくのかなーっ(>_<) なんだか、直前になって「あの話はナシで」って言われそうで不安、不安(>_<) きっとそんなことはないでしょうがー……。

眠いのでそろそろ寝ます。

糸音さんへ。

お仕事お疲れさまです。こちらは執筆進めてます。たぶん十日ぐらいまでにはなんとか目処が立つと思います。

ばいにゃー。

追伸

拍手ありがとうございます! 受け取ってます!


5月4日

【お休みだったー】

今日は久し振りに一日なにも無い日だったので、お昼から東京を散策しました(昼まで寝てた)。

まずは日本橋へ行って、適当に散策。三越デパートに何の気なしに入ってみる。

なんか催しもののようなものをやっていました。それを二階の紳士服売り場から見下ろす私。ふと目に入ったお店の先にある白いズボンの値段を見てみると、なんと四万八千円! 

ひょぉぉぉぉぉぉ……! と、顔を真っ青にして、逃げていきましたとさ。直後品の良さそうな店員さんが現れて、ぼくは「危なかった……」と思いました。なにが危ないのか。臆病な私です。 

それから屋上に行ってぶらぶらしてみたり、またデパートを出て、迷子半分、散策半分の気持ちでぶらぶらと通りを歩いていくと、手頃なラーメン屋さんが目に入って、「入ろうかしら……」と思っていると、お店の中で暇そうにしていた店員のお兄ちゃんに、「どうぞー」とか言われて、どぎまぎ。「今、タイムセールやってるんですよ。つまりね、このお値段だから、葱を少なめにして、チャーシューを一枚にして……」と突然聞いてもいない説明が始まる。

ぼく、こういうの苦手なんですよね。

入るしかなくなるから……(泣

ラーメンはつけめんを頼みましたが、別に普通の味でした。

それからまたその周辺をぶらぶら。神田駅方面に到着してしまう。

それから秋葉原、お茶の水方面に歩いていき、神保町の古書店街に到着し、そこで本を漁る。

ぼろぼろだけど面白そうな本を二つゲットして、帰る。

帰るときになって、ふと「FFVIII」のサントラがほしくなる(なんでだろう……)。

急遽、秋葉原のブックオフへ。

神保町から都営新宿線に乗って、岩本町にまで行き、そこから徒歩数分。ブックオフ秋葉原店につくが、在庫なし……orz 諦めてそのまま手ぶらで帰りましたとさ。

まぁ、いつか手にはいるでしょう……。

そうして、先ほどニコニコ動画のFFVIIIBGM集を聞いて、ひとまず満足する。ちなみに夕飯は町屋の「かくれん穂」で取りましたとさ。

大盛り=厳禁、ということを今日学んだ私……絶対もう大盛りにしない……途中で飽きるし食べるの大変だった……

なんだか無益な行動を繰り返してばかりの本日でしたが、気持ちはだいぶリラックスできました。

そういえば、ずっと今まで書いていたファンタジーSSの「Ende」がついに終了しましたね。一応あれで終わりです。続きは、機会があったら書きます……。一応、構想はかなりきちんとあるんだけどね。機会があったらね……。

今日からちょっと、糸音さんと約束している小説を書きます。あともう一人素晴らしいゲストさんが企画に乗ってくれているんですけど、ここではまだ秘密……。

えっと、あまり挨拶できてなくってすみません。あとでチャットをやるそうなので、そちらで、それまでに書き上げた小説をお見せすることになると思います。う〜ん、楽しみ……。

追伸

拍手を送ってくれた方、ありがとうございました。私、こういうダメな性格ですので、よくお礼を言うのを忘れたりしてしまいます。感謝しているのに……。

拍手、ちゃんと見てます。ありがとう。力になります。


5月3日

【いみがわからない】

エンジェルビーツ・第2話見た感想。……ほんとに。

い、意味がわからない……ごめんね。べつにマエダジュンさんが嫌いなわけじゃなくって、むしろ好きなんだけど、こういった感想しか出てこなかった……。

う〜ん……(^_^;) どうなんだろうなぁ……。マエダジュンさんの評価がぼくの中でどんどん下がっていく……もっとも、彼だけじゃないでしょうけど。アニメの製作に関わっている人は。

物語の好みによるような問題じゃないと思うんですよね。正味な話。彼、才能ないんじゃないだろうか。物語作者として。

どうしてもプロになりきれてないところがあると思う。このアニメが、アマチュアの作品だったっていうなら、すごく納得できるんだけど。

キャラの描写や表現の仕方が適当すぎる……たとえば、二話のシーンの、ゆりの生前時代の回想シーンで、「私の家は裕福だった。まるで誰かの別荘みたいだった……」っていうセリフがあるけど、実際にそんな豪華な家に住んでいる人はそんなセリフを言わないし(当たり前でしょう。別荘って何だよ)、過ぎ去った過去を思い出すなら、それは(信念を持って生きている人からしたら)若干の苦みと笑いを持って思い出されるべきであるし、ましてや同情を誘うような回想話は真っ先に嫌うはずなのに、そうではない……。

主人公の男の子も、そんなゆりを見て、「すごいな……」とか。いやいやいや、「すごく」ないでしょ。あんた。ってびっくりしてしまいました。

思うに作者さんは、一貫した「キャラクター性」というものが一体なんなのか、わかっていない。

そもそも「神というものに立ち向かいたい」というゆりっぺですが、その理由が「理不尽に家族を殺された」というものであるにもかかわらず、人の姿をした天使にナイフを向けて殺そうとしているようじゃ、それは矛盾というものだし、そんな自家撞着に気づいていないようなキャラ設定にするなら、もっと精神が不安定なキャラクターとして描写するべきだし、そちらのほうがわりと過去の話と、信念との話によく似合う。

そして、そんな強い信念を持ったキャラクターなら、まず他人との協力よりも孤独を選ぶはずだし(なぜなら信念を持った人間はまず人との交流をさえわずらわしいと思うし、「神に立ち向かいたい」という信念はどんな過去があるにせよ一般には受け入れられ難いから)、そういった孤独に傾きつつある「間違い」を仲間に正されたエピソードが前日談としてあるなら、必ずそこから生まれた一種の恥じらい、誇り、仲間を大切に思うことのしるし、自らの過去と信念がそう大事なものではないと苦笑する行為が必要だし、それがなされないと、まるでわけがわからない、統一感がまったくない、要素が乖離した謎のキャラクターになってしまう。

アニメの企画が初めてだから、手探り状態でやっているのかなぁ……と、同情してみるけれど、まぁ、マエダさんのキャラ描写は、なんだか本人も楽しくやっているようであり、それ自体としての狙いもあるようなので、ぼくは冷ややかな眼で終始見ることになりそうです。

 

世の中にはいい物語と、悪い物語があり、私はそれをはっきりと認識しているつもりです。もちろん、その私の認識が絶対に正しいというわけではないんだけど。

ここでは皆さんに良いほう(と、私が個人的に思っている)の物語をご紹介しましょう。

と、いっても、これはただの一例だけど。

ノルウェイの森です。

村上春樹 / ノルウェイの森(上・下巻)

村上春樹の作品です。とても有名な作品ですね。

本当はこちらを紹介するだけにして、エンジェルビーツの感想はさっと終わらそうと思っていたんですけど、わりと言いたいことが多くなってしまってので、ええと、すみません。

村上春樹は1942年1月12日に、京都府京都市伏見区に生まれました。海外でも高く評価されている作家であり、その実力も確かにそれほどのもの。ぼくは初めて村上春樹をこの『ノルウェイの森』で知ったのですが、普通に楽しい小説でした。

