それからどれくらいの時間が経ったことだろう。
 窓の外がだんだんと薄闇色に染まっていく中、オレはずっと白の壁に寄りかかって、まだ部屋の中にいるらしいあいつのことを考えていた。
 こんなに延々と考え事をしていても頭の方が痛くならないなんて、不思議なことだった。
 ただその代わりこの胸の奥は、思いっきり鉛をぶち込まれたみたいに、ひどく重く感じる。
 吐いちまう一歩手前で、ずっと誰かに無理やり寸止めされてるみたいに、すげぇ気持ち悪かった。
 筋トレする気も起きねぇ……帰る気も。
 ただ、もしかするとそろそろ風紀委員の姉ちゃんがやって来る頃なんじゃないかと、少し心配になり始めていた頃だ。
 教室の中で、なにかが動く小さな物音がした。
 耳をすます。
 がたっ、と椅子から立つ音。
 机に手をついて、そこから鞄を持ち上げる音。
 無気力に椅子をずるずると蹴っ飛ばし、こちらに向かってくる音。
 そして――。
「……」
「……」
 ドアから出てきた来ヶ谷と、目が合った。
 最初見た感想は、意外にけろっとしてやがるな、といったものだった。
 涙の跡はない。絶望に沈んでいるようにも見えない。
 ただ少し……疲れたかな、と思えるような表情だった。
 来ヶ谷は憮然とオレの顔を見返し、数秒の間ぼーっとした後、ふっと突然表情を崩し、ひどく泣きそうな顔を浮かべる。
 え……あれ? ちょ、ここで泣くのか――? 
 オレが狼狽しだした直後、なぜかオレの体は宙に浮いていた。
 ああ、そうか――。
 こいつが、オレのことを、思いっきり蹴っ飛ばしたんだ――。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――っ!?」
 そんな悲鳴は、おおよそ女らしくない、けれどある意味女らしい、甲高い声だった。
 二秒遅れて、オレの「ぐえっ!」という呻き声が、重なった。

 

 

 

 

