その会社への忠誠心こそが、その社員を採用するにあたっての一番重要な項目だ、と俺はどこかで聞いたことがあった。
 ようは、そいつの作業能力なんかは二の次だってことだ。まず重要なのは、そいつが会社側にとって信頼できる人間かどうかってことになる。
 なぜなら、そいつへの信頼というのはいくら金を積んでも買えるものではないし、会社側がじっくりそれを育てることもできないからだ。
 そういうものは往々にして、世界一高価な品だと見なされる。
 今俺の前に座っている人間も、そんな言葉をありありと顔に大書していやがった。

「あ〜……棗恭介さん、と言いましたか」
「はい」

 毅然とした返事を返す。
 するとその穏やかそうな壮年の面接官は、困ったような顔をして履歴書に目を落とした。

「うーむ……志望動機が『生活のため』とは、一体どういうことでしょうか……」
「そのままの意味です」
「はぁ……」

 さらにその面接官は困ったような声を上げて、額の皺にボールペンのお尻を押し当てた。
 俺はそのまま言葉を続けていく。

「私は、自分で生活をするためにこの仕事を選んだです。お金がなければ人間は生きていけません。それは、皆さんにとっても同じことだと思います」
「ん……まあそれはおっしゃる通りなのですが……ううむ、なんて言ったらいいのやら……」

 壮年の面接官は言いにくそうに視線をそっと這わせ、ついには隣に座っていた若い面接官へと顔を向ける。
 その目の鋭い男は一度だけ頷き、こほんと咳払いをして、やれやれといった表情で俺を睨み付けてきた。

「まったくもって馬鹿げていますね……。棗さん、当社はあなたのような頭の幼い人間と一緒に仕事をするつもりはありません。面接結果の発表を待つ必要はないので、どうぞこのままお引き取りになってください」
「あ、秋本君……」

 上司と思われた壮年の男は、よどみなく侮蔑の言葉を吐いた若い部下を少し咎めるように呼びかけたが、結局はなにも言わないまま俺の方にゆっくりと向き直った。

「ま、まあ……そういうことです。まだお若いうちはそういう考えに達しやすいとは思いますが、棗さん。きっとそんな考えを受け入れてくれる会社は、あまりロクな方の会社ではないと思いますよ? それよりもまずは、ご自身のこれからの道を、もっとしっかりとお考えになってみてはいかがでしょうか?」
「まっ、ようするに……まだまだガキだ、ってことですよ」
「だから秋本君……っ」
「ふ、失礼」

 若い男が俺を見下すように鼻で笑った後、指で口を押さえた。
 俺は特に憤ることもせずに、「失礼しました」とだけ言い残し、静かに席を立って部屋を出て行った。
 もうこんなもん、どうせ慣れっこだったからだ。
 なにかを感じることもなかった。

 

 

 

 
 俺は入り口のドアをゆっくりと開け放ち、ぼんやりと夕陽が差しかかる大通りへと出た。
 蜂蜜を溶かしたような甘い金色の歩道の中で、俺は目を閉じて深呼吸する。
 結局この会社もダメだったか。
 さっきの面接官たちは今頃、これだから最近の若い者は根性がなくて、などと俺のことを思い出して愚痴っぽく話しているのだろうか。
 だが俺は、たとえそんな悪口を面と向かって吐き捨てられたとしても、特に気にはならなかった。
 実は、さっきの信頼云々の話には、それにちょっとした続きがあったのだ。

「まあ、最近の若者にはよくあることだ。生きるために仕事をするのが当たり前だという、個人主義の考え方だ」

 それは、とある県内の製紙会社に就職活動に向かった際のことだった。
 俺がいつものように面接官に激昂されながら試験の不合格を言い渡された後、それを端の方でぼーっと眺めていた老年の重役らしき男が、さっきの信頼の話をしてくれた。

