翌朝。オレは早朝トレーニングに出かけてくると言って、いつもよりずいぶん早めに教室にやって来ていた。
 壁の時計を見ると、始業の約四十分前だった。相当のマニアとかじゃねぇ限り、ここには現れねぇはず。
 見ると、誰もいない冬の教室は、とにかく静かで神聖だった。
 まるで一つも波紋が立たない水面のように雰囲気が厳かで、どこか完成されしきっている感じがあって、とても神秘的に思えた。
 オレの吐く白い息だけが、この空間の調和を乱している唯一の存在で、唯一の生命だってことを教えてくれる。
 まるで時間とか、用途とか、そういうもんを全部ぶっちぎっちまった、白くコーディング処理をかけられた一つの芸術作品の中に、ふらふらと紛れ込んじまったみたいだった。
 あいつ早くこねぇかな……寒ぃ。
 空いているスペースで腕立てでもすっかと身を屈めた次の瞬間、がらがらと後ろの引き戸が開けられ、やっとお目当ての人物がやってきたのだとわかった。
 意外と早かったな。
「よう」
「んむ。おはよう真人君。寒いな」
 カシミヤ製のチェックのマフラーにすっぽり首を埋め、来ヶ谷はいくぶんか子供っぽい服装でやってきた。
 手にはマフラーとお揃いの手袋。その白とピンクの模様が意外と似合っていて、この前それをそんな感じに褒めてやったら、これしか持ってないんだと苦笑で返された。
 以来ずっと来ヶ谷はこのスタイルで冬を過ごしている。
「君はそれ、寒くないんだな……」
 気味が悪いように顔をしかめられ、オレは笑って返した。
 オレはいつもの学ランとジーンズを着ている。
「おうよ。オレの筋肉はいつでも暖かくて、防寒具代わりになるからな。ガキの頃なんかいつも半袖だったんだぜ」
「……君は軍人などに向いてそうだ」
「雪山の訓練とかにか?」
「そうだな」
 来ヶ谷は短く笑いながら、自分の席へ鞄を下げに行く。
「軍隊の訓練で一番過酷なものは、雪山での防寒訓練だと聞いたことがある。だが君なら、どんな環境でもしぶとく生きていけそうだ」
「オレの筋肉には人を殺させたくねぇんだが」
「それはもちろん。私だって絶対に見たくない。しかし軍人にだって多少の矜持はあるはずだよ。それが国民の安全を守ることか、国の威光を守ることか……まあ、軍事学的には後者の割合の方が多いみたいだが」
 遠い目をしながらマフラーをくるくると外し、手袋を取る。
 来ヶ谷はそれを机の上にそっと置くと、静かに笑って、
「つまらない話をしたな」
 とだけ言い、ガラスの窓に背を預け、ゆっくりと掌をこっちに差し出す。
「ミッションは成功したんだろう? 例のものを受け取ろうか」
「……ほらよ」
 例のメモ用紙を手渡し、来ヶ谷がゆっくりとそれに目を通す。
 こんな静謐な空間に一緒にいるからか、お互い大きな声は出さず、小声で話している。来ヶ谷もいつもよりだいぶお淑やかで、どこかの貴族のお嬢様っぽく見えた。
 理樹のやつも、こいつと二人っきりでいるときは、こんなふうにこいつを感じていたのかな。
「ふむ……なるほどな」
 実際に目を通し終わっても、来ヶ谷はしばらくそこに目を伏せたままで、これからいざ勇気を出して告白しますなんていうふうには全然見えなかった。
 まだ早朝だからテンション上がらねぇってことなのか?