「……もう死にたい」
 オレは溜息をついた。
「それは止めてくれ……頼むから」
「じゃあキサマが死ねっ!」
「ええ、なんでだよっ!?」
 透明な薄明に包まれた教室。オレと来ヶ谷は、前後の椅子に座って言い合っていた。
 といっても、来ヶ谷は机に顔を突っ伏したままで、こっちを見ようとはしていない。曰く、これは死にたい者が見せるポーズらしい。
 ったく、惨めすぎて死にたくなるのはこっちだってのに……暢気なもんだ。実は意外と元気なんじゃないだろうか。
「キサマと私のどちらかが死ななければ、この最低な事実の証拠は消えないだろう……。なんなんだ、これは……また私は恥ずかしいところをキサマに覗かれてしまったのか……」
 机に突っ伏した来ヶ谷の、くぐもった声が聞こえてくる。
 オレはそれを聞いて少し申し訳ない気持ちになったが、一度やってしまった手前、ぐだぐだと言い訳するにもいかず、
「悪かったって思ってるよ」
 と、一応素直に謝ってみた。
 だがこの来ヶ谷は駄々っ子みてぇにオレの足を蹴っ飛ばして、大きく叫んだ。もちろん顔は突っ伏したままで。
「黙れえっ! だったらなぜ目撃したところでとっとと立ち去らない! ああ……本当に、絶対に許せない……誰かにストーカーされるというのは、きっとこういう気分なんだな……」
「誰がストーカーだ」
「言うまでもなくキサマのことだ! あの世界での件と、半年前の件と、今回の件、計三回の覗き行為、きっちり私の脳に刻ませてもらったからな……せいぜい後で覚悟しておけ……」
 もぞもぞと物騒なことを言ってくるが、それがこんなふうに小さく縮こまっているやつから発せられたとなれば、感じる迫力も全然ない。
 オレは言い返すだけ無駄だと思ったので、返事を考えるのも止めて、途方に暮れたような溜息をついた。
 また再び周囲に沈黙が降り、教室が冷たい空気に満たされる。
 慰めの言葉なんか言える立場じゃないと思ったオレは、そのまま口を結んで、教室の向かいの壁をなんとなく見つめていた。
 窓からわずかに零れる薄紫色の光が、オレと来ヶ谷の周りだけを妖しく照らしている。
 ふと思いついて、現在の時刻を確認しようかと思ったが、壁にかかっている時計は辺りの暗さでさっぱり見えず、オレは仕方なしに携帯を取りだして時間を確認した。
 意外とそんなに遅くない時間だった。メールや着信は一件も来ていない。
 来ヶ谷が再び、くぐもった情けない声を上げる。
「うう……やっぱり死にたい」
 ここまでブルーになってる来ヶ谷ってのも意外と新鮮だな。オレだってブルーになりたいけどよ。
「さっきのは、見事に玉砕だったな」
「っ……う、うるさい……黙れ」
「はぁ」
 ぐずぐずとした涙声に、オレは溜息を洩らす。
 死にたいって言ったり、オレの冗談にうるさいとか黙れとか暴言を吐いたり、さっきから来ヶ谷はずっとこの調子だった。
 そんなにショックだったのかね……オレだってショックはショックだったが、やっぱりオレ以上に落ち込んでる人間を見てしまうと、不思議とどうってことないって気持ちになってくるな。冷静になれるっつーか。
「本当は……こうするつもりなんて、全然なかったんだぞ……。キサマが来たせいだ……全部、全部……」
「お前、帰ろうとしてたもんな」
 実際にこいつは、オレに出会わなければ、そのまま寮へと真っ直ぐに帰宅していたはずだ。
「ああ……そうさ。全然平気なんだ、あれくらい。ずっと昔から味わってきたことだ。いつものように、クールにスルーしておくつもりだったのに……キサマが来たから……こうするしかなかった」
 オレが来たから、恥ずかしくて泣くしかなかったと言いたいのか。
 だったらそれは素直に謝るしかねぇが……。
「でも別に、クールぶってスルーする必要はねぇだろ。思いっきり引きずってればいいんじゃねぇのか」
「……う」
 来ヶ谷はもぞもぞと頭を動かし、黙ってしまった。
 はぁ……なんだかな、別に説教するつもりはなかったんだが……やっぱりこいつ、死ぬほど不器用なだけなんじゃねぇか。
 「強い」っていう仮面を被り続けて、心になにかひどい傷を負っても、別になにも感じてねぇ振りをし続けて、そうやってずっと心の平穏を保ってきたのか。
 そういや昔、オレが初めてその仮面を破ってやった時も、こいつはひどく狼狽してたっけ……。
 来ヶ谷にとっては、もうそういうのが当たり前になってきていやがるんだ。
 どんな過去を送ってきたのか……あんま想像したくねぇな。
 どれだけこいつは、周りに「勘違い」されながら生きてきたんだろう。
 本心を見つけてくれるやつが……たとえそれを見つけても、勇気を持ってそれを暴いてくれるやつが……周りに一人もいなかったんだろうか。
 本当に、なにも知らねぇ子供を相手にしてるみたいだ。
「綺麗だな……残照、っつうんだっけか」
 オレは、窓の外を見やりながらぼそりと言った。
 視界には、薄闇しか映っていない。
 来ヶ谷は顔を動かさないまま、答えた。
「……気持ち悪い」
「さすってやろうか?」