この小説を読んでみて、「おおおぉぉぉーっ!」とよく感銘を受けたわけではなく、ただ純粋に、小説を書くのがすごく上手だな、と思いました。この作品の面白さは、ある種存在する(小説を書いたことがある人ならわかる)、作者の関知しない奇跡として読者に不思議に賞賛されるものではなく(ぼくはこう思うんですけど)、ただ純粋に、卓越した小説の技能によって、受け入れられていると思うのですね。

ぼくは好きですよ。こういう小説。好きっていうだけじゃなくて、物語の精度としてもものすごく賞賛できる作品だと思う。

最後、ちょっと結末の意味がよくわからなかったし、終盤は結構まんねり気味で、ぼくだったらここはこういう展開にするな、と思った部分もいくらかあったんですけど、常に物語の中に流れている思想は、とても教養高いものだったし、センスがよくって、美しい。

とくにこの作品の中に流れている「死」に対するイメージ。そして主人公・ワタナベの死に対する考え。これはよく「真理」をついており、やっぱりこういう人はよくわかっているな、と感心したものでした。

それはつまり、死は「生」の反対側に位置する概念ではない、ということ。

生と死は、どちらか一方で独立して存在しているわけではなく、いうなれば「一緒のもの」。同じ存在に同様にくっついているものであり、どちらも切り離しては考えることはできない。

これはまさしくその通りであって、ぼくも同じ意見です。まぁ、「真理」といいますか、ただの道徳的な観念なんですけどね。つまり、こういうふうに考えたほうが人生うまくいくし、ずっと幸せに生きられる、ということです。

死ぬことなんて、本気で生きている人間には、あまりたいしたことがないのです。やることをやって、人生に飽きたら、とっとと「さよなら」を言って、死んでいく。なかなかセンスのいい生き方じゃありませんか。死ぬ意味を知るということは、生きる意味を知るということであり、死を間近に考えて生活している人は、それは「生きている」ということに他ならないことです。

その考えは古代の哲学者セネカやドイツの哲学者ショウペンハウアーも認めている、れっきとした哲学的な思想の潮流なのです。村上春樹はこの点をよく勉強しているな、と思いました。

キャラクターの表現の仕方に、微妙な臭さが認められながらも、キャラクターは全員美しいし、生き生きとしていて、読んでいてなかなか楽しい。

文学的なキーアイテムもそこかしこに散らせていて、グッド。さらに表現の仕方も上手だし、キャラクターの思想をよく継いでいる。

こういうのが、少なくとも「良い」作品だなぁ……、と、しみじみ、今思っています。

エンジェルビーツは……一部一部は面白いんだけど、なんだか、作者がひどく子どもっていうか、子どもが作った穴だらけの紙芝居を見ているようで、途中で苦笑してしまうもの。統一感ははっきり言ってしまうと、最低限維持してほしいレベルの三割程度。まぁ、ぼちぼち……。

ぼくはあの、ハルバード持ったやつ(なんでハルバード?)が好きなんですけどね。あとTK(英語喋ってるときだけ好き。日本語喋らせるなよ)、それとシイナさん(これが孤独主義者で、隊からちょっと離れて単独行動している隊員だったらすごく良かった。が、それだけ勿体ない)、そして主人公の男の子も、まぁわりと好きなほう。今のところは。

どうなることやら……なんかエンジェルビーツ見る度にこんな批判っぽい感想書くことになりそうで弱ったな……見るの止めようかな。それとも我慢して、批判しないで素直に見ようかな……う〜ん……。

とにかく、今日はもうこれで終わり! バイバイジャーニー!


5月2日

【ロードオブザリング】

DVD借りてきて見てます。実はあまり時間がないので、朝ご飯食べるときなどの、ちょっとした合間です。約20分くらいずつ。

いや〜……なんだか、卯月ちゃんとロードオブザリングの話をしていたら、急に見たくなってしまって。ぜんぜん見れてないんですけどねー。

というか、そんな暇あったらエンジェルビーツ! エンジェルビーツ! とっとと見ろって話ですよね……たはは。いちいちネット繋げないといけないから面倒で……休みができたら必ず見ます! みんなに約束します!

ロードオブザリングの映画版見ましたが、「なるほどなぁ……」と感じました。あの偉大な「指輪物語」の世界を表現するのはこんなにも難しいのか、と感じました。原作既読者からすると、やっぱり表現し切れてないところはあるけれど、やっぱりあの映画は「ロードオブザリング」であると思うし、これだけでももう十分立派なもんだと思います。とても楽しい映画ですよ。

さて、今日は久し振りに本を紹介しようかなと思います。なににしようかな……今日はこれっ!

プラトン / ソクラテスの弁明・クリトン

プラトンは紀元前427年から前347年ごろまで生きたとされるギリシャの哲学者です。ソクラテスはちなみに前470年ごろから前399年ごろまで。

おそらくほとんどの人は、名前だけなら聞いたことがあると思われるプラトンとソクラテスなんですが、この書を読んで実際に彼らについてよく知っている人の数は、その半分くらいになるんじゃないでしょうか。

古代ギリシャの哲学でおそらくもっとも有名な書の一つがこれ、『ソクラテスの弁明』。

ソクラテスはプラトンのお師匠さんであり、その方が無実の罪によって国家に捕らえられ、自身の無実を証明し、また厚顔無恥なアテナ市民たちを説得する様子が対話篇(会話文構成ということ)によって描かれています。

ちなみに『クリトン』は、ソクラテスの昔からの親友「クリトン」が、牢屋に囚われて死刑を待ち続けているソクラテスに、「脱獄しないか」と持ちかけるお話。お話といっても哲学書なんですが、プラトンの著作はそのほとんどが対話篇であるため、ある種「物語」と表現しても的はずれではないと思われるのです。

ソクラテスは反駁的対話(エレンコス)という技法を使って、相手の保持する憶見(ドクサ)を破壊する活動を続けていたのですが――ようするに、ソクラテスはまず当初無知な者を装って、知惠者か疑わしい者に近づき、無知者としていくつか質問を投げる、それに答える偽知惠者に、さらにソクラテスは反駁(質問)をし、相手が自家撞着(言っていることが前後で矛盾していること)に陥っていることを指摘したり、間違った意見を持っていることを攻撃したりする方法――そんなソクラテスですが、あるとき――おそらくここまで読んでくれた方にはわかると思うんですが――国家に捕らえられてしまいます。

彼のような反駁的対話には、要素として批判的性質が存在するから、よく相手の自尊心を傷つけてしまったりするんです。それで理由もなく自尊心の高いような人からは、敵対視されてしまったのです。

ソクラテスはそれで裁判にかけられて、同様に裁判に引き出されても泰然としているソクラテスに自尊心をおおいに傷つけられた裁判官たちに、死刑にされてしまいます。そのときのソクラテスの弁明の仕方を対話編につづった書物。

ぼく自身の感想ですが、ソクラテスに同情するのは間違っているし(なぜなら彼はそれで最大限に善とされることを行ったから)、また無闇にソクラテスに対して感情的な怒りから出発したでたらめな理屈を投げた人を憎むことも間違っていると思うんですよね(なぜなら彼らはそれでソクラテスに救われたから)。彼らを責めるのは、その、感情的な問題をそのまま思想、公的な理論、あるいはまたまったく関係のない、もっともらしい罪状に結びつけてしまった点に絞られます。彼らも人間なわけですから、過失を犯すことはあるし、重要なのは終わった段階で過失を掘り返して責めることではなくて、そこから彼らがなにを学び、なにを反省していったかにあると思うんですよね。ぼくの感想としては。