「ありがとう、真人君。これでミッションコンプリートだよ」
「なんか感想はねぇのかよ」
 メモを返されながらオレはなんとなく不満を返す。
 すると来ヶ谷は、オレの目をじっと見て、少しの時間が経った後、すっと柔らかく微笑み、
「綺麗な字だったな」
 と一言だけ呟いたのだった。
 ちっ……それは別に、後でテメェに汚い字とか言われたくねぇから、オレの方で念入りに清書しといただけだよ。
 あーあ、オレの隠された見えない努力ってのはこんなもんなのかね。ガツンと、大げさに自分の席へと座る。
「とまあ、それだけでは君が不満になってしまうだろうから、」
「別に不満じゃねえよ」
 と、少々強い声で言葉を遮る。
 すると来ヶ谷は楽しそうにニヤニヤと微笑んで、オレの隣の席へと腰掛けてこちらを向いた。
 足を伸ばして座っているその席は、ちょうど理樹の席だった。
「ま、アレは大体私の予想通りの結果だったよ」
「……」
「そうむくれるな。……そういえば昔、理樹君が私へ告白しようとした際に、君たちが私への告白の仕方を理樹君に演じて見せてやったことがあったな」
「ああ」
 オレは頷いた。
 だいぶ昔の話だったが、確かにその通りだった。オレたちは告白の仕方がわからねぇとか言うあいつに、遊び半分でそれを伝授してやったんだった。
 別に本人には、なんにも「ため」にならなかったみてぇだが。今回のとまったく一緒だな。
「どんな馬鹿なスタイルを演じて見せてやったのかは知らんが、それで理樹君は私に告白しようと思ってくれた。まったく技巧も工夫も作戦もなにもない、そのままのストレートな告白だったが」
「……へえ」
「そんな気持ちが真っ直ぐな理樹君だから、きっと自分自身が告白を受けるときも、やはりストレートに気持ちをぶつけてほしいのかなと、私は思っていたのだ」
「……」
 来ヶ谷はそっと過去の思い出に浸るように、目を細めて話している。
 そんな昔の話なんか別に聞きたくねぇやと思ったオレは、頬杖をつき明後日の方向を見つめて、殊更興味ねぇフリを続けた。
「だから私の告白のセリフも、昔理樹君が私に贈ってくれたものとまったく同じものを用意したのだよ」
「ほぉ」
「それによって、もし理樹君が万が一に私との記憶を思い出してくれれば……私の今回の告白は、完全に成功したということになるのかもしれないな」
「ふーん」
 気のない返事ばかりをするオレを見て、視界の端に映る来ヶ谷が、溜息をついてくすりと笑ったような気がした。
 あんだよ……。
「……なぁ、真人君。話は変わるのだが」
「あん?」
「理樹君はひょっとして、ちょっと容姿が女の子らしいとは思わないか?」
「ん? あー……うん。まぁ、確かにそうだな」
 別の話題に移ったのが分かって、オレはゆっくりと自分の顔を来ヶ谷の方へ戻して答える。
 すると来ヶ谷は、少し嬉しそうに顔をほころばせた。
「そうだろう、そうだろう? 実はな、実際に彼に女装してもらったことなどもあるのだよ。ほら、これがそのときの写真だ」
「なっ――!?」
 携帯に映っている画像を見て、オレは愕然とした。
 こ、これが――あの理樹だとっ!?
 ぬ……や、やべえ……これは本当に男なのか? ちょっと、じゃなくて、すげぇカワイイ……かもしんねえ。
「反応しすぎだ。私の携帯を取るな」
「いで!」
 コツンとデコピンを額に食らわされる。
 オレがその痛みに弾けて身を離すと、来ヶ谷は鬱陶しそうに顔をしかめた。
「とんでもない形相だったな……もう君にこれは見せないようにするよ」
「っていうかそれ、理樹に対しての人権侵害じゃねぇのか!?」
 オレが興奮気味にそう追求すると、来ヶ谷は涼しげな顔で一言。
「一緒に食らいついてこれを見ていたのだから、君も立派な共犯者だろう。もし私が誰かに告発されたら、必ず君も巻き添えにするからな」
 くそったれめ!