「やめろ違う……そうじゃない。そんなロマンティックな言葉、どこで覚えたんだ」
「謙吾のやつに教わったんだよ。ロマンティック大統領だからな」
「ふん、そうか……あと言っておくと、こちら側の窓からは残照は見えない」
「ちっ……」
 バレてたか。本当はそんな綺麗なもん、これっぽっちも見えやしない。全部こいつの顔を上げさせるための作戦だ。
 けれど、この薄明な光も、なかなか見物って言やぁ見物なんだがな……こいつなんかにとっては、どうでもいいことだったのかな。
「真人君もついに頭がおかしくなってしまった……もう終わりだ……」
「うるせぇ……。つか、まだてめぇはそんなこと言いやがるか。思いっきり引きずってろとは言ってみたが、いい加減そのネガティブ思考は止めとけ。あと、まだ終わりじゃねえ」
「……え?」
 来ヶ谷は、ついにゆっくりと顔を上げて、腫れぼったい目をこちらに向ける。
 すがるような無垢な瞳に、オレは思わずどーんと動悸が速くなるが、なんとかそれを隠すようにして言葉を続けていった。
「お、お前は、バチが当たっただけだ」
「ばち?」
 来ヶ谷は間抜けな声を上げた。
「だ……だから、バレンタイン前に抜け駆けて告白しちゃおうとか、そんな神様でも思いつかねぇような常識無視のズルをしたから、天の神様からバチが当たっちまったんだ……これは、そのせいだ」
「……」
 来ヶ谷は唖然としたままオレの言葉を聞いている。
 自分でも相当変なことを言っている自覚はあったから、顔の方にはずっと熱が溜まりっぱなしだ。くっそ、はずい……。
 でも、これだけは伝えねぇと。
「だからもう一回告白しろ。バレンタインの日に、ちゃんとチョコを作って」
「えっ!」
 来ヶ谷が仰天したように目を見張る。オレはなにか言われる前にすぐ言葉を継いでいった。
「今回のはとにかく急だったからいけなかったんだろ。あいつもいきなり呼び出されて相当びっくりしたに違いないぜ。だから、バレンタインデーっていう、どんな馬鹿でもそれとなく意識しちまう日に、超気合い入りまくった本命チョコを用意して、もっとあいつが好むようなガチガチストレートの言葉と一緒に手渡せ。そしたら必ずうまくいくはずだ」
 来ヶ谷はとたんに眉を下げ、情けない顔を作る。
「む、無理だ……」
「無理じゃねえ。大丈夫だ、理樹の方は必ずオレがなんとかする。だからもう一回だけ……頑張ってくれ。頼む」
「う……」
 強く見つめるオレに、来ヶ谷は本当に困った顔を浮かべていた。
 そりゃそうだろう。振られた相手にもう一度告白しろなんて無茶を言うんだから、困るのは当然だ。
 けれどこれで終わりにしちまうなんて……絶対になんか、間違ってるだろ。
 このままズケズケと引き下がって、それで諦めちまうのかよ。
 そんな中途半端な終わり方、オレは絶対に認めねえ。
 理樹はまだなにも本心を口にしちゃいねえだろ。表面的に飾り付けた言葉だけで、相手をうまく撒いただけだ。
 これで諦めるなんてことになったら、オレはもう絶対に「たった一人の存在」なんてやつを信じなくなるぜ。
 きっとあるんだろ……誰にとっても、そういうやつが。
 オレにだって、きっと……。
「……どうして」
「ん?」
 来ヶ谷は声を詰まらせた。
「どうして、君はそこまでしてくれるんだ……」
「……」
 来ヶ谷がとうとう泣き出しちまいそうな顔で、オレの顔をじっと見つめてくる。
 不満とか、喜びとか、疑問とか、嬉しさとか、苦悶とか、やるせなさとか、不安とか、恋とか……そんな、あらゆる感情をごちゃ混ぜにしたような目だ。
 自分でも、どうしたらいいのかわからないような、そんな目だ。
 来ヶ谷は、オレの言葉を待ってる。
 自分じゃ決められねぇから、オレの言葉だけを信用しようとしている。
 ここから先に進めば、もっとこいつを傷つけることになるかもしれねぇが……。
 けれど、傷ついたとしても、納得のいかねえ未来は、必ずどこかでぶち壊さなきゃならねぇだろ。
 ぶち壊す手が、まだ残っているっていうんなら。
「さっきも言ったろ」
「……え」
 理由なんか、知ったこっちゃねえ。
「まだ、終わりじゃねえからだ」
 こいつを助けるのに、そんなもんは必要ねえ。
 笑われるくらいの馬鹿なんか、この先いくらだってやってやる。
「てめぇは終わらせると言ったが……まだこれは終わってねえんだ。だったらちゃんと最後まで終わらせるっきゃねぇだろ」
「……」
 来ヶ谷がうっすらと目に涙を溜めて、オレの方をじっと見つめている。
 そしてその後、ぷいっとそっぽを向いて、鼻を少しすすった。
 それをオレは肯定の意思と受け取った。
 けれど本当は……信じていたかっただけだ。
 たった一人の存在ってのは……ちゃんと誰にとってもあるんだって。
 代わりのきかねぇもんが、きっとそれぞれの目指す形で、どこかにあるんだって。
 オレにとっても、そうであるように。
 こいつにもちゃんと、そんなものがあってくれたらいいなって、思ったんだ。

 

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