さて、それはどういうことかというと、人間は、よく自らの感情的問題を、思想問題や趣意表明にすり替えてしまいます。それは未熟な人間であれば誰もがやることで、誰もがそんな経験をしてきたと思うんですね。経験してこなかった人はいるわけがない。

それはもちろん責められるべきであり、非難されてよいことだと思います。だって結局子どもの言い合いみたいだもん。理性が感じられない。言葉だけがもっともらしくって、結局その人の心が求めているのは、利己的なことだったり、一過性な感情的問題だったりしますから。そういう人のお怒りに遭遇したとき、ぼくたちが冷静だったならば、「まぁ適当にやり過ごそう」と思うのが普通です。だって本気に受け取っちゃ馬鹿らしいもの。

それとは別なところですが、ぼくは、ソクラテスはとってもかっこいいなぁ、と思いました。なぜかっこいいかというと、彼は他の多くの哲学者と違って、「行動」によって自らの正義を示したからです。それはセネカもそうだったんですけど、あまり自らの正義を「行動」によって最後まで貫ける人って、見ないじゃないですか。現実世界のどこにも。

そんな人間を見つけたらぼくらは真っ先にその人のことを大事にするべきだし、また、愛するべきだと思う。

彼らは普通の人間にない偉大なる勇気を持っているし、また、矜持も持ち合わせている。とても尊敬できる人です。ソクラテス。思想うんぬんより、ぼくはかれの人間性のほうが好きになりました。たはは(^_^;)

どんな人も一度は見ておいたほうがいいと思う書物ですので、よろしければどうぞ。見て損はありません。哲学書でも、べつにそんなに難しくはありません。ちょっと自分の見ている世界がすこし変わって見えると思いますので。よろしければ。

それでは、どむとむでしたっ!


 5月1日

【糸音さんを見習って】

検索サイト様や、ランキングサイト様に登録してみました。

ぼく、ずっとこういう宣伝活動さぼっていたのですが(なんだか苦手で)、今日糸音さんとリアルでしゃべって、やはりそんな宣伝活動もある程度は大事だという意見に達したので、ちょっと拙いですが、やってみました。

どむとむの作品をもっと多くの人に読ませてやりたい、とお考えの優しいお方がいたら、ぜひ、トップの投票ボタンを押してやってください。一回でよいので。

多くの方に読んでもらえるのは嬉しいことです。励みになります。

でもやっぱり広報活動は苦手だぁ……ひじょーに疲れました……

追記

色々考えたすえ、投票ボタンはSSページの下に移行しました。トップページにあると皆様の迷惑になりかねないと思ったゆえです。


 4月30日

【今ふと思い出した】

「ende」というタイトル名が、ドイツ語で「終末 終わり」だといいましたが、それなら名詞なので「Ende」と最初が大文字にならなければならないことを今ふと思い出しました。

よかったー! なるべく早い段階で思い出して!

そしてさらに「Ende」は中性名詞ですから、よかったら頭に「das」をつけて、「das Ende」ともできるわけですが、こっちだとちょっとダサいので、普通に「Ende」とすることに決めました。

あはは……ドイツ語専攻してたのに、こんなにずっと思い出せなかったとは。本当にぼくの知的欠陥(ようするに頭悪いともいう)が暴露露呈された週でした。とほほ……

あとで書き直しておきます! 


4月29日

【あばばばばばば】

『ende』の推敲が終わらんじぇー。

これは徹夜するしか……ない、のか……

ところで、最近ミューズとビートルズを聴いています。ミューズ最高だよね、ミューズ。

みんなも聴いてみてね! 参考までに→ http://www.youtube.com/watch?v=j8WP7aOD_9Q


 4月28日

【お疲れちゃん】

どむとむです。

ファイナルファンタジーの件では思いっきり赤っ恥を食らいました。どむとむです。

まぁ、人生にはよくあることだ!(きっとぼくだけだ

というわけで気を取り直していきましょう!

糸音さんと約束したとおり「ende」の推敲を必死に頑張ってます……つづきの数章ね。

それから、べつのオリジナル中編を書いて、いろいろ都合あわせをして、なんやかんやとやったあとに、おそらく真人×小毬(という無茶振り)のマイナーカップリング話を書くことになると思います。

いやね、ぼく、真人と小毬って意外と性格合いそうな気がするんですよ。っていうかリトバスの恋愛物書くときってなぜか真人がヒーロー役になるんだけどなんでだろう。べつにそこまで真人をプッシュしたいわけではないんですが……なぜか話の流れでぼくが真人を担当することになりました。

真人と小毬ってすっごく相性よさそうな気がするんですけどそう思いませんか? 黒旗さんから「それは無理だ」と冷たく否定されて(べつに本人は冷たく言ってない)、えー、そーかなー、とやや納得いかない私。

リトバス原作では間違いなく何の接点もなかった二人ですけど(私の覚えている限り真人とよく接していたのはクーちゃんだけ)、性格的には二人はとっても合うと思うんですよ。一番合わないのがおそらく葉留佳、その次に美魚、その次に佳奈多(佳奈多は浅い関係の恋人ぐらいならうまくいきそうだけど相性悪そう。まさかな推奨派の皆さん、ごめん)だと思うんですけどどうか。

よーするに真人と相性がよさそうなのは、包容力がある女性だと思うんですよね。後ろで控えめに彼のことを見守っていられる人だと思うんです。これはおそらく私の恋愛観によるものだと思うんだけど。一人で泰然と動いていけそうな女性はかれと相性悪そうなんです。相性悪いっていうか、あまり親密なところまではいかなさそう。もっとも、これは別に誰かの好みを批判するわけではないですけど。

もっとも彼(真人)と合いそうなのが、きっとクーちゃん。その次に小毬。次に姉御と鈴ちゃんが同列ぐらい。だと思うんですけどどうか。クーちゃんは原作でよく彼と絡んでいただけではなくて、実際に性格上の相性もすごくいいと思うんですよね。だって彼のことが好きになるためには、彼の動きをただ見ているだけで楽しめる、っていう性質が少なくともちょっとは必要だから。

で、あるからして、結構ぼくは真人×小毬、モチベーション高めで書けそうです。みなさんに受け入れてもらえるかどうかは置いといて。小毬は男性からしてのアニマ像にもっとも近い女の子だと思うから、平均的な男っぽい思考の持ち主である真人のハートがそちらに向くのは、もっとも書きやすい! 理由とか、そういうドキュメントっぽいギャルゲーチックな恋愛ではなくて、普通の男子高校生っぽい健全な恋愛が書けそうです。恋愛って、そういうものがきっと一番いいと思うんですけどいかが。つまり、好きになって→こっそりとアプローチを重ねて→挫折を繰り返して→勇気を振り絞って告白するという、こういう流れ。

実際にこの通りいくかどうかはわかりませんが、なんとか自分の理想に近づけられるように頑張ってみます。それでは! endeの推敲に戻ります……


 4月27日

【実家からお送りしています】

なのに更新時が二時っていうね。もちろん深夜の。

すいません、漫画とソリティアに夢中になりました……(ばかじゃないの?