「しかし、というわけなのだよ」
 はぁ? どういうわけだよ、とオレが返そうとすると、来ヶ谷はオレと同じように机に頬杖を作って、ニヤニヤと明るい笑みを浮かべ始めた。
 そのやたらと艶っぽく、色っぽい姿勢に思わずオレが言葉を失っていると、来ヶ谷は殊更楽しそうに人差し指で宙をクルクルと絵をかき始めた。
「理樹君と付き合っていたときはな、理樹君がお姫様の役で、私が王子様の役だったように思えたことがあるのだよ」
 あ、ああ……。オレはやっと、この話の意図に気づくことができた。
「不思議なことだろう? 性別はお互いまったく逆なのに、理樹君は私に向かって『かっこいい』と言ったし、私は理樹君に向かって『かわいい』と言ったのだ」
「まあそりゃ、お前は男装の麗人っぽいもんな」
「うん。それはちゃんと自覚している。理樹君にとっての王子様でいることも、別に苦痛じゃなかった。むしろそうやって私をなにがしかの形で必要にしてくれる人がいて、私はそこで途方もない充足感を得られた気がするのだ。ああそうか、これが嬉しいという感情なのだと。恋という感情がこれで、愛という感情がこれで……そして怖いという感情がこれなのだと。私はそういった一つ一つの感情を手探りで見つけていくのが、すごく嬉しくて、楽しかった」
 来ヶ谷は遠い過去を想うように、感慨深げに話す。
 オレはそれを聞きながら、あることを考えていた。
 オレは、感情を持たないというこいつの「苦悩」を、なんとなくとも理解できたことはなかった。
 オレはいつだって感情に振り回されて生きてきたから。
 最初は、寂しいとか辛いとかいう感情に囚われて、オレはそれを怒りと傲慢っていう感情に変えて暴れまくった。
 そしてやがてリトルバスターズに出会って、オレは友情と誇りという感情を身につけて、今までの長い間、ずっとそれを慈しみ続けてきた。
 そして、今――こいつと向かい合っているオレの胸の内にくすぶってるものは、きっとどの感情とも違う、新しいものなんだと思う。
 けれど、だったらオレとこいつは、今まったくの対極の立場にいるのかって言えば、それはぜってぇに違ぇと思う。
 こいつは自分のことを「感情を持たないロボット」だなんて偉そうに言いやがるが、そんなことは絶対にないと、オレは前々からずっと思っていた。
 確かにこいつは、ずっと笑ったりとか喜んだりとかそういう簡単な感情表現を全て自己流の演技によってこなしてきた。
 初めてリトルバスターズの連中と笑い合ってるこいつの様子を見たときは、ずいぶんありゃぁ、演技に年季が入っていやがるな――としみじみ感心したものだが。
 けれどこいつほど、感情ってやつについて純粋に立ち向かっている人間をオレは今まで見たことがなかった。
 良くも悪くも、純情な女だったんだ。
 こいつほど真っ直ぐに強くて、そのくせ脆くて弱っちい、一生懸命生きてる人間ってやつをオレは今まで知らなかった。
 だからこいつとオレは、一緒なのだと思った。
 同じように、感情に全力で生きている人間だと思ったんだ。
 多分、その予想は外れてねぇと思う……だからこうやって「感情がなかった」って感慨深げに過去のことを話すこいつを見ても、なんともオレは心が痛まねぇし、同情心もわかねえ。
 むしろオレは、そんなに一生懸命になって生きているこいつのことをとても誇らしく思えた。少し安らかな気持ちになって、話を聞いていた。
「もちろん私のことを『かわいい』と言ってくれたり、理樹君のことを『かっこいい』と思えたこともあった。私たちは王子様とお姫様の関係といっても、ちょっとおかしなものだったのかもしれないな」