「はっきり言って、そんな個人主義に溺れてしまったような人間を信頼しろという方が難しいのだがね。そんなことを平気で言い出す若者は得てしてそれ以上の労働をしたがらない。所詮働くのは、会社のためではなく自分のためだからだ。そういう人間は献身という概念を知らない。自分の利しか考えてない、まるで一人だけ客でいるような甘ったるい考えを持つ君に『信頼』という価値を見出せという方が無理なのだよ」

 この人の言っていることはよくわかった。だから俺はなにも言わずにすぐに去ることにした。
 そしてまた一週間後に、同じようなことを別の会社で言われた。
  

 

 

 
 別に進歩がなかったわけじゃない。
 そんな常識、俺はとっくの昔から知ってただけだ。
 「会社のために働くなんておかしい。俺らは社会の歯車じゃない!」なんて偉そうなことを言い出す奴らが学校の中にたまにいるが、そんな人間はまずもって社会に信頼されることがない。
 そんなもん、ずっと前からわかってる。
 ただ俺は、それ以外の志望動機が見つからなかったってだけだ。
 俺にとって働く理由なんざ、それっぽっちしかないんだ。
 なりたい職業も、自分の身命を捧げたいと思う会社も、今の俺にはねえんだ。

「おう理樹。今こっちは全部終わったところだ。そっちは? ……なに? みんなでお勉強? おいおい……お前らはまだ二年だろうが。受験なんてまだまだずっと先だろう。もっと気楽に遊んでみたらどうだよ」

 携帯を取りだして理樹たちと話をしながら、駅前通の商店街を歩いていく。
 学校帰りの中学生や地元の主婦たちを優しく包み込むような秋の西日に照らされて、そこを吹き抜けていく風はふんわりとパンを焼いたように柔らかい。
 もうそろそろ秋も終わる頃だっていうのに、お天道様はこんな惨めな旅人を放っておけなかったようだ。
 せめて故郷の街に帰り着くまでは、暖かい夕陽のシーツで包んでやる腹づもりなのかもしれない。
 悔しくなんかねえし、涙なんて出てねえから、別に大丈夫なんだがな。

『そりゃ恭介は就職だからいいけどさ……他の人は大体進学するつもりだからね。まあ、だから勉強してるってわけじゃないけど』
「なんだ、定期テストの成績でもやばいのか?」
『そんなとこ。まあ僕の方は問題ないんだけどね……今は主に、鈴と真人と葉留佳さんの面倒を見てる感じ』
「なにぃ……鈴もかよ」

 思わず溜息をついてしまった。
 まさか我が妹までもリトルバスターズの馬鹿チームに入隊してしまうとは。こりゃ後でお兄ちゃんが直々に勉強見てやらなきゃいかんか……。

『うん……そういえば、恭介の方はどうだったのさ。今度こそ就職決められたの?』
「そんなわけないだろう。今のご時世そんな甘くないもんさ」
『それを恭介自身が平然と言ってのけてどうするのさ……っていうか、本当にそろそろ決めないとやばいんじゃないの? 文化祭も終わっちゃったし、今三年生はみんな真面目に頑張ってて、廊下ですれ違うときもいつもピリピリしてて怖いくらいだよ』

 理樹の心配そうな声が聞こえてくる。
 でもな理樹……それじゃ俺のことを心配してくれているのか、ただ三年にビビってるだけなのかわからないじゃないか。
 
『とにかくさ、恭介がはやく就職決めてくれないと僕らも安心して未来のこと考えられないよ。鈴だって恭介のことを見て、お先真っ暗だとか言ってるんだから』

 相変わらずひどい妹だった。俺は溜息を吐き出して答える。

「っていうか……あいつはどう考えても進学だろ。なんで就職の俺を見てそんなに心配していやがるんだ。まさか、あいつも就職希望なんて言うんじゃないだろうな」

 こういった黒のスーツ姿で歩いていると、時折地元の女子高生などの注目が集まってくる。
 そんな彼女らに適当な愛想笑いを振りまきながら、俺は駅前通を歩いていく。
 どっかの店からか、本当に蜂蜜菓子みたいな甘い匂いが伝わってきた。