さて、本日も更新更新。ついにファンタジーSSのタイトルが決まり、修正版を4章まで、そして新たに5章を更新しました。斬り崖山の登攀です。短いですが、どうぞ。

次回のアファドの坑道はそれなりに長いと思いますので、お楽しみに。

さてさて、ファンタジーSSのタイトルは「ende」と決まったわけですが、これには理由があります。

おそらく、ファンタジーを真剣に書いたことがある人で、すこしでも教養ある方ならだれでも思うことだと思うのですが、自分が書くファンタジーを、永遠に続いていく夢の世界、として決めるより、我々の現実世界につながっていく、終わりのある世界(我々が書くのは神話の終わりの世界)と、決めたがると思うんですね。我々が書きたいのはハイ・ファンタジー(格調高いファンタジー)であり、子どもが想像するような夢のワールド、ではない。子どもが想像するような夢のようなワールドは、それと同種の子どものような人にしかウケないし、ましてそれがウケたとしても、すぐに飽きられて記憶から忘れ去られるのが常だから。

人々の記憶に残るのは、良質のファンタジーであり、良質のファンタジーとは何か、というと、それはおそらくハイ・ファンタジーと、ポップでノリのいいロー・ファンタジー(純粋な意味での)のみ。私は今回、ハイ・ファンタジーに挑戦してみたわけですが、そこを書くにあたって、まぁ、私自身の好みもあるわけですが、ファンタジー(幻想)の終わりの世界を演出してみたいと思っていました。そこで意見が分かれるのは、おそらく個人の考え方や好みにもよると思うんだけど、わりとファンタジーというものに、なんでもアリのドリーム性、とかいう、ちょっと子どもっぽい憧れを抱いてない人は、おそらく私と同じ意見に帰結するのだと思います。我々が書くのは神話の終わりであり、幻想的なるものの滅亡の経緯でなければなりません。そしてさらにそこから生まれる、現実的な、人間たちの世界の繁栄の出発点でなければなりません。でなければ、それは(純粋な意味での)ファンタジーではないか、ひどく文学性を欠いた、ファーストフードのような、大量消費大量生産の渦に巻き込まれた、ただの一過性の嗜好品でしかありません。

ロー・ファンタジーの理想については、まだ私は書いたことがないので、また次回。

というわけで、上記の理由で、私は「ende」というタイトルをつけさせていただきました。意味はドイツ語で「終末 終わり」。なぜドイツ語になったかというと、最初に浮かんできたのがドイツ語の「ende」(エンデ)だったから。響きもまぁ、わるくない。と思われます……

私、このタイトルをつけるにあたって、ひどく「ファイナル・ファンタジー」というタイトルはいいものだなぁ、としみじみ思いました。あの作品がなかったら、私が遠慮なく使わせていただいていた。「最後の幻想」、これはすばらしいタイトルであると思います。作者さんたちの理想にすごく共感して、納得できる。まぁ、それで続編(ファイナルファンタジー2とか)を出しちゃったら、元も子もないんだけど。「最後の幻想2」って、わけがわからないですよね。ちょっと残念。タイトルを別のものに変えればよかったですよね。

まとめると、私がファンタジーなるもので(私の作品がちゃんとファンタジーになっているかは置いておいて)表現したいのは、やはり「ende」なのです。そうしないと、どうにもこうにもファンタジーというものの形ができない。生まれない……

そういうわけで、タイトルとそれにまつわるファンタジー談義でした。

現在私は、実家の一階のパソコンで、文章を打ってます。すごく寒い……廊下みたいなところだから、足が冷えます。都会とくらべて、田舎は容赦なく寒い。これが田舎らしいところで、結構好きなんだけど、ちょっと深夜にパソコン打つに関しては、つらい……。

私は実家に帰ると、いつものことなんですが、おばあちゃんの友達のおうちに連れていかれます。わんちゃんのフィーちゃんと一緒に(『火影』に登場)。おばあちゃんの友達も同じように犬を飼ってらっしゃるので(プードル)、わんちゃんを交えたお茶会というやつです。私はおばあちゃんたちが好きなので、この会合が結構楽しみであったりします。

仲良しの贔屓目ですが、うちのおばあちゃん&ご友人は、なかなか謙虚で品がいい。笑い方も棘がなく、「あははははは」というより、「ほほほ」と楚々なるもの。まぁうちのばあちゃんのほうはちょっと俗っ気があって、「あはははは」に近いものだけど。

「あの向かいの○○さんったら、〜〜だっておっしゃるのよ。わたくし、驚いたけれど、ねぇ、おもしろくって、おかしくって笑ってしまったわ」などとご友人。

「へぇ〜。そうなんですか」と、わたくし。

「ウフフ」と、はにかみながらも素敵な笑顔。カ、カワイイっ! と不覚にもおばあちゃん萌えしてしまった私。にこにこと絶えず笑みを浮かべている人で、顔も綺麗、言葉遣いも綺麗なので、まぁ、おそろしくめずらしい貴婦人がこんな田舎にいたもんだ、としみじみ感動してしまいました。

私、楽しいおばあちゃん&おじいちゃんは、世界の宝だと思います。もちろんおばあちゃん&おじいちゃんは、もうそれだけで可愛くってしかたなくって、守ってあげたくあんるんだけど、中でも楽しくって品の良いおばあちゃん&おじいちゃんは、私にとって最上級のお宝のように思えるのです。否、世界の国宝でしょう。「世界の国宝」って意味わからないけど、ニュアンス的にはそうなんです! はぁ〜……素敵。

でも女集えばなんとやら、というやつで、その会合での話題は、あっちに行ったり、こっちに行ったりで傍から聞いている私にとっちゃ大混乱。

どうして女の人って、こんなに急激に、また脈絡もなく話題を変換されても平気でいられるんだろうか……と、ちょっとびっくりしてしまいました。そしてそれでも面白くって、かわいいので、なるべく必死に聞く私。あんまり寝てないので、あくびしてしまったら、「あら、彼があくびしていらっしゃるわ」といわれて、ちょっと赤面。会合は定時よりちょっと早めにお開きになりましたとさ。すいません……(笑

そんなこんなで、なかなか賑やかな一日でしたとさ。

おしまい。

また明日ー!

 

追記

ファンタジー談義のことは、あまり重く受け止めないでください。ただの私の志向であり、押し付けではありません。

それと、拍手してくださった方、一人いましたね。ありがとうございます。しっかり元気、受け取っています。また明日!


4月26日

【明日から三連休♪】

いそがしい日々が続きますねー……お疲れさまです、どむとむです。

タイトルは読んで字のごとく、明日から三連休であるぼくの非常に嬉しい心境を表しています。

まぁその代わりゴールデンウィークはバイト五連勤なんだけどねー(笑) はっはっはー!

はぁ……(泣

ちょっと五月からある企画がスタートするやもしれません。そのために今やってるファンタジーSSの推敲をなんとか四月中に終わらせねば。

チャットバスターズ(勝手に命名。黒旗さん・けんごちさん・くうひさん一行のこと)のミッションであるマイナー・カップリング企画はまたもういっちょ先になりそうです。ごめんね。やっぱりぼくがびりだった……。

というわけで、明日から実家に帰省しまーす♪ やったー! 疲れるけど、楽しみ〜♪(笑

本もまたなんか紹介したいけど、ごめん、次回ね。ちょっと大急ぎで推敲仕上げないと、糸音さんにどやされてしまう。(おっと、禁句禁句……

それでは、またねー!  

追記

拍手受け取ってます。言葉のない応援は意外と励みになります。嬉しいです。どんな作品を読んで送ってくれたのでしょうか。

ちょっぴり気になります。

でも、嬉しいのには変わりありません。また新しい作品をすぐに上げますので、待っていてくださいね!


4月25日

【うれしいこと】

今日たくさん拍手を送ってくれた方がいました! 六人ぐらい! みんなの気持ちは伝わってます! ありがとう!