「楽しかったか?」
 オレがそうやって穏やかに聞くと、来ヶ谷はまた少しの間オレの目を見つめて、やがて瞼を閉じて考え込んだ。
 そして、うっすらと目を開いて、
「……ああ」
 とても懐かしそうに呟いた。
「楽しいと言えば……そうだったな。理樹君と恋をしているときは、まるで夢を見ているような心地だった。今まで知らなかった世界が唐突に空に弾けて、それがシャボン玉のようにふわふわと浮かんでいて、私の周りを自由に行き交っているんだ。乙女チックだろう? 私は童話の中の主人公となり、敵国のお姫様と逢瀬を繰り返すのだ。それが禁断の愛だとわかっていながらも、世界が崩壊する鍵を差し込むことになったとしても、私は理樹君と密かに逢うのを止められなかった。理樹君がささやく言葉はまるで甘い蜜のようにしっとりとなめらかで、だんだんと私の壊れた心に優しく染み渡っていくのだ。知らなかった感情が堰を切ったように流れ始め、私はどんどん豊かな人間になっていくように思えた。……だが、」
 来ヶ谷は目を閉じて、ゆるやかに首を振る。
「理樹君との恋は……いわば、麻薬のようなものだったのかもしれん。節度を超え、禁断の果実に手を出して、それがいざ失われてしまった時に、私の精神は一度壊れかけた。そして今もまだ、もしかしたら壊れ続けているのかもしれん。感情があらゆるものを飛び越えてしまって、なにが大切なのか、なにを求めようとしているのか、本当の私とは一体何なのか、本当の居場所とは一体どこなのか、全てがわからなくなってしまった。今はもう、老人のように昔の残り香を目指すのみだ」
 そんな来ヶ谷の最後の言葉は、自嘲的な笑みと共にだった。
 オレは、来ヶ谷唯湖っていうのは、いつだって自分の内の何かと闘っている女のような気がした。
 だからオレがここでなにかを言わなくたってこいつはもう全部知ってるだろうし、これが全てその上での決断だってこともオレはちゃんと理解している。
 オレは、来ヶ谷の目を見て、静かに言った。
「緊張してるか?」
 来ヶ谷は少し驚いたように目を見張った後、短く笑って返した。
「……いいや。何故だか知らんが、今は不思議と気持ちが穏やかだよ。今この時だけは、どうしてか私は私のままの姿でいられるような気がする。なんでかな? これから大事な大事な大一番が控えているというのに」
「そりゃあ、馬鹿だからだろ」
「は?」
 来ヶ谷は怪訝そうな声を上げて、オレのことをじっと見つめ返している。
 オレは立ち上がって、なるべく楽しそうに笑いながら、自分の胸の辺りをドンと叩いた。
「オレが、馬鹿だからだ」
 来ヶ谷は、ぽかーんとしている。
「馬鹿だからな、おまえはオレに対して気を使う必要なんてねぇのさ。理由なんざこれで十分だろ? オレはずっと変わらねぇまんまだからな」
 来ヶ谷はそのまま数秒呆けた後、急にぶっと噴き出し、顔を笑顔に崩した。
 んだよ、オレ的には結構かっこつけたつもりなのによ。
「アハッ、アハハハハハハハ! そうだな! まったくその通りだ! 君は馬鹿のままだ。それでいい……君がそんなだから私もずっと気ままな姿でいられるのかもしれないな。変わることもない。必要もない。君が変わらなければ、きっと私も変わることもないだろう」
 来ヶ谷は安心したように笑って、オレと同じように立ち上がった。
 そして右手の甲を、トン、とオレの胸に押しつけ、オレの顔を見上げて言った。
「君はまるで、私の影のようだな」
「は?」
 聞き返すオレに、来ヶ谷の顔がみるみると近づいていく。
 お互いの顔が触れてしまいそうになる距離で、けれどこいつは、穏やかな表情のままだった。
