知らせを聞いて、オレはすぐに保健室にやって来ていた。
 風邪っぴきの来ヶ谷は白いベッドに寝かされ、赤い顔で時折こほこほと小さく咳き込んでいる。
 カーテンの隙間からは淡い金色の光が差し込み、部屋を舞っている埃の粒をその部分だけキラキラと照らしていた。
 オレがやって来たのがわかると、来ヶ谷はすぐさま身を起こして元気そうな姿をアピールしようとするが、すぐにまたふらっと崩れて、元のように枕に沈んだ。
「わふっ、だめですよーっ、来ヶ谷さん! 寝てないといけませんっ!」
「くっ……ち、違うぞ、クドリャフカ君。これは違うからな……ただ、こいつがいきなり三人に見えたから、驚いてばっと起き上がってしまっただけだ……」
「って、それはもっと危険すぎますーっ!? いいから、ずっと寝ててください!」
「うぐっ」
 クー公に無理やり布団をかけられ、不機嫌そうに口を尖らせた来ヶ谷は、オレの顔を見るなりぷいっと顔を逸らしてしまった。
 なんて子供なのだろう……まるでクー公と来ヶ谷が正反対の親子に見える。もちろん子供は来ヶ谷の方だ。
 オレは、クー公とは反対側の椅子にどかっと腰を降ろした。
「なにしにきたんだ……」
 かすれた声でぼそぼそと来ヶ谷が言う。
 オレは呆れて溜息をついた。
「ばーか」
 来ヶ谷がびくっとして顔を戻し、目をむいてこちらを見つめる。
「あれほど自分で健康とかなんとか偉そうなこと言っといて、結局こうじゃねーかよ。もうおまえの健康管理に関する言葉は一切信用しねーかんな」
 すると来ヶ谷は眉をひそめて、キッとオレを睨んだ。
「うっ、うるさい……これは全部キサマのせいだ」
「はあ?」
 来ヶ谷がまた向こうに顔を逸らすと、クー公が代わりにこの状況を説明してくれた。
「先生が言われるには、来ヶ谷さんの風邪は、ただの寝不足からくる疲労が原因だったみたいなのです。ちゃんとお薬を飲んで、ゆっくり休養を取れば全然問題ないみたいです」
「ほー、よかったじゃねぇか」
 安心するのと同時に、ふと一つの疑問が頭の奥に浮かんだ。
 こいつは、この前もなんか寝不足がどうこうとか怪しいことを言っていたけど、一体なんでそんなに夜更かしをしなきゃいけなかったんだろう? あとなんでオレのせい?
 人知れず悩んでいると、クー公がじろり、とオレの方を睨んで言った。
「もしかして井ノ原さんは、来ヶ谷さんになにか怪しいお薬でも渡したんじゃないですか? あの、まっする・えくささいざーとか」
「いや、渡してねぇけど……」
 ってか、あれ本当はジュースなんだけどな……薬って言わないでほしい。
「そうですか。私この前あれを飲んで、一晩眠れなくなったことがあるのです。今回の来ヶ谷さんの件もそれが原因かと思いました」
 口元で柔らかい笑みを浮かべているが、クドの目は全然笑っていなかった。恨みいっぱいの視線にオレは冷や汗をかく。
「い、いやぁ! まあ……あれは、結構効力に個人差があるからな! クー公にはあんま合わなかったんだろ!」
 実を言うと、あのジュース、後で実際に飲んでみて相当やばいもんだとわかったんだが、オレは敢えて黙っておくことにした。
「けっ、個人差で一晩眠れなくなるぐらいの副作用が出たらたまんねーのです。来ヶ谷さんはあれを飲んだんですか?」
「ああ、嫌がる私にこいつが無理やりな……」
「だそうです」
「だから渡してねぇっつの!」
 オレが叫ぶと、来ヶ谷はくっくっくと笑って、そしてまたすぐにげほげほげほっと大きく咳き込んだ。
 クー公が若干心配そうな目を向けるが、オレは、ただのこいつの夜更かしが原因だとわかっているため、特に心配にはならなかった。せいぜい反省しとけ、ばーかと心の中で念じるくらいだ。
 来ヶ谷はまた寝返りを打ち、気だるそうな視線をこっちに向ける。
「あんまりこっちを見ないでくれるか……」
「どうしてだよ」
「君の姿が隣にあると、むさ苦しくって眠れない……じゃなくって、こんな情けない姿をあんまり見てほしくない……」
「……」
 普通、そこは逆にして言うもんじゃないだろうか。
 なんか一瞬こいつの本音がかいま見えた気がして、オレはすごく切ない気持ちになった。
 クー公がポッドを使って、お茶をとぽとぽと注ぎながら言う。