今日はさらに嬉しいことがありました。

リンク二件追加しましたー。

どちらも小説書きさんで、このたびサイトを開設されたとのこと。しかし魂乱(たまらん)紳士たち様は、ほかにも色々なことをやるようで、その中のボブくんがぼくの知り合いなので、かれは小説家のよう。いい小説書くよー。

糸音さんは、あの伝説の……(驚

あとでまたどこか食べに行きましょうね! そのときはぼくの奢りで!

あ、あとすみません。まだファンタジーSSの推敲終わってません。今日はちょっと進めますのでー……

でも、糸音さんがまた小説書くようになってくれて、ぼくは嬉しいです。はじめて小説書き同士のリアルの知り合いができました。期待する感情より、嬉しい感情のほうが大きいです。どう表現したらいいのでしょうか。きっといい小説を書くことは間違いないんだけど、ぼくもなんだか同時に元気をもらっているというようなー……

小説を書くことにさらに意義を見つけられた一日でした!

それと、詩のほうも更新しましたが、こっちはちょっとダウン系です……。いいよね。たまにはこういうのも。

ぼくは本当にだめな人間なんで、たまにこういう考え方が好きになるのです。

でも、いいですよね。こんな景色。

たった一人で、道端に咲いている花を摘んで、それを胸に抱いて、なにもない大空を見やる……

そこにはなにも無い 優しくもつらい世界 

でも胸の中には一輪の花がある 

ぼくにはなにも言ってくれない。でもそれは微笑んでくれている

花の笑顔は永遠です。それは人間にとって。

花はもう死んでしまっています。その死の永遠像を眺めることによって、ぼくはとても慎ましやかな気持ちになる。

ぼくはぼくの世界の中だけ、神様です。

ほかの世界と関わるときは、いつも翻弄されてしまっています。

でもそれが人間というものだし、ただのろのろと足をもつれさせながら歩いていく生き方だって、どこかぼくらしくっていいんじゃないかなとも思っています。

さて、そろそろファンタジーSSのタイトルとか決めようかな……。

ところで、その件についてなんですが、近々、ちょっと修正版をアップしようかと思います。今まで(第四章まで)推敲をかけたので、大幅にストーリーが変化しています。今さら修正前の第五章以降をアップするのも馬鹿らしいので、明日か明後日にでもタイトル考えて、第一章から第四章までの修正版をアップします。楽しみにしていてください。

今日は本の紹介はナシで。ちょっとこれから推敲かけに行ってきますー。チャオ


4月24日

【本紹介その2】

本日(24日)に、拍手を送ってくれた方がいました! ありがとう!

元気が出ます。頑張ります!

 

さて、先日のAngel Beats!の件ですが、二話目まだ見れてません……ちょっと忙しくってね。やることが多くて。

でも期待しています。物語なんて最初だけ我慢しちゃえば、あとはずっと楽しく見られるものだと思っているので。暇があったらほかのアニメも開拓してみようかな、って思ってます。

さて、本日も本をご紹介します。

今日は志賀直哉です!

志賀直哉 『暗夜行路』

小説の神様と評される、でも意外と普通の人にはあまり知られていない、ちょっと気むずかしげな天才作家、志賀直哉の代表作です(夏目漱石はみんな知ってるんだけどね……)

志賀直哉は、1883年2月20日に宮城県石巻市に生まれました。

志賀直哉の作品といったら、まずこの『暗夜行路』か、もしくは『城の崎にて』、『小僧の神様』などが挙げられるのですが、今回は一番のビックタイトル&長編のこの『暗夜行路』を紹介しようと思います。

全編をわたって見てみますと、この話は、多くの宿命的不幸に見舞われた主人公、時任謙作の、おおらかで快い、すべてを許すことのできる至高の心境にたどり着くまでの長い長い道のりをつづっています。

つまり、物語が終わった時点では、かれの「暗夜行路」は終わっているんですよね。それからは白の世界、空のように美しい心境にのぼっていきます。

ぼく、志賀直哉の筆致は、とても独特で定義しづらいものだと考えています。多くの方は志賀直哉を近代文学の最高峰、と評しておりますが、ぼくの場合はそこまで鑑定眼が育ってないのかな。ちょっといまいちピンときません。

ただ、志賀直哉の文章はいまだに、この小説を読み終わってから一年くらいした今でも、水準をきちんとぼくの中で整理することができません。不思議な世界なんですよね……。

志賀直哉の小説は、他の小説家の皆さんとものすごく違っています。ほかの小説家さんは、たいていどんな作品を読んでも、それはどこかで読んだことのある文章で(オリジナリティはあっても、大きく分類しようという目で見れば、それは分類できる場合が多い)、なんとなく自分の中でその小説家の立ち位置を決めやすいのですが、志賀直哉だけはそうもいかない。完全にべつのものとしてぼくの中に独立して存在しているんです。

たとえば、色で分けるとすれば、夏目漱石はエンジ、泉鏡花が紫、武者小路実篤が黄色、太宰治が灰色、ヘッセが緑、なんですけど、志賀直哉だけは真っ白なんですよね。すごく白い。

まったく別の世界のように感じるんですよね。好き嫌いは個人差であるだろうけど……。

この『暗夜行路』という作品は、長くて、とにかく長くて、ずっと似たようなシーンが延々と続くように序盤は思えるので、たいていの人は途中で参ってしまうと思います。(実際ぼくも参ったし、うちのばあちゃんも昔参って途中でやめてしまったといっている)

けれど頑張って読み終えた今では、やっぱり、彼の独特な白の世界は、必ずぼくの中に流れている精神の一つを形作った永遠なるものなのだなぁ……と思っています。突飛なものは作品の中に一つもないし、また、読んで成長した! とはっきり感じ取れるわけではないけれど……なにかが変わった。変わったようには見えないけれど、なにかが変わってくれた。そういうふうに感じ取れる作品が、この『暗夜行路』だと思います。

数ある「読んでほしい作品」の中でも、必ずトップクラスに挙がるのがコレ、『暗夜行路』。やっぱり推してしまうんだよなぁ……。

とくに最後の、時任謙作が、永遠なる至高の心境に目覚めるところは、近代日本文学史上最高に美しいシーンだといわれているし、読み返してみると、「やっぱりそうだなぁ」と思えるところなので、ぜひ手にとって読んでみてください。あ、そこだけ読むのは絶対ダメよ。ちゃんと最初から最後まで通して読むんですよ。そうしないと美しさがわからないと思いますので。

志賀直哉に乾杯! では、また次回! 