 大きな目がぱちくりと開き、真っ直ぐにじっと見上げられている今のオレは、目の前のこいつのそんな静かな様子とは裏腹に、ドクンドクンと動悸をこっそり速くしていた。
 けれど、そんなことは絶対顔には出さねぇで、その目を静かに見返す。
 ふと来ヶ谷の顔が、いたずらっぽくほころぶ。
「君は、私と正反対のことばかりするだろう? 君は馬鹿で、私は賢い。君が仲間と走り回っていれば、私は静かに一人でお茶を飲むし、私が数学のテストで百点を取れば、君は当然のごとく零点を取る」
「取ったことねぇよっ!」
「ふはははっ!」
 楽しそうに笑って身を離す来ヶ谷にオレは手を伸ばすが、それはひらりとかわされ、トントントン、と数歩距離を取られる。
 そうして来ヶ谷は、離れたところでわずかにこっちを振り返り、穏やかそうな表情で言った。
「私がもし馬鹿になっていたら、そのとき君は賢い。私がうるさく喚いていたら、君は何故か静かになる。私がボケていたら君は突っこみだ。なんの因果かわからんが、私たちはそうやってずっと過ごしてきたな」
 オレは振り上げていた手をゆっくり下ろし、胸の動悸を誤魔化すために、不機嫌そうに言葉を返した。
「な、なにがいいてぇんだよ」
「なに、君といると落ち着く、ということへの回答だよ。不可思議な感情への探求だ。知的好奇心というやつだよ」
「はぁ?」
 来ヶ谷は普段見せるようなクールな態度とは打って変わっていて、年頃の少女のように、穏やかに笑っている。
 多分これは、オレの前でしか見せねぇ笑顔だ。
 影……って、いってぇどういうことなんだ……? それと落ち着くって?
 い、いいや、まさか……な。
「君は私の影であり、私は君の影であるかもしれない……ならば、影の反対側にあるものとは一体何なのだろうな?」
「知らねぇよ……」
 なんとなくその話題が恥ずかしくなったオレは、敢えて不機嫌そうに、どかっと荒々しく自分の席へ座り込む。
 くっ……顔の方に熱がたまっていくのがわかる。いってぇ何を考えてんだオレは。そんなの全部こいつの思う壺だってのに。
「ふふ……」
 そんなオレを見て、来ヶ谷は楽しそうに目を細めた後、ぼそりと顔を俯けて呟く。
「しかし、それは果たして本当なのだろうか……」
「え?」
 発せられたひどく悲しげな声に、オレは一瞬、こいつが何て言ったのかわからなかった。
 しかしオレが茫然とこいつのことを見つめていると、来ヶ谷はふとこっちの方を見て、再びしたたかな笑みに戻った。
「ところで、真人君」
「……なんだ?」
 来ヶ谷はこちらにツカツカと歩いてきて、オレの前の椅子に腰掛けた。
 そこは、理樹の椅子じゃなかった。
「不躾な質問で悪いが、君はバレンタインに誰かからチョコをもらう予定はあるのかね?」
「は……?」
 唐突に変わった話題に、オレの思考は再びストップする。
 来ヶ谷は視線だけをゆっくりと冷ややかなものに変え、オレの方をそっと睨む。
 口元には、いまだ笑みを携えたままで、
「君は……もちろん遺憾だが、最近の女子の間では意外と人気があるのだよ。秋の学祭ライブで活躍したせいもあったんだろう」
「あ、ああ……」
 などと冷ややかな声で言う。
 やっと会話に思考が追いついてきたオレは、おずおずと返事を返す。
 そういえば、そんなイベントもあったんだっけか。あの後よくクラスの女子なんかに話しかけられたりしたっけ。
 でもオレは、そんな周りの急激な対応の変化が怖くなっちまって、よくこいつや理樹のところに逃げ出したりしていたんだった。
「で、どうなのだ? 誰かから本命チョコなどはもらえそうなのか?」
 な、なんだ……?