「きっと来ヶ谷さんは、ただ恥ずかしくって照れてるだけなのです。やっぱり男の子にこういうところを見せるのは、ちょっぴり勇気がいるものなのです」
「くっ……、勝手な解釈をしないでくれ、クドリャフカ君。ああ、突っこむのにもすごい体力を消費する……。ここがいっそ自宅であれば……けほっ」
 だったら律儀に突っこまなきゃいいだろ。つくづく苦労するやつだな、てめぇは。
「はい、お茶です。井ノ原さん」
 差し出されたお茶を受け取ると、クー公はオレの耳に顔をちょっと近づけ、
「今日の来ヶ谷さんはちょっぴり可愛いのです……」
 とこっそり耳打ちをしていった。
 すると来ヶ谷は恨めしそうにクー公の方を見上げ、赤い顔で口を尖らせて言った。
「今日のクドリャフカ君は意地悪だ……」
 どうやらやつにもちゃんと聞こえてたらしい。もぞもぞと芋虫のように布団の中に潜ってしまった。
 そんな子供っぽい様子を見てクー公は苦笑し、オレはなんだか微笑ましい気持ちになった。
 あんなつらいことがあった後でも、こうしてオレたちはいつも通りの会話ができている。
 もう終わりにするしかないと思っていた関係も、なぜかまだ続いている。
 そんな思いがけない幸運に、オレの心は、まるで沈んでいった夕陽がまた東の空から明るく昇ってきたように、晴れやかな気持ちでいっぱいになった。
 やっぱ、いいな……こうやって、子供っぽいこいつが見える風景ってのは。
「はい、来ヶ谷さん。お水です」
「……」
「起きてくださーい。くーるがーやさーん。お水ですよー」
「……ふん、誰が起きるか」
 布団の中からくぐもった声が聞こえた。クー公がぱしぱしと上から布団を叩く。
「朝ですよ〜。起きないと遅刻するのです〜。れっつ、うぇいくあ〜っぷ! ですー!」
「う……わ、わかった! わかったから、布団を叩くのはやめろ……コップはそこに置いといてくれ。後で飲む」
 よろよろと布団から指が出てきて、ちょんちょんとベッド脇の台を指差す。
 それを見て、またクー公は吠えた。
「今飲まなきゃだめなのですっ」
「な、なぜだ……」
「熱の風邪には、水分補給がとっても大事なのです。ぐびぐび飲んで、すやすや眠るのが一番いいのです。さぁ、わかったら起きるのです!」
「わ、わかったよ……だからそんなに布団を叩くな。胸が潰れる」
「ひゃっ!」
 クー公がびくっと退いたところを、来ヶ谷がだるそうに身を起こした。
 きょろきょろと辺りを見渡し、クー公に呼びかける。
「う〜……頭がガンガンする。はやく水をくれ」
「は、はいですっ! わふ〜……」
 なぜかクー公が半べそをかきながら、水が入ったコップを手渡す。
 来ヶ谷はいつもの制服の上着を脱いで、白のブラウス姿になっていた。冬の間はいつも結んでいるリボンも解いて、胸元が少し開いている。
 そんな懐かしい姿にオレは思わず見とれていたが、汗で艶めかしく光るこいつの喉元を見て、慌てて目を逸らした。
「ふん……突っこむ気力もないからな。このエロ筋肉野郎」
「うぐっ……」
 それって、思いっきり突っこんでんじゃねぇかよ。この青少年の心をいたずらに操る悪魔女め……。
「だからあんまりこっちを見るなと言っただろう。私だって恥ずかしいんだ。君と違って汗をかくのを羞恥とする、繊細な乙女なのでね」
「どこが繊細なんだよ……」
「主に胸の辺りが、とっても繊細なんかとはかけ離れている気がします……」
 クドの震える声を無視して、来ヶ谷はぐびぐびと水を飲み、はぁとため息をついて、ゆっくり布団をかぶった。
「持って生まれたものだ。仕方あるまい」
 そして顔をこっちに向け、ニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべた。
「ああ、君はせいぜい、この布団の中でめくれまくっている私のスカートの中でも想像して、そうやって赤い顔でそっぽを向いていればいいと思うよ」
「ぐはっ……」
「わ、わふーっ!?」
 頭の奥にいきなりとんでもない光景が浮かんできて、目の奥でバチバチと火花が散った。
 意識せずともわき上がってくるイメージを誤魔化すように、オレは手で顔を覆い、来ヶ谷から視線を逸らした。
 こ、これのどこが繊細な乙女だって言うんだ! これが繊細だっていうんなら、世の中女全てを繊細だと言わなきゃならねぇ!