4月23日

【エンジェル・ビーツ】 

見たよ。

ええっと……感想いうけど、面白くなかったです。

というより、なんだかよくわからないアニメでした。どうやって楽しめばいいのか、よくわからない。

まず、ギャグをやりたいのか、普通のストーリーにしたいのか、あるいはまた、シリアスにしたいのか、作者の判断が読めない。読めないだけならまだいいけど(読ませないようにしている可能性があるから)、この場合は、そうではなくて、作者さんたちがどれもこれも欲張りに手を出して、結局のところ中途半端になっている作品のように感じられました。

作中の世界観に関する説明がちょっと微妙。「ちなみにNPCは歳を取らない。それは(NPCじゃない)私たちも同じ」というゆりのセリフがありましたが、これ「説明になってなくね?」って感じるのは普通じゃないでしょうか。それだけでなくて、フジツボへの転生の可能性を、子供じみた仏教の輪廻概念で説明するとか、人をなめているのか(あるいはまた、単なるギャグにしたいのか。こっちだったらまだいい)と疑いました。

一番よくなかったのが、上記にもあるように、このアニメがいったいどういう主旨で展開していっているのか、よくわからなかったことだと思うんですよね。もちろん作品の楽しみ方なんて人それぞれだけど、ぼくは、ギャグなら一貫してギャグ(つまり設定に真剣味を取り入れないこと)にしてほしいし、シリアスならちゃんと最後までシリアスで書いてほしかったと思います。ちなみにバトル作品にも、冒険作品にも、やたらと学生・学校っていう設定を取り入れるのは現代の風潮なんでしょうか。ちょっと間違っていると思います。

学生は、学生らしく青春を送っているほうが一番美しいとぼくは思うんです。そこに戦いとか、作戦とか、戦線とか、持ち込んではいけないと思うんです。(もちろんギャグ作品なら可。だけど、それで真面目なシーンなどを入れられると、どうアニメを楽しんでいいのかわけがわからなくなる)

誠実にアニメに取り組んでいるというのはよくわかるんですけど、ぼくは、もうちょっと落ち着いて作ってほしいと思いました。アニメを一つ作るだけでも大変だろうに、これじゃなんのためにアニメを作るのか、わからなくならないかな。

 

ちょっときつい言葉になってしまったかもしれません。念のためもうちょっとずつ視聴してみようかと思います。

ところで、反対にぼくから、こちらを紹介致します。

カフカ 【変身/断食芸人】

チェコの作家、フランツ・カフカの代表作、『変身』です。

フランツ・カフカは、1883年7月3日、プラハのユダヤ人の家庭に生まれました。

素朴で控えめな筆致で、独特な世界観をえがく彼の深い耽美な眼差しに、賞賛を送ろうかと思います。

といっても、ヘッセの『デーミアン』ほど、感銘を受けたわけではありませんが、とっても面白い作品だったと思います。実力の衒いもなく、淡々と主人公が毒虫に変身した事件をつづっています。

文学作品としてどれほどの価値があるのか、それはここでは論じませんが、私はなかなか好きです。とくに後段の、青年ザムザの運命が極まりつつあるところの憂愁は、ページを追う手をじっと止めて、ぼうっと物思いに耽ると幸せになること間違いなしです。とっても味わい深いのです。

ところで、こういった「厄介者を抱えた家族」という側面のある作品を読んでいて、太宰治の『日の出前』を思い出しました。どちらも最後の家族側の描写は、似通っていたのですが、きっとどちらも、この作品の世界が過ぎ去った後で、家族を失ったことに対する悲しみや後悔を必ず持つと思うんですよね。ああ、なんてことをしてしまったんだろう、取り返しのつかないことをしてしまった……と悲嘆するエピソードが、必ず、この作品の後の一年後か二年後あたりに、存在していると思うんです。

まさか、あそこまで残酷で皮肉屋な家族などいるわけがなく、もちろん彼らは人間ですから、時折疲れてしまうというか、人間であることに嫌気が差してしまうことだってあるのです。そして、作品の終わりの段階、必ず残された家族は「休息」を必要としている状態なんです。

そして、その「休息」が済んだ段階、かならず家族たちは、そのことについて後悔し、悲嘆するのです。

とても悲しいことです……。

読み終わった後にさまざまな想像ができる、これがきっと、文学作品の文学作品たるゆえんなんでしょう。

とにかく、面白かったです。

時折、こうやってぼくの読んだ本を雑記で紹介していこうと思います。

ほかにも様々な本を紹介したいんですけど、一度にやっても疲れるから、また今度。

 

エンジェルビーツは……頑張れ! 次に期待!


4月21日

【ラジオ買ったよ】

ただね、誤算だった。誤算だったんですよ。

なにがご参加って(誤算かってだよ!)、鬼玉のやってる平日八時〜十一時は、ぼくが一番忙しい時間帯なんですよ!

というより、一番なにかやりたい時間なんだよ! 小説とか、読書とか!

聞ける暇ねーよ! って思い、せかせかとゲームプレイ(なんでだよ→ゲームしながら聞くためだ なにか「しながら」じゃないと気が済まないタイプ)

ちなみにですね、ぼくは、ラジオ聴きながら小説書くことはできません。集中力がいるんだよ! もう!

読書もそもそもできないし……無音じゃないとだめなんだよ! なにこのラジオ拒否反応! なんで買ったんだよ!

ぼくが知りたいよ!

でもラジオは、朝起きて頭がぼーっとしているときにかけると、とってもいい感じなんです〜……

ええ、まるで自分のほかにも人がこの部屋にいるみたいでね(微笑

というわけで、ラジオ買ってそれなりに助かってまーす!(笑顔 


4月18日

【物書きチャット】

 参加してきました。

 いやー……なんだか、連日の睡眠不足がたたって、異様にハイなテンションで、ゆったり穏やかにトークしようとする人たちの邪魔をしていたようにしか記憶していない……(うつらうつら……

あんまり人の話を聞くことができなかったように思えます。なんだかしゅん……と、反省点。

自分の言いたいことはすべて言ったような気がしたのですが(^_^;) なんだかぼくの悪い癖がまた出てしまったかなと思いました。

でもこういうのって楽しんだもの勝ちだと思うのよね! と優しいことを言ってくれる人がいたら、私はまさにその通り、あの中ではだいぶ楽しんできたほうだと思います。

収穫というか、あのチャットに参加させていただいて、感じたことは、みんな色々な考え方を持っているな〜、ということ。

なかには興味深い話もありました。

たとえば、佳奈多の描写のしかたとか。

これって、書く人によってだいぶ隔たりがあるのですよね。あの中にいた皆さんは全員感じられたことだろうけど、自分のやり方(っていうか、佳奈多というキャラクターへのイメージ)って、必ず皆さんと違うんですよね。

私は結構大人な佳奈多を好むんですけど、(っていうかキャラが全体的に大人っぽい)、皆さんは必ずしもそうではなくって、もっと少女チックに佳奈多を描写したいんだなと思いました。そこでそれぞれ文学的に表現したいことも違うんですよね。

色々なことを教えてもらいました。

 

チャットには参加できて楽しかったけど、ちょっと疲れちゃったな……。なにしろ終わったのが朝の五時すぎw 外がもう明るくなってたよw

ところで、関係ないですが、Ricoさん(チャットに参加されてた方)が言っていた、ドイツの戦争映画が見てみたくなりました。あとでTSUTAYAに行ったら探してみよう……

それではっ!


4月17日

【眠くてしかたがありません】

眠いってばよ……。

 

この新緑の季節を見ていると、自分の少年時代のことを思い出します。

学校の校庭とか、教室の中から見上げた春の雨空、大人たちと一緒にやった、校内バーベキュー、商店街で夕方まで遊んだこと。

そういえばこの四月という季節は、いつでも爽やかな風が吹いていましたっけ……。

あ、ちなみにこの眠さは、春とは関係がありません。そんなことを感じているほど生活にゆとりがあるわけではありません。

でも小説を書く元気だけはあるのよね……。さぁて今日も学校とバイトがんばるぞーっ(汗


4月15日

【衝動買い】

ども、どむとむです。まったり気分です。

皆さんは衝動買いをしたことがありますか? 私は、ちょっと似たようなことをしたことがあります。

衝動買いっていうか、衝動買いじゃないんだけど、買ってから、意外とすぐ飽きてしまうようなこと、もの……

ありません?