 話題としてはフランキー(誤用)なものなのに……こいつの周りから、急に温度が下がっていったような……う、うーん。
 氷柱みたいな冷たい声で話しかけられて、オレはちょっと焦りながらも、腕を組んで、真剣に考え込んだ。
 バレンタインの本命チョコかぁ……うーん、全然そんなの考えたことなかったな。鈴の義理ぐれぇしかもらったことねぇし。
 っていうかオレ、実はそこまで甘い物好きじゃねぇんだよなぁ……チョコはおいしいけど、食べ過ぎると筋肉にも悪いし。ほんの少しだったらいいんだが。
 女子にモテるのは嫌いじゃねぇけど、恭介たちみてぇにたくさんもらっても処理に困るな……まさか捨てちまうわけにもいかねぇし、それが本命だったらなおさらだ。
 うーん、うーん。
「なにをそんなに迷っているんだ? まさか私に言えないことでもあるんじゃないだろうな? 私は勇気を出して理樹君のことを君に話したというのに……」
 冷ややかな眼差しに、若干の寂しさと憂いが滲む。
 う、うぁぁぁ……そんな親父に構ってもらえない娘みてぇな眼するんじゃねぇよ! いってぇ何なんだこいつは!
 ち、ちくしょう……しかたねえっ。
 オレはなんとかもっと真剣に考えて、その答えを出してやることにした。
「……い、一個だな」
「一個?」
 来ヶ谷が怪訝そうな顔で聞き返す。謙遜だとしても意外に少ないと思ったんだろう。
 だがオレは……別に甘い物がそこまで好きってわけじゃねぇから。
「別に、誰かから、本命のを一個もらえりゃあそれでいい。オレのことを本気の本気で好きになってくれたやつから一個だけ、もらいてえ……。それ以外のは受け取りたくねえ。色々と大変だしな」
 来ヶ谷はオレの言葉を聞いて少し考え込むように指を口に当て、数秒経った後、眼をきつく細めた。
 あれ、もしかして怒ってらっしゃる……? なんでだ?
「君は……その女性以外のチョコは受け取らないと言うのか? 好きな人への真摯な想いがたくさん詰まったチョコだぞ? 失礼だと思わんのか」
 あー……そういうこと。いかにもこいつが怒り出しそうな話題だ。
「あーいや、失礼っつーか……まぁ可哀想だとは思うんだけどよ。オレは、オレのことを本気で好きになってくれたやつ『だけ』からチョコをもらいてぇわけだよ。どーせそれ以外のやつからはもらっても、その想いには十分答えてやれねーし……そんなだったら、オレなんかにやるよりもっと身近な男子か、もっとイケメンなやつに贈ってくれた方がいいと思うんだ」
 そう、それは例えば、あの理樹や恭介たちとかにな。断るのもオレよりずっと上手ぇだろうし。
 しかしオレとしては結構正論を言ったつもりだったんだが……なのにこいつの眉間に寄った皺は依然として取れないままだった。
 ってか、一体こいつは何に対してそんな怒っていやがるんだ……? もしかしてオレが、ムカつく男子の筆頭みてぇに見えたからか? だったら別にそんなふうに思われててもいいんだけどよ。
「ふんっ」
 来ヶ谷は席を立ち、つまらなそうにオレを見下ろす。
「まぁ……君の考えは一応自由だ。私がわざわざ口を挟むべきものではない。けれど、一ついいか真人君」
 あ、あんだよ……と、おずおず返事をして、オレはその冷ややかな視線を受けた。
「その女の子たちにとって、君はたった一人の存在なのだ。その代わりなど他のどこにもいないのだよ。本命というのは……そういう意味だ」
 そうオレに向かって吐き捨てて、来ヶ谷は背を向けて歩いていく。
「おい、どこ行くんだよ?」
「どこだと? はっ……なぜ私が君と始業まで時間を共にしなければならないんだ? 理樹君への告白前に、誰かに君との仲を変に怪しまれたくないのでな。悪いが、後は一人で作戦を立てさせてもらうよ。それじゃあなっ」
 がつんっっ!
 来ヶ谷は、思いっきり教室の引き戸を閉めて、廊下へと出て行ってしまった。
 ぱらぱらと、付近に舞い散る埃。
 オレは、両耳を押さえて、ずっと固まっていた。
 それをそっと降ろす。
「……」
 そして、傷ついた扉の方を見て呟いた一言。
「だから感情……ありまくりじゃねぇかよ……」
 感情ねぇやつが、本命の意味とか語れるわけねぇだろ……。

 

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