「くっくっくっく……さっきの仕返しだ、二人とも。しかしこれでよくわかっただろう? もうこんな、か弱い乙女をからかおうとするのは止してくれるか」
「わふ……」
「くっ……」
 クー公が、若干顔を赤くして落ち込んでいる。
 オレはそれになにか言い返してやりたかったが、馬鹿なオレがいざ反論したところでまたさらなる墓穴を掘ってしまうことはもはや目に見えていたので、敢えて黙っておくことにした。
 っていうか、か弱い乙女ってなぁ……いくらなんでもかけ離れすぎだろ。
「はぁ……けほけほっ」
 来ヶ谷は小さく咳き込むと、もぞもぞと体を動かして仰向けになった。
「うーん……ほんとだ。少しは楽になった気がする」
「よ、よかったですー」
 まだ少したじたじになっているクー公の声が聞こえた。どーせ来ヶ谷はこれからも眠る気なんてないのだろうと思い、オレは話題を変えることにした。
「そういや、他のやつはどうしたんだよ? どうして今、クー公だけしかいねぇんだ?」
 オレの声が、がらんとした保健室の壁に響く。さっき見てわかったが、どうやら保険の先生もいないみたいだった。なにか用事で出てんのかな。
 オレが知らせを聞いたのは、六時間目が終わってすぐ、校舎を出て一人でランニングをしているときだった。
 突然クー公から、来ヶ谷が倒れてしまったとメールがやってきて、慌てて保健室に駆けつけたのだ。
 ここにクー公しかいなかったとき、みんなずいぶん薄情だなと思ったものだが……。
「葉留佳さんと西園さんは、最初から私たちと一緒だったので、さっきまでここにいてくれました」
「彼女らの天然漫才がうるさいから、私がとっとと追っ払ったのだ……そのとき小毬君と鈴君が入れ違いでやって来たが、これ以上慌ただしくしてはまずいからまた来ると言って、四人で一緒に去っていった……」
 来ヶ谷が少し落ち着いた声で答えた。
 なるほど……そういうことだったのか。
 するってーと、オレがやって来たのは結構後の方ってことになるな。しかも、その間に理樹の野郎は来なかったってわけか……。
 あー……だめだ。ちょっと悪いこと考えただけで、もやもやと黒い霧みたいなのが胸の中に広がっていく。
 どんよりと不機嫌な気持ちになってくる。あいつのことはあんまり考えねぇようにしねぇとだめだ……。
 オレは自分ではそう思ったのだが、ふと気づいたときにはあいつの名前を口に出してしまっていた。
「……理樹のやつには、連絡しなかったのか?」
 オレがそう質問すると、二人はハッとして、気まずそうに黙ってしまう。
 クー公はおずおずながら、なにかを言おうとしたが、来ヶ谷はゆっくりとそれを手で制し、こっちに眇めた目を向けて言った。
「理樹君には連絡していないな……」
「どうしてだよ」
 オレが聞き返し、来ヶ谷が目を伏せる。
「理樹君とは、今はあんまり会いたくないんだ……なにを話せばいいのか、わからない」
「あ……」
 オレは、熱い頭に突然冷水をぶっかけられたような気がした。
 そうだ……なに馬鹿なことを聞いてやがんだ、オレは。こいつと理樹の関係は、オレ以上に気まずくなってんだった。すっかり忘れてた。
 くぁぁぁ……殴りてえ。こいつの前じゃなかったらオレはきっと、思いっきり自分の頬を殴りつけてる。たとえ誰かにマゾ野郎と思われようとも。きっとボコボコにしてる!