挙げればいくつか教えられますよ。まずはニンテンドーDSでしょ(もう埃かぶってる)、PSPでしょ(どこかいった)、デジタルカメラでしょ(意外と使わない)、アイロンでしょ(時間かかるからあまり使ってない)。

これって、製品そのものが悪いわけではなくて、むしろ使うこっちのほうが悪いんですよね。すみません……

でも、でもっ! またどむとむは似たようなことをしてしまおうとしているのです(ムズカシイ日本語

つまり、今度はラジオ!

もうね、ど〜しても、またラジオが聴きたいのです(>_<)

高校生のころは、ラジカセを使ってよくネトゲしながらFMを聴いていたりしていたのですが……

ラジカセが壊れてから、とんと聴かなくなってしまったのよね

高校生のころの私は、FMNack5の、ナッティレディオショウ鬼玉という番組のファンでした。

とっても面白かったんですよ〜……もう終わっちゃったかなぁ〜、と思ってちらりとサイトを確認してみると、なんとまだやっているではないですか!

もうね、なんていうかね、こう、購入意欲がめらめらっ! と。

ところで、私の辞書って馬鹿ですよね。「いよく」で変換したのに「伊能」とか。面倒くさいっちゅーねん。

すみません。話がそれてしまいました。購入伊能が、意欲がめらめらっと燃えてしまいましたので、すぐ価格ドットコムで適当なラジオを検索スタート。

……いろいろ考えた結果、電化製品を通販で買うのはなんだか怖いと思ったので、近々秋葉原にショッピングに行くことに決めました。

どーせ鬼玉、八時からだから、すぐバイト入っちゃって聞けなくなるしね。もう今日木曜日だしね。うん、来週にしよう。

ぐふぅ……

しかしこれも、PSPやデジタルカメラ、スピーカー(これは一回で飽きた。コンセントぐちゃぐちゃになるっちゅーの)の二の舞にならないか心配でございます……

鬼玉のほかにも、きっと楽しい番組たくさんあるから大丈夫だよね! FMだけじゃないよ、AMだってね。ね!

自分でいろいろ調べてみるのが楽しいと思うんです。

そんなわけで、現在どむどむこと、不肖私は、ラジオ中毒に冒されつつあります……

皆さんも買い物は慎重にいきましょう! 買ったら買ったで、そのものを大事にしようね!


4月13日

【お疲れちゃん】

ども、どむとむです。

今日は眠い目を擦りながらじゅぎょー。

つかれた後喫茶店で一服して、家に帰り、適当に家事を済ませ、今日はのんびりタイム。バイトないしね。

ってなわけで、またかくれん穂に行きました!

もうこの際だから紹介してしまいますが、私のよく行くイタリアンレストランです。もちろん一人で。

このお店、米粉を使ったパスタというのが看板でして、他のパスタ店とはひと味違った感じになっています。

もちもちとした食感で、ほんとにびみょーに普通のパスタと違います。でもお米のパスタだから、なんとなくお腹に優しい気がする。こちらのほうが普通のパスタより食べやすい感じがしました。

写真、カメラを持っていかなかったので無いんですけど、今回は口コミサイトの画像で勘弁。

 

ランチセットはサラダとガーリックパンがついてきて680円。500〜600円並のパスタがこれで楽しめます。

ですが私のオススメは、390円のペペロンチーノ。シンプルな味で美味しく、それも安い! 信じられん!

サラダとドリンク(フレーバーティ)を頼んで、さらに300円のかぼちゃとさつまいもプリンを頼んでも、800円ちょいに収まるという安さ! 言っときますけど、これかなり贅沢してますよ。超満足でしたもん。

今日行ったときは、店内のBGMにファイナルファンタジーVIIIの穏やかな曲が流れていました(Ami、フィッシャーマンズホライズン、アイズオンミー、フラグメンツオブメモリーズ)など。ファイナルファンタジーVIIIは、私が小学生だったころにちょうど発売されたもので、幼き少年時代の優しい思い出に浸れました……。あんまりにも浸れすぎて、読書の気分じゃなかったけどさ! ウィンヒルの村を思い出しちまったよ! ぽかぽかとした陽が差してくる穏やかな窓辺で、安楽椅子に座りながら、ほっとお茶を飲んで読書をし、小さな子どもが遊んでほしいと、私のところに駆け寄ってくるシーンが想像されました。妄想効かせすぎだね、ぼく。

店内はオシャレで、お客さんも普段少ないので、本当にかくれん穂って感じ。お店が建物の二階にあるので、ものすごく見つけにくいですが、町屋に通りかかったときは、是非是非行ってみてください。ぼくもだれか知り合い連れていきたいなー。


4月12日

【新学年も始まりまして】

四年生になりました。単位もすべて取れてたよ。バンザーイ。

さてさて、新しく学校生活が始まり、疲れてしまって仕方がありません(もうかよ 

しかし春の並木などはどれも美しく、また小雨の音も聞いていて気持ちいいので、やっぱり春という季節はいいなぁ、と思うようになりました。東京だって綺麗。千代田区、御茶ノ水駅から眺める風景は、とても美しいです。柳の、雨に打たれる様、まるでぼうっと浮かんだ雲のよう。詩人くせー。

さて……あんまり話題もないもんですな。学校じゃ新しく入ってきた初々しい一年生があり、ちょっと不良じみた二年生がおり、疲れた顔の三年、四年生がいます。(私のイメージ的に、疲れた顔をしているのが三年、四年)大学の先生は、面倒くさそうな顔で寝言めいた世迷い言をぼそぼそ喋っている人もいれば、大まじめな顔で熱く語って、一部の学生から引かれている人もいます。私は話が合いそうな先生の授業を、いくつか取りました。

春だなぁ……。なんも話題ないなぁ……。

あっ、そういえば、なんだかAB(エンジェル・ビーツ)というアニメが四月からスタートしているようですね。見てないけど……。リアルの知り合い、だれも話題にしないから、見てないなぁ……勧められたら見るんだけど。

面白いのかな?

でも私は「東のエデン」が一番面白いと思う派……映画、そういえば見ましたよ。友だちに連れられていって。なんじゃこりゃー、っていう終わり方でしたけど。OPがさらにカッチョよくなってて、いい感じでした。DVD買おうかな。 

またしばらくしたら小説の続きをアップしようと思います。時間があったらね。それまで待っててねー。 


 4月10日

【がーん】

チャットは、本当は4月17日の夜からだったそうです。なんてこったい。残念。まー、人には誰も間違いがあるからネ……。

せっかくなんか話そうと思っていた話題が、不完全燃焼でぷすぷすしているので、ここでその発散をさせてください。

んー、なんだかなー。あまりこれといって重大な話でもないんですけど。

なんのために物語を書くのか、ということに焦点を絞らせてもらいましょう。

なにを書くのか、なんのために書くのか、と目標づけるのは、それぞれ自由に行なってもらってよいものです。ただ、目指すものが一緒だった場合は、その人間同士に友愛が芽生えるでしょう。共感による友愛ですから、そうでない友愛よりも強いはず。

私は、「じぶんのため」に物語を書くのが本当だと思います。「読者さんのため」といわれる作家さんもきっと多いんでしょう。でもその人たちとは話せば仲良くなれると思います。基本的に間違っていないので。

なぜなら、「じぶんのため」も、「読者さんのため」も、ただ見る人の視点を変えただけの話で、物語に真剣に立ち向かっていることは変わらないからです。ただ、視点が違うゆえに、文章に起こってくる感じもすこし違ってきます。

私は、(私自身が信じて崇めているわけですから)「じぶんのため」に書く方が小説ももっと自由に、生き生きしてくると思います。少なくとも私はそういう信条の下に文章を書いています。私のような人間には、こうやって意識付けしたほうが合っているという理由もあるかもしれません。