『鈴はどっちでもいいって言ってるけど……でももしかしたら、そのせいであんまり勉強に身が入らないのかも』
「なんだって? ったくしょうがねえな……だったら後で俺が直々に勉強見てやるか」

 どうせすでに考えていたことだ。今日の夜でもまた理樹の部屋に呼んでやろう。
 だが理樹は、その言葉を聞いたとたん、慌てたように声を上げて言い返した。

『え、えええ!? だ、だめだよ恭介! 恭介が今一番危ないとこなんだから! 鈴の勉強なんか見てたら本当に恭介はお先真っ暗になっちゃうよ!』
「む……」

 考えてみれば、正論だった。
 だが鈴の奴が本気で就職なんてもんを視野に入れてて、そのせいで勉強に身が入らないっていうんじゃ、兄としては到底黙ってられない。
 あいつのご機嫌を取るために俺は駅前でなにかお菓子を買っていくことにして、今日の夜にでも勉強を見てやりながらその話をしてみようと思った。
 目を細めて、微笑みながら答える。

「大丈夫さ、心配ねーって理樹。鈴のために一晩潰したからって俺には何の問題もないさ」
『いや、問題ありありだよ! そんなことやるんだったら履歴書を一枚でも書くか、新聞でも読んでてよ! お願いだからっ!』

 まるで俺のお母さんのようにせせこましく声を張り上げてきた。
 理樹(女バージョン)がエプロンをつけてガミガミと言い募ってくる様をイメージして思わず吹き出しそうになったが、敢えて俺は我慢していつものように返した。

「ふっ……わかったよ。じゃあ履歴書を書きながらやるから。それならいいだろ?」

 こういう口うるさい母親には、こうやって向こうの攻め所を塞いでしまうのが一番だ。もちろんあいつはそれで納得なんかしてないだろうが、言葉に詰まってすぐなにも言えなくなる。
 駅を通り過ぎ、大きな本屋の扉をくぐるころには、向こうから降参したような溜息が伝わってきた。
 
『もう、わかったよ……でも、僕の方もなるべくフォローさせてもらうからね』
「はいはいっと。期待してるぜ。……あ、そうだ。帰りがけにお前らになにか菓子でも買ってこうかと思うんだが、お前シュークリームとドーナツどっちがいい?」
『えっ、ほ、ほんとー? あ、だったらね、僕シュークリームが食べたいな! カスタードが入ってるの♪ ……あ』
「ほいほいりょーかいっと。ただ、他にも買うものがあるからな。悪いが高級なものは買ってやれないぜ。一個百円ので我慢しろ」
『そ、そんな! いいんだよ別に! 恭介だってお金ないのに……。あ、あのさ僕、やっぱいらないよ……甘いの好きじゃないし』
「シュークリームという単語にめちゃくちゃ反応してた人間の言うセリフじゃないな。ははっ、ったく……まあ心配すんな。二年の頃にバイトで溜めまくったお金がまだちゃんと残ってるよ。全員分買ってく。駅前のおいしいお店だ」
『あわっ、ちょ恭介! やっぱり僕――』

 通話終了ボタンを押す。うるさいので電話を切ってしまった。
 前々から思っていたが、理樹はあれで本当に女の子じゃないのだろうか。不覚にも新婚夫婦みたいなやり取りに萌えてしまった俺は、もしかしたらもう男としてダメなのかもしれない。
 俺ははにかみながら、参考書などがあるコーナーの方へと歩いていく。
 そこで俺は受験情報雑誌を探して、一つ購入した。
 もちろんこれは、鈴のためだ。
 絶対に今日、逃がすつもりはないからな。

 

 

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