「クドリャフカ君は、私の言うことを聞いてくれた。ならば寮に帰れるようになるまで、こうしてクドリャフカ君と二人っきりでいようかと思っていたが……まさかこっそり真人君のことを呼んでいたとはな……クドリャフカ君の抜け目のなさには少々驚いたよ」
「すみません、すみませんっ」
 クー公はぱたぱたと頭を下げて、来ヶ谷は赤い顔でニヤニヤと笑っている。
 しかしその後、ちょっとだけ苦しそうになって、来ヶ谷は遠い目をして言った。
「でも、君が来てくれたとき……なぜだか私の心はとても落ち着いた気がする。余計なことを考えなくて済むようになった気がして、苦い気持ちが少しだけ軽くなった。不思議なものだな……もう味わうこともないと思っていた感覚なのに、私は、嬉しい……」
 そんな言葉とは裏腹に、来ヶ谷の顔はとても悲しそうだった。
 オレに向けられているか細い視線の中に、様々な気持ちが込められているような気がして、知らずオレの胸は締めつけられた。
 こいつも……不思議な気持ちになっていたのか。
 もう終わってしまうと思っていたことなのに、オレたちはこうして、またもや奇妙な安らぎを感じてしまっている。
 それが正解なのか、いけないことなのかは、オレにはわからなかった。
 きっとこいつにだってわからねぇことなのだから、この馬鹿なオレには絶対わかりっこねぇことなんだろう。
 ただ、タイムリミットはもうすぐだった。
 オレはそれを、どういう気持ちで迎えるべきか、だんだん判断がつきにくくなってきていた。
「理樹君とは、まだ喧嘩をしているのかい?」
 優しげな声に、オレは少し戸惑いつつ答えた。
「……別に喧嘩ってわけじゃ、ねぇけどな」
 こんな苦しい言い訳も、あともう少しでする必要がなくなる。
 特別だった時間は終わり、また元のような平凡な日々が戻ってくる。
 オレもこいつ自身も、きっとそれを望んでいるはずだった。
 そう信じ込んじまってるオレに、なんとなく気づいたのは、こいつがあの夕焼けの裏庭から去っていってしまったときだった。
「私の願いは……君たちが、ただ元のように仲良くしてくれることだけだよ」
 そんな言葉を聞いて、また胸がうずく。
「おまえの告白がうまくいくことはどうでもいいのかよ?」
「それはもちろん、どうでもよくはない……。けれど……それ以上に、君たちが喧嘩をしているところを見るのは、胸が痛む」
「っ……」
 オレは、唐突に叫びだしてしまいたい気持ちに駆られた。
 どうしてこいつは、そんなに他人のことを考えてばっかりなんだろう。 
 そんなことを考えるより、まず自分の失敗に落ち込めよ。相手に気持ちを受け入れてもらえなかったことに胸を痛めろよ。
 そこまで自分を蔑ろにして……本当に楽しいのかよ。
 なんだかオレのほうまで、つらくなっちまうよ。
「やだな、別に君を咎めるつもりはなかったんだが……。君がそんなしょぼくれた顔をしていると、気持ちが悪くなってしょうがないよ。……スカートの中でも覗くか?」
「覗かねぇよっ!」
「当たり前だ。冗談に決まっているだろう」
 オレが立ち上がって叫ぶと、来ヶ谷は熱っぽい顔でくっくっくと笑っていた。
 この会話が、オレのことを元気づけようとしてくれたものなのだとわかって、オレはかぁぁぁぁ、と自身の顔が赤くなっていくのに気づいた。
 な、なんてことだ……病弱しているこいつにオレが慰められるとは。
 来ヶ谷のことはオレが笑わせようって、この前誓ったばかりなのに、くぅぅ……恥ずかしい。しかもクー公の目の前でだと!
 うぉぉぉぉ……だせぇ、オレ。ださすぎる! しかもスカートの中って! どんな元気づけられ方だ!