でも、物語を書くんだったら、完全には「読者」の存在を意識から外せないわけで。

もし完全に外すことができたら、それは、超一流の大作か、もしくは話の基盤を為していない、くさったゴミみたいな話の二通りにしかわかれないでしょう。

私はもちろん前者のほうを目指すわけで。

より良い作品を書こうと思うのは人間自然な感情なわけで、おそらくこれに反対する人はあまりいないと思うんですね。めちゃくちゃ賢い人を除いて。

完全に「じぶんのため」に作品を書けるように、頑張って歩いている途上なのです。それは自分自身との戦いといってもいい。

でもいつかは方向が転換されるかもしれない。そうしたらそれでいいと思うんです。って、結局は自分で自分を評価したり賛美したりの世迷い言になっちゃってますけど。

でも、作家ってそういうもんだと思うんですよね。つねに追求していかなきゃ。それが楽しさの一つでもあるんだもの。

 

極論すると、作家は、小説を書いていて、自分が満足できればそれでいいんだと思います。

ある人が、「作家は自分の作品に満足したら終わりだ」って言ったことがあるけれど、べつにその言葉と相反するわけじゃなくてね。

その言葉の意味は、決してその作品だけで終わってはいけないということであって、そこからさらに課題点を見つけて、精進していかなきゃいけないって意味なんだと思うんですけど、そういうことを言いつつ、作家はだいたい自分の作品にある程度の満足点はつけてると思うんですね。小説を書いて発表しつつ、ああ自分はだめだ、下手くそだ、才能ない、なんて思っている人は、それはよほどの大天才しかいません。

満足してなきゃ発表なんてできない。発表してもつまらない。それは普通の発想だと思うんですよね。

そもそも満足感がなく、作品を書き上げることなど、人間にできるんでしょうか? ええ、できるでしょう。でもそれができるのはきっと天才だけです。私にはなかなかできません。

でも自分で自分の作品にある程度の満足感を得ていたらどうでしょう。作品だけは書き続けていけると思うんですよ。

逆に、まさにそれ以上のものを望もうとすると、ちょっとおかしなことが出てくる。

ここで、そもそも「作家」という言葉について、定義(定義というか言葉のイメージ)の違いが出てきて、意見が対立すると思うんですが。

「作家」というものを、自分一人だけでくくっている場合。これは孤高の作家ですが、こういう人は自然とそのままうまくいくんです。

しかし、「作家」というものを、自分と読者の関係だと定義づけている場合。こいつはなかなかうまくいかず、うまくいっても、すぐ悪くなるか、あるいは辛いままの道を歩むことになりましょう。

こいつは私の経験的なものなんで、理論的に説明なんて(難しくって)できませんが、私は、前者の考えでいくのがいいと思っているわけです。

これは正しいか悪いかの命題論ではなく、どちらが人間にとって優しいか、の話をしているんです。

そりゃ人間にとって、その人それぞれそれぞれで考え方との相性ってもんがあるでしょうが、私はこういう孤高な作家のほうの考え方で、多く筆を執っています。

私は、たとえ私の作品を読んでくださる方がいなくとも、「作家」なのです。

そういう考え方が、私の成長にとって、フィットしているように思われるのです。

私の究極目的、読者さんに喜んでもらえて、自分もその応援のメッセージをもらい、周りに支えてもらえる人がいて、そして自分が自分で楽しいと思う話を書く。その境地にたどり着くために、今はこうした考えに身を置くことが、取りあえずのところ正解だと思っているのです。

このへんで筆を置こうと思います。

私の考え方は、こんな感じです。

またお会いしましょう。それと、けんごちさん、ここにめちゃくちゃ残念だった者が一人いることを忘れないでね……。ほんと、ついさっきまで行く気だったんだよ……。 


 4月8日

【お疲れさまです】

明日から学校です。やだー。やだー。

けんごちさんのところで4月10日に、チャット会が開かれるそうです。今度はおそらく真面目な物書きトークが聞けると思うので、行ってみてはどうでしょう? 私は行ってみます。

ファンタジーですが、時間あるときに書いた分をちょんぎって更新しようかと思います。もうちょっと待っててね。

 

 4月7日 

【雨が降っててお花見できなくなりました……】

今日ようやくバイトが休みになったので、六義園(→http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index031.html)のしだれ桜を見に行こうかと思ったんですが、あいにくの雨でした。ちくしょー。

腹いせに、今まで撮り貯めた写真の数々をピックアップ。

全部東京です。ぶらぶらと散歩しているときに取りました。ちなみに一番下のは丸ノ内。

でもあんまりデジカメ持って行けてない私……高い買い物だったのに、はやくも飽きてるという……。おお、だらしがないぞ! どむとむよ! おまえの次のレベルまであと(以下略

最近ちょっとスランプ……あんまり小説書くのが楽しくない状況。あー、もー。

ファンタジーって難しいですよね。驚くほど知識がないと書けないし、そうでないものはファンタジーにはならない。そうでない話には、どこか現代的な味がする。そういうファンタジーはよくない。まがい物だから。だったら最初から現代っぽいファンタジーにすればいい。そういうのを巷では「ローファンタジー」と呼ぶそうだけど。ヒロイックファンタジーとも。

でも私は「ハイファンタジー」を書きたいわけです。格調高いファンタジー。等身大のキャラクターを設定して、そこの世界観からキャラクターを抜け出せさせない。これは恐ろしいくらい膨大な知識量と、経験が必要だということがわかりました。並の作業じゃない。ほんと、疲れます。

でも自信はある。おそらくこの話を書ききったときに、なにか新たな境地が見えることでしょう。頑張ります。

気分転換にいろいろやったりしてます。難しいよね、小説って、小説ばっかり書いているだけでもだめだし。鍛錬の量に、実力は比例するけど、でもそういう鍛え方は必ず限界があるし。そもそも「どうして書くのか」という目的を見失ってしまう。

けれどそうじゃない、のんべんだらりとした書き方もどこか違う。あー、スランプスランプ……。本当はこんなことあまり考えませんのに。


 4月6日

【チェーザレ】

  

最近のことですが、チェーザレという漫画にはまっています。HP→http://morningmanga.com/lineup/19

チェーザレというのは、実際に歴史上存在した人物で、正式にはチェーザレ・ボルジアといいます。チェーザレは、ラテン語で読むと「カエサル」となり、まさしくその名の通り、イタリア十五〜十六世紀に活躍した、もう一人の「カエサル」だったのです。

私、以前にニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』を読んだことがありまして、そこで初めてチェーザレの名前を目にしました。マキャヴェッリは一部批判しているものの、チェーザレを理想の君主として何度も賞賛しており、私も前々から興味がある人物でした。まさか、それが漫画になってるとは。

書店で見かけて、びっくりして衝動買いしてしまいました。

そしてページをめくってみると、その調査と考証の緻密なこと緻密なこと。

制作者の熱意がびしばしと伝わる、超良作でした。物語を作る人間として、見習いたくなりました。

一部レビューサイトなどでは、まだまだ考証が甘いとの批判を投げかけている方もいるようですが、私はまあ、頭が凡人なので、これくらいあれば十分だろうと思っております。というかすごすぎです。何この価値が高すぎる作品。

以下、ちょっと画像。

 

 

今私が執筆中のファンタジー作品ですが、この『チェーザレ』の影響も多分に受けています。

中世の歴史などがとてもよくわかる面白い作品なので、一度是非手にとってみてください。


 4月5日

【日記……】

最近寝るのが四時〜五時くらいになってる私……

もう寝ます 今日のところは

 

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