 オレが頭を抱えて青少年の苦悩に思いっきり悶絶していると、来ヶ谷は目を閉じて、安らかそうな笑みを浮かべた。
「はぁ……落ち着く。やはりいいな、この空気は」
 落ち着いてんのはてめぇだけだ! と言いたかったが、その来ヶ谷の顔を見てしまうと、少し言い出すのが憚られるのだった。
 クー公は、こっちを見てにこにこと笑っていた。 
 まったくババくせぇセリフかと思ったが、病人であるこいつが落ち着いて寝てられるんなら、それがきっと一番だなと、オレは納得して腰を降ろした。
 そして、保健室のドアが開く音がしたのは、そのときだ。
 がらがら、と引き戸が開く音が向こうから聞こえてきて、クー公とオレの視線はそっちへと向いた。
 そして、その後に響いてきた声の主を確認して、オレは急速に心が冷めていく気がした。
「失礼、しまーす……って、先生はいないのかな」
 保健室にやって来たのが誰なのかわかって、来ヶ谷も目をぎょっとむいた。
 声は続けて響いてくる。
「来ヶ谷さん、倒れたって聞いたけど……今、寝てるのかな? って、あ……」
 理樹と、目が合ってしまった。
 理樹はオレたち三人を見て、立ち止まり、固まった。
 今理樹は、どんな気持ちで、オレたちのことを見ているんだろう。
 ぐるぐると混乱する感情に想像が追いつかなくて、オレも理樹を見て固まってしまっていた。
 来ヶ谷はゆっくりとベッドから身を起こして、理樹のことを静かに見つめる。
「えっと……僕……」
「こんにちはです、リキ」
 クー公が声をかけると、理樹はハッとして、ぎこちなく微笑んだ。
「あ、うん。こんにちは、クド」
 オレがどう声をかけるべきか迷っていると、とことこと歩いてきたクー公に服の袖を引っ張られた。
「ちょっと私たちは席を外しましょう。ね、井ノ原さん」
「え、あ……ああ」
 オレは引っ張られるがままに、席を立って歩いていく。
 理樹は苦々しそうな顔で、オレたち二人のことを見ていた。
「……」
 ちらりと後ろを振り返って、オレと来ヶ谷は目を合わせた。
 来ヶ谷は、とても不安そうな、緊張したような顔をしていた。
 理樹の方にもちらりと目をやって、オレは一言呟いた。
「じゃあな……理樹」
「え? う、うん……またね、真人」
 それだけのぎこちない言葉を交わすと、オレはもう一度来ヶ谷の方を振り返って、軽く手を振り、保健室を出て行った。
 なるべく中の様子を見ないままに引き戸のドアを閉めると、ぴりっと寒い空気が肌を突き刺した。
 窓の外では、まだ明るめの金色の光が、辺りに冷たく注いでいる。
 クー公に裾を引っ張られながらオレは肌寒い廊下を歩いていき、ふいにもう一度気になって、保健室の方をちらりと振り返ってしまう。
 一体あいつら、どんな会話をしているんだろう……。気まずくならないように、あいつはきちんと話を繋げることができるだろうか。
 未練がましさ爆発で後ろを振り返ったままだったオレを、クー公が思いっきり引きずろうとして、体勢を崩す。
 慌ててオレはその体を支えた。
「重いです〜、わふ〜……」
「お、おおっと、悪ぃクー公。ちょっとあいつのことが気になっちまってな」
 オレはクー公の背中を押して、隣に並んで歩き出す。クー公はオレの袖から手を離した。
「わふ……きっと大丈夫です。リキも来ヶ谷さんも、ちゃんと仲直りしたいと思ってますよ」
「い、いやまあ、そうだけどよ」
 つーか、肝心なのは、また明後日にあいつが二度目の告白を控えているということなんだけどな……別にクー公は知らねぇか。
 しかし……ここでまたあいつが変なふうに躓いちまったら、後々でめんどくせぇことになるかもしんねえ。
 だがクー公は、そんなことも全て知っているかのように、意味ありげな微笑みを浮かべた。
「わふー……井ノ原さん、実はちょっと来ヶ谷さんに頼まれてたことがあったのです」
「へ?」
 間抜けな声で聞き返すオレに、クー公が明るく微笑んで言葉を続けた。
「ちょっとこれから買い物に付き合ってくれませんか、井ノ原さん?」
 オレはなにがなんだかわからず、相づちを打つように「お、おう」と頷いてしまった。
 クー公はそれを見て喜んで頷くと、すたすたと前を歩いていった。
 え……今から買い物? なにを?
 鞄を取ってくるのですーっ、と向こうに駆けだしていくクー公を、オレはぼんやりとした顔で眺めていた。